2020-10-25 31:53

#29/20/10/25 栄光の望み

コロサイ-27からのメッセージ。2020年10月25日録音。この世の旅路に伴う苦しみを乗り越え成長するために、コロサイ人への手紙の鍵となる言葉のひとつから、素晴らしい希望について学びましょう。
00:06
コロサイビトへの手紙1章24節から27節をお読みします。
今私は、あなた方のために受ける苦しみを喜びとしています。
私は、キリストの体、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
私は、神から委ねられた務めに従って、教会に仕えるものとなりました。
あなた方に、神の言葉を、すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は、神の生徒たちに明らかにされた奥義を余すところなく伝えるためです。
この奥義が、違法人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は、生徒たちに知らせたいと思われました。
この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
以上です。
今日はこのところから、栄光の望みと題して御言葉を取り付けます。
皆さん、おはようございます。
コロサイ人の手紙を丁寧に学んでいますが、今日は1章の24、27節です。
何度もおさらいしますが、コロサイというのはですね、大体この辺ですね、日本から見て、
エルサイムからですね、パウロがデンドレゴに行きましたけれども、
このエペソにいた時に、おそらくこの町に来ていたエパフラスという方がですね、イエスさんを信じて、
このエペソから約156キロ入ったコロサイという町出身のエパフラスは、
自分の教理で福音を伝え、そこで生まれた教会、それがコロサイ人への手紙の宛先です。
私たちと同じユダヤ教の背景がなかった、異邦人教会でしたね。
そんな中で、旧約聖書からつながる神様の旅の伝統ということを伝えながら、
その根明の宗教、あるいは社会的な時代を生きていく中での生きる糧をですね、パウロはこの教会に与えたわけです。
そして今日はですね、その読んだ御言葉の中でも、この前に書かれた御言葉を中心に学びます。
1章27節、これもう1回読んでみますね。
この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
奥義というのはですね、特別に不安心するようなミステリーとかそういうことを考えなくて結構です。
03:04
旧約聖書の時代からずっと知られなかった救い主は誰か、その秘密が今明らかにされたという意味で使われています。
今日はですね、この栄光の望みのあるイエス様について学びます。
なぜか、それは私たちがこの地上を歩む上で、信仰生活を歩む上で、とても大事な基礎がですね、この内なるキリストという言葉に込められているからです。
そういう意味で、私たちの基礎型をやるよう信仰の復習という意味もあって、私たちの中におられるキリスト、栄光の望みということを中心に学びます。
実は、この言葉にはですね、2通りの捉え方があるんです。
厳密に言うと、あなた方の中におられるということには2通りの捉え方があるんです。
一つは、あなた方一人一人の中に、私の中に、あなたの中にイエス様が住んでいるという個人的な捉え方。
もう一つは、あなた方、コロサイという教会の中に、あるいはもっといえば今言っている地域教会、ニーザ教会、普遍的世界的教会、クリスチャンの胸の中にいるキリストという2つの理解があって、両方が必要だと。
その両方をバランスよく捉えることが、健全なクリスチャン生活の鍵だというんですね。
今日はその2点を学びます。しかしその前に、大事なですね、この2つの点に関わる、もう一つのクリスチャン生活の基本を先週に遡っておさらいして、合計3点から学んでいきます。
では、まず一番最初はですね、一番にあるように、栄華と聖華と苦しみとということです。
1章22、23節を元に振り返ります。
まず、クリスチャンとして栄華と聖華という大事な言葉を理解し、受け入れなければならないんですね、私たちは。
先週の復習をしますけども、先週の見事はこういう言葉がありました。1章22節ですね。ちょっと読んでみますね。
神が肉の体において、その死によってあなた方をご自分と和解させて下さいました。
その目的は、あなた方を聖なるもの、傷のないもの、責められるところのないものとして見舞い立たせるためです。ということです。
この火線が引いた部分。イエス様を信じた私たちは、この世の旅路を終えた後どうなるでしょうか。
それは、神様の前で完成するんですね。
つまりイエス様と同じ罪なき姿に私たちは人生の終わりに完成させられるという約束があります。
06:01
それをですね、ここに書きました。栄華と言います。
つまりイエス様のに姿に変えられる、完全に変えられるんです。
この栄華、あとに姿ということは覚えてください。
英語で言うとグロリフィケーション。
イエス様と同じように、罪に悩むことのない、その新しい身体、新しい姿に生まれ変わるという約束です。
その前提で、パウロはこう告げていました。1章の23節。
ただし、あなた方は信仰の舞台に土台を据え、固く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。
このですね、信仰にとどまるということですけれども、私たちには実はこういう現実があります。
肉の体を持っている限り、罪とは無縁でないということなんです。
クリスチャンであれば、何年イエス様を信じていようが、罪に悩む、あるいは罪の誘惑に揺さぶられることがあるということです。
ですから、罪に気づくために、このイエス様の十字架を仰いで、その罪の許しを確認して、聖霊をあらためて、清められ続けなければいけない。
この十字架を仰いで清められ続けるという、地上の生涯の歩みを聖歌と言います。
まあ、あえて言えば、実際的に清められ続けていくということが聖歌です。
その途上で、例えば罪に気づいたら、私たちはその罪の許しをイエス様に祈り、十字架にあって許されていることを感謝する祈りをして、
そしてまた聖霊を授けてくださいという、その聖霊にすがるということ。
とにかくそのような聖歌の歩みを地上の生涯に続けていくということではあるわけです。
そしてさらにですね、実はこの聖歌の歩みには苦しみが伴うということなんです。
今日取り上げているこの聖書の歌集を解説した学者がですね、
苦しみを経験することはクリシャンとして当然なんだ。
それを喜びとしなさいとさえ言うんですね。
その文章こんなことを彼は述べています。
あ、失礼しました。
ちょっと今日、引用しようと思って書き忘れてしまいましたけども、
みなさんのレジュメに書いてありますが、
すべてのクリシャンは何らかの形で苦しみを経験するであろう、
迫害のような外面的な苦しみでなければ内面的に、
誘爆や病気との長くゆっくりした戦い、
またクリシャンとしての苦しみを伴う家族や教会への心遣い、
09:04
信仰の従順に伴う絶え間のない疑いや不確かさ、
これらがキリストに従うように命された中に含まれているのである。
しかしこれらのものは、
直接に理解さえすれば喜ぶべきものである。
なぜなら苦しみは今の時代が過ぎ去ることを示す印であり、
またイエスの民が新しい時代の子供であることを示す印であり、
また新しい時代の海の苦しみが彼らの中に働いていることを示す印だからである。
実はですね、このことを簡単に言うとですね、
私たちが苦しむというのはですね、
そこはですね、新しく生まれ変わる海の苦しみを体験しているんだということなんです。
もう一つ、もし罪など関係なく生活していれば苦しみ必要ないということなんですね。
私たちは清い神の掟を知っているがゆえに、
自分の罪に気がついてやはり苦しんでしまうということがあるわけです。
そして実はその苦しみがあるということは将来イエス様と同じ姿に変えられる、
栄華の約束が待っているというその証拠でもあるんだということなんですね。
ですからその苦しみがあることを当然として受け入れ、
それには希望があるということを喜べと言われているわけです。
実はパールはですね、その栄華を目指す途上の成果の苦しみについて、
御言葉でこのように述べています。
フィリピンの3章の10節から11節です。読んでいますね。
私はキリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみに預かることも知って、
キリストの死と同じ状態になり、
どうにかして死者の中からの復活に達したいのです、という言葉です。
パール自身がですね、復活の力を知っている。
そしてイエス様の苦しみに預かることも知っている。
だけれどもその苦しみの中でイエス様の死に預かって、
苦しみながらもイエス様の大変した死者からの復活に達して、
栄華へと目指していきたいとこのように告白しているわけです。
私たちの進行のゴール、旅のゴールには栄光の希望があります。
しかしその途上で私たちは苦しみは避けて通れないんですね。
この苦しみは避けて通れない。
12:03
実はこのことが私たち一人一人の中にイエス様が住んでおられるという、
その希望と関係が出てくるわけです。
そのことを次に問い上げていきましょう。
私たち一人一人のうちにおられるイエス様について、
共に学んでいきます。2番目。
パウロは1章27節でこのように述べていますね。
この奥義が非法人の間でどれほど栄光に富んだものであるのか、
神は生徒たちに知らせたいと思われました。
この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
この言葉から私たちはこういうことが言えるんですね。
この、私たち一人一人の中にイエス様は住んでおられる。
そして、私たちの中に住んでおられるイエス様は、
栄光の望み、光り輝く神の栄光そのものだという。
あの、栄光というのはですね、やはり聖書で大事な言葉です。
主の祈りでも、国の力と栄とは限りなく何でもあれば成り立って、
栄、栄光と言います。
聖書に出てくるのはですね、
目に見えない神様が人間に現れる一つの印として、
光り輝く栄光を持って現れたと言うんですね。
クリスマスの夜に天使が現れたときに、空が光り輝いた。
その光り輝くというのはですね、神そのものの権限だと言うんです。
だからその、神の栄光そのものがイエス様である。
それがこの御言葉の意味するところの一つであります。
そしてその、神ご自身、栄光の神ご自身であるイエス様が、
私たち一人一人の中に住んでおられるという、尊い真理です。
そして実はじゃあどうやってそのイエス様が私たちの中に住んでいるんですかというときに、
それは、精霊によって私たちの中にイエス様が住んでいるということなんです。
どういうことかというと、ちょっとややこしいかもわからないんですけども、
そういうものだと言って理解してください。
イエス様が住んでいるということは、私の中に、あなたの中に、
精霊なる神様がイエス様として宿っているということなんですね。
実は、そしてその精霊なる神様が復活の命をもって、
弱い私たちを支えているという意味です。
パウルが別の聖書の場所でこう述べている通りです。
ローマの8章の10節から11節、書いてありますね。
もしキリストがあなた方の内におられるなら、
身体は罪の上に死んでいても、霊が義の上に生きています。
15:05
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、
あなた方の内に住んでおられるなら、
キリストイエスを死者の中からよみがえらせた方は、
あなた方の内に住んでおられる御霊によって、
あなた方の死ぬべき体をも活かしてくださいます。
ここでパウルは言っていますね。
イエス様があなたの中に住んでいますよ。
そのイエス様が住んでいるということは、
ここですなわち、イエス様をよみがえらせた方の
霊が住んでいることだとパウルは言っています。
それがどのようにして希望になるかというと、
私たちは罪の上に身体を死んで、
罪の戦いを耐えて苦しみますけれども、
そのイエス様をよみがえらせた神様は、
あなた方の内に住んでおられる聖霊によって、
あなた方の死ぬべき体を活かしてくださいますよ。
これは私たちがたとえ死んでも、
聖霊によって私たちはよみがえるということでもあるし、
今、罪の苦しみで死ぬような思いをしていても、
その復活の命を体験するということなんですね。
そしてこのような聖霊によってイエス様が
雇っておられるということを前提にパウルは
こう述べているんですよね。
この奥義とは、あなた方の中におられる
キリスト栄光の望みのことです。
とパウルはこう言っているわけです。
私たちの中に住んでおられる栄光の望みのあるイエス様、
そのイエス様こそが私たちの希望だというんですね。
今は私たちに苦しみがあるかもしれませんが、
その私たちの中に住んでおられる聖霊様、
他でもないその聖霊様は、
命の御霊であって、死ぬべき私たちを生かしてくださる。
これが希望だというんですね。
そしてその聖霊によって私たちは人生のゴールにおいて
必ずイエス様と同じに姿へと変えられていくというんですね。
このような絵を見たことあるでしょうか。
オリンピック来年やるかやらないか、東京でやるかやらないか
いろいろ取りずらされていますが、
オリンピックの花形競技というのはマラソンですね。
北海道でやるそうですけども。
18:01
マラソンの中でですね、パラリンピックで
目の見えない方のマラソンがあって、
それでガイドランナーというのがつくんですね。
手を一緒に繋いでですね、そしてゴールまで導いてくださる。
イエス様はまさにですね、私たちのガイドランナーのような方です。
人生のこのマラソンレースにおいて苦しむ時にですね、
まさに傍らにいて、頑張れよと支えてくださる方です。
そしてまた、聖霊のある神様は、
私たちの中にそのものに住んでくださって、
私たちがこの人生のレースを走り続けることができる、
その原動力となってくださるお方なんですね。
そしてどうですか?
イエス様は私たちと共にこの人生を歩み続けてくださって、
そして共にゴールをして、ゴールするだけではなくて、
一番高いところに、表彰台の上に私たちを導いて、
そしてよくやった、そう評価してくださって、
そしてよくやった、そう評価してですね、
その表彰台の上で私たちの手を挙げて一緒に、
この勝利を祝ってくださる。
それがイエス様にある栄光の望みなんですね。
ですから、苦しみについてこう考えてください。
苦しみの先には必ず、
この成果の先に栄華が待っているという証拠だ。
そして私たちが苦しむのは、
清いものを知っている新しい神の国、
イエス様を追うと信じているからこそ、
体験する苦しみなんだということです。
そしてその苦しみを体験しながらもですね、
私たち将来、新しい命として誕生する、
その海の苦しみを今味わっているんだと、
そのように苦しみを理解してください。
さらに私たちはですね、実感はないかもしれませんが、
このイエス様の精霊が住んでいますから、
苦しいときに、
内なる精霊様に助けを求めてですね、
神様どうか精霊によって、
内なる私を助けてくださいと、
祈ることができるわけです。
人は誰でもあればですね、
苦しみを乗り越えていきたいと思うわけですね。
なおさらこのコロナ禍であれば。
そしてただ苦しむだけじゃなくて、
苦しみを乗り越えて、
少しでも人間として成長していきたいと、
やはり思うわけです。
そのためにいろんな努力をしますね。
でも、私たちクリスチャンには、
苦しみを乗り越える、
苦しみを乗り越えて成長し続ける、
原動力として、
内に住んでおられるイエス様、
精霊様がおられる、
栄光の望みのあるイエス様が、
その原動力であるという、
21:00
それによりどころがあるんですね。
そのことを覚えておいてください。
それでは3番目。
私たちの中におられるイエス様。
2番目は、
人々の中におられるイエス様ですけれども、
最後は、私たちの群れの中に、
クリスチャン全体の中におられるイエス様。
この1章27節の約束、
これですね、
その奥義徒は、
あなた方の中におられるキリスト、
栄光の望みのことです。
あなた方というのは、
クリスチャンの群れ全体の中に、
一人のイエス様がおられるということです。
実はこのような、
信仰の態度に関して、
ある学者がこう述べているんですね。
ここの見事を解説して、
こう述べています。
パウロは、
わがままになりがちな、
利己的存在を、
他の人のために存在するという、
十字架的存在を、
十字架的存在へと、
方向修正しようとしているんだ、
というんですね。
パウロはそしてですね、
そのことを模範を示すごとく、
見言で述べています。
また模範だけじゃなくて、
その仲間に導くために、
こう模範を述べています。
1章24節、25節ですね。
今私は、
あなた方のために受ける苦しみを、
喜びとしています。
私は、
キリストの体すなわち、
教会のために、
自分の身を持って、
キリストの苦しみの、
欠けたところを満たしているのです。
私は、
神から委ねられた務めに従って、
教会に仕えるものとなりました。
今日の歌詞の前半で、
こう述べているわけです。
どういう意味でしょうか。
それはですね、
パウロがこの手紙を書いている間、
エピソードだと思いますけれども、
当国されていたんですね。
今いる当国中の苦しみも、
そして皆さんご存知のように、
福音を述べている時に、
石を投げられたり、
いろんな苦しみに遭いました。
でもその苦しみは、
他の人のための、
苦しみを担ったイエス様、
そのイエス様の十字架の足跡に、
従っているのに過ぎないんだ、
と言っているんですね。
自分が今苦しんでいるのは、
そのイエス様の、
苦しみの欠けたところを
乱しているというのはですね、
少し大げさな表現ですけれども、
そのつもりで、
パウロは、
今の教会のための苦しみを
担っているというんです。
私たちはですね、
24:02
やはりパウロの足跡に、
イエス様の足跡に
習うべく召された存在ですね。
私たち今、
ニーザ式バプテスト教会に
礼拝集っています。
それだけじゃなくて、
いつも言っていますが、
地域教会だけじゃなくて、
普遍的教会、
世界的な、
神の家族の一員として
教会に属している、
神の家族に属しているわけです。
それはつまり、
同じイエス様を、
一人のイエス様を、
希望として共に宿している
兄弟姉妹だということです。
ですから、
同じイエス様を宿し、
私たちは兄弟姉妹として
お互いの重荷を担う、
そのように見せられているんですね。
そのように、
お互いの重荷を担う
兄弟姉妹の群れや
教会を通して、
またイエス様の栄光が、
私たちを通して
輝き出るというわけなんですね。
その上で、
私たちもイエス様や
パウロに習って、
このように考えていくべきなんですね。
前に隠れました。
私は、
自分の人生を生きるが、
同時に、
私は他の人のためにも
存在しているんだということです。
そして、
自分の利己主義を十字架にかけて、
他の人の益のために使えることが、
キリストの十字架になろう
生き方である、
こういう価値観や
人生観を持って歩んでいく。
それが、
キリストやパウロに習う
キリスト社の意味なんですね。
ただですね、
病気の人が病気の治療に専念する。
そして、
自分の治療に専念するからですね、
他の人のために何かできるかというと、
制限があるわけですよね。
同じように私たちも、
罪ゆえに弱みを持っています。
ですから、
クリスチャンとして、
誰かのために何かしようと思っても、
あれは本当に持ち通る
ということですから、
限界があるわけですよね。
だから、これは常識的に考えて、
無理せずできることをする。
でもマインドセットとしては、
自分は他の人のためにも存在しているんだ、
という意識を持ち続けるということなんですね。
無理せずできることを皆さん考えてほしいんですが、
私はその一つとしてやはり、
他の人のために
祈るということがあげられると思います。
教会に集う
隣近所の人々のために、
私がしているように、
その方々に
聖霊が日々授けられるようにと、
祈ってはいかがでしょうか。
聖霊というのは、
クリスチャン生活を送る上での
27:01
欠かせない要素ですから、
兄弟姉妹のように、
今日も聖霊を授けてくださいと、
祈るのはいかがでしょうか。
あるいは、黒沢一聖11節のように、
兄弟姉妹が、
誰々さんが、
神様によって、
神様によりと、
祈ってあげるのは、
いかがでしょうか。
私は、本当に、
毎朝、皆さんの一人ひとりに
名前を挙げて、
祈っています。
ちょっとの時間でもできますから、
一日とっかり時間をとって、
兄弟姉妹のために、
祈ってはいかがでしょうか。
教会で今、
月に一度、岩手図画会大カフェというのが
再開しましたが、
そこで、ひとつ、
こういうことを言っているんですね。
ある、がんで入院して、
寝たきりの、
高齢の女性のための話です。
についての話です。
彼女はですね、日野先生が
病院に面談に行った時にですね、
私は寝たきりで生きている意味がありません。
だから、私の命を取ってください。
そう言ったそうなんですね。
すると、日野先生はですね、
いやいや、
あなたは病床に立ってもね、
病床にあっても役に立っているんですよ、
と、あの優しい声で、
森本玲央のような風物詩ですと、
言われたわけです。
どういうことかというとですね、
著者から引用しますけれども、
日野先生はその方とのやりとりの中で、
こう振り返っています。
その言葉、
あなたは病床にあっても役立っている、
そんなふうに思っているのは
あなただけですよ、
という私の言葉には、
慰めでも励ましでもなく、
私の実感から出てくる、
慰めた思いがこもっています、
と言っています。
そしてこう続けています。
その患者さんのところには、
お見舞いにやってくる人が絶えません。
家族がほとんどですが、
孫が友達を連れてくることもあり、
なんだか賑やかです。
肌で見ていると、
例えば孫の服装について、
今日はまたかわいいね、
などと話しかけています。
すると孫は、ね、かわいいでしょ、
アルバイトして買ったんだよ、
と答えます。
ごくごくありふれた会話を、
ぽつりぽつりとかわすだけです。
それでも、
孫は確実に笑顔になって、
じゃあね、またね、
と帰っていきます。
私はこの瞬間のためだけでも、
この患者さんは、
十分に生きている価値があるのだ、
と思います。
患者さんの存在は、
そして微笑みは、
孫や家族をここまで呼び寄せる力を
持っているのです。
と言っているんですね。
今のコロナ禍では、
なかなかお見舞いは難しいかもしれません。
でも鍵はですね、
たとえ寝たきりになっても、
その人のかける言葉、
あるいは症状がですね、
来る人を励まし、
30:00
慰めるということですね。
私たちが今のコロナ禍の中で、
さらで再労働も多いかもしれません。
しかし、
私たち一人一人がですね、
今置かれている立場で、
誰かを励ます、
また思いやる
兄弟姉妹のために
祈るという心構えで
過ごすことができると
幸いかと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を完璧いたします。
今日は晴れやかな朝ですけれども、
その夜の中で、
私たち一人一人を
この礼拝へと導いてくださったことを
感謝いたします。
これから私たち一人一人が
それぞれの場所に
使わされていきますけれども、
いかないこともあるかと思いますが、
その労苦一つ一つを
あなたが覚えてくださっていることを
感謝します。
また、私たちの
内なる聖霊様が
私たちと共に生めき、
新しく力と命を与え、
また、あなたの希望の地に
会いましてくださることを
信じ、感謝いたします。
どうぞ、これから歩む一歩一歩を
主が導き、
あなたへの
栄光の御姿へと
この旅中を導いてください。
この願いと感謝を
私たちの救い主
主イエス様のお名前によって
お祈りします。
アーメン
それでは引き続きお祈りください。
御言葉に応答して
それぞれの思うところを祈りましょう。
また、献金や献金の感謝の
祈りもありませんので、
自らを神様にお捧げする
導かれたそのような祈りも
捧げてみましょう。
しばらくお祈りします。
31:53

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