2022-02-20 26:48

#94/ 22/2/20 新たな時代を生きる

ガラテヤ1:1-5からの礼拝説教。2022年2月20日録音。今回からガラテヤ人への手紙に入ります。コロナ禍において、新しい時代の生き方が求められています。その上で必要な点を今日の聖書箇所から学びます。

 この手紙の宛先は、ローマ帝国内のガラテヤ州(現在のトルコ共和国内 で、黒海から地中海に渡る南北に長い地域 )にあった複数の地域の教会です。ちなみに先週まで見ていたエペソやコロサイはアジア州、またエルサレムを含む、イエス様が生まれ活動したのはユダヤ州でした。使徒の働きによるとパウロは 3 回伝道旅行を行っていますが、そのうちの最初 の訪問時の宣教でガラテヤ州の南部の複数の街で教会が誕生したようです。…

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それでは、お読みします。
ガラティア人への手紙 1章1節から5節
人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストとキリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって人とされたパウロと、私と共にいるすべての兄弟達からガラティアの諸教会へ、
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなた方にありますように、
キリストは今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えて下さいました。
私たちの父である神の御心に従ったのです。この神に栄光がよよ限りなくありますように、アーメン。
以上です。
今日はこのところから、新たな時代を生きる、新たな時代を生きると題して、御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
今日は雨降りの朝となりましたけれども、このように2月の20日、共に礼拝できる幸いを感謝します。
今日からガラティア人の手紙に入ります。
ガラティアというところ、また手紙の早きを少しく説明しますが、少し見にくいかもしれませんが、
この資料ですね、前の地図を示しましたけれども、この手紙の宛先のガラティアはですね、ローマ帝国内のガラティア州、今のトルコですね、
この国会から地中海に至る南北に長いガラティア州にあった諸教会へ充てた手紙です。
先週まで見ていたエピソードはですね、ここに今示しましたけど、
ここですね、アジア地区ですね、アジア州、コロサイがあります、エピソードがあります。
アジア州でした。ローマ帝国、失礼しました。
ローマ帝国が属州としています。
ちなみに、イエス様が活躍したエルサレムなどが含まれている、イエス様が活躍した地域はちょっと下になりますけれども、
ここですね、ユダヤ州でした。
そのガラティア州にあった教会ですけれども、パオロが3回電動旅行しているんですね。
その3回とも訪れていますが、第一次電動旅行の時にですね、この訪れた街が主な先です。
ちょっとこれだと見にくいかな。
このアンテオケ、アンテオケっていうのがあるんですけどね、ここにあるアンテオケじゃない、こっちにある。
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ピシデアのアンテオケ、それからリステラ、イコンリウム、デレベ。
つまりここの3つの地域を第一次電動旅行で訪れて選挙をした時に、教会がその後それをきっかけに生まれたようです。
使徒の働き13章、14章、時間があったように見てください。
そして第二次電動旅行ですね、これがそうなんですけれども、第二次電動旅行、陸路を通ってパオロはそこの教会を訪ねていきました。
その様子が使徒の16章に書いてあります。
その後ですね、パオロはこれらの教会を訪問した後に、よく知っているこのヨーロッパ最初の教会ピリピなどをですね、選挙した後、ずっとですね、マケドニア州、ギリシャの方に下って行って、このコリントですね。
おそらくいろんな説がありますけれども、このコリントから、第二次電動旅行の時にコリントからここの手紙、この手紙を書いたとされています。
だいたい起源後50年から51年頃だと言われていますね。
そんな手紙、いろんな特徴がありますけれども、今日はこの入り口の挨拶文のところから3つのこと、今、新しい時代に生きるということについて学びましょう。
このコロナが明けようが、明け前がですね、ウィズコロナであろうが、アフターコロナであろうが、新しい時代が到来しますけれども、聖書が言う時代の捉え方とかですね、新しい時代とか、それをどう生きるかということを3つの点からともに学んでいきます。
最初はですね、まず、原点としての信仰告白ということがあるわけです。
1節2節でパウロは、こう書き出していますね、読んでいます。
人々から出たのでなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストとキリストを死者の中から蘇らせた、父なる神によって人とされたパウロと、私と共にいるすべての兄弟から、たちから、ガラテの諸教会へ。
パウロは自分が使徒となったこと、その出どころをですね、神様ご自身だと言っているんですけれども、イエス様ご自身だと言っているんですけれども、ここでですね、注目する言葉があります。
先ほども少し申し上げましたけれども、この原点ということを考えたときにですね、多様性ということが今の時代に言われています。ダイバーシティ。
NHKの例えばオリンピック放送を見ても、いろんな障害を持った人でも、いろんな立場の人でも見れるような配慮をなされています。
それだけじゃなくて、一つの国民として、いろんな国の人たちといろんな価値観のある人たちの中で生きていくというダイバーシティ、多様性、大切にされています。
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今、コロナで国々との国家間の行き来が制限されていますが、今はいわゆるグローバルの時代ですね、ネットの社会の中では国境を平均に超えて情報などが行き来しているわけです。
このような多様性やまたグローバル化という時代の中でですね、ある教育者が言うのはですね、原点が大事だというのです。
根なし草ではいけない、そういうことを言っているわけです。
で、そんな中で私たちクリスチャンには揺るぎない原点がある、それが幸いなことなのですね。
どんなものか、それは私たちキリスト教にはこのパウロの手紙、またイエス様から始まった2000年の伝統があってですね、そこに私たちの信仰はしっかりと根差しているわけです。
なぜかというと、この後で詳しく見ますが、この後見ますけども、パウロがこの1節から4節の中でですね、信仰の真髄、福音の真髄を語っています。
そしてパウロが語っているこの信仰の本質や真髄は今の私たちにそのまま受け継がれているんですね。
その大事な言葉、2つの定型文をパウロは使っているんです。
当時よく知られていた2つの定型文、1節と4節に。
1節のですね、神は彼を死者の中から蘇らせたという言葉が1つ目です。
そして4節のキリストは私たちの罪のために自分自身を与えられたという言葉なんですね。
この2つの言葉、特に4節はですね、後でも出てきますけど、キリストは私たちの罪のためにご自分を与えて下さいましたという言葉が言語のゲイシャ語では直接つながっていて、当時の信仰告白の定型文が使われているわけなんです。
何が言いたいかというとですね、ちょっと難しいかもしれません。
どういうことかというと、もうパウロの時代からこの信仰の定型文というのがちゃんとあったんです。
このキリスト教信仰の本質を簡単にしかし的確に言い表す要約文というかね、定型文があったわけです。
それはこういう当時の家の教会やいろんな街道の説教の中で生まれたり使われていたり、あるいは信仰の教育ですね。
バブテスマの時に告白するそういうものもあったりとか。
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あと礼拝の中で生み出された要約文、定型文がきちんとあったんですね。
そしてパウロがこの手紙、ガラテアビトだけじゃなくてローマとかいろんな手紙を見ると、
みんなその定型文を知っているという、そういう前提で書いているんです。
それを書けばですね、難しいことを言わなくても、
あ、キリストが私たちのために、罪ながらのために十字架で死んだんだということがパッとですね、分かるような言葉、例えばですね。
それは当時初めて会ったり、初めて読んだ手紙でもその言葉があれば、
あ、これは本当のクリスチャンだ、それが分かるような内容でした。
例えばさっき言った2つの言葉をまとめるとですね、前に赤い字で示しましたけど、
キリストは私たちの罪の贖いのために死んでくださったという言葉と、
そして神はそのキリストをよみがえらせたという、その2つの言葉があるわけです。
実はこの信仰告白は、皆さんもね、アーメンと言えるじゃないですか。
それ信じていると言えるでしょ。
何かというと、それはもう2000年の間、引き継がれて今に至っているわけです。
まさに時代を超えているわけです。
そしてこれは文字通り、世界中でこの信仰告白というのは共有されているわけなんですね。
だから私たちはこれ、全世界のクリスチャンが拠り所としている、
同じこの2000年の伝統を引き継いだ確かな信仰告白を持っているわけです。
このようなしっかりした原点を私たちは持っているわけなんです。
時代と世界を超えた。
ですからぜひ、このいろんなものが揺るがされていく、
自分が動かされるような、そのような時代ですけれども、
このような革新にお互い立っていくということが大事なことなのですね。
また第一は、原点としての信仰告白を持っている、その尊さに気づいているところとしましょう。
それが新しい時代を生きていく一つの鍵であるわけです。
二番目、時代、邪悪な時代と新しい時代という考えがあるんです。
四節読める方、前の御言葉を読んでみましょうか。
キリストは今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のために御自分を与えて下さいました。
私たちの父である神の御心に従ったのです。
聖書の世界観によると、この世には二つの時代が存在します。
一つは朽ちていく、滅んでいく時代、そしてもう一つは朽ちることがない永遠の時代なんですね。
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邪悪な時代、それが朽ちていく時代だ。
この邪悪な時代、四節にもありますが、それは道徳的にも社会的にも悪がはびこっている時代という意味なんですね。
ローマは平和をもたらしたと言っていても、この植民地の民を抑圧する、そういう誤った力によって平和をもたらしていたわけです。
人の罪ゆえにまた光を失って暗くなっていく時代でもあるわけです。
先週最後のエピソードからの学びの中で、朽ちない愛ということを学びました。
その反対に、今の世は朽ちていく、やがて終わりを迎える神の裁きに耐えられない、そういう時代だということが一つです。
もう一つは、永遠の時代、朽ちない時代が存在しているということなんです。
それは、新しい時代はイエス様が再臨されると完成するということなんですね。今まで何度もお話してきました。
その完成した時代について、聖書の代表的な御言葉、目白くの21章の1節から5節にこう書いてあります。
前にもありますが、読んでいますね。
見よ、神の幕屋が人と共にある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。
ここから読んでみましょうか、読める方。
また、神御自身が彼らと共におられて、彼らの眼の涙をすっかり拭い取ってくださる。
もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
なぜなら、以前のものがもはや過ぎ去ったからである。
見よ、私はすべてを新しくする。
まさにパラダイスですね。
この新しい時代、朽ちない永遠の時代、
そして、この1章4節の御言葉によると、
私たちはこの邪悪な時代から救い出された。
それはつまり、私たちには朽ちない永遠の命が与えられて、
神と共に永遠を生きることができる。
そういう意味でもあるんですね。
そしてイエス様が再臨された時には、私たちは完成し、
私たち自身もイエス様のに姿に変えられ、
罪からも自由になる。
ここにもありますけれども、私たちを悲しませるもの、
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苦しませるものからも自由になる。
そのような完成した時代を私たち迎える。
それが今を生きる希望になるわけです。
新しい時代がやがて完成する。
それが新しい時代を生きる希望となるわけなんですね。
それが2番目ですが、3番目、最後にとても大事なことを確認していきたいと思います。
実は、新しい時代の始まりを知ってそこに生きるということなんですね。
実はこの、言ったり来たりしてすいませんけれども、
4節の御言葉を元のギリシャ語の通りに訳すと、
こういう順番になるんです。
キリストは私たちの罪のために御自分を与えて下さいました。
それは今の悪い、今の悪の時代から私たちを救い出すためで、
私たちの父である神の御心に従ったことなのです。
イエス様が御自分を与えて下さった罪の贖いの目的、
それは今の邪悪な時代から私たちを救い出すためだということなんです。
つまり、新しい時代は完成していませんが、
私たちはもうすでに邪悪な時代から救い出されたというんです。
しかし、現実として私たちはこの邪悪な時代に生きなければいけない。
生きなければいけないけれど、救い出されているし、
完成していないけれども、完成を目指している。
これは難しい言葉でよく言うのは、緊張関係、テンション、
緊張関係、あるいはジレンマの中に生きているという意味ですね。
まだ完成していないジレンマの中で私たちは、
完成を希望としてその幾分化に預かって生きていく、
そういう緊張関係、テンションがあるということを
私たちは知っていくことがすごい大事なんです。
その前提として、すでに新しい時代は始まっているんですよ。
そのことを今日覚えて帰ってください。
実はこれが当時のクリスチャンの信仰です。
当時、ローマの圧勢によって苦しんで、
邪悪な時代の中に苦悶していたクリスチャン。
彼らは、もう自分は救われて、新しい時代に生きているんだ。
それは確信となって、希望となって、
信仰を生きる力強い動機になっていたんです。
今の私たちもそうですね。
皆さんが感じていようが、いまいが、
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もしかしたら国の圧勢の中で苦しんでいるかもしれません。
具体的な問題として、私たちは自分の病とか罪とか、
自分の罪や周りの罪の中である程度、
あるいはだいぶ抑圧されて苦しんでいるかもしれません。
でもすでに新しい時代が始まっています。
それを表す図があるんですね。
レジュメにも書いておきましたし、前にもありますけど、
この十字架と復活ですね。
ここが天気だと言うんです。
邪悪な時代というのはずっと続いている。
アダムとエヴァの罪の時以来続いている。
だけどイエス様が来られて、十字架と復活が起こった時から、
新しい時代がすでに始まっているんだと言うんです。
先ほど言いましたが、そのイエス様の再臨の時に、
これが完成すると言うんです。
その時にもう邪悪な時代は終わると言うんですね。
今、ここに下の部分にありますが、
私たちは終末的な、終わりの時って言うんですけどもね。
新しい時代、別の言い方では。
終わりに向かっている時代の緊張の中で生きている。
この現実を皆さんぜひ覚えておいてください。
その希望を覚えておいてください。
イエス様がこの地に来られた時に宣言した言葉を覚えてますか。
福井書に大体あるでしょ。一番最初の第一声。
神の国が近づいた。
神の国っていうのは、バシレイヤってギリシャ語なんですけど、
神の支配っていう意味もあるんです。支配力。
今、ロシアとウクライナで争っているじゃないですか。
あれはどの国が支配力を持つかっていう争いでもあるわけです。
いなくても、ヨシア氏別として、いなくても軍事的な力を持って
その国に支配力を及ぼすことができるわけじゃないですか。
それと似たように、実は神様は見えなくても、
イエス様が来たことによって神の支配が始まったっていうんです。
イエス様は奇跡を行いましたよね。人が癒されたと。
それは神の支配が目に見える形で私たちの生活に訪れている。
その現れなんです。
私たちが祈って、祈りが応えられたというとき、
それは何が起こっているかというと、
神の支配が私たちの生活に食い込んできている。
そういう証なんですね。
だから完成していないけど、私たちは神の支配が始まった新しい時代の中で
今、生かされている。
これが私たちの世界観。
新しい時代に生きる私たちの世界観なんですね。
だからクリスチャンにとって今は、
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邪悪な時代と新しい時代が両方存在しているということを知っておくべきなんですね。
さらに何度も繰り返しますが、
始まってはいるけど完成していないということも、
神の支配、神の国、新しい時代がまだ完成していないでも始まっているという、
その両方を知っておくべきなんですね。
そしてさらにその時代を生きるふさわしい歩みをしなさいというのが、
パウロや聖書の教えですね。
あなたはこの地上に生きている、例えば日本人かもしれませんが、
神の国の国籍の中、神の国の民として生きているんですよ。
だから神の国の民としてふさわしく新しい時代を生きなさい。
邪悪な時代の中でというのが、聖書のパウロのメッセージです。
この人知ってます?私のつきあきはですけど。
国愛領という中国とアメリカの二重国籍の選手ですよね。
フリースキーの金メダリスト。
彼女の言動が中国人なのかアメリカ人なのかで問題になっているじゃないですか。
彼女は中国人として中国でプレーして金メダルを取ったと言ってますよね。
でももしかしたら彼女はアメリカ生まれアメリカ出身ですから、
彼女が言っていることとかやっていることというのは、
まさにアメリカの喋り方とか、中国語も話しますけれども、
彼女の振る舞いとか価値観はアメリカ人の価値観として
中国で活躍しているとも言えるわけですよね。
私たちクリスチャーもそうで、この地上で生きていますけれども、
天国人としてそのアイデンティティと価値観、
私たちの言動がまた天国人にふさわしいものであるようにパワーを教えています。
で、素晴らしいことはですね、天国人として新しい時代を生きるリソース、
命が与えられているということなんですね。
ある学者はこのように新しい時代を生きるクリスチャーについて言っています。
前にありますが、読んでみますね。
この開始された新しい時代において、
キリスト社は神の御霊により心を一新し続け、
新たな時代にふさわしい生き方をするように今求められているというのです。
福音はですね、神の霊が与えられて心が変えられ続けていくということなんです。
そして変えられ続けていくから、
新しい時代に、新しい国の民としてふさわしく生きることができる。
だからそれを求められていると理解することができるわけです。
これからガラテア社を学んでいく中で、
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ぜひこういう価値観を捉えていっていただきたいと思うんです。
そして私たち明日から職場に行ったり家庭に帰ったり学校で生きていきますけど、
そういう価値観、自分は日本に生きていながら、
実は神の国の民として新しい時代を生きているんだ、
そういう価値観でぜひ来ていただきたいですね。
その御言葉、それを後押しする御言葉を二つ読んで、この時間を終わりしたいと思います。
一つ目有名なローマの十二章二節ですね。
ちょっと長いんですけども、私読んでみましょうか。
最初だけ読んでください。
三、この世と調子を合わせてはいけません。
むしろ心を新たにすることで自分を変えていただきなさい。
そうすれば神の御心は何か、すなわち何が良いことで
神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
ローマ十二章二節。
この邪悪な時代に調子を合わせないように。
心を新たに神によって変えていただきなさい。
そうすれば御心が分かるよ。
そしてこれから学ぶガラテア人から五章十六節ですね。
ここ読んでみましょう。
三、私は言います。
見たまによって歩みなさい。
そうすれば肉の欲望を満たすことは決してありません。
この新しい時代に生きるべき前向きな教えをですね、
共にこの手紙の中から学んでいきましょう。
それではお祈りします。
天の神様、皆を賛美いたします。
パウロはガラテアの教会にあててこの手紙を書きました。
それは、邪悪な時代を新しい国の民として生きる
私たちへのメッセージでもあります。
どうぞこの素晴らしい二千年にわたるクリスチャンの伝統に
しっかり根差して、その深刻学に根差して
私たちが見たまに導かれ
今の時代を生きていくことができるように
どうか導いてください。
今日から始まる新しい一週間
またこれから共に学ぶこの手紙の学び
それらをあなたに委ねて
イエス様の名前によってお祈りします。
アーメン
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