ヨハネノ福音書の冒頭
ヨハネノ福音書1章の1節2節。 初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。 言葉は神であった。
この方は初めに神と共におられた。 以上です。今日はこのところから、初めに言葉があったと題して御言葉を取り継ぎます。
みなさんおはようございます。 今日は最初の10月の礼拝です。
日本では4月始まりですと、10月から始末期に入ります。 新しい年度ではないんですけれども、新しいことがまた始末期に始まる。
テレビやラジオでも番組が改編されたり、新しいドラマが始まったりしていきます。
偶然なんですけれども、私たちの礼拝も今日からですね、 マルコの福音書を終えて、ヨハネノ福音書を新たに取り上げていきます。
先週までに取り上げたマルコの福音書はですね、 それをもとにマタイとルカの福音書が書かれて、共感福音書と呼ばれています。
この3つは非常に似ているんですね。 しかしヨハネノ福音書は非常に独特で、違った視点でイエス様について書かれています。
この絵にもありますが、ダイヤモンドを違った角度で見ると、 新しい輝きが生まれてくるようにですね、
イエス様が神の御子であり救い主であるということを、 このヨハネノ福音書の視点から見ると、また新しく輝いてくる。
そのように思われるかと思います。 今日はですね、まさに冒頭の
序文が1章の1節から18節になっているんですね。 そこを読んだだけでも、この他の3つの福音書と頃合いが違うということがすぐわかると思います。
ロゴスの概念
マルコの福音書はローマ人に向けて書かれた、 わりと行動的なローマ人に向けてなのでシンプルで、しかもアクションが大きいんですね。
一方、1節によると
ギリシャ哲学の影響を向けているかな、後に書かれているのがヨハネノ福音書なので、 ロゴスという言葉が今日のテーマになりますが、非常に哲学的とまでは言わないんですけれども、
後来が違う。例えて言えば刑事ドラマと何か、あるいは何かのドキュメンタリーを見るのがマルコだとすれば、
シートまで言えませんけれども、少しこのゆっくりなドラマですとか、何か風景を中心とした番組を見るような、そのような違いがあるわけです。
読んで比べてみればわかるかと思います。
さあ、そしてですね、ドラマの始まりを見ると、最初の1回、2回、3回でほぼ中心的な人物が出てきてですね、そして今後の、よく言われる伏線になるような、回収されるべき伏線になるような出来事が隠されているわけですよね。
同じように、ヨハネの1章から18、1章1節から18節には、ヨハネの福音書全体で出てくるテーマがほぼ全て要約されています。
メインのテーマはもちろんイエス様です。そしてイエス様についてのある出来事です。
それからまた、そのイエス様について人がどう反応したのか、反応するのか、それによってどんな結果がもたらされるのかということが、1節から18節の間の中でも書かれているわけです。
まあ、その今日はですね、冒頭の2節だけ取り上げますけれども、非常に内容がぎっしり詰まったところです。
そこから3つの点をですね、取り上げていきます。中心となるのが後で出てくる言葉、ロゴスという言葉です。
まず最初ですね、初めに言葉があったということです。ちょっと皆さん、この同じ繰り返しになりますけど、1章1節の冒頭を読んでみましょうか。
3、初めに言葉があった。 実は、ギリシャ語の原文もですね、冒頭の言葉は、はじめにという、エン・アル・ケイという言葉なんですね。
で、しばらく前にマルコの冒頭も取り上げましたが、そのマルコの一番最初の1章1節も、元の言葉では、はじめとは始まり、アル・ケイという言葉が冒頭にあるんです。
アル・ケイとは始めであると覚えればね、覚えやすいんですけど。同じ発音、角が違うんですけども、同じ発音から、
音からですね、マルコもヨハネも始まっている。そして特にこのヨハネの福音書の、はじめに何々があった、
はじめにエン・アル・ケイ、in the beginning というのは、創世紀の冒頭のですね、
はじめに神が天と地を創造されたという、 ギリシャ語の旧約聖書の冒頭と同じ言葉があえて使われています。
その理由はですね、世界を創造されたその神の言葉と、 ヨハネが冒頭で挙げている言葉ロゴスが同じものであるということを示しているんです。
ちょっと今日はね、理屈っぽいことが多いので、もう眠くなったら寝てください。 あとはね、レジュメを読み返してください。
はい、そういうことが背景にあるんですけれども、 実はこの言葉は今まで申し上げたように、
ギリシャ語ではロゴスという言葉なんですね。 ロゴス、よく聞きますよね、ロゴス。
さらにですね、はじめに、言葉があったのははじめにというのはですね、 はじまりはじまりというマルコの福音書とちょっと違って、
もう一つの方の歴史の始めや宇宙の起源にという、 本当の根源とか始まりという意味があるんです。
歴史の始めに、それ以前の宇宙の根源にロゴスと言われる言葉があったと書き出しているんですね。
ですから、この最初の短い一節を言い直すとこうなるんです。 歴史の始め、さらに遡って宇宙の根源には既にロゴスである言葉があったということなんですね。
もっと難しいんですけど、この言葉はあったのあったはですね、
B 動詞の未完了形、ちょっと英語の字がなっちゃいましたけど、未完了形という時世でして、ずっとあった、過去にずっとあって、ここでは特に
始まりもなくあった、つまり永遠の昔から既にあったということを表しているんです。
絶えず存在していて、存在しなかった、期間はなかったという、 そのことが言葉、ロゴスについて言われているんです。
神とロゴスの関係
覚えておいてくださいね。永遠性ですね。 永遠に存在する神様のことがここで示唆されているんです。
ロゴスという言葉を表すことに。 始めにという言葉を表している。
で、この一節の冒頭の始めに言葉があったということを
短い言葉をさらに説明を加えて表現すると、 さっきの2つの言葉を説明を合わせるとですが、
歴史の始め、さらに遡って宇宙の根源には既にロゴスである言葉があった。 その言葉は絶えず存在していた、存在していなかった、時期はなかった。
それだけの深い意味が、たったこの短い言葉の中に褒められているんですね。 じゃあこれが何を意味していくのか。
それが2番目にかかってきます。 2番目のポイントは、御言葉の引用なので書き括弧の中で読んでみましょうか。
言葉は神と共にあった。
じゃあその、 宇宙の始まりからあったこのロゴスというのは、
単なる力や理念だったのか? そういう疑問が出てくるんですね。でもそうじゃないんだ。単なる理念や概念ではない。
そのことはですね、言葉は神と共にあったというこの表現によって否定されていて、
この言葉は神と共にあったということで表しているのは、このロゴスと言われる言葉には人格があったという、そういう宣言になっているんですね。
それは一体何故やということをちょっと見ていきます。
この 神と共にあったの共にという言葉は、ちょっとまた難しくなるかもしれませんが、
英語ではウィズという言葉で表現されているんです。 けれども元々のギリシャ語ではプロスという言葉で、これはどういう意味かというと、
ある方向に向かっていくという意味があるんです。 このロゴスなる言葉は神の方向に向かって存在していた。
それはですね、簡単に言うと、このロゴスなる言葉と神様がお互いにコミュニケーションをとっていたという意味なんです。
ロゴスは単なる理念とか、後で見ますが、世界を想像するような力ではなくて、神なる存在と対面してコミュニケーションをとっていた。
人格を持っていたのがロゴスだということをここで表しているんですね。 神と互いにコミュニケーションを取り合っていたロゴス。
あの教会でガン哲学外来カフェというのをやってますけど、あれ別名なんて言ってるかわかります?
いろんな言い方ありますけど 〇〇カフェ
二文字漢字 クイズ番組ですけど、それねー
対話カフェって言ってます。対話。
対話カフェってどういうことかっていうと、 心と心や言葉と言葉がその中であの交わし合われるというカフェなんですね。
で それは
対話ですから互いの間に言葉のやり取りがありますし 共感や心や気持ちが通じ合う
ことが対話カフェの中で起こっている。だからまあ 不安は解決しなくても解消できるなんて言い方するんですね。
誰かに受け止めてもらった、共感してもらった。そしたら不安は解決しないかもしれないけど、気持ちが解消するということ。
そういう言葉が通い合い、心が通い合い、気持ちが通じ合うのが対話です。 人格的な関わりが生まれるんですね。
ですから言葉は神と共にあったということから、この ロゴスという言葉はですね
神との間で心が通い合い、対話が成立していた人格である。 ロゴスなる言葉は単なる理念や力ではなかった。
このロゴスなる言葉は神との間で心が通じ合い、対話が成立していた人格であり そのロゴスなる言葉は単なる理念や力ではなかったという言葉がこの短い
言葉は神と共にあったということの中に込められているんですね。 ある学者はこの神を
父なる神様と理解して 言葉と父なる神様の関係をこのように表現しているんですね。
このロゴスと言われる言葉は 父なる神と最も近い結びつきの関係で存在していたのである。
言葉と神の関係
言葉と神とは同一のものではないが、両者は一つに結びついているものである という述べているんですね。
少し難しいかもしれません。 このようにですね
ロゴスと言われている言葉は単なる理念や概念ではなくて人格を持っている。 しかもその
父なる神と対話をしている存在だということが 言われています。次に3番目ですね。
じゃあちょっとこれ読んでみましょうか。3番目。 言葉は神であった。
じゃあそのロゴスなる言葉と神が対話しているということは別人格であるならば そのロゴスは神ではないんじゃないですかという疑問が生じるわけです。
まあ今日難しいからあえて言いませんけどそういう異端が今も その時代から
あの存在しています。あのはっきり言いませんけど 諭結しちゃいけないというところです。ここからそういうふうに言うんです。
違うでしょ。でも そうじゃなくてこの一節の最後で
言葉は神であったと宣言されているので
別人格だけれどもロゴスはやはり神なんだということが宣言されているんですね。
で まあ
学者の引用が多くなってあれなんですけれども このことをこう解説しているんですね。学者はこれ以上の崇高なことは言えない。
神について言えることは 言葉についてもロゴスなる言葉についてもぴったり同じことが言えるのであると言われているんですね。
冒頭の初めに言葉があったという出しは 創世紀の一章の
言葉と重ね合わされているとお伝えしました。 実は皆さん気がついたと思いますけど創世紀一章は神様が言葉によって創造されたわけですよね。
光をあれといえば光ができた。そして全部ではないんですけどもほぼ多くの箇所で神は仰せられたと言って、その後するとそのようになったということが繰り返されているんです。
神の言葉によって天体が例えば生まれたとすると神の言葉の通りになったといって、世界を神が言葉によって創造したということがここで言われているわけです。
そしてそこから何が分かるかということは、ヨハネはこの冒頭で創造のみわざとこの創造の言葉とロゴスを結びつけている。
そしてロゴスのある言葉は実は創造的な力を持ち万物を生み出した神であったと伝えているんですね。
このようにヨハネの福音書はもう答えわかっていると思いますけれども、神の言葉が指し示すところのイエス様を
この神様として救い主として新たな輝きを持って私たちに示している。
そしてヨハネの福音書はどんな物語かと言えることの一つに、新しい創造の物語だということができるんですね。
イエス様による新しい創造の物語がヨハネの福音書だということができるんです。
神の言葉であるイエス様による新しい創造の物語がヨハネの福音書だ。
そしてもう一つ、ちょっと別の点になってしまいますが大事なのでお伝えしますけれども、言葉の特徴の一つに
人の考えを示すのがありますね。さっきの対話カフェでもその人の気持ちを表したり何を考えているかを表すのに言葉が使われます。
ですからここでロゴスなる言葉によって何が示されているか。
神様は人間が理解できるように神様ご自身のことを表してくださる方だということがロゴスという言葉で
指し示されているんです。となるとどういうことかというと、ロゴスなるイエス様は
父なる神様を人間に指し示すためにこの地に来られたということがわかるわけです。
マルコの一書の冒頭にあるように神の御子イエスキリストという神の御子、神と違わず
存在される本質を持ったイエス様はこの地上で何をしましたか。それは私たちが見ることができない神様を私たちに指し示してくださった。
ヨハネの福音書もロゴスなる神の言葉ならイエス様はこの地に来て私たちに目に見えない神様を明らかにしてくださるお方だということがまた示されているわけなんです。
そのロゴスなるイエス様が父なる神様を指し示してくださるということがこのヨハネの福音書のテーマでありますし
そしてイエス様と父なる神様について新しい輝きを私たちに見せてくれる。それがこのヨハネの福音書であるということを期待してこれからともに学んでいきたいと思います。
神の創造とイエス
最後にこの冒頭の今日見た言葉を読んで終わりにしましょう。
はじめにから3分。
はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。この方ははじめに神とともにおられた。
お祈りしましょう。
天の父なる神様、皆を賛美いたします。あなたはその御言葉をもってこの世界を創造されました。
その御言葉としてイエス様がこの地に下ってくださり、私たちに神様ご自身を明らかにしてくださったことを感謝いたします。
そして私たちを新しく作り変えてくださることを感謝します。
どうかその意味の奥深さ、広さ、または素晴らしさを私たちが新たに見出すことができるように、これからの御言葉の時を祝し導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主シューイエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど黙祷の時間をとりましょう。