2022-02-27 25:40

#95/ 22/2/27 福音に生きる

ガラテヤ1:6-9からの礼拝説教。2022年2月27日録音。他のパウロの手紙と違い、この手紙にはガラテヤの信徒に対する感謝や賞賛の言葉が冒頭にありません。短い定型のあいさつの後に、突然「私は驚いています」と始まるのです。パウロの危機感が伝わってきます。厳しい口調の中にも、ガラテヤの教会の人々に対する彼の心からの気遣いと愛に基づく熱意が込められているのです。 その中で福音に生きることについて 3 つの点から学びましょう。

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それでは、お読みします。 ザラテア人への手紙 1章6節から9節
私は驚いています。あなた方が、キリストの恵みによって、自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、他の福音に移っていくことに。
他の福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。
あなた方を動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。
しかし、私たちであれ、天の御使いであれ、もし私たちが、あなた方に述べ伝えた福音に反することを、福音として述べ伝えるなら、そのようなものは呪われるべきです。
私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もし誰かが、あなた方が受けた福音に反する福音を、あなた方に述べ伝えているなら、そのようなものは呪われるべきです。
以上です。
今日はこのところから、福音に生きると題して、御言葉を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。先週、衝撃的な出来事が起こりましたね。ロシア軍がウクライナに本格的に侵攻するという。
日本経済新聞はロシアの蛮行と言って、ひどく批判しておりますけれども、このように、ロシアはですね、世の中を騒がせている。
まさに、KF首都にも侵攻していますが、ウクライナの人々を騒がせている。
実はこの今日の御言葉の、他の福音によって動揺させているという、あなた方を動揺させているという言葉は、この騒乱、心をかき乱す、戦争や暴動によってかき乱すということが元の言葉です。
そのような私たちの心をかき乱すことが多い中で、ガラテア人に倣って私たちも福音に生きる、そのように神様に選ばれたものです。
この手紙、ガラテア人の手紙の特徴はですね、他のパウロの手紙と違った冒頭なのです。皆さん気づきましたか?
それまでの教会はですね、だいたいそこの兄弟姉妹に対する感謝や喜びが書いてありますが、これにはですね、門切り方の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いていますと書き出しています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いていますと書き出しています。
03:09
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いていますと書き出しています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いていますと書き出しています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
06:11
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
09:03
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
12:06
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
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この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
この手紙、ガラテア人の手紙の挨拶の後、それものがなくて、いきなり私は驚いています。
少し難しいことを説明します。
少し難しい専門的な言い方をします。
実は、私たちが伝えた言葉には、与えるという言葉が隠されているというか、響いているんですね。
与えるというのは、ギリシャ語でパラディドマイという言葉なんです。
それはイエス様が自分を罪の贖いのために引き渡す時に使われた、生産式でも修は渡される夜という、
18:08
この渡すという言葉は、ギリシャ語のパラディドマイという、
ちょっと皆さん、どこか頭の片隅に覚えておいてください。
とても大事な言葉なんですね。
それはまた、パオロが今伝えているように、福音を相手に渡すという言葉でも、この言葉には使われるんですね。
実はその渡された福音を、今度はさっきガルティア人が受け取ったという、受け取るという言葉。
実はこれはですね、英語のテイクで、ギリシャ語のランバノーという言葉なんですね。
これはヨハネの1章12節でよく有名な、
しかしこの方を受け入れた人々、その名を信じた人々は神のことされる特権を与えたという言葉にある、
ランバノー、受け取るという言葉なんです。
実はこのパラディドマイ、引き渡して、与えて、そしてその与えられたものを受け取る、ランバノー、
実はここにですね、大事な信仰や福音の継承という、そういうニュアンスが込められているんですね。
先週、当時のキリスト教会からも、信仰の提携文があったって言ったじゃないですか。
神はキリストの死からをよみがえらせた。
キリストは罪の上がらない度に自分を与えたっていう。
それが2000年今まで続いてきたって話しましたよね。
同じように、この私たちが信じている福音はイエス様からパウロに引き渡されて、
そしてパウロがガラティア人を始めとする当時の人々に与えて、
それをガラティア人を始めとする人々が受け取って、
そして受け取って彼らがそのまま次の世代に伝えてという。
与えて、受け取る、与えて、受け取るという、そういう伝承の継承、
そのリレーが込められている。
そしてそれが今に至っているという大切な出来事なんですね。
最近やんないかもしれませんが、運動会で卵スプーンリレーとかってあるでしょ。
若い世代は首ひねってますけどね。
スプーンの上に生卵乗せて、それを走って持って行って、
次の奏者にスプーンからスプーンで渡して、
生卵をまた持って走って次に渡すというね。
大事なものを生卵をスプーンで引き渡すように、
大事な福音を受け取って、それを次に継承するという、
そのような福音のリレーがここに込められているわけなんです。
その大切なリレーを壊す、
卵を打ち落とすような不届き者がいるわけです。
21:00
そういう二世教しむこそ神に呪われる、
パワールは強く求談しているわけなんですね。
そして私たちにとっての幸いや特権それは、
この大切な2000年にわたる福音のリレーに
私たちが呼び出されて召されている、
その福音の伝承の中に私たちが組み込まれたということなんです。
皆さんはね、たまたまキリスト教の家に生まれたからクリスチャンになったとか、
求めて教会に来て今信仰を持ったと思っているかもしれません。
でもそれは実は2000年にわたる信仰の継承の中に入れてもらえたという、
そういう神の特別な特権選びがあるということを覚えておいてください。
それだからこそですね、私たちは福音の本質、本物の福音を理解し、
自分のものとして福音を生きていく必要があるわけですね。
福音とは何かといえば、前にも示しました。
パウロによればそれはイエス様の十字架と復活であり、
そしてイエス様の地上の生涯そのものであり、
福音とはイエスキリストそのものである。
それがパウロの考えです。
福音とはイエスキリストである。
そしてその中で実は聖書を読むとは福音、つまり朗報を聞くということなのだということなんです。
聖書を読んでなぜ喜びが沸き上がるのか、
聖書を読むことがなぜ喜びになるのか、
それはそこに福音があるからなんですね。
聖書を通して私たちはイエス様から福音の言葉を聞くし、
福音そのものであるイエス様に聖書を通して出会うことができるわけですね。
すると私たちも福音に生かされて、
そしてそのイエス様の福音を体現するものとして日々を生かされるものに変えられていくということになるわけです。
そのように私たちは福音の伝承者として生かされていくわけなんですね。
そのような素晴らしい福音から目を逸らさずですね、
心が揺さぶられるときに私たちは道を踏み外すことなく、
御言葉、祈りによって福音であるイエス様にしっかり結びつき、
御言葉、イエス様につめて本当の福音は何かを知り続けて、
福音を生きるお互いでありたいと思います。
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最後にパウロがとても大事にしている信仰の姿勢をガラテアビトの手紙から読んで終わりにしましょう。
2章の19節から20節ですね。
ちょっと長いですけど読んでみましょう。
私はキリストと共に十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
今私が肉において生きている命は、
私を愛し、私のために御自分を与えてくださった神の御子に対する信仰によるのです。
御祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
ガラテア教会の人々が信仰を惑わされ、
偽りの福音に足を踏み込んでいく人々がありました。
そのような危険に対してパウロは激しく、しかし愛を持って御言葉を語りました。
どうぞ私たちも御言葉を通し、
御言葉ごとの福音、イエス様御自身に学び、目を向け、日々あなたの福音に生かされていくお互いでありますように。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
それでは一分ほどそれぞれ御言葉に応答し、キリストに応えて祈る時間を持ちましょう。
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