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マルコの9章38節から50節、ヨハネがイエスに言った。
先生、あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。
その人が、私たちについて来なかったからです。
しかし、イエスは言われた。
やめさせてはいけません。私の名を唱えて、力ある技を行い、そのすぐ後に私を悪く言える人はいません。
私たちに反対しない人は、私たちの味方です。
誠にあなた方に言います。あなた方がキリストに属する者だということで、あなた方に一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。
また、私を信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ大きな石薄を首に結びつけられて、海に投げ込まれてしまう方が良いのです。
もし、あなた方の手があなた方をつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。
両手がそろっていてゲヘナにその消えない火の中に落ちるより、片手で命に入る方が良いのです。
もし、あなた方の足があなた方をつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。
両足がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片足で命に入る方が良いのです。
もし、あなた方の目があなた方をつまずかせるなら、それをえぐり出しなさい。
両目がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片目で神の国に入る方が良いのです。
ゲヘナでは、彼らを食うウジ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。
人は皆、火によって塩気をつけられます。塩は良いものです。
しかし、塩に塩気がなくなったら、あなた方は何によってそれに味をつけるでしょうか。
あなた方は、自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。
以上です。
今日はこのところから、三つの治療法と題してお話しします。
皆さん、おはようございます。
早いもので、1月も第3の日曜日になりました。
先週は、ある大きな政党の派閥が解消されることがニュースになりました。
その中でも、ノートの大地震の影響が覚め合わず、報道でも惨状が伝えられながら、
また、様々な形で支援がなされている。
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支援に参加する方も、特に母親が多く集まっているということも話題になっております。
その中で、今日は雨降りですけれども、森美言葉から学んでいきましょう。
今日の箇所でイエス様は、過激な言葉を並べて、それが非常に印象に残っていて、
どんな意味があるのかなという興味をそそられます。
しかしそれは、後でも詳しく説明しますが、大事なことを知る誇張表現ですね。
それを読み取りながら、3つのこと。
1つ目は、ひけ目を癒す文句意。
2つ目は、毒禅を治す外科手術。
3つ目は、試練とナトリウムということですね。
ちょっと治療なんかと格をつけまして、3つのことから見ていきたいと思います。
まず最初は、ひけ目を癒す文句意ということです。
9章41節のイエス様の御言葉を読んでみましょうか。
誠にあなた方がキリストに属するものだということで、
あなた方に一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。
ここの段落からは、この言葉を中心にちょっと学んでいきます。
今日の箇章の発端は、ペテロとヤコブとヨハネという三人の弟子のうちの一人のヨハネが、
自分たちの仲間でないものが悪霊を追い出していたので、やめさせたという話でした。
そのような偏狂な考えに対してイエス様は、誰でもわかる広い原則でただしたところです。
それはもうちょっと今置いておきまして、その中で今読んだ41節の言葉がイエス様によって語られました。
これはどんな言葉かというと、一つにはですね、
例えばヨハネがその時に批判した無名の弟子たちを守ったりねぎらう言葉でもあったと言われているんですね。
こういうメッセージがここに込められているんです。
それはですね、たとえ悪霊を追い出しには及ばない、コップ一杯の水をイエス様の弟子ということで差し出す。
コップ一杯の水をイエス様の名のゆえに差し出すという、そのような小さな法師でも、イエス様の弟子の法師に、
悪霊を追い出し始めとする偉大な法師に劣らない尊い法師、そのように神様を報いてくださるんですよ。
そういうことをここで言っているわけなんですね。
この段落はですね、実は前回のところからもずっと続いているんですね。
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イエス様の弟子たちが誰が一番偉いかを論じ合っていたというところから続いています。
その中で、さらに今日のところはですね、いろんな立場で聞くことができます。
イエス様のこの言葉。先週は弟子の立場をちょっと考えましたけれども、
今のこの時点では、弟子たちに批判された側の立場になって考えてみてください。
名のない弟子として。
で、そうやってイエス様に守られた側の立場としてちょっと考えてみましょう。
そこでですね、思い出すのは冒頭に申し上げましたが、
先週後半からある生徒の派閥が解消されるということで、大きなニュースになりましたね。
派閥のような大きく影響力のあるグループに属していると、その保護家に入りますよね。
そして、いろいろな特権を得ることもできますし、
また、そこに属することによって、自分も大きい存在だというような古代妄想と言っていいか分かりません。
そういうことを自己肯定感を得られるかもしれません。
一方、自分は大きなグループに属さない。
まあ、バツって言われますけどね。属さないし、
そして、自分がすることが些細なことである。
あるいは時には、自分が属していないとか、やることが些細に思われることゆえに、
ひけ目を感じてしまうという立場をちょっと考えてみたいですね。
もしかしたら、そのような大きなグループから圧力をかけられてしまう。
そして、なおさらそのひけ目、追い目を感じるかもしれないですね。
そこで、このイエス様の言葉が話題になるんですね。
たとえ、私たちが小さなものであったとしても、
そして、なすべきことが小さいとみなされたり思えることだとしても、
もしそれがイエス様のためにするのであれば、
そして、イエス様に使えるように人に使えるという思いでするのであれば、
神様は必ず報いてくださるというのが、このイエス様のメッセージなんですね。
それはイエス様の励ましの言葉です。
そのイエス様の、あなたがどんなに小さい存在と思われても、
あるいは、その喪失がどんなに小さい、旗揚げが小さい、
些細なものだと思われても、
神様はそれを大きな、素晴らしい旗揚げとして報いてくださるんだよ、という約束。
先週ですね、仕事でよく家に行くんですけれども、
4歳と2歳ぐらいの女の子がいるんですね。
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行くと喜んでくれてですね、ぐるぐると缶というのが出て、
わんわんだとか教えてくれて、いつもかわいいんですけれども、
その子たちがですね、のど飴をくれたんです。
でも、いつもありがとうございますといってですね、のど飴をくれて、
本当にうれしかったんですね。
それはですね、たとえちっちゃな飴粒でもですね、私も感動してですね、
癒されました、ありがとうと言ったんですけれども、
神様からしたら、私たちが小さい存在かもしれないし、
することが小さいことであったとしても、
本当に尊い喜ばしい存在報しとして、喜んでくださって、
そしてやがて、天において報いてくださる。
そういうことなんですね。
そのようにですね、イエス様のこの励ましの言葉を思い出していく。
そのような小ささ、自分の存在や成すことの小ささを何となく感じるときに、
人のプレッシャーを感じて、ひけ目を感じるときがあるかもしれません。
でも、イエス様は神様の報いを約束してくださいました。
そしてこの神様が報えてくださるという約束は、
私たちのひけ目を癒す薬だとも言えるんじゃないでしょうか。
それが最初ですね。
2番目、独善を治す外科手術ということです。
イエス様は続けて、次の方で教えていくんですけれども、
9章43節の言葉を一つ取り上げまして、読んでみましょうか。
もしから3回。
もしあなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。
両手がそろっていて、げへなにその消えない火の中に落ちるより、
片手で命に入る方が良いのです。
この9章の42節から48節までは過激な言葉が続くわけですね。
先ほど言いましたが、実はこれはイエス様の独特な誇張表現です。
別の箇所では、あなたは人の目の上にある塵に気がつきながら、
どうして目の上にある自分の針に気がつかないのですか。
これは当然、皆さんも分かっていますように、文字通り、
手足を切り取れとか目をえぐり出せということではないのです。
驚くほど、この過激な命令をすることによって、
些細なことだと思っている、あるいは気がつかない問題に目を向けさせる。
その大きさを伝えているということです。
ここでイエス様が言っている一連の教えをまとめると、
片手片足がないまま命を得る方がましだ。
片目がなくても神の国に入る方がましだ。
ここで言い換えが行われているのです。
命に入るということと、神の国に入るということが言い換えられていて、
それが同じだということが分かるわけです。
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つまり、神の国に入る命、もっと言うと、
身体の命とまことの命に入ること、
神の国に入ることがとても大事だということを教えているのです。
これは、他人をつまずかせるのではなくて、
自分を神様から遠ざける危険を教えているのです。
危険な問題とは何か、それは独善だということです。
どういうことかをもう少し詳しく見ていきます。
この独善、この前のヨハネの指摘、
私たちについてこないから辞めさせたというところに見え隠れする問題、独善、
それは彼らの考えは、十二弟子に属する者だけがイエス様の正当な弟子だという独善の考えです。
そのような実は独善的な考えが小さな者をつまずかせるとイエス様は言っているのです。
この旧書の42節の最初は、私を信じるこの小さい者たちの一人でもつまずかせる者は、
首にシュースをかけて海に沈める方がマシだと言って、これも誇張表現ですけれども、
これは何を教えているか、この前の小さな奉仕者の水一杯の小さな奉仕者ということと関係してくるわけです。
もっと言うと、その前の先週見た小さな者を私の名の意味に受けるならばということとも、
ちょっと小さなということで関連はしているんですね。
ここで言う実は小さな者というのは子供じゃなくて信仰の初心者を言っている。
これは当時イエス様が天に帰られた後、ローマの教会で戒乱されたと言いますよね。
まだペトロが生きていたと思われますけれども、ペトロをはじめ弟子たち、
いろんな教会が家の教会をはじめ広がっていく中で、新しい弟子たち信者が加わってきたわけです。
そういう新しい信者たちを独善によって斬り捨てないようにという、
そういうことをやってつまずかせるならばそれは大きな罪ですよということが、
この首に石を打つをということで教えていることなんです。
それは他の人に対してのつまずきですけれども、
ここの手足を斬り捨てる云々というのは自分をつまずかせる、
つまり自分を神様から遠ざけるその思いに注意しなさいという教えなんですね。
この独善的な考えで、お前は私たちの弟子でないと言って人をつまずかせることも問題なんですけれども、
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実はその人々を独善によって神様から遠ざけるだけではなくて、
自分自身もその独善に気がつかずにいると、
いつの間にか今度は神様ご自身の御心から自分を遠ざけてしまう危険性があるんですよ。
それがゲヘナの中に陥るということで表現されています。
ゲヘナというのは簡単に言うと旧約聖書の時代にできたゴミ捨て場です。
当時、詳しくは言いませんが、簡単に言うと子供を捧げていた偶像礼拝をしていたイスラエルの堕落した王がいたんです。
その礼拝所みたいなところを簡単に言うと辞めさせて、
その呪われた場所をゴミ捨て場にしたんです。
ゴミ捨て場にしただけじゃなくて、ちょっと過激ですけれども遺体をそこに捨てた。
そこに行くと本当に火が燃えていたり、死んだ生き物の死骸にウジが群がっているということがあったので、この堕落の最後のウジウンヌンという話が出てくるわけです。
そういうことも使いながらイエス様は気がつかない独善がやがて神の裁きをもたらして取り返しがつかないことになりますよということで、
この過激な教えを語ったわけなんですね。
この独善の危険性を指摘して戒心に導くために手足を切り取り、片方を切り取り、片目を繰り出すという過激な教え、ある学者はこれを外科手術と呼ぶわけです。
そのような外科手術の意図で誤解を恐れずに言うのであれば、一般的には特に当時は当然両手両足が揃っていて両目が揃っているのが当たり前でそれが良いというのは当たり前なんですね。
でもこの当たり前ということは自分を疑わないということであって、言い換えれば独善につながるわけです。
この揃っていて当たり前の自分の体の一部を失ってでも神の国に入る方が良いという教え、
それは当たり前と思っていることが自分を神様から遠ざけていることがあるから、そのことに気がついて戒心するように目覚めさせるという意図があるんです。
ちょっと苦毒になりますけれども、そして誤解を恐れずに言うならば両手両足が揃って両目揃っているというのは当たり前でそれが良いということは疑わないわけですよね。
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そのように何か自分が独善に陥る時というのは疑っていないで正しいという前提に立っているわけです。
それで分かってくるのは先ほどの十二弟子の話、ヨハネのあくれ追い出しやめさせたという話につながるんですけれども、
この十二弟子たちにとっての当たり前というのは何か。
それはイエス様についていけば支配者層にのし上がれる。そして誰が一番偉いのかということを切磋琢磨する。
そしてその中で私たち十二弟子こそ特別な存在であるから他のものは認めないよということが考えもなく彼らの当たり前になっていたということが分かるわけなんです。
そしてこの特権意識と他者排除、この独善がやがて気がつかぬままでいると自らを神の国から遠ざけますよ。
そういうことの間違いに対して目を開かせるためにイエス様は過激なエカシーズ的な教えを語ったと考えられるわけです。
この教えは先ほど言いましたがマルコの福音書が読まれた当時に当てはめれば十二弟子で当時生きていたペテルもそうです。
そういう教会の指導者をはじめ各教会の指導者たちを忌ましめる。
あなたたちを独善に気をつけなさいというそういう教えと考えられるわけです。
今でいえば私もそうですが牧師とか人の上に立つ人間に独善に陥らないような警告となるわけなんです。
もしいずって一般的に考えるならば誰でも自分が他の人に対して何らかの影響力を持っている立場にある場合は無意識の独善に気をつけていく。
そういうふうに考えられるかもしれないですよね。
イエス様のこの過激な教えは独善を治療する外科手術的な教えだったと考えられます。
最後、痛みのナトリウム。
最後の今日の段落の締めの部分でイエス様はこう教えています。
人は皆火によって塩気をつけられます。塩は良いものです。
しかし塩に塩気がなくなったら、あなた方は何によってそれに味をつけるのでしょうか。
最後だけ読みましょう。
あなた方は自分自身の内に塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。
特に取り上げる一つの見事はこの49節の
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人は皆火によって塩気をつけられますという言葉です。
この言葉にはこういう意味があります。
人は試練を通って味わいが増すという意味です。
このすぐそばに善屋というラーメン屋さんがあります。
日本で最も有名な塩ラーメンのお店の一つに数えられています。
よく言うのですが、「情熱大陸」という有名な番組があります。
山形の有名なラーメン店の店長が取り上げられた時に、
わざわざその店長さんが善屋までに食べに来たということまで
その番組で取り上げられるほど有名なお店です。
一回まで行ったことがないですけれども。
この塩味、それは火を通る試練によって人は味付けられますよ。
その人の味わいが増すよという意味です。
ここで言う火というファイヤー、それはですね。
信仰の試練を指す。
弟子として経験する苦難、それは時には清めの働きをする。
先ほどの独善もそうかもしれません。
あるいは塩というのは保存の効果があるように
その信仰を保つために試練は良い訓練になります。
塩はナトリウムというのは治療法というよりは
痛みから生まれる良い効能と言ってもいいかもしれません。
試練を通して塩味が付く。
火によって塩気を付けられるということをイエス様が教えているわけです。
よく知られた御言葉にこのイエス様の弟子の一人
ペテロがこういう言葉を残していますね。
第一ペテロの一章七節。
ちょっと難しいんですけど読んでみましょうか。
試練で試されたあなた方の信仰は、
火で精錬されてもなお朽ちてゆく金よりも効果であり、
イエスキリストが現れる時、賞賛と栄光と褒めをもたらします。
このイエス様の一番是非と言われたペテロ、
たくさんの失敗がマルコに書かれていますが、
おそらくこの第一ペテロの手紙が書かれた時には、
皇帝ネロの下激しい迫害があって、
彼自身の信仰もねられ、
そして試練の中にあるクリスチャンを励ましている言葉です。
その試練は信仰の試練。
火で精錬されてもなお朽ちてゆく金よりも効果であって、
天の報いですね、イエス様が現れる時に、
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賞賛と栄光と褒めをもたらすという、
希望の言葉を述べているわけです。
そして今日の結びの言葉で、先ほども言いましたが、
イエス様はこう教えていますよね。
さっきも言いました、旧正五十節の最後。
あなた方は自分自身の内に仕置けを保ち、
お互いに平和に過ごしなさい。
この試練を通って、
信仰や品性が練り上げられた人は、
平和を築くべきですよ。
いや、平和を築く人になるんですよと、
イエス様が教えているようです。
この弟子たちがですね、独善的になって他者排除に遭った、
その対局としてイエス様は、
試練を通って練られて、
仕置けを保って平和を保つ人になりなさいと、
最後教えているわけです。
そのようなイエス様の御言葉と関わるですね、
パウロの教えを最後に取り上げて終わりたいと思います。
殺さえ人の手紙の四章の六節ですね。
あなた方の言葉がいつも親切で、
塩味の効いたものであるようにしなさい。
そうすれば一人一人にどのように答えたら良いかが分かります。
この平和を保つイエス様の弟子としての具体的なヒント、
それは塩味の効いた言葉だ。
親切な言葉ですね。
そのことを考えながら、
私の弟子として歩んでいくお互いになりたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
ヨハネオハジメ弟子たちが、
独善的な考えの中で人々を裁き、
また自分たちをあなたの御心から遠ざけようとしていた。
その世の中にありましたけれども、
どうぞ私たちが同じような過ちに陥ることはありません。
また、逆に私たちが自らを小さなものと思うときに、
イエス様の御言葉、天に頂けるあなたの尊い報いを思い出し、
あなたの宮座の内を歩むことができるように導いてください。
どうぞあなたが私たちを日常の生活を通し、
他知恵の中にあっても私たちを練り上げ、
正気を保つそのような平和の支柱として私たちをお持ちください。
この願いと感謝を私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは一分ほど御言葉に応えて祈る時間を持ちましょう。