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おはようございます。働く人に送る精神分析チャット、第1033回をお送りします。
8月7日水曜日、夕方16時17分です。
いやー、あのー、暑いですね。暑いというのか、なんというのか、こう、すぐ簡単に軽度の熱中症になってしまうような感じで、
収録をするという気運にならず、耳に当てたくないという気持ちが登ってきてしまいましてですね。
すみません、昨日はちょっと事情がありまして、今日はそういうヘバって収録が遅れました。
はい、えー、もうなんか大変厳しい、なんだろうなぁ、ちょっと前よりも暑くはないんだけど、なんかこう湿度が異常に高くて、
もうなんかこう何もする気がしないみたいな、そういう、まあそう言いながらもセッションは割とバッチリやる気になってやるんで、この辺がまた人間ってよくわかんないけど不思議だなぁっていう感じですね。
はい、えー、お知らせはもう、だから思い出せないから飛ばすっていう感じで、えーと、ですね、最近またあの、接触障害の本を、またその話かと思われるかもしれませんが、松木さんのですね、接触障害の本を読んでおりまして、まず、なんでなんだろうなって思ってるんですね。
で、なんで接触障害の本知りかというとですね、まあダイレクトでそもそも3ヶ月チャレンジは接触障害の、えー、なんとかするための3ヶ月とかではないわけですよ。だから直接あまり関係ない話なんですね。
まあそういう言い方をすれば、全て精神分析の話は間接的にしか関係ない気もするんですけど、まあその、いずれにしてもあまり直接は関係ない感じがするんですが、これがですね、えー、少なくとも私あのパッと別になんだってことはないんですけど、発達障害の話を読むよりは、はるかに接触障害の話を読んだ方が、えーと、参考になる感じがするんですよね。
あと、えー、この、ちょっと4文字熟語のなんとか障害なんとか障害を連発しているので、ちょっとあの、改めてここでなんとなく普段から思うことを述べておきますと、えー、発達障害ってのは発達が障害されてるんですよ。
そうですよね。多分。
接触障害というのも接触が障害されてるんですよね。
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で、不安障害というのは不安が障害なんですよ。
ここを意識してこのなんとか障害、特に精神系のものをですね、読むときは、ここを意識して読まれると絶対いいと思います。
脅迫性障害は脅迫が障害なんですよ。
この、それが障害されているケースと、えー、それそのものが障害になっているケースと同じように使うから、えー、かなりわかる、なんていうんだろう、なんかこう、この種の用語は混沌を極めている。
私はよく思うんですよ。
例えば、自己愛性障害とかっていう言葉もありますが、これは自己愛が障害になっているのかな、そうですよね。
で、境界性障害、なんだかよくわからないわけですよ。
パーソナリティ障害になってくると人格障害とも言いますけど、これは人格が障害されてるのかな、人格が障害になっているのかな、微妙な感じもするんですけどね。
で、この接触障害とか、えー、発達障害というのは、本人が困っているケースも周囲が困っているケースもあるんですけれども、えーと、ご本人の発達なり、接触なりが障害されているということで、自分か周りが困っているっていう話なんだと思うんですね。
でで、えー、私はその接触障害にはすごい今、意識を回してるんですけど、というのは、松木さんのやっぱり本の中でも抜群にリアリティが感じられるんですよね。
絶対こういう人が本当にいて、本当に困って、本当にこういう風なんだろうなっていうのが、次から次へと実感が湧いてきて、しかもその中にクラインの、おおよそクラインとロゼンフェルドの病理構造体の話を軸に対象関係論で、接触障害に携わってアプローチするんだっていうこの、これがまたすごいなって思うんですよね。
別にメラニクラインのロゼンフェルドも接触障害用に編み出された技法ではないと思うんですね。
これはだからある意味松木さんのオリジナルとまでは言えないのでも、すごいオリジナリティを感じさせられるんですよ。
接触障害には対象関係論でいきましょうみたいな話って別に、そんなに主流じゃないような、もしかするとちょっとも主流じゃないのか、その辺は僕はよくわかりませんが、なんかでもこういうアプローチってすごいなって思うんですよね。
実は対象関係論が役に立つと直感的に認識して、実は松木さんはそれでイギリスにまで行かれて、アナスティガルかな、ちょっとよくわかんないですけど、エディ・ジョセフ?とにかく学びに行って、結構著名どころの人と接触もしていて、勉強して。
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すごく接触障害にそれを適用するにはどうしたらいいかみたいなのが、そこのところだけ急にものすごく対象関係論の話になって、だからパッと読むと不思議な感じがするんですよ。
まず、臨床例はことごとく接触障害なんだけど、アプローチの話になると途端にローゼンフェルドの話にガーッとなっていって、病理構造態度、自己愛性があって話がガーッと出てきて、そこのところだけ読むと急に対象関係の、かなりそれも1960年代の頃の話がガーッと書いてあるなと思うと、それが適用されていくと。
これがすごくリアリティを感じさせられて、実はこの本とてもすごい本なんじゃないでしょうかっていう感じがするんですけれども、あんまり巷ですごい有名で10万部とか言ってるとかそういう本ではないですよね。
でも接触障害って、皆さんは今ではそんなに記憶に新しくないかもしれませんけど、一時ものすごい接触障害こそが現代病みたいな、マスメディアってそういうところありますけどね、今では発達障害こそ現代病みたいになってるじゃないですか。
そういうものの一環に接触障害こそが、みんな接触障害みたいなそういう時期があったんですよ、その取り上げられ方として。
だからこんなに話題になったのに対してこれほど有効な雰囲気の有効な感じの方法論があったんなら、もっとこれが話題になっても良さそうだと思うんですけどね。
そういう関係論って、なんかやっぱり日本で今一つ主流感がないですよね。少なくとも日コード療法とかに比べると、もはや三国志の中の第四勢力みたいな、そういう勢力もいたよねみたいな、そういう感じがしちゃうじゃないですか。
ちょっと今の例えは全然上手くなかったですけどね。とにかくあまりこれが有効だになってる感じってのを与えられてこないんですけど、すごい有効感がありまして、非常に分かりやすいんですよ。
なぜ分かりやすいかというと、多分、接触障害というのは、割と繰り返される症例みたいなのを紹介されていると、パターンのようなものがある感じがするんですね。そして行動もものすごくはっきりしてますよね。
とにかく食べることにまつわる異常行動が目立つっていう意味で、いろんな症例がある中で対象関係論があるっていうので、とにかく食べまくる対象関係論、食べまくる対象関係論って感じなので、一人一人いろいろあるんですけれども、でもやっぱりすごく目につくのはそこなので。
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しかも親御さんが精神科に連れて来られるんですけど、すごい困ってるんですよね。なんかどっちつかずな感じじゃないんですよ。
例えばうちの患者さんとかになると、本人が来てみたり、親御さんが来ても、もっとちゃんとやってほしいんですけどみたいな、そういうケースもよく見られたりするわけじゃないですか。でも、接触障害の場合は、家でめちゃくちゃ食べまくってガラス叩き割るみたいな、そういう激しいケースが多いから、お父さんは出ても来ない、お母さんは泣いてばかりみたいな、そういう困ってる感がにじみ出ていて、
で、接触障害の人がそこに、女の子がやっぱりやや多めって感じがするんですけど、それに対して和木さんが対象関係論で見ていく。あんまこういう感じって、僕は珍しくないのかもしれないけど、珍しく見えるんですね。
いちいちやっぱり、その理屈が有効な感じがする、状況証拠みたいなもんですよね。素人が見るとそう見えますね。状況証拠みたいなものが上がってるわけですよ。例えばぬいぐるみをつかんでないと眠れないとかですね。ぬいぐるみ抱っこしてないと眠れないとか。
これはつまりあれですよね。いわゆる自己愛対象ってやつですけれども、自己対象と内的対象がくっついちゃうんですよね。だからぬいぐるみは結局自分の一部なわけですよ。ぬいぐるみってそもそも部分対象じゃないですか。ぬいぐるみの全体性とかを話題にする人はいませんよね。
ぬいぐるみっていうのはそもそも何かを象徴して、多くのはクマさんとかを象徴していて、言うまでもなくお母さんなんですけど、ぬいぐるみがお母さんのわけはないですが、それがつまりお母さんの部分ですよね。一部なんですよ。つかんで話さない人にしてみれば。
その一部分というものをつかんでいるということが自分が眠りにつくのに必須だというのは、つまりお母さんが一緒じゃないと眠れないってことなんだけど、プラスそれは自分でもあるってことですよね。このように自分、自己対象と内的対象がくっついちゃうっていうのが、それも具体水準で起きるっていうのがですね。
象徴水準なら僕らもしょっちゅうやっちゃいますよね。例えば私で言えばそうだな。今もやってる感じがするんですけど、例えばこう藤山さんとか松木さんとか山崎さんでもいいんですけど、戸畑さんでもいいんですけど、なんか対価みたいな人たちを自己対象の一部にしがちじゃないですか。僕みたいな人間って言ってる意味わかりますかね。
非常に後ろめたさがあるわけですよ。さもですね、接触障害はみたいなことを僕がしゃべることによって僕の一部にしちゃってるじゃないですか。それって松木さんの一部じゃないですか。松木さんの全部じゃないですよね。松木さんがトータルでやってるわけじゃない。接触障害だけやってるわけじゃないから。接触障害の本を読んで、本読んで学者っぽくしゃべるっていうのはそういうやり方をしますよね。
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そういう時ちょっと後ろめたさあるわけですよ。だから取ってくるわけ一部だけ。そしてなんかさも自分が開発でもしたかのように。僕なんかそういうの多いですから。タスクシュートはとか言って、タスクシュート作ったのは大橋栄一夫だったりジェイマー佐々木だったりするんだけど、さも僕の一部みたいにしちゃってるじゃないですか。
で、ここにこれがすなわち病理ってわけじゃないんだけど、ここに病理が潜みやすくて、で、ここの時にこう自己愛対象になりやすいわけですよ。なんかこう俺のものみたいな感じでべったりくっついてしまって、それで自分がその分大きくなった良いものを取り込みましたみたいな感じで。要するになんて言えばいいんですかね。
良いものは自分のものみたいにして、それも自分と対象が本当は別れてなきゃ、自己対象と母親対象とか別々になってないといけないわけですよ。いい加減独立している人間としては。だけどべたっとくっついちゃうわけですね。
ただこれは僕の場合は象徴水準で起きてるから、こういう学説とかを取り込んできて取り込むわけですよ。で、なんか自分の中の無知を排出して、そういうふうにしてですね、良いものは自分のものみたいにするわけですよ。
ここに盗作名だものが入ってくると、完全に自己愛性の病理みたいなのが進行していくわけです。どういうのが盗作かというと、例えばここに攻撃性を入れるわけですね。タスクシュート自分のものにしたから、大橋哲夫は亡き者にしようみたいな、あいつがオリジナルだと自分の完全性が奪われる。
これが羨望なんですよ。嫉妬じゃないんですよ。嫉妬っていうのは、もっとこう競争感があるんだけど、これはもう自分のものか相手のものかみたいな感じなんで、自分のものにした以上、相手のものではなくなるみたいな、そういうかなり原始的な、言ってみれば赤ちゃんぽいわけですね。
俺のものにしたら相手のものではなくなる。シェアとかができないわけですよ。だからこう自分のものにしましたみたいな、オリジナルの人がいると邪魔だから、あいつ消そうみたいな。こういうふうになると、ここに攻撃がいいことになっちゃうわけですよ。攻撃して私のものにします。しかも相手を消しますみたいなのがあるから、この攻撃がいいことなんだみたいな感じで。
この攻撃がいいことであるという風に、攻撃を正当化する時には決まって、超自我的に出てくるわけです。大橋裕之を罰するみたいな。なんか彼は良くないことをやってるとか、いろんな状況証拠を集めてきて、今言ったのは全部作り罰ですからね。こういう風にして自分のものにして、しかもオリジナルを消したくなる。母親を消したくなるみたいな。
海の親は大橋裕之さんですからね。男ですけど。海の母を消すってのはこういうことなの。これを戦亡と多分言うんですよね。ここにまつわる様々な自己対象とタスクシュートですけど、この場合タスクシュート対象をガチャっとくっつけて、自己愛の世界を作って、そこにさらに超自我を入れて、オリジナルのやつを罰するみたいな、そういうことをして、戦亡で攻撃しまくるみたいな。
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でも大体これをリアルな世界でバリバリやるとかなり信用しないので、作り出すわけですよ。ちょっとアリューのもの、そのぐらいアレンジはするんですよね。そうしないと、戦亡マッシグラでいくと本当にアカウンボウなんで、それをやる人は多分少ないと思うんですよね。
何でもいいんですけど、ノキバリュータスクシュートみたいなものを作り出して、スピンアウトして、だからのれんわげとかが起こるのは、ここにあまり病的なものを込めて、やりあって戦いで血みどろになるとお互い傷つくから、それを避けるためにそういう作戦を取るんですよね。
よくあるんですよ、この種のこと。ただこれがすごく具体水準で起きると、おっぱいちぎるみたいな話になったり、クマさんは私のものみたいな、そういうノリで具体水準で起きるわけですね。こういうときはすっごく困る、困ったことが起きる。何が困るかというと、まずお母さんと一緒なわけですね。極端に言うとお母さんと一体化するわけですよ。
そして理想はお母さんなんで、これタスクシュートの話もそうですよね。理想は大橋哲夫なんで、ここに難しさがあるわけですよ。あれが自分のものになったらいいのにっていうのは、最初は最初に仲良くやっていたときはお母さんと一緒だから、お母さんが言う通りにこうしている、そういう子はいるじゃないですか。ここに接触障害が起きやすい難しさがあるんですね。
生まれたばかりとか3歳児とか4歳児とか、うちの子もそうだったけど、お母さんの言う通りにするっていうのが、自分がまだ自分ってものがはっきり分化してないから、やりやすいわけですよ。あれ取ってきてとか言って、はいってドドドドって走っていって取ってくると。はい、この絵みたいな感じで、理想の関係が成立して、お母さんの望み、すなわち私の望みみたいな感じなんですよ。
これで理想化しやすい原始的な人間関係って、こうなりやすいんですよ。例えば、お母さんがタスクシュートって言って、私はこうなんですって言って、そのまんま僕はしゃべってコピーして、全然もうOKなわけですよ。僕は分化してないから。でも人間で成長すると、時間が経つと、どうしても自分ってものが出てきちゃうじゃないですか。
そんなに言うことをはっきり聞いてる、いいダクダクと聞いてる女の子でも、なんかこう、もっと成績良くしなさいとか言われても、良くならないわけですよ。毎回100点取りなさいってお母さんと一緒だから、絶対毎回100点取りたいんだけど、なんか99点とかになってしまって、そんな子は牛の子じゃないみたいなことになってくると、すごくお母さんと一緒だったはずなのに、お母さんと一緒じゃなくなって、恐怖にとらわれるわけですね。
お母さんに捨てられるみたいな。自分のダメな部分が捨てられるから、すなわち自分がみんな捨てられてしまうわけですね。これはまずいんで、自分を割るわけですね。スプリットオフするわけですよ。
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自分を割ると、100点取れるために全力を尽くす私と、勉強をサボったりミスったりするダメな私に分けて、ダメな私を排出したいわけですね。外に出してしまいたい。
良い部分だけを取り込みたい。これが具体水準で起きているので、幼いからですね。あまりにもお母さんが干渉があましいと、これがうっと小さい頃から起きちゃうわけですよ。
ちょっとでも自分が、自分だけの望みでお母さんの望みじゃない望みを持つ自分を切り落とそうとすると、年が若ければ若いほど、幼ければ幼いほど危険な感じになっていくわけですね。
最初にやり出すのが何かというと、これは多くの場合、やっぱり幼いので、最初に私をコントロールしたいとなったときに何をコントロールするかというと、食欲であることが11、12あたりになってくると出てくるわけですね。
多分やっぱり最初に人間が、物心ついた人が最初に考え出すのが一つはこれなんでしょうね。私は食欲をコントロールできるんだっていう。
小学校とかって体育とかっていっぱいやらされるじゃないですか。だからやっぱり太ってるって厳しいと思うんですよね。
痩せててあんまり食欲もなくてでもすごい活動が活発でみたいな人は、小学校中高学年の話ですけど、うまくいくと思うんですよ。
その頃はまだ勉強もそんなに難しくないですし、普通の子にとっては勉強もバリバリして外でどんどん遊んで、比較的痩せていてすばしっこいですみたいな。
たったそれだけのものなんですよ、多分最初はね。で、お母さんとお母さんの言う通りにペパペパっと動けるっていうことが嬉しいみたいな感じで。
でも食欲湧いてきますよね。中学生ぐらいになってくると食欲は猛烈に湧いてくるわけですよ。
でも非常にその頃はまだ幼いから、ある意味幼く育てられてるから、食欲が湧いてくる私ダメみたいな、そういう私は99点しか取れないみたいな感じになって、ここをダメ出ししようとするんですよね。
だから食べちゃうと、例えば食べてよくこう、いっぱい下剤飲んで一気に出すみたいな、悪いものは全部出すみたいな、カロリーとかいっぱい取っちゃうんだけどそれは全部出すみたいな。
そしてすっきりすると、なんかすごいいい子になった私みたいなものが、その時まざまざと実感されてくるんだと思うんですよね。
で、たまにお母さんがもうそんな、もっと普通に食べなさいみたいなことを言うと、お母さんすら分かってくれないから、めちゃくちゃお母さんに対して暴力振るとか、そういうことが多分起きるんですよね。
ここのところの説明によく対象関係で出てくるスプリットオフとか、いいおっぱい、悪いおっぱいみたいな話が適用すると、すごい説明が分かりやすいわけですよ。
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この説明の分かりやすさというものが、私はその接触障害というものを観察したり研究してるわけじゃないんですけど、やっぱりこういうことってのが私たちには起こりがちなんだなっていうのが、この本を読んでるとよく分かる気がするんですね。
僕らはおおむね接触障害じゃないんだけど、やっぱりこのスプリットオフとか万能感ですよね。だからもう痩せれば何もかもうまくいくみたいな、そういう万能感。私のあれで言うとタスクシュートを自分のものにすれば何もかもうまくいくのにみたいな、お金もいっぱい入ってくるし、海の親さんいなければみたいなね、そういう病的な発想になっていくわけです。
反社会性人格って言ったりするんですけど、反社会的ですよね、この発想は。海の親をやっつけてしまうとか、オリジナルの人がいないことにするとか、非常に反社会的なわけですよ。そこに嘘が入ってきますよね。もともとこのタスクシュートって実は僕が考えたんですよね。思いっきり嘘じゃないですか。だけれども、そういうことを始め出すわけですよ。
で、こういう話の中にはやっぱり、例えば時間術の話だから、時間があれば、時間さえあれば自分は何でもできるのにとか、時間と体力があれば、もうこの部屋もバッチリきれいにして、その間時間止めてね、そんなことできないですけど、万能空想ってそういうことなんですよね。
時間も全然かけずに部屋をきれいにして、時間も全然かけずに料理して、時間全然かけずに仕事してってやると、スーパーマンみたいになれるじゃないですか。
で、そしてですね、そのために、朝2時に起きるみたいなことをやるわけですよ。朝2時に起きれば、もう何もかもうまくいくと。そうすると、接触障害の人と妙に似てくるわけですよ。
食べさえしなければ全てうまくいくのに、寝さえしなければ全てうまくいくのに、眠りたくなる自分っていうのは、すごいダメな自分なんだっていう、この眠ろうとする自分がいるから自分は藤井聡太さんとか大谷翔平さんとか一郎みたいになれずに、凡庸な佐々木翔子になっちゃってるんだと。
この睡眠欲ってのがいけないんだっていう風になるわけですね。で、この時に周りの人はいやいや、うちの奥さんとかがね、朝2時とかに起きないでよとか言うわけじゃないですか。そうすると分離したくなるわけですよ。離婚とか別居とかですよね。なぜかというと、そいつはこう、私の邪魔をするって感じがする。
よくだから食べなさいって言ってくるお母さんをボコボコに殴るとか、そういうことが起きるのはそのせいなんですね。でも同時にここにはアンビバレントな気持ちってありますよね。だってずっとお母さんが理想だったのに、いきなりお母さんとか殴るのすごい辛いじゃないですか。
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だからどうしてそうやって食べて食べないっていう行動を取るのが良くて、そして食べるっていうことをガーッと食べるっていうのが人が文句言ってくるっていうのに対して激しく反応するかというと、実は言ってほしいって心理もあるからなんですよ。やっぱり世話されたいわけですよね。
つまり本当のところはまずいんですよ。本当のところ。だってガリガリに痩せたからって何もかもうまくいかないじゃないですか。ガリガリに痩せたからってテスト全部100点になるとかロジックからしておかしいですよね。だからこの実は食べてしまうっていうのは捨てられないんですよ。
食べてしまうから私は失敗するんだっていうこれが無いと無くなっちゃうと、食べなくなっても何もかもうまくいかないという事態に直面することになり欲打つ的になっちゃうんです。私は単に痩せてないからダメじゃなくて本当にダメなんだってことになりたくないわけですよ。
それほど辛いことはないんで、いやでも食べてしまうからダメなんだっていうこの食べてしまうの部分は必要なんですよ。で、このガーッと食べる方が目立つんで、そうすると周りの人がガーッと食べるのやめなよって言ってくれるじゃないですか。これがしてほしいんですよ。
実は悲惨。お母さんはいつもこうねえっと100点取れとかあの自分の望みしか言わないから実は私を本当は可愛がってくれてないっていうことによくよく気づいているのでこれが辛いんですよね。だから心配してほしいわけですよ。もちろん心配されるとうるせえって言うんだけどでも心配してほしいわけですよ。
これがやっぱりこう2時起きとかに起きるんですよね。2時に起きないでよって言われるといやいやもうそんな余計なこと言うなら離婚するからとかって言いながら言ってほしいんですよ。そしてしかも大事なのはでも寝ちゃうじゃないですか。だって眠いもんね。で、寝ちゃうからダメなんだっていうこれも必要なんですよ。だから非常に倒作的なんですね。目的が逆転してしまっているわけです。うまくいっても困るってことがあるんですよ。
1時に起きたんだけど全然仕事はかどんないし、2時に起きたんだけど全然自分大谷翔平みたいにならないし、2時に起きたんだけどあの練習は10倍どころかはむしろなんか0.99倍ぐらいになりましたみたいなのを直面すると、あ、自分は早起きができないからダメなんじゃなくてただ本当にダメなんだってことになるじゃないですか。
それはすごく自分にとっては抑鬱的になって、一歩足がそこまで頑張っているのにダメだってことになると鬱になっちゃうんですよね。これだけは避けたいわけです。人間はやっぱり抑鬱不安ってものほどある意味恐ろしいものはないわけですよね。
だいたいこの2時起きとか1時起きとか知らんけれども、1時起きじゃ寝てないんじゃないかって感じなんですけど、そういうのって師匠がいたりするわけじゃないですか。2時起きの師匠みたいなのがいると思うんですよね。その2時起きの師匠の言う通りにできないというので、その2時起きの人に怒られるみたいな、こういうことがあるわけで。
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だから2時起き同盟のところにもう家に行って、世俗とは私をおさらばしますみたいなことになるわけです。これも非常に自己愛的な行動としてはよくありがちなやつですよね。
それこそちょっと最近話題にしている野良カウンセラー的な話なんですけども、そこにも松木さんが警告を発しされていて、この警告は当然だと思うんですけども、接触障害の民間療法みたいなので、とにかく食べちゃえばいいんだみたいな、そういうのは危ないっていう。
それはまあ危ないよねっていうのはわかるんですけれども、つまりみんなで争的になっちゃうんですよね。いやもう食べればいいんですよみたいな、気にしないでどんどん食べてみんなで吐きましょうみたいな、そういう昔の話ですからね。
コミュニティがあったみたいなんですよ。そういうのも一つの生き方かもしれないけれども、点々だみたいな感じで、それは点々だよなっていうのはわかるんですよ。だからいろいろとね、野良カウンセリング的な話の難しさってのは当然あるよね。
ある意味思いつきのアイデアを一つの方針みたいにしてしまいますからね。ありそうじゃないですか。超早起きするコミュニティみたいな。みんなで目覚めると全然眠くないねみたいな。争的になりますよね、そういう時って。
そしてそのままこうなんだろうな、一斉にみんなでショート動画を撮ってどんどん配信するみたいなことをやって、バズったりするとなんかもうすごく天下取ったみたいな気になれるかもしれないじゃないですか。これでもうなんだろうなわかんないですけど、年収十倍も近いなみたいな感じがするかもしれないんですよ。
結局年収かよって話になりかねないんですけどね。何でもいいんですよ。とにかく大事なことは、それをしたにもかかわらず、実はダメかもしれないっていうのは避けたいということと、Sをコントロールするっていうことに人はですね、自己目的化するって話だと思うんですよね。
本当にこのSのコントロールっていうのができるかできないかって。ある程度、学校でも会社でもそうですけれども、およそ社会的語の中にこのSコントロールってあるわけじゃないですか。昼間から仕事をリモートワークなのをいいことにそっちだけにして、ひたすらアダルトビデオを見てますみたいな、全然ダメな感じがするじゃないですか。
なんか最もダメな感じがしますよね。あるいはそのアダルトビデオを見た後に、なんか甘いドーナツばっかりバリバリ食べましたみたいな、全然ダメな感じがするじゃないですか。つまりSのコントロールができないことほどダメ人間はいないみたいな社会通念っぽいものが濃いものなんだけど、あるからSのコントロールができるっていう方向の先には何か素晴らしいものが待っているっていう雰囲気があるんですよ。
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子供すら、ちっちゃな子供すらそれに取り込まれていって、ちっちゃな子供だからこそなのかもしれないけど、痩せれば万能、食欲のコントロールができれば万能、食べまくる奴はダメ人間みたいに、そんなことを10歳だ11歳だの人も考えてしまうというのはですね、Sをコントロールする、欲度をコントロールできるっていうことに、ものすごい人間は割と単純な未来の希望みたいなものを見ちゃうんですね。
だから眠らない食べないなんだろうね、あとはまぁ性欲ないみたいな要するに欲望がなければないほどいいみたいなところがあるわけですよね。
で、ここにあるのは、しかし反動が来て食べてしまいます、ビデオばっかり見ちゃいます、寝てばっかりいますではないんですよ。
それが問題なんではないっていうのが松木さんがもう繰り返し繰り返し書くところなんですよね。
それが問題なくじゃないですよ、問題なのはお母さんが愛してくれないってことなんですよ。
結局は、結局はって言っちゃよくないんですけれども、お母さんが愛してくれないと、非常に条件付きの愛しかくれないと。
だから、あの、なんて言えばいいんですかね、このコントロールできない自分を切り捨てなければいけない。
そうすると自分が結局大半を切り捨ててしまうことになってしまって、自分というものが存在しなくなって、機能を全く停止するっていうこの事態を、
密かに、密かにではなくて、おぴらにマネージャーっていますよという話なので、この接触障害の本というのを読むとですね、
そしてその、お母さんというものに強い扇望を抱いてですね、お母さん万能だから、お母さんが理想の原型だから、
ここに大きな問題があるんですけど、お母さんがお箸取ってきてとか、茶碗取ってきてとか言って、いい子ね、いい子ねってやっているあたりは平和でいいんですが、
それが100点取ってきてとか、お金稼いできてとか、お医者になってとかになってくると、だんだん平和じゃなくなってくるわけですけ、わけじゃないですか。
この、そのような事態の、でも、原初には、お母さんの理想、すなわち私の理想っていう、この母子の一体感というものにずっととらわれている、そしてすごく極端な形でとらわれていて、
で、この、これと並行して必ずそこにあるのは、お母さんはあるがままの私は嫌いっていうね、そういうのがあるわけですよね。
お母さんはお母さんしかいない。結局のところそれは、自己愛性が、親が自己愛性で、子供の自己愛性がそれに乗っ取られているって感じなんですよね。
この場合のお母さんはお母さんとは関係ないですよ。お父さんかもしれないし、お姉ちゃんかもしれない。だから、勝てない暴力っていう形で、一種の復習が始まるわけですよね。
こういう話は、私たちの仕事の滞り、全域を、全域は言い過ぎかもしれないけど、相当の部分まで食い込んできているなって感じが僕はするんですよ。
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スプリットオフする、戦亡する、万能空想に浸る、万能空想を適用する、東映同一化を大量に使い、ある種の取り込みばっかりやりたがるっていう、
具体水準であれ、抽象水準であれ、ひたすら理論を取り込むとか、ひたすらドーナツを取り込むとか、同じなわけですよ。
結局、自分をなるべく理想のお母さんと同じものにして、そうじゃない自分を排斥して、コントロールの効かない私みたいなものをとことんなくそうと頑張る。
だからすごく脅迫的にもなってきますよね。脅迫というのはコントロール力の過剰ですからね。