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ピリピ4章14節から17節。
それにしても、あなた方は、よく私と苦難を分け合ってくれました。
ピリピの人たち、あなた方も知っている通り、福音を伝え始めた頃、
私がマケドニアを出た時に、物をやり取りして、私の働きに関わってくれた教会は、あなた方だけで他にはありませんでした。
テサロニケにいた時でさえ、あなた方は、私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。
私は、贈り物を求めているのではありません。 私が求めているのは、
あなた方の、私が求めているのは、
あなた方の、 米的な口座に加えられていく身なのです。
以上です。 それでは今日はこのところから、
献金とは、と題して耳言葉を取り継ぎます。 皆様、おはようございます。
早いもので3月になりました。 今週末、3月11日は、東日本大震災を覚える日ですね。
震災から12年となります。 そして、地震といえば先月、
ドルコシリア大地震が起こりました。 そのための募金なども、今呼びかけられています。
募金ではありませんが、それから先週ですね、ちょっとした話題と言いますかですね、
ある信仰宗教の教祖が突然亡くなっていたということが分かりました。 その信仰宗教の教祖が突然亡くなっていたということが分かりました。
それも含めてですね、 宗教の献金ということが、昨年来、悪い意味で話題となっております。
実は、今日読んだ聖書の箇所からパウロは、 ピリピ教会から受け取った献金、金品について直接言及していきます。
なぜなら、ピリピ教会がローマの国中にいるパウロに金品を贈りましたが、 このピリピ人への手紙はですね、
その金品に対するお礼状という性質もあるからなんですね。 興味深いことに、4章の15節の
物をやり取りする、後でも見ますけれども、 物をやり取りした教会はあなた方のほかにはありませんでしたという、 この物をやり取りするという言葉には文字通りですね、
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講座を開設するという、当時のいわゆるビジネス用語が使われているわけです。 このようなところからですね、パウロはこの配慮をしながら、
やはりお金ということはセンシティブな問題なので、配慮をしながらですね、 献金について、金品のやり取りについて大切なことを今日の箇所で教えようとしているわけです。
そんなことから、3つの点を献金について学んでいきたいと思います。 まず最初、献金というのはですね、苦難の交わりという性質があります。
4章の14節、読める方はその場で読んでみましょう。 それにしても、あなた方はよく私と苦難を分け合ってくれました。
私たちがまず知る必要があること、それはですね、このピリピピチンへの手紙の大前提なんですけれども、
この手紙はですね、いわゆる学術的な、当時のローマ・ギリシャ社会の文献を分類する学術的な分野ではですね、
友情の手紙、レター・オブ・フレンドシップと分類されているということです。 先ほどですね、この手紙は献金へのお礼状という性質もあるというお話をしました。
さっきもまた申し上げましたが、 最近ですね、去年の大事件から日本では宗教カルトが問題され、中でも献金が大きな問題になっています。
しかし、その同期やカルト教団のやり口ということが問題になっているわけですが、それと違って、このピリピチンへの手紙に関して、
そして、その中ではですね、 金品のやり取りに関して大事な前提があるということです。
ピリピ教会の手紙の中に見えてくる大事な前提、それはですね、
ピリピ教会とパウロの間には、金品のやり取り以前に健全な信頼関係が存在していたということなんです。
その証拠として、この手紙が当時の友情の手紙に分類されているということが言えるわけです。
そしてまた、この4章の10節の言葉にもありますが、パウロとですね、ピリピ教会の健全な信頼関係が、この手紙の中で読み取れるわけなんですね。
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ここにも出ていますが、4章10節に、「私を案じてくれるあなた方の心が、今ついに蘇ってきたことを私は主にやって大いに喜んでいます。」と言っています。
これはですね、かつて献金していてしばらく途絶えていた、その途絶えていた金品のやり取りが、このローマの国中にいるパウロの下にピリピ教会から届いたという意味なんです。
このパウロにピリピ教会が金品を送った、今ここから便宜上献金と簡単に書くことにします。
この献金を送った理由は、パウロのことを心配して、国中のパウロのことを心配して気にかけて送ったという意味があるわけなんです。
そしてそのことをパウロは、組んでですね、それを主イエス様にあって、大いにその好意を喜んでいる、献金の背後にある彼らの気持ちを喜んでいると、ここで述べているわけなんです。
そしてこの献金には大事な意味があるとパウロは指摘しています。
それは、この献金は、ピリピ教会の人々がパウロと苦難を共有している、ここの今日の箇所にですね、苦難を分け合ってくれましたという言葉。
そういう意味があるということなんです。実はこの苦難という言葉はですね、苦難を分け合うという、分け合うという言葉はですね、
共に交わり、関わり合う、春恋の似合、春恋の似合、恋の似合というですね、恋の似合というのはですね、恋の似合というのは、恋の似合という、交わりという言葉と関連する動詞です。
春というのはいつも言う、シンクロナイズスイミングとかで言うですね、共にという言葉です。
だから共に苦難を分け合うという、そういう意味がこの言葉に込められているということなんですね。
ではこのことから私たちの日常生活に当てはめて考えてみます。 それはですね、まず私たちが日々
クリスシャンとして生きていく上で苦難を体験するならば、それはイエス様の苦しみとパウロをはじめ、他のクリスシャンとの苦しみを共有している、そのように考えることができるわけです。
パウロの手紙の中にもですね、あなた方のあった試練は人の知らないようなものではありませんという、
苦難を共有しているんだ、そういう思いです。 そしてまた、
私たちが誰かの苦しみに心を痛めるのであれば、それはその人と苦しみを共有している、共に苦しみにある交わりを共有している、
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そのように考えられるわけですね。 そしてその上で、
献金や募金には、 他の人の苦しみを共有するという意味がある、そのように理解しましょう。
トルコ、オシリア大地震やウクライナ募金というものが今募られていますが、その私たちが献金する時にですね、そこにはいけない、またその人たちの思いをもちろん100%
思いっぱかることはできないけれども、その苦しみを共有するという意味で募金を送る、そういう意味があると覚えておきましょう。
2番目、 献金と福音の交わりという意味が献金にはあるということです。
4章の15、16節を読んでいます。 ピリピの人たち、あなた方も知っている通り、
福音を伝え始めた頃、私がマケドニアを出た時に、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会は、あなた方だけで他にはありませんでした。
テサロニケにいた時でさえ、あなた方は私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。
ピリピ4の15、16ですね。 実はパウルはこの時、人の働きの16章から始まる第二次伝道旅行のことを思い出しています。
特にその時に訪れたこのピリピ教会ですね。 ヨーロッパ最初の伝道、このピリピでの伝道から始まって、この足を伸ばした
それ以降のことを思い出して語っているわけなんです。 何が起こったか、この図にありますように
パウロはここでピリピをスタートしますね。 そしてピリピた時いつも言ってますが、紫商人リディアの家で彼はですね、その滞在のいろんな日を賄ってもらいました。
そしてその後、ベレア、そしてちょっとこの地図にはありませんけれども、この同じありましたね、マケドニア州、今のギリシャのベレアに彼は足を伸ばして、そして手紙も残っているテサロニケに伝道に来ました。
この時もですね、ピリピ教会が一度ならず二回もですね、この献金を送ってくれたとパウロは言っています。
そしてその後、実はパウロは足を伸ばしてギリシャのアテネやコリント、手紙が残っているコリントでこの選挙を続けていく。
それが第2次第3次年度旅行で続いていくということです。 実はこの時にですね
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ピリピ教会だけがパウロと文字通り献金をするという契約を結んで、金品、献金を送ってですね、パウロの選挙旅行を支援したという事実があるわけなんです。
学者が言うには、文字通り現在の契約関係や約間をちゃんと結んだようだと言われています。
そしてそこがたった一つ、ピリピの教会だけだったとパウロは言っているわけですね。
知っている方は第一コリントの手紙なんか読むとわかりますが、コリント教会ではパウロは使徒の権威を認められずですね、
詐欺すまれていたということもあって、献金どころかそのような扱いを受けていたわけです。
そんな中でピリピ教会が熱心にパウロに献金をしてくれたことがよほど嬉しかった。
また本当に深息を感謝していたということがですね、今日のこの箇所からわかるわけです。
ローマの国中からわざわざ当時のことを振り返って感謝と喜びを表明しているわけです。
しかしその上でとても大事なことがあるわけです。
それはイエス様と福音との関わりがここにあったということなんです。
つまり献金を送ったピリピ教会とそれを受け取ったパウロ、この2者の関係がありましたが、
その中にですね、なくてはならない、間を結ぶ存在としてのイエス様、そして福音というものがあったわけです。
この福音がこの両者の乗り付けをしたとさえ言われているわけなんですね。
実はそのことをパウロはこの4章の15、16節、今日の見た箇所でこう伝えていますね。
福音を伝え始めた頃、私がマケドニオンを出た時に、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなた方だけです。
そして1章の5節、ピリピの1章5節でもですね、あなた方が最初の日から今日まで福音を伝えることに共に携わってきたことを感謝していますと伝えています。
この両方の箇所にですね、福音という言葉、そして献金は福音に携わることだ、福音選挙に携わることだということがいどこく現れています。
ちなみに1章5節の携わるにはですね、交わる、コイノニアという言葉が使われているわけなんですね。
さあ、そこからまた私たちに関わることを考えてみましょう。 実は私たちがする献金には福音の交わりという意味があるんですね。
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つまり、福音、キリストの救いの良い知らせが伝えられ、福音が実行されたり実現されるために献金が用いられているということなんです。
もう少し具体的に言いますけど、例えばこの礼拝ではですね、神様の救いが歌われ、キリストの福音が語られています。
このように私たちはこの場所と時間を礼拝の中で共有していますが、その中にはですね、まさに福音が存在し、そしてイエス様が臨在しておられるわけです。
今日も行われますが、聖三式あるいはバブテスマ式にはその福音が目に見える形で表されているわけですね。
また私たちの教会ではですね、元哲学外来カフェを毎月1回行っています。
これもですね、いつも言ってますが広い意味で福音の働きです。そこに集う方々にですね、別にこの聖書の言葉を伝えなくても、このイエス様の広い意味での救いを実行するという意味でですね、
解決できなくても解消する場、いろんな意味があって、この元哲学外来カフェというものも私たちの教会で開催しているわけです。
またさらにですね、詳しく言えばですね、これらが取り行われている礼拝堂の電気やガスや水道などの消費用、それはですね、福音のために用いられていると考えることができるわけです。
私たちが捧げる献金がそのような形で用いられていると知ることが、考えることができるわけです。
そして例えば教会の外でですね、もちろん私たちの教会や私たちの誰かがですね、
宣教師、海外で働く宣教師を支援する献金、それは私たちがそこの現地に行けなくても、その人に献金をすることによって、その人の福音宣教の交わりに、働きに携わるということになるわけです。
2番目、福音とはですね、この、失礼しました、2番目、献金にはですね、宣教と福音の交わりということがある。
イエス様と福音がその鍵となるということを覚えておいてください。
最後、献金の理士、献金の理士というちょっと変わったことを見ていきましょう。
パウロは今日の箇所の最後の部分4章17節でこのように述べています。
読める方、4の17、最初のところを読んでみましょう。3、私は贈り物を求めているのではありません。
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私が求めているのは、あなた方の霊的な口座に加えられていく身なのです、と言っています。
大事なことはですね、まずパウロはお金の繊細さということを知っていますから、11節に続いてここでも、私は献金を要求しているのではない。
乏しいからこういうのではないと前も言っていったとおり、このように繰り返し大事なことを伝えています。
さらにですね、大変興味深い表現で大切なことを伝えています。
この赤い字で今日は書いてありますけれども、後半の部分、パウロが求めているものは献金ではなくて、
あなた方の霊的な口座に加えられていく身であるというのです。 これは新海約聖書2017年版の訳ですけれども、その前の古い新海約聖書の訳ではこう書いたんですね。
赤い字で表記しましたけど、あなた方の収支を償わせてあまりある霊的祝福なのです。
ここの部分もですね、実は先ほどのですね、口座を解説すると同じような言葉、
まあちょっと余談ですけども、ロゴスという言葉という言葉をですね、用いた専門用語なんですけれども、ここでもですね、
この利子が加えられていく、単刀直流にパウロは述べています。 実はその原文の意味を大胆に誤解を恐れず訳しているのが最新のですね、
カトリックなんかも使っている新教会約聖書です。 こう訳しています。一番最後の部分赤い字で書いてありますが、私が求めているのはむしろ、
あなた方の長坊を黒字にする実りを求めているのです。
長坊を黒字にする実りを求めているのです。 これ余談ですけども、ここにあるイメージはですね、
パウロとピリピ教会が献金の協定を結んだ時に口座を開設したというイメージです。
そしてその口座にピリピ教会が献金を振り込むと。
当時、ATMとかなかったですけども、そういうイメージです。
そしてピリピ教会の人はその口座に振り込んで、パウロが多分それを下ろして使うんでしょうか。
でもこのピリピ教会が口座に入れた献金にはですね、
利子がついて帰ってくる、そういうニュアンスでこのパウロが語っているところが大変興味深いわけなんですね。
まあさっき冒頭申し上げましたが、このカルトのようにですね、献金すれば願っているご利益が与えられる、
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すべての問題が解決するということでは当然ありません。 そういうことで
献金を釣り上げたりですね、募ってはいけないわけなんです。
パウロがここで言いたいことは、実は
献金にはですね、神様にあって私たちの思いを超えた報いが与えられるということを原則的に述べているわけです。
それが何かということを実は具体的に申し上げられない部分もあるんですね。
でも先ほど言いましたが、それはご利益をちらつかせて人々を騙すことではないということは、よくわかっておいてください。
特に一つ言えることはですね、その利子。 それは
すべてのこの完成の時、パウロは
この手紙の3章で述べていますね。 復活のイエス様の姿に預かる時。
その時に 与えられる私たちへの報いであると
パウロは考えているのが妥当だということなんですね。 実はまあそのことと関連してパウロは3章の最後でこのように述べています。
20節、21節。 読める方は読んでみましょう。
しかし私たちの国籍は天にあります。 そこから主イエスキリストが救い主として来られるのを私たちは待ち望んでいます。
キリストは万物をご自分に従わせることさえできる道からによって、私たちの、失礼しました。
癒やしい体をご自分の身姿に変えてくださるのです。 全部書いてありますので申し訳ありません。
このようにですね、私たちの国籍は天にありますよ。 そこを目指して今復活の姿に預かれることを目指して走っているとパウロは言っていましたよね。
そしてやがてそこからキリストが 帰ってこられて私たちの癒やしい体をご自身の体に変えてくださる。
いろんな説がありますが一説によれば私たちはイエス様とともに統治するものになる。 その時の報いとしてですね私たちが捧げたものを増やしていただけるというそういう
信仰があるようです。 何やともあれですね
4章の8節で学んだ通り私たちはこの良きものに目を止めなさい心に向けなさいって そこで言われていましたが今与えられているもの
それを神様からのギフトとして喜び楽しむことはできるんです。 すべて捨ててやすって人になれということではないわけですね。
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その上で私たちがこの募金や献金をする上で心に留めるべき大事なことをこの今日の 箇所でパウルは教えているということなんですね。
繰り返しになりますが私たちは今与えられているものを喜び楽しみつつ そしてと同時に他の人々の痛みを共有し
福音の交わりに 加わるためにですね
お金についてバランスよく考えられるようになる。 実はそれがキリスト社の成熟でもあると言えるわけです。
そのような思いでこの地の旅路を歩み お金というものもですね
神にある交わりという考えから 献金ということを考えていけたらと思いました。
最後にイエス様の言葉を引用して終わりたいと思います。
マタイの6章の20節ですね。 マタイ6の20読める方読んでみましょう。
自分のために天に宝を蓄えなさい そこでそこでは虫やサビで必物になることなく
盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。 マタイ6章20節をお祈りしましょう。
天の神様皆を賛美いたします。 パウロは今日の箇所から
お金献金について教えています。 それは私たちの生活にとって大切なものであり、また繊細なものでございます。
どうぞ私たちが本当に神様の身胸を知りながら また健全な交わり共有ということを思い馳せながら
私たちが献金についてお金について持ち物について考えていくことができるように導いてください。
あなたが与えてくださった創造の良きものを 私たちが喜び楽しみながらまた必要に応じて
あなたの働きにまた 弱い方々の痛みを覚えている方々のためにそれらのものを用いていくことができますように
これらの思いと願いを私たちの救い主シュイエス様のお名前によってお祈りします アーメン
それでは1分ほどそれぞれお祈りください