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2020-12-29 34:07

【GMV 285】怒ってる人は子供である

子供を怖がると自分も子供になっちゃう
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おはようございます。グッドモーニングバイブスです。
えーと、年末なので、これといった活動を私も
しなくなってきたんですけど、
ぜひですね、なんかこの機会にというのは変なんですが、
年末年始ってテレビ、 つまらなくないですか?
私あれ、毎年思うんですよね。面白くなることがなくないか、正月とかってテレビ、まあ
テレビ側の事情からすると当然なんですけれども、ということなのに、今年は外にも出にくいじゃないですか。
で、ぜひあの、
私たちのグッドバイブスな、ぶっちゃけそうだってやつをYouTubeでやってるのを、
まあこれを聞いている方は、皆さん番組登録していただいていると信じてますが、
もしまだの人がたまたまいらっしゃったら、YouTubeの登録をして、2つ3つ見ていただけると大変、
時間があるという方はですね、テレビ見ながらでもいいと思うので、
ご覧になっていただけるといいかなと思います。私がここで喋っているより面白いと、
まあ、これが面白いという方にはきっと面白い話だと思うんですよね。
で、その面白い繋がりではないですけど、昨日、
それこそ面白い経験を発見というのかなしまして、
あの、人格が変わったようにっていうのか、人が変わったようになっちゃうっていう人っているじゃないですか。
ちょっとあの、自分を保つのに苦労があるっていうようなケースだと思うんですけど、
その、体験をした時にですね、
そういう時、相手はですね、その人が変わったようになっちゃう人は、
外して怒ってるっていうことを発見したというか、
まあ発見したってことはないんですけど、あの、怒った時には人が変わったように怒る人っていますよね。
少なからずそういう人はいると思うんですよ。
クレーム、クレーマーって言われる人は割とそういうところがあって、
あの、普段結構穏やかだったり大人しかったりするのに、
急にこう激行しだしてみんなを行転させるみたいな。
私あの、勤めていたというか派遣社員で行ってたところがその、
ある意味クレーム対応ではないんですけれども、
あの、携帯電話のお金払ってくださいねという際速を、特速をする部門だったんで、部門としては。
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時々電話をするとですね、やっぱすごい穏やかだった人がいきなり切れ出すっていうことがあるんですよ。
人格が変わったように。
えー、まあしょうがないんですけどね、恐れと不安をまさに与えているわけですから、金払えというんで。
まあ金額によってはね、なんかもう4,000円とかなんですけどね、体能料金とかいったって。
で、そんな切れるほどじゃないんですけど、あれ金額の方によらないんですよね。
8万円でも穏やかな、終始穏やかな人もいて、それはそれで困るんですが、
4,000円でもすぐ切れちゃうという人もいて、結構金額に比例しないんですけどもね。
で、人格が大いに変わるという方がいらっしゃるんですけど、あれ怖いんですよね。
で、その怖いということは、グッドバイブスで散々言われていることではあるんですけど、
私がすごく昨日考え込んだのはですね、
人格変換といえば、精神分析で言えば転移だと。転移というのはつまり、
いろいろな関係があるけれど、基礎としては親子関係なんですよ。
で、親子といえば、相手は子供じゃないのに、切れて子供のようになっちゃうというのは対抗なので、対抗というのはつまり、
退いていくわけです。戻っちゃうというわけですね。
精神分析ってよく、よくではないけど、時々子供の頃の
親子関係に問題があったと言われても、そこに戻るタイムマシンがないのに戻れないわけだから、
そういう考え方では治療できないよねという非常にシンプルな、シンプルすぎる批判がされることがあるんですけど、
そういうものではなくて、あれはタイムフロシキなんですよ。
で、タイムフロシキは被ると子供に戻るわけですね。
で、あの治療って、
Now and Hereなんですよ。今ここでやるものなんですね。今ここで一旦子供に戻ってみるわけですよ。
そうすると、子供に戻ると何が起きるかというと、怒りっぽくなったり泣き出したり、様々なことが起きるんですけど、
この対抗をですね、
催眠療法によって非常に起こしやすくできるという考え方がベースにあるんですよ。
今多分催眠とかを用いずに、精神分析ではね、催眠というものを用いずに喋っていれば子供っぽくなってくるはずだというのが背景にあるんですね。
特に精神病部分って言うんですけど、精神病部分が活発な人は一見すごく取り澄ました態度をとっていても、
ずっと同じ場所で喋らされていると、精神分析家とある意味会話をする、会話をするという言い方をすると怒られるかもしれないけど、会話をするわけですよね。
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その中でコミュニケーションする中で、その人の子供っぽさというものが
出てくるわけですね。タイムフロシキなんですよ、あれは。
で、得測とかするとすぐ子供っぽさが現れちゃうわけです。得測とかされるとね。
だってそれは親に怒られている子供みたいな立場に立っちゃってるわけじゃないですか。
あんた金払ってないよと。それに対してふざけんなって言い出したりするわけですよ。そういう少年とかいそうじゃないですか。
逆切れするってやつですよね。それが対抗なわけですが、対抗している人って恐ろしくないじゃんっていうことも、
昨日考えたことなんですよね。急にグッドバイブス的になったなと思ったんですよ。
対抗している人って、対抗している人も怖くないわけじゃないですよ。
すげーがたいのでかい不良少年とかが怖くないとは言えない。ただ、精神的にこちらが圧倒される理由はないですよね。
暴力を振るわれる恐怖感はあっても、怒鳴ったりいろんなことを喋ったりしてくることそれ自体に対して、
こっちがそんなに恐れ多くなったり、恐れ入ったりする理由はないはずなんですよ。
これがですね、相手の立場が上だった場合に、私たちがついつい誤解していることなんじゃないかと。
というか、誤解していることなんだなと思ったわけですね。
で、対抗といえば転移がつきものです。転移とは何かというと、疑似的な親子関係がそこで発生してしまうということですよね。
相手が子供っぽくなるわけですよ。そうすると自分はどうしても親っぽくなっちゃうわけですね。
これが精神分析家のやることっていうのは、親っぽくなってしまうと同時にできれば、多分ですよこれは、私やったことがないんで、
やったことがない人間が語っちゃいけないことになっている話なんですけど、そこを語っちゃってるんですが。
でもまあ、近しいことはただ体験しますからね。 日常生活でも体験する話で、相手が子供っぽくなると。
あの、その特速した時にキレている人でもいいわけですよ。 私はそういうふうにはなかなかならなかったけど、気質なんですけどねこれ。
子供っぽくなるわけですよね。 だってそんなお金払えて今急に言われてもさ、こういう感じで相手の人は言い出すわけですよ。
するとどうなるかというと、こっちは親っぽくなっちゃうんですよね。 ついつい。
親じゃないの。 親じゃないからギリの親子関係なわけですよね。
ギリじゃないな。偽のですね。 偽のというのもちょっと変だけど、親子関係っぽい関係になっちゃうわけですね。
で、これを専門用語で転移というわけで、私は親っぽくなると。 いやいや、あの
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ちゃんと使った分を払ってもらわないと困りますよっていう、親っぽいわけですよ、その態度。 向こうは子供っぽい。年齢は逆だったりするわけじゃないですか。
で、相手は対抗してしまったために、こっちは行きがかり上、やむを得ず親っぽくなるわけですね。
で、良い精神分析官とか、科とか、カウンセラーというものは、その自分が親っぽくなるということには十分入り込めると、同時にそのことを客観的に認識してもいられる。
だから解釈をできるってことですよね。 解釈ができる。今ここで起こっていることが何であるかを
言語化できると同時に、その親になりきっているという。 だからある意味、私もこれもわかんないですけど、
プロの役者さんみたいな、そういう側面がどこかにあるんじゃないかと思う。 精神分析とは遊びであるみたいなことを言った人が、精神分析科、ウィニコとか
いたと思うんですけれども、そういうことだと思うんですね。ごっこ遊びをやりながら
言ってみれば、何かを 修正していくというか、そういう感じの営みなのかなと。今ここでやる。
で、ここを考えてみると、
怖くないはずなんですよね、本当。 何かがでも嫌なわけですよ、これをやるの。
精神分析では知りませんが、私はこれやるの嫌だなと思いますね、ある意味。
必要であれば、カウンセリングみたいなその場では、こういう状況になってしまえば、自分なりにやれることを
精一杯やりたいと思うけど、同時に日常でこれをやりたくないと思っている ところがどこかにあるんですよ。
これが私が怒られたくないと言っていることの、多分本質かなと、昨日不意に思ったんですよ。
妻が私を怒ると。で、その時妻に怒っていることは大体対抗なんですよね。
どういう対抗かというと、多分ですが親子関係がそこに持ち込まれてしまって、
つまり思春期で 怒り狂っている女の子みたいになるわけです。
そうすると私は2つ考えられますよね。
親の役割になっちゃう。 で、叱るみたいな。
だから怒りに対して叱るみたいな形になって嫌なわけですよ。
だって私は親じゃないからね。一方で怒られた瞬間に私は、私も対抗しちゃって、もっとちっちゃな子供になる。
すごい惨めな感じになる。これもよく起こることです。現象として。
向こうが怒っているので、向こうは対抗して怒っているんだけど、対抗というのは子供に帰って怒っているんだけど、
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そうは言っても大人なので、母親みたいに見えてくる。そうするとこっちがぐーっと小さくなって、
少年みたいになって、そんなに怒らなくてもっていう言い方をする。でもこれは大人になって喋ってるから、
私は少年みたいな気持ちになっちゃってるんですけれども、相手はそうは受け取らない。
そうして喧嘩になるわけですね。
こういうことをどっちもやりたくないわけですよ。なぜなら向こうは母親じゃないからね。
これが嫌なんだなと思ったんです。
嫌だと、なんかこう、なんて言うんですかね。
特に根拠をなくそう思っている。 嫌だと、こんなことをさせられてはいたくない。
で、例えばですけど、時間の無駄だという感じがここから出てくるんですよ。
なんでなんだろうと思ったんですよ。面白いじゃないですか。なんでここで時間が出てくるんだろう。
一つは、私は私の時間を生きているというつもりになってるんですね。
うそっぱしなんですけど、私の時間を生きていると思っているから、自分が子供帰りしたり、赤ちゃん帰りしたり、
お父さん役をやらされている。そうすると、私の時間はそこで寸断されるわけじゃないですか。
佐々木翔吾という社会人。だいたいこの社会人で生きていきたいみたいなのが植え付けられたわけですよ。
だから、ここでお父さん役やらされたり子供役やったり、つまりごっこ遊びに付き合っている暇はないんだ、みたいなそういう気持ちになるんですね。
かなり偉そうですけど、これあると思うんですよね。少なからぬ人に。
なんかこう、あんなのに付き合っていられないみたいなのあるじゃないですか。怒られた時って、なんかこう理不尽に自分の時間を奪われたみたいな。
私、これがネタラメだと思うようになったんですよ。
なぜならば、佐々木さんは自分の時間がないんですって、多分私が一番意識したことだと思うんですけど、
自分というものが一人格として、この人格で一番すべての時間を使わないとダメなんだっていう主張なんだと思うんですよね。
佐々木翔吾、例えば作家、あるいはビジネス書作家みたいな。
これが一番、この人格でずっといくのが一番、生産性高く社会人としてきちんとした格好なんだという、格好をつけたいんですよね、ある意味。
あのネクタイピッと締めてるようなやつですよ。
あの格好をしながら子供役やらされるのって、なんか嫌じゃないですか。
あの、砕けた人はね、やってくれるんですよね。私、そっちの方がいいと思うんですよ。
いや、俺そんなのやらないからって言ってる人って、なんかこう気難しい感じがするじゃないですか。
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あれは、自分の人格へのこだわりが強いと思うんですよね、言ってみれば。
この番組、ここ最近聞き出された方には恐縮なんですけど、長々と言い出すと1時間突破するんで、ざっくりいくと、
イヴ・ホワイトとイヴ・ブラック、イヴの3つの顔の話したことありますよね。
イヴ・ホワイトは、あれ子供なんですけれども、なんかこう天使と悪魔みたいな比喩になっちゃうんですよ、ホワイトとブラック。
そう見えなくもないんですよ。真っ赤なドレス着て湯遊びばっかりするのが好きなイヴ・ブラックなんですけど、
あのブラックは対抗なんですね。あれは子供なんですよ。ホワイトも子供っぽいから非常にわかりにくいんですけど、
イヴ・ホワイトというのは、そこそこ頑張る、ティーンズのちゃんとした優等生のお姉ちゃんみたいな子供なんですよ。
それで一生懸命生きてるんだけど、うまくいかないわけですよね、それだけでは。
彼女の成長って、そこで頭を打ってる感じで、お母さんの言うことをきっちり聞いて、なんとか人生突破しようという戦略なんで、
18、9歳って感じなんですよね、いつまで経っても。婦人と呼ばれているけれども、婦人っぽくないんですよね。
で、ずっとその戦略でいくけど、あまりにもうまくいかないから対抗しちゃって、イヴ・ブラックが出てくる。
イヴ・ブラックは要するに10歳ぐらいなんですよ。彼女は夜遊びばっかりして男友達ばっかり作るから、
すごくある意味大人っぽく見えるんだけど、そうじゃないんですよね。あの人が性的に不感症だというのは、とても理にかなっている感じがするんですよ。
夜遊びばっかりするんですけど、あの人が好きなのは、イヴ・ブラックという人が好きなのは、歌うだったり踊ったりすることなんですよね。
ちっちゃな女の子っていう感じがすごくするわけです。 この会議でしかない話だったと思うんですけれども、
ホワイトにしてみればですよ。 ブラックが出てきてほしくはないわけですよ、当然。だって恥ずかしいことばっかりするし、
仕事にならないわけですよね。このことなんだと思うんですよ。自分の時間がないんです、というのを。
ブラックにかまけている場合ではないと。 イヴ・ブラックが好きな連中と付き合っている暇もないという話だと思う。
現にそういう暇はホワイトにはないんですよ。 偽善に稼がなきゃならない立場になっちゃってましたからね。
なのに、その仕事中あまりにもきつくなってくると、意識を失ってブラックが登場して、何をするかというと、
報告書に落書きとかする。子供っぽいんじゃないですか。 私たちも同じだと思うんですね。
何か厳しくなってくると対抗しちゃうんですよ。 その対抗は子供だからいろいろな表れがあります。
ブラックみたいに単純とは限らずに、 旬とするとか、子供ですからね。泣きたくなるとか、子供ですから。
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仕事をする気を失うとか、子供ですからね。
ずっと寝てたりとか、子供ですからね。 そういうこと、それが欲打つと呼ばれたり、
逆に相と呼ばれたり。 リブブラックみたいな人は相と呼ばれますよね。
やたら元気。 後先考えずに元気。
で、金遣いが荒い。子供なので。 遊んでばっかりいる子供なので。
これどれ一つとってもね、私は病んでるっていう表現を取るのは大変おかしいと思うんですよね。
むしろ健康的じゃないですか。 イヴホワイトとイヴブラックのこの私たちの社会においては
一応機能していて健全であるというふうにされるホワイトと、
あれですよ、ハイスクールの
級長みたいな昔の言葉で言うところの人と、
まあ ちょっと
ふざけすぎる子供であるブラックみたいなのと、 私たちは大人として見るとホワイトが健全だと考えるんですが、
心理テストをするんですよ。 ロール社科テストとかいうやつは全部そうですけど、言語連想テストかなというのをして、
そうじてイヴブラックは健全で、ホワイト夫人はなんか性質に偏りが強すぎるっていうふうに出るんですよ。
つまり私はそう思うんですよね。 現実社会への適応度という意味では低いかもしれないですけど、
どうもですね、ネクタイピッと締めて、
ビジネス書作家で生産性対策をやってますというのは、人間として健全でない感じがします。
動物としては明らかに不健全ですから。 だから対抗っていうものが多分必要で、
私たちはその対抗をするためのツールとしてですね、 例えば野球場があったりするんだろうなと思うんですよね。
あそこに行くとみんな対抗してるじゃないですか。集団で対抗しますよね。 集団で対抗するシーンっていっぱいあるじゃないですか。
私行ったことないんだけど、ライブハウスとかビデオで見たりするとそういう感じがするんですよね。
あそこに行って、大人でなければできないことをしている人って、
見かけないですよね。野球場に行って大人でなければできないことをしている人は一人もいないと思うんですよ。
あれ絶対少年少女でも十分同じことできます。 応援したり叫んだり歌歌ったりしてるわけでしょ。
あれできなくないですよね。子供だって絶対同じことできます。 あそこに行って哲学書を読んでたらおかしいですよね。数学の本とかね。
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明らかに間違いだと思うんですよ。 昔アタチミツルマセヨマが書いてましたね。
東大受けようとして一生懸命な人が海水浴場に行って数学の微分の問題とかを解いてるわけですよ。おかしいじゃないですか。
大人じゃなきゃできないことを対抗しながら対抗の場でやるのって奇妙なんですよ。
つまり自分の時間がないんですってな。そういうことを意味すると僕は思うんですよね。
彼は東大受けなきゃならないから自分の時間がないわけですよ。 どんな時間も全部自分の時間にしないと
足りなくなってくるわけですよね。 だから
あれですよ。身行きだと思う。 なんか美少女がウィキに来て海に来てるのに
微分積分やってるわけですよ。 まあそれが立派だという人もいると思いますよ。
あのその人も漫画のキャラクターなんで名物青年みたいに描かれていたし、私はいいことだと。
そういうふうな世の中って多分面白いだろうなと思うんですけど、実際にはああいうことってなかなか実現しないと思うんですよね。
おかしいですからね。あれをやってるとやっぱり。 私たちはおかしいものというものをなかなか共有させられないところがあるので
つまり対抗っていうのは多分しちゃうものだし必要なものなんだと思うんですよ。 あとはその
特に対抗というものに直面したとき どういうなんて言えばいいんですかね。簡単に言うとどういう接し方をしたらいいのかということなんだろうなと思ったわけです。
まず怖がらないって大事だなと。 今からじゃ無理ですけど
私もあの特足したとき相手を全く怖がらなかったらもっと良かったなと今ならば思います。
対抗しているだけなんで、別に電話してるだけだから本当のところ怖いわけはないんですよね。怖くなっちゃうんですよ。
ついつい。巻き込まれすぎですよね。 FF喧嘩であっても同じで。
自分が
例え対抗したとしてもですね 怖がらなければいいと思うんですよ。
これは結構 大事なことかなと思いました。
対抗して怖がってしまうと
余計嫌になりますし、そうでなくてもですね人格変換が起こると時間が無駄になった気がするんですよ。 これが最大の問題なんでしょうね。
私たちの多分現実のレベルから考えると。 他の人格になってしまった途端、私たちはフーグは起こんないと思いますよ。
その間の記憶は維持できるけど、例えば漫画に夢中になるって対抗じゃないですか。 これが起きた途端に自分の時間になるものが減るんですよ。
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それは対抗していない時の自分、おそらく社会人として一番機能する時の自分というものが使える時間が減るって話をしてるんだと思うんですよね。
これはしょうがないと思います。
なぜならば、私たちは多分1個の人格で永遠に生きていくことができないし、それはさっき言った通り放題に受かるために一生懸命勉強している状態なんですよ。
あの肌厳しいと思いますし、一生そんなことをやっていたら、多分
ブラックが無理矢理出現するようなシーンが発生するしかなくなると思うんですね。 あれは多分明らかに良いことではないので、分裂なので。
タイムフロー式を使って分析の時に対抗が出るというのは、逆に言うとそうじゃないともう対抗できなくなっている人っていう感じがするんですね。
そういう人はどこかで必ず対抗してたりします。 家庭の奥深くで子供をやがら殴るとかですね。
それ対抗じゃないですか。大人じゃなきゃできないことではないですよね。 子供でもできることですよ。
腹渡った時殴りまくるとか。 現にそういうことをやっている人ってのは今この瞬間にもいるはずで
子供になっちゃうわけですよね。私たちはそれを見た時に つい強い恐怖を覚えて、相手が対抗しているという解釈と全然違う解釈しかしないんですよね。
対抗は全部じゃないと思うんですけど 大きな要素になっているはずですよね。
パワハラとかセクハラとかもきっとそうなんだと思うんですよ。 私たちはそこに違うものを見ちゃうから。
あの 男の上司がですね
急に少年に戻ったら 何と接するか
なんかキモいとかっていう表現でこういう時に すごく自然に出てきそうな気がするんですよ。
確かに職場で始終すぎた人が対抗したらまずいかもしれないですけれども そうは言ってもですね
人間が集団になった時に 全く対抗せずにそこの集団で過ごしていけるかっていうと結構困難だと思うんですよね。
酒とかを入れると対抗するのはもうごく当然の成り行きですけれども
今の世の中っていろんな意味できちっとしていると思うんですけれども私が
10年15年前に比べてもずいぶんきちっとしていると思うんですけど それはつまり一歩間違うと対抗を絶対許さないぞっていう感じになっていくと思うんです。
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これが結構息苦しいんじゃないかなと。 一方でHSPみたいな話、ハイセンシティブパーソン
パーソナリティなのかな、パーソンなのかな、繊細すぎる人。 あれは最初から対抗を認めろという主張なんですよ。
最近ちょっとHSPの人ってずるくないかみたいな話を何人かの人に聞いたんですけど そのことはHSPの人自身がすごく意識されていると思いますが
それはですね自分の対抗を認めてほしいっていう主張が 今の世の中ではだんだん何というかある種の不公平感を感じさせるんですね
私はグッドバイブス的には
この主張は入れてあげるべきだと思うんですけどね。 べきっていうのは変かな。でもまあ認めてあげた方がいいと思ってるんだけれども
そういうふうに受け止められる可能性は否定できないですよね。 私は
子供っぽくなっちゃうんですと。怖くなっちゃうんですと。 ミスした時に怒られすぎると怯んじゃうんですと。つまり対抗しちゃうんですと。
いつも対抗することを不安に思ってるんですっていうあれは 分析的に言うとなのかな。そういう病気に見えます。病気じゃないな。
そういう主張に聞こえます。 それってでも
じゃあ 市中のおじさんが
急に子供っぽくなってセクシュアリティみたいなことを言っちゃいます。 いやそれは犯罪でしょっていうのは私はちょっと確かに
公平でないような気はします。こういう視点を取るとね。 こういう視点は大概の人は取らないんでそっちは犯罪でダメでアウトです。
HSPは市民権を得るべきですっていうその主張が通る文脈はわかるんですけれども 世に対する
現在のような文化的な世界に対する 実害の多さと少なさについての話だと思うので
ただ私はこれは対抗という視点を取りたいのでそうするとですね 確かに公平じゃないなという感じはします。
ただ例えばビクビクしている子供と乱暴者の子供とでは乱暴者の方が有害だよねっていう 理屈なんですよ
現在は。これはこれでわかるんで しょうがないかなとは思うんですけども
どっちかというとですね お互い対抗し合うようなことを受け入れてあげた方が
多分全体としては リラックスできるだろうなという気がするんですね
でえっと一つタスク管理系で言うとですね タスク管理とか仕事術系で言うと
つまり先送りというのは対抗の現れなんですよ 子供がドリルをしたくないと言うじゃないですか
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あれですよね。あれと全く同じような流れだと思います
対抗はその人の性格によってその人の子供時代をある意味やっぱり強く反映すると思うので
これに対して言ってみればですね 転移を引き起こしてしまうし
引き起こしたいと思っているところがどこかにあるんですよ 私は
だからですね先送りとかその対談みたいなのも同じですよね
記憶打つとかそういう転移、対抗が自分に起きつつあるという時あるいはそういうのが習慣になりつつあるという時には
なんて言うんですかね
サポートをしてもらったほうが本当はいいと最近思うようになりました 今までライフハックだったから全部一人で何とかするという路線じゃないですかあれは
工夫をして何とか乗り切るというのは一人で乗り切るという考え方ですよね そのずっと自分が分裂するんですよ
自分の中の子供っぽい部分、大変な仕事はやりたくないと そこを工夫してやらせる自分、大人っぽい自分ですよね
これをセルフマネジメントと呼ぶわけじゃないですか タイマーとかで工夫する、タスク集団とかで工夫する
私はですねこれはこれに良いと思います 分裂の程度が浅ければ、でも深くなってきたら自分丸ごと対抗していくんですよ
そしたら
言ってみれば助けてもらう方がいいと思うんですよね 本当は出席ってあんまり良くないと思うんですけど人が出席してくれるのとできる可能性は
大いにあります これ今の文脈からわかりやすいと思うんですよ
誰かが親役をやってくれると 宿題しなさいと
でそうやって宿題をしたっていう経験があるわけじゃないですか でやってるうちに戻っていくわけですよ
自分が大人に、大人の自分 この方が
分裂せずに済みます グッドワイブスだったらきっとこういうやり方じゃないと思うんですけれども
私はですねこの考え方を最近結構取り入れたいと思っていて
自分で自分を セルフマネジメントするのは結局大人のやることなんですよ
子供のやることじゃない気がするんですね これをここにこだわりすぎない方がいいかなというふうに思うんです
だから
だんだんだんだんね あの
セルフマネジメントっぽくなっていってるんですよ世の中 対抗を認めないぞという
昔はそういう意味では昔は良かったのかなと思います あのよく漫画家さんが編集さんに怒られてたじゃないですか
そういうシーン漫画家いっぱい描いてますよね あれ子供に戻るから
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それを編集さんということだが つまりあそこには転移関係が持ち込まれていると思うんですね
親がね 漫画描きなさいというわけじゃないですか
だから漫画描くと あれがいつしか消え失せているんですよ
それは本当編集さんのやることじゃないっていう意見なんだと思わなくもないんですけれども
こうやって私たちはみんな自分で自分を分裂させて でここには孤独って問題が一個挟まってくるんですよ
みんながセルフマネジメントで行くということは みんながこう一人一人孤立して頑張るということになるじゃないですか
しかもそこには一人一人の分裂が含まれているわけですよね 気がつくとたった一人で
自分をしかも2つに分けて マネジメントしている
この形が どうもねっていう感じが最近はします
対抗という文脈だけで考えてみた場合です
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