2022-06-19 25:23

#110/22/6/19 自由の子、約束の子~「迫害に苦しんでいる人へ」

ガラテヤ-31からの礼拝説教。2022年6月19日録音。創世記のアブラハムの妻サラと女奴隷のハガルの話しに触れ、ガラテヤ教会の人々を励まそうとしています。今日の個所の主題は偽教師とその追従者たちに迫害されていたガラテヤのクリスチャンを励ますことが目的です。偽教師とその追従者たちをハガルとその子に、ガラテヤのクリスチャンをサラとその子イサクになぞらえているのです。その話をなぞりながら1.創世記12-21章の要約、2.迫害を受ける約束の子、3.自由の子として生きる、の3つの点から学びましょう。
00:05
ガラテア人への手紙4章、21節から31節
立法の下にいたいと思う人たち、私に答えてください。あなた方は立法の言うことを聞かないのですか?
アブラハムには二人の息子がいて、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれたと書かれています。
女奴隷の子は、肉によって生まれたのに対し、自由の女の子は約束によって生まれました。
ここには比喩的な意味があります。この女たちは、二つの契約を表しています。
一方は、シナイさんから出てきて、奴隷となる子を産みます。それはハガルのことです。
このハガルは、アラビアにあるシナイさんのことで、今のエルサレムにあたります。
なぜなら、今のエルサレムは、彼女の子らと共に奴隷となっているからです。
しかし、上にあるエルサレムは、自由の女であり、私たちの母です。
なぜなら、こう書いてあるからです。
子生まない婦人の女よ、喜び歌え。
産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ。
夫に捨てられた女の子供は、夫のある女の子供よりも多いからだ。
兄弟たち、あなた方は、遺作のように約束の子供です。
けれども、あの時、肉によって生まれたものが、見た目によって生まれたものを迫害したように、
今もその通りになっています。
しかし、聖書は何と言っていますか。
女奴隷とその子供を追い出してください。
女奴隷の子供は、決して自由の女の子供と共に、相続すべきではないのです。
こういうわけで兄弟たち、私たちは、女奴隷の子供ではなく、自由の女の子供です。
以上です。今日はここから、自由の子、約束の子と題してお話を取り継ぎます。
みなさん、おはようございます。
梅雨の半ばですけれども、今日は暑い日になりました。
そんな中ですけれども、共に礼拝し続けることを感謝しております。
この、今日の歌詞はですね、旧約聖書の創世紀のアブラハム、
そしてサラとその女奴隷のハガルの話、
またそれに絡めて子供たちの話に触れながらですね、
パウロはガラティア教会の人々をここで励まそうとしているんですね。
どういうことか、今日の歌書の主題は、
偽教室をその追従者たちに迫害されていたガラティアのクリスチャンを励ますことです。
03:06
あるいはですね、そこに従おうとしていたクリスチャンの目を覚ますためです。
でも大きくはですね、迫害されていたその違法人クリスチャンを励ます。
そして偽教室とその追従者たちをハガルとその子供、
今日は出てきませんが、イシュマエルに名ぞらえています。
ユダヤ教の影響を受けたユダヤ人クリスチャン、
そしてその偽教室とあえて言います。
偽教室とその追従者ってこれから言いますから覚えていてくださいね。
その偽教室とその追従者たちをハガルとその子供に名ぞらえています。
一方を言ってしまえば私たちの仲間、ガラティア人の違法人のクリスチャンをサラとその遺作の子供に名ぞらえています。
そういうことを頭に入れて、この旧約の物語やパウロの話を名ぞらえながら三つの点から学んでいきます。
まず最初は旧約聖書の創世紀の話をパウロの話に並んで名ぞらえていきます。
ちょっと頭に入れていきましょう。基本的な情報として。
ちなみに余談ですけど、ある牧師向けの本を読んでいたら、
アメリカの教会、今は分からないですけど数年前の教会の礼拝の説教が長くなる傾向があるんです。
なぜかというと旧約聖書のバックグラウンドを知らない人が増えているから、
そういう旧約聖書のバックグラウンドをちゃんと説明して説教しないといけないとなっている。
だから長くなりがちなんですが、今日はなるべくコンパクトにしてみました。
ガラティアの中心主題は、神様がアブラハムに約束された祝福、それが違法人のクリスチャンに及んでいるという、それが中心主題ですけど、
背景には、この創世紀12章から21章の物語があるんです。
皆さんぜひ機会があれば、10分くらいで読めちゃうので、さらっと読んでみてください。
一応なぞらえますが、一番最初のアブラハムへの約束が、12章2節3節にあります。読んでみますね。
神様からアブラハムに告げられた言葉。
私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
読めるかというと、ここから読んでみましょう。
あなたを祝福する者を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。
地上のすべての民族はあなたによって祝福される。
最後のこの一節ですね。ここから派生して、ここに違法人も入っているということです。私たちも入っている。
そしてこの物語をなぞっていきますと、この後ですね、アブラハムとサラの間に子が授からなかったんです。
06:07
そして当時ですね、これは普通に行われていたんですが、サラの女奴隷のエジプト人のハガルをサラはアブラハムにあてがってですね、
そしてこのサラを通して子孫が生まれるように仕向けたというかですね、まあこうしたわけです。
でその通りですね、サラを通して男の子が生まれました。その名前がイシュマエルと言います。
まあ簡単に、ちなみにそのイシュマエルの子孫がアラブ人とも言われたりね、イスラム教徒とも言われています。
この時ですね、イシュマエルが生まれた時、アブラハムすでにもう86歳。86歳でこの子供を授かった。
実はこの出来事をパウルはですね、今日の4章のところで肉の思いって言ってるんです。
神様の祝福の約束を信じられずに、人間的な策略によって子孫を儲けようとした肉の思いだとパウルは今日のところで解説しています。
それを覚えていてください。そしてその後神様はそれでも何度も最低2回はですね、ご自身やまた見遣いを通してアブラハムの下に現れて、
いや、サラの子供を通して子孫が生まれる。その子はイサクと言うんだと名付けなさいと言ったわけです。
そしてようやくですね、アブラハムが100歳の時にサラを通してイサクを授かったわけです。
で、この出来事をもとに神の約束をもとに生まれた子供であるイサクをパウルは約束の子、自由の子と今日のガラディアヴィの手紙の箇所で解説しているわけです、読んでいるわけです。
そしてですね、このハガルとイシュマエルを立法と割礼を問じるクリスチャンたちに、すなわちガラディアのクリスチャンをもたらす偽教主とその水住者にハガルとその子をなぞらえています。
一方、サラとイサクを神様に信頼してイエス様を信じたガラディアのクリスチャンになぞらえている。またユダヤ人であっても立法にこだわらずイエス様を信じたクリスチャンをサラとイサクにパウルはなぞらえて、そして約束の子と呼んでいるわけです。
皆さんのレジュメにも書きましたけれども、後でゆっくり見てください。今日の箇所の例えているものとその人物をここにまとめてみました。ハガルは女奴隷であって、シナエさん。シナエさんというのは立法が与えられたとこですから、そしてそれを今のエルサレム、この立法に固執することもあってですね。
09:09
今のというのがパウルの時代のこの立法に固執するユダヤ人が集まった場所をある面ちょっと否定して、今のエルサレムということでまとめています。そしてハガルの子イシュマエルは女の子隷の子供で、夫なる子。肉によって生まれたものですね。
それが表しているのは、立法遵守と割礼を許容する偽教主とその追従者たちを主にユダヤ人、クリシャンたちを言っているわけです。そしてサラは自由の女であり、地上のエルサレムと対比して、上にあるエルサレム、完全な神の都と例えている。そしてそれは私たちの母であり、それはまた福音という示唆もされているわけです。
そしてサラから生まれたイサクは自由の子であり、夫に捨てられた女の子というのはですね、さっきのこのガラティアの本文にあるように子供が生まれないから夫に捨てられたというそういう言い方をしていますけれども、まあまあそういう二重湯を飲んだ女性みたいな言い方ですけれども、それをまあその子としてイサク。しかしそれは神の約束によって生まれた約束の子であって、
肉によって生まれたものと対比してですね、霊によって生まれたものをイサクに表している。それはつまりガラティアのクリシャンであり私たちです。立法を守って神の民となった人は肉によって生まれたものです。でもイエス様を信じて新しく生まれた人は霊によって生まれたもの、そのようにパウロはガラティアのクリシャン、また私たちをなぞらえているわけです。
これがですね今日の背景。よく覚えておいてください。じゃあそのもう少し私たちとガラティアの教会と関係ある意味を探っていきましょう。2番目。
しかしですね約束の子は迫害を受けたというんですね。4の29、前の見事を読めるかと読んでみましょう。3、けれどもあの時肉によって生まれたものが、御霊によって生まれたものを迫害したように、今もその通りになっています。
これはですね、創世紀21章の8節から書いてあることなんですが、
実はイシュマイルがイサクをですね、からかっているところをサラが目撃したというんですね。そのことがですね、パウロはちょっと誇張表現で迫害したと書いています。
それによって何を言いたいかというと、クリシャンであっても立法を守るべきだと言っているこの二世教師とその追従者たちが、
ガラティアの違法人クリシャン、福井に留まる違法人クリシャンを迫害している、そのことになぞらえているんです。
12:08
ここでパウロが言いたいのはですね、正当派を主張している人たちから、異端者扱いとして迫害されている人たちこそ、実は正当派なんだということなんです。
そしてそういう立場の逆転は、創正期の時代からあった出来事なんだと言うんです。
もうちょっと別の言い方をすると、今までのガラティアの流れの中でですね、奴隷の子と自由の子、養子園組になって違法人クリシャンは相続を受ける子供になったって話もありましたけども、
ここのことはですね、奴隷の子供が、相続権のある正当な子供を迫害して、その立場を脅かしているということが示唆されているんですね。
そんな中でパウロは厳しく断言しています。ガラティアの三重、女奴隷とその子供を追い出してください。
女奴隷の子供は決して自由の女の子供と共に相続すべきではないのです。こう書いてありますよ。
これはですね、実はイシュマイルがイサクをからかっているのを見て、サラはですね、夫のアブラハムに、イシュマイルとこのハガルを追い出してくださいってお願いしたんです。
もう辛辣な出来事です。これは例えとして彼が引用しているので、そこの倫理性は問わないんです。
一番ここでパウロが言いたかったこと、私たちが問われるべきことは、こうやって迫害されている正当的な立場の人、本当の自由の子供というのは守られるべきであって、
このあなた方を迫害している異端者は本来追い出されるべきものなんだってことを言って、ガラティアのクリスチャンを擁護しているわけなんですね。
これはですね、もう一つ驚くべきことなんです。本当ならイサクの子供はユダヤ人ですから、
ユダヤ人がイサクの子供で留まらなきゃいけない。そして違法人はイシュマイルの子供ですから、違法人が追い出されなきゃいけないのに、
パウロはここで当時驚くべきことだと言うんですけども、イサクの子孫であるユダヤ人が奴隷の子供であって、イシュマイルの子孫だから追い出すべきだ。
よそ者の違法人こそ、あなた方こそ、正当的な相続者なんですよ。そうやってですね、センセーショナルな訴え、立場の逆転をこのように述べているわけなんですね。
15:07
この驚きに私たちは気づくべきだ。
ここで何度も言ってますけども、福音によって違法人とユダヤ人の立場が逆転しているということなんですね。
実はですね、これは今の私たちに当てはめるならば、もし私たちが信仰によって迫害を受けている。
クリスチャンであればゆえに、今で言えばハラスメントの被害にあっている。
あるいはですね、もうちょっと広く言えば、嫌がらせやハラスメントの被害にあっている人にとって福音なんですね。
当時迫害によって自分の立場が脅かされたガラティアのクリスチャンは、こう思ったでしょうね。
自分は正当的な立場にいないんだ。
この教会にいていいんだろうか。
この場所にいていいんだろうか。
しかし何度も言いますが、パウロは、いや、正当派から迫害されていると思われているこの違法人こそ正当派であるんだ。
パウロはですね、あなた方こそ正当派だと、これだけに言っているわけです。
そして、創世紀の時代から起こっていることだからですね、
パウロは、これであなた方は2000年も前、今で言えば4000年も前の創世紀の時代からこういうことが起こっているわけですから、
あなた方は孤独ではないんですよ、と宣言しているんですね。
私たちはクリスチャンとして責められたり、あるいは信仰と関わらなくてハラスメント的なことをされるとですね、
自分はここに属していてはいけないんじゃないか、片身の狭い思いをしたりですね、身の置きどころがない思いをしちゃう。
あるいは、世間一般で言われている風潮でですね、自分はそれに合っていない。
まさにですね、肉の思いですね。
肉によって生まれたものってパウロはここで言っているんですけども、
この肉によって生まれたものっていうのはですね、
肉によって生まれた状態は何かというと、
もちろん神様も精霊も信じない状態なんです。
当然、神様と関係なく、聖書の価値観と無関係に生きているってことなんですね。
いわゆる聖書では、この世の基準に沿って生きている状態を、肉によって生まれ生きているっていうんです。
たとえですね、神様を信じていると言っても、
パウロが指摘するように、人間的な基準で
神様と人の前で自分の立場を確立しようとする人がいるならば、
それは肉の人なんですってことです。
18:00
そして往々にして私たちは、そういう立場の人たちから苦しめられるって言うんですね。
まさに今日の箇所では、奴隷の子と自由の子が比べられています。
私たちを脅かす人、いろんな所でそういう経験をするかもしれません。
私たちを脅かす人々が意図することは、
そうやって脅かしてですね、奴隷のように私たちを支配しようとするんです。
気づこうか気づく前が、そういう支配欲というのがね、その背後に潜んでいるんですね。
で、ある学者はですね、ここで述べられている奴隷制度にも
恐怖によって支配しようとする構造がある。
さらにですね、ある学者の人はですね、こう言うんですね。
肉の、いわゆる人間的なこの奢り高ぶりと
肉なる者への信頼の裏側には、恐怖が存在するんだって言うんです。
この世的な基準で自分を図ったり、奢ったり、
そしてそれによって人を支配しようとしたり、
人に対して有意な立場に立とうとする人が私たちの周りにいるならば、
その人の背後には実はですね、恐怖心がある。
そういう風にですね、覚えておく。
それはですね、私たちを強くすることにもなるんではないかなと、
個人的に私は思いました。
何をともあれ、精霊によって生きる私たち、
それは精霊によって恐怖ではない。
自由と喜びに生きているんですね。
そして、実はですね、私たちが精霊によって
この自由と喜びで生きている時に、
このように人間的なものに縛られている人々の
恐怖心を助長するということがある。
それに私たちが吐く具合に合うということもある。
そのことも覚えておきましょう。
しかし、そんな中でパウロはこう宣言するんですね。
読んでみましょう。4章31節3。
こういうわけで兄弟たち、
私たちは女奴隷の子供ではなく、
自由の女の子供です。
私たちはこの立法に縛られることによって
神様の祝福を得たり、
神の前で正しい立場を得ようとする
そういう奴隷の子供ではないんですね。
私たちは神様を信頼することによって、
イエス様をまた信じることによって
神様からの祝福が約束されているんです。
そして私たちはこの立法を行うこと、
この世の基準に生きることによってではなくて、
この聖霊が与えられることによって
21:01
生まれ変わっているんですね。
そしてこの聖霊によって
神様の祝福のうちに生かされているんです。
ですから立法を始め、
私たちの周りにあるこの世の奴隷制度によって
奴隷として生きる必要はないんです。
皆さん常識的な方ですから、あらかじめ断っておきますけど、
それはですね、ちゃんと仕事ももちろんするわけですよね。
仕事をすれば職場のルールにも従うわけです。
そういうことを言っているんじゃないんですね。
そういうことではなくて、私たちがそんな中とか暮らしていく中で
不当な嫌がらせを受けたりとかですね、
この世的な誤った基準で
私たちを縛ろうとする人がいるときに
私たちはこの聖霊の自由にもう一度立ち返って
神の祝福を思い出して喜びを持って生きていく。
そしてそういう人たちの言いなりになってですね、
嫌々ながらそのライフスタイルに合わせて
奴隷と生きる必要はないということなんですね。
私たちは自分自身が神の約束の祝福を享受するだけではなくて
今度は私たちを通して神様の約束が流れ出ていく。
そういう祝福の器でもあるんです。
アブラハムがですね、あなたによって
この地の全ての民が祝福されるといったように
今度は私たちを通して、実は私たちの周りの人々に
神様の祝福が及ぶという約束の子であり
選びの民である、そういう祝福もあるんですね。
私たちが見える、見えないですね、敵対する勢力があって
そういう勢力はですね、私たちを脅して奴隷として
私たちを通して神様の祝福が及ばないようにするんです。
私たちの居場所を亡き家ごとくにして
私たちがその場で神の祝福となることを
私たちの敵の勢力はですね、阻もうとするんです。
しかしその策略を見抜いて、精霊に導かれて
自由の子供として、神様の祝福を
私たちはこの地にもたらすべく約束の子であり
自由の子、神の祝福の器であるということを
思い出しながら歩んでいきたい、そのようなお互いでありたいと思います。
最後にですね、この創世記二十六章三節四節
アブラハムの子イサクにも与えられた
神の祝福の約束の言葉を読んで終わりにしましょう。
ちょっと長いですけど、頑張って読んでみましょうか。
はい、私はあなたと共にいて
あなたを祝福しよう。そして私は
あなたの子孫を空の星のように増し加え
24:01
あなたの子孫にこれらの国々を
みんな与えよう。こうして地のすべての国々は
あなたの子孫によって祝福される。
私たちもこの神の祝福の子孫であることを
覚えて日々歩んでいくお互いでありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、みんなを賛美いたします。
アブラハム、またイサク、そしてイエス様を通して
あなたはあなたの祝福の約束を
私たちにも与えてくださったことを感謝いたします。
その成就として今、ご精霊が与えられています。
どうぞ、そのあなたから与えられた祝福を私たちが
さらに深く知ることができるように
私たちの心の目を開いてください。
また私たちの周りにそれを拒む力が働くこともありますけれども
どうぞ、あなたが私たちをして
あなたの祝福を届ける器として
使わされた場においてお用くださりをお願いいたします。
この願いと感謝を私たちの救い主シュイエス様のお名前によって
それではしばらく主にお答えして祈る時間を持ちましょう。
25:23

コメント

スクロール