2020-06-28 36:39

#12 /20/6/28 黙示文学とは

第2テサロニケ2:8-12からの礼拝説教。2020年6月28日録音。黙示録など知られていますが、それを正しく理解して、悪用するものに騙されず生きる糧とするために。
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テサノニケビトへの手紙第2、2章、8節から12節を読みします。
その時になると、不法の者が現れますが、
主イエスは、彼を御口の息をもって殺し、
雷鈴の輝きをもって滅ぼされます。
不法の者は、サタンの働きによって到来し、
あらゆる力、偽りの印と不思議、
また、あらゆる悪の欺きをもって滅びる者たちに臨みます。
彼らが滅びるのは、自分を救う真理を、愛をもって受け入れなかったからです。
それで、神は惑わす力を贈られ、彼らは偽りを信じるようになります。
それは、真理を信じないで、不義を喜んでいた全ての者が裁かれるようになるためです。
以上です。
今日はこのところから、
目視文学とは、目視文学とはと題して、
意味言葉を取り継ぎます。
おはようございます。
6月最後の日曜日となりましたが、
梅雨らしい、
ここは埼玉県新座市ですけれども、
梅雨らしい雨降りの朝となりました。
コロナウイルスの影響を冷めらない中で、
先週も東京都においては多くの人が感染、
多くの人の感染が発表されて驚いた方もいるかと思います。
そんな中、先週はですね、
6月24日水曜日に政府によって、
この新型コロナウイルスの対策のために作られた、
政府の専門家会議が廃止されたというニュースが出ました。
こちらに絵を用意しましたが、この方よくテレビに出てますよね。
副座長の尾見さんという、とても立派な医師であり、副座長でありましたが、
彼さえもその廃止されるということを会見のときも知らなかったということで、
その政府と専門家委員会の関係の悪さというか、
そういうことも話題になりましたね。
また、関係の悪化というと、こんなこともありますね。
国同士の行き来が少しずつ解除されていますけれども、
その中で依然として、国と国の中でのコロナに対する
関わり方の違いによっての、なんとなく圧力があったり、
そしてご存知のように、各国の中においても、
黒人の差別で問題が激化したように、
国の中でも同国民同士が争うという関係の悪化が見て取れます。
あるいは、今日の手紙と少しだけ関係がありますけれども、
中国では、今1回また収束した後、数が増えてますけれども、
コロナの影響が収束した後ですね、
実は政府は、教会に対する迫害の手を強めています。
そういう中で、まさにこの手さね毛教会の人々と同じように、
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今の中国では実際に信仰ゆえに迫害されるということが起こっています。
私たちにはこれらの出来事は関係ないとしましても、
コロナの問題を通して、あるいは日々の生活、仕事や家族関係、
あるいは色んな社会生活の中で、
自分の足元や自分自身が揺り動かされるということがあるかもしれません。
自分の存在自体が大げさですけれども、
存在に危機を覚える立場が危うくなるということを感じているかもしれませんね。
一方、この手紙の背景にある手さね毛教会の人々は何度も言いますが、
信仰の迫害がどんどん激しくなっていった。
第一の手紙に比べて第二の手紙を受け取った時の方が激しくなっていった。
もしかしたら第一の手紙で問題になった、
命を先に落としてしまったクリスチャンたち、
それは迫害によって殺されてしまったのではないかという説さえあります。
そんな教会の人々をもってパウロはこの手紙を書いたわけです。
そして私たちは先ほども言いましたが、迫害こそ体験していませんが、
この教会の人々と同じように自分たちがコントロールできない課題に直面して、
自分の立場が揺り動かされたり、あるいは何らかの関係の分断、
そういうものを感じ、そして励ましや慰めを必要としている、
そういう共通点があるかと思います。
ですからこの手紙を通して私たちは学ぶことができるわけです。
ちなみに今日朗読した8節から12節、
ここは先週と同じように解釈が非常に難しいところです。
実はなんとなく新冊子の伸び止めでここに御言葉に直面していますが、
ある面この御言葉に向き合っているということは、
キリスト教の歴史の中でも非常に大胆なことをしていることになるわけです。
解釈が難しい、一流の学者が寄ってたがってもなかなかわからないところに
私たちがこうやって真剣に取り組んでいる。
それはキリスト教の歴史や世界的なつながりの中でも
尊いことを私たちはやっている、そのように理解してください。
いつも言っていますが、ここから細かく、
もう今世界の終わりがこの状況と状況に似ているから、
この世界の終わりが今来ているとか、12年後に世界が終わるとか、
そういうことを読んではいけないわけです。
今日はちょっと変わったやり方でこの歌詞を学びます。
聖書の中にあるいろんな手紙とか、
聖書の文章は文学形式というのがあるんですね。
専門的な文学様式というのがあるんです。
このパウロが書いた手紙は書簡、手紙という様式ですけれども、
その中で彼は目視文学という、
そういう目視文学という背景を使って、
今日見ている歌詞を書いています。
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目視録とか、地獄の目視録とか、
あるいは僕はオーメンという映画をしていますから、
目視という響きに異様な恐怖心を覚えるかもしれませんが、
正しく理解するならば目視文学というものは私たちの支えになりますし、
また逆に後でも少しだけ述べますが、
やはりカルトとかこの世の怪しい宗教は、
目視録とか目視文学の怪しさを使って人々に恐怖を与えて、
人々を騙すということがありますので、
実はこの目視文学ということを私たちが正しく知ることによって、
そういうカルトとか宗教的な惑わしから守られます。
余談になりますが、前の前ぐらいにここの歌手が話したときに、
2種類の宗教的なチラシが入っていたという話をしたんですけれども、
ついこの間は3種類目の宗教的なチラシが入っていて、
そこでは明らかにコロナ問題とこの世の終わり的なことを言っていて、
すごいな、このコロナ問題がカビのサバディタみたいなことを
言っているそういう出版物が教会に投函されていましたけれども、
そういう宗教的にもざわついたり罠が多い中で、
この正しく目視文学というものを学ぶと、
私たちは不必要な恐怖心からも解放されますし、
これをかえって自分の命の糧にすることができます。
そしてついでに教養もついてしまいますからね。
長い教養もつきますから、その中でこの箇所を3つの点から学びます。
まず最初はこのパウロが使った文学的手法、目視文学ということについてみます。
2番目はその目視文学ということを通して、
パウロは何を目的としていたか、何を言ってきたかということを学びます。
そして最後はそれを私たちは元にどんなことを自分の生きる糧とすることができるか、
その3点から今日も学んでいきます。
前から言ってますがマスクをしていて苦しいのでお聞き苦しいかもしれませんけれども、
一緒についてきてください。
まず最初のポイントですけれども、
失礼しました。
パウロが用いた文学的手法の目視文学とは何かですね。
今日の聖書箇所の8節に目視文学的な要素が色濃く出ています。
ここに掲げました、ちょっと読んでいますね、2章の8節。
その時になると不法の者が現れますが、
シュエスは彼を身口の息をもって殺し、雷鈴の輝きをもって滅ぼされます。
その時となると、これは今日詳しく言いませんが先週見た、
不法の者が現れる時、不法の秘密が取り除けられる時、
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不法の者を引き留める者がいなくなって、不法の者が神となるような時、
そうすると時が来ると不法の者が現れますが、
ということでこの描写が目視文学的な特徴を表しています。
実はですね、目視文学というのは絵画的な特徴があります。
ビジュアルです。
今で言えば映画とかテレビと似ています。
このイエス様が口の息をもって殺してしまうとか、
雷鈴の輝きをもって滅ぼすとかという、こういう描写です。
弥生する人はですね、こういう描写を漫画的と言いますけれども、絵画的です。
どういうことかというと、その映像的イメージによって苦しんでいる人を慰め励ますということがあります。
そして苦しみが強いほど、よりこの映像的イメージには効果があるわけです。
皆さんには何か思い出の映画とか励ましになる番組とかありますか?
コロナ禍の中で新しいテレビ番組ができない中、いろんなテレビ番組が再放送されましたね。
前も言いましたが、私はジンというですね、江戸時代にタイムスリップした、
あの大沢隆一主演のテレビドラマを最終回しかこれで見なかったんですが、
今回全部見て励まされましたね。
詳しくは言いませんけれども、農芸界がタイムスリップして、
いろんな人間関係の中で葛藤しながら、当時流行ったコロナではなくてコレラですね。
コレラとかいろんな病気を先進医療を使って治していく。
その中で彼の寂しさが癒されたりですね、周りの本当に死にゆく人たちが救われたりする、
そういう描写を見ましてね、私も正直コロナの中でうつうつとしていた中で、
ちょっと涙したこともありました。
そのようにですね、映像というのにはその人を励ます、より強いインパクトを与えます。
実はこの目視文学というのは驚々しい、後で見ますが、書き方によって、
実は当時聞いた人というのは聞いたことによって非常にイマジネーションを頭の中で広げることができたんです。
そして聞きながら頭の中で視覚的イメージを膨らまして、彼ら彼女らは知的なではなくて視覚的な、
あるいは今まで言うところのバーチャルですね、疑似体験的なその出来事に直面して、
苦しみの中での励ましや慰めを得たわけです。
目視文学、かつて目視学校の教会で勉強しましたけれども、
目視文学の特徴はこういうパターンがあるんですね。物語のパターンというのがあります。
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まず、強大な悪の存在です。
強大な悪の存在が出てきます。
多くの人が、善人が苦しめられ殺されるというイメージです。
そしてその苦しめられ殺されていく当事者は、
今、信仰の迫害の中にある当事者とリンクさせて、自分をそこに読み込むわけです。
そしてその中で救い主による到来があって、その悪に対するまったく裁きが行われるわけです。
それが今日ここであるところの、口の息をもって殺されて、輝きによって滅ぼすという描写があるかもしれません。
そういう大げさなほどのですね、悪への明確な報復があって、
そしてその悪への報復と相まって、善人への正しい報いがそこで起こるわけです。
例えばこの8節のところではですね、
不法の者というのは、テサワニケ教会の人々を苦しめている人たちの元締めのような存在です。
そういう不法の者と、彼らを苦しめている元締めと、
そして彼らを苦しめている迫害者、当事者さえもですね、イエス様が来臨する時に、
イエス様の息吹によって一瞬のうちに退治される、そういうイメージです。
ある学者によればですね、戦った様相さえなくて、直ちに退治されるという、
胸がすくような描写になっているわけです。
実はこれはですね、旧約聖書のイザヤ書というところにあるイメージと重なっています。
引用しました。見てください。
正義をもって夜辺のないものを裁き、これはですね、クリスマスの予言になっている聖書の言葉の後です。
ダビデの子孫がやってくるよ、救い主がやってくるよ、その時、正義をもって夜辺のないものを裁き、
公正をもって国の貧しいもののために判決を下し、口の無知で国を討ち、唇の意気で悪者を殺す、ここのイメージが反映されています。
そしてよく皆さんが聞く、夜辺の黙示録というところにも同じイメージが反映されています。
1章の13節16節ですね、ヨハネが幻の中でサイリンのイエス様に出会った場面です。
こう描写されています。
それだ、人の子のような方、これは救い主イエス様が見えた。
右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
ネットで検索すると出てくるんですけど、誤解がないように言いますが、こんな絵がありました。
このイエス様の絵がですね、口から剣が出ている。
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七つの星は七つの宛先の境界を表すんですけど。
私たちが絵が見えますけれども、聞いた人は何からのイメージを抱いたわけです。
ちなみにですね、口の息吹によって殺すとか、口から出ている両刃の剣というのは何かというと、神様の言葉だそうです。
創世紀にあるように神の言葉には力がある。
イエス様は一瞬によって、その息吹によって、神の言葉によって、悪しきものを滅ぼす。
そういうイメージがここにあるわけです。
何はともあれ、ここで皆さんに知っていただきたいのは、この牧師文学というジャンルには、このようなあえて驚しいというか、大げさな表現がなされています。
そしてそこには必ず共通のパターンがあるんです。
共通のパターンや物語によって、聞く人たちに連帯感が生まれるんですね。
ああ、あの話か。
そういう連帯感が抱いて、ちょっと引きになるんですけど、例えば、水戸公文というと、皆さんも、ああ、スッキリするというイメージあるじゃないですか。
そういう連帯感が生まれる物語になっています。
そしてその連帯感の中に、パウロは違法人、神の民から見たら違法人であった。
テサラニケ教会の人々を招き入れて励ましたわけです。
じゃあ、もう少し牧師文学について見ていきましょう。
2番、パウロがどうしてこの牧師文学的な表現を用いたのでしょうか。
それは、さっきも言いましたが、このような意図があるんです。
今苦しみに耐えている人たちを慰め励まして、将来の希望を与える、そして今を生きる力を与えるということです。
分かりますよね。この、サメやアラナイ迫害が起こっている。
その中でもしかしたら命を落とした仲間もいた。
自分たちはその迫害する者たちに、どうやっても勝つことができなくて、耐える一方だった。
そういう人たちにですね、この、やがて神様が正しく悪しきものを裁く時が来るよ。
一瞬のうちに、この悪しきものを裁くよ。
だから今は復讐しないで耐えなさいということです。
だからちょっと余談になりますが、こういう御言葉からですね、私たちは例えば宗教的なテロというものも反対するわけです。
なぜかというと、私たちは神に代わって報復するという考えは間違いですよね。
報復は神がするから、私たちは今それを耐えるという考えです。
それからもう一つ、これさっきも言ったこととここは関係しますが、
このような目視的な表現や裁きを通して、人を脅かして捜査するということを、ここでは意図していません。
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このような目視録とか、目視録というのは別の訳では刑事と言えるんですけど、目視や刑事という言葉を使って人々や信者を脅す。
そして自分たちの意のままに操るのがカルトの上等手段です。
目視録とか刑事という言葉を聞いたらですね、思考停止になって怖くなる。
そしてその言う通りにするという、それはいわゆるマインドコントロールの手段です。
ですからもし皆さんがこういう目視文学とか世界の終わりとかということを通して脅かされても、絶対に怯んではなりません。
パウロが言うように心を騒がしたり、動揺してはいけないんです。
聞くに値しない、そのようにしずけてください。
そしてさらにですね、今日朗読した9節から10節の御言葉に注意しなければいけません。
パウロは先ほどのハセの術についてこういうことも言っているわけです。
ここに書きました、前に書きました。
不法の者はサタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りの印と不思議、またあらゆる悪の欺きをもって滅びる者たちに臨みます。
これは何かというと、実は不法の者も実際に奇跡を起こすということです。
不法の者の背後に目に見えないサタンという悪しき存在がいるということをパウロは否定していません。
そのサタンの力、悪の力があるゆえに、あらゆる力、その力によって偽りのこの印や不思議なことを行うというのです。
それによって人々を欺いて滅びに導くと言っています。
何が言いたいかというと、まず聖書のことから話しましょう。
後で皆さん見ていただきたいのですが、旧約聖書の出エジプト記録があるんですね。
モーセの実会というのが映画で有名ですけれども、そこでモーセがお兄さんのアロンとエジプトの王様の前に行ったんです。
そしてイスラエルの民を奴隷から解放してくれみたいなことを言ったんですね。
その時にエジプトの魔術師がまた出てきました。
そしてアロンとモーセがある奇跡を行ったんです。
そしたら同じ奇跡をそのエジプトの魔術師も行いました。
10個のうち3個までできたんです。
それは何かというと、そういう魔術師にも悪の力があるけれども、神の力に及ばないということで3個できたけれど10個はできなかったということを表しています。
でも一番知ってほしいのは、そういういわゆるキリストの霊とかそういう力ではなくても、
悪しき力によって奇跡を行うそういうものが今でも存在するということです。
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病気が治ったりとかあるかもしれません。
まれに教会でもそういうことが起こるようです。
ただ皆さんにぜひ知ってほしいのは、本当にそのような奇跡や不思議なことが起こっても、
それイコール真実だと信じてはいけないということです。
それに騙されてはいけないということです。
それは聖書もそう言っていますし、聖書を紐といた学者も言っています。
今日はここで聖書を挙げませんけれども、聖書を挙げませんけれども、
ヨハネの手紙にはですね、霊だからと言って霊を全部信じてはいけませんよと。
イエスを神のことを告白する霊が本当だと言っています。
何よともあれ皆さんにぜひ今日知って帰ってほしいのは、
パウロがここで言っているように、偽物もその悪の力によって不思議な奇跡を起こすということです。
ですからその奇跡によって騙されないでほしいということです。
さあ、それでは最後の点を学びましょう。
私たちはじゃあこれらの目視文学、パウロの手紙を通して何を学び、どう生きればいいのでしょうか。
それは3番、キリスト教の伝統に導き入れられて生きるということです。
今のコロナの時代の話に少し触れますが、
人種差別、そのような問題がいろんな形で見えてきましたよね。
ことの発端は直接コロナではないけれども、ブラックライブズマターという、
その黒人が警戒殺害によって殺されてしまった。
それによっていわゆる今まで隠れていた人種差別の問題がさらに表面に現れて、
暴動やデモにまで発展しているわけです。
あるいは皆さんこのニュース知っていますか。
ペニー・レインというビートルズの曲があるの知っています。
このペニー・レインが亡くなるかもしれないんですね。
ここがあります。
このペニーさんというのはイギリスの奴隷商人だったんです。
だからこの奴隷商人の名前がついたペニー・レインという通りが忌々しいということで、
このペニー・レインという通りの名前が黒塗りされてしまったり、
その通りの壁に落書きされたりしてしまっているということが今イギリスで起こっているそうです。
ビートルズの名曲の舞台になったこのペニー・レイン。
これら何を表しているかというと、
この一つの国の民でも同じアイデンティティを共有していないということなんです。
同じ国にいる一つの国民であっても共有の物語を、
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同じ物語を共有していないということです。
どういうことかというと、ペニー・レインというこの通り一つとっても、
まあちょっと言ってしまえば白人の人から見たらビートルズの有志ある場所というし、
黒人の人からしたらいやこれは奴隷商人の街だと言ってこれを意味嫌うわけです。
だから同じ物語を共有できない、同じ国民としても共有できないという問題が今表面化しているわけですね。
そればかりか今知ってますか?
欧米ではアジア人というだけで差別されることがあるそうですよね。
唾かけられたり、出て行けと言われたりしてしまう。
そういうことさえ今あるわけです。
さあ、そこから何が今聖書を通して私たち学べるか。
イエス様を信じた人は一つの神の民に招き得られているということなんです。
イエス様を信じて、イエス様の十字架と復活を信じたテサノリ教の教会の人々も私たちも、
もともとは旧約聖書の時代から言えば、違法人だったんです。
その旧約の時代は、神の民と言えばイスラエル民族を広く指していました。
違法人も例外はあったんですけど、ほぼイスラエル民族に限られていました。
でもイエス様の復活と十字架を信じたならば、その神の民に継ぎ来されるんですね。
パウロはある木の例えを用いてそれを言っています。
これ何の木かわかりますか?
この実がなる。油が取れる。
そうですね。オリーブ。
パウロはですね、オリーブに、純粋なオリーブに野生のオリーブが継ぎ来されたという例えを持って、
純粋の神の民に野生人である違法人が継ぎ来されて一つの神の民という木になったという風に言っているんです。
私たちは今、イスラエル人ではないですけども、
イエス様を信じて神の民に継ぎ来されたこの一つの国の民というアイデンティティを新しく与えられているんですね。
そしてその神の民の共通の物語の一つとして、さっきまで言った目視文学というものがあるんです。
パウロはその違法人のテサーネ家の教会の人も、そして違法人の私たちも目視文学という神の民の共通の物語を通して慰め励まそうとしているわけです。
もしあなたがですね、クリスチャンであるがゆえに文字通り信仰の迫害を受けているのであれば、
このパウロの手紙は直接的な慰めや励ましになるでしょう。
あなたを信仰してゆえに苦しめられている人々もやがて神に報いられる。
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そしてそういう信仰的な迫害がなかったとしても、私たちは日々の生活の中で様々な労苦を背負い込みますね。
体や心に痛みを覚えることがあります。
その中で何らかの生きる糧としての励ましや慰めを必要とします。
将来の希望を私たちは求めるわけです。
私たちは例えば今であればいろんな不自由な経験をしなきゃいけないコロナのように、
でもやはり現状を受け入れて耐えていく、そしてなずび事をしていく。
そのためには私たちは励ましや慰めや将来の希望を必要とします。
心の居るところが必要です。
そして私たちはそれをどこから得られるかといえば新しい神の民として、
この神の民の共通の物語、目視文学とか、もっと広く言えばいわゆる聖書やキリスト教の伝統から
私たちは心の拠り所を得ることができる、そういうことが言えるわけなんです。
そして一つの国民というアイデンティティを超えて、
今ここにいる人は日本人だと思いますけれども、
例えば日本人とかアメリカ人とか、一つの国民というそういうアイデンティティを超えて、
私たちはイエス様による神様の民だという、
そういう新しい国民としての拠り所を得ることができるわけです。
一つの国を超えた、国だけではなくて時代を超えています。
パオロもそうですし、テサニオキの人たちも私たちと同じ神の国の民です。
いつも言っているマルチン・ルターも、国も時代も超えていますが、私たちと同じ神の民。
マザー・テレサも私たちと同じ神の民です。
そうやってですね、時代や国境を超えた神の民としての私たちは、新しい居場所、拠り所を得ているわけです。
そしてその新しい立場や、その新しい立場から得られる慰めを確保するために、
私たちは日々聖書の言葉に触れるわけなんです。
なぜ聖書を読むんですか?と言った時に、新しい神の民としての物語に触れるため、
それによって神の民としての慰めや励ましを受けて今を生きるため、だから私は聖書を読みます。
それが私たち、あるいはクリスチャンの生き方なんです。
今、決して簡単ではない日々を生きるための糧を、キリスト教の伝統、聖書から私たちは得ることができる。
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それがこの今日のパウロの牧師文学を通して励まされるということと共通した実りになるわけです。
少し皆さんも気がついたと思いますが、
今のコロナの時代では、国の分断とかそういうことと同時に、各個人の生き様が問われていますよね。
各個人がコロナに対して真面目に向き合っているのか、ソーシャルディスタンスをとるのか、マスクをするのかから始まって、
一人一人が生き様を問われています。
例えばその教会もそうなんですけど、集まることが今禁止されたりしていますよね。
それがかつてほど簡単にできません。教会も例外ではないんです。
教会というのはよく集まっている場所でした。
多分時代的な背景があって、戦後、働きに行かない女性が多かったわけですから、
旦那さんが外で働いていて、働きに行かない当時でいう主婦の人が教会に集まっていたとか、
そういう背景をずっと受け継いでいることもありますけれども、
それはともあれ、今私たちは集まることができないどころか、皆さん多分仕事をしていますよね。
私も仕事をしています。牧師です。
だから私たちの教会も平日集まらないです。
私もパウルと同じように、遠くに離れている皆さんのことを非常に気にかけています。
パウルは今以上に行くことが難しいテスラヌイ家の教会の人々、そのことを気にかけて手紙を書いたわけです。
いわゆる究極のリモートですね。
スカイプとかズームがないですから、手紙を書いてこのテスラヌイ家の教会をケアしていたわけです。
私も一人の牧師として、皆さんとゆっくり終日話をしたりできない。
でも今チャンスだと思うんですね。
実は私もよく祈って、私が望んでいる教会像とかクリスチャン像というのはこういうものです。
一人一人の方々が独立していることして。
もちろん僕は相談とか祈りますけども、まず社会人として、一人の人間としてきちんと自立していること。
そしてこれは聖書的に言うとですね、一人一人が直接神様とまず結びついている、そういう生活が基礎です。
それの上でさっきも言いましたが、聖書を読んだり祈る。
それは共通の物語に別々の場所で皆さんが触れているということです。
じゃあなぜ日曜日教会に集まるのか。
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それは終日私たちが経験している神様の恵みとかをですね、礼拝の中で賛美をしながら祈りながら神様に感謝を捧げることがこの日曜の礼拝です。
あるいは例えば兄弟姉妹と会ったり、そして聖書の御言葉に触れたり、礼拝の中でイエス様に触れてまた新たな力を得てそれぞれが社会に派遣されていく。
そして月曜から土曜まで社会の中で一人の社会人として、新しいアイデンティティを持った一人の神様の民としてそれぞれ置かれた場所で生きていく。
そのために日曜日集まっているんです。
そういう意味では私たち、私はですねちっちゃいしなかなか集まれませんけど、この教会は多くの可能性を持っているなと思っているわけです。
そして私は毎朝皆さんのことを覚えて祈っているわけです。
聖霊が与えられるように、イエス様のことを今日も体験できるようにと祈っているわけです。
そして皆さんが実は神の民として一つの国の聖書では大使という国の代表者として職場とか家庭でイエス様を代表する男性として女性としてその場で生きていく。
それがですね実は世にって言い方変ですけど、世間の人々にイエス様はこういう人なんだ、クリスチャンというのはこういう人なんだということを明かししていくわけなんですね。
このようなコロナの中で様々な分断がありますが、私たちは神の民として新しく集められましたし、
そして神の民として共通の物語、牧師文学をはじめとする聖書の物語を有しているわけです。
その聖書の物語に日々触れながら皆さんが苦しみの中で慰めを得たり励ましを得たり、そして文字通りイエス様と出会ってですね、
日々の迫害はないけれども日々の苦難を乗り越えて、そして神を賛美する、そういうお互いでありたいと私は願うわけです。
そのために祈り合いながら、御子様に留まりながら歩んでいくお互いでありましょう。お祈りします。
天の神様、皆を賛美いたします。
今日は雨降りの中ですけれども、また仕事や健康で礼拝に集めない方もいますけれども、このようにお一人お一人が神様の招きに応えてこの場に集うことができましたことを感謝いたします。
パウロの難しい御言葉でしたが、どうぞ私たちがパウロが意図したところの聖書の伝統から、聖書の言葉からあなたにある慰めや励まし、心の拠り所を得てコロナ禍の中においてまた日々の生活の中で養われ、またあなたの民として成すべきことをしていくことができるようにどうか導いてください。
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このような神の民がここに与えられていることを神様に感謝いたします。この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
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