バブテスマのヨハネの登場
それではお読みします。 ヨハネの福音書1章6節から8節。
神から使わされた一人の人が現れた。 その名はヨハネであった。
この人は証のために来た。 光について証するためであり、
彼によって全ての人が信じるためであった。 彼は光ではなかった。
ただ、光について証するために来たのである。 以上です。
今日はこのところから、洗礼者ではないヨハネと題して御言葉を取り付けます。 皆さんおはようございます。
10月の第3週になりました。 昨日はですね30度を超えるですね暑さ。
暑い日になりました。私もですね半袖で汗かいたりして、ちょっとあの 具合も良くなく悪くなっちゃったんですけどね。
皆さん今日はゆって変わって風が冷たい朝になりましたけれども、共に礼拝守れることを感謝しております。
さて、今日の箇所から突然ですね、バブテスマのヨハネが登場します。
彼は聖書でも有名人物ですので、いろんなイメージがありますね。 このように
洗礼者ヨハネというと、ラクダの衣をまとってですね、荒野で喰い畳を叫んで、そして救い主の前触れを告げ、
人々を備えたという人物です。 彼は
このヨハネの福音書と、あと共感福音書、3つの共感福音書を含め、全ての福音書に登場しますね。
実はヨハネの福音書には、その他の共感福音書と違う描写のされ方がしています。 皆さんご存知ですか?
私も今回は初めてでもないですけど、なるほどと思ったんですけど、実はその彼の描かれ方の違いを読み解くと、興味深い
ことがわかります。そしてそれがですね、今の私たちクリスチャンにも聞くべきメッセージにもなっているんですね。
ちなみにですね、 このヨハネの福音書の中には、このヨハネを
バブテスマのヨハネと一回も言っていないんです。 他の福音書ではバブテスマのヨハネと言っていますが、そういう言葉がついていません。
反対にですね、弟子のヨハネは名前が出てこないんです。
ヤコブ、ペテロ、ヨハネ とかねイエス様の3人の弟子
主な弟子がいたヨハネですけど出てきません。なぜかそれはですね、この福音書を書いた著者がおそらく弟子のヨハネであった。
だから自分のことをあえて、後でも出てきますけども、言及しなかった。その代わりにヨハネは一人しか出てこなかったので、ヨハネと言えばバブテスマのヨハネだってことがわかるので、
あえて枕としてバブテスマのという言葉を使ってないという興味深いことがあります。
その他にもいろんなことがわかってきますので、今日はそのことを読み解きながら、3つの点から見ていきます。
証人としてのヨハネ
まず最初、 バブテスマがないヨハネということを少し詳しく見ていきます。
じゃあ1章6節ちょっと読んでみましょうか。神から使わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
実は先週までの場面とガラッと変わります。先週までは天地創造の出来事、そしてロゴスなる言葉であるイエス様のことが、その天地創造の偉大な物語とともに語られてきたんですけれども、
突然ですね、 小さなこのヨハネという人に焦点が当たっている。急展開をしている点で他の福音書とは違っています。
後々出てきますけれども、このヨハネの福音書には、先ほど言いましたけれども、マクダにヨハネというバブテスマがついていないだけではなく、ヨハネがバブテスマを授けたという言及がほとんどないんです。
そしてもう一つ注目すべきは、ヨハネがイエス様にバブテスマを授けたということも当然出てきていません。
実はそこにヨハネの福音書が当時書かれて広まった背景が見え隠れしているんですね。
どんな背景か。おそらくですね、ちょっと読みにくくなってしまいましたけど、ヨハネの福音書は当時のエペソで書かれたと言われています。
先週、トルコのカッパドキアに行く人たちのバスが倒れて、日本人がいっぱい怪我したってありましたけど、そのトルコの側のエペソ、ちょっと見にくいんですけど、今紛争を起こっているガザ地区、エルサリマがこの辺だとすると、エペソはこの辺です。
もうちょっと詳しく見ると、ここですね、エペソ。 この地域のアジア地区なんですけれども、このエペソでヨハネの福音書が書かれた。だいぶ後になって書かれたと言われています。
どんな問題が当時あったかというと、 バブテスマのヨハネに傾倒する極端なグループがいたそうです。
実はそのことが使徒の働きに出てきます。 18章の24節から25節にアポロという
ギリシャ哲学から背景を持つ有名な使徒がいたんですけども、こんなことを書いたんですね。さてアレキサンドリア生まれでアポロという名の有名なユダヤ人がエペソに来た。
彼は聖書に通じていた。この人は主の道について教えを受け、 聖霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり教えたりしていたが、ヨハネのバブテスマしか知らなかったと書いてあります。
この後19章でパウロがまたエペソに来た時に、 あなた方は聖霊あるいは聖霊のバブテスマを受けたことがありますか?と言ったら、このエペソの信者は聖霊なんて知りませんと言います。
パウロはエペソのクリスチャンですよ。彼ら彼女らに。 じゃあどんなバブテスマを受けたんですか?と言ったら彼らはこう答えたんですね。読んでみましょうか。
彼らはヨハネのバブテスマですと答えた。19章3節。 ここから学者の人たちは
おそらくこの極端に ヨハネに傾倒するだけではなくて、実は
ヨハネはイエス様と並ぶメシアだ。救い主だというグループが起こったそうです。 もっと言うと
メシアとしてヨハネはイエス様のライバルだというグループが現れたんですね。 そのように信じる。もう一人のメシアだ。イエス様と違うメシアだという極端な
クリスチャンのグループさえ至っているんです。 そのような背景をもとにヨハネはこの福音書を書いて、ロゴスなる言葉であるイエス様と
ヨハネは同列に置くことができないということを、これまでの序文そしてここの部分で拒否しているわけなんですね。
その意味がこの1章6節の
神から使わされた一人の人が現れたという言葉に込められています。 先週の説教と関係しているんですが、この現れたという言葉、元のギリシャ語は
1章3節の 全てのものはこの方によって作られたの。作られたと同じ言葉です。
この作られたと全く同じ言葉、訳されている言葉は、先週何回も見たこのエゲネトになったという言葉です。
それはどういうことかというと、言葉が発せられてイエス様がお作りになることによってそれができたという意味のエゲネト。
さらに ヨハンネについては、使わされた一人の人が現れたと言って、人間が現れたとはわざわざ言っているんですね。
人間を指す一人の人という単語が付けられていて、この単語は1章4節でイエス様のことを、その方は人の光であったという人という、
難しいんですけど、ギリシャ語のアンソロポスという、人間を表す言葉があえて付けられているんです。
だからここからわかるように
イエス様が全てのものを作って、全てのものができた、エゲネトした。そしてその結果の一つとして、ヨハネもこの世に
使わされた、現れた、エゲネトしたと、ヨハネの福音書は説明しているんですね。
その1章3節の
作られたって言葉がエゲネトってあることを反映して、ヨハネの登場の場面を訳し直してみるとこういう言葉なんですね。
神から使わされた一人の人間が作られた。
その名はヨハネであったと言っています。 繰り返し言いますけれども、
このようにですね、先週の説教で取り上げたように、これまで天地創造の始めにできた、そしてそれから今に至るまで
作られてきた秘蔵物、命あるものは全てイエス様によってできた、作られたって言ってきましたよね。
そして当然そのイエス様が作られた秘蔵物の中に、この
ヨハネである人間も作られ登場して命を授かっているという願蓄がこの短い言葉の中にあるわけなんです。
ヨハネという名前のこの人間もロゴスなる言葉、イエス様によって作られたというわけですね。
ですからこのバブテスマのヨハネは、イエス様は別の箇所で女から生まれたものでこれ以上偉大な人はいないとも褒めているんです。
それほど偉大な人であっても決してイエス様と同列においてはいけない。当然イエス様と同じような神なる救い主ではない。
そのことをヨハネは、福音書のヨハネは強く教えているんですね。
先週見ましたけども、先週木曜日スーパームーンでしたね。曇ってましたね。ご覧になりました?
私はあまり見れなかったんですけど、月を見ると拝みたくなるのがそういう方もいるかもしれません。
でもその拝みたくなるような素晴らしい月さえもイエス様がお作りになった。
そしてそういう月を見て拝みたくなるという人間の心情は立派な人を見るとその人を
拝み立て祭りたい、拝みたい、神にしたいという気持ちに繋がっていくわけなんですね。
それがバブテスマのヨハネをイエス様と同列においてメシアだとしてライバルとしたという立派ができたことにも繋がってくるわけです。
皆さんもわかると思いますけれども、私たちの周りには本当に立派な方がいますし、偉大な人もいますよね。
野球が今話題になってますけど、しかしそういう方々に対して私たちの人間として敬意を抱く、尊敬する、あるいは感謝するということは大事ですね。
けれども礼拝の対象ではない。礼拝の対象はイエス様だけだということを謝ってはならないということをもう一度ここから確認できればと思います。
一方、この政党派のクリスチャンの中にも当時問題があったんです。
彼らは、よく私の新学校の校長が言ったんですけど、厚物に懲りて生粗すくって言うんですね。
要はバブテスマのヨハネがそうやって仇め立て祀られていることに怒って、バブテスマのヨハネを偽預言者だと断じるクリスチャンのグループも怒ってきたわけなんです。
じゃあ今度はその問題に対処したこのヨハネの言葉を取り上げていきます。
2番目、神から使わされた証人のヨハネということです。
1章7節から8節続けてヨハネの福音書ではこう紹介しているんですね。
この人ヨハネは明かしのために来た。光について明かり捨てるためであり、彼によって全ての人が信じるためであった。
彼は光ではなかった、ただ光について明かりするために来たのである。
彼の文体らしくですね、繰り返し前後入れ替えたり否定したりして大事なことを強調しています。
先ほど申し上げましたけれども、この熱心さによって
マクテスマのヨハネはメシアではないということを否定する人たちがいた。
誰でも熱心さによって極端な考えに陥ることがありますね。
そこから不必要な争いが起こったり、他の人たちを排除したり、
反対に本来良いものを否定してしまうという過ちに陥ることがあります。
ヨハネの話に戻りますけれども、他の福音書とヨハネの福音書のバブテスマのヨハネの取扱い方の違い、他にも皆さん何か思い浮かびますか?
他の福音書との比較
逆に言うとね、じゃあ一番詳しくバブテスマのヨハネについて書いてある福音書は何でしょう?
一番詳しい。ヒントは有名な日本の病院の名前と関係しているルカの福音書です。
ルカの福音書は序文があった冒頭からいきなりヨハネの物語が始まりますね。
お父さんのザカリヤが神殿に入ったところ、天使を見てですね、
あなたに子供が授かるよ、長年子供が生まれなかったエルサベツに子が授かるよ、名をヨハネと付けなさいという、
神殿の中のそのような出来事からイエス様の前にですね、受胎告知の前にヨハネの誕生の予告の物語があって、
そして受胎告知の物語があってですね、マリアの、そしてバブテスマのヨハネの誕生の天末も出てきますよね。
お父さんが喋れなくなって、名前はヨハネだって書いた瞬間にですね、喋れるようになった。
詳しく書いてあるのがルカの福音書です。
まあそのようなちょっと政治的な教養を皆さんに身につけたら素晴らしいと思うんですけれども、
まあそのようにですね、他の福音書では、
ヨハネのことが詳しくあるいはバブテスマと関わってやって書かれているのにも関わらず、
ヨハネの福音書には、ほとんどバブテスマのヨハネがバブテスマを施したということに触れられていません。
今よく言われる一択と言いますね。一択なんです。それはヨハネは証した人だという、この一択の紹介の仕方しかヨハネの福音書には書かれていないんですね。
で実は証という言葉がヨハネの福音書にはたくさん出てきます。
証という名詞はマルチュリアという言葉、証するという動詞はマルチュレオという言葉なんですけれども、
この言葉は2つ合わせて47回も使われています。新約聖書でも極端な数なんですね。
で他の3つの福音書では、この2つどっちかを取り上げても1回しか取り上げられてない福音書があったり、多くても3回しか取り上げられてないんです。
バブテスマのヨハネだけじゃないんですけれども、それほどヨハネの福音書は証ということにこだわっている福音書なんですね。
ある学者に言わせれば、ヨハネの福音書におけるバブテスマのヨハネの役割についてこう述べているんですね。
このヨハネの福音書では彼バブテスマのヨハネの唯一の機能は、唯一のですね、たった一つの機能はイエスを明かしすることである。
そしてこのようなことさえ言っています。ヨハネの福音書の著者は、先例者ヨハネの偉大さが一方で理解されるべきだということにも関心を持っていると書いているんですね。
バランスが大事なわけなんです。このヨハネの福音書が大変貴重な、大事なこととして重きを置いているイエスが神の子であるという証、
その大事な働きにヨハネが携わっているということを、ヨハネの福音書はきちんと述べています。
実は今日見ている1章の6節から8節の短い3節、しかもそのたった2節の中にヨハネに関して明かしという言葉が3回も使われているんですね。
それほどヨハネの福音書では、ヨハネは明かしした人なんですよということが強調されています。
そして、先ほど言いましたが、ヨハネなんか偽預言者だという、正当的な教会の人たちを諌めるように、ヨハネの福音書は
彼をですね、偉大な人だというだけではなくて、6節でヨハネは神から使わされた人であったという、この神から承認を受けているということで、彼の立場を弁明しているわけなんです。
いや、偽預言者ではなくて、彼こそ本物の預言者だということを、神から使わされたという言葉で、ヨハネの福音書はしっかり証言しているわけなんですね。
そして、その彼の目的は何だったかということで、7節でこう書いてあります。
じゃあ、光についてから読めるか読んでみましょうか。3回。
光について明かしするためであり、彼によって全ての人が信じるためであった。
明かしをして、イエスさんを全ての人が聴いて信じるためだったという大事な使命を神から授かっているとしっかり述べているんですね。
先ほど申し上げました皆さん、そういう間違いないと思いますけれども、私たちは人をあがめるのでもなく、あるいは拒否するのでもなくて、神様の視点からバランスよくその人を見ていく必要があるということもわかるわけですよね。
そして私たち自身も、もちろん救い主でもないし、ヨハネほどでないかもしれませんけど、神様から使わされた大事な使命を与えられているということを最後に見ていきたいと思います。
神の計画と私たちの役割
天地創造と私たち。実は先ほど冒頭申し上げましたが、今日の箇所では私たちの目線がこの広大な宇宙の広がり、創造の宮座からヨハネが登場したあららしいユダのアラノエと引き寄せられているんですね。
ある人が言わせれば、よく映画のシーンでありますよね。広大な宇宙から地球に焦点が絞られて、その地球からずっとズームアップされて、その地球の一軒の家が出てくる。そのようにして、アラノにいるヨハネに焦点が当てられてきているわけなんです。それは何を意味するのか。
天で起こっていることも、創造の偉大な出来事も、そして私たちの家庭や職場、あるいは学校など私たちの身近なところで起こっていることも、同じように神様の関心の中にあるということなんですね。
私たちの生活は些細なことだ、それに足りないことだ、だから神様の身は制られていると思うことがあるかもしれません。しかし、神様にとって私たちの日常のことを身近で起こっていることは偉大な関心事だということからわかるわけなんです。
ですから私たちの信仰生活、いろんな言い方ができると思うんですけれども、それはこの天地万物を創造した神様の壮大な目的と私たちの人生の具体的な関わりを結びつけていく、それを見つけていく旅路でもあることと言えるんですね。
そして実はそういう偉大な神様の天地創造の中、計画と私たちの日常の計画が結びつくとか、私たちが神によって日常生活の中で導かれている、そういうことを神様に示していただけるように、私たちは祈りながら、そしてその世を見つけることができるように信じながら日々歩んでいく、
お互いでやりたい。教会でありクリスチャンでありたいと願うわけです。そのような中で最後にエペソビトの手紙の2章10節をお読みして終わりにしたいと思います。先ほど話題になったエペソですね。その教会にあててパウロが書いたとされる手紙の中から御言葉を読んで終わりにしましょう。ちょっと長いんですけど読んでみましょうか。
実に私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリストイースにあって作られたのです。神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えて下さいました。
お祈りしましょう。
天の神様皆を賛美いたします。 バブテスマのヨハネの出来事から私たちはあなたの御言葉を学びました。
どうぞ私たちが他の人々に対してまた自分に対して神様の視点に立った正しい評価ができるように私たちを助け導いて下さい。
偉大な神様の想像の宮座を前にするときに私たちは圧倒され、自分の存在の小ささを思い知らされることがあります。
しかしどうかその世の中にあっても、あなたが持っておられる私たち、また私たちに対する計画、また大事な役割、また幸いを見出すことができますように、どうか私たちの目を開いて下さい。
そして私たちが、まことの神であるあなたと、あなたが使わされた救い主、美子イエス様を崇め歩んでいくお互いであり、日々を過ごすことができるようにどうか導いて下さい。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。 アーメン
それでは御言葉に応えて1分ほど黙祷する時間を持ちましょう。