2020-10-04 32:33

#26 20/10/4 危うさの中でも

コロサイ-17からの礼拝メッセージ。2020年10月4日録音。危うさを感じる時代に、イエス・キリストを信じて生きること、教会に集う意味について考えます。
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新約聖書2017年版からお読みします。 「殺さえ人への手紙」1章15節から17節。
御子は、見えない神の形であり、すべての作られたものより、先に生まれたからです。 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも、見えないものも、王座であれ、主権であれ、支配であれ、権威であれ、御子にあって作られたからです。
万物は御子によって作られ、御子のために作られました。
御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。
以上です。 今日はこのところから、危うさの中でもお題して御言葉を取り継ぎます。
みなさんおはようございます。
10月に入りました。急に涼しくなりましたね。
今日は風邪ではないんですけども、体調の不良とかですね、帰省とか、様々な事情でお休み活する方も多少多いですけれども、共に主を礼拝できる幸いを感謝しています。
また、礼拝についても言っていけたらと思いますが、ところでみなさん、みなさんスマホ持ってます?
今日はR線流で、ガラ系に追い風なるかデジタルかなんて出てましたけどね、
みなさんスマホですね。アンドロイドの方、iPhoneの方、大体そういう数字ですよね。
実は今日のこの、読んだ御言葉は、このスマホに関係する言葉が真理を的確に表しています。
このですね、前に掲示しました1章15節、ちょっと読んでみますね。
「巫女は見えない神の形であり、すべての作られたものより先に生まれた方です。」
このイエス様が見えない神の形であるという形という言葉は、ギリシャ語でエイコーンというんです。
このエイコーンというのは、いわゆるこれです。
スマホのアイコンのこと、この元になった言葉ですね。
このアイコンというのは、もともとエイコーンという言葉に由来しますが、エイコーンという言葉はですね、
まさにこのスマホのアプリのアイコンが表していますけれども、見えないものの実体を具体化する、具象化するのがこのアイコンです。
このスマホの中身のプログラミングというのは、1と2の数字のラレースですよね。
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これから勉強する方もいらっしゃると思いますが、デジタルというのはそういうものです。
でもそれが、アイコンによってどんな機能があるかということが明確になっています。
ところで、このWindows 95というのが1995年に発売されて以来、パソコンの使い勝手の良さが加速的に進歩して、
今はWindows 10になっているかな? これはそうですけど、実はこのWindows 95と32GBのパソコン、スマホの容量をざっと計算するとですね、
1対254です。 今、Windows 95がスマホで使えるというアプリが出たそうなんですけど、
このWindows 95の容量があるメガバイト数なんですね。それを単純に計算すると254倍なので、とにかくWindows 95の今、
254倍のものを皆さんは32GBで手にしているんです。それほどこのすごいものを私たちは手にしていますが、
普通に使っているとそのありがたみとか凄さを忘れてしまいますよね。
実はそのイエス・タムを知るありがたみというか驚きも、これに似たものとこれ以上のものがあって、パールはそのことを今日の見事まで歓喜しています。
実は旧約聖書の時代、神様は見ることができませんでした。 罪ある人間は神を見ると生きていることができないと言われていました。
実際死ななかったんですけれども、例えば、敬虔なモーセでさえ神の後ろ姿とか、
大井をしてなんとか神の前に出れたとかですね、アブラハムでさえ神の後ろ姿を見たという傾実があるぐらいで、神を目にする、
親しく神と語るということはですね、もうある意味は命がけで尊いことだったんです。
しかし私たちはイエス様という神様とコミュニケートすること、慣れっこになっていますね。
まあちょっとその辺の、今日は深さなんかも一緒に学んでいくんですけれども、
そのイエス様が目に見えない神の形であるということを、今日は触れませんけれども、ぜひですね、
新約聖書の最初の4つの副印章を読んでくだされば、イエス様の生涯を通して神様ということが具体的にわかるということが特にあります。
それはさておきまして今日は、神の形、すなわち神なるイエス様と私たちの信仰生活の関わりについて3つのことから学びます。
そしてそのもう一つの具体的な適応として、礼拝生活に関わることを最後にお話ししましょう。
まず最初のポイントですね。
イエス様により私たちは明確に神様を知ることができます。
それはあやよさの中で大きな読みどころになります。
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何度も言いますが、このスマホのアプリにはいろんな機能がありますね。
そしてさっきも言いますが、実際はこれはプログラムで数字の位置と位置の羅列とか、いろんな難しい言語が書いてあるわけです。
しかしその目に見えないプログラムの機能をわかりやすくアイコンが示していますね。
例えばこれは何ですか。
これ、時計ですよね。
時計、タイマー。
私も使って、今日これで目を覚ました。
私は家ではiPod touchを使ってますからね。
私の目覚ましはこれであるんですけどね。
それはそれとしまして、そのようなアイコンというものが目に見えない実質を表しているように、イエス様は目に見えない神様が人となってこの世に下ってこられたお方です。
そしてイエス様はご自身の言葉を行き様を通して、目に見えない神様を具体的に表しておられる。
これが何が素晴らしいかということです。
つまりなぜかというとですね、その素晴らしさは、私たちはイエス様を通してはっきりと神様を知ることができるんですね。
日本人の神官、イメージがぼんやりしています。
そして私たちが神様に対するイメージがぼんやりとしていると、信仰生活も神様をなんとなく知っているぼんやりとしたものになってしまいます。
ぼんやりとした信仰ではなくて、確信を持って私たちが、
こう言えるんですね。
私たちはイエス様をまことの神様として信じています。
あなたの神は何ですか?って言われたら、私の信じている神様はイエスキリストです。
はっきり言える。
それが素晴らしい点です。
イエス様はそのことを、
ご自身の言葉で
証しています。聖書にこういう言葉があるわけですね。
ちょっと見てください。ヨハネの福音書14章9節です。
弟子の一人が、
イエス様にね、
イエス様、父なる神を私たちに見せてくださいって言った時に、イエス様は答えた言葉です。
こう読んでいますね。
なぜ父を見せてくださいというのかと言った後に、こう言いました。
イエス様は、私を見たものは、
父を、
父なる神を見たのです。
どうしてあなた方は、
私たちに、父を見せてください、というのですか?
また同じヨハネの福音書にはですね、
私と父なる神は一つです。
と言っています。
だから私たちがイエス様を信じているということは、
聖書の伝統の父なる神様を信じているということとイコールです。
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そしてこの危うい時代の中にあっても明確にですね、
私はイエス様を信じていますと確信を持って、
いうことができるわけです。
2番目。
その神の形、
神であるイエス様を信じることはですね、
イエス様に明確に助けを求めることができるということなんです。
私たちが本当に苦しい時に、
なんとなくしか信じていない神様、
なんとなくいるかいないか分からない神様に祈ることは、
虚しいのです。
しかし私たちは先ほども言ったように、
はっきりと救い主イエス様に、
イエス様助けてくださいと、
祈ることができます。
例えばスマホのアイコンに例えるならばですね、
道に迷った時に、
例えばグーグルマップにですね、
クリックして、
そうすると、
場所を入れると、
その場所まで私たちを
道案内してくれるわけです。
アイコンをクリックするとアプリが起動して、
そのアプリが実際的に発動してですね、道案内をしてくれるようにですね、
私たちがイエス様に祈りを持ってアクセスをすると、
イエス様は人生の迷い道の中で私たちを、
明確に導いてくださるんですね。
ワンクリックで、
アクセスできるように、
イエス様祈ることによって、
このイエス様に神にアクセスして、
救いを体験できるわけです。
実はこのことはですね、
今日の読んだ御言葉のある一節に関わります。
1章17節、ここに書きました。
ちょっと読んでみますね。
ミコは、イエス様ですね。
ミコは万物に先立って存在し、万物はミコにあって成り立っています。
このですね、万物がミコにあって成り立っているということです。
この言葉はですね、実は旧約聖書から新約聖書の間に受け継がれた、
民の民の伝統の書物の中からの引用というか、そこにヒントを得てパールを書いたというですね、
ちょっと珍しいのでここに書いてみました。
シラ書43章26節にこういう言葉があるんですね。
この万物はミコにあって成り立っていますが、ユダヤ人の信仰の伝統を記した書物、この言葉です。
種の言葉によって万物は保たれている、
この万物は保たれているという言葉に、成り立っているという言葉と同じ言葉が使われています。
そして種の言葉というのはですね、皆さんご存知のようにイエスは言葉であった、
そのことと連想しています。とにかく万物が保たれている。もう一つはですね、知恵の書1-7、
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万物を包み保つ霊は、人の語る言葉を知っておられる、この万物を包み保つというこの言葉が
成り立っている。イエス様にあって全てのものが成り立っているという言葉と同じ言葉なんですね。
つまりどういうことか。
私たちを含む全てのものは、神なるイエス様によって想像されただけではなく、
今そのイエス様によって保たれている、包み込まれているんです。
だから私も、あなたもですね、気がついていようといまいがイエス様によって保たれている、
イエス様によって包み込まれているんですね、この危うい時代の中にあってさえ。
ちょうど礼拝が終わった後、先週衝撃的なニュースがですね、飛び交いましたね。
具体的に名前は言いませんけど、とある芸能人の方が自ら命を絶ったというニュースですね。
あの方はですね、新座市のそこの高校を卒業した方なので、少なからず私も勝手に親近感を抱えていました。
そのような著名人の自身のニュースが続いて、私たちの心が揺さぶられますよ。
なぜかというと、この中においてですね、自分自身を保つ難しさを私たちもなんとなく感じている。
そういう意味で自分の存在を揺さぶられる、そういうことをですね、その自身のニュースを通して感じるからかもしれません。
で、私たちは自分の存在が危ういと感じるときに、なんとかして自分を保とうとしますよね。
例えば私だったら、音楽を聴いて、さっきのアプリじゃないですけども、私はAmazon Musicがあってですね、ギターで聴けますから。
それをですね、お風呂に聴く、リラックスクラシックなのを聴きながらですね、お風呂に入ったり。
まあなんとかして、私のものはつまんないことですけども、いろんなことを通して皆さん、私たちは危機の中で自分を保とうとし、
でも、それがやはり難しいことがあるかもしれませんね。
しかしですね、この後で言いますが、私たちの力量を超えて、神なるイエス様は私たちを包み込んで、私たちを保ってくださる方なんです。
そのように、神なるイエス様が私たちを包み込んで、保ってくださるということをはっきりと知ることができますから、
それを拠り所として、イエス様に明確に助けを求めることができるんです。
イエス様、助けてください、と。それが第二の点ですね。
3番目、少し大きい話になります。
実はこの3つの箇所から、実は15節から20節までがですね、賛美だったんじゃないか、詩だったんじゃないかと言われてますけど、
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パールは美しい表現を使って、ここでイエス様の神なる素晴らしさを明かししています。
そして、この中で特にですね、今日取り上げた箇所では、イエス様の超越性が強調されています。
世界、あるいは全宇宙を超えたイエス様の権威、支配、その超越性ということが強調されています。
ちょっと皆さんのレジュメにも書きましたけど、わかりにくいので前に掲示しました。
分解しながら簡単にちょっとですね、解説します。難しいのでレジュメに見て、後で振り返ってみてください。
例えばですね、巫女は全ての作られたものより先に生まれた方です。
ここはですね、イエス様の潜在という超越性です。
それでちょっと余談ですが、先に生まれたというのでですね、ある人がイエス様は非造物なんですか?という、そういう議論があるんです。
イエス様は一番最初に作られた、神によって生まれた非造物ですか?という、そういう疑問があります。議論がずっとありました。
でもここではですね、先に生まれたというプロトコスという言葉は、生まれるということも意味があるんですけども、
実はこの超越性を表しています。
全てに勝るという意味で、この先に生まれたプロトコスという言葉が使われているということを覚えておいてください。
それはそれとしまして、とにかく全てのものより先に存在しているという超越性です。
そこから続いてですね、なぜなら、天と地にある全てのものは、イエスによって作られたって言うんですけども、
ここにある超越性はですね、全宇宙に関わる場所的超越性です。
天と地にあるものを作られたというのはですね、天と地というその場所的無限さを表しています。
場所にとらわれない超越性がイエス様にあるということですね。
そしてここ、その続いて、見えるものも見えないものも巫女によって作られたという、これはですね、
見えない実体さえも想像された超越性というのです。
ちょっと難しいことを言いますけど、哲学的な影響もあってですね、
イビアロンとかあるじゃないですか、物事の本質は見えないところにあるという。
さっきのスマホのプログラムに似てますけども、
そういう見えないところにある本質さえも、イエス様は想像したという超越性を表しています。
余談と言いますが、半分で聞いてください。昨日ですね、あるドイツの哲学者、マルクス・ガブリエルという人のことをNHKの特番でやっていました。
その方はですね、今のコロナの時代の特徴は、見えるものの実体が崩されて、見えないものの価値が理解されているということですね。
どういうことかというと、コロナバイロスというのは見えませんよね。
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でもその見えない新型コロナウイルスによって人間が右往左往している。
それはどういうことかというと、目に見えるものにだけしかこだわってこなかった、この現代社会に対するアンチテーゼだということですね。
その旧戦法がアメリカだって言ったんですけども、それはそれとしまして。
とにかくですね、話は逸れましたけども、この世にある見えないものの本質さえもイエス様が作られたという超越性です。
そしてもう一つ、その中で今度は王座であれ主権であれ支配であれ権威であれイエスが作られたというのは、
目に見えないものに反して今度は実体としての権威に対する超越性がイエス様にあるんだと言うんです。
国家とか、その頃は皇帝でしたよね、カイザル。国家とかそのようなものの目に見える具体的な権威をイエス様は超越していると。
そして次ですね、
巫女に会って作られたからですね、万物は巫女によって作られ、巫女のために作られましたというのはですね、
それはずっと言っているように万物の創造者である巫女、そしてその万物が目指すべき対象としてイエス様があるというその超越性です。
全てのものは本来はイエス様を目指して作られているんだというそういう意味での超越性を表しています。
そして最後、巫女は万物に先立って存在している。さっきも言いましたが、やはりその全てに対する、全宇宙に対するイエス様の、字が間違えましたけれども、
潜在性と超越性、潜在というのは先に存在する、全てのものより先に存在していたというイエス様の超越性ということでパールは締めくくっているわけです。
ちょっとあえて御言葉に増えて難しいことを言いましたが、ここで言いたいことはですね、イエス様は私たちは知っているところ、知らないところ、見えるところ、見えないところ、全てを超越した神であるということをパールはここで言っているわけです。
さあ、そこから私たちはどういうことを学べるか。それは、
イエス様は国家や社会、会社、いろんな組織、学校もそうですね、そういう目に見える権威、
そこに勝る方であるばかりか、目に見えない権威、例えば霊とかですね、そういうもの、霊的な権威に対してもイエス様は超越したお方であるということです。
そして先ほど言いましたが、その超越したイエス様は、私たちと共にいてください、私たちを包み込み、保ってくださっておられる、
そういうイエス様の守りがあるということですね。
ですから、私たちを苦しめて怯えさせる存在があったとしても、その全てに勝る超越者としてもイエス様に、私たちは助けを求め、問題を委ねることができる、
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そういうアディアウサの中での拠り所になるわけです。
パールはこの真理を適用すべくことをローマ人の手紙の中でこう語り直しています。
ちょっと前に記載しました。長いですけど読んでいますね。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、つまり巫女イエスによって、これらすべてのことの中にあっても圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。
死も、命も、見つかりも、権威あるものも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高さも深さも、
その他のどんな非造物も、私たちの主キリストイエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。
ローマ8の37から39。
こうパールは確信して語っています。
そしてこれが、超越者となるイエス様を信じる私たちの確信だということを覚えておいてください。
最後に、もう一つ話しましょう。
この神ならイエス様への信仰告白と確認のために、私たちは日曜日に礼拝に集っています。
私はですね、仕事や体調の都合で、あるいは家族によるいろんな都合で礼拝に来れない方を責めるつもりは全くないです。
これを聞いて誤解しないでほしくないですね。
ただ、この時間を捧げて私たちが礼拝に集うための励ましになるために、
あるいは私たちは物事の意味を知るとやっていることを、意味を知るとその動機が湧いてくることもあるわけですから、
今からこのことを紹介します。
イエス様は目に見えない神のアイコンだとは言いながらも、今実際イエス様を見ることはできませんよね。
イエス様は実際はですね、精霊のある神様として私たちと共におられるという、
これまたちょっと超越的な難しい真理ですけど、それが事実です。
とにかくイエス様はご精霊によって毎日私たちと共にいてくださいます。
皆さんが家にいようが、職場にいようが、学校にいようが。
でも、その同じ精霊様は私たちが一緒に集まるこの礼拝の中にもですね、共にいてくださって、私たちにイエス様を明らかにしてくださるんですね。
そのことを確認してください。
そのことを確信した上で、ぜひ礼拝に集いましょう。
イエス様のこのような約束が根拠になっています。
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マタイの福音書の18章19から20ですね、読んでいいですね。
前に書きました。
まことにあなた方にもう一つ言います。イエス様はこう言っています。
もしあなた方のうちの二人がどんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、
天におられる私の父はそれをかなえてくださいます。
二人でも三人でも私の名において集まるところには、私もその中にいるからです、と言っているのです。
イエス様はもなくですね、弟子のもとを離れていくことを知っていた上で、弟子たちに自分がイエス様が天に帰っても、これは真理だという意味で伝えた言葉であり、教会に対するイエスの励ましの言葉です。
私たちがですね、二人でも三人でもイエス様の名において集まるところには、私もその中にいる、とイエス様は言っているのです。
ですから私たちは意識しようがしまいが、この礼拝に聖霊様が与えてくださって、この礼拝の中でイエス様は私たちに出会ってくださる、と言うんですね。
今、礼拝の前に黙祷の祈りを捧げたり、黙祷する時間がありますけれど、その時にですね、もし覚えていれば、こう祈っていただきたいんですね。
どうぞ神様、ご聖霊によって、今日も私にこの場でイエス様を示してください、とかですね。
どうぞイエス様、聖霊によってこの礼拝に共にご臨在ください。
そのように、ご聖霊によってイエス様が分かるように、共にいるようにということを黙祷の中で、礼拝の準備の犬の中でされること、それも良いかと思います。
そして実はこのことは、さっき私が挙げました二つの点とも関わるわけです。
この神なるイエス様の真理が関わるわけですね。
私たちがこの礼拝を集う理由の一つは、もう一つの理由は、私たちが本当の支配者はイエス様であると信じているその信仰を告白するためなんですね。
私たちが本当に崇めるべき権威者はイエス様であるということを礼拝で確認しているわけなんです。
各社メディアではですね、今、アメリカの大統領選挙を始め、各国の権威者のことが話題になっていますね。
コロナウイルスにかかっちゃった。マスクなんかしなくていいって言ってたね、人が。
この間30日の討論会ではですね、もうみんな口汚く罵り合って、最低の討論会だと言ってました。
アメリカではですね、日本でも皆さん受けました?高校生のみんな。倫理社会とかって受けてる。道徳の時間とかあった学校で。
27:00
道徳の時間に大統領の討論会を毎年見るんだって。アメリカでは。
でもですね、道徳の時間に子供たちがですね、保育園とかで、これみんな模範にしましょうって見たらですね、みんな子供は先生の言うこと聞かなくなりますよね。
実際ですね、こんなもん子供に見せられないって声がたくさん上がったそうですけども、そういうことが国の権威者に起これば、日本のですね、ある権威者はですね、
学日会議に指名すべき人たちの中から6名を意図的に削除したってことも問題になりましたね。
こういう国の異性者の噂を目にする耳にするときに、私たちはびっくりしたりがっかりしたり恐れたりするかもしれません。
また仕事してるのであればですね、職場には必ず上司がいるわけです。いい上司もいれば、いろんな上司もいるわけですね。
そういう中で、いろんな権威の下に私たちは置かれてある人は飼い慣らされてるって言うんですね。
そういう悪い言い方さえする人もいますが、とにかくマスメディアの影響なれ、職場の影響なれ、私たちは目の前にある権威や支配者が全てだというそういう考えに染まってしまう。
つまり目に見えないイエス様の本当の権威者であるということを忘れがちになります。
そして失望したり、辛い思いをするかもしれません。
ですから私たちは真理に目を覚ますためにこの礼拝に集うわけですね。
イエス様こそこれらの権威を超越したお方である、支配者であるということをこの礼拝で確認する、告白するためにここに集うわけなんですね。
そしてお互いそういうイエス様を主として仰いでいる仲間を見て自分の励ましともするわけです。
さらにですね、ちょっと余談になりますけど、実は皆さん知らないうちに礼拝しているんですよね。
学校で高歌を歌うというのはですね、学校を叩いていることです。
そして学校で先生の話を聞くというのはですね、それは学校や会社でいろんな社群や学校の話を聞くということはですね、それはもう例えば礼拝で説教的なものなんです。
知らない間に私たちは誰が権威者かということを告白して教育されています。
一応はですね、国に忠誠を尽くして死ぬためにいろんな歌が用いられたりしますけどね。
私たちは知らない間にこの世の権威に跪くように飼いならされてしまうわけです。
しかし私たちが本当に疲れるのはイエス様だということを確認するためにこの礼拝という場もあるわけです。
そして先ほど申し上げましたが、私たちは自分の命の儚さを感じることがありますね。
このコロナ禍であればいろんな悪いニュースの中でそう思うかもしれません。
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しかし先ほども言いましたが、自分の命を包み保ってくださるのは誠の神なるイエス様だということをやはり確認し、告白するためにこの礼拝にも集っているわけなんですね。
今日の3節の御言葉ですけれども、本当にイエス様が見えない神の形であるという奥深く素晴らしい真理を学びました。
そのことを共に学び胸に秘め歩んでいきたいと思います。
パウロが私たちを励ます意味で、パウロではありませんね。
聖書の御言葉からその励ましの御言葉を共に読んで終わりにしたいと思います。
古人への手紙の10章23から20を読みますね。
約束されたイエス様は真実な方ですから、私たちは動揺しないでしっかりと希望を告白しようではありませんか。
また互いに勧め合って、あるいは励まし合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
ある人々のように一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日、主の日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
古人への手紙10の23から20を読みましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
イエス様は、目に見えない神様ご自身を私たちに示すためにこの世に来られました。
それだけではなく、イエス様ご自身が神ご自身であるというその深い真理をありがとうございます。
どうぞそのことを私たちがこの世の旅路を進む中で日々確認し、日々告白し、また主により頼み歩むことができますように。
また礼拝に集う度にそのことを告白し確認し、また互いに励まし合うことができるようどうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
それでは皆様しばらく祈りましょう。
この御言葉に応答して、それぞれが1分ほどですがお祈りしてください。
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