2020-12-30 31:04

【GMV 286】コラボを壊すもの

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ど根性ガエルの娘という作品を借りて、躁的防衛の話をしています。
00:04
おはようございます。グッドモーニングバイブスです。
まああの、もうちょっと短くしたいなと思ってはいるんですよ。
ってはいるんだけど、気がつくとああいう時間になっていて、
大変不思議なんですよ。というのは、今喋っているこの段階では、僕の頭の中、空っぽで、
本当に全く空っぽで、何にもないんですよね。
どうして気がつくと30分を超えたりするのかという、なんか3分ぐらいで終わりそうだと思って始めるんですけれども、
なんか気がつくと30分とかってなっていて、結構びっくりして終了するみたいな感じでお届けしています。
で、えっと、暖かいです。
神奈川県は、暗くてですね、雨が降ってて暖かくて、
なんか梅雨の日の天気みたいな感じですね。
今日は多分もう仕事をおさめの後なので、私はそれがなぜわかるかというと、
パッと見た時にこのポッドキャストのアクセス数というのが出てですね、
休日は20ぐらい少ないんですけど、休日と同じ数字なんですね。
まあ除外しますけど、その休日と同じような数字になったら、休日が来たんだなと。
でも今日は休日というよりやっぱり年末年始ですよね。
えーというわけで、
昨日ですね。 そうか、こうやって出てくるんだな。
頭に浮かんでくるんですね。昨日トコンジョウガエルの娘を読み直したんですよ。
ちょっと前にも言いましたけど、私はあの、
引用でガッツリ埋めて、ほとんど引用で作る本というのを作りたかったんですね。
今はそのまんまはできないけど、今一生懸命読むセラピーというのを書いております。
もう原稿はあるんだけど、結構細かな修正をかけたくなってしまうところがありまして、
あと新しい引用を1個でも入れると、すごくこうやっぱり前後の流れが変わるんで、
それをやりながらやっているために変に時間がかかっておりますが、やってるんですよ。
あれは引用を僕は中心に書きたいので、その、まあ一つのチャレンジなんですが、
その引用のところに漫画があるっていうのも結構僕は好きなんですね。
それを本当はやりたいみたいなところもあるんですが、それはですね、
書業の人によるとですね、すごくこう難しいところがあるらしいんですよ。
権利問題等々で。わかんないですけどね。
だいぶ前にそういうことを1回言われたっきり、もうチャレンジする気を失って、
チャレンジしてないので。ただまあ、難しいんだろうなと思ったし、
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文章を引用するのに比べると、1コマだけ引用するとか、1ページ引用するとか、
様々ありますけども、形式的にも厄介なことはいろいろあります。
で、あと漫画のセリフって文として言葉だけ抜き出すと、
なんかね、すっごく変なものに見えるんですよね。
あれは絵がついてセットでなんですよね。
ブログでは結構やってるんだけど、ブログはネットじゃないですか。
ネットに絵を載せると、本当に人によってはですね、
引用であろうと何であろうとダメだっていう、アウトだっていう人もいらっしゃるんですよね。
私は著作権のいろいろ読んでみたんですけど、
明らかに引用で、引用であることが非常に必然性が高いと主張できるものは、
アウトには思えないんですけれども、
僕は法律の専門家じゃないからその辺はわかんないんですけれどもね、
すごく私の中では、ここの引用はこれ以外は絶対ないっていうのが、
自分の中で確信がつくので、
別にこれで裁判で争うことになっても構わないなみたいな気持ちにはなるんだけど、
一方で裁判で争うということは、引用元の人と何か関係者と争うんですけれども、
それは嫌だなと思うんですね。
争う気持ちはないのに、争うのは嫌じゃないですか。
なんかですね、ここにこれを入れないぐらいだったらお金を払いたいみたいな気持ちにはなるんですよ。
時々、漫画家さんに、ツイッターとかやってる方にはですね、
直接DMを送ってですね、こういうのいいって言うと、
大体めちゃくちゃ喜んでくださるケースが多いんですけどね。
全く何の反応もないという、変なファンからのレターが来ちゃったみたいな感じで、
スルーされてるケースも多分多々ありますが、
そういう感じで引用したいわけですよ。
要するに、簡単に言うと。
でですね、ドコンジョウガエルの娘。
あれ非常に、商業本としてちょっとねじってちゃった面もあるんだと思うんですけど、
最初の話の流れは、お父さんのドコンジョウガエルを書いた人の話なんですね。
みんな読みたいのはこっちじゃないですか。
そういうことで、その娘の話を書いたところで読む人はいないみたいな感じで、
一旦、なんていうのかな、一旦多分企画が成立しなくなり、
その後、いやいやそれでもいいからということで、別の人がそれを継ぐ形で作ったんですね。
ところがそれが全部繋がっちゃってるから、
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キャラクターの見え方が変わるんですよ。
特にお母さんの見え方が変わって、お父さん目線で見ている奥さんですよね。
自分の奥さん。すごく優しくて、ほとんど母殺みたいな感じ。
日本の社会的な問題とされますね。
女性に全ての苦労を負わせるみたいな。
でもとにかくめちゃくちゃ優しいんですよ。
ところが娘さんの、ドコンジョウガエルの娘から見た、
母になりますよね。見ると結構やばいお母さんなんですよ。
同じキャラクターで同じように優しそうに描かれているんだけど、
振る舞いが変わるから、これがイリュージョンだなって思うんですよね。
お母さんは一人しかいないわけじゃないですか。
ところが妻として見えるお母さんと、
母として見えるお母さんは結構違うんですよね。
同一人物なのは確実なんだけど、読者が読んでいても結構違うんですよ。
これをやっぱり描き分けるのってすごいなと思いました。
子供から見ればこのお母さん結構いっちゃってるよなという感じがするし、
どっちも子供から見てるんだけれども、
多分旦那から見るとだいぶ違うんですよね。
旦那目線で最初は描いていたから、読者としてはすっかりそういう、
こんなにすごい徹底的に献身的で受け身的な女性っていうのが
こういうところにいるんだなと思っちゃうんだけど、
2回以降見ると読むと、このお母さんは決してそんなだけのもんじゃないなと。
あまりにも旦那のやることがむちゃくちゃなんで、
ああなっちゃったとも言えると思うんですけども、
その辺は要するに本当のことはわからないんですが、
でもこの視点の変化が起きるんですね。
視点の変化が起きるというところが、
そこは多分狙ってそうしてるわけでは決してないんですが、
ねじれてそうなっちゃっただけなんだけれども、
それの一つの読ませどころだなと、読んでいる側としては思いました。
大きく変わるのはやっぱりお母さんの見え方なんですよね。
全然別の人みたいに見えます。
多分このドコン・ジョー・ガイルの娘の話も今みたいな話も
この番組でしたことがありまして、
その時にも伝えたことだと思うんですけど、
このパパですね、要するにドコン・ジョー・ガイルを描いた人ですね、
最初からそうなのか途中からそうなっちゃったのか非常にわからないんですけど、
いわゆる装的防衛に突っ走るタイプなんですね。
いわゆるって言ってもこれは術語だからわかりにくいし、
いわゆる専門用語としても幅広く使われてませんけど、
要はですね、俺は平気だもんねのタイプなんですよ。
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ああいう方は相打ちになりやすいと思うんですけれども、
関係を作っていくんですが、その関係を、
いや関係なくても関係がなくなっても、
つまりこのお母さんとかに絶対いないとどうしようもないタイプなんですけど、
平気だもんねになってしまうんですよ。
そうすることで自分を守るというか、
逃げるんですね、言ってみれば。
これがですね、この人の場合は、
あまりにもアップダウンが大きかったから、
こうなっても不思議はなかったんですよ。
ドコンジョウガエルですからね。
誰もが知っていると言っていい作品ですよね。
もうそれで一生食えるはずじゃないですか。
ところがこの人が無一文になっているわけですよ。
ギャンブルにハマって等ありますし、
その後作品が一つも、一つもなのかわかりませんが、
25本落とすのかな。
25本とか無理ですよね、そもそも。
同時に引き受ける数としては無茶苦茶で、
漫画の世界というのは今もそうなのか、
当時がそうだったのかわかんないですけれども、
要するにヒットを飛ばした人にやたらと仕事を集中させるという、
物書きの世界にもよくあることだけれども、
実際には同じ人がそんなに面白い話を
次々に書けるわけでもなさそうじゃないですか。
わかんないですけどね。
手塚治虫さんみたいな人もいるから。
でも大体なんか無理そうな気がするんですよ。
1本がヒットするのと、その人が25本書いて全部面白いのとは
話が全然違うような気もするんだけど、
そういう極端なアップダウンを経験しているわけですよね。
すごくヒットして一生食える分ぐらいのお金が手に入った一方で、
いきなり落としてお金なくなるわけですよね。
このタイミングで関係をどんどん壊して
いかざるを得なかったと思うんだけれども、
それがですね、すごく見ようによっては創物的だし、
装的防衛的でもありますよね。
つまりガーッと上がるわけですよね。
ひたすらギャンブルにはまることもできるし、
ガーッと下がるわけですよね。
自殺未遂すると非常に欲物的な状態になるという感じですよね。
これがその後の多分この人の行動様式によく現れちゃうんだと思うんですよ。
関係が奥さんと結婚するから作るんだけど、
奥さんいなくても俺は大丈夫だもんねってなるわけですよ。
こういう人いっぱいいますよね。
私も身に覚えあります。
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結局誰かに依存している、
私たちは結局他人がいないと生きていけないにもかかわらず、
俺は一人でやっていけると思い溜まるわけだし、
またそういうことを結構推奨されるわけですよ。
だから関係を必要としているのは自分ではないと言い張りたがるわけですよね。
で、関係切っちゃえば大丈夫じゃないかと。
結局めんどくさい関係って全部同じじゃないですか。
上司がとてもパワハラです。
いやそんな上司切っちゃえばいいわけじゃないですか、別に。
例えばお金があったらですね、仕事はちょっと嫌なことがあったら
それをやめちゃえばいいわけですよ。
そうすると嫌な思いというものは一切しなくて済む。
この時に悪いものは外にあって、
例のそのパターンですよね。
何か問題があるとトラブルがあるとすればそれは全部外にあるのであって、
自分には関係ないということにして
わさわさと切り捨てていき、破壊していくと。
いつしかですね、自分が危機に陥る時に使う技は全部これになるんですよ。
関係を破壊すると。
関係を次から次へと破壊する、そういう破壊者みたいなものを
自分の中に作り出して、その破壊者がいてくれるから自分は生きていける
みたいな感じになっていくわけです。
何かこう、ちょっとしたミスは普通によくやるわけだからやるんだけれども、
そうした時に何かガーッと攻めてきてこいつは嫌なこと言うなと思ったら切ると。
その人のもう知らないとブロックして永遠に連絡ができないようにすると。
仕事関係者でこういうことをやるってことは良いじゃないですか。
その気になれば。やった瞬間に飢えるわけじゃないですよね。
しかも。
だからこれで生きていくという戦略はあり得るわけですよ。
で、これが多分私は典型的に創的防衛というやつで。
で、創的防衛の特徴としてはですね、やっぱりこう
クリエイションというものを自ら破壊するという特徴があるんです。
クリエイションというのは創作とか創造というやつですけれども
別に必ずしも本格とか漫画格とかは限らなくて
何でもですよね。結婚生活みたいなものでもいいと思いますし。
要するにあれですよ。
いろんな女性と付き合っては次から次へと。逆も当然あります。
次から次へと破壊していくと。
全部向こうが悪かった。か少なくとも相性が悪かった。
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決して自分が悪かったわけではないし。
人のせいにするというよりは
関係を維持するための何か関係を維持する上で
何か問題があったその問題がトラウマになっているというケースの方が
多いかなという気がします。
関係性の中ではどっちが悪いかは大変分かりにくいものなので
壊してそこを完全に特定して相手をきっちり攻めるみたいなのも
結構きつい人にとってはきついんですよね。
このドコンジョガエルを描いた人はそういうことはしないんですよ。
いきなり切れて関係を切ろうとしちゃうわけです。
ただ奥さんはすごい人でそこが決して切られないんですけどね。
何としてもしがみつくみたいなところがあって
そこが美容によっては菩薩っぽく見えるし
美容によっては壊れちゃったお母さんっぽくも見えるわけですね。
それでこの話を読んでてつくづく思ったのですが
この装的防衛をやりがちな人は
作品仕上げるのは大変苦しいだろうなという気はします。
ソウツっぽくなる創作者っていう話は
本当なのかフィクションなのか知りませんがよく聞きますよね。
それこそウォーティアルトの話みたいなのでもそんなのあるじゃないですか。
急に創作に打ち込み始めたり
急に何もしなくなっちゃったりみたいなアップダウンがある。
自分はそういうタイプではないので
そういうのっていわゆる
架空の物語なんじゃないかなと思ってたことも結構あるんですけれども
そういうふうに考えられている人っていっぱいいらっしゃるんですよ。
ガーッと急に。要するに創作者とはそういうもんだという感じですね。
だけどあの考え方の中にはすごく装的防衛的なものがあるんですよ。
なんかこうやたらと急に装的になった時
つまりその時ガーッと作品を描けそうなものですけど
その時一番その人は破壊的な何かを持っている気がするんですね。
例えばそのお父さんはギャンブルやるためなら
娘の給食費とかを財布ごと持って行っちゃうようなところがあるわけですよ。
後になればこの種のことをやってしまうと
後になった時に関係を破壊するか
すごい自分を責めるかつまり欲打つポジションに入るかどうかみたいな話になってしまうじゃないですか。
この場合の欲打つポジションってあまりにも辛いので
自分の長時間があまりにも自分を責めますよね。
だから耐えられないわけですよね。
変に耐えようとすると自殺したくなるし
だからいやそんなのはしたことじゃないという
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むしろ路線を取るのも分かるような気がするわけです。
でもそういうことをするということになると
作品的に仕上がらないんじゃないかなという気がするんですね。
どんな作品もコラボレーション的な側面があるので
今はそうじゃない作り方はあるんですけど
KDPみたいな感じにして
編集も原作者は私、編集者は私、プロデューサーは私、営業は私、公開する人は私みたいにできますよね。
一切コラボレーションを取らないと。
でも私はそれで作品を完成させている人の数の少なさを感じるんですよね。
意外とそういうわけにはいかない。
しょっちゅう出てたじゃないですか、練習石画の本当に黎明期の頃
編集者不要論みたいな。
私あの頃ちょうど商業でよく本書いてたんで
そういうもんかな、それは難しくないかなと正直思ってたんですよ。
最大で本で5、6冊ぐらい書かれてたかな。
私は多くなればなるほど編集さん抜きでは到底
僕はあの当時は編集さんのほかに編集プロダクションさんという方が別にいていたんですよ。
しかもさっきの全部バイミーでやると
スタンドバイミーなのかな
とにかくバイミーで全部やるとするとですね
表紙を自分が書けた試しはなく
タイトルも自分で決めた試しがなく
これは決めたかったことはあったけれども決めた試しはなく
営業なんてやったこともなく
もちろん想定その他もやったことはなく
一番出してた頃構成も全部人任せだったんで
つまり書いてるだけなんですよ。
書いてるだけじゃ本は絶対出ないですね。
それがいいとはどっちがいいとは言いませんが
どっちがいいとも思いませんからね。
ただ難しいような気がしたっていうのは本音としてはありました。
編集さん抜きじゃ本は出ないような気がするし
私は当時は出版社さん任せだったし
売るのも本屋さん任せだったんで
まあこれは大変だよなと思いましたね正直なところ。
だからむしろああいう時の方がですね
面白いことに関係性の中にガチガチになっていくんですよ。
お金があるから切りまくれるっていう発想って
結構厳しい心理状態で逆の方が楽なんですよ。
だって朝から晩まで一定のスケジュールを自分で組んで
ひたすら書いてればいいわけですよ。
書いてればみんな仕事をちゃんとやってくれる人っていう風に
勝手に見出してくれますから。
書くことしかできてないんだけれども
そういう風に見てくれるっていう面がありますからね。
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当時は娘まで協力的だった気がすごくします。
今じゃ考えにくいんですよやっぱり。
今は書くだけでは済まされないみたいな感じなので。
ということがありまして
予想通りっぽくなるということの中には
どうしても理想的防衛みたいなものが出てきて
ギャングみたいなんですよね。
いいことあるいは前向きなことを人がしようとすると
ダダダンと打っちゃうみたいな感じ。
嫌味をいっぱい投げかけるとか批判をいっぱいするとかして
壊しちゃうんですよね。
前向きなことが世の中にあることが
何か許せないみたいな心理状態みたいなのがありまして。
これはほんと
ドコンジョワエルの娘を
特に後半読んでいくと
そういうものが食い込んできている。
やっぱり力量だなって
そういう力がお父さんから働いてきていて
それに影響力大きいですからね。
やっぱりあれぐらいの人になってくると。
みんな振り回されている感じがあるなっていう気はすごく感じは受けましたね。
そこが最後の最後で
クライマックスと一緒に扱われてくるので
私はそれに非常に感心したんですよ。
この娘さんよく破壊されずこれを書き切ったな。
すごいなって思いました。
これが辛さなんですよね。
自伝とか黒歴史を書く辛さみたいなのは言うんですけど
そこにはかかってきている力みたいなものがあって
やっぱりそれは親であるケースが非常に多いと思います。
要するに、だってそのお父さんは
クリエーションを破壊しにかかるものを自分で持て余しているわけだから
娘のクリエーションとか
院に世に壊しに来るわけじゃないですか。
連載真っ最中だというのに。
そのようなふうに描かれてはいないですけれども
しかも父親のこと、母親のことを書くわけですよね。
自分のこともですけど、娘さんが。
そのお父さんは
壮的防衛な人だから
別に自分のことを書かれるのは構わない。
どんなふうに書かれても構わないって言うんですよ。
この人のことよく言います。
俺は恥ずかしくないみたいな言い方なんですよね。
なぜなら関係ないから。
これが私はすごく防衛的だなと感じるんですよ。
本当はすごく辛いわけなんですが
そこに触れられないんですよね。
これが私はですね
私たち一般に関係するところの
フロイトの抑圧っていうことなんじゃないかなと思うんですね。
忘れてはいないですよね。
だから私は抑圧イコール完全に忘却っていうケースは
あんまないんじゃないかと思うんですよ。
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どっか覚えてる。
しかも抑圧って言ってもギュギュギュってやって
黒歴史もこうやって徹底的に抑え込む。
そういう性質の人もいますけどね。
でもなんとなくドコンジョガエルのお父さんの
やってる感じの方が
フロイトの抑圧っていう
抑圧って何故かいう役になってるけど
こういうことなんじゃないかなと
自分から少しちょっと切り離しておいて
自分のことなのにそれに本当に触れられるとすごい辛いのに
それは過去にあった
ちょっとしたことだから
エンタメにでも何でも使ってくださいみたいなことをサラッと言って
心の中で自分が傷つかないような
取り扱い場所に置いておくみたいな。
で、なんかちょっと難しくなってきたら
マシンガンで撃ちまくって
関係を壊していくと。
そして俺は平気っていう感じで笑ってる。
この感じっていうのがですね
これほどよく出ているケースは
滅多にないような気がしたんですよ。
で、最後の最後にクライマックスで
その問題に
みんなで、ある意味みんなで直面していく
個々の人たちは決して
その問題にみんなで直面してるつもりはないんだけど
でも結局みんなで直面していかざるを得なくなっていく
っていう風にして
ラストへ向かっていく感じがですね
すごいここまでよく描いているようなと
思います。
ある意味漫画ならではだし
っていうことを読んでて感じたということを
あとは引用を交えながら
ブログとかで描いていくっていうことを
したいわけですね。だけれども
いろんな意味で難しいので、ほらこの喋ってるのがいいところは
あまり取り扱ってるのに、なんとなくこの
セリフの引用もしてないですし、絵の引用もしてないですし
何もないわけですよね。ただ喋ってるだけなので
そういうややこしい問題に
ダイレクトで触れずに済むという言葉
しかもこれ取り扱ってることは
絶対に関係があることは自明じゃないですか。
今喋ったようなことをですね
要約で喋るとすごい変なんですよ。
クライン派の精神分析で
ドコンジョウガエルの娘を紹介しますって
意味不明じゃないですか。でも私がやったことは
今喋ったことはそういうことなので
やっぱりこれはですね
コンテンツありきなんですよ、こういう番組って
コンテンツが全部で
だから私タイトルつけるのにいつも苦労してるんだけれども
むちゃくちゃなんですよ。こういうことが
認められるはずはない。もしかするとですね
暇で大学生がちゃんと勉強もせずに
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まともに卒論も書いてこないようなところで
こういう精神分析っぽく
大学生が好奇心に任せて卒論を書くと
教授が喜ぶかもしれないみたいな
私それに近いことを卒論時やりましたからね。
そういうコンテンツでしかなくて
こういうものを研究の材料にはできないし
商業出版するのも無理だし
まさにこれはポッドキャストじゃないとできないなって感じが
ブログはできますけどね、ちゃんとやれば
それでもいっぱい絵を引用したくなるし
これいっぱい絵を引用するのと
ちょっとにとどめを置くのとでは
全然印象が違ってきちゃうんですよね。
しかもネタバレは避けたいわけですよ。私も今最後
肝心なところは一つも言わなかったんですね。
詩、読まなきゃわからないです。
その辺はすごく分析的だなと。
分析を寿司屋に例えていた人もいましたけれども
寿司食べなくて、寿司の話をいっぱい聞くって
無意味ですよね。
泳ぎの講習と同じですね。
泳ぎは泳がないと
泳げるようにはならないじゃないですか。
泳げるようになることと、泳ぎについて説明できることは
関係もないですよね、ある意味。
私は泳ぎは達者なのでよくわかるんですよ。
あれについて言葉で説明しても
沈んじゃいますね、沈んじゃう人は。
それはそれでいいんですけれども
つまり今みたいな話を
書いていきたい。
けども多分喋っていくことの方が
多そうな気がする。
ドコンジョガエルだからできたんですよね、今みたいなのは。
全くイメージできないほど
無名な作家の作品だと
もうちょっと説明を要するかなという気もします。
今ので済むのはやっぱり
読んだことがなくたってドコンジョガエルはみんな知ってるという凄さがあるんですよ。
そしてこの凄さが結構
この話の中では力を持っちゃってるんですよね。
誰だってこう思うじゃないですか。
総敵防衛だとかギャンブル卿のお父さんだと思う前に
あの人はドコンジョガエルを生み出せるほどの人だから
ああでも仕方がないみたいな
そういう雰囲気で出ちゃいますよね。
直接かかってる人は私たちなんかでは
一層そういう感じに包まれているわけですね。
だからやっぱりこの辺が
より多くの人にとって
難しさを増していく感じがあります。
だから救われている感じもあるので
でもそうなってくると余計ですよね。
余計に
この問題をある意味誤解しやすくなるというか
ただの総敵防衛に過ぎない部分さえ
にも余計な意味がついちゃうわけですよね。
あの人はこう
本当はクリエイターとしてすごい人だからっていう
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ニュアンスがくっついてきちゃうわけですよね。
そんなようなことがありまして
この感覚を
あの感覚ですね。
要するにいざとなったら捨てればいいという
その感覚を
持っていると
いろんなものを
価値あるものを
生産することが
本だけではなく
人間関係みたいなものでもそうなんですけど
厳しくなっていくわけだよなと。
仕事をする上でもそうなんですけど
結局仕事って
価値あることを生産しようとするわけじゃないですか。
その時にこの種のトラウマを抱えていると
こういうふうに難しくなるんだなと思いました。
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