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ロイトへの手紙、ガラテア人への手紙5章、24節から26節
キリストイエスにつくものは、自分の肉を情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
私たちは、見た目によって生きているのなら、見た目によって進もうではありませんか。
うぬぼれて、互いに挑み合ったり、妬み合ったりしないようにしましょう。
以上です。 今日はこのところから、良い生き方と進み方と題して見言葉を取り継ぎます。
みなさん、おはようございます。 梅雨は明けましたけれども、先週は
梅雨が戻ったような激しい雨の日々が続きましたし、また今はですね、新座ですけれども晴れ渡った日であり、また30度を超える今日も暑い日となる
天候不純な日が続いています。 また、新型コロナウイルスの感染拡大もですね、感染者数が過去最大と日本でもなったということ、
なかなかそれが冷めやらずですね、物事が進んでいかない状況です。 そんな中ですが、今日は
この今日の見言葉から 学んでいきましょう。
良い生き方と進み方と題しております。
しばらく前から、5章13節からですね、肉の行いと見た目の歩みが比較されて教えられてきました。
今日読んだ箇所では、パウロはまずですね、事実、私たちクリスチャンがあるべき置かれている事実を語ります。
それが第1番目ですね。 2番目、その後否定的な表現で
禁止的なものを語ります。それが2番目。 最後に肯定的な表現、進めが語られている、順番は違いますけれどもですね、本文と、そのような順番で今日、
3つの点から学んでいきましょう。 クリスチャンの現状とあるべき姿を
今日学んでいければと思います。 まず最初、
情欲と欲望とともに肉を十字架につけたということで、事実の宣言がパウロによってなされています。
5章24節、読める方は一緒に読んでみましょう。 3、はい、キリストイエスにつくものは自分の肉を情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
ここで言うキリストイエスにつく者とは、いわゆるクリスチャンですね、イエス様を救い主として信じた人たち、私たちガラティアの人たちのことです。
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ここではその人の状態が宣言されています。どういう状態か、それは自分の肉を情欲や欲望とともに十字架にかけてしまったのだということです。
肉とともに情欲や欲望という、肉というのは私たち人間の中にイエス様を信じても残されている神に背く性質、罪に惹かれる性質ですね。
そしてそれから具体的にですね、しばらく前に学んだ19から21に列挙されているこの肉の行い。
情欲や欲望ということをですね、でまとめられていますけれども、19、21節のこの今前に示している悪意、悪行ということが挙げられています。
そういうものをですね、その具体的な欲望と悪い行いと、そしてその根本にある肉という性質とともに、すべてイエス様とともに十字架につけたと、すでにつけてしまったとパウロは宣言しているわけです。
これはどういうことかと言いますとですね、十字架につけたという動詞を見るとですね、ギリシャ語のアオリスト系と言いましてですね、これは過去一回の動作を示します。
つまりイエス様を信じた、イエス様を信じたというその時にですね、もうすでに私たちは自分の肉とともに、情欲や欲望それらを一緒に十字架につけてしまったんだという事実を示しています。
過去の事実を断言している、過去の事実を強調するアオリストと言ってもいいかもしれません。そのことをまず覚えておいてください。
しかしこれまで繰り返して説明してきましたように、イエス様を信じた私たちの中にもその肉なる性質が残っています。
ちなみにですね、今日のレジュメですけど、ちょっとプリントしたものですね、日にちが一週間間違ってまして、7月24日となっていますが、7月24日の部分がですね、7月17日ということを合わせて訂正しておきます。
話戻りますけれども、私たちは過去にすべてイエス様とともに悪いものを十字架につけたと言いながらも、実感としては実はパウロもよく知っているように、この私たちの肉なる性質は未だ残っており、誘惑されるという弱さを持っているというんですね。
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このことをですね、こんな例えで話してみます。振り込め詐欺ですね。仮にですよ、皆さんの知人が振り込め詐欺の犯罪で、有罪判決が出て投獄されたと考えてください。
あなたもそのことを知っています。しかしある日その人がですね、服役中にも関わらず、あなたに電話をしてきました。そしてお金を振り込んでくれれば、私はこっから出られると、要求してきたと考えてください。
その時、お金を振り込んで彼なり彼女なりが牢屋から出られるかどうかということを信じるかどうかは、あなた次第に、あなたに委ねられているんですね。
そして、服役中、何度も、例えば月に1回、必ずその人があなたに電話をかけてきて、お金を振り込んでくれと言うと考えてください。
でもですね、その度に私たち、あなたたちは、皆さんは惑わされるわけですね。お金を振り込むべきかどうか。でもそれは嘘の電話なわけです。
そういうことが、その人が服役中であれば、ずっと続くわけです。あなたへの電話が。
ちょっと乱暴な例えで申し訳ないかもしれないんですけども、仮にその人がですね、死刑の判決が出て、死刑が執行されるまでは、本当あってはならないですよ。
でも、例えとして言いますけど、その人に死刑が執行されるまで、その人から電話がかかり続けるということですね。
それは、つまり、私、似てるんですね。その人の死刑が執行されるまで電話がかかってくるように、私たちもこの肉体が続く限り、肉の弱さというものが残ります。
それ故に、肉の性質が残る故に、私たちはこの地上の生涯の命を終えるまで、罪が働き、情欲や欲望へと誘惑され続けるという、
実はこれが、クリスチャンでありながらも存在するリアリティだということを覚えておいてください。
おそらく極端な例えですけども、あなたが滑稽を受けて立法を全部守れば、あなたはそういう罪を犯さなくなりますとか、誘惑されなくなりますと、もしかしたらガラティアの人たちが誘惑されたかもしれません。
あるいは、例えばキリスト教系のカルトですね、こういう私たちの教団に入れば、あなたは完全に罪と誘惑から自由になりますよ、惑わされずにそういう誘惑がなくなりますよという教えが語られるかもしれませんが、それは信じてはいけません。
リアリティとしては、私たちは地上の生涯を歩む限り、そのような肉の欲に惑わされ続けてしまうという、そういう噂を持っているということを知ってください。
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そんな中でパウロが教えることはこういうことなんですね。イエス様を信じた時に、私たちはその情欲が肉とともにですね、そういう悪いものは十字架につけたんだよ。
そして、肉の誘惑を受ける時に、罪の誘惑を受ける時に、その事実を思い出しなさいということが、今日パウロがここで言っていることなんです。
パウロは、ガラティアの人たちも私たちも、誘惑され続ける事実を知っていましたので、さらに別の箇所でこう告げています。
以前見たガラティア2の19です。読める方、前に回ります。見事は読んでみましょう。私はから3、はい。
私はイエス様とともに十字架につけられました。
私は、ここにはですね、私たちはイエス様を信じた私たちはイエス様とともに十字架につけられましたと言っています。これはどういうことか。
先ほどのアオリスト時制との関連で説明します。難しいかもしれません。
ここの今の19節のつけられました動詞の時制は過去完了形ということで、どういうことか。
過去の事実が今も続いて影響しているということなんです。
先ほどの24節のつけてしまった、十字架につけてしまったのアオリストは、過去1回の出来事で事実を強調するために用いられます。
しかしこの過去完了形はその事実の継続性を強調しているんです。
つまり、私たちは信じた時にイエス様と一緒に十字架につけられたけれども、今もイエス様と十字架につけられたままである。
つまり、私たちはこの地上の生涯を終えて死ぬまで十字架につけられたままである。それはどういうことか。
つまり、先ほども言いましたが私たちは肉の弱さの上に誘惑され続けるので、その欲望や情欲に従わず無視し続けなさい。
肉に対して死んだままでいなさいということなのです。
それはまた別の言い方をすれば、詐欺の電話がかかってきても、その人が、言い方は厳しいですけど、死刑が執行されたと思って無視しなさいということと似ているかもしれません。
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何やらともあれ、事実として私たちは肉の弱さゆえに誘惑されますが、その肉の弱さ、情欲や欲望と共に十字架につけてしまったんですよ。
そして今もそれが十字架につけられ続けているんですよ。そう考えてその誘惑を無視し続けなさいということです。
2番目、具体的な事例として否定的な禁止命令がされています。
5章26節を読める方、前にもありますが読んでみましょう。
うぬぼれて互いに挑み合ったり、妬み合ったりしないようにしましょう。
これはですね、ガラティア協会の具体的に否定していた危機的な状況と関係しています。
内部の問題を想定して命令されています。
別の言い方をすれば、肉の情欲に従う思いのままになされた言動が起こす問題について、
語っているんです。警告しているんです。なぜならこの教会には前も言いましたが偽教師がやってきてですね、
内部にその影響で分裂と衝突の危機が起こっていた。
つまり、ユダヤ教に影響されて、活霊を中心に立法を守るという偽の教えが入ってきて、
それに傾倒する側のガラティア人と、いやパウロが言う純粋な福音イエスを信じるだけで十分だという福音に立つ側との対立、衝突、
それらの分裂が起こっていたかもしれない、あるいは起こっていたという危機的状況があったんです。
実はここの、挑み合うと妬み合うという言葉、根源が同じだけど出方が違う二つのことです。
挑み合う。前も言いましたが、この獣同士がですね互いに噛み合う状況です。
これトサイヌですね。私は仕事で毎週ある同じ家に行きますが、そこにトサイヌがいます。
で、頭いいんですその犬は。私がピンポンして吠えない時があります。どういう時か、それは家の主がいる時は絶対吠えないんです。
でも主がいないと、ピンポンしたら腹の底からですね、吠えるんです。ワンワンワンって。
もうそれ恐ろしい行為です。トサイヌが噛み合っている絵とライオンが噛み合っている絵ですけど、この挑み合い噛み合いというのは
今風で言うとマウントの取り合いです。つまり、餌を巡ってどっちが強いかを争う。
雄であれば雌を巡ってどっちが強いかを争う。これがこの挑み合い。
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で、もう一個のネタミアイですね。ネタミ、それはですね
自分の立場を低い、あるいは自分の地位が弱い、そして高いと思われる相手を羨むのがネタミです。
挑み合いはですね、自分を高くして相手を見下す。ネタムは自分を低くして相手を羨む。で、その両方ともですね
虚栄、うぬぼれということと関係しています。
このうぬぼれてのうぬぼれ。うぬぼれはですね、元のギリシャ語では虚しい高ぶり。
クリスチャンはイエス様を知っていること以上の誇りはない。 だから虚しく自分を誇ってイエス様以外を根拠に誇る。
そして相手を見下すということは愚かなことであり、逆にこの世の価値観で自分を見下げてですね
自己比喩をしてはいけないということです。
で、そういう自分の中にある虚しい高ぶりから自分を高めたり低めたりしてしまう。
そしてそれが相手に向かっていって、この挑み合いやこのネタ見合いが起こるということをパウロは警告しているわけなんです。
何度も繰り返しますが、5-19-21の肉の行いを制御しない結果起こる争いについてパウロはここで具体的に警告したということです。
これはちょっとここで触れるまでにしておきます。
最後一番大事なこと、肯定的な進めです。
精霊によって生きて、精霊に足並みを揃えて進みなさいということです。
25節読めるか読んでみましょう。
私たちは見たまによって生きているのなら、見たまによって進もうではありませんか。
この25節で実際にどう私たちが生きるべきか、前向きな進めがなされています。
私たちが聞くべき、この積極的な教え、進めが語られています。
先ほど肉に対して死ぬと言いましたが、それを前向きに言うと実は見たまによって生きることだとある学者は言うんです。
それこそ良い生き方と進み方だと言うんですね。
先ほど私たちが獄中にいる詐欺師の知人の言うことを聞かないように、
同じように私たちも肉の思いを無視するように言ったのですが、それは積極的に言うと
見たまによって歩む、5章16節で言われています生き方であり、5章18節で言われている
肉の思いではなくて見たまに導かれて生きるということでもあります。
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そして今日の25節ではそれを言い換えてですね、繰り返し見たまによって生きるというふうに同じような真理が進められているわけです。
さらに見たまによって進みなさいと言われています。
このように同じことが言い換えられて繰り返されているということはそれだけ重要な鍵だということですよね。
ここで大事な言葉、興味深い言葉はですね、見たまによって進むという言葉なんです。
見たまによって進むというのはですね、より具体的でどういうことかと言うとですね、
進むというのは大勢の人が列を組んで行進することを言うんです。
足並みを揃えて行進していくこと。
足並みを揃えて前進しなさいという命令と言い換えてもいいと思われます。
ですから私たちは、精霊と足並みを揃えて前進するわけです。
つまりどういうことか。
私たちの心に精霊が働いて、なすべきことやしてはならないことを教えてくださるということなんですね。
実はですね、積極的に言えば、精霊は私たちの心に働いて良いことをしたいという願いを起こしてください。
ネガティブな言い方をすれば、精霊は私たちの心に働いて悪いことをしたくないという思いを与えてくださるんです。
ある学者はそのことをですね、精霊が私たちの心を促すと言うんです。
この英語でですね、促すというのは、プロンプトゥという動詞です。
それはですね、プロンプティングというのは、心が借り立てられる、何々鈴木になるということなんです。
精霊は私たちの心を借り立てて良き業を行いたく導いてくださる。
そしてまたある学者はですね、それはイネーブルという動詞を使ってですね、何かをできるようにしてくださるという意味なんです。
精霊は私たちの心に働きかけて良いことを行えるようにしてくださる、そういうお方です。
繰り返しになりますが、精霊は私たちの心を借り立てて良いことができるようにしてくださったり、
悪を退けるようにさせてくださるんです。
無理やりじゃない、自分が本当にそれをしたくなるように精霊は心にプロンプティング、借り立ててくださる。
実はですね、クリスチャン生活を続けていく中で、そういうことを私たちは経験していくようになって、
精霊が与えてくださったということを実感するようになっていくわけなんです。
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このようにですね、見た目によって導かれて生きる、足並みを見た目に揃えて生きる、
言い換えれば精霊に頼って生きる、あなたの家に与えられている精霊により頼んで生きる、
そう勧められているんですね。当然精霊は私たちの目には見えません。
時にですね、家に精霊が与えられているという実感はないかもしれません。
ですけども、どうでしょうか、意識して自分の中に与えられている精霊に頼って生きてみてはいかがでしょうか。
またそのためにですね、聖書の言葉に触れていく、その言葉を心に蓄えていく。
実は聖書を通して精霊は私たちの心にも働いて、この聖書の言葉から力を与えたり、
良い動機を与えてくださるんです。 聖書を通し、精霊が神の御心を教えるというのはそういうことでもあるわけです。
この精霊の働きと関係してですね、パウロは別の箇所でこう教えているんですね。
その御言葉を読んで終わりにしましょう。 ピリピの2章13節です。
読める方は一緒にこの神話から読んでみましょう。
神は御心のままにあなた方のうちに働いて、志を立てさせ事を行わせてくださる方です。
ピリピ2章18節。 この私たちのうちに働く精霊により頼む日々をお互い歩んで参りましょう。
お祈りします。
天の神様、皆を賛美いたします。 私たちはイエス様と共に私たちの古い性質を十字架につけました。
しかし弱さのゆえに、誘惑に遭いまた欲望に心が葛藤することがあります。
どうぞ、あなたが与えてくださった内なる精霊様により頼んで
力を与えられ、また良い動機を与えられ生きていく、その幸いや喜びを知ることができますように、私たちを導いてください。
また精霊に頼るその力をも、あなたが私たちにお与えくださるように。
これらの言い尽くせない思いを、私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。 しばらく御言葉に応え、一分ほどお祈りしましょう。