00:07
マルコノフペイン書1章40節から45節。
さて、サラートに侵された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。
お心一つで私を清くすることが御敵になります。
イエスは深く憐れみ、手を伸ばして彼に触り、「私の心だ。清くなれ。」と言われた。
するとすぐにサラートが消えて、その人は清くなった。
イエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去られた。
その時彼にこう言われた。
誰にも何も話さないように気をつけなさい。
ただ言って、自分を祭祀に見せなさい。
そして人々への証のために、
モーセが命じたものを持って、あなたの清めの捧げ物をしなさい。
ところが彼は出て行ってふれまわり、この出来事を言い広めた。
そのためイエスはもはや表立って町に入ることができず、町の外の寂しいところにおられた。
しかし人々はいたるところからイエスのもとにやってきた。
以上です。
今日はこのところから、イエス様の御心と題して2言葉を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
いわゆる大型連休、今日は最終日ですね。
明日から仕事ということで、いろんな思いがあるかもしれません。
ただこの間の金曜日ですかね、野田半島で震度6の大きな地震がありました。
岩鉄にかかっている方もちょっと石川にいらっしゃったので連絡を取りましたら、
その方のところは震度4ぐらいで大丈夫だとのことでしたけれども、
亡くなら方もおられていますし、今日も天気悪いので被災地のことも覚えて祈っていければと思います。
そんな中ですけれども、今日ちょっと雨降りですが共に礼拝守れることを感謝しています。
今日の歌詞はイエス様の3つ目の奇跡物語です。
最初に少し教養的なことで聖書の翻訳について触れますけど、課題があるんですね。
今日出てきたツァーナトというのですけれども、それは何らかの皮膚の異常を持った、伴った疾患を広く指す言葉なんですね。
旧約聖書に最初に出てくるヘブライ語のそのままの音訳です。
以前は雷病と訳されていたんです。実はご存知の方は多いかと思いますが、その言葉や裁判にもいろいろ一般的になってますけれども、
これは差別や偏見を助長するという理由でその翻訳なかなか問題されていたんですね。
03:01
それだけではなくて今申し上げたように、このツァーナトという言葉は広いこの皮膚疾患、いろんなモットーで広く言うと建物のカビとかですね、
そういう言葉で表す広い意味の言葉ということもあって、一番新しい新解約聖書ではヘブライ語の音訳としてサラートという言葉になっている。
そのことを少し覚えておいてください。そして今日の話をしばらく見ていきます。神様イエス様の御心という観点で。
その中でですね、以前も触れましたが、なぜ今私たちに同じような癒しの奇跡が起こらないのかということも少し触れていきます。
そのことも触れながらイエス様の御心ということに関わる3つの点を見ていきたいと思います。
最初はイエス様の御心、つまり意思ですね。それ男の清めだった。
ここを読んでみますね。さてサラートに侵された人がイエスの元に来て、跪いて懇願した。
御心一つで私を清くすることがお出来になります。イエスは深く荒れみ、手を伸ばして彼に触り、ここから読んでみましょう。
私の心だ。清くなれと言われた。するとすぐにサラートが消えて、その人は清くなった。
今日の冒頭の部分ですね。 先ほど申し上げましたが、今日のことは3つ目の癒しの物語です。
カイドウでの悪霊追い出し、そしてペテロのシュート目の癒し、熱が下がる。そしてこれが3番目ですが、今日のところにはこの2つにない特徴が一つ見られます。
気がつきましたか? それはですね、この癒された男とイエス様との言葉のやり取り、
対話が、心が通じる対話と言っていいかもわかりません。それが存在しています。 先ほどの2つにいなかったイエス様と癒された男の人格的な関わりがここで見て取れるわけですね。
この今取り上げている見心という言葉を中心に取り上げていますが、 ここにはイエス様の見心に関するやり取りがあります。
男が、「お心一つで。」とイエス様に言いました。 イエス様は、「私の心だ。清くなる。」と答えています。
ちなみに新漢訳聖書2014番、17年版の脚注にはですね、40節の脚注にですね、
もしお望みくださるならと書いてあります。 イエス様の言葉も別訳で、「私は望む。」となっています。
セロというギリシャ語、英語というところのですね、
will という言葉ですね。ある英語の訳の聖書では、 この男の願いがですね、
06:05
If you are willing あなたが望むならと訳されていて、 そしてイエス様はですね、I'm willingって言って返しています。
そこのイエス様の言葉にはですね、明確な意思を持ってそのことを願って、 そしてそれを必ず実現させるという、
明確な意思を持って願っており、それを必ず実現させるという意味で、 私の心だ。
I am willing ということです。 実は前後しますが、ここに出てますけれども、この言葉はクリスチャンがよく、
神の御心という口にしますけれども、 その神の御心という言葉の元となった、このセロというかね、
この願う、意思を持つ、 そこに神様の意思という意味が入っているということを覚えておいてください。
そこの中にですね、私の心だ、私の願っていることだ、 必ずそれを実行するというイエス様の意思が入っています。
実はここの中を見ていくとわかりますけれども、 そこにはですね、神の子を救い主、イエスキリストの福音と最初の表題がありましたが、
その神の御子、救い主イエス様の天位や主見ということが表されているわけなんです。
前後しますけれども、この男がですね、 お心一つで、ということの中にはですね、皆さんもなんとなく知っているかもしれません。
このイエス様が願っている 祈りに共通するんですけれども、彼の祈りの中には自分の願うようにではなく、
イエス様の願うようになりますようにという、 あなたが望むならという、神の御心を求める、そういう気持ちがあったのが見て取れます。
そしてそれに応えてイエス様は、いや、それは私の願いだ。 私は意思を持ってあなたを癒す、清めるという、そのようなやりとりがある、
ということをぜひ覚えておいてください。 実はですね、
このツアラトに侵された人に触れるということは、 後でもちょっと触れますが、旧約聖書の立法では禁止されていました。
それは宗教的な汚れということとか、衛生的な面もあったと言われています。 とにもかくにも、その男に触れてはならないという立法があったんですが、
イエス様はその立法を破ってですね、その男に触れた。 しかも触れただけじゃなくて、その自分が汚れるのではなくて、その男を清くした
09:01
ということなんです。 実はそこにはですね、
神の御子救い主であるイエス様の意思は、御心はこの旧約の立法に勝るという、 そういうことが見て取れるわけです。
そしてそこにはですね、まさに意思が立法に勝り、 そしてそれによってその男を立法にはできない、清めるということまでなさった、このイエス様の
権威。 アクレオイダシの時にも、周りの人が
言葉に、教えにある権威と言ってましたけども、イエス様の権威、 特に立法に勝るイエス様の主権や権威ということが見て取れる。
そのことをまず覚えておいてください。イエス様の御心、 男を清めるというイエス様の意思。
それは立法に勝る。2番目、それに反してですね、 人間の意思、神の意思に従えないことがあるというですね、何が起こったか。
そしてその清められた後、イエスは彼を厳しく戒めてすぐに立ち去られた。 その時、彼にこう言われた。
誰にも何も話さないように気をつけなさい。 ただ言って、自分を祭祀に見せなさい。そして人々への証のために、
孟瀬が命じたものを持って、あなたの清めの捧げ物をしなさい。 最後だけ読める人、一緒に読んでみましょうか。3、はい。
ところが、彼は出て行って振れ回り、この出来事を言い広め始めた。 一見、これ良いことに見えるかもしれませんね。
話変わりますけれども、明日からコロナが語類になる。 そしてコロナが流行って、緊急事態宣言などが出された時に、
ペットを飼うことが流行りましたよね。
よく親子のお子さんがですね、ペットショップや最近は何か見てですね、ワンちゃん飼いたい。
ダメだわ、大変だね、お散歩だって親が言うんですけど、絶対散歩に行くから、 世話もするから、餌もあげるからと言って、じゃあそうしてねと言って飼いますけれども、
実際飼ってみると、アサギの散歩を飼った人なら分かりますけれども、 なかなか大変なことである。
それとも子供は そんなことを忘れてですね、いつの間にかお母さんとかお父さんが散歩行って、
なぜかお母さんに一番ワンコがなずく。そういうことが起こるわけですね。
ここで何を言いたいかと言いますと、実は今日の話に戻りますけれども、イエス様はその御心によって、
この男を清めましたが、残念ながらこの人は神の御心、イエス様の意思に従わなかったということがここに出てくるわけですね。
12:12
先週ですか、前学んだように、メシアの秘密、
復活と十字架を伴わないイエス様に関する評判は誤解を生むから、 だから時が来るまでイエス様は黙っているようにと、
癒された人たちに、あるいは周囲の人に面押ししたわけです。 しかしこの男の人は、
理由は何であれ、言い広めてしまった。 ここはですね、イエス様の御心にですね、
自分の願いは叶えてもらっても、イエス様の意思に従わない。 願い通りにワンちゃん飼ってもらっても、
まあ親の言う通り約束通り散歩に行かない子供のようにですね、 そういう
願ったことはしてもらうけれども、 ある程に言えば神様の御心には従えないという
人の問題が読み取れるわけです。 浅い信仰と言えるかもしれません。
いつも言ってますが、キリスト教信仰はゴリアック信仰ではありませんね。 ゴリアック宗教ではありませんね。
もちろん私たち、皆さんもそうかもしれません。 私もそうですが、これまで苦しい時に助けを求めてきました。
同時に私たちは、それと同時にですね、 神様の御心を受け入れる、そういう覚悟とか準備も必要だ
ということです。 実はこのことが
癒しがなぜ この聖書の時代のように頻繁に起こらないのか、祈りが聞かれないことがあるのか
ということにつながってくるんですね。 残念ながらと言いましょうかね。
祈っても 治らない病があったりする。
なかなか解決しない問題が 祈ってもあるかもしれません。
しかしその時こそですね 月生まれのイエス様のように、神様は私の願うようにではなく、あなたの願うようになりますよ。
あるいはそれを受け入れることができますようにという 祈りや覚悟も必要だということです。
そして信仰が深められていくということがそこに出てくるわけですね。
今見せませんでしたけどもね、こういう 神様は私の願うようではなく、あなたの願うようになりますように
と、この神の御心を受け入れ、それを自分も実行できる祈りや準備も私たちに必要だということを覚えておきましょう。
最後の点ですね。 ちょっとずれてしまいましたが、イエス様の御心の2番目、最初は清めるということでしたけれども
15:06
交わりや社会的な関わりの回復ということがあります。 イエス様はこの清められた男に言いました。
黙っていなさい、ただ言って、自分を祭祀に見せなさい。そして人々への証のために、
孟瀬が命じたものを持って、あなたの清めの捧げ物をしなさい。 ここにはちょっといろんな深いことが入っているんですけれども、
まず、今日の癒しの箇所にはやっぱりこれまでにない 清さという問題が初めて出てきます。4回ですね、清いという言葉が短い6節の間に出てくる。
すごい大事なテーマなんですね。 どういうことか、先ほどにも言いますけれども、この立法には宗教的な汚れとか、
あるいは感染予防の観点から、このサーラトにかかった人に関してこういう
教えというか見言葉があったんですね。 旧約聖書レビキの13章の45から46節
読みますね。感度があるサーラトに侵された者は、自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、
口しげを覆って、汚れている、汚れていると叫ぶ。 その感度が彼にある間、その人は汚れたままである。
彼は汚れているので一人で住む。 宿泳の外が彼の住まいとなる。
先ほども言いましたが、当時の 衛生面の理由とか、宗教的な理由があって、こういう厳しい命令があったんです。
例えば、こういう
洋装をですね、衣服を引き裂いたり、男性ならば髪と口、ひげをですね伸ばして、声に出すまでする。
おそらくそれはですね、見えないですよね。それで見えないけれども、それを人々に私はこういうものだと言って、他の人がその人と接触して
病がうつったりとか、まあ問題がどうあるにせよ、宗教的な汚れがうつることを避けるためにこのようにさせたわけです。
そして当然ですね、いわゆる
かつてのコロナのようにですね、隔離ですよね。 町の外で一人で住まなきゃいけなくなったわけです。
まあ 最近のですね、コロナの状況からなんとなくこの状況が察することができたり、その孤独や
痛みということを計り知ることができるかもしれません。 しかしイエスさんはですね、この男の
18:08
中にある 孤独や絶望というものをですね
あなたの身心なら極めてくれという言葉に見て取ったようですね。 そして今日の箇所ではまた初めてですね
イエス様の感情を表す言葉が出てきます。 この11章41節、このスライドの上にありますが、イエスは深く哀れみという
イエス様の心がですね、哀れみに満たされたという感情がですね 初めて出てくるわけです。そしてその心が動かされ
まあ 弱っている人、差別受けている人に対しての哀れみの思いですね
そしてそれですね、彼はそれだけじゃなくて 男に触れたという
実はそのことにも意味があるんですね。 それは哀れみというのはその人、外からは見えません。
でもこの立法化してまで触るという、誰もその人を触りたがらなかった人に触るという行為を持って その男の一人ですね
哀れみが伝わった そういう行動なんですね
彼はおそらく深く感動したに違いありません。 そして自分が求めたことが無駄にならなかったと確信したに違いないんですね
この触れるということと哀れみ。 よく手当てという言葉がありますね。
職心などと言われます。 3週間ぐらい前ですか、私久しぶりにまたお腹の調子が悪くなってですね
かかりつけの待ち医者のところに行ったんですね。 大腸内指腸検査なんか行ってくれた先生です。
でその先生のところに行ったらですね、診察台の上に横になってください。 お腹まくってください。
本当にですね、毛袋もつけずに私のお腹あちこちですね、触ったりさせたり押すんですね。 どうですか?
そういう職心してください。 余談ですけど、ツイカーマンヘルニアで腰が痛くなった時にですね、整形医科行ったんですけど
その先生はビニール手袋をしてですね、手袋をしてこう触った。 別にいいんですけども、でもその内科の先生は素手でですね、私のお腹を触ってくださった。
診断してくださった。 よくこの中で燃え尽きた看護師さんなどですね、
NHKがかつて
番組に取り上げたことがあって見てたんですね。 そこで本当に一生懸命やっている20代の看護師さんが辞めていった。主役的な人は辞めたんですけども、
21:00
彼女が言ったいろんな辛いことの中の一つはですね、 患者さんに触れてあげることができない。
それが本当に私のとしては辛かったです。
こうやって医療でもそうですが、触れるということでこの伝わる哀れみとかですね、 そういうものがあるということをわかるかと思います。
実はイエス様はまずこの彼に触れることによって、手を置くことによって、 彼が社会的に孤立していましたけれども、その彼との関わりを
まずイエス様が持ち始めくださったわけですね。 そしてこのただイエス様との関わりが回復から始まっただけじゃなくて、そこからさらに先に行って
その男の人がですね、 社会的に復帰できるように
元いた町に戻り家族に戻れるようにイエス様はそこまでその配慮して、そういうこまで身心が貫き通されていったということなんです。
実はこの44節のですね、モーセの立法にあるように清めの証の捧げ物をしなさいという、そういう意味なんです。
先ほど見たレビキューを読むとですね、癒された人は妻子のもとに行って、妻子が癒されたって判断して、そして既定の捧げ物をして、ようやくですね社会的に公に
この人は清められて、変な話、触っても戻っても大丈夫ですというお墨付きを当時得たんですね。
ですからそのことをイエス様は意図して、彼が元いたコミュニティや家族に戻れるように、味わりが回復できるように、そこまでイエス様の意思が貫かれていた。
そこにイエス様の哀れみがあったということが見て取れるわけです。 まあ今説明したことですね。
妻子にこのような診断をされることによって、社会的な復帰ができた。
このようにですねイエス様は、この私たちが苦しみの中から注ぎ出すイエス様の御心を求め、癒しや回復を求める祈りを聞いてくださる。
それだけじゃなくて、心を深く動かしてくださるわけです。 時に応じて目に見えませんが、私たちに触れ、
そして私たちを神様との交際の中に、あるいは必要な人間的な交際の中に招いて、私たちを回復してくださる。
そのようなイエス様の御心というのは深くて広いものがある。 哀れみに満ちているということを覚えておきましょう。
このイエス様神様の御心に感謝してですね、そしてさらにその哀れみを受けるだけじゃなくて、このイエス様の御心に道を歩んでいくお互いであり、教会でありたいと思います。
24:14
最後にそのようなこの男や私たちの祈りの通ずるですね、四辺の言葉を
引用して終わりましょう。ちょっと難しいかもしれませんが、2つ読んでみましょうか。147編3節。
主は心の打ち砕かれた者を癒し、彼らの傷を包まれる。 149の4、3、主は御自分の民を愛し、貧しい者たちを救いをもって装われる。
この貧しい者というのはですね、心の打ち砕かれた者というのは、このサーラとの男の人のように
阻害されている人、そういう意味もあるそうですね。 そのような人たち、また弱った私たちを、哀れむ神様を覚えて
祈っていきましょう。お祈りします。 天の神様皆を賛美いたします。
イエス様は救い主として明確な意思を持って 立法に勝る方としてこの地に現れてくださいました。
そして私たちを清め救い、導いてくださる方であることを感謝いたします。 どうぞ私たちが日々の重荷を背負う中で
あなたに助けと救いを求めながら、またあなたの心の道を歩んでいく そのことができますようどうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主シュイエス様の名前によって祈ります。 アーメン
それではしばらく1分ほど 御子様に応えて祈る時間を持ちましょう。