2021-04-20 42:25

【GMV 362】人の顔色が気になる?

機嫌を取る、顔色を伺うというのは、内的対象の機嫌をとっているということ
00:03
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
今日はですね、このネタは頻繁にやってますけれども、
人の顔色を伺うというやつについてですね、ちょっと
いろいろ
発見というほどのことではないんですけれども、もう大丈夫かなみたいなところがあったんで、
その話をしたいと思います。
さまざまな前振りがいるんですが、
久しぶりにちょっと
ざっとおさらいしたいんですが、変動体モードって僕が勝手に名付けているんだけどあります。
言葉がですね、僕の言葉で、この番組でのみ通じるような言葉ですが、
脳内で危機的な、一番簡単に言うと、怒られてる、怖いって時には変動体が、
変動体以外のところもともかく変動体は多分活性化してて、その変動体ってところが活性化してると血中コロチゾールの濃度っていうのが、
濃さですね、高くなります。これ、マイナスのフィードバックってやつがあるので、出すぎないようにちゃんとなっているんですが、
ストレスが続くとですね、出続けてしまって、濃度がどんどん濃くなっていって、それは大変ですね、不愉快なんですよ。
ある程度までは、一定の興奮感覚とともに爽快感もあるんだけど、それを通り過ぎちゃうと、一気にこう、不愉快に、
まあこれ個人差にあって、慣れもあるし、難しいところもありますが、大体この変動体モードという状態が、
愉快な人はほぼいないんですね。 だから怒られたくないんですよ。
実は怒られるということは、人といざかうとか、トラブルになるということはですね、何らどうでもいいんですよ。
肉体に傷つけられない限り、実は何にもそこでは起こらないんですけれども、この変動体モードになるからこそ、僕らは苦痛なんです。
苦痛は、多分これは体内で起こる現象なんです、最終的には。
あの、ほら、この番組でもザワチンとか言ってましたけれども、怒られた後を引くってことあるじゃないですか。
このテーマなので、往々にして長いんですよ、それ。人によっては1週間とかですね。1週間ってことは6回は寝てるわけですから、それでも取れないと。
いうこともあるわけです。この時にも、直接言われたこととかは、
遠い過去に、遠い過去としても1週間程度にしてもですね、目の前にあるものじゃないですよね。
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ダイレクトには何も起きてないんだけれども、空も青いけれども、心力も目に入ってくるのに気分が悪い。これは体内で起きていることなんですよ。
依然としてその記憶がですね、扁桃体を叩き起こして血中にコルチゾウルを流し込むと。
これだけならまだしもなんですよ。この後、これは何のためにやるかというと、逃げるためなんですが、
記憶から逃げられませんよね。そして戦うためでもあります。喧嘩するため、あるいはこう、肉体的に暴力を振るためなんですよ、言ってしまえば。
で、これも自分の記憶に対して暴力を振るうこともできないじゃないですか。つまり、
させようとして、体がさせようとしていることがあるのに、自分ができることは現実にはないために、
この、なんて言うんですかね、どんどん
エンジンの温度を高くしているんだけれども、車は全く走ってないという状態。これが、これは車にとっては、車に感覚はないですけど、
あったら苦痛のはずで、人の体幹の苦痛もここから来るんだと思うんです。
ちなみに、動けって、脳と体が命令しているとき、動けないときは、
苦痛がグッと高まるんですよ。これは何ら驚くようなことじゃなくて、例えば、歯医者さんってみんなこれを経験しています。
最近は確かに素晴らしいので、技術がですね、昔ほどじゃないんですけど、
要するに昔は結構痛かったし、音もすごかったんで、あれが起こるとですね、しかも耳のそばで音を爆音させるんで、
脳はですね、恐怖を覚えて、一刻も早く逃げ出せという指令を断続的に送り続けちゃうんですね。
だけど、がっちり固定されて逃げられないじゃないですか。だから苦痛なんですよ。
多分痛みそのものの苦痛よりも、この動けという命令に対して、あるいは何とかしろという命令に対して何ともできないというときに、
恐怖感とか苦悩というものがじわじわと上がっていくわけですね。
最愛の恋人に振られた、これはおかしな表現だと考えてみると思うんだけど、ような時にもこういうことが起こりますよね。
何とかしろと言うんだけれども、何ともできないんですよね。で、何ともできないからこそ苦しいわけです。
まずこれが変動体モードと、私が勝手に名付けているモード。で、ここから一刻も早く脱したいわけです。
で、この時にですね、これもまた術語で申し訳ないんですけど、内的対称というこの番組では何度か使っているやつなんですが、この内的対称って何かというとですね、一番簡単なので人の顔ですね。
顔がパッと思い浮かぶような、その顔のイメージは内的対称と考えていいと思うんです。
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で、難しいことではなく、まず両親、これは内的対称です。普通はほぼ間違いなく顔がパッと思い浮かびます。
それから何度も会っている人、自分の奥さんとか家族とか子供、内的対称です。すべて内的対称。パッとイメージが浮かぶ。
で、内的対称というと難しいので、顔のイメージと今日は言ったりもしようと思っています。
要するに顔のイメージなんですね。顔のイメージが浮かぶか浮かばないかなどということも問題になりませんよね、親の顔であれば。
つまり顔のイメージがパッと浮かぶということは、それは内的対称でありもはや自分の中にあるわけですよ。
夢に出てくるという人物たちも内的対称です。そういうふうにして考えてみると、何度も頻繁に会う人に限られるはずです。
会社の上司のことは、これ内的対称は好きとは限りないです。顔のイメージは良いとは限りません。
会社ですごい苦手な上司や同僚がいるというのも、おそらく顔のイメージになっているでしょう。
この顔のイメージに声も簡単に再生できるようなのはもう完全に内的対称ですね。
これの起源を取っているんですよ、私たちは。 これがまず大きな一点です。
人の顔色を伺うと、先日もツイッターでそれをちょっと見たんですけど、顔色を伺うのをやめたいよねというのに多くのいいねがついてたんですが、
顔色を伺うのはやめたいよねと言っているその顔色は
内的対称の顔色です。
内的対称の顔色を伺うということをやめたいと。 本人はそういう自覚はないんですけれども、まず間違いなくそうなっていると思うんですね。
いくら繊細な人だとはいえ、HSPみたいな方だとはいえですね、マイン電車にいる全ての人の顔色は伺わないと思うんですよ。
一度しか会わない、顔のイメージも思い浮かばない、全く自分と親しくも何ともないというか名前も知らない、声もわからないような人の顔色を
あんまり我々は真剣に捉えないんですね。 もちろん繊細な人はそういう人の機嫌すら悪くしないようにしようというふうに気はつけるんだけれども、
ちょっと悪くなったとしても、ちょっと悪くなったかもしれないとしても、あるいはその人の機嫌がマイン電車の中で悪かったとしても、
さすがに気にやまないんですよね。というか覚えておけないんですよね、そんなに全部は。 私たちの内的対称は、そりゃ人間の記憶なんでかなりの数に
登りますけれども、そうは言っても数えられる限度があります。 あらゆる人の顔と名前を覚えておけない、それで困っている人もいっぱいいますよね。
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これはコミュ障とか発達障害とは何の関係もないと僕は思うんですが、 顔と名前を覚えられないというのは別に驚くようなことではありません。
それは顔と名前がはっきり簡単に出てくるのはすでに内的対称なのであって、顔のイメージが脳内にストックされているのであって、
顔もはっきりしないような人は内的対称の数ないので、 その人に怒られたイメージをずっと引きずるということ自体あり得ないわけですよ。
つまり私たちが顔色を伺うと言っているのは親しいとは限りませんけど、何度も会う人に大体限られるわけですね。
何度も会う人だからこそその人の起源を伺うことが有意義なのであって、
何度も会う、何度も関係性が深い、影響がでかいということによって、だからこそ内的対称なんだし、その人の顔色が気になるんだし、
その人と一緒に喫茶店でも行くとですね、ピザが食べたくても我慢をすると言ってのことが起こるわけですよ。
あるいはその人がコーヒー頼むと、自分は紅茶を頼みたいのについコーヒーと言っちゃうと、これは何の意味があるのか大変あれなんですけれども、
その時気にしている対象というのはですね、実は目の前にいる人ではないんですね。
顔色なんですよ。顔色というのは内的対称そのものなんです。顔のイメージなんですね。
で、私が考えついたことというのはですね、人の顔色を伺う人というのはですね、この内的対称が不機嫌になりやすいという機能を持っているはずだということなんです。
ここはややこしい話に聞こえますが、図にすると割と簡単なんですが、僕は図を簡単に描けないんですよね。
まず、
内的対称というのは、私考えてみるとそうだという、考えてみると当たり前のことなんですけれども、自分の心の中のイメージですね。
だから顔だけなんですよ。これも大事な点です。多くの場合、内的対称でパッと思い浮かぶのは全身では決してないってことがあります。
上半身か顔だけだったりしますね。背景があることはほぼない。背景があるかもしれないんだけど、背景はいつも同じだったりします。
つまり、自分の心の中のイメージなので全身とかいらないんですよ。
だから顔色ばっかり気になったりするわけです。顔しかなかったりしますからね。
服とか足とかはいらないわけですよ。
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足見ても機嫌わかんないじゃないですか。これ大事なポイントだと思うんですけれども。
で、内的対称の機嫌が全く悪くならないという場合は、多分顔色なんてうかがわないです。
これも非常に重要なポイントです。
内的対称というのは、例えば私の内的対称といえば最近で言えば、うちの奥さんはもちろん、うちの子供、私の両親。
まあありがちですよね。要するに肉親ですよね。これは内的対称に決まっています。
あるいは仕事上のパートナーである大橋哲人さんとか倉園慶三さん。顔がパッと浮かぶから。他にもいっぱいいますよ。
この間インタビューした北沢さん、沢山も内的対称。
ちょっとこう、まだ十分内的対称として根付いてないというのは、お住まいがうちの近くじゃないし頻繁に会うってことはないから、画面越しなんでね。
やっぱりこう、会っている頻度にすごく左右はされるんですよ。ここも大事なポイントだと思うんです。
で、これらの人に共通点はほぼないんですよ。
えーと、日本人だとかいうことはあります。でもうちの、例えば奥さんと大橋哲夫さんの共通点、ほぼ全く無理やりひねり出すぐらいしかできない。
だから日本人だとかね、そういうことになってしまうんですが、もっともっと僕の心の中での内的対称の人々は似てきてしまうんですよ。
これが発見ということではない、後から言うと非常に当たり前なんですが、あんまり意識してこなかったことなんですね。
で、私の心の中でこれらの人々が同じように振る舞いがちだということ、これはつまり私の心の機能に他ならない。
絶対そうじゃないとおかしいですよね。
現実の振る舞いは似てないのに、私の心の中に入っている時には似てくるというのは、それは私の心の中の機能のせいなんですよ。
この機能の大元を司っているものは何かというと、それは私の脳に決まっていますけれども、何かというと私の母の内的対称のイメージなんですよ、私の場合はですね。
非常に変な話なんですが、つまりこれを進めていくとここになるんですよ。
うちの奥さんの、私の心の中のうちの奥さんのイメージは私の母のイメージと同じように振る舞う。
おかしいですよね。なぜなら似てるんならいいですよ。似てません。
で、性格も似てない。
で、一歩間違うとですね、私の奥さんと私の母と大橋哲夫さんは私の心の中では同じような振る舞いをする。
これは明らかにおかしいですよ。
でもこれをやっちゃう。で、これが内的対称の心の機能だと思うんですね。
で、だからこそなんですよ。
だからこそ内的対称に苦しんでいる人っていうものが、人がいらっしゃるとすると、
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あの人は親子関係どうだったんだろうということがまず探られてしまうわけです。
内的対称の大元は大体の場合自分の直の親、ほとんどの場合は母親なので、
どうしても母親との関係が難しい場合、全内的対称との関係は難しくなってしまうんですよ。
人と人間関係、それぞれ個人、個々の人間関係によらず必ずこの機能が動き出す。
だから非常に残念なことにっていう面もありますが、
親しくなればなるほど人間関係がこじれやすいなと感じている人は、
まず間違いなくこじれているのは実は人間関係ではなくて、内的対称と自分の関係なんですよ。
で、必ずしもでも親子関係が悪かったとは限らないところがややこしくて、
私もね、いつもこのことを考えてたんですよ。確かに問題ゼロだったなどとは言えない。そんな親はいませんからね。
けれども、この程度で親子関係に問題があると言うのであればですね、
多分、日本全国の中の7000万組くらいの親子関係はおかしい、3000万組くらいの親子関係はおかしいだろうなと言わざるを得ない。
それは明らかに変なので、遺伝要素があるだろうなと。
多分、私の中にある遺伝的な要素で、私は母がどういう母であろうとも、よほど運が良くない限りは、
内的対称との顔色を伺いやすいところが、きっと自分にはどういう親であってもあっただろうなと思うんです。
これを発見したのは最近娘を見ていて、娘もこの能力が長けている。だからかなり気をつけるようにはしているんですよ。
できれば娘にはこれをやらないでほしいというのはやっぱり、これは親の勝手な願望なんですが実はあって、
でもパッと顔色を見抜くんですよね。だからこれは遺伝なんだなと。結局これが引き継がれたと。
この遺伝子が淘汰されずに残ってきたというのは、極めてわかりやすいというか自然な話だと思うんですね。
目上、親の顔色を伺う能力に長けている人が、2万年、3万年という時代を生きやすかった可能性は十分ありますよね。
みんながみんなこの遺伝子を持ってないのは当然なんですが、持っている個体がいても何にも不思議ではない。
だから親子関係が悪いかどうかは必須事項じゃないと思うんですね。内的対象の難しさを抱えるということと、親子関係が絶対悪かったということはイコールにはならない。
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良くなければ内的対象との関係が難しくなる顔のイメージは不機嫌になりやすいという機能を私の心の中では持っています。
これは当然人間関係に良い影響を及ぼしにくいです。 彼女と付き合っているとかいうことを考えればよくわかると思うんですよ。
すぐに自分の心の中の彼女のイメージにおいて、彼女の機嫌が悪くなるというようなのであればですね、
どうしたって面倒くさいことを考え始めてしまうじゃないですか。 これが私の心の中の全内的対象で機能してしまう出来事なんですね。
これに気づくということが とっても大事だと思うんです。
これに気づきさえすれば、機嫌が悪い顔色を伺っている相手は相手なんじゃなくて、
自分の心の中の顔のイメージでしかないということがはっきり見える。 なぜならば似ても似つかない人同士が同じ顔の表情をし始める。
よく見ないとわかんないですけれども、個々のそれぞれの顔のイメージはちゃんと私の記憶の中で一部作り出されているので、
別人のような振る舞いをしてるんですよ。 でも結局は心の機能を反映しちゃうので、
相手が機嫌が悪くなっていようといまいとすぐ機嫌が悪くなるんですよ。 私の心の中ではね。
これが多分繊細さんと言われている人とか顔色を伺っちゃうと言っている人の心の中ではおそらく例外なく起きていることなんだろうなと思います。
で、ここまでですと頭ではわかっている話になってしまうんですが、ここでもう一歩を進める必要があると思うんですよね。
心の中で不機嫌になった顔、色を伺うというのは明らかにつまらないことじゃないですか。
だからですね、そいつ今頃パフェでも食ってるよという本が売れたんですよ。
つまり、あの本での、このタイトルが言っていることは、あなたの心の中の顔のイメージと現実に相手が今どういう機嫌でいるかには関係ないよという意味ですよね。
それをうまいこと言ったのが、そいつは今頃パフェでも食ってるよという言葉だったわけですよね。
で、これが売れたということは、このことで悩んでいる人はいっぱいいるということだし、
この現実に存在している人の機嫌とあなたの心の中の顔色は連動していませんよということは一定の有効性があるわけですよね。
だけれど多分あの本の著者さんも言われていると思うんですよ。
頭ではわかっているんだけど、それが切り離せないから困っているんですよという意見は多分あったと思うんですね。
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これ、いつまでもこれを言っていてもしょうがないので、もう一歩先へ進まないといけないと思うんですね。
まず、内的対象の顔色が不機嫌になると、どういった悪いことがあるかというとですね、偏頭体モードが発令し続けてしまうということです。
だって自分の心の中にある顔が不機嫌なんで、しかもそれは大体において自分にとても近しい人なわけですから、非常に良い状態じゃないですよね。
脳としては危機感を出すために、全く余計なお世話なんですが、偏頭体を活性化させて体内の血中のコルシゾール濃度を高めていく。
そしてこの不機嫌な顔に対抗しようとする。全くしなくていいことなんだけど、実際にはする。
だから、そうして自分が常時コルシゾールの濃度が高く、体内の多分ですが、左のあばら骨の一番下あたりが痛むんですよ。人によってはですよ。
あるいは真ん中、これは胃があるところが痛むんですよ。胃を荒らすんでね。そういうようなことが起きる。
そうすると、ますます自分と何度も会っている同僚というものが、すごく許しがたい存在に思えてくるじゃないですか。
だってそいつの顔が不機嫌だから自分の胃が痛むわけですよ。それもその人が目の前にいない時までそんな目にあっている。
自分はとってもですね、理不尽な目に攻撃にさらされている気がするんだけど、これは全部、流れとしては自分がやっていることに違いはないんですよ。
親のせいかもしれません。でもその親も今目の前に多分いないわけですよね。
で、何とか切り離したいというわけです。で、ここでやっぱり
頭ではわかっているんですが、それができずに困っているのです。うちの親はひどかったんです。っていう展開になると思うんですよ。
で、私が思ったことの一つがですね、とはいえですね、この内的対象の自分の心の中の顔のイメージの動きですよね。
どういう風になっていく、どういう機能を持っていて、どういう働きをしているのかをはっきりと見定めるということがこの上なく有効です。
特に良いのは、自分の中の実態は全く似ても似つかない人がどういう共通点を持っているのか。
日本人であるとかではなく、不機嫌にすぐなるとか、本来そうじゃないはずなのにそういう共通点を持っているとしたら、それはもう間違いなく自分の内的対象の心の機能なんだと。
これを見抜くということによってですね、
全然違ってきます。
で、ここでですね、よくグッドワイブスでクラゾン圭祖さんが言うことなんですけど、現実を見に行くという言葉の方向に向かえるんですよ。
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内的対象ばっかり相手にしていても拉致が開かないんですよ。現実を見に行かないと。
で、現実の相手は内的対象とは常に違っているんだけれども、ここでもう一つグッドワイブスで言うところの信頼するというのが大事なんですね。
信頼するというのはどういうことかというと、一番この人の顔色を伺うという人たちが常時やってしまうこととしてですね、
内的対象は常に不機嫌にしておき、外的対象はおかしい。
内的対象、顔のイメージはいつも不機嫌になるんだけれども、現実の相手はもしかすればそれほど機嫌が悪くないかもしれない。
あるいはもしかすると同僚や嫌な上司なんだけども機嫌はいいかもしれない。
これはいいって見出すんですね。
ここには非対称性っていうんですけどがあって、一致していなくてもいいんだと。
ただ、顔のイメージはいつも悪くなきゃいけなくて、現実はそれよりはマシであるというのが望ましい。
こう考える人はですね、人の顔色を伺うようになっていかざるを得ないんですね。
現実を見てないんですよ。だって内的対象を信じてるわけじゃないですか。
内的対象が今不機嫌であると、それにやられてるということは内的対象の不機嫌さを信じてるわけですよね。
この同僚やこの人はいつも機嫌が悪い。あるいはすぐつむじを曲げるんだと。そういう人なんだと。困った人なんだと。
というふうに相手を信用して、信頼していないんですね。
外在する人は時々機嫌は良くあるけれども、機嫌が悪いものと想定してかかっておいた方が安全だという考え方があるんです。
リスクヘッジをしたいんですよ。リスクヘッジになってないと思うんですが、これで心のダメージを少しでも少なくしたいと。
これから会う上司は毎日会うんだけど、いつもこのぐらい機嫌が悪いと思っていることにして、そうすることでもし機嫌が良かったとしてもそれなら問題ないでしょうと。
もし機嫌が悪かったとしても予想通りだからなんとかなるでしょうと。こういうリスクヘッジなんでしょうね。
これは逆はいけないんですよ。そこがまず非常に奇妙なところなんですね。
この形は偏ってますよね。基本的に相手の機嫌は常に悪い。そして現実にはそれより機嫌が良いことがある。
そういう間違いは許される。逆は許されないんですね。
27:04
内的対象の機嫌は抜群に良いと。ボクさんの機嫌はとても良いですと思っていたんだけど、実は話しかけてみたらいきなり怒られたと。
現実はとても厳しかったと。このパターンが最悪なんです。人の顔色を伺うという人にしてみれば。
この不意を打たれるというんですかね。ものすごく予想が甘かったという風に思われることがおそらく一番悪いんですね。
迂闊であるとか、のほほんとしているとか、無防備であるとか、これが一番悪いことなんですよ。
だから対照的じゃないんです。良いという予測をして悪いという結果だった、現実だった、これはダメで。
悪いという予測をして良いという結果だった、これは良いという考え方なんですね。
私これは全然良くないと思うんですけれども、こういう非対照性があるということです。
そして、そのような価値観で生きているために、内的対象は一斉に不機嫌になっていくという機能を持つわけですよ。
いつもいつも自分の親しい人たちは不機嫌であると。だってそういう想定をするということがリスクヘッジなのですから、
もう親しくなればなるほど、極端に言うとですね、相手は不機嫌である想定になっていくんではないですか。
だから最初に会った時とか、たまにしか会わない時は、その人と接するのはむろ、むしろ楽にリラックスして接することができるのに、
仲が良くなったり、何度も会ったり、世話になったりしているうちに、だんだんだんだん相手のことが怖くなっていく。
内的対象はどんどんどんどん機嫌が悪くなる機会を増やしていくというのが、この繊細であると。
顔色を伺うという人の心の中で起こっている一つのパターンなんだと思うんです。
これは私は、そもそもの出だしにそのリスクを回避したいという気持ちに、自分の心を応えてくれているから起こる現象だというふうに思ったわけですね。
もちろんおそらくはこういうことがあったということがありそうですよね。
子供の頃、お母さんがとても機嫌が良いだろうと思って、とことことこと近寄ったら、
いや忙しいって言われた。これがその例の想定は甘く、現実は厳しかったという結果ですよね。
これを避けたいというのが、そういうトラウマのようなものによって根付いたために、
在宅対象の機嫌は常に悪くなっていくという心の機能が備わったのかなと。
遺伝的な要素もあると思うんですけどね。
この状態は常に想定なんですよ。
現実はもっと厳しいと想定しておこうという想定なんですね。
30:03
現実を見に行くということがどうしてもこの場合必要で、
というのはつまり自分が内的対象を信じている限りは、
この苦しみから絶対飲まれられないはずなんです。構造上。
非対象的なわけですから、
自分が内的対象の不機嫌を信じていればいるほど安全なんだと考える限りにおいては、
内的対象はどんどん不機嫌になっていくしかないわけですね。
本体と関係なくてもいいことになっているわけだから、
本体とは無関係に内的対象だけが不機嫌になっていく。
しかもその状態が自分の安全を守るというわけですから、
この状態から逃れようがないですよね。
現実を見に行かない限りは、
常に不機嫌な内的対象に取り囲まれていなければならなくて、
常に血中殺しゾール濃度は高いままなんですよ。
この状態を良しとしてしまっているんです。
ここから逃れたければ、現実を見に行くしかなくて、
この時の現実を見に行くというのが、
つまり信頼するということと同じことなんだと思うんです。
何を信頼するかというと、
一つは相手は内的対象と連動していない、
つまり相手は外部に存在していて、
その人が自分の意思で自分の起源を決定しているということを
信じなければいけないんです。
私がどうこうすることに連動して、
私の想定に連動した相手の起源が決まるということになってくれば、
だから顔色が浮かなければいけないわけじゃないですか。
そうではなくて、相手は自分の思いとは、
ある程度独立した意思で自分の起源を左右していると、
その人がどういう起源であっても、
その人の自由だということですよね。
ここを信頼できないとどうしようもないと思うんですね。
常にある意味では、相手はどういう人であっても、
自分のコントロール下にあることになってしまうんですよ。
不思議だと思われるかもしれませんが、
顔色を浮かがうということはそういうことですよね。
私がある程度コントロールすれば、
相手の起源は左右できると言っているのと同じことになっていくので、
つまり、相手が起源が良い悪いは、
相手が決めることができていないということになっているんですよね。
ここを手放して、相手の起源は相手が自由に選んでいいんだということにしないと、
おかしなことになっていくと。
これが一つだと思うんです。相手を信頼するというのは。
現実を信頼すると言ってもいいんですけどね。
で、もう一つは、現実を見に行った時に、
現実をちゃんと自分は見られるというふうに、
自分を信頼するというのがここに入っていると思うんです。
結局、本性を表すとかって言うじゃないですか。
33:00
自分は、相手の起源のことがわからないと。
自分は現実のことがわからないと。
本当のところ、現実のことが何一つわからないと。
相手はいつ起源を、極端に言うと、
相手は起源の悪いのを隠し持っているけれども、
表面的にはいつもニコニコして見える。
とても油断がならないみたいに思っていると、
見抜けないわけだから、
さっきのリスクヘッジに戻っていっちゃうと思うんですね。
内的対象の起源はいつも悪い。
つまり、相手はいつも起源が悪いんだという想定で
かかっていくしかなくなるわけです。
逆の想定は意味がないので、安全のためにはですね。
相手はいつも起源がいいというふうに想定しておくことには、
何の意味もないので、そんなことはしない。
想定するときは決まって、自分に都合の悪いことを想定する。
相手は起源が悪い。
本当は起源が悪い。
あるいはいつ起源が悪くなってもおかしくないような人間だと。
こういうふうに想定するということは、
現実を見抜く能力は自分にはないということになるはずなんです。
相手がそのときにどう見えているかに関わらず、
警戒していなければならないわけですから。
相手のことがわかる能力は自分にはない。
現実というものを見る意味は基本的にないということになると、
見ないですよね。
だから、
相手の起源は相手が決めていると。
外在していると。
自分の内的対象、自分の顔色、
うかがい能力とかに左右されて、
相手の起源が決まるわけじゃないという信頼が一つ必要なんです。
もう一つは、
自分が見た現実はある程度現実なんだという、
つまり自分が現実を見に行く、
見る能力を持っているという自分への信頼ですよね。
この2個が欠けているんだと思うんですね。
内的対象を悪くするという戦略に頼り切るということは。
ここまで意識してもなお、
頭ではわかっているんですけれども、
自分が見た現実は、
意識してもなお、
頭ではわかっているということは、
僕はもはやあり得ないと思うんですよ。
たぶんここまで頭でわかっているんだけれども、
一切対応できないということは、
わからないということだと思うんですね。
これはもう能力の問題というよりは、
内的対象というものに、
完全に左右されてしまうのも、
しようがないことだという、
一種の諦めだと思います。
ここが諦めるという状態にあればですね、
結局内的対象を、
良い内的対象にしておくということは、
意味がないので、
よく考えてみるとですね、
常に相手の機嫌が良いというイメージを持ち続けているということは、
36:01
既に現実を信頼しているのと、
ほぼイコールになるはずなんですよ。
実際には自分の相手のイメージが、
どれほどですね、
機嫌良いものであったとしても、
はい、現実の相手は機嫌が悪いかもしれない。
関係ないですからね。
でもこれは関係ないということがわかっているわけじゃないですか。
この状態で関係がないことがわかっていないということはないんですよ。
良いと悪いは対照的じゃないということですね。
だからこの外側を見に行くと、
自分の中の状態を信じないということが、
多分、
信頼するということになっていくんだと思うんです。
というか信頼するということそのものなんだと思うんですね。
現実を見に行くということ。
現実を見に行くということは、
内的対象をスルーするということですよ。
内的対象を信じ切るということは、
現実を無視するということは、
現実のことを信頼するというのは、
一番遠い態度なので、
信頼できないと宣言しているような感じなんですよね。
このカラクリ全域について、
頭ではわかっているんですがということは、
多分もはやありえない。
頭でわかっていたら、
頭だけでもわかっていれば、
内的対象はスルーしたくなるはず。
だってこの内的対象が、
リスクヘッジのために一切不機嫌になる。
現実には機嫌がいいかもしれないけど、
そこは全部無視する。
悪くなるのが本性であると信じるという状態で、
気分だけが良くなるはずはないですからね。
それはもう気分が悪くなるのは、
必然的な結果として、
そういうことになってしまうんです。
このカラクリ全体を逆転させて考えてみると、
自分の気分がこのようにして悪くなることを
許さないということが、
信頼するということでもあると思うんですね。
つまり、
いつも自分の機嫌が良ければ、
このようなカラクリはそもそも成立しないはずなんですよ。
いつも自分の気分はいいけれど、
いったいの不機嫌ですということは、
絶対に両立しないので、
いつも自分の機嫌を良くしておくということは、
結局、内的対象の機嫌は良くなっているはずなんです。
ということは、
実際に存在する人たちを信頼しているということにしか
なり得ないはずなんです。
自分の機嫌がいつも良いということは、
自分はとても信頼に値する人だということになるじゃないですか。
そうなるしかないと思うんですよ。
私の機嫌の遺憾に関わらず、
私に関するイメージが悪くなっている人って
いっぱいいると思うんですね。
39:02
実は、
HSPとか、繊細さんとか、
人の機嫌、顔色が気になるという人はみんな、
自分がどう思われているかを気にしているわけじゃないですか。
それは、
誰かの自分の内的対象が悪いものになっているんじゃないだろうかと、
悪いものになるんじゃないだろうかと、
心配しているわけですよね。
この心配って、よく考えてみると、
知ったことじゃなくないですかね。
自分の機嫌がいつも良いのにですよ。
ある人の心の中では、
私の機嫌は良いんだけれども、
私はパーフェクトな機嫌が良いんだけれども、
私は、朝先はとってもいつも暗くてきつい感じで、
いつも理不尽な攻撃ばかりしてくると思っていたとしても、
それにいちいち、
いっぱい手を下して、
操作して、
本当はそうじゃないんですということを、
とことん徹底的に説得しに行きたくなるかというと、
私だったらならないです。
多分何とかなるだろうと思っちゃいます。
これを信頼というんじゃないかと思うんですね。
だから、逆に考えてみるといいと思うんですよ。
常に私について警戒心をいっぱいにして、
常に不機嫌な朝先をイメージしているということが、
リスクヘッジなのかどうかということなんです。
私の機嫌が悪くならないのであれば、
多分リスクヘッジでも何でもないですよね。
良くないのは、
私の機嫌も連動して悪くなっちゃうことなんですよ。
私が扱われ方次第で、
自分の機嫌を変えるということですよね。
それは、私が他人に支配されるということを、
ある程度受け入れるということになるじゃないですか。
相手がこう出てくると、
私の気分が悪くなるというのを避けられないとするなら、
そういうことになりますよね。
だからこれは非常に不思議なことにも、
不思議に聞こえる部分もあると思うんですけれども、
相手の行動の遺憾にかかわらず、
そこから独立して、
自分の機嫌を常に良くしておくということと、
相手の機嫌は、
私のご機嫌取りとか顔色伺いによっては、
左右されないんだと思うことは、
多分同じことなんだと思うんです。
それが要するに、
実際に現実に独立して存在しているということなんじゃないかなと、
内的対象の機嫌とかに左右されて、
結局、内的対象の機嫌というものが悪いときには、
相手が怖く見えるとか、
だからこっちも恐る恐るいろんなことをして、
相手の機嫌を悪くしないようにするというのは、
結局誰も独立していないということになってしまうので、
誰のことも信頼できないということですよね。
これと自分がいつも機嫌を良くしておくということは、
42:01
多分同じことなんだと思うんですね。
いつも自分の機嫌が良いならば、
人の内的対象の中の私がどうであるかは、
関係なくなっていくと思うんです。
なぜならば、私の機嫌が良いということは、
変動対モードに苦しまないということだからですね。
42:25

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