2020-06-14 28:41

#10 20/6/14 不安と平安

第2テサロニケ2章1-2節からのメッセージ。2020年6月14日録音。先が見通せない不安の中極端な終末論に騙されず、また平安を得るために。
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デサノニケビトやの手紙 第2 2章 1節2節
さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの来臨と、私たちが主の身元に集められることに関して、あなた方にお願いします。
霊によってであれ、言葉によってであれ、私たちから出たかのような手紙によってであれ、主の日が既に来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
今日はこのところから、不安と平安と題して、ユカタバを取り続けます。
ここのデサノニケまで100日ぐらい歩いていけるそうですので、できる方は頑張ってやってみてください。
今日はこの第2の手紙です。第2の手紙の書かれた理由はですね、第1の手紙を携えてテモテという弟子が、弟子というかパウロの道路者が、デサノニケの教会に届けに来ました。
デサノニケの教会では、迫害だった理由が分かりませんが、もう死んでしまった神徒さんがいて、彼ら彼女らはイエス様がもう一回帰ってくる時に、よみがえりに預かれないという、そういう失望があったんです。
その誤解を解くために、第1の手紙が書かれました。
後で皆さん復習してみたら欲しいんですけど、4章の後半から5章の前半に、イエス様の再臨と、死んだ人のよみがえり、そういうことが書いてあります。
余談になりますが、このデサノニケの手紙第1、第2というのは、パウロの最も古い手紙です。
紀元50年頃に書かれた手紙で、大きな特徴、学術的にも注目されている特徴は、いわゆる終末論。
終わりという字に末ですね。
終末論。イエス様がもう一回帰ってくる時、再臨、再び訪れるという、望むという再臨というんですけど、その教理というか教えが色濃く書かれている。
非常に注目に値する手紙が、この第1、第2の手紙だそうです。
なぜそうなったかと言いますと、第1の手紙を受けたデサノニケ教会に、惑わす人が何か、どういう人かちょっとわからないそうですけども、
訪れてその信徒さんたちを不安にさせたり騒がせたというんですね。
終末に関して。ここにもちょっと記載しておきました。見えますかね。
今日読んだ1節2節に、キリストの来臨と私たちがキリストの前に集められることについてですね。
もう死の日が既に来たという人がいるかもしれませんと。
そういう人がいると。それがこの教会の問題だったんです。
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それを手も手からもう一回聞いたパウロが、その問題を解決するために書いたのがこの第2の手紙でした。
おそらくコリントという文字で書いたそうです。
その教えを持って惑わした人たちは、根拠として、今日の御言葉にもありますけれども、パウロの言葉を使ったと言われているんです。
実はよくわからない人なんですけれども、パウロのこの会議によっては、私の言葉や私の手紙を根拠にして、
世の終わりが来た、死の日がこれからも来る、そういうことを言って惑わす人が起こったと言っているんですね。
余談になりますが、霊によってでもというのは、神託と言って当時は、
黄骨状態みたいになって霊の言葉を話したということがあったようです。聖書がなかった時代。
そういう神秘的な方法で主がもう来たということを言われてしまったものですから、大きく動揺したわけです。
そしてそのことをパウロは聞いて、この手紙の口調は、間違いを戒めるという厳しいものよりも、
家族を心配して、動揺しないで、しっかり私の教えに堅く立って、そういう空気の手紙です。
だから、優しさとか、配慮に満ちた、励ましと慰めに満ちた手紙です。
この中から、今日は三つのことを学びましょう。
不安について、平安について、平安を体験する道について学んでいきます。
まず第一は最初は、不安を煽る言葉、偽りの終末論ということに触れます。
実はこれと似たようなことが今も起こっています。
皆さんのうちにどうでしょうか。
しばらく前に、私のところに二つの宗教のチラシが入っていました。
あえて言いません。
誰でも皆さんがよく知っているものと、あまり知らないもの。
その一つはもうはっきりと、コロナウイルスはある国がバラバラ板的なことを書いてあって、
大丈夫なのかな、こんなの書いて。
というふうに思いました。
とにかく今、ウイルスの不安から、誹謗中傷やデマが流れていますけれども、
宗教的なデマ、極端な終末論というのですけれども、
そういうメッセージが少しずつ流布しています。
その特徴は、もう世界が終わるよとか、
あるいはあなたの経済的問題が解決するよ、
そういうものですね。
あるいは、お金のことをはじめ、
あなたの生活に関わる問題が全部これを信じれば解決するという、
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短絡的な語略主義のメッセージです。
あるいはですね、そのチラシにもあったんですけど、
病気は全部霊のせいだと、
これを信じれば病気にかからないし治ると明言していました。
皆さんはそういうものを騙されないと思いますけれども、
不安の中でやはりそういうことに騙される人がおそらくいると思いますので、
そういう人がいたらフォローしてあげてほしいんです。
とにかくこのような明確な語略主義、極端な終末論を語る宗教、
今そういうメッセージが留守しています。
しかしパウルも言うように、私たちが聖書の教えを正しく知って、
それを健全な拠り所とする時に、
嘘の終末論から私たちは守られるわけです。
パウルもその時にこう言っているわけですね。
2章2節で、主の日が既に来たかのように言われるのを聞いても、
すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
そう彼らを優しくなだめているわけです。
そしてその根拠としてパウルは、この2章2節のすぐあと15節にこう書いているんですね。
ですから兄弟たち、固く立って、語った言葉であり手紙であり、
私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさいと言っているんです。
パウルは自分の教えをしっかり守りなさいということで、
守るべき教えは何ですかと言った時に、
さっきの第一の手紙の時にもお話ししましたが、
それは今で言えば健全な聖書の理解、それから伝統に裏付けされた教えです。
実は聖書の基本的な信仰のことを専門用語で教理と言うんですね。
教えるという字の理かの理。
これは非常にわかりやすい言い方をすると、
一流の学者たちがきちんと聖書をまんべんなく学んで、
この辺が妥当だとか、この辺が当時の教会で信じられていて、
2000年の教会の歴史、4000年のこの聖書の歴史の中で、
この辺りが正当だということがきちんと検証されているものです。
ですから、そういう健全な教えの伝統や流れに沿って、
私たちは聖書を理解しますし、
そういう教会がですね、皆さんが集っているこういうバブティスト教会とか、
いろんな地元の教会がその流れを組んでいるわけです。
ですから、皆さん、前にも言いましたが、
健全な修末論を見分けるため、偽りを見分けるためには、
こういう点に注意してください。
まず明確に、いつ世の終わりが来る。
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あるいは、今が世の終わりだという、そういう教えは偽りです。
限定的に時間を指定して、今だというのは偽りですね。
ちょっともっと脱線して、専門的に言えばですね、
もう実は終わりの時代なんです。
どういうことかというと、イエス様のタイムスケジュールからするとですね、
最初にイエス様が来たクリスマス。
そこからもう、いわゆる終わりの時代が始まっていて、
次イエス様が帰ってくる時までが全部、
終わりというと絶望的なニュアンスがありますけれども、
最後の時だというのが、実は聖書の考えです。
誤解されてしまいますけれども、
聖書はもうイエス様が来て、次来るまでがもうすでに、
今が終わりの時代だと言われていますから、
いつとか何年という、今がもう来たということを言う宗教は偽りです。
なぜかというとですね、実はイエス様自身も、
そのいわゆる終わりの日とか、
いつご自分が再臨するかということを知らないと、
地上の生涯の中で明言しているからです。
マルコの13章32節、一番古い福音書と言われる中で、
イエス様の言葉が記録されています。
イエス様はこのしばらく前にですね、
自分が帰ってきて、自分の生徒たちを見つかりが集めるといって、
いわゆる再臨のことを言った後に、こう語っているんです。
ただしその日、その時が、いつなのかは誰も知りません。
天の見つかりたちも子も知りません。
父だけが知っておられます。
子もというのはイエス様ご自身です。
父なる神様だけが知っているということです。
だから本当にもう、こういう御言葉の根拠からしても、
明言していついようの終わりだというものがあれば、
私たちは偽りだと断言して恐れる必要はないわけです。
マスクしていると苦しくてすみません。
声を抑えながら大きく話さなきゃいけないので、苦しくてすみません。
それでですね、私がもう仕事的な感じになってしまいましたけども。
それと同様に何かも言っていますけれども、
病気を霊魂のせいに安直に当てはめたり、
それはとにかくこれが信じれば治るというのも偽りですから、
そこからでも騙されないでください。
さて、手沢二家の教会の人たちはなぜそういう不安を抱いていたのでしょうか。
それは、前も言っていましたが、
彼らに対する信仰の反対がどんどんエスカレートしていきました。
迫害の度合いが増していったわけですね。
するとどうなったか。
私と同じように将来に対する不安を抱くようになったんです。
いつまで自分は耐えることができるのだろうか。
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そのような将来に対する不安に彼らはつけ込まれて、
極端な終末論になびいた人もいたようです。
考えてみると、今私たちも宗教的な惑わしに限らずですね、
今このまだ新型コロナウイルスが世界で猛威を振るっている、
南米とかアフリカとかすごいですね。
そういう中で、私たちはこの様々な情報を受け取って、
無意識のうちにそれを不吉な兆候と感じ取ってしまうんですね。
実は私もそうですけど、そういう中で、
この将来に対する漠然とした不安を抱いていただきます。
例えばどうやって教会が元に戻るんだろうかということも含めて、
多くの教会はそういうことを今課題にしています。
これね、赤いのね、東京アラートね。
なんのことかさっぱり分からないという逆じゃないですけど、
東京アラートって何だか分からないというんですけども、
木曜日11日に解除されました。
でも、いわゆるステップ3とか言って、東京の動向をみんな注目してますけども、
カラオケも再開、カラオケ再開したのに私たちは小さな声で歌わなきゃいけないって何か分からないんですけども、
なぜかというと、そういうアラートが解除されました、ステップ3に行きました、
カラオケが解除されましたなんて言いながらも、
実は実感として私たちの中にはまだ不安が残っていますよね。
いわゆる新しい日常って言われてますけど、それは一体何ぞやと。
新しい日常の中でどのように日々の生活を送っていったらいいのかというのを先が見通せない。
そういう漠然とした不安があります。
じゃあその中でどのような言葉に耳を傾けるべきでしょうか。
2番目はイエス様の約束に耳を傾けるということです。
それは平安の約束で、世間一般の常識とは違う平安です。
清算式が教会でやりますように、いわゆる最後の晩餐の席でイエス様はこれから間もなく逮捕される、
そういう切迫感のある中で不安を覚えている弟子たちにこういう約束をしたんですね。
こちらに書きましたが、ヨハネの福音書の14章27節です。
イエス様の言葉。
私はあなた方に平安を残します。私の平安を与えます。
私は世が与えるのと同じようには与えません。
あなた方は心を騒がせてはなりません。
パウロと同じようにイエス様も将来の不安を覚えている兄弟姉妹に
不安をあったとしても心を騒がせないでと言っている。
なぜなら平安を与えるから。
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しかしここで注目すべきはですね、この世が与えるのと同じようには与えないという平安です。
言い換えるとこの世とは違った種類の平安だ。
でね、実は私もですね、給付金楽しみにしてますから、
そういう数々のコロナに対する援助とか支援、
そういう一般的な、何て言うんでしょうかね、
私たちを安心させるものを否定するつもりはないですよ。
例えば安心な社会的距離とか、
あるいは医療崩壊を起こらないようにきちんとした医療体制を守るとか、
あるいは仕事をしていればですね、仕事が保障されるとか、
そういう常識的社会的な、いわゆる世間一般の平安というか安心を否定するつもりは全くないです。
しかしイエス様はそれとは違う方法で、同じような方法でや種類の平安を与える、
そういう類のプレゼントを与えると言っているんですね。
賜物を与える。
それは何でしょうか。
例えばそれは、主ご自身がですね、
帰って、父なる神様のもとに住まいを用意するという、
父との共に住める場所を用意しているという、そういう安心です。
たとえ地上の昇華が終わっても、安らかな将来を約束するという類のものですね。
安らかな命。
また神様ご自身の言葉です。
心の糧となる聖書の言葉。
それ以上にですね、人生の土台となるような、
神様の言葉としての聖書がそこにも含まれるでしょう。
主ご自身の言葉。
ちなみにさっき挙げたイエス様の言葉ありましたね。
いつそれが起こるかわからないといった言葉の直前に、イエス様ここも言っているんですね。
天地は消え去ります。しかし、私の言葉は決して消え去ることがありません。
この消えることがない神様の言葉が平安や平安の根拠、賜物として与えられるとイエス様は言っています。
あるいは、神様の愛を知る。そこにも平安があるとイエス様はおっしゃいます。
私たちを作って最善を備えてくださる父なる神様の愛を知る。
そういう類の平安です。
さらに、助け主なる聖霊を与えると言っているんです。
それはイエス様を信じる者の心に与えられる新しい神の命、聖霊です。
そしてイエス様が共におられるという、そういう五輪際の約束です。
復活のイエス様は目には見えません。
しかし聖霊なる神様として心に宿ったり、あるいは目には見えませんが、
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常に私たちと共におられるこの復活の死の五輪際、
そういう平安の賜物は数え上げたらキリがないですね。
ちなみに今あげた、列挙したこれらの約束の平安に伴う賜物は、さっき見ました。
ヨハレの14章の1節からずっと読んでいくと出てきます。
ぜひ皆さんお家でヨハレの14章、できれば17章くらいじっくり読んで、
イエス様の平安のメッセージ、それに伴うイエス様の賜物をじっくり味わってみてください。
このようなイエス様が与える、この世とは違った類の平安。
これはある面、世間一般の常識からしたら、
こんなことで安心できるなんて非常識だと思われるものです。
しかし、さらに非常識で、この世間一般の与えられる平安と全く違った根拠。
平安の根拠としては、著しく世間一般の常識から違っているんですね。
しかし、繰り返し言いますが、私はこの世界が保障する安心の根拠を否定するつもりはないです。
しかし、今回のコロナ禍において、私たちがいくつか思い知らされたというか、気がついたことがありますね。
誤解を恐れずに言うならば、実は私たちが日常をよりどころとしているものが、
私たちの命さえも儚いものだ、そういうことが実感された。
それが今回のコロナ禍の一つの特徴でなかったでしょうか。
一方、このイエスタウンに約束しているものは、目に見えないものです。
捉え所がないものです。しかし、状況には左右されませんね。
たとえ私たちが頼りにしている、目に見えるものが危機に晒されたとしても、
このようにイエスタウンに約束する見えないもの、それは平安のよりどころになり得るわけです。
パウロも実は別の手紙の中で、こう述べています。
私たちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目を止めます。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
パウロがテサネキの教会に宛てた手紙を書いたその場所であったコリントの力、
コリントの教会に宛てた手紙の中で、こう言っています。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く。
パウロが言っているんですね。
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さあそれではですね、目に見えない平安の賜物や平安の根拠を、
私たちはどうやって実感っていうんでしょうかね。
まあ、得得っていかないんですけど、知ることができるんでしょうか。
それが3番目です。平安を得るべく、信じ切るための目標です。
信じる、信頼するということが鍵です。
世界のこの世の基準からすれば、非常識なこれらのイエスさんをしてある平安やその根拠は、
私たちが信頼し、あるいは信じることによってのみ実感できます。
皆さんも知っていらっしゃると思いますけど、宗教改革者のマルチン・ルターですね。
日野先生が、明日死んでも今日花を植えよという本がありますけど、
それはルターのですね、明日私が死んでも今日リンゴの木を植えよという言葉を取ったそうですけど、
このマルチン・ルターが、実はこのイエス様が与えてくださるプレゼント、賜物について、
それをどのように得るかということについて、クリスマスメッセージでこう語ったっていうんですね。
あなたにこれを賜物として与えてくださるのは、キリストに他ならないことを信じきるということなのです。
あなたにこれを数々のものを賜物として、良いことを実行する力も含めてなんですけど、
それを賜物として与えてくださるのは、キリストに他ならないことを信じきるということなのです。
とマルチン・ルターが言っているんですね。
信じきると言うとですね、私のような体育会系の人間は単なる気合のようにですね、感じるかもしれません。
気合によってコロナに勝てってね、ちょっと変なことを言う人もいましたけど、
そういうものではなくて、実はルターは木葬することを勧めています。
つまり平安や先ほど言ったイエス様の賜物が、イエス様によって与えられるということ、
それが与えられているということを祈りの中に信じて、
聖書の言葉を肝解きながら、聖書の言葉に向き合いながら、
祈りの中で信じて、心の中で頭の中で木葬し続けることをルターは勧めているわけです。
そのような何度も何度もイエス様の約束や御言葉に立ち返って、
継続的に祈り木葬することが勧められています。
自粛生活の中で外食産業が非常に立て受けましたね。
その中でやっぱり皆さん料理しちゃったと思います。
私もですね、三食丼作ったんですね。
鶏そぼろ丼、鶏そぼろときゅうりと入り卵。
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入り卵っていつもうまくいかないんですけど、ネットで調べたら、
中火にしてかき混ぜればいいんですってね。
ミキサーみたいなこういう、なんでしたっけ、網のやつ。
泡立て器でずっとかき混ぜ続けてれば入り卵できるってやったら本当そうなるんですね。
この間は間違えてですね、みりんの代わりにだし汁を入れちゃって入れたんですよ。
で、砂糖も入れて。
で、食べたらね、美味しかったです。
どんなに私がこれ説明しても、皆さん食べなきゃ味わかりませんよね。
実はイエス様のこういう祝福も、どんなに口で言っても皆さんが食べてくれないと、
もうそれ以上私はどうすることもできないんです。
でも皆さんがこう瞑想して、頭の中で心の中でよく噛み砕いて食べるときに、
本当にイエス様の平安とか、精霊の恵みとか、御言葉の深さっていうことを味わうことができるんです。
具体的な方法としてルーターも言ってるんですけども、
聖書の言葉をイエス様と共に黙想する。
イエス様は何て言ってるかなって黙想すると共に、
今の自分の状況とイエス様がここにいたらどうするかとか、
今の自分の状況と聖書の言葉を合わせて黙想するって言ってですね、
行ったり来たりの黙想って言うんです。
聖書を黙想する。
で、自分の状況を黙想する、祈りの中で。
そういう聖書の黙想、自分の状況、黙想を行ったり来たりする。
そこにまたイエス様とイエス様の約束を行ったり来たりさせるっていう、
そういう黙想が主の御言葉を味わう方法だとルーターも言うわけですね。
自分が置かれている状況でさえイエス様が支配している、
その今の状況にこのイエス様の約束、
聖書の言葉の約束が当てはまるっていうことをじっくり黙想していくという作業です。
そのイエス様の約束を思い出して、
イエス様が今私たちが置かれている、あなたが置かれている状況においても
支配しておられることを祈りのうちに思い巡らす。
それこそ復活のイエス様と共にいるということを思い巡らすということなんですね。
実はこの黙想の仕方をですね、
ルーターは聖餐式に名ざられているんです。
聖餐式今、先週や言いましたが、
代表聖餐式で私しかパンと葡萄酒に預かれませんでしたが、
実は聖餐式というのは、
イエス様が私たちが食べて飲むようにパンと杯を用意してくださっている、
そういう想定なんです。
イエス様がホストなんです。
そしてそのイエス様から私たちは実際パンと杯をいただいて、
口で食べて味わう、飲んで味わう。
食べて飲んだものが体の一部になる。
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そのようにイエス様が私たちの一部になるということが
聖餐式で象徴されているわけなんですよね。
そのように聖餐のパンと酒漬けだけでなくて、
イエス様は聖書の約束をこのテーブルに並べて
私たちを招いてくださっています。
ぜひですね、祈りのうちにそのイエス様が約束してくださった御言葉、
平安の約束を味わってですね、
不安がまだ襲うかもしれませんけども、
イエス様のくださる平安をものにして、
この心を騒がせずに歩んでまいりたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
状況が前向きに動いているような中で、
様々な日常生活が戻っています。
さりとって私たちは先行きが見えない、
漠然とした不安の中にもあります。
どうぞ私たちがその中で、
偽りの宗教はもちろんですが、
様々な出来事の中で心を騒がすことがありますけれども、
イエス様の約束してくださったその平安を、
祈りのうちに味わい、
あなたから約束いただいたものを味わいながら、
心に宿しながら、
この地を共に歩んでいくことができるように、
どうか導いてください。
この願いと感謝を、
私たちの主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
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