2020-07-26 32:10

#16 20/7/26 愛と忍耐へと

第2テサロニケ3:4-5からの礼拝メッセージ。愛と忍耐を知りそれらが養われるために。2020年7月26日録音
00:05
それでは、読みます。
テサロニケ人への手紙、第2、3章、4節、5節。
私たちが命じることを、あなた方は実行していますし、これからも実行してくれると、私たちは主にあって確信しています。
主が、あなた方の心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせて下さいますように。
以上です。今日はこのところから、愛と忍耐へと、と題して見事は終わりにします。
皆さん、おはようございます。冒頭にも述べましたけれども、お仕事などの都合で、今日は席席している方が多いですけれども、
しかし、このように皆さんと共に、神様を礼拝できること、聖書に耳を傾けることができること、嬉しく思います。
雨が朝降っていましたが晴れました。本当に良かったです。
今日は、いよいよ手紙の最後の部分、後半に入っていく3章のところからです。
ここにも記載しましたけれども、新型コロナウイルスの感染者の数が全然減らない。
前にも言いましたが、GO TO TRAVELキャンペーンという、間違った英語の題がついたキャンペーンが始まっていますね。
東京由来の行き来は補助金が下りない。これは英外会、地中海が出ていますけどね。
ギリシャなんかに、私も聖書の旅路ですか、パウロの旅路をいつか行ってみたいと思いましたけど、
海外旅行なんていうのはですね、これからあと何年先できるのか、そういう厳しい時代ですけれども、
そんな将来が見越せない、そういう中でまたこの旅じゃないですけども、自分の身の振り方がなかなかわからない。
どういうふうにしたら正しいのかということがわからないという点があるかもしれません。
まさに愛と忍耐が試されていく、そういう中にありますが、それはテサロニケ教会の兄弟姉妹クリスチャンと同じ悩みです。
何度も言いますが、迫害の手が冷めやらない中、それがひどくなっていく中、彼らは将来が見越せない中にいたんですね。
そんな中でパウロはこの兄弟姉妹を励ますために、また偽りの予言から守られるために、そして成すべきことが正しくできるようにとこの手紙を書きました。
そして今日は祈りの部分を見ましたが、この手紙の中には祈りが5つあるんです。
その4番目の祈りが今日のこの箇所にわたるわけです。
そしてこの祈りは、テサロニケのクリスチャンを神様に委ねる、そういう祈りです。
03:07
なぜ祈りが必要かというと、復讐になりますが、徹頭徹尾、神様に私たちのクリスチャン生活も救われるということも追っているということです。
皆さんも音源が今、ポッドキャストでわかりやすくなっていますので、機会があればぜひ聞き直していただきたいんですけど、
5月の24日に一番最初にテサロニケ人の第2の手紙からした説教なんかも、神様のおかげで私たちは救われているし、信仰が守られているということが書いてあります。
私も今日説教数にあたって1章のあたりの説教を聞き直してみたんですけど、ある面復讐になりますので、
ぜひここにいらっしゃる方も音源を聞いている方も、5月24日ぐらいから遡って聖書箇所やタイトルを参考にしながらまた聞いてみてくだされば良い復讐になるかと思います。
そういう徹頭徹尾、神様に私たちは寄るべきだという、そういう中で今日の祈りがあるわけです。
それと関係しますけれども、困難の中でよく人は祈ると言うんですね。
人にはクリスチャンであろうとなかろうと祈り心があるとよく言われています。
この聖書とかキリスト教の素晴らしいところは、私たちが祈りの模範とすべき良い祈りがたくさん記されているわけなんです。
言葉にならない思いを祈りに変える、そういう良い祈りの模範が聖書にある。
そして今日のこの祈りもそのうちの一つなんですね。
大事なことは、このパウロの祈りは祈りで終わらないで、私たちの生活、生き方にも通ずる、そういう祈りだということです。
イエス様を信じ、また神様に選ばれたものとしてふさわしく生きる、その生き様に関わる祈り。
今日はですね、三書の五節を中心に三つの点から学びます。
愛、神の愛、忍耐、イエス様の忍耐、そして心が導かれるという、この三つの点から学んでいきましょう。
ここにも記しましたが、三書五節の御言葉、ちょっと読んでみますね。
主があなた方の心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせて下さいますように。
最初の点はですね、主があなた方の心を導いて、神の愛に向けさせて下さいますようにという点です。
神様の愛を体験し、体現するということを見ましょう。
神の愛へと導かれるようにとのこの祈り、その意味はですね、この手紙の受け取り手たちも、そして私たちも、
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自ら神様の愛を体験する、知る、そしてそれを体験するだけではなくて、体現する。
私たちを見て、神様の愛ってこういう愛なんだということをこの世の人が知る。
そういうことがこの祈りに込められています。
私たちはイエス様を信じる、自分の救い主として信じると罪が許されて、神様の子供になりますね。
親は子供を愛をもって育てるとよく言われていますが、父なる神様、聖書の神様はそれにも勝って私たちを愛をもって養って下さる、そういう神様です。
聖書にそういう実例があるのでぜひ読んで下さい、旧約聖書など。
その愛されて育った子供が親に似るように、私たちも神様の愛を知って神様に似るもの。
神の愛を体現するものと育まれていきます。
ちなみに前後しますけど、皆さんの手元の聖書ですね。
例えば1章のティサナニキビトの手紙の1章の11節にこうあります。
聴いてくれるだけでも結構ですが、パウロの2番目の祈り。
私はいつもあなたのために祈っています。どうか私たちの神があなた方を飯にふさわしいものとして下さるようにというのは、神に選ばれたものにふさわしくあなた方の言動を整えて下さいますようにと祈っています。
また前も見ましたが2章の17節では、イエス様があなた方の心を強めてあらゆる良い業と言葉に進ませて下さいますようにと言っています。
良い生き方に生きるようにと祈っていますが、今日はここでパウロは神の愛を体験し、神の愛を体現するものとあなた方が導かれますようにと祈っているわけです。
世界名言集ってありますけどね、聖書の中にもたくさんの名言があって、一番有名な神の愛について、愛についての名言がここにあります。
コリントビートの手紙第1の13章の4節から7節です。これ読んでみますね。
全てを信じ、全てを期待し、全てを絶えし伸びます。愛は決して絶えることがありませんと結ばれているんですけども、これは神様の愛、イエス様の愛を上手に表した名言です。
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私がクリスチャンになった頃、私を導いてくださった牧師がこう言ったんですね。この愛というところに自分の名前を入れてごらんなさいと。
自分は寛容なのかなと。そうすると自分を励ましたり、自分を養ったり、あるいは自分を買いにびるのに良いですよと言うんですね。
皆さんもこの愛という言葉に自分の名前を入れてみるのも良いかもしれません。
前後しますが、でも皆さんに知ってほしいのは、私たちは神様にこのような愛によって育まれているんですね。
そして私たちがこの神様にこうやって愛されているということを知る、聖書の中で祈る。
この言葉は聖書にありますから、この言葉を持って神様のことを頭の中で思い巡らせたり祈っていく。
そういう中で私たちが神の愛を体現できるようにパウロは祈っています。
この聖書の見事はですね、皆さんのレジュメの1ページの真ん中あたりにも引用してありますから、ぜひ持ち帰ったりプリントアウトしてよく読んでみてください。
この神の愛を知る、そしてそれだけではなくて神の愛を知った者として、神様の愛を体現する者として、
私たちは生涯をかけて神様によってまさに愛のうちに育まれていくんですね。
そのことを神様に期待しながら、神様が心を導いてこの愛を知ることができるようにまた祈っていきましょう。
2番目はですね、この神の愛の次にキリストの忍耐、キリストの忍耐を知りそれに習うということです。
もう一度、今日のカギの聖句を見てみましょう。前にも印刷しました。
3章5節、主があなた方の心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせて下さいますように。
この祈りの第2の部分ですね。主があなた方の心を導いて、キリストのイエス様の忍耐に向けさせて下さいますように。
忍耐、忍耐についてさっき言いました、同じこの手紙の1章の一番最初のメッセージの時に話していますけれども、
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忍耐、苦しい中で我慢したり、苦しい状況の中で堪えしのんでなさべきことをするという類の忍耐です。
パウロはこのイエス様の忍耐に関わる祈りをこのように、このような意味で祈っているんですね。
私なりにまとめましたけれども、テサラニ教会の人々が、そして私たちが、イエス様の忍耐を知ることができるように、
そしてイエス様がご自分の忍耐力をあなた方に、私たちに授けて下さいますように、そういう祈りです。
そしてこの忍耐についても聖書はいろんなところで教えています。
その一つはやはりパウロの別の手紙のローマの5章、2節から5節にこうあります。
前にも記しましたけれども、読んでいますね。
そればかりでなく、カンナンさえも喜んでいます。
それはカンナンが忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら私たちに与えられた精霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
これはうちの教会でも開催している眼徹学外来の日野浩夫先生がよく引用する言葉ですけれども、
ここで面白いのはですね、パウロはクリスチャンになったらカンナンがないと言っていないんです。
ご利益信仰は信じれば問題がなくなるという、そういう安易なメッセージです。
でもパウロははっきりカンナンはなくならないんだよ、でもそのカンナンも喜べるんだよと言っているんです。
なぜか、そのカンナンや試練を通して私たちに忍耐が生まれるからだと言っているんですね。
そして忍耐力が養われていく中で品性が練られていく。
人間として成長するとか、イエス様のように生まれていくとか、
人間として成長するとか、イエス様のように変えられていくということです。
そしてそのように品性が練られていく中で、私たちは希望を生み出すんだということなんですね。
それは失望に終わらないのは、イエス様を信じているあなた方の心の中に、
精霊、イエス様ご自身と言い換えてもいいでしょう、イエス様が住んでくださっているから、
その精霊によって神様の愛が心に注がれているから、失望に終わらないんだと言っているんですね。
この聖書の言葉もぜひ皆さん胸に留めたり、メモしたりして、よく味わってみてください。
先ほども言いましたが、忍耐にはこういう意味があるんですね。
辛いことや苦しいことに耐えしのんで、成すべきこと、目的を達成するという。
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目的を達成するというとちょっと、何でしょうか、営業の目的みたいな、ちょっとあれですけどね。
でも意味わかりますよね。困難を乗り越えて忍耐して、成すべきことを達成していく、成就する。
これはですね、神様との関係やイエス様の姿に重ねるとこういう言い方ができるんです。
辛いことや苦しいことを耐えしのんで、神様の見心を行っていくということですね。
ある言い方であれば、イエス様の十字架になって歩いていくということも言えるかもしれません。
そして今言ったように、この最たる模範はイエス様の忍耐です。
それは十字架とそこに向かう柔軟の道に最も明確に現れているものです。
イエス様を間近で見た弟子の一人のペテロが、後に手紙の中でこう言っているんですね。
第一ペテロの手紙、2章の22節から24節前にも出してありますけど、読んでいますね。
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。
罵られても罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方にお任せになりました。
これは十字架に至る前の裁判や鞭打ちの時ですね。
そして自分から十字架の上で私たちの罪をその身に追われました。
それは私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。
キリストの打ち傷のゆえに、あなた方は癒されたのです。
まさにここにイエス様の忍耐。
痛みや苦しみ、また自分が罪がないのに裁判にかけられて訴えられている。
その中でも堪えしのんで神様の身心を成した。
それは十字架で自ら命を捧げて私たちの罪を贖うということです。
この聖書の言葉をもとにイエス様の忍耐をもよこしましょう。
レジュメに書いてないんですけども、前こんなこと言ったの覚えてますか?
私たちクリスチャンは聖書の物語や伝統に自分を合わせていく。
民族や国民に共通の物語があって、それを言うとああってなる物語がありますよね。
例えば正義の物語であればちょっと安直ですが、
御徒拷問なんてあるとね、御徒拷問様が出てくると最後に悪者がはーってひれ伏すんだみたいな。
そういう心にピッとくる物語が神のためにあって、
前にも言いましたその代表的なのが出土エジプトの物語ですよね。
18:00
海が割れて孟聖によって民がエジプトから導かれた。
それは孟聖じゃなくて神の救出の物語です。
そのように今度はですね、クリスチャンはその孟聖の物語出土エジプトだけじゃなくて、
イエス様の十字架の物語もですね、私たちの心の拠り所、
神の民の共通の財産というかね、寄って立つ物語なんですね。
この御言葉それをまとめていますから、ぜひこのペテロの書いた御言葉にですね、
思い馳せながらイエス様の忍耐と救いの物語をぜひ心に留めていってください。
このイエス様のコンパクトにまとめられた物語、忍耐の物語、
それをですね、思い起こしてください。
そしてこの十字架の技を私たちが覚えていく中で、パオロの祈りに戻っていきましょう。
パオロが祈っているのは、このイエス様御自身の忍耐力を
イエス様が私たちの心に授けてくださいますように、
そうパオロは祈っているんですね。
私たちもこのイエス様が授けてくださる、イエス様の忍耐力によって
必要な忍耐が与えられる、そして神様の御心を行うことができる、
成すべきことができるわけですね。
どうぞ皆さんもですね、このイエス様の十字架の忍耐の力を知り、
そしてそのイエス様の十字架の忍耐を私たちの心に授けられる、
そしてそのイエス様の忍耐を私たちも体現することができるようにと祈りましょう。
それでは最後の点です。
イエス様によってイエス様に心を向けるという点です。
もう一度この今日の御言葉を振り返りますが、
主があなた方の心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせて下さいますように。
最後の点はですね、主イエス様が心を導いて、心を神に向けさせて下さるという、
そういう内容です。
心の導きをイエス様にお願いする、これはですね、最後の点なんですけども、
学者に言わせれば非常に珍しい聖書の表現です。
聖書に二、三箇所くらいしかこういうのはないというんですね。
反対にですね、悪い王様が自分の心を神に向けなかったという、
そういう自分の意思で心を神に向けないという表現があるんですが、
神様、イエス様が心を、人々の心を向けさせるという、
そういう珍しい表現だそうです。
そしてこのパオロの祈りは文字通り読むと、
21:02
あなた方の心を神が導き入れて下さいますようにという、
INTOというですね、英語でいう禅知事がついています。
例えばですね、私たちの心を、誰々の心を、
神様の愛に導き入れて下さいますように、
イエス様の忍耐の中に導き入れて下さいますようにという、
そういう面白い表現にもなっています。
それらを踏まえて最後の点をお話ししますが、
その前に復習します、二つの点。
最初に話した二つの点を復習します。
一つ目の復習は、
その前に復習します、二つの点。
最初に話した二つの点を復習しますが、
最初に話した点は、
私たちが神様の愛を知り、その愛を体現するということですね。
二番目は、私たちがイエス様の忍耐を知り、
その忍耐を体現する。
忍耐力をイエス様によって私たちも授かるということです。
その神の愛とイエス様の忍耐をですね、
これから話す点で簡単な言葉にまとめますと、
神様の愛とイエス様の忍耐に生きる。
神様の愛とイエス様の忍耐に生きる。
それぞれを知って、その二ならって生きるということをこう表現します。
覚えていてくださいね。
神様の愛とイエス様の忍耐に生きる。
その上でこの最後の点の心の導きについて話します。
私たちの心が導かれるというのは、
私たちの心が神様に向いているという点なんです。
そういうふうに言い換えることもできるんですね。
ですから、私たちが神様の愛とイエス様の忍耐に生きるためには、
私たちの心が神様やイエス様の方に向いていなければならないということなんですね。
そして、私たちの心が神様やイエス様に向くためには、
私たちはイエス様の導きや働きが必要である。
だからパウロが神にイエス様に祈っているというんですね。
ちょっと自分自身に問ってみてください。
どうですか?
自分の心は神様とイエス様に向いているだろうか?
どうでしょう?
私たちの心を神様から背けるものが少なからずありますね。
例えば、先週話した悪魔、見えない悪の存在。
あるいは、自分の中にある様々な弱さがあります。
私もそうです。
性格的な弱さや、あるいは罪へのその影響ゆえに、
私もですね、皆さんもですね、自分の心が神様に向いているんですか?と問いかけられると、
24:03
心持たない時があったり、胸を張ってそうですと言えない時があるかもしれませんね。
そのような理由からですね、
パウロはイエス様が、あなた方の心を向けてくださいますようにと祈っているんです。
先ほど言った、神が心を向けさせるというのは珍しい祈りだと言ったんですけど、
そのもう一つの実例が旧約聖書にあるんですね。
これレジュメに書いてないんですけど、
第一歴代史の二十九章の十八節。
イスラエルの神に敬虔なダビデ王が祈った祈りです。
自分の民衆のために祈った祈りです。こんな祈りです。
私たちの父祖アブラハムイサク、イスラエルの神主よ、
御民のその心に図る思いを常しえにお守りください。
これですね。そしてこれ。
彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてくださいと言っています。
パオロみたいですよね。
彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてくださいと、
ダビデ王が自分の民のために祈っている切なる思いですね。
まさにイエス様こそが、パオロが言うシューというイエス様こそが、
私たちの心を神様に向けることができるお方なんです。私たちは無力です。
だからイエス様なんですね。
そしてパオロのように私たちも祈る必要があるんです。
自分のためにまた他の兄弟姉妹のために祈る必要があるわけですね。
イエス様心をあなたに向けさせてください。
ところで皆さん風力発電知ってますね。
風力発電機という風車どんなイメージありますか。
高い丘の上に大きいプロペラが並んでいる風景を思い浮かべますよね。
実は九州大学がもっとコンパクトなものを開発したんです。
風レンズ風車って言うんですね。
レンズみたいでしょ。風レンズ風車。
この特徴は見ての通り特殊な円形のダクトが特徴です。
これは何かというとイメージすると換気扇の周りが丸くなってついている感じですよね。
これが何かというと実はこのおかげで風の効率が良くなるそうです。
少ない風で大きなエネルギーを得ることができるこの輪っかダクトのおかげで。
だからプロペラを小さくすることができたそうです。
27:03
そして流れがこれのおかげで良くなって効率が良くなってからプロペラが細く小さくなりました。
そして音が少なくなったそうです。
あれは騒音の問題があるんですよね。でかいプロペラが回ると。
これでだいたい高さが13.4メートル。
こういう人がいるのがわかりますかね。
すごい低いでしょ。
だから大きいところじゃなくて例えば博物館とかそういうところにも使えるという。
それが売りです。
そして実はこの円形のダクトにはもう一つの役割があるのをご存知でしょうか。
これ何すると思いますか。
実はこれは風見どりのように風を受けて風の方向にプロペラを向ける役割があるんです。
よく風光計だと飛行機みたいになってて風の方に自動的に向くじゃないですか。
この円形ダクトがあるからこれが風の方にプロペラを向ける役割がある。
それが大きな意味もあるわけです。
ここでプロペラを風の方に向けるのはなぜかというとエネルギー源である風を得るためです。
そのエネルギー源そのものの風こそがエネルギー源の風に向かわせる役割も果たしているという点ですね。
このエネルギー源の風がエネルギーに向くように役割を果たしている。
風そのものがプロペラの向きを変えるという方法が画期的ですね。
同じように実は私たちも私たちの命の源、今日学んでいる点から言えば神様の愛とイエス様の忍耐に心が向くために
その命そのものであるイエス様が風のように私たちの心をご自分の方向に向けて
その命そのものであるイエス様が風のように私たちの心をご自分の方向に向けてくださるというのです。
私たちの命の源であるイエス様自身が風のように私たち自身をもイエス様に向くように私たちの向きを変えてくださる。
それが素晴らしい点です。まさに徹頭徹尾神様に私たちは追っているのですね。
ですから先ほども言いました。自分の心は心もとなくて神の愛やイエス様の忍耐に心が向けないかもしれない。
でも神の愛と忍耐、イエス様の忍耐そのものの源であるイエス様が私たちの心を神様に向けてくださる。
そのことをイエス様の導きに信頼して祈りましょう。
30:03
こう祈ってみてはいかがでしょうか。どうか私たちの心を導き入れてください。
私たちの心を神様の愛にイエス様の忍耐に導き入れてください。
あるいは誰々さんの心を神様の愛に導き入れてください。イエス様の忍耐に導き入れてください。
そうパウロの祈りに倣って祈ってみてはいかがでしょうか。
最後にもう一度今日のカギの聖詩を読んで終わりにしましょう。
主があなた方の心を導いて神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。お祈りします。
私たちの救い主なるイエス様、あなたのお名前を賛美いたします。
あなたは十字架に至るその苦しみのお絶え、私たちを救うために十字架にかかってくださったことを感謝いたします。
あなたはその後復活し、神によってよみがえり、私たちを、今信じる私たちを、その心の内にあって導いてくださることを覚え感謝いたします。
命を与える風であり、私たちを導く風であります。どうぞ私たちの心を神様の愛、イエス様の忍耐へと向けさせてください。
そして神様の愛を知り、イエス様の忍耐を知り、それに生きるお互いでありますように。
またそのために私たちが、兄弟姉妹のために、かたわらにいるかたばたのために祈り、歩むことができるように導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
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