2021-02-07 30:10

#41/2/7 いのちの言葉に生かされて

コロサイ-17からの礼拝メッセージ。2021年2月7日録音。平和優先の教会生活、聖書の言葉に養われること、「いつくしみ深き」等讃美歌と聖書の関係、日曜の礼拝と日常の生活を結びつける祈りの言葉、それぞれについて学びます。
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コロサイビトへの手紙3章15節から17節
キリストの平和が、あなた方の心を支配するようにしなさい。そのために、あなた方も召されて一つの体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
キリストの言葉が、あなた方のうちに豊かに棲むようにしなさい。
知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝を持って心から神に向かって歌いなさい。
言葉であれ、行いであれ、何かをする時には、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名に於いて行いなさい。
以上です。
今日はこのところから、命の言葉に活かされて、命の言葉に活かされてと題して、御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
緊急事態宣言がですね、埼玉でも出されていたのが延長されました。
前からお伝えしていましたが、それに伴いまして、引き続き、このオンラインの礼拝も3月7日まで継続していく予定です。
先日、日本の小読では節分でして、この間、新聞で面白い絵を見かけたので、それをまずお分かちします。
反対でですね、外は鬼、家は福といってですね、毎日が節分だ。
まさにですね、外に行って新型コロナウイルスにかかるよりは、家に行った方がいいと、家の中に福があると。
節分というのはですね、字が違ってますけども、切り離したり分断されたり、そういうことがしばらく続くなんて、
そんなことがですね、このような風刺漫画にも書かれていました。
非常に仕事に生かさなきゃいけない人もいますけども、いろいろな行動が制限されるわけで、このように礼拝も各自、家で守っているわけです。
今日の御言葉はですね、そんな私たちの礼拝生活と、そして日常生活に関わることが語られています。
今日のところから、パウロは非常に具体的な形で、クリスチャン生活の指針を書いていくんですね、進めていくんですね。
それはですね、こういう意味です。イエス様を信じ、イエス様と共に蘇った私たちは、キリストを着るものになった。
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そのキリストを着たものは、新しい神としての新しい行動基準、行動指針が必要だ、そういう意味で具体的なことを書いています。
よく言っていますけれども、この際のクリスチャンも私たちも、違法人、かつては神の民でなかったものが、先週も見ましたが、新しく聖なるもの、神に愛されたもの、そして神に選ばれたものとして、神の民に加えられました。
その私たちに必要不可欠な指針をパウロは書いています。
それはちょうど、旧約聖書の質エジプト記から、神明記にあるように旧約の神の民イスラエルがですね、いわゆる立法を授かって、彼らの神への礼拝また日々の生活の指針が与えられた。
それと同じように私たちに、また教会にふさわしい行動指針や倫理基準、それが今日の御言葉に表されているわけです。
少し考えてみれば、皆さんもお仕事をしていると思いますが、この職場には職場の職員としての行動指針があります。
あるいは日本でも、例えば武士などですね、いわゆる名門の家系には家訓というものがあります。
何が言われているかというと、このふさわしい共同体、それなりの共同体には、それに見合った行動指針や家訓のようなものがある。
そして今日の御言葉は、新しいキリストの民、私たちクリスチャン、そして教会の民への行動指針です。
その内容はですね、礼拝とそれと関わる日常生活に関するものです。
その点はですね、3点今日は学んでいきます。
平和について、御言葉について、そして日常生活について3点取り上げていきます。
まず第一点、平和。
平和がシンパン、アンパイヤ、アンパンマンではありません。
くだらないギャグで黙って笑っている人もいるかもしれませんが、平和がシンパン、アンパイヤであるということです。
3書15節でコークパウロが書き出しています。
キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい。
そのためにあなた方も召されて一つの体となったのです。
こういうことです。
この支配しなさいの支配する、平和が支配するの支配はですね、いわゆるギリシャ語のバシレイヤという言葉とは違います。
それは神の国の支配とよく使われている言葉とは違って、この野球などでシンパンを務めるという言葉が使われているんです。
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平和があなた方のシンパン、判断基準となるようにしなさいとパウロは進めています。
どういうことでしょうか。
それはですね、私たち教会の人間関係、また教会の判断基準はお互いの平和を保てるかどうかということだということです。
いつも言っていますし、しばらく前から見ています。
3書11節でコロサイ教会にはいろいろな背景の人が集まっていましたね。
ユダヤ人や、そしていわゆる日本人、かつれのある人ない人、ローマ人や、語弊を恐れず言うならば野蛮人もいた。
そういう中で様々な背景を持った、違った価値観をもともと持った人々が集まっているところがコロサイ教会であり、私たちの教会でもあるわけです。
そして今、世界中に見られる教会はまさにそういう一つの教会です。
その時にですね、世界の教会でも、あるいは私たちのような小さな教会でも、自分の背景だけから物事を判断して発言をしたり、また正論でさえですね、正論でさえそれをぶつけ合うとですね、不必要な衝突が生まれてしまうということです。
その時にまず、教会に属するものとして考えるのは、お互いの平和を保つためにはどうするのかということが審判、判断基準になって、それに基づいた発言や行動をするということなのですね。
あとでも取り上げますけれども、パウロは互いに聖書から教え合いなされていますけれども、その時もお互いの平和を保つということが一つの判断基準になる。
聖書から教える場合でも、そういう配慮をもって教えるということになります。
もちろん私たちの教会ではそういう問題が今はないですけれども、私たちクリスチャンとしてそういうことをまず知っておくべきことかと思いますし、御言葉が今日語っていますので取り上げました。
最初の点は、教会、クリスチャンのこの交わりは平和が判断基準であるということです。
2番目のポイントです。キリストの言葉を豊かに住まわせなさいという命令に注目しましょう。
このパウロの3章16節で珍しい表現がなされて、そこに注意を引き付けられます。
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どういうことかというと、キリストや精霊が教会や私たちの中に住まう、宿るという言葉をパウロは使いますけど、同じようにキリストの言葉が私たちや教会の中に宿る、そういう命令をパウロはしているわけなんです。
御言葉を見てみましょう。
3章16節
キリストの言葉があなた方のうちに豊かに住むようにしなさい。
知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、人賛美と礼の歌により感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。
ここで珍しい表現、それはまずキリストの言葉をあなた方の中に住ませなさいと言っています。
教会の中にキリストの言葉が豊かに住んで、また私たちクリスチャン一人一人のうちにキリストの言葉が豊かに住むようにしなさいとパウロは命じているわけです。
このことをある学者が次のように解説しています。
キリストの言葉が教会の中に浸透し、それがダイナミックな現実になり、この浸透するという意味ですね。
教会の中にイエス様の言葉が浸透してそれがダイナミックに現実になっていく。
そしてそれが力強い原動力として作用している状態、それをパウロはこの御言葉の中で命じているわけです。
この英語の文献からあえて言語を書いておきましたけれども、
be operative as a powerful forceですね。
力強い原動力、力として神のキリストの御言葉がoperative、この教会やクリスチャンの中で働いているべきであるとパウロは言うんですね。
こんな風に例えられるのではないかと思いました。
私たち体の臓器の一つ一つに栄養素が必要ですね。
胃や肝臓や腎臓、それぞれ一つにも栄養素が必要で、同時にその各部が構成している体全体にも栄養素が必要であって、その上で活動が成り立っています、一つの体というのは。
同じように私たちクリスチャンをクリスチャンと教会に例えるならば、私たちキリストの体である教会に属する一人一人にまずキリストの命の言葉が豊かに満ちるほど必要なのです。
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私たち一人一人も一つの臓器として。
そして当然私たちが集まる教会の中にもキリストの命の言葉が満ちている必要があるということなんですね。
その証としてこうやって礼拝で説教を語られるわけです。
なかなか機会が持てませんけれども、教会で特別に時間を取って聖書から学び合うわけです。
そして私たち一人一人も皆さんも一人一人もお家でですね、聖書を開いてキリストの言葉を食べていくというか、命として内側に宿していくわけですね。
パウロは互いに教え言いましめなさいと言っているように、理想は私牧師が一人で皆さんに教えるのではなくて、皆さんが互いに御言葉を通して教え合うということをパウロは告げているわけです。
それが教会のあるべき姿であるとパウロは言っています。
皆さんの中にはですね、気遅れするかもしれません。私が他の人に聖書を教えるなんて。
ですからですね、こういうふうに考えてもらえばいいと思います。
皆さん一人一人が聖書を読んでいて、心を打った言葉とか、元気をもらった言葉、あるいはイエス様と出会った言葉、そんな言葉はですね、何かの機会に分かち合っていただく。
あ、私はこういう言葉から励まされました。そういう分かち合いをお互いすることもこの御言葉で言われていることかと思います。
私ちょっと忘れてしまいましてですね、皆さん祈祷課題出してもらいましたけど、あの中にですね、皆さんの好きな御言葉とか、最近養われた言葉なんていうのも書いてもらうべきだったなと思っておりますけども、そんな機会を持っていればと思います。
また、ぜひですね、この教会だけでなく皆さんお家でも聖書を読むことをお勧めします。
例えばですね、手元に聖書を置くことももちろんですけども、今ここにありますように、聖書のアプリが手に入ります。
これは新海薬聖書の2017年度版で教会で使っているものですけども、3000円でですね、ダウンロードできます。
例えばいろんな機能がありまして、旧薬聖書新薬聖書ももちろんピックアップできますけども、こういうしおりの機能があって、自分が読んだところがですね、しおりしとくと読めるわけです。
15:00
でですね、あとこちらですね、これはタダでですね、インターネットで日本聖書協会、新海薬聖書ともう一つ並んで健全な日本でメジャーな聖書に新共同薬聖書というのがありますけども、それはもうネットでタダで無料で利用できます。
聖書の本文を検索したりですね、探すことができますので、これなんかは使ってみるのもいいかと思います。
ちなみにですね、もし1日3章旧薬聖書を読んだら、1年間で聖書通読できます、旧薬聖書。
あるいは新薬聖書1日1章を読んだらですね、1年間で新薬聖書を全部読むことができます。
意味がわからなくてもですね、とりあえず読んでみるということが大事かと思います。
例えば皆さん、私たちも食事するときにですね、栄養素がわからなくても食べていると栄養を得られるように御言葉を読んでいくとですね、それ自体も栄養をとることになりますから、
ぜひ、例えば新薬聖書だったら福音書から1日1章とかですね、毎日読んでみること。
1章が難しければ、少しずつでもですね、読んでみることをぜひお勧めいたします。
そしてこの御言葉に関してパウロは続けて、こう言っているんですね。
この、死と賛美と礼の歌によって感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。
実はですね、ここでパウロは賛美と御言葉の関係、あるいは礼拝における賛美について言っているんですね。
教会の礼拝生活でパウロは賛美化の意味を訴えているわけです。
ここで言うですね、3つのカテゴリー。死と賛美と礼の歌。厳密にはわからないって言うんですね、学者も。
でもおそらく、例えばここで言う死は詩編。今は音階わかりませんけど、当時は詩編を歌っていました。旧薬聖書の詩編。
旧薬の民からそれが受け継がれていたり。賛美というのはですね、キリストの賛美化を作ったと。
例えば聖書に名残があるのは、フィリピンの2章の6節から11節。
クロセイピトの手紙の1章の15から20節などに、キリストの賛美化の名残があります。
あるいは礼の歌というのはですね、即興で歌われた賛美化だと言われています。
このようにパウロは、礼拝の中での賛美の重要性を説いているわけです。
礼拝の前半で賛美歌を歌いますけども、あれはですね、説教の前座でもありませんし、
礼拝の終わりにも聖詠の賛美を歌いますけども、それは詩目の終わりの歌ではないんですね。
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このように神を讃える意味のある歌です。
さらにパウロはですね、この賛美歌を通して、私たちは大切なキリスト教の教理や御言葉の真理を身につけることができると教えているんです。
例えばですね、皆さん今日最初に歌った聖歌の賛美歌の1番、これですね、賛美がだいたい聖書の言葉と関係しています。
賛美歌の1番、今日歌ったものであれば、牧師読の4章8節なんかが背景にあるわけです。
ちょっと皆さんその場で声出せたら一緒に読んでみましょう。
この聖なる生き物というのは、ヨハネがですね、天国の礼拝の幻を見た時に天国の礼拝の様子を書いたものですけども、そういう背景がこの賛美歌にあります。
あるいは、詩編72編の19節ですね、これ読んでみましょうか。
賛拝、常しえに読むべきかな、その栄光のみな、その栄光は地に満ち渡れ、アーメン、アーメン。
こういう聖書的な背景があるわけです。
あるいはですね、よく歌う歌、432編の慈しみ深きですね、これにも大切なキリストの言葉が背景にあります。
また11章28節、すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい、私があなた方を休ませてあげます。
あるいは、第一ペトロ5章7節が背景にあります。読んでみましょうか。
賛拝、あなた方の思い患いを一切神になれなさい、神があなた方のことを心配してくださるからです。
前後しますが、この御言葉も背景にあるんですね、慈しみ深きには。
ヨハネ15章13から15、人がその友のために命を捨てるというこれよりも大きな愛は誰も持っていません。
私があなた方に命じることをあなた方が行うなら、あなた方は私の友です。
私はもはやあなた方を下辺とは呼びません。下辺は主人のすることを知らないからです。
私はあなた方を友と呼びました。なぜなら父から聞いたことを皆、あなた方に知らせたからです。
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このイエス様、友なるイエスよと賛美していますけれども、その背景にはこのイエス様の私はあなた方を友と呼びましたという御言葉があるわけですね。
実はこの慈しみ深きにはたくさんの御言葉の教えが隠れていて、他にはですね、
執衛ジプトキの33章14説や、神言18章24説、第一ペトロ3章12説、ピリピリとへの手紙4章6説から7説、伊勢谷書の53章4説、
これだけですね、この賛美歌には御言葉の背景があるわけです。
このように私たちは知らず知らずのうちに賛美歌を歌うことによって、キリストの御言葉を私たちの内側に宿らせている。
頭の中に、記憶の中に、体の中に、この御言葉を宿らせていることになるわけです。
そういう思いを持ってこれからも賛美を歌うときに気にかけてみてください。
それでは最後の点です。
2番目が御言葉に関することでしたが、この3番目は、キリストを生きる礼拝者の生活ということで御言葉を読んでいきましょう。
パウロはですね、キリストの民にとって日常生活も礼拝とつながっているとこう教えています。
言葉であれ、行いであれ、何かをするときに、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさいとパウロは命じているわけです。
このように、キリスト社の生活には感謝が伴うべきである。ある学者もこう言っているんですね。
神への感謝はすべてのクリスチャンの行いに付随するべきである。
感謝とクリスチャン生活、神への感謝とクリスチャン生活は切っても消えないものだというわけですね。
そしてその礼拝と感謝から、さらに日常生活についてパウロは述べているんですね。
ここの後半の部分です。
言葉であれ、行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。
パウロはこのように、クリスチャン生活を貫く大原則を教えているわけです。
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このすべてを主イエスの名において行うことについて、ある学者はこう述べているんですね。
イエスの名において行うとは、主イエスの代表として行うということである。
さらに、こう自分にとることである、イエス様の名においてこの言葉を使い、このような行動をできるだろうか。
私たちがもちろん弱さがあってできることできないことがありますけれども、立ち止まって考えることができるならば、
今言おうとしていること、しようとしていることが、イエス様の名においてするべきなのだろうか。
そのように思い留まったり吟味する、それが一つのクリスチャンの行動指針であるとパウロは言うわけです。
これがまた、前も言いましたが、キリストを斬るということの具体的な意味でもあるとパウロは言うわけです。
このように聞くと、ある面、苦重いかもしれませんが、また、このようにも言われているんですね。
ちょっと長いんですけれども、皆さんその場で読めたら、声に出して読んでみましょうか。
すべてのものは、キリストを通して創造され、原則的に彼を通して贖われるので、
クリスチャンはすべてのこと、手仕事、政治活動、家族を養うこと、テニスをすること、何でもイエスの名によって感謝をもってすることができるということです。
もちろん皆さんはよくわかっていらっしゃいますから、犯罪とかそういうことはダメですよ。
でも、すべてをイエスの名においてするということは、私たちすべての生活の分野がイエス様との歩みと関わっている、そのように積極的にも捉えることができるわけです。
このように、私たちの日曜日の礼拝やイエス様の御言葉に生かされる生活というのは、私たちの日常生活とつながっているということなんですね。
先ほど節分という言葉、また絵を見ました。家の中と外で分けられている。何でも分断している。
しかしですね、クリスチャン生活というのは、教会の中でのイエス様を礼拝するという歩み、またそこで御言葉によって養われるという生き様。
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それがですね、家庭や日常生活の中で浸透していく、分断していない、そういうものであるということなんですね。
終わりにですね、ある文を紹介したいんですが、皆さん、東京築地にある聖露華国際病院、昔は聖露華と言っていましたけど、聖露華国際病院ご存知ですね。
亡くなりましたけども、長らく院長を務めていた檜原茂明先生。100歳まで生きられたんでしょうかね。
長寿の代表のような檜原先生はクリスチャンでした。そして彼の父親の禅助さんは牧師だったんですね。
その檜原禅助牧師が、英国人牧師のジエットという人の祈りを日本語に翻訳しているんです。
毎日365日、いろんな祈りが紹介されていますが、その中から2つの祈りを紹介して、説教を締めくりたいと思います。
皆さんもどうぞ、その場で読めたら、声に出して読んでみてください。
まず最初の祈りです。
パウロの御言葉に応答するような祈りですね。続いてこの祈りも応答の祈りになるかと思います。
2番目も読んでみましょう。
お祈りしましょう。
私の生活において御言葉によって生かされ、あなたに生きることを学びました。
どうぞそのような歩みをこの1週間続けることができるように。
新型コロナウイルスの蔓延が終わらない中で、さまざまな制約や難しいこともありますけれども、
どうか私たちが日々をあなたにあって御言葉によってやしながら生きることができるように導いてください。
主の皆によって祈ります。アーメン。
それでは皆さんその場でしばらくお祈りしてください。
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