2022-09-14 29:32

【671GMV】自分を傷つけるのは自分

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超自我が自分を罰するとき、自分にキズがつく
00:02
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
9月12日の20時40分ですね。
収集の名月が、あ、昨日だったけれども、
相変わらずいい、好きようの空で、
おはようございますがあんまり会わない。
まあまあ言わなきゃいいんですけどね、こういうことは。
なんとなくただ言っちゃってると言っている感じですね。
今月のですね、末の頃、つまり、
20何日だっけ、27日かな、
25日だ、日曜日の16、15時からですね、
岡野淳さんとZoeさんという方と3人でやっている
3カードの第一回のセミナー。
この3カードっていうのはですね、
ノートのマガジンなんですよ。
で、こちら一応有料になっておりまして、
で、このセミナーをオフラインでやってみようと
言ったことになりまして、
今回はこの3人でやるから、
久しぶりにタスク管理の話、
全然久しぶりじゃないですね。
タスク管理の話ばっかりだなって感じがしますけれども、
そのうち漫画の書き方とかにすればいいのかなと思うんですけど、
僕漫画書けないから、
そうすると参加できなくなるんですよね。
そんなこともいろいろ考えつつ、
オフラインで、オフラインじゃない、
オンラインでセミナーしますと。
もうなんかオフ会みたいなノリにしたいんですけど、
そうするとちょっとこうね、
来る理由が失われる気もするんですよ。
一方で、まさにレクチャーをするぞっていう内容になってくると、
やっぱりこう内容が必ずタスク管理とか、
限定されがちだなと思って、
その辺を今はちょっといろいろ私も考えております。
私だけでやるんだったら、
心理系とかのもいいんでしょうけれども、
その辺もまた非常に微妙なところがいろいろありますよね。
そういったわけで、とりあえず、
9月25日に私と岡野さんと大添さんなので、
この辺の話を聞きたいといった方がいらっしゃいましたら、
検討いただけるとありがたいです。
で、ここのところずっと、
ちょっと自我心理学的なですね、
どっちかって言えば、
フロイトの説明としては至って分かりやすい方だと思うんですね。
だからこっちの話すればいいって感じもするんだけど、
こっちの話ばっかりしてると、
いかにも分かりやすそうでいて、
肝心なところがよく分からないっていう事態を招くんです。
私がまさにそうだったんですね。
こういう話ばっかりある意味に習うわけですよ。
習ったんですよ、アメリカだからね。
そうすると何が起こったかというと、
結局よく分からなかったと。
フロイトの説明としては分かりやすかったんだけど、
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結局トータルでは何かよく分からなかったという事態を招いたんですよ。
で、読んでてさっぱり分からないメラニー・クラインとかののを、
ずっとここのところ追っているうちにですね、
昨日非常に割と突っ込んだ自分語りをしましたけれども、
ようやくですね、フロイトが何を言わんとしているのか、
自分自身の結局でもかなりネガティブな体験も含めて、
やっと分かったといったところなんですよね、ある程度ね。
少なくとも奨励ドラといったようなものであればですね、
そういうことねと、
なんか実に腑に落ちたというかしっくりきたんですね。
それが私は結局アメリカでの自我心理学を習った時には、
分からなかったんですよ。
奨励ドラを読んで面白い話だなと思ってたけど、
正直まるでヒルメロみたいだなって、
昭和のヒルメロってあんな感じのもの結構あったんですよね。
で、私自身の経験を絡めてみないと、
どうしてこれをいろんな意味で、
当時フロイトという人が出てこなければ扱えなかったのかとか、
これが扱えるということが将来どのようにですね、
まだ私にはよく分からないところが多々ありますが、
統合主張書のような非常に普通には理解しがたい話を、
このドーラの奨励の延長線でなぜ理解できるのかといったことがですね、
僕自我心理学からでは分からなかったですね。
いまだに非常に難しいなって思うのが、
例えば誰の言葉だったか対象関係論の話の中で出てくる、
機械な対象っていうビザーレオブジェクトかな。
すっごい聞くんだけど、どこをどうロジカルに追っていけば、
こういう話が理解できるようになるんだろうと。
例えばATMに私は見張られているとかですね、
あるいはそうだな、エアコンが生きているみたいな、
そういう感覚ですね。
私にはですね、それが今はいくらかは掴める感じっていうのが少しあるんですよ。
子供の頃、子供の頃なんですよね、やっぱりこういうのって。
子供の頃、車の正面を見ると顔っぽく見えると。
多分そういうデザインって意識されてるんだと思うんですけど、
僕はそれが結構嫌でしてね。
車の正面がなんか顔っぽい、
特になんか機械な感じの顔に見えるのが嫌だなーみたいなのがあったんですよね。
これってなんかこう雲にお化けを見るみたいな、
雲って空に浮かんでる白いやつで、
お化けを見るみたいな話と似てるんだけど、
言ってみればそれロルシャカインク…
ちょっと難しいですね、その辺は。
でもまぁあるじゃないですか、
そういうお化けを見ちゃうみたいな。
そういうところとの兼ね合いを
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いろんなところに見出していくそのロジックの中に、
やっぱり昨日もお話ししたSっていうもの。
そういったものを非常にある意味不適切な形で取り扱うっていうのかな。
ただ衝動って言っただけじゃやっぱり抽象的すぎるんですよね。
長寿がも同じで、長寿がってやっぱり
乳って言われてみて初めて分かる部分があるんですよ。
ババレコ先生は自我心理学から見た場合、
例えば長寿がって何なんだろうと、
対象関係論者の言ってる場合はどうなるんだろうって言ったときに、
内的対象表彰ってもう六文字塾語になっちゃうんですよね。
倉園さんと一緒にやっている書き上げ塾というところでですね、
漢字の連続は避けましょうと。
漢字連続何文字とかそういう話をなるべく漢字連続は避ける。
字質三次は避けるみたいなのがあるんだけど、
内的対象表彰だと六次じゃないですか。
しかも意味分からんみたいなね。
内的対象というのは赤ちゃんにとってはまず最初に母親だと思うんですよね。
母親というものを心の中にインストールしてしまう。
そしてそれは部分対象に絶対なりますよね。
顔だけとかね、せいぜい上半身とか。
このさらに顔の表面ですよ。
内的対象の表象だから。
よく佐々谷さんの勝雄くんが何か悪いことをしようとすると、
奈美平さんの顔が浮かんでくるじゃないですか。
あれが超自我だって言ってるわけですよ。
おかしくはないと思うんですけれども、
私はやっぱりそれだけで納得できるかなっていうと微妙だなっては思うんですよ。
ただ、自画心理学の場合、超自我だの、Sだの。
さもそういうふうにして説明がつくような顔をしてますけれども、
じゃあその超自我ってなんだって話になってくると、
途端にあれって感じがするじゃないですか。
最近、昨日の私自身がヒステリーっていう話をして、
さらにその前にタスクシュートで対抗っていうものの話をしましたよね。
最近、つくづく具体的に考えようとした場合、
ちょっとした対抗っていうものがすごく私なんかの場合の行動の鍵を握ってるなと思うんですよ。
結局こういうことなんだと思うんですよね。
超自我って言葉を使うならばなんですけれども、
私たちその第二領域とか言うじゃないですか。
あるいはダラダラした時間に対して充実した時間って言うじゃないですか。
僕はその基準は何なんだっていつも考えてたんですね。
緊急ではなく重要なこととかって言うんだけど、
全然それでは正直言って十分ではないと思うんですよね。
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グラデーションがいっぱいありすぎる、緊急とはそもそもいつからを意味するのっていう感じで、
緊急ではないとは何を意味するのかと。
例えば緊急ではないが締め切りがないとなってくると、
例えばそうですね、プログラミングの勉強は緊急ではないが大事だと。
なぜ大事だとわかるっていう問題が僕の中では消えないんですよ、絶対に。
ずっとプログラミングの勉強してたけど別に大事じゃなかったですってことはあり得ると思うんですよね。
大事とは誰が決めるんだと。
長寿画だと私はここのところずっと考えるようになったわけです。
この長寿画っていうのは対象関係論的に内的対象表彰みたいな、
奈美平さんの顔をいちいち思い浮かべないんですよ。
奈美平さんがプログラミング大事だぞとかって言ってないじゃないですか。
多分あの時代のことだから。
だから長寿画といったものが私たちの中にいてね、
それの大事だと言ってるものに合わせていくんですよね。
そういうふうに考えていくと、これを対象関係論でどう考えるのかっていうのはまた別途考えていて、
なんとなく僕はイメージがつかめてきて、
だいぶこういう世界のややこしさの尻尾みたいなものがつかめてる感じあるなと思うんだけど、
まずはとりあえずただ長寿画でいいと思うんですよ。
つまり長寿画方面に行くということは何をやってるかというと、
Sの要求ばかり聞いてないで、ちゃんと長寿画の言うことを聞けと。
Sの言うことばっかり聞いてないというのは、
例えば、いやもうお母さんとべったりしていて、
もうすべてを忘れて退校していたいんだよと。
そういう快楽原則なわけですよ。
でもそこを締め出せと。
もっと文化的に社会的な要求にのっとってちゃんとやれと。
結局のところトイレットトレーニングってそういうことですからね。
いやいや好きにやってたいんだよっていうのに対して、
こっちが対抗側ね。
ちゃんとやれと。何でもかんでもそうなんですよ。
このちゃんとやれっていうのを最初にメッセージ発してきたのは、
それは親でいいと思うんですよね。
ちゃんとやれを最初にしつけるのはほぼ間違いなく親なんで。
学校だとは僕は思わないんですよ。
トイレットトレーニングっていうのがやっぱり子供には一番インパクトを最初に残すだろうなと。
そういう話はカウンセリングでもしょっちゅう出てきますからね。
トイレットトレーニングがこじれるっていう話は。
トイレットトレーニングは学校で最初にするものではないと思うんですよね。
ほとんどの子供にとって。
特に僕らの時代はそうでした。
私が子供の頃はやっぱりそこまでは幼稚園とか保育園でバッチリはやっちゃくんなくて、
結構幼稚園でお漏らしすると、
この話したことありますね、ポッドキャストで。
幼稚園でお漏らしすると厳しく言われてたんですよ。
今あんなに言われないなっていうことを、
私は子供を持って知ったんですけど、
あの時は結構ひどかったですね。
僕とか引っ叩かれてましたからね。
そういうふうに考えてみると、
最初は親なんですよね。
幼稚園ではそういうのはできて当然だよって扱いを、
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僕の子供の頃は受けていた。
今の時代のほうが緩やかだから、
当然別の言い方をすると長時間分散しがちになると思います。
親に集中しにくいと。
そのほうがベターだと僕は思いますけれども。
そうやって考えていくと、
この第二領域であれ何であれ、
充実した時間とか、
ちゃんとやるとか、
ちゃんとやるってまさにこの言葉なんですよ。
だからこの先本当は何があるんだろうっていうのに対する答えはないわけですよ。
第二領域をずっとやっていくと本当に、
本当に人生で幸せになれるんですかという答えはないんですよ、
僕が考えるに。
そのほうがおそらく受け入れられやすくなるだろう、
世の中、社会、文化に。
なぜならばそれは世の中や社会や文化から来ているものだから。
長時間の要求に従っていたほうが、
自分が充実している感じがすると言ったことは十分あり得ることなんですよ。
第二領域をずっとやっていると、
なるべくこのダラダラ時間を締め出し、
対抗時間を締め出し、
ゲームをやりたい自分を締め出し、
漫画を読みたい自分を締め出して、
子供っぽくなる自分ですよ。
全部これ今の子供っぽいですよね。
子供っぽいっていうのは何を意味しているかというと、
過去にそれはやれてきたっていう意味なんですよ。
シューティングゲームとかってそうですよね。
普通先へ行けば行くほど難易度上がっていきます。
僕多分思うんだけれども、
シューティングゲーム上手い人っていうのは、
簡単な面に戻って楽しむと思うんですよ。
みんながみんなそうじゃないかもしれないけど、
簡単な面をスイスイクリアできる自分というものが、
楽しいって感じが、
つまり斜めぐらいまで行ったときに、
一面をやり直すと楽だ、楽で楽しいと。
最初から楽だったわけじゃないんですよ。
斜めぐらいまで行けるようになると楽になるわけで、
それをやって自分の有能感に浸るってことは、
十分考えられる。
これが対抗だと僕は思うんですよね。
前の面に戻るってことです。
最初から漫画を読むのが簡単だったわけじゃないし、
最初からアニメを見るのが簡単だったわけでは、
決してないと思うんですね。
ただ戻ってやったときには簡単ですよね。
つまり子供の頃にできたこと、
思春期の頃にできたこと、
学生時代にできたことをやり直すと楽なんですよ。
前へ戻れば戻るほど楽ですよね。
これが対抗だと僕は大体思うんですね。
大体ですよ。
食事や睡眠もそれで説明できるかというと、
またそれはちょっと違うところもあると思うんだけど、
とりあえず大体はこれで説明つくと思う。
特にタスク管理中の脱線だの、
仕事中の逸脱だの、休憩だのというのは、
全部こういう意味だと私は思うんですね。
対抗する方向に向かうのがSへ、
自画がS寄りになっていくんだし、
現実原則に向かっていくっていう、
現実的に向かっていくというのが、
多分長自画の力を借りてそっち側に向かっていくと、
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ちゃんとやりなさいねっていう方向、
多少やっぱり用いないと、
多分自画単独でSと自画だけだったら、
そんな方向に向かわないと思うんですよね、なかなか。
どうしたってやっぱり一歩踏み出すためには、
長自画的なものが必要になってくるでしょう。
で、長自画がじゃあ理想を、
人生の理想像というものを示してくれるかというと、
くれっこないわけですよ。
だって親ってそうじゃないですか。
あなたこれやっとけばいいんだよ。
勉強しなさいって言ってるのは、
思春期の頃に逆襲されるじゃないですか。
若さの言う通りにしてれば幸せになれるの?みたいな。
要するに思春期の犯行ってそういうことですよね。
で、それはそうじゃないですよね。
そうじゃないからこそ、よくこれも、
カウンセリングではテーマになりますが、
親の言う通りにはするんだけれども、
それ以外のことはできないという、
そういう育てられ方をした時の悩みというものがあるわけですよ。
長自画の言う通りにきちんとしてきたと。
長自画の言う通りにきちんとするってことは、
脅迫症っぽく、脅迫神経症っぽくなっていくっていうのが、
バーバラエコさんも本の中で書いてたりしますけれども、
どの本にも時々そういうのは遭遇しますね。
とにかく長自画の言う通りにしていると。
長自画の言う通りにしていくと、
何が起きるかというと、
私は何がやりたいのかわからないんですって答えが出てくるんですよ。
つまり自画はもう、ある意味、
自分の機能を半ば放棄しているわけですよね。
本来の自分というのは、
長自画だって自分だし、Sだって自分だし、
つまり全部自分なわけですよ。
この3つセットで自分ですよね。
本当はもっと他にもあると思うんだけど、
とりあえずこの3つ全部で自分ですよね。
長自画の言う通りになってますってのは明らかにおかしいわけですよ。
長自画っていうのは、
全部が全部そうだとはさっきも言った通り思わないんですけど、私は。
内的対象表彰なわけですよ。
つまり勝岡くんは並兵じゃないじゃないですか。
まして並兵の顔じゃないじゃないですか。
並兵の顔が満足する通りに勝岡くんが動くようになってしまったら、
もう勝岡はどこにもいなくても結構だってことになるじゃないですか。
これなんですよ。脅迫症ってのはきっと。
とりあえずトイレをきちんとしていればいいとか、
部屋がきちんと片付いていればいいとか、
家計簿がきちんとついていればいいとか、
これが象徴的だってされてますね、脅迫症では。
そういうことではないですよね。
引き出しの中がきちんとしてますとか、
そういうことではないですよね、人生ってのは。
朝から晩まできちんとしたこと以外は何もしません。
けれども私のやりたいことはこの中のどこにもありませんってのは、
やっぱりどっかちょっと奇妙な感じがあるわけで、
それはあまりにも自画が長自画に取り込まれているというのか、
長自画の支配下にありすぎるというのか、
長自画が自己実現しちゃっているというのか、
そういうような微妙さがあるということです。
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ここから少し話が逸脱するんですけどね、
要はタスク管理するなりタスクシュートするなりでも、
この集中関係ではダメだってことだと僕は思うんですね、最近。
長自画が偉いんですっていう事態は何とかして逆転させなきゃならない。
少々混乱するかもしれないしカオスかもしれないけど、
やっぱり自画が中心に来ないといかんと思うわけですよ。
少なくとも自画心理学だったら絶対そういう発想を取ると思うんですね。
だって長自画っていうのは自画のために存在するんだって逆じゃないですから。
Sも同じですけどね。やっぱりSが一番偉いとかはダメなわけですよ。
これは今の我々はおそらく全員、それはダメだろうっていうのはすぐ分かるんで、
Sが中心に来るとか、S一辺倒でいきたいっていうのはよっぽど極端だと思うんだけれども、
長自画一辺倒で何がいけないのっていう話ってあると思うんですね。
実にこれは簡単なんですよね、答えは。
長自画というのは言ってみれば表彰ですから、表彰ではないかもしれないけれども、
表彰だっていう一派もあるぐらいなので、内的対象表彰が一番偉いんですっていうのはやっぱりダメだということですね。
この内的表彰対象っていう言い方はともかくとして、長自画は我々の時代で日本の文化なのかもしれないけど、
ある意味一番猛威を振るってるのが例の傷つけるってやつなんだと思うんですよ、一つは。
もう一つはね、脅迫症ってさっき言いましたが、この傷つけられる、傷つけたくない脅迫症っていうのは、
すごい力を今持ってるんだよなと私は思っておりまして、それをまずテーマにこの話をまとめるとき、
書いたのが顔色をうかがう本だったんですね、私にとっては。
本当につい最近も倉園圭三さんとそういう話をあるGood Vibes Factoryというオンラインコミュニティの中でもしたし、
倉園さんその後、まだ私聞いてないんですけど、ポッドキャストでも喋られたみたいなんですね。
こちらはぜひ聞いていただきたいんですけど、とにかく私の発想の中では、長自画の命令なんですよ、人を傷つけるなと。
強いんですよね、非常に。
で、人を傷つけるなという命令を長自画が出して、私たちはそれに相当寄っている、つまりそれを相当支持しているわけですよ。
人を傷つけないというのは正しい。
これ相当なもので、さっきの第2領域と同じですよ。
根拠は何かっていうのはもうダメなんですよ、問えないんですね。
あまりにもこれを受け入れてしまうと、人を傷つけるのは悪だよね、疑問の余地ないよねってことになっちゃうんですよ。
でもし傷つけたらどうなるんだよと、長自画に罰されるんですね。
これが私たちが人を傷つけたときに非常に傷つくという、僕の解釈におけるからくりなんですね。
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この話はもう少し深掘りしつつ、もっと別の機会に時間をかけてやりたいんですけども、
もう一つこれの兼ね合いの中で、今言っただけでも私ライファックというのかな、
タスク管理系と仕事をする上における自我心理学というものの貢献度はでかいなと今思っているんですよ。
対抗と長自画だけで説明できる部分が私たちの仕事の中では広いなって今も思っているんですね。
もう一つが、これも倉野さんのポッドキャストを聞いてて、久しぶりにこれ出てきたと思ったんですが、
特別な存在になりたいとか何者かになりたい。
私の解釈では、箱舟論も面白いんで、しかもそういう感じもするんだけど、
私の解釈では、なぜ私たちが特別な存在なの、何者かの、特別な存在っていうほうがいいと思うんですけど、
になりたいのかというと、これも長自画とすごい深い関係があると思うんですね。
外して長自画が強いなっていう感じを抱く人ほど、特別な存在になりたがるんです。
一つは非常に分かりやすいと思うんですね。長自画がそう言ってるからだと思うんです。
特別な存在になるのが正しいんだぞと。
ここも根拠いらないんですよ。
これを一旦受け入れてしまったら、もうそれは、そうか、特別な存在にならないとダメなんだなと。
結局長自画の望みの通りにできないってことはダメだってことですからね。
長自画というのは、長自画というのはどうっていうのはないんだけれども、
長自画に沿って生きていくっていうのは完璧主義を目指すってことになるので、必ず。
だって長自画を示す道が良いんだから、良いほうがそんなにはっきりしているんであれば、
それ以外ダメってことになるわけですから。
二極化が起こるんですよね。これでバイポーラーですよね。
このバイポーラーの話との兼ね合いも後日に回したいんですけど。
この下で、上で収録してるときは30分縛りがあるんでね。
いろいろ急ぐんですよね、残念ながら。
でもこれはもうちょっと考えを深めてからというか、
頭でまとめてから、なんとなくは絡んでるんだけどまとまってないんで。
もう一つはですね、私が思うに特別な存在になることで非常に逆説的で倒作的なんだけれども、
長自画の苦しいんですよ、結局。さっきも言ったけれども。
傷つけてはならんよっていう、人を傷つけるのはろくでもないんだよっていう長自画の教えを受け入れると、
傷つけてしまいましたっていうと長自画がバシバシ殴ってくるんで自分が傷つくんですよ。
非常にそういうことって起こるんですね。こういうものから逃れたいじゃないですか。
いろんな漫画とかの中では長自画って目玉として描かれてたりして、
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あれは結構厳しいだろうなと思うんですけど、この目玉を電源をオフにするっていうのがあったりするんですよね。
そういうゲームもありますよね。カービィにもそういうゲームのシーン出てきましたね。
とにかくもう長自画が眠っててくれないと辛くてしょうがないわけです。見張られてるから。
で、こういうふうになっちゃった場合、こういうふうに非常に長自画がですね、
ややサディスティックで罪悪バシ型の長自画が育ってしまうと、
それは周囲の人間関係によると思うんですけど、育ってしまうとですね、
この長自画からどうしてて逃れたいと。逃れるために特権を得たいって我々は考えると思うんですよ。
長自画というものと私がある意味一体化してしまって、人を長自画的に裁く側に立ちたいと。
そのためにはやっぱり特別な存在にならなければダメだというふうに考えるんじゃないかと思うんですね。
長自画と同一化してしまって、裁かれるのはもう婚輪罪ごめんだと。
とにかく周りを裁く側に立ちたいんだと。
私の言動によって人を傷つけてしまいました。ごめんなさいというのは絶対嫌だと。
そうじゃなくて、私は特別な存在であって、私が言っていることによって人が傷つくはずはないと。
傷ついているというやつがいたらそいつは愚かなので、私は言おうとしていることを誤解しているんだということを
自分の中にも自分の外にも納得させたいという気持ちが働くと思うんですね。
何しろ長自画というものはチクチクさせてくるんで嫌なわけですよ。
こういうものからは、とにかく早く逃れたいといつも我々、みんながみんなじゃないですけど
長自画が強い人はそう感じていると思うんですね。
こういう場合、どうしても悪は外に置く必要があるんです。
悪が自分の中に入ってくると、つまりそれは罪悪感が自分の中にあるってことになるから
長自画の目玉によってバリバリやられるわけですよ。裁かれるわけですね。
ここから逃れるためには、悪を全部外に出すしかないです。
この悪を全部外に出すということをやった場合、2つの事態が起こります。
もしその人が悪を全部外に出したにもかかわらず、現実に人を裁く権力を持っていない場合には
被害妄想という、それが進行すると被害妄想の病気になっていきます。
被害妄想の病気になりたいと思う人はいないので、悪は全部外に出した上で
自分が裁けるだけの権力を実際に握りしめたいと思うはずなんですね。
もちろんそれは、社会的に高く評価されるということによってです。
特に今のように、政治が民主的な時代になってしまえば、
ここを喧嘩が強いからっていう理由で手に入れるのはかなり難しいことですよね。
だからスポーツでも何でもいいんですけれども、とにかく人に高く評価されるだけの実績を残し
あの人の言うことなら間違いないですよねと、周りの人が言ってくれる状態を作ってからでないと
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悪を外に全部追い出すというわけにはいかなくなるんですよね。
これが私は今思っているところのですね、超自我がその人の中で非常にこう
ポリス型って僕は時々言うんだけど、ポリス型の超自我が自分の中に育ってしまった。
そしてその超自我とは当然同一化できにくい。
超自我が理想的なのはやっぱりマイルドで、自分の良心とか、良心って良い心の方ですね。
良心とか理想みたい、自我理想って言うんですけどね。
的なものにとどまった場合に、それとある程度一体化できるっていうのがいいんだけど
ポリスになった超自我ってまず絶対、よほど極端でない限り一体化できないんですよ。
一体化するとなるとその人は脅迫神経症になっていっちゃうと思うんですね、ポリス型の場合は。
だって人間っていうのは間違いをゼロにするってことできませんから
ポリス型の超自我が自分の心の中にいる場合、間違いゼロにしなければなりません。
その超自我と一体化するためにはね。
間違いをゼロにするために、多くの普通の極常識的な人は脅迫症っぽくなっていくんですよ。
間違いはないだろうか、間違いはないだろうかと。確認しなきゃならないから。
だから閉じまりを何度も確認しなければならないんですよ。
気が済まない人ができる。これが辛くなると、あまりにも辛くなるとね。
間違いは私の中にはないんだと。全部間違いっていうのは外にあるんだということにするわけですよ。
こうすると被害妄想が起きるんですね。何か事態が悪いことが起きた場合、
必ずつまり誰かが何かを私に対してクレームを入れました。
全部クレームをした側が100%悪いんだから、これはもうクレームした側は頭がおかしいに違いないとか、
こういう観点に立つとですね、嫌なことがあるために全部外に悪事があるんで、
どうしても被害妄想的に解釈するより他なくなってくるんですね。
これもその人が間違いを犯すのがゼロにならない限りは、被害妄想的にならざるを得ないという構造が多分あるんだと思います。
で、残る一つの方法は、自分が間違いを犯すということを、
あり得ないと社会が認めてくれるレベルに自分が達するという、それほどの評価をいただくということですね。
それはつまり何者かになった人、特別な人って、特別になりたい人が見ている特別な人って、
そういうことなんじゃないかなっていうふうに今思っています。
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