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2021-10-27 40:42

【GMV 485】コミックの中のフロイト

知らないうちに競争させられてコンプレックスを抱く
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
この番組を聞かれている方には直接関係はないかもなんですけど、
朝日新聞の一面か二面の広告だと思うんですけど、
下の方に私のつい顔色を伺ってしまう私を手放す方法が広告されるらしいので、
目にしたらこういうのに載っていると思っていただければと思います。
私も家で新聞を撮らなくなって久しいので、
ああいうものが載っているというのを知った時に、
わざわざコンビニとかに買いに行くという習性を持っているんですけれども、
なかなか実家も遠いし、実家はまだ新聞を撮っている家なんですけど、
朝日を撮っていないかもしれませんからね。
いずれにしても目にしなくなってしまったわけですね。
本のCMの仕方って、ある意味めちゃくちゃ売れている本は別なんですけど、
あれしかないようなところもあるじゃないですか。
新聞以外で目にする広告、媒体って、
むしろないなと。
インターネットは様々な手法がありますけれども、
インターネットでのCMってAmazonと直結していますよね。
また関係ない話をしちゃっているんですけど、
つまり書店さん、たぶん今までもずっとそうですけど、
書店さんというところからすると、
CMを打つ先がネット媒体だけになっていくと厳しいと思うわけですよ。
ネットでブログで見て、ポチッとすればAmazonで買えるのに、
わざわざそこから書店に足を運ぶという理由がよくわからないですよね。
たぶんそういう行動に駆り立てられるケースは大変稀になってくると思うので、
そこがやっぱりこの種の問題の難しさかなと思いますので、
つり革広告みたいなものをただしつつ、
あれはかなり売れている本に限ると思うんですよ。
じゃなきゃ雑誌になっちゃうと思うんですよね。
そもそも雑誌というものがネットにとって変わられつつあるので、
いろんな意味で書店さんから足が遠抜きやすかったことがあって、
それがつらさなんですよね、結局。
最近ただコロナ禍でどういうわけか書店さんに足を運ぶ人が増えたと、
なんとなくイメージできるんだけど、
まあわからない話ですよね、そういうのも。
ということもあったらしくて、
今年はそんなに例年どんどんひどくなってきていた話を
耳にするほどひどくはなっていないんですけど、
03:01
基本、著者にしかもそういうことは、
耳にするレベル以外の何物でもないので、よくわからないんですけれども、
書店さんで見かけたり手に取っていただけると、
一番ある意味では嬉しいということがあります。
でもまあ、著者の立場としては、
自分の耳にするレベル以外の何物でもないので、
一番嬉しいということがあります。
でもまあ、著者の立場としては、
もはやAmazonであろうと、電子であろうと、
とにかくこれが動いているということが大事ということはあります。
でも、著者というのは結局読まれりゃ嬉しい人種ではありますけど、
そういうところはありますけどね。
何て言うんですか。
本って6万字以上あるじゃないですか。
そんなに長々と自分の話を人に聞いてもらうわけには普通いかないと思うんですよね。
そういう意味ではやっぱりとっても特殊なもので、
ちょっと前に大谷翔平さんのドキュメンタリーをずっと見てたんですけど、
でもこれ本にしたら一冊になるかどうかだよなと思うと、
そういうのはありがたいメディアだと思うんですよ。
大谷翔平さんだからこそ、
1時間半にも渡る様々な一冊を子供の頃の動画とか見てもらえるのであって、
自分がそういう風に動画を撮られても多くの人は見ないじゃないですか。
だから本というのはある意味では、
それに相当する間、自分の話に耳を傾けてもらえているというところを考えるとすごいんですよ。
なかなかちょっと難しいと思うんですよね、一般的に考えてみると。
同時に代わりに特定の方向性に向かって何かを提供するという、
そういう決まり事はあると思います。
結局本は私が長らく、
これさえなければ普通に会社員やれるような自分はって思っていたことを、
どうにかするために書いたものであって、
どうにかできた時には自分はもう会社に呼ばれそうにない年齢になっちゃっているわけですけど、
人生そういうもんかなと思うんですけどね。
というところを自分なりにケアしていると。
あの本を読まれると何名かの方にすでにそういう感想をいただいているんですけど、
自分は甘えててよくないなって思うみたいなことを書かれる方がいらっしゃる感想をいただくんですが、
そうじゃないですよね。
あの本は甘えているということが許容できるようになるはずだっていう、
06:04
昔は許容されていたはずだっていう前提のもとに書いているわけですよ。
甘えててはよくないっていう言い分も普通に日本には昔からあって、
それはそれでわからないわけじゃないんですけれども、
甘えを根こそみダメにしてしまったら人間関係は成立しないんだってことを、
たぶん昔の日本人は結構強く意識していたんじゃないかと思うんですよ。
あの言葉に含まれる、私の世代であれば甘えという言葉にアンビバレントなものが明らかにあって、
ネガティブな一辺倒には聞こえないんですよね。
甘えてるよねって言った時に、今はネガティブすぎるっていうのが、
あの本の社会論じゃないんですけどね、そういう面では意識している部分で、
もちろんポジティブ一辺倒にはなり得ないわけですよ。
依存的な含みは絶対入ってきてますから。
ただ、日本人は甘えという語を明らかにポジティブ・ネガティブ両面で
並存させるように使ってたってところが単純ですが大事なところでして、
おそらくこの概念をただ説明すると西洋の人には受け入れがたいと感じるんだと思うんですよ。
でも受け入れがたいというところから受け入れられないになると病気になるっていうのを
ある面で精神分析というのは強く言ってるんだと思うんですよね。
一時ナルシシズムは良いものなんですよ。
この一時ナルシシズムっていう言葉は私たちの日本では、
日本では少なくとも全く市民権を得てませんよね。
ほぼ意味不明な言葉だと思うんですね。
でもその言葉が代わりに幼い頃に幼児期に育んだ自己肯定感って言ったら
もうたちまち良い意味になっちゃうじゃないですか。
そして結構これは市民権を得てますよね。
私が言うところの甘えはほぼ全く同じ意味です。
幼児期に育まれた自己肯定感っていう言い方をしたら、
それはもう一時ナルシシズムだと僕には聞こえるし、
それが甘えなんですよ。
でも多分間違いないかなっていうふうに思ってるんです。
完全にぴったりなのかって言われるとちょっと考えちゃうんですけど、
少なくとも幼児期に育まれた自己肯定感は大事だが、
甘えは良くないっていうのは私からするとナンセンスで、
それはもう全く同じものを良いと言ってみたり、悪いと言ってみたりして、
この辺にアンパレントなものはあるんですよ。
だけれども、幼児期に育まれた自己肯定感が大事だっていうならば、
09:00
甘えは大事だっていうのと何ら変わらないわけですね。
この自己肯定感は大切にしたいけど、甘えは否定しようっていうことをやろうとすると、
HSPになっちゃうんだと思うんですね。
だから同じ意味なのに、それの良いところだけを取り出そうとするっていうのは無理なんで、
スプリッティングになってしまうので、そこを分けてしまうんで、
よく言うんですよね、良いとこ取りっていう。無理なんですね、この種のことは。
その話じゃなかったんですが、教師のことを思っていたのは、
最近ですね、グッドバイブスもそうですし、精神分析もそうなんですけど、
色んなものがまた、今まで見えなかったものが、色酷く見えるようになるんですね、この種のことを知ると。
例えばなんですが、高階良子さんという、私は結構愛読していた、割と昭和な漫画があるんですよ。
ノートにも書いたことがあるんですけどね。
ピアノ園田殺人事件とか、そういう不思議なタイトルのコミックが、
割と古典的に見える少女漫画を書く方で、今はちょこちょこ読み直しているんですけど、
今を見つけても、ものすごく精神分析なんですよ。
驚くほど、これを精神分析なんですよって言えばですね、
フロイトがあまりにもセックスにこだわりすぎているという話の誤解がよくわかると思うんですよね。
ものすごく性が無関係ではないけれども、全然セクシャルというイメージとは関係ないんですよ、あの世界は。
恋愛がやたら出てくるけど、セクシャルとは言い難い。
でもセクシャルじゃない恋愛っていうのもおかしなもんじゃないですか。
古典的な少女漫画なんですけど、すごく姉と妹の角質と葛藤と愛憎劇みたいなのが、
非常にですね、まんま精神分析だなって思うんですね。
それがはっきり見えてくると、そこでちょっと一つ考えさせられることがあるんですよ。
この人精神分析を意識してこの作品を描いたんだろうかと。
あるいはたまたま作ったらそういう風に、つまり分析的解釈を十分なし得るような素材だったんだろうかと。
本当のことはさっぱりわかんないんですよ。
ただ彼女の養育、今ちょうど子供の頃からの辞伝をコミックにしたようなのを描いているんですが、
それがもう全くひどい話で、この番組でも一度取り上げましたけど、
12:00
全くひどく虐待で、しかも非常にフロイトなんですね。
お好み警護さんが描いているんですけど、自己愛人間の中でですね、
めちゃくちゃ理解に苦しむんですよ。
お姉ちゃんをやたらと大事に育てるんですね。
高階良子さんのお母さんが戦前から戦後にかけて、高階さんはたぶんちっちゃかったんだと思うんですけど、
めちゃくちゃお姉ちゃんを大事にして、めちゃくちゃ自分を虐待する、つまり高階良子さんを虐待するんですね。
この発想って一体どういうことなんだろうと、不思議でしょうがなかったんですよね、僕は。
よく男の子と女の子で差をつけるっていうのはわかるじゃないですか。
ありがちですよね。男の子をやたら大事にして、女の子を奴隷のようにしちゃうと。
だけどこの場合、姉と妹だからどっちも女の子なんですよね。
でも私の感じだと、子供を大事にしない親ってまだそれはそれでわかるんですよね。
なぜ姉だけを大事にして妹の方を虐待するのか、これがよくわかんねえなっていうふうに読んでたんですね。
ちょうどお好みさんの自己愛人間にまんまそれについての解説みたいなのが載ってて、
別に高階良子さんの話ではないんですけど、出る前ですからね、お好みさんが本を書いてたのは。
自己愛人間の中で、内的対象の話なんですよ、これ。
自分という対象を二つに分けるんだと心の中でですね。
要するに人は誰でも好きな自分と好きになれない自分の部分ってありますよね。
そういうふうに分けると。あまり肌々分ける人って多くないんですけれども、はっきり分けちゃう人もいますよね。
自分のこういうところは大好きです。自分のこういうところは大嫌いですと。
これを子供に投影するんですね。大好きな部分をお姉ちゃんに投影し、嫌いな部分を全部妹の方に投影する。自分の子供のね。
そうすると、お姉ちゃんを女王様のように扱って、妹を下女のように使う。
当時の本なんでね。古い本なんで。という親は意外によく見受けられるんだというふうに彼が書いていて、あれだわって思ったんですよ。
高階さんのコミックそのもの。多分高階さんの養育歴そのものなのかなっていう。
これだから、このお母さんはなぜか高階良子さんが好きになれないんだけど、そうじゃなくて。
これは自分の好きじゃないところを全部この高階さんに追わせるから、こういう現象が起こるんだと。
この話はですね、メラニー・クラインなんですよね。要するに内力対象の話なんで。
メラニー・クラインとかフェアワンかな。その辺の人たち。
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フェアワンの人たち。初期の頃ですね。精神分析の第一世代って呼ばれる人たちなのかな。
よく強調した部分なんですね。これを読むと、すごい今まで不思議だったものがよく見えるようになる感じがするわけです。
よく見えるようになったということは、今までさっぱり見えてなかったということじゃないですか。
ここらへんのこともよくよく考えさせられるんです。グッドバイブスでもそういうことが起こるんだけど。
今までよくわからなかったことがとてもよくわかるようになるということは、今までさっぱり見えてなかったということになるじゃないですか。
これがナルシシズムなんだと僕は思うんですね。自分の中にいるから自分がわからないことはわからないわけですよね。
よく見えるようになるということは、その外側があるってことですよ。
怒る人たちは、これはもうグッドバイブスで知ったというか強く意識するようになった。
知ったのはグッドバイブスによってではないんですけどね。
グッドバイブスで強く意識するようになったのが、怒る人は怖がっていると。
これが外側なんですよね。私は怒る人は怖い。この人は嫌な人だっていうものしか見えなかったんですよ。
自分の内側しか見えない。これは自分の恐怖を見ているだけですからね。
ところが相手は現実に生きているので、外側があるわけですよね。
この怒りの表情しているその裏側には、裏側っていうのは僕から見えない側なんで、恐怖感がある。
その人自身にとっては。
この恐怖感が見えるようになると、世界の見え方がガラッと変わっていくわけですよ。
私が潜在三敵だったときは、相手がとにかく不機嫌になると、それが怖い。
そして非常に、私が気にやまなきゃならない。この状態というものが耐えがたい。
だからとりあえずネットに同意するということになるんですけど。
その人自身が何かを強く恐れているということが見えてくると、ちゃんと書いてあったりするんですよね。
相手のメールとかに。このようなところが大変不安ですとか、ちゃんとシート書いてあるんですよ。
書いてあるのにそこは、読んでいるのに相手の不安というのが、私の方にはさっぱり伝わってきていなくて、
ただ相手の全くよくわからない怒りというものだけが伝わってくるんですね。
これがナルシズムなんだと僕は思うんですよ。僕のね。
そういうのが見えてくると、途端に恐怖感がゼロにはならないにせよ、下限しますよね。
相手は不安なんだと。ということはその不安を何とかすれば、この怒りの表現は何とかなるはずだと。
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そういう当たりがつけられるので、楽になりますよね。それだけでももう全然。
これがナルシズムをやめることのメリットなんだと思うんですよね。
相手は外にいるんだから、外にいるということがわかりさえすればいいわけですよ、ある意味では。
相手の不安を取り除くというのはこれからやることであって、まずは相手を外に置くと。
自分の中に置いちゃうから、非常に困ったことになるわけです。
このことをある意味、もちろんムッドバイブスですし、私が本でもかなり強調した部分なんですね。
外に置きましょうと。外に置くということが甘えさせるってことだし、甘えるってことでも。
意識せずに甘えの世界にいて、しかも自分にとっての不機嫌と苦痛みたいなセットがすっかり入り込んできちゃうという状態を何とかしなきゃいけない。
この甘えが無意識になってしまっていて、しかもその甘えを排除しようとしてしまうと、そういう分裂しかありえなくなるわけですよ。
相手が入ってきてしまっていると。入ってきてないんだけどね。
しかもそれは自分にとっては異物であるという状態だと。自分の中で分裂させるしかないわけですよね。
この分裂が今の話、非常に複雑な流れになって恐縮なんですが、この分裂が高階玲子さんのお母さんの中にあったものなんですよね。間違いなく。
だって自分の好きな部分と自分の嫌いな部分ってどっちも自分の中にあって、この状態はなかだ不愉快ですよね。
自分の中で常に戦争が起こっているような状態。これを解決するにあたって子供に投影するということをやらかすわけです。
だからこのお母さんは大変厳しい戦時中ですからね。世の中に生きてきたんだと思うんですよ。
そういう自分の良い部分と悪い部分と自分で思い込んでいる部分を喧嘩させていたと。
それを外に出してしまう。排出ってメラニクラインが排出、排出と盛んに、彼女のキーワードは排出ですから。
何でも嫌なものは外にぶちまけろっていう、そういう戦略を要事は取るんだと。それがうんちなんだって言うんですよ。排出なんですね。
排出した先に良いものと悪いものが排出されていくわけですよ、それこそ。
だから長女は、そういう描写があるんですよね。これは高階さんが書いていることだから、本当のお母さんの本心かかんないけど、この子はいい子だわという。
この子と一緒にいると私がすごく自分が誇らしい気持ちになれるって、また理解に苦しむ発想だなと。
私は子供と一緒にいて、子供の出来がいいから、俺が誇らしいっていう気持ちには到底ならないんですけど、この発想が強いっていうことはあり得るんでしょうね。
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とにかくその子はいい子なわけですよね、長女。それは自分のいい部分を投影しているから自分が誇らしい気持ちになるというのは、実に理にかなった考えとも言えなくはないですよね。
非常にその辺が内的対称、輩出と投影ってものすごいなっていう図式そのまんまじゃないですか。
高階さんの方は、この子は間抜けだし、ドジだし、本当に同じ子供だとは思えない。到底そういうふうには見えないんですけども、そう見えるわけですよね。
その時に高階さんは、要するにぶたれたり、何かにつけてひどいことを言われるという目にあっているわけなんですけれども、これは自分のお母さんにとっては嫌な部分を全部高階さんに、それこそ輩出しているので、非常にろくでもない子に見えるわけですよね。
この子の心配事は何かというと、このお母さんに捨てられるということなんですよ。
また非常に独特というか、それはこの時代で捨てられたら大変なことなので、でもお母さんは捨てる気は全くないんですよね。
なぜならば、非常に都合のいい問い先なので、完全に無意識なんですけど、この子がドジでノロマでグズだと本当に思い込んでいるんだけど、明らかに自分の嫌な部分を全部問いしているので、非常にその子がいなくなると困っちゃうわけですよね、本人は。
自分の嫌な部分が、これはクラインの表現を使うと、再取り込みすることになる。せっかく輩出したものを再取り込みする。
これは非常に変なものなんですけれども、嫌な部分を投影する先を見つけると、その人はとてもスッキリするんですよ。
うんこっていうのはそういう言い方なんですけど、スッキリするんですよね。自分はいい人になったとでも思い込めるらしいんですよね。
だからその子をやだらの殴って、もう全く問題はないような気がしてしまうんですね。
なぜならば、それは欠点の矯正をしているわけだから、その子を虐待するということは非常に正しさなんですよね。
正義そのものみたいになってしまうので。
その女の子、高階さんが心配しているのは、もうダメだ、今度こそ捨てられるってこれなんですよ。
自分みたいなのはいらないから、お母さんを捨てようとしていると。分離不安なんですね。
ところがお母さんの方は、少なくとも無意識の中では捨てる気は全くないんですよね。
常にその子に投影していることによって、自分がいい人でいられるっていう、そういう安心感を得るための、これは素材になってしまっているので、対象なんですけどね。
24:07
対象になっているので、対象を失いたくはないわけですよね。
だから結局、常に一緒にいるという、意外とこれも一巻の最初に出てくるんですけど、意外とお母さんはしがみつくようなところが最後。
むしろ問題になって、だって高階さんも漫画家として体制してますからね。
お母さんいなくても生きていけるわけですよね。
でもお母さんはくっついていきたいわけですよ。
高階さんに自分の悪い部分を全部投影していないと安心できないから、別れられないんですよね。
一方では分離不安を子供は抱いているんですけど、実際にその分離不安を強く抱いているのは母親だったりするわけです。
この辺のことも自己愛人間にきちっと書かれていて、非常にここを読んでからこの漫画を読むと、
そして高階さんの昔の作品を読み直してみると、これが随所に出てくるなと。
内的対象の投影というのは、クラインのそのまんまだなと。
どの作品をとっても内的対象というものと無縁の作品はほぼないなと言っていいぐらいで、
これが多くの人の心に刺さるということは、やっぱりクラインというのは相当良い線を行っているなとつくづく思ったんですよ。
あの人のシットと専門もそうですけど、読んでもピンとくる人はほぼいないと思うんですよね。
わけわかんないことばっかり書いているようにしか見えない。
ちぶさを半分に切るとか、全部比喩なんですけどね。
これは今言ったような姉妹の葛藤みたいなものを説明するための比喩なんですが、そういうふうに見えないんですよね。
古典的な精神分析に近いから、後輩期とか正規期とか思いっきりそのまんまの言葉で出てきちゃっておりますし、
全部比喩に近いというか、ほぼ全部比喩だと思って差し支えないと思うんですけど、
良いおっぱい悪いおっぱいもやだらと当然のようにしかも論文みたいにして書いてますから、
ものすごく違和感が起こるのは当然なんですけど、
これ多分あの高階さんのコミックみたいな愛憎劇として捉える限りにおいては全然変ではない。
やっぱりあの愛憎劇はそうはいっても性的なことに間違いはない。
セクシャルなシーンが一向に出てこなくたって、あれが性的でないとは到底思えないんですよ。
やっぱりあれは性的な感覚なんですよね。
今でもよく覚えているんですけど、これやっぱりどっかで取り上げて書きゃいいんですけどね。
コミックも引用しちゃえば一番いいんですけれども、
どこにもいなさそうな生徒会長のいわゆるあれですよね、
少女漫画にだけ出てきそうなちょっとおじさんくさい立派な男の子がいて、
27:03
その子のことを好きになる女の子がいるんだけども、
お姉ちゃんに対して強烈なコンプレックスがあると。
今の話と何ら変わらないんですけど。
そのお姉ちゃんがやっぱり男の子といい仲になっていくのですごく嫉妬するんだけれども、
でもそのお姉ちゃんのことが大好きなので、全部それを抑圧するっていうのがあって、
これもものすごく嫉妬度戦法まんまだなと。
クラインが書いている通りの展開が漫画化されているみたいな、
そういう感じでそのコンプレックスにあえでる、
多分高階さんご本人の多くの部分なんでしょうけど、
無有病の時にお姉ちゃんの真似をして、
その時ピアノが弾けるっていうコミックがあるんですよ。
ちょっと出来すぎてる感もあるんですけど、
この種のヒステリーですよね、要するに言ってしまえば。
多重人格、今で言えば乖離性人格障害ってことになっちゃうんでしょうけど、
そうじゃねえだろうと思うんだけどね。
これお姉ちゃんコンプレックスでいいじゃんと。
だからヒステリーでいいじゃないかと思うんですけどね。
そういう話がやっぱりあって、
あれも子供の時読んだ時にツクツク刺さったんですけど、
今思えば不思議なんですよ。
僕ん家がそういう家では全くないし、
やたらお金持ちだしね、そういう家って。
全然心に刺さってくる部分がないはずなのに、
なぜあれがあんなに、
僕が当時読んだんだから、
7、8歳の小学生男子ですよね。
なぜあれがあんなに刺さったんだろうと思うと、
内的対象ってことだと思うんですよね、やっぱりね。
非常にですね、
自分の中で一人二役を演じるシーンって、
人にはあるじゃないですか。
少々恥ずかしいですけどね。
自分の中で一人二役を演じるシーンっていうのは、
あるはずなんですよ。
よくお孫としている女の子は、
お母さん役と少女役を同時にやると言うんだけども、
そういうやつですよね。
つまり、こっちはもうミニコットなんですけど、
母子一体というものをどこかで、
自分一人で演じられるようになった人。
つまり、お母さんと一緒っていう番組がありますけど、
お母さんと一緒じゃないときも、
お母さんと一緒だから、
その子は一人でいられるわけですよね。
そういうことが、
込み込みで考えてみると、
その女の子はやっぱりそうなんですよ。
コンプレックスの塊みたいな女の子なんで、
お姉さんとかそのお姉さんとか、
霧のお姉さんっていう設定なんだけど、
一緒じゃないと何にもできないっていう、
そのお姉さんと一緒じゃないと何にもできないっていう、
そのお姉さんと一緒じゃないと何にもできないから、
無有病になったときは、
そのお姉さんになっちゃうわけですよね。
そういう話があって、
あれはもう本当に、
精子分析だよなって思うわけですね。
で、やっぱり男の子の奪い合いなんですよね。
30:00
あれ父親ですけどね。
そもそもその父親っていうのは、
内的対象としての父親ですよね。
だってお父さんじゃないですから。
生徒会長の男の子で、
あんな男はいないような気がするんですけど、
少女漫画では、
一番のように出てきます。
あれはお父さんですよね。
お父さんが欲しいわけで、
お父さんを奪い合うんだけど、
お姉ちゃんの方がお父さんにふさわしいって、
思いっきりもうそのまんまなんですよ。
そういう嫉妬というものがあると。
だから自分はお姉ちゃんになりたいということで、
自分自身であることを忘れないと、
そういうわけにいかないので。
ピアノまで弾けてしまうと、
別人格になったときはですね。
という話が、
悪さが出てくるんですよね。
あれです。
母子の分離不安ということで言うと、
家にでっかい屋敷に閉じ込めちゃって、
自分の娘を、
多分娘なんですけれども、
外に出ようとすると虐待すると。
でもやたら可愛がると。
これも現代でそのまんまっていうケースは、
少ないかもしれませんけれども、
非常に母子の分離不安の、
母親側の不安というものを、
昭和的ではありますけど、
表現されていて、
あれもすごい、
なんか知らないけど、
心に残ったんですよ。
私はお屋敷に住んでないし、
家からもバンバン出てましたから、
なぜこれが心に刺さるのか、
わからなかったんですけどね。
でもこのホールディングって言いますけど、
ウィニコットは抱え込むと。
で、ものすごく抱え込むというところから、
引きこもりってことが出てくると。
この話はもう、
全部そういうものを感じます。
やっぱり、
お母さんが娘と分離したくないと。
そこにナルシズムがありますよね。
自分の内的世界だけで完結させたいと。
その番が怖くて、
最後に娘を完全に
屋敷の中に入れ込んで、
閉ざしちゃうんですけれども、
もう二度と出さないぞっていうので、
完結するんですけど、
それはやっぱり怖かったんですよね。
つまり、
子供心にはナルシズムというものが
やっぱり感じさせられるのと、
親の抱え込みというものは、
やっぱり子供ってのは
感じるところがあるんだなって
今なら思います。
別に私は、
それほど抱え込まれているっていう意識は
なかったんですけれども、
やっぱり抱え込みというものに対する
子供なりの抵抗感みたいなのがあって、
あのコミックは
高階さんが書いたコミックなんですけど、
子供に対する抵抗感があって、
子供なりの抵抗感みたいなのがあって、
あのコミックは
高階さんが書くだけあって、
極めて極端なケースではありますけど、
そういうものを
演奏させる。
ちなみに、
お母さんがなぜ子供を出したくないか
夫に捨てられるからなんですよね。
分離不安なんですね。
こういうのって
どの程度意識されて書かれていたのかな
っていう風に
すごく感心させられるし、
33:02
これは漫画でもちろん
先が漫画ですから
漫画の意味は十分分かっていたわけですけど、
こういう風な含み込みで
読ませてみると
今だと全然
こう違った表現に見えてくるんですよ。
本当に違った表現に見えてくるんです。
なぜここが土蔵なのかとか
なぜ、
鳥をカゴから出さないために使うのが
針なのかとか
すべて意味があるというか
と思うんですよね これがですね
当時はもちろんそういう意味は意識せずに読んでたわけだから 高階先生の作品がやっぱり自分の外側にあるんだっていうのを
強烈に意識させられて とってもなんていうんですかね
すっきりするんですよ 本当に自分の中にあるわけじゃないっていうことがですね 中にもあるんですけどね
漫画のシーンそのものはもう私のように 空想力が足りない人間でもパッと思い浮かべるぐらい
割と読み直したんで でもそれも不思議な話なんですよね なぜあれをあんなに読み直す気になったのかというふうに思うんですよ
自分の世界とあまりにもかけ離れてるし 全然共感できるようなキャラクターも多くはないわけです
この種のお母さんと全然共感できなかったんですよね そんなふうに思いました
すっげー盛大に遠回りしてきたんですけど つまりですね
中にあるっていうのは怖いことなんですよ 中から出られないという
それは夢見てるのと全く同じですよね 覚めない夢を見ているのと同じ
これを 実際のところ顔色を伺うというのはそういうことで
相手の顔色に自分が責任を持っているという意識は
つまり相手の顔色と自分がラジコンのリモートコントロールみたいになっちゃっているわけじゃないですか
相手の顔色を私の責任で良くしておこうということですよね 伺うってことは
そしてその相手はもう何度か言っておりますけれど その外側に生きているにも関わらず
そうじゃないことにしてしまっている 顔色を伺うということは
一見すごくこっちが被害者なんだけど 実はすごくこっちでコントロールしたいっていう意識が
強すぎる状態になっちゃってるわけですよね 着せずしてなっちゃってる
これを最初にやったのは当然子供の頃であって 親の顔色を伺うということをやったことに
起源を発しているんだと思うんです その前にあったのはつまり甘えなんですよ無意識の
顔色を伺うなんて考えもしない なぜならば親が外側にいるなんて考えもしなかった時代があったから
子宮の中にいた子供に親の顔色はわかるはずがないですよね どこかに起源があったわけですよ
その起源に何かがあったはずなんですよ トラブルがあった
36:02
1回や2回ではないはずですよね親子関係だから 1万回とかですよそういうトラブルが1万回ぐらいは多分あった
でそれが自分の中にある種の
劇場を作り出してしまうんですよね 自分の中の劇場を現実だと取り違えてしまう
だって無聴とかに父親を連想するとか母親を連想すると明らかに変ですよね 明らかに変だけどそういうことをやっちゃっている
よくよく考えてみると怒られたくないとか怒るとか理不尽だとか 全て家族みたいな感情ですよね他人に対して本来持つ感情ではないと思うんですよ
これがとっさに起こりやすい心理状態とそうでないものがあるはずなんです とっさに親を連想しがちな人とそうでない人がいると
言ってもいいと思います 他人なんだから親子じゃないわけですよね親子ってことになるとここがフロイトが多分
誤解されている部分なんですけど親子ってことになるとそれはセクシャルなんですよ 親のセクシャルがなければ子はいないわけですから
よく読むと高階先生のコミックはすべてが家族になっているんですよ 生徒会長と自分が家族になっているし
ギリのお姉さんと自分これはもう家族ですけど家族になっているし 家族なわけですよ
家族関係なんですねあそこに描かれているのだからすぐに愛憎劇が発生してしまう そういうことを
全部含み込んで考えてみるとですね家族って内側ですからね でもその家族にすら外側があると
いうことをはっきりと認識する瞬間が 何度か必要だってことですよね
何度かこの人とは外側にいて 自分からあからさまに独立しているというか当然なんだけどね
あからさまに独立しているんだと そうでないように思えた時
自分は理不尽な目にあっているとか この人のために何かをすると損をすると考える時に僕ら必ずイリュージョンを見ていると思うんですよね
多くの場合は競争とか嫉妬とかつまりですね 時間がもったいないとか言った時には
その兄弟間の競争みたいなものに晒されているということですね この話ちょっと先走っちゃってますけれどもさっきお父さんと言いました
生徒会長とかがね お父さんに認められたいという言葉のお父さんが外れちゃってるんですよね
で認められたいだけになる こういう時に承認欲求というものが出てくるんだと思うんですよ
承認欲求などというのは多分分析みたいなものを通して見るとですね ヒステリーそのものだという感じがします
お父さんに認めてほしいっていうことなんですよ そのために誰かと競争している気になっている
39:00
その競争で勝てそうな時に私たちは得だと思うし その競争が不利になった時少し後ろから走れとかね
損をしていると思うと それもまた家族関係に取り込まれちゃっているわけですよね
家族でも何でもない世界の中で多分僕らがそういうことを例えばツイッターとか あるいはアマゾンの順位とかレビューとかでもいちいちそれを見ちゃう
お思考をつけてくれたらお父さんが褒めてくれたんだと思っちゃう ちなみにお父さんが褒めてくれた
女兄弟の中でっていうのはこれは比喩ですからね 褒めてるのはお母さんだって構わないんです
大事なのはその客観といった時に言うのは いつもそうですがエディプスだから客観っていうのは主観の世界は母と子ですが
客観っていうことが言った時にお父さんが登場するわけですよ 第三者が登場する
ここをの言うなんていうかね父親の長輩っていうのを得ようとして誰かと競争し始める 時に僕らはやっぱりおかしな行動をとるわけですよ
だってそれはえっとなんていうかメインテーマと関係ないことですからね 読者にとって意味があったのかとかせめて本の売れ行きとして客観と的な数字として
どうなのかということじゃなくて星の数字が気になると もっと言うと星の数があのあのなんか黄色い感じが気になると
そういうのって全部多分 家族関係から抜け出せないか家族関係を外に問いしちゃっている
そういうことの現れでしかないんだということですね
40:42

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