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おはようございます。 Good Morning Voiceです。
今何時でした? 1月17日、水曜日、朝7時32分ですね。
今、物思いにふけてたわけですよ。 微音的にかは知りませんけど。
いろいろ話すことあるなーって思っていて、 こういう時はだいたいグダグダになっちゃうんですけどね。
トラケンの話はずっとしてるからいいかなって感じなんですけど、 相変わらずしますね。
ライトニングトークっていう俗に5分喋るやつがありまして、 これもぜひ何ならば挑戦してみてほしいかなって思います。
これどちらかというと、 主催者の北信也さん、ベックさんの趣味に近いものなんですけど、
絶対トラケンではライトニングトークはやるぞっていうのがあるんですよ。 そういう伝統行事的なものがね。
私は別にライトニングトークとかを セミナー主催した時もまず入れませんけれども、
ベックさんは絶対やりたいっていうのがありますから、 やる意義もあるっていうのもありますから。
これもすでに1名ご参加いただくことに、 なんとなく決まってはいるんですけど、
あと1名ぐらいはいてもいいんじゃないかなっていう感じがありますので、 よろしければお願いしたいと思います。
もちろん普通に参加いただくというのもあるし、 オンライン参加もできますし、
事前にお申し込みいただいてさえいればね、 動画も配信、つまり動画買うという形にも撮ることができます。
買っておいて後日見る。
20日、21日以降、過ぎてしまうと動画配信はできませんので、 これはもう会の趣旨上そういうことに決まっております。
21日以降はこれを見たり参加したりはできませんので、 その辺も併せてご検討ください。
どうしようかな。
ちょっとすいませんね。
何の話をするかでまだ悩んでいるという感じなんですけれども、
一つはね、ツイッターで謎資格っていう言葉を見て、 ああそうよねって思ったんですよ。
心理職の方だと思うんですよね。 心理医生、心理師とか公認心。
これが日本における公的な、 多分少なくとも今一番押されているのは公認心理師なんじゃないかと、
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国的には思っているんですけど、
民間の謎資格って要するに怪しい資格で被害を 込むってはいけないっていうようなことだと思うんですね。
まあそれはそうだと思うんですよ。
でもこれを止めるのは難しいって書いていらっしゃっていて、 まあそうだろうなって思ったんですよ、これも。
謎資格止めるのは難しいっていうか無理だよねって思ったんですよ。
これはこの人に批判してるとかそういうことじゃないですよ。
私は共感はするんだけど、 でもまあ止めるのは無理だよねっていうのが感じます。
感じるっていうか無理だと思います。
非常に理由は簡単だと私は思うんですよね。
例えばこれって結局、どんな問題もそうなんですけど、 法律ってのは線を引くわけですよ。
線を引いてしまうと、 そこに線引けるのかよっていうところに線引くんですよ。
昔、昔じゃなくて今もだね、 極めて深刻なインドパキスタン紛争っていう問題があるんですね。
あの両国はもともとほぼ同じような国で、 国っていうのかな、
あの二つは独立の時に分かれたんですね。
で、今では核を突きつけあって、 多分一番核戦争が起こりそうなのはあそこなんじゃないか的な話が、
核戦争のことを扱う雑誌みたいなのがあるんですけど、 日本語じゃ読めないと思うんですけどね。
そういうことが書かれていたりして怖いわけです。
どうしてそんなことになったのかっていうと、 あそこ国境線引けないようなところに無理やり引く形になっちゃったんですね。
家の上に線が引かれているみたいな、 密集しているところにですね、線引いたんですよ。
なんでそれをやったかっていうと、 イギリスの植民地政策にはなはだ問題があったんですけど、
結局宗教的な話がそこに絡むんですね。
インドの宗教は非常にイスラム教の人も多いんですけど、 ヒンズ教の国ですよね。
インドってヒンズっていうことに多分違いないと思うんで、 こういう言い方ダメなのかな。
パキスタンは基本イスラム教の国で、 要するにインドの人の中での宗教で割れた部分があったわけですね。
そういう大きめの映画もあります。
とにかくそこに線を引いて、 多くの人がそれに巻き込まれて亡くなって、
とてももどもと同じ国なんだけど、 内戦起こるとものすごくなんか悪くなっちゃいますよね。
っていうところで、今核を突きつけ合うっていう事態になっていて、
何の話をしているかというと、何の話からこれになったのか。
線を引く話なんですよ。線を引くというのは、 ここに線を引くっていうのは、
とても難しいところに線を引かなきゃならないんだけど、 何を分けたいかは自明なわけですよね。
こういうことがとても多いですよね。
つまり、謎の近くで心理っぽいことをやって、 カウンセリングっぽいことをやって、
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僕なんかも急断されそうですけれども、 人に適当なことを言って害をこむらせる。
これは漠然とこういうふうに言えば、 実に良くないじゃないですか。
でも、じゃあここに線引けるかっていう話を始めてしまうと、
例えば宗教どうするのよっていう話が、 僕は真っ先に思い浮かぶんですよね。
果たして心理師というものをセットして宗教に、
あなたはもう日本には公認心理師ができたんだから、
どんなにつらいことがあっても、 お寺に相談に行っちゃダメですよって言えるかっていうことなんですよ。
宗教とは謎四角かっていう、
四角なんていうのはないも同然のケースも多々あるんだけど、
私は宗教の側にいたから、 その辺の感じはすごい分かる気がするんですけどね。
無理だろうなーって思いますね。
つくづく絶対に、ここに来て悩みがあって、
ある人はいっぱいいますよ、寺だからね。
それは1万出体ぐらいで、でかい寺になってくると。
30万人っていうことはないけれども、
まあ十何万人ぐらいな。
そこまでいかないか。
でもやっぱりね、
常時お寺に来る人の数というのは多くてもですね、
多くてもってか規模があまりにも増して多くてもとか言えないな。
でもまあ週に1回300人くらいは来るぐらいのお寺って結構ありますからね。
そこに行ってる人全員、
いわゆる心理職の人のところに行くっていう話にできるのか、
僕は絶対無理だろうと正直思いますね。
まず行かないって人がいるで、
全員行ったら何とかできるかっていう話もあると思うんですよ。
これも無理だと思うんですよね。
逆に今度は。
どこ行きゃいいのかって話も当然あります。
結局、
これはこれを全宗教に適用し、
全民間資格に適用するっていう風に考えると、
もう全然現実感が全くなくなります。
だから僕は無理だろうと思うんですよね。
難しいんではなくて不可能だっていう感じしかしないんですよ。
この問題がやっぱり普通の相談っていう話に直結するんだろうなっていう風には思うんですよね。
効果があるというか、効果の有無だけでこの話はたずかないんですね、絶対に。
当然お悩み相談に来ますよ、お寺に。
無料だしね、ここも非常に大事なポイントです。
無料なんですよ。
お金は一切取らない。
時間の制限も一切ない。
これは全然精神分析と相入れませんよね。
これは精神分析には効果があり、寺には効果がないと言い切れるかというと、
仮に言い切ったとしても、その人は絶対に精神分析を受けることはないだろうなっていうのは、
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私は絶対は言えないかもしれないけど、99.97%くらいないだろうなとは言えます。
ずっと寺にいた人間にはそういうのは身に染みてわかってる感じってあるんですよ。
そしてその悩みが必ずしも心理にばかり関係してる心の問題が全てと言えるかっていうと、
またそれも大変難しいところがあるわけです。
何よりもこの問題は間違いなく貧困と関係があって、果たしてそんな人がどんどんどんどん行くようになったと、
仮にして専門の心理職の人はそれでも困らないかなっていうのもあります。
1日100人近くの、100人は絶対ないか。1日でもたとえ10人だとしても。
お金は払えませんっていう人とか、昨日ちょっと泥棒してきましたみたいな人が来て、
どうしますかねっていうのが、そういう方がいいかなってことすらありますよね。
だから非常にこの辺の問題は僕は単純じゃないと思うんですよね。
仕事にならなくなりかねないという感じがします。
それが仕事である寺っていうものは、それで仕事にならないってことは起こらないけれども、
そういうシステムがある意味では、システムと言うとちょっと違う感じがするんだけど、
まあまあそういうことになるんだと思うんですよね。
これは多分、宗教は謎資格じゃないでしょって言われるかもしれないけど、
では謎資格とは何かっていう定義を改めて考えなければならなくなります。
公認の資格以外は全部謎っていう風にするのが一番きれいさっぱりしてるんだけど、
フォーカスをすると絶対宗教入っちゃうだろうなって感じがするんですよ。
宗教は除きますって言った場合、謎宗教みたいなものはじゃあどうするんだって話は当然出てくるだろうなと。
昔面白いというか、宗教関係者が見ると面白い映画がありまして、
宗教でビジネスをしようっていう映画なんですよね。
映画だったと思うな、お経本みたいなのを作ってね、本像みたいなのを作って全部作るわけですよ。
そこに信仰は一切なくて、とにかく金儲けのためにアルト教団を作るっていう話なんですけど、
お笑いの映画としては大変面白いんだけど、少なくとも僕が見ると面白いんだけど、
あれは絶対うまくいかないだろうなってのはよくわかります。
やっぱり宗教って畳には見えるケースも多分あるんでしょうね。
でも宗教ってのは僕はオカルトまで含めてですね、オカルトじゃない、カルトまで含めて全部信仰なんですよ。
あれは多分少なくとも教祖に相当する人は信じてないけどやってますって人は僕はいないだろうなっていう感じがするんですよね。
そんなことではやれるようなものでは全然ないんですよ。
ものの感じ方にもよると思うんですけれども、
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あれ見てる人はよっぽど、あれは映画作った人はもっと違う意図で作ったのかもしれないけど、
よっぽど楽に見えるのかもしれませんけれども、宗教的な生活ってのは厳しいものがありますよ。
例えば365日、1日の休みもない。
そしてそれが一生続きますからね、退職もない世界です。
ああいう朝、かなり早朝に起きなきゃならない。
本人がある意味大病を患おうと、なんだろうと起きなきゃならない。
コロナはすごい例外的な措置で僕もびっくりしましたけどね。
宗教が休業になる。
あれ社弁、お経唱えちゃうんでね、ああいう時もどうやるんだろうっていうのが本当にありました。
実に驚くべき現象でしたね。
お坊さんマスクつけて今日唱えてましたよね。
うちの宗派じゃなかったけど、私が見たのは、
いちいちマスクをつけたり外したりつけたり外したり、もうしなきゃならないわけですよ。
すごいなやっぱり、世俗に合わせるってこういうことだよなっていうのを痛感した感じがします。
まあまあ話は非常に脱線してますけど、
要するに謎資格を止めるというのは、
こういうたった一つのことをちょっと考えただけで、
非常に気持ちはよくわかるというか、
共感するところも多々ありますが、
僕なんかも謎資格かもしれませんが、
それでも共感しますけど、
でも無理だと思いますね、一言で言えば。
もう一つあるんですよね。
だからこれはリテラシーを高めるしかないっていう風に考えるというのも、
これも当然常識的な考えだと思うんですよ。
で、これは良いことだと思うんだけど、
これも結局はそれをやりさえすれば万事丸く収まるかというと、
そうはならないだろうなっていう感じがします。
でもこれは、これはそれこそですね、
その公認の心理側から努力をしていくしかないような気がします。
単純に言うと家庭の医学みたいな話になってくると思うんですよね。
私たちはやっぱりもうすごいリテラシーが上がってるんですよ。
例えば身体に関わる医療であれば、
心理に関わる医療に比べると、
全然僕らのリテラシーは最初からっていうのはおかしいんだけど、
十分高いんですよね。
だから私たちは自肥化に行って、
すいません、歯が痛いんですって言わないわけです。
絶対に。
ちょっと最近目の調子がとか言って、
歯医者に行くこともない。
これはそれだけのものが確立したっていう証拠なんですよ。
これが全く起こってないんだと僕は思うんですよね、心理に関しては。
でもここから先って難しくて、
そこまではいいと思うんですよ。
絶対お医者さんの方も患者さんのリテラシーに期待はしていないにしても、
もう無意識に、
15:01
何て言うんですかね、
依存している部分がありまして、
私たちは基本的には多くの患者が間違わない。
たまに間違う人はいるかもしれないけど、
腕が折れましたと言ってないかにはいかない。
これはなかなかのことなんですよ、本当はね。
だけれども僕らそうは誰も思ってないわけですよ。
常識だぐらいに思ってますよね、明らかに。
医者が選べるというのが既に常識だと思っている。
だから医者を選びすぎるということを、
お医者さんは多分不快に思うんですよ。
あまりに詳しいとか、必要以上に詳しいとか、
つまり適当に詳しいということが求められているわけですよ。
適当に無知であるということは、
それは同時に求められている話でもあるわけじゃないですか。
指切り真下で救急車呼ぶと啓蒙されちゃうわけですよ。
でも啓蒙ってのはつまり詳しくなれってことじゃないですか。
どの程度詳しくなればいいのかというと、
お医者さんにとって都合がいい程度に詳しくなってほしいんですよね。
名医者さんのところに歯が痛い人が100人予約しちゃったら、
もう仕事にならないじゃないですか。
つまり我々は完璧に無知であるということは期待されてないわけですよね。
でも一方で、これは心理の話に必ず出てきますけれども、
APAの今回の新しい論文では、
脅迫心検証はこのように扱われていましたけど、
先生の見解はっていう人は来てほしくないわけでしょ。
そういう話が私は読んだばっかりだったんですけど、
そこまで詳しくなることはごめんだというわけですよね。
つまり完璧に無知であってはダメだけども、
医者ぶってお医者さんが分かっているようなことを
もう分かっているぞっていう顔をされるのも嫌だ。
非常に適当なレベルで無知であってほしいというわけなんですよ。
リテラシーを高めるっていうのはきっとそういう問題を
引き起こすだろうなって気がするんですよね。
これはどんな専門の世界でも必ず起こり得ることで、
これもやっぱりとどめることは無理なんですよ。
リテラシーというか啓蒙活動して
リテラシーが十分に上がっていくということは、
十分以上に上がっていく人が必ず現れるわけですね。
そういう人もまた心理的な問題を抱えているということは
十分考えられますから、そういう人がやってきちゃうわけですよ。
これを押しとどめるってことは多分できないし、
嫌な思いというか不快な思いをその都度しなければ
当然ダメだと思うんです。
嫌なければどういうことが起こるかというと、
完璧に心理系の話には無知もうまいですってことに
私たちはとどめを置かれなければならないので、
そういう人たちが謎四角のところに行っちゃうのは
当然避けられない事態を招きますよね。
ある程度の知識がない限り、
謎四角と精神分析の違いって、
ここもう難しいと思うんですけどね。
精神分析って公認じゃないじゃないですか。
18:01
精神分析はどうなのって話は僕は絶対あると思うんですよね。
それを言ってしまうとめちゃめちゃこれは
嫌なものの見方をするって話になっちゃいますけど、
ポストっていうのは公認の四角じゃないよなっていう風に
思うわけですよ。
ポストは四角ですらないんですけれども、
謎四角になるの?みたいな話をすると、
もう全然綺麗には分けられないだろうなっていうのが
戻ってくる。
ポストを知ってるってのはどうなんだろう。
知りすぎなのか程よいのか。
それも難しいところだと思いますよね。
今の段階ではポストって言葉で何を意味しているのか
少なくともある程度分かるというのは
すでに知りすぎな気がするんですよ。
でもあれぐらいのことをみんなが知っているほうが
知っているぐらいでないと、
いわゆる謎四角という方向に行くのを
とどめられるっていう話にはならない気がするんですけどね。
そういうこれは難しいというレベルを
僕は全然超えちゃってる気がします。
私には現実的な意味ではする話なんですね。
っていうのをぐじゅぐじゅとしゃべっているうちに
グダグダモードに入るんだけど、
違う話をするつもりでいたんですよ。
トラケンが間もなくあるので
フリニチキャストっていうところでしゃべってくださっている
Zoeさんがですね、
トラケンのお話、
トラケンのCMをしてくださっていてありがたいことに。
その中で山崎さんと
朝起きられないの話を少ししたと。
あれは多分雑談だったと思うんですけど、
相談をしたというよりは。
でも相談と雑談をどう分けるんだっていうのも
さっきの話に絡みますけどね。
山崎孝明さんを今回ゲストでお招きしますから
さっきのポストの本を
プロデュースされた方なんじゃないかなって思ってるんですけどね。
企画したというのかな。
著者でもあり。
それはそれとして、
朝起きられない。
最近寒いし暗いしね、
本当寒いですよね最近。
ついに二宮も氷点下に入ったんですが、
二宮氷点下入ることは滅多ないんでね、
海沿いなんで。
温度下がりますけど東京よりは。
でもやっぱ氷点下行かないんですけど、
今日は行っていて、
寒いわけですよ。
ここも寒い。
布団から出たくないと。
まあそれは出たくないよねっていう話なんですけど。
この布団から出たくないっていうのはですね、
いろんな捉え方があるし、
Good Vibesのアプローチで言えば、
なんだろうな。
例えば罪悪感ってやり方が、
考え方があると思うんですよ。
今倉園さんはどちらかというと、
恐れや不安っていうよりは、
罪悪感と怒りっていう方向に、
21:00
少し重点を置き直しているようにも思うので、
罪悪感で考えてみると、
これは簡単だと思うんですよね。
寒くて眠いのに、
起きなければいけない。
つまり寒いというところに引きずり出されるような、
罰を受けるっていう、
そういうふうに捉えると。
これは出たくないですよね。
罰なんだから。
非常に厳しいものがある。
こういう感じを抱くっていうのは、
あり得ると思うんですよね。
小学校6年、中高6年、
そして12年学校に、
それこそ引きずり出されているように、
言っていた人は、
危機として言っていた子も結構いるからね。
だからそういう人にとっての感じとは、
違うと思うんだけど、
会社に行くときはやっぱり、
引きずり出されている感じがする人は、
結構いると思うんで、
これはですね、
罪悪感なんだと思うんですよね。
ある意味では。
そういうアプローチもあると思うんです。
で、私はすぐに、
頭に浮かんだのは、
移行対象なんですよね。
ユイニコットの。
ユイニコットというのは、
精神分析科ですけど、
移行対象という言い方をしたわけです。
ここに美容とか、
あんまり持ち出す感じがしないんですよね。
布団ってなってくると。
移行対象というのが何で来るかというと、
あれですよね。
スヌーピーさんの、
ライナスが毛布を持っています。
ちっちゃい子って、
よく毛布をお母さん代わりにするわけですよ。
心細い子は特にね。
つまりそれを移行対象と、
ユイニコットは呼んだんだけど、
どういうことかというと、
この番組の人にはお馴染みだと思いますが、
精神分析って結局、
ある意味では自立の話をしているわけですよ。
自立と依存っていうのかな。
親離れみたいな話なんですよ。
つまり、
現実原則と快楽原則、
あー逆だ。
快楽原則と現実原則っていうのは、
言ってしまえば子宮の中に赤ちゃんがいて、
ぬくぬくっとしている感じを
抱いていただければいいわけですよ。
でも現実に出なきゃいけない。
お腹の中から出るってのは、
現実に出るってことですから。
その時に、
いろんな考え方があるんだけど、
その時にトラウマになるっていう考え方も、
やっぱりありますし、
出生外症みたいな言葉もあるしね。
これはフロイトには反対されたんだけど、
そういう捉え方も
一つできなくはないわけですね。
手塚治虫さんの漫画によく出てくる、
カプセルの中にしか生きられない生き物、
あるじゃないですか。
ああいうイメージなんだと思うんですね。
でも、
カプセルって子宮よりは外に出ている感じがあるから、
移行しているわけですよ。
僕らはああやって、
少しずつ、
親を離れていくわけですよ。
移行していく。
だけれども、
そこのところに、
快楽原則から現実原則へ、
移行していくっていう考え方が、
あるわけで、
現実原則で生きなければいけないところまで来てるのに、
快楽原則で生きようと頑張るというのは、
24:01
精神の、
健康を損なうことになりますよ、
みたいな、
そういう文脈で考えても、
いいと思うんですね。
だから、
現実の中で快楽原則をやっていると、
辛くなるわけですよ。
現実は寒い、
現実は暗い、
ということは、
不愉快です、という話なんですよね。
だから、
そういう不愉快さに耐えられないと、
なんで私が、
現実に仕事をしなければならないんだ、
なんで私が学校に行かなければならないんだ、
という話になってきて、
こじれる。
そんなふうに考えるわけですよね。
簡単に、
ごく簡単に言うと。
で、
ミニコットって人は面白い人で、
いやいや、現実に出るんだけどね。
僕らは一生、
子宮の中で生きているように、
生きられるんだよ、
みたいな言い方をしたんですよ。
僕はこれは、
同じではないんだけど、
ある種の違いがあるんだけど、
実は僕は、
生きているんですね。
つまり、いつになっても、
私たちは子宮の中にいるように、
幸せに生きていられるんですよ、
っていうのがミニコットっていう人の
僕は言ったことだと思うんですよ。
ある意味すごく優しいって感じがするんですね。
どうすれば、
そんなことができるんですかっていうと、
移行対象を使いましょうって話だと思うんですよ。
つまり、
なるほど、子宮から出るから、
移行はしなきゃいけない。
親元を離れて、
例えば、
大学に行くために一人暮らししなきゃいけない、
っていうふうに、
移行はしなきゃいけない。
それは確かだと。
でもそれは移行なのであって、
快楽原則から現実原則に、
一足飛びにものすごくつらいところに、
急に移されるわけじゃないって、
移行は段階を踏みますよねっていう話。
その時に、
なんか小道具使いましょうよ、
っていうことなんですよ。
だからライナスは、
寂しい、つらい、もしかすると寒い、
寒いと寂しいっていうのは、
日本語の語源では一緒だみたいなことを、
誰か書いてたんだけど、
どいたけおさんかな。
つまり、毛布をつかんで、
毛布にくるまりながら、
現実に出ていくというのは、
移行段階にあるわけですね。
僕ら一生移行段階にあるよっていう感じが、
ウィニコットって人の言ってる話に近いな、
って思うんですよ。
だからウィニコットは、
セットで環境としての母親をやっていい方をしたんですね。
その時に子宮が、
環境としての母親だった時は、
もう文字通り環境イコール母親で、
0歳児1歳児は子宮から出たって、
やっぱりお母さんに、
しっかりと抱きしめられてるから、
やっぱり環境そのものが母親なんだけど、
僕らはやっぱり50にもなって、
お母さんにしっかり抱きしめられてます、
というわけにいかないんですが、
その時に環境としての母親の中にいるよ、
っていう風に考えるんです。
だから環境としての母親というものが、
いなくなって、
環境としての母親というものが、
27:01
いなくなりましたってのはまずいよっていう、
いくつになったってまずいよっていう、
たぶんあの話は、
僕はそういう感じがするんですよ。
そうなると正気を欠くよっていうことで、
その時に環境としての母親、
つまり自分を包んでくれる、
子宮みたいな存在を、
意識できるような小道具を、
移行対象と言うんです。
だから毛布はわかりやすい。
毛布にくるまっているっていうのは、
お母さんにくるまってるんだ、
っていう感じを抱くために、
毛布を小道具にしているわけですよね。
もうちょっと大きくなると、
今度はママごとセットみたいなものが、
ものを、
女の子は特に使って、
お母さんと一緒にいるっていうために、
ことを理解する、
なんていうんですかね、
意識しやすくするための小道具なんですよ。
あれまさに小道具ですよね。
お鍋のセットとか、
全部プラスチックですけど、
使えそうもないスプーンとかフォークとか、
それを使ってお母さんと一緒にいる。
つまり環境としての母親に、
依然として包まれているというか、
見守られているというか、
そういう感じを継続するために、
その段階から急に、
急に会社とかに行っちゃうわけに
いかないじゃないですか。
そうするとトラウマになるんで、
そんなことが起こらないように、
砂場でママごとセットを使って、
お母さんと一緒にいるという感じを
継続すると。
この感じを、
小学校に上がっても、
なんだろうな、
お気に入りの腕箱とか、
そういったものを使って、
お家でお母さんと一緒にいる。
なんなら先生はお母さんを使いしちゃって。
この辺に答えがありますけど。
女の先生とかだと、
まあいいわけじゃないですか。
昔はあれですからね、
保育士さんとは言いませんでしたからね。
保母さんとか平気で言ってましたからね。
今当然これはジェンダーの問題で、
ダメなんでしょう。
でもこういうところに、
僕はこの時代ならではの厳しさがあるな、
という感じがするんですよね。
保母さんと保母さんは、
我々、社会が平等でなければいけないという観点から、
そうだと思うんだけど、
子どもの観点からはどうかな、
というのはあると思うんですよ。
まあいいや。
先生が例えば女性だった場合は、
お母さんを使いにしちゃうと。
そういう話は、
小学校では山のようにありますけど、
なんなら保健室に、
女の先生がいると。
それがお母さんの代わりになる、
みたいな。
こうやって移行対象というものがあってですね、
移行空間が広がっていくわけですよ。
この時にミニコットは、
非常に表現が独特なんで、
私、
自分の家に実はミニコットの本って、
偶然あったんですよ。
子育てをする時に買ったのか、
あるいはうちの親が買ったのか、
知りませんけど、
ミニコットはなぜ遊ぶのって本が、
ぽんとあって、
昔読んだ記憶があるんですよね。
だからこの辺の話ってどこかで聞いたな、
みたいなふうに思ったんだけど、
昔よくわからず読んだんですよね。
で、
30:01
そのミニコットの表現がまた独特で、
遊ぶって言うんですよ。
これは遊びだと。
つまり、ままごとなんて完全に遊びですけれども、
学校行って、
お気に入りの筆箱を使ってやってることも、
たとえそれが授業だとしても、
遊びなわけですよ。
なぜならそれは、
何かそこに、
空想的世界を見てるからだと思うんですよ。
ある意味だから、
お母さんごっこをしてるから。
で、
それはいつまでも続くっていうのが、
彼の見解だと僕は思うんですね。
僕は野球好きなんで、
よく野球持ちだすんですけど、
野球は遊びですよ。
野球場ってある意味、
意向対象だと思うんですよ。
それを小道具にして、
依然としてここに、
あれって現実じゃないじゃないですか。
これはホームランですっていうのは、
それは空想の世界の話ですよ。
これをホームランだと決めるから、
これはホームランなわけですよね。
だからこれは空想なんですよ。
ある種の現実の場を使って、
僕らはその上に空想世界を乗っけて、
遊んでるわけですよ。
これができる限り、
人は正気に生きていける。
つまりこれができてるってことは、
自分たちの母親と共にあるっていう、
意識の上での話ですよ。
を、僕は、
彼が言ってるんだと思うんですよね。
つまり、私は、
Zoeさんがですけど、この場合、
布団から出られないっていうのは、
地球だって思うわけですよ。
その中にいるんだって感じがある。
そしてその外は、
過酷な現実ってやつなので、
だから快楽原則と現実原則が、
ここで両方あるわけですよ。
別にこんな話はしませんけど、
ここでしてるだけですけどね。
何もこう見る必要もないんですよ。
これは僕の見方なんですよ。
ここから出るときに、
必要なものは、
意向対称なんですよ、
私の考えでは。
出ても、地球であることに、
違いはないと思えれば、
出るのが辛くはならないだろう、
っていう感じなんですよ。
別にZoeさんは、
出てこれなくなってるわけじゃないので、
出たくないっていう程度なんで、
何らこれに問題があるとは思わないんで、
僕は別にこういう話しないんですけど、
するとすればね、
こういう話になるんだろうなと。
で、その時に、
一見したところ、僕らは、
いやいや外は暗くて寒いじゃないですか、
つまりそれは事実じゃないですか、
って思うんですよ。
そこに僕は、
真実じゃないものがあると思うんですよね。
これと、
同じじゃないですけども、
極めて似たような、
解釈ができることを、
フラゾの啓導さんは、
Good Vibesで、
罪と罰って話でされてると思うんですよ。
罪と罰は主観なんですよ。
主観っていうのも変だけど、
この場合、別に罰は、
現実としては与えられないですよ。
お前暗がりで裸で歩け、
みたいな罰を受けてるわけじゃない。
そこは、
強制収容とかではないんだから、
暗くて寒いのは、
33:01
単に世の中だったら、
なんていうんですかね、
気温がそういう0度で、
まだ日が昇ってないという、
現実がそこにあるだけであって、
そこに罰が待ち受けてるわけじゃないわけですよね。
つまりそれはやっぱり、
投影なんですよね。
つまり、この投影の仕方をやめたらいい、
っていうことだと思うんです。
Good Vibes的に言うと。
で、
ウィニコット流に言うと、
ここにお母さんを見ることは、
当然できるんです、
と思うんですよ。
できなきゃ僕らは、
現実を生きられない。
つまり、人間の生き方っていうのは、
いつもいつもそこに、
何かを見る。
この例でですね、
これはウィニコットの本じゃなくて、
オグデンっていう人の本にあったんですけど、
ある子供が、かなり幼い子ですね。
1歳か2歳なんだと思うんですけれども、
2歳か3歳ぐらいか、
お風呂に入った時に、
水恐怖症になっていたために、
その子が、それを克服する過程で、
お湯を使って、
お茶ごっこをする。
これはすっごい僕は、
いい事例だなって思った。
こんなに簡単な、いい事例は、
出てこないと思うんだけど、
この時はいい事例があったってことなんですよね。
お母さんとお茶をふーふーして、
お茶ごっこをすると。
そうするとその子は、
お風呂に入れる。
なぜならば、
それはもう、
人とは異なるものに、
見えるからなんだと思うんですよ。
お茶ごっこをするための、
お母さんと一緒になるんですよね。
つまりそれは、
お風呂っていうのが、
小道具になって、
遊び場に変わるわけですよ。
そういうものの見方から、
その子が物を見ることができるようになると、
つまりお風呂場で遊べるわけですよ。
お風呂場で遊べるようになれば、
お風呂場が怖いものではなくなる。
これがつまり、
治療の展開なんだろうな、
って思ったわけですよ。
僕らはその場を、
遊べる空間にしなきゃいけないと。
多分これを、
カウンセリングの場で、
実際にやるんでしょうね。
カウンセラーと、
クライアントが、
その場を使って、
要するに、
行く部屋なんだろうと、
精神無敵ある部屋で遊ぶと。
あれ遊びですよね、ある意味では。
だって転移が起こるわけだから。
お母さん扱いするじゃないですか。
精神分析家を。
そして自分はその時子供になったりするわけじゃないですか。
これ完全にごっこ遊びですよね。
こういうことをやることができるように、
あちらこちらになりましょうねと。
現実を思いっきり現実だと、
いう風に受け止めてしまうと、
私たちは、
現実の中では生きていけなくなる。
先に現実についての過酷さを、
捉えてしまっちゃダメなわけですよ。
子供がですね、
ゼロ歳児って意味ですよ。
生まれる前の子が、
これから受験戦争もあり、
就職で、
ひどいことを言われ、
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何十年も勤めた挙句、
泥雑巾のようになって死ぬのかと思ったら、
絶対子供は生まれてこなくなっちゃうじゃないですか。
こういうことを、
僕らはでもやっちゃってるわけですよ。
多分。
だから布団から出にくくなるわけですよね。
出てきたくないというものを、
頭で先に作り出す。
しかもそれが、
非常にこう、
罪と罰の世界になりやすい。
今の話は全部罪と罰の話ですよ。
なんか受験が罰みたいになってるし、
つまり勉強が罰になってるし、
就職も罰になってるし、
通勤も罰になってるし、
仕事も罰になってるし、
それには絶対嫌ですよ。
つまりこれは、
これも一つの、
イリュージョンなんではあるんですけれども、
非常にこう、
自分にとって不都合な
イリュージョンを作り出すことによって、
出たくなくなっていると。
つまりここにしか
自分の母親は存在しないんだ
っていう風になると、
人は動けなくなるわけですよね。
トラウマになってしまうものです。
そうじゃなくて、
どこにいても、
母親と一緒にいるという意識は、
持続しよるっていう話なんだと思う。
そのときにただ、
現実には母親はいなかったり、
いても遠かったりするから、
母親代わりに
意向対象というものを
小道具にして使って、
母親がいる意識というものを、
そこに実現するような、
ものの見方を獲得しましょうと。
そのときに、
意向空間という空間が、
どこに現れるのかわからないような空間ですけど、
私なんかでもよくわかる気はするんですよね。
例えば寺というのは、
非常に意向空間になりやすい
仕組みになっている気がする。
もちろん住職は母親ですよ。
だから寺に来るということには、
ある種の人にとって、
話の途中に戻りましたけど、
意味があるわけですよね。
ここに謎四角の難しさが、
僕はあるとよく思うんですよ。
つまり、
この意向空間を
暗出、
出現させられる存在が、
それが、
例えば謎四角であったとしても、
民間のデタラメな、
デタラメに見える、
公認から見ればね、
デタラメに見える理論、
理論にもなっていないような話でしかないかもしれないけれども、
でも、
そこに理論と言えるようなものが、
常にあるかどうかは、
相当疑わしい。
例えば、
お風呂場が、
お茶ごっこの場になります。
理論でも何でもないじゃないですか。
それを遊びの場として
見るという理論を、
ミニコットが打ち立てたから、
メタ的にすごいんだけど、
その場が、
遊べるっていうのは、
別に公演だから、
ミニコットはそう言ったんだと思うんですよね。
お母さんになるのに、
高い学歴は何もいらないんだと。
要するに、
こういうことはお母さんというのは、
何にも知らなくても、
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みんなできるんだっていう話をしたわけですよね。
で、
そうなってくると、
つまりそれは、ある意味では、
感覚的に宗教的なことをやることができる人が、
出現しても、
全然不思議はないわけですよ。
その人が、
高学歴でも何でもなくて、
精神分析家になるには、
大学院修士卒業相当がいるんだけど、
そんなものは全くなくても、
つまり実に認知器臭い背景で、
実に認知器臭いことをやっているように見えても、
その世界に、
意向空間を出現させられて、
その人が、
権威を引き受けるということを、
何にも意識せずにできちゃう、
っていうケースは、
起こると思うんですよ。
そこに行ってる人は、
他のところは行きたくないですよ、はっきり言って。
そこに行っときゃいいっていう風に感じる。
そこで、
もっともらしいお説教があるとか、
もっともらしい人生、
相談ができるとかいうのは、
はっきり言えば、
二の次だと思うんですよね。
その辺、
松原さんが書いてたんですよ。
他だから、
いるのはつらいよという本は、
おおむね丸ごと今のような話だと思うんだけど、
例えば、
居心地の悪い空間に入ってね、
デイケアみたいなところで、
新しい人が入って、
松原さんが新人として入るみたいな話なんだけど、
そこに入って、
居場所がない気がすると。
居場所の有無ってのは、
感覚の問題ですから。
その時に、
テレビを組むとか、
あるいは、
テレビを一緒に見ると。
テレビは完全に、
移行対象なんですよね。
そのうち、
テレビに熱中すると、
そこに居場所ができるような感じがする。
それはつまり、
環境としての母親というのが、
心の中で作動し始める、
瞬間なんじゃないですか。
ここに何があるのかっていうと、
別に何もないわけですよね。
そこに何か、
これといったものがあるかっていうと、
それは大変疑わしいんですけれども、
でもそんな空間、
このようにザラにあるじゃないですか。
バス絵のというか、
埼玉県の奥地にある温泉のところにも、
そういうのありましたし、
そこに、何か知らないけど、
どっかから来たような人とか、
地元の人とかが、
お年寄りが多かったですけどね、
タムロしていると。
あれが謎四角の大きなポイントなんだと、
僕は思うんですよね。
そしてこれが、
ゾエさんが朝寒い中、
ぬくぬくしている布団と、
ほぼ同じ機能を持っていると思うんです。
あそこから出たくなくなってますよ。
多くの人はね。
日が半日中ぐらいいる人、
これ寺にもいるんですよ、実はね。
だから私はよく知ってるんですよ。
何なら、
うちのお寺も言っときそうしてましたけど、
でかいスクリーンのテレビ置いといて、
それをぼんやり眺めている人もいるんですよ。
これが宗教の、
少なからぬ部分を、
構成しているケースは、
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あるんですよね。
そしてそれは、
僕はやっぱこれを環境としての母親と、
いう意味がいないじゃないかと、
思うんですよね。
これは、
公認の真理の世界が、
代替として賄うべきであるから、
そういう人はこっちに行かず、
そういう怪しいですね、
花祭りの日に、
何かこう、
お豆を食うと、
いいことが起こるみたいな、
そういうわけわかんない話を聞いてるんじゃなくて、
もっとちゃんとした話を聞くべきなのかもしれないんだけれども、
そうはなかなか、
現実には行かないんですよね。
つまり、
それだけ、
僕らにとってこの、
環境としての母親というのかな、
それと一緒にいるという感覚が、
やっぱりこう、
なんていうんですかね、
心の規定みたいな言い方をするんですね。
ベイスみたいな、
ベイゾーンみたいな感じなんですけどね。
規定的なものになっちゃうので、
人間というものは。
そして、
全ての時間をそうだとは言わないまでも、
僕ら大半の時間は、
そうですよね。
センターポールとか、
電光掲示板とか、
ファール、
ファールゾーンとか、
そういうものを、
僕らは作り出すじゃないですか。
すぐに。
人と共有できる空想というものを、
作り出すわけじゃないですか。
ホーム側とか、
安永側とか、
全部空想の世界ですよね。
そんなものはないわけだ。
約束ごとにしか過ぎない。
でもその上でしか生きてないじゃないですか。
その上でしかね。
外に出ればすぐに信号機がある。
そしてあれに従ってますよね、みんなはね。
従わなければやっぱり、
時間が回らないし、
日本では時刻表というものを、
世界のどこを見渡すよりもですね、
やっぱり機能してる感じがするんですよね。
あれ約束ごとですよ。
事実では全くない。
なんだけれども、
僕らはああいうものがないと。
とても困るんだと思うんですよ。
地図ってものがまさにそうだし、
地図。
分かんないところに行ったら地図見ますよね。
移行空間は常にそこにあるし、
移行対象も常にあるんです。
人間だけですよね、
ああいうものに頼って。
だけれども、とても移行できる幅を広げている。
そういう動物っていうのは、
うち昔犬飼ってましたけど、
見知らぬところに行くのが
すんごい嫌がりますよね。
ある場面、ある線から外に出ると、
すっごいやっぱり落ち着かない感じになったり、
不安があったりするんですよ。
人も本当はそうだと思うんですよ。
だから僕らは、
移行対象を使ってるんですよ。
ここはどこであるのが分かるとか。
標識ってのはそういうものですよね。
そういうのを多文に使いまわして、
すぐに自分の空間にすることができるから、
割とどこにでも行けるわけですよ。
私、昔ドイツ行った時、
つくづく思いました。
ドイツは、
ある種のウィンだ、
ウィンにいた時、
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英語がすごく乏しくなる。
めっちゃ心細くなる。
すごい恐ろしくなるんですよ。
他の県にいると、
だいたい英語というものが
スロバキアとか、
ハンガリーとかで、
何らかの形で英語で
まかなえるって部分があるから、
そこまでやっぱり僕らは、
移行空間を使うんですね。
ここは結局は、
日本と同じようにしていられる部分が
あるはずだ。
効果を使うっていうのはそういうことですよね。
プロイリンみたいな、
よくわからない通貨の名前だとしても、
それはやっぱり、
円と同じように使えるはずだっていうのを、
円に使えるんだけど、
そういうのをわかっているから、
できるわけですよ。
そこに行くこともできるし、
いることもできる。
だからいるのはつらいっていうのは、
つまり移行対象が見つからないから、
この場所では遊べる気がしないという、
ままごとセットがないので、
とても困りますという話なんだと思うんですよね。
お母さんがいなくなりました。
だからいるのがつらいんだと思うんですよ。