2022-10-02 24:28

#125 プライド、自尊心 22/10/2

ピリピ-26からの礼拝説教。2022年10月2日録音。 今日の箇所には、聖書の有名な言葉が出てきます。のこの言葉です。「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」。その言葉を元に3つの点から学びましょう1.パウロの板挟みを貫く人生観、2.死を選択することを奨励してはいない、3.福音と人に仕えるために。


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フィリピ人への手紙 1章21節から26節
私にとって、生きることはキリスト、死ぬことは域です。しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが身を結ぶことになるので、どちらを選んだら良いか、私には分かりません。
私は、その二つのことの間で板挟みとなっています。私の願いは、世を去ってキリストと共にいることです。その方が遥かに望ましいのです。
しかし、この肉体に留まることが、あなた方のためにはもっと必要です。このことを確信しているので、あなた方の信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなた方すべてと共にいるようになることを知っています。
そうなれば、私は再びあなた方のもとに行けるので、私に関するあなた方の誇りは、キリストイエスにあって増し加わるでしょう。
以上です。今日はこのところから、プライド自尊心と題して御言葉を取り継ぎます。みなさんおはようございます。早いものでもう10月になりました。
いろいろ先週の日曜日から今日に至るまで、日本でもまた世界でも起こっておりますけれども、今日は共に神様を礼拝し、また御言葉に聞きたいと思います。
ちょっと暑いようでした。またエアコンなどもスイッチを入れていただければと思いますので、どうぞ調整してください。
さて、今日は先週読んだ箇所から、少し長めのところを読んでいきました。主に25、26節を取り上げていきます。
ただ、前後の関係があるので、21節から読んだわけですけれども、今日の25節、26節の箇所は、突然知らされたピリピリ島の人々にとっての良い知らせなんですね。
パウロが死刑になると思っていたけれども、彼はあなた方のために釈放されるということをここで述べている。そう確信していると述べているわけです。
一緒に留まるあなた方のもとに行って、共にいることができるようになると、パウロは今日の箇所で述べています。
先週見たように、パウロが言っていたことは、自分が苦しみから逃げるために、自ら命を捨てたいということでありませんでした。
むしろイエス様と共にいることが遥かに勝っていると言っていましたけれども、それはそういう意味ではありません。
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繰り返しますが、死ななければならない運命に彼があった、自分の力ではどうしてもできないこの死刑宣告をされるという運命にあった、その中で死を受けるのであれば、彼は喜んでイエス様と共に過ごせること、そちらを選ぶ、そしてそれがイエスと共に過ごすことが最も素晴らしいことだ、そういう意味で言ったんですね。
その上で彼は釈放されて生き延びるその理由を自分勝手な人生を送るためではなくて、フィリピンの人たちの利益のためだと先週述べたわけです。
そしてそのフィリピン教会にとってどんな利益があるのか、何が言えるのかということを今日の箇所で具体的に語っているんですね。
その内容を基に、今日3つの点を学んでいきましょう。
やはり私たちの信仰の奥義とも奥義とも言えるような素晴らしいことです。
まず最初はですね、信仰の前進ということです。
復讐のために25節を読める方は読んでみましょう。
このことを確信しているので、あなた方の信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなた方すべてと共にいるようになることを知っています。
このことというのはですね、あなた方のところに行くことが良いことだと、それを確信しているという24節を受けて言っています。
その確信の上にですね、フィリピンの業界の人々、皆さんとこれから私は釈放されて、一緒にいることになると知っていると言っています。
根拠は何かというのは、学者がいっぱい議論しているのですが、わからないそうです。
でもパウルはその時、死刑にならずに釈放されるということを知っていたと言われていますね。
さあ、その中でパウルはですね、その教会を訪れていって何が良いことが起こるか。
それは信仰の、フィリピン教会の人々の信仰が前進するために、彼はフィリピンの人々の元に戻って、共に過ごしたいと言うんですね。
実はこの前進という言葉、ギリシャ語で難しいですが、プロコペイ、英語ではプログレスという、ちょっとスペル間違えましたけども、プログレスという単語になっています。
これはですね、フィリピンの手紙の中でパウルが頻繁に使う鍵の言葉です。前進する、覚えておいてください。前進という言葉。
この前進、信仰の前進、それは何か。それはイエス様にある生活の質が向上することだ、と言うんですね。
で、わかりやすく言えば、クリスチャンの成長を言うわけです。
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フィリピン教会の人々が福音にあって成長していくことを、パウルは願い、そのためにフィリピン教会の中で働き続けるというわけなんですね。
前進という言葉と福音という言葉を合わせて言う別の言い方をすればですね、私たちクリスチャンの命の中における福音の前進と言い換えたりですね。
あるいは日常生活の私たちの立ち振る舞いにおいて、キリストの福音が前進し続ける。
つまり外の人たちに福音が伝わるだけじゃなくて、私たちの命の中に、そして私たちの生活というか立ち振る舞いの中でも福音が生き生きと前進している。
信仰の成長が起こっていると言えるかと思います。
そこの内容にはですね、例えば前9節から10節で述べた通り、神の御心に沿って判断力が養われて愛が豊かになることも含まれているでしょう。
復習できる方は復習してみてください。
さらにはですね、何が信仰の前進なのか、成熟したクリスチャンの証なのかということをパウロはこのピリピリとの手紙の中で繰り返し具体的に教えていきますので、そのことを一つ一つこれから学んでいきましょう。
そしてパウロはですね、このようなクリスチャンの絶え間なく成長する様子を3章13節14節でこう書いています。
これもとても有名な素晴らしい言葉ですね。読んでみますね。
兄弟たち、私は自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。
読める方はここから読んでみましょう。
ただ一つのこと、すなわち後ろの者を忘れ、前の者に向かって身を回し、キリストイエスにあって神が上に召してくださるというその証をいただくために目標を目指して走っているのです。
この絶え間ない信仰にある福音の前進、そのことをパウロはこのように言い換えているわけです。
2番目、信仰の前進に続いてパウロは信仰の喜びについて語っています。
繰り返し読んでみますね。1章25節。
この子と釈放されて、あなた方と共にいることが良いと確信しているので、あなた方の信仰の前進と喜びのために私が生きながらえて、あなた方すべてと共にいるようになることを知っています。と述べています。
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2つ目の点はこの信仰の喜びですね。
ちょっと難しい文法的なことを言うんですけども、この信仰という言葉は喜びという言葉とも関係しているんですね。
英語の聖書ではプログレスアンジョイインザフェイスとなっています。
この日本語でもですね、信仰の喜び、信仰の前進と信仰の喜びのためにと言い換えることができるわけです。
この信仰の喜びって何ですか?と言うとですね、これはある種の宗教体験です。
私たちのクリスチャン生活には喜びが伴うということですね。
何かと言えばですね、実は私たちの信仰が前進していくとき、私たちがクリスチャンとして成長していくときに、この喜びを体験していくということなんですね。
私よくラジオを聞くんですけど、先週のですね、木曜日ですかね、大谷翔平に勝ったことがある人というのを募集している番組があったんです。
そこで大谷翔平の高校生時代、花巻東高校の時にピッチャーの大谷翔平選手と対戦したという人が出てきました。
当時からですね、高校1年生の頃から球が速くて有名だったんですね。こういう坊主頭とか。
そしてその時に彼はですね、東北のある福島の一つのチームとして東北大会で対戦したそうなんですけども、大谷翔平と対戦して球がすごい速かった。
でもコントロールが悪かったんですね。だから1打席目はフォアボールで選んで失利した。
そしてただですね、2打席目3打席目はやっぱり三振とボンダで、彼はアウトになったんですが、大谷選手コントロール悪いのでそのチーム自体は勝ったって言うんですね。
新聞ではですね、大谷翔平が調子が悪かったみたいなことが書いてあって、彼らが負けたことがですね、ニュースになるぐらいやはり注目されていたんですね。
で、ご存知の通り今大谷選手はですね、この投手としても打者としても成長して、そして彼はですね、投手としてのこの勝利の喜びとかですね、打者としてのこのヒットやホームランを打つ喜び、そしてチームが勝利する喜びということを体験している。
今朝何かニュース聞いたんですけど、来年1年間契約したんですね。1年間で43億円ってですね、どういうものだと思いましたけど。
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それはともかくですね、野球選手部、お礼に挙げましたが、選手も成長すると多くの喜びを体験するように、この私たちもイエス様にある信仰において成長するにつれ、喜びが増し加わる、喜びを体験する、その信仰の前進と信仰の喜びのためにパウロはピリピリ教会に行って、またあなた方と共に過ごして使えると言っているわけです。
どういうことか。私たちがイエス様を信じてですね、イエス様、精霊様に頼って生きていく中で、この精霊のですね、働きとかイエス様の救いを生活の中で実感するようになります。
例えばそれと関係するかもしれませんが、当たり前だと思っていたこと、その背後にこのイエス様の恵みがある、あるいはイエス様の救いがあったと気づいて、この喜びが増し加わるということを体験すると思います。
それはある意味、信仰の目が養われていくという成長の証ですね。で、その最たる霊がパウロですね。彼はこの前の一章の中で見ましたけれども、獄中の中で、しかもパウロの敵対者たちがパウロを困らせるために福音を前進させた。
それでも福音が前進していくこと、そして統獄地の自分を通して自分の周りのローマの兵隊たちに福音が前進したことを喜びますと言っていましたよね。
このように私たちの信仰が前進していく時に、私たちはこのイエス様にある喜びを体験し、喜びが増し加わっていくということがあるということなんですね。
で、パウロはですね、このピリビ書においてその喜びの秘訣をこれからいろいろ語っていくわけなんですね。その喜びの秘訣をこれから共に皆さんと学んでいきたいと思います。
で、パウロはですね、このピリピリとの手紙の締めくくりのこの4章の中でこのような見言葉を述べています。ちょっとここには引用してないんですけれども、4章の4節5節でパウロはこう言っています。
最後の締めくくりでこのような理想を目指してくださいと言っています。
いつも主になって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなた方の寛容な心が全ての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。
ピリピリ4章の4節5節、手紙の最後の章で、いつも喜びなさい。主になって喜びなさい。もう一度言いますよ。喜びなさいとこう進めているわけです。
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最後、健全なプライドということですね。26節読める方一緒に読んでみましょう。
そうなれば私は再びあなた方のもとに行けるので、私に関するあなた方の誇りはキリストイエスにあって増し加わるでしょう。
ここで少し理解するのに難しい言葉が出てきます。
私に関するあなた方の誇りはイエスキリストになって増し加わるでしょう。
この誇りが増し加わるとは一体どういうことか。
英語ではボースティングという、本当に誇るということなんですね。
特にプライドとか誇りとか、それは日本語でも英語でも時に否定的に自慢げな言葉、傲慢に聞こえる。
でもパールは一体何を意図しているのかということがよく議論されているそうです。
これはプライドとも言い換えられる言葉、自尊心と言い換えてもいいと思うんですけれども、
日本で一番売れている三聖堂の神明会国語辞典、小型辞典で47%の売上があったんですけれども、
この辞書の定義によるとプライドとは誇りや自尊心という例文で、
プライドが高い人、これは否定的な意味かもしれません。
プライドを傷つけるということが書いてあって、これしかないんですけれども、
否定的な言葉の意味に限定されていない、自尊心や誇りをプライドと言います。
実は健全なプライドは何かということをともに学んでいきたいんですけれども、
ここでパウロが言う誇り、プライドや自尊心というのは、
完全なる信頼と確信と関係しているということです。
どういうことか、この誇りというのは、
人がある人や自分以外のある人やあるものに、
完全なる信頼と確信を置くことということです。
それはどういうことか、ある人やあるものを自分の拠り所とすること、
そしてその完全なる信頼と確信ゆえに、その拠り所を褒めたたえること、
それがこの誇り、プライドと関係していると言うんですね。
ちょっと難しいかもしれませんが、
パウロとフィリピン教会の人々の関係から説明すると、少しわかるかと思います。
1章26節で言っていることは、
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パウロが釈放されたことのゆえに、
フィリピンの人々がイエス様を褒めたたえることを指すと思われるんですね。
つまり、フィリピン教会の人たちは、
パウロが死刑に遭わないように、釈放されるように、
イエス様に、神様に祈っていたわけです。
このパウロの盗獄というのは、
フィリピン教会の兄弟姉妹にとっても辛い経験になりました。
親しい人がローマで死刑になるかもしれないということもそうですけれども、
彼がローマで裁判を受けている、犯罪人として裁判を受けている、
つまり、自分たちの教会を作ったパウロが犯罪者として裁判を受けているというのは、
フィリピンの人々にとって恥ずかしく思ったり、
片身の狭い思いをしたとも考えられるわけです。
ここ数年、冤罪の死刑囚の人たちが無罪判決を受ける、
あるいは釈放されるということが度々ニュースになります。
その人たちは、たとえ無罪であったということが確定しても、
自分自身の名誉を回復することが大変だったり、
その方、本人だけじゃなくて、その人の家族も犯罪者の家族だということで、
名誉を回復することが難しいということがあるそうなんですね。
そのようなわけで、フィリピン教会の人々の祈りや願いに応えて、
イエス様がパウロをこの死刑から免れて釈放されるように、
そして再会を果たしてくださる。
そうなると、フィリピン教会の人たちは、
イエス様を当然大いに褒めたたえることになるわけです。
私たちの祈りに応えて、イエス様が死とパウロを釈放してくださった。
そして私たちのもとに帰してくださった。
そして私たちの汚名も晴れて返上されて、名誉は回復したとなるわけですよね。
それらの一連の出来事をもってパウロは、
私が再びあなた方のもとに行けるので、
私に関するあなた方の誇りはキリストイエスにあって増し加わるということです。
フィリピンの人たちが、イエス様に確信をおいてパウロの釈放を願っていた。
そしてそれが叶った時に、フィリピンの人たちは、
21:00
イエス様がこのことをなしてくださった。
自分の居所であるイエス様を喜び、そのイエス様を褒めたたえていく。
それと同時にフィリピン教会の人々の名誉も回復される。
この中で一番大事なことは、名誉を回復してくださるのは、
神様の宮座そのものだということです。
言い換えると、私たちの誇りや健全なプライドの拠り所は、
イエス様ご自身、主なる神様であるという、そういう根拠です。
そのような信仰の奥義、私たちのプライドや存在の拠り所、
その拠り所はイエス様以外にないということも、
パウロはこの手紙の中でこれから様々教えていきますので、
ともに学んでいきましょう。
パウロがこのことの根拠とした旧約聖書の御言葉を最後に読んで、
御言葉の時を終わりにしたいと思います。
読みますね。
主はこう言われる。知恵ある者は自分の知恵を誇るな。
力ある者は自分の力を誇るな。
富ある者は自分の富を誇るな。
誇る者はただこれを誇れ。悟りを得て私を知っていることを。
私は主であり、地に恵みと公正と正義を行うものであるからだ。
誠に私はこれらのことを喜ぶ。主の言葉。
エレミア旧書23節から24節。
私たちもパウロの姿勢、またフィリピンの兄弟姉妹になって、
イエス様ご自身を私たちの誇りの拠り所としながら、
ともに信仰の前進のために、信仰の喜びのために歩んでいくお互いでありたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
あなたが私たちを救ってくださり、またイエス様にあり恥を負ってくださったことを感謝いたします。
私たちが様々体験するこの世における不名誉な出来事、また名誉を回復してほしいと思う体験、
そのような中でイエス様自身が私たちの誇りとなり、また私たちの不名誉を回復してくださるお方であることを感謝いたします。
どうぞそのイエス様自身を私たちの拠り所として、あなたの福音に生きる者として絶えず前進し続け、
またあなたにある信仰の喜びを体験する、そしてあなたに栄光を捧げするお互いであり、教会でありますように。
24:11
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
それでは皆さんそれぞれその場で一分ほど主にお答えしてお祈りください。
24:28

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