2022-09-25 20:55

#124 生きるにも死ぬにも 22/9/25

ピリピ-24からの礼拝説教。2022年9月25日録音。今日の箇所にも、聖書の有名な言葉が出てきます。のこの言葉です。「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」。その言葉をもとに1.パウロの板挟みを貫く人生観、2.死を選択することを奨励してはいない、3.福音と人に仕えるために、の3つの点から学びましょう。

00:03
フィリピン人への手紙1章、21節から24節です。
私にとって、生きることはキリスト、死ぬことは域です。
しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが身を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
私は、その二つのことの間で板挟みとなっています。
私の願いは、世を去ってキリストと共にいることです。
その方が遥かに望ましいのです。
しかし、この肉体に留まることが、あなた方のためにはもっと必要です。
以上です。
今日はこのところから、生きるにしても死ぬにしても、と題して見言葉を取り継ぎます。
皆様、おはようございます。
先週に続いて、2つ目の台風が週末にかけて日本列島を襲いました。
心配しておりました、自分たちのことを言うのもなんですが、
この地域は、とりあえず災害を免れまして、温帯低気圧になって台風が行ってしまったということで、
今日はまさに晴れやかな朝、こうやって共に、9月最後の礼拝を守ることを感謝しています。
だんだんエアコンも涼しくなってきたかもしれません。
もし寒いようでしたら、行ってくだされば、橋本さんにお願いして温度を上げたりもできますので、よろしくお願いします。
そんな中でありますけれども、今日はですね、
フィリピンの1章21節から24節の中で、
生きるにしても死ぬにしても、というところから学びます。
この今日の箇所もですね、有名な、いわゆるキリスト教の禁言が出てきます。
それがですね、この1章21節ですね、
私にとって生きることはキリスト、死ぬことはエキレス。
前の神会訳では、死ぬこともエキレスとなっていました。
これは世界でも有名な御言葉の一つ、
さすが信仰の奥義が書かれているフィリピン人の手紙だけあって、
短くですね、信仰の奥義を言い当てた素晴らしい言葉が散りばめられている。
今日はこのところから、3つの点から学んでいきます。
まず、今日の御言葉でですね、目を引く第一の点。
パウロの板挟みですね。
それを貫く人生観ということを、まず見ていきたいと思います。
もう一度読んでみますね。最初の大事なところだけ読んでみましょう。
3、私にとって生きることはキリスト、死ぬことはエキレス。
03:00
はい、あと読みますね。
しかし、肉体において生きることが続くなら、
私の働きが身を結ぶことになるので、
どちらを選んだら良いか、私には分かりません。
私はその2つのことの間で板挟みとなっています、と言っています。
2つの選択肢の間で板挟みになっている、それは、
生きることを選ぶのか、
要さってキリストと共にいることを選ぶのかですね。
まあ、こっち詐欺になりましたけども、
この2つの選択肢。
要さってキリストと共に過ごすことと比べてもう1つの選択肢の、
福音の働きのために身を結ぶことができるから生きながらえること。
そういうことの選択肢の中で簡単に言うと、
私は生き延びるべきか、死すべきか、
どちらを選んだら良いか分からないで板挟みになっていると言っています。
皆さんどうですか?
生か死かの選択肢があったらどちらを選びますか?
今ね、命のことが話題になって、
2つの国で2つの葬儀のことが話題になったりしてますけれども、
普通は生きることを選びますよね。
それがですね、選ばれない可能性もあるというところで、
この言葉はすごく引い出ているというか、
私たちの心を打つわけですね。
常識から外れている。
で、なぜ彼にそのような迷いが出ているか、
それはパウロの人生観に関係しているからなんですね。
その中心、人生観の中心、
それは何度も繰り返し申し上げていますように、
私にとって生きることはキリストという彼の最大の価値、
人生観が背景にあるからなんです。
で、この生きることはキリストだということを言い換えると、
中心はですね、彼にとって大事なこと、人生の中心はキリストと福音であって、
自分を通して、先週言いましたキリストがあがめられ、
そして福音が前進することこそ、
人生最も大事にすることだというパウロの価値観なんですね。
で、実はそれは先週見た御言葉にも集約された生き方ですね。
これもキリスト教禁言の一つですが、読める方読んでみましょう。
1章20節3、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
先週ここを中心に説教したんですが、
死のうが生きようが、自分を通してイエス様の素晴らしさが現れること、
これが自分の人生最大の目的だ。
だから先週申し上げたのは、
宣教師、牧師でなくても、私たちは家庭にいても、仕事場にいても、
06:00
自分を通してイエス様の素晴らしさが現れるように生きる、
それが福井の前身になるんですよって話をしたんですけれども、
この価値観にパウロはしっかり目を向けているから、
生きる死ぬということの間で、
今置かれている彼の状況の中で、
アンビバラントに再反する葛藤があるということなんです。
しかし何度も言いますが、
生きるにしても死ぬにしても、
このイエス様があがめられること、
パウロはローマ人の手紙の中で、
私たちに呼びかける形で別の言い方をしています。
14章8節、続きになっちゃいますけれども、
連続して読むことになりますが、読んでみましょうか。
私たちは生きるとすれば死のために生き、死ぬとすれば死のために死にます。
ですから、生きるにしても死ぬにしても、私たちは種のものです。
これがパウロが目指したクリスチャン像、
クリスチャンが持つべき人生観だということなんですね。
ですからこの板挟みになって死ぬことを選ぶことも望ましいと
響くようなこのパウロの難しい言葉、
まず皆さん、私たち知ってほしいのは、
この人生観を見習うんですけれども、
何を見習うかというと、その人生観を貫くパウロの価値観。
生きるにしても死ぬにしても、私たちは死のために生きているんだ。
生きるにしても死ぬにしても、
自分の身によってイエス様があがめられることを目的としているんだ。
それらしい手はキリストのために生きる、
そういう人生観をパウロはここで述べている。
そのことをまず捉えていっていただきたいわけです。
しかしその上で気を付けるべきことがあるので、
それを2番目見てまいります。
2番目、パウロは死を選択することを奨励していないんですね。
最初読んでみましょう。1章23節。
私の願いは世を去ってキリストと共にいることです。
その方が遥かに望ましいのです。
この世を去ってというのは明らかに死んでという意味なんです。
つい先日、フランス人の名監督が90代で亡くなった。
その監督がスイスに行って自ら命を絶った。
そういう彼の生き様について、彼は私は詳しくないんですけれども、
現代の映画界に革命を及ぼすような、
カサブランカという有名な映画を作った監督ですけれども、
彼は自ら死を選択してスイスに行って命を絶ったということが話題になりました。
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繰り返しますが、パウロはこの御言葉を通して、
今の生活や命を粗末にすることを進めているのではないということを覚えておくべきなんですね。
繰り返しますが、最もパウロがここで言いたいことは、
彼が一番願っていることは、復活に預かってイエス様と共にいることが最高の幸いなんだと信じていることなんです。
その、やがてイエス様と会って、自分がイエス様と共にいるようになる、
それが最高のゴールだということを私も目指しているけれども、
フィリピンの皆さんもそれを目指してくださいということを、
パウロはこの手紙の中で貫いているんですね。
もちろん私たちもそれに見習うべきです。
しかし何度も言いますけれども、それは今の生活や命を粗末にすることではないし、
ましてや自ら死を選ぶことを認めたり、それを後押ししているのでは決してないということを心に留めていただきたいんですね。
もしそういうふうに捉えてしまうならば、それは人生や命に関わる最も大きな間違いになるわけです。
パウロはですね、苦しみから逃れるため自ら死を選ぶのではなかったんです。
もう獄中生活で不自由だから死刑になって楽になりたいという発想ではありませんでした。
彼がですね、この時置かれた状況、それは自分の意思で自分の生死が決められない。
当たり前なんですけど、それ以上に彼はおそらく皇帝ネルの下で裁判を受けていたので、
自分の意思によって死刑を免れることはできない。
人の意思によって死刑という方法で死を強制されかねないという、そういう状況にあったということを覚えておいてください。
このようにですね、自分の意に反してという言い方は変なんですが、自分の意に反して自分の寿命を誰かによって縮められる。
で、私たち生きていれば当然ですけども、自分の意に反して自分の命の終わりを迎えなきゃいけない。
その時にですね、パウルのこの死生感ですね、いわゆるこのパウルの死生感、復活に預かる幸いという死生感が彼の強さの源になっていたということを心に留めたいと思います。
ですから私たちは彼の言葉をこう言い換えることができるんじゃないかと思うんですね。
たとえ死刑に処せられてこの世を去ることがあっても、私は復活しキリストと共に過ごすことになるのです。
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そのことは私の切なる願いにかなっているのですという形で、パウルはこの受けざるを得ない死に向かおうとしていることがわかるわけなんです。
しつこいかもしれません。繰り返しになりますけども、パウルは自分の力では逃れようもない命の危険に瀕した時にこの言葉が出てきたということなんです。
その時にパウルの復活信仰が彼の力の源になったんですね。
そのことがわかるのはピリピリとの手紙の続きでパウルはこう述べているんですね。
ちょっと読める方は3章10節11節読んでみましょうか。
3、私はキリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にも預かって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
これは復活信仰が思っているがゆえに、今の苦しみをキリストの苦しみに預かることとして耐えることができるという、まさに彼の力と命の源の信仰告白ですね。
また別の言い方をすればですね、もう救いが始まったけれども、まだ救いが完成していないパウル。
そしてパウルはこれから完成する救いを目指して、今を懸命に生きていることを告白しているんですね。
その完成に向かって懸命に救いの完成を求めて走り続けている様子をパウルは続けて述べているんですね。
最後にゴールした時の幸いをこう述べているんです。ゴールしたらこういう幸いが待っている。
読めるかと読んでみましょう。
キリストは万物をご自分に従わせることさえできる道からによって、私たちの癒やしい体をご自分の栄光に輝く体と同じ姿に変えてくださいます。
パウルも私たちと同じようにこの地上を彷徨う中でたくさん迷いました。
おそらく罪の誘惑にもあったと思います。
そんな中で救いが完成しない中、パウルはイエス様と会ったらこの癒やしい体もイエス様と同じ罪ない栄光輝く姿に変えてもらえるという、そういう復活信仰をパウルは持っていたんですね。
ですから繰り返しますけれども、このパウルは自らこの死を、逃げるために死を願っていたわけではないし、積極的に自ら命を絶つことを進めているのでもないわけです。
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まぬがれない死に直面した時に、この拠り所になる復活の希望がパウルの信仰告白、このイエス様と共にいることが望ましいという背景にあるわけなんですね。
ですからこうまとめることができるんじゃないでしょうか。
私たちは死後の確信を持ってこそ、今がどんな状況であっても、今を神様と人のために積極的に生きることができる、これがこのパウルの復活信仰から私たちが学べることかと思います。
それを踏まえて最後の点を見ていきたいと思います。
パウルは福音と人に仕えるために生き延びると告白しているわけです。
続きの24節でこう述べています。
しかし、この肉体に留まることがあなた方のためにはもっと必要です。
死を覚悟しながらも、私は生き延びる。
おそらくパウルはこの後死刑を免れるということをなんとなく確信していたとあるかもしれないですね。
その上で、肉体に留まる、それはあなた方の信仰の前進のために必要だと言っているんです。
自分が生き延びられることがピリピ教会の人々のためになるので、むしろ私は生き延びることを願っていると断言しているわけなんですね。
パウルはですね、続けてこう述べています。
今日見ませんでした。来週見る箇所ですけれども、読んでみましょうか。
このことを確信しているので、あなた方の信仰の前進と喜びのために、私が生き延びられて、あなた方全てと共にいるようになることを知っています。
イエス様と一緒にいることが一番大事であって、そのためなら私は死をもむしろ選んでもよい。
でも一番大事、今私が望むことは生き延びられて、イエス様と共に、あなた方と共にいることを願っていますよ。
なぜならばそれが皆さんの信仰のために、私が願っている福音の前進のために、益となるからです。
おそらくパウルはピリピに戻ってですね、ピリピの教会を福音でまた励まそうと考えていたと思われます。
さっきも言いましたが、無罪になって釈放される可能性が高いと考えていて、こう述べたともいえるわけなんですね。
しかしですね、この大事なこと、それはですね、パウルは生き延びて、自分勝手な人生を送ろうと考えていたわけではないということなんですね。
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もう皆さんもご存知かと思いますが、生き延びて自分の人生を謳歌しよう、まあ謳歌することも大事です。
でもそれ以上に彼は生き延びて、福音とキリストのためにピリピ教会の人々に使える道を選んだということなんですね。
まあこれ、少なくとも私が見習いたい人生観だと思っているわけです。
よく言えば、私たちは死後の確信を持ってこそ、今はどんな状況であっても、今を神様と人のために積極的に生きることができる。
それを今日のパウルの御言葉から受け取ることができるのではないかと思います。
最後にローマ14章8節を共に読んで、説教を終わりたいと思います。
私たちは生きるとすれば死のために生き、死ぬとすれば死のために死にます。
ですから、生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです。
お祈りしましょう。
天の神様、皆お賛美いたします。
今日はパウロの板挟み、また究極の人生の価値観を通して学びました。
私たちは命が神様から与えられているということを忘れがちです。
それが突然終わりを迎えることがあるかもしれません。
また、生きながらえて、あなたと人々のために使えるべく使命が与えられていることを、もう一度新たに知ることができて感謝いたします。
私たちにはそれぞれ置かれた状況があり、また強さも弱さもありますが、
どうぞ私たちが今置かれているそれぞれの時、それぞれの場所において、
あなたのために、また、あなたの福音のために生きることができるように、あなたが知恵と力をもって導いてください。
この言い尽くせない思いを、私たちの主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。
それでは、しばらく御言葉に応答して、一分ほど祈りましょう。
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