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2022-09-28 29:42

【679GMV】「ゆるす」とどうして強くなれる?

超自我の「文章」を書き換える

00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
今、9月26日月曜日の18時15分です。
だいぶ涼しくなってきて、やりやすくなってきたなといった感じがします。
これがですね、6時じゃもう寒くてやってられないよってことになるし、既に6時でかなり真っ暗なんで、
もう全く、なんていうんですかね、週分過ぎましたからね、今はもう夜の方が長いわけですよね。
さてですね、そうだ、まずはお知らせなんですけれども、
9月がですね、おかげさまで1対1、Shogo Sasakiと1対1で60分対話するっていうのが、
枠が満席となりましたので、10月の方の募集を開始いたしました。
また詳細はですね、追っていろいろなところで告知していくので、それをおいおいチェックしていただければと思うんですけれども、
意外と満席になるんだなっていうことが、最近ちょっと改めて驚くべき発見で、
正直多分枠が埋まることはないだろうと思っていたら、埋まるということがだんだんわかってきたので、少し増枠させていただいております。
あれなんですよね、私の調子が低下すると枠が減るんじゃないかっていう、これもう1対1ですから、
僕が全部やるかやらないかの二者択一という状態でございまして、
セミナーとかと違ってね、一度やればいくらでもオンラインならそうじゃないですか、
ものには限度があるってこともあるんだけど、まあまあその限度には達しないんですよ。
でも1対1となってきますとね、同じ時間には重複してはできませんから、
グループセッションみたいなものもちょっと考えてはいるんだけど、今ただこれと連動してというかセットにしている、
1対1対話をさせてくださった方には無料で提供させていただいている方が、
あれがちょっとグループセッションっぽさが出てきたので、非常に嬉しい発見だったんですけどね、
そういうことがございますので、グループセッションを改めてやるっていうのはしばらくないかなと思っています。
とりあえず10月の募集をとりあえず監視したといったことですね。
最近自我心理学の方の話に凝ってるわけですけれども、凝ってるわけじゃないんだけど、
これでですね、久しぶりに傷つくといいますか、心が傷つくといった、
そもそも私がこのグッドモーニングバイブスだった頃ね、
グッドバイブスをメダにモーニング入れたぜみたいなそういう時だった頃に、
盛んに話題にしていたのはこの心の傷とか、怒られることとか、
怒られるのが怖いといった話だったと思うんですが、
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これをちょっと自我心理学的に紐解いてみようかなと、
急に思い出しまして、そんな話をしたいと。
明日は同じテーマを対象関係論的に考えてみるということを再びやってみたいんですよ。
これ対象関係論では散々、対象関係論のことを僕が散々やったなどというにはおこがましいんですが、
でも対象関係論的に考えるということはずいぶんお話してきましたけど、
連日やって比較してみると、比較するってこともないんだけど、
対象を置いてみると、どこがどんなふうにちょっと違っているのかというのが分かりやすいと思うのと、
どうしてどっちかのほうが自分にはしっくりくるってことが言えるのかというのも分かるかな、
少し伝わるかなって思うんですね。
非常に単純ではないんですけどね、自我シリアフのほうもすごく複雑なんだけど、
対象関係論に比べると図式化はしやすいってことがあります。
人に怒られて、あるいは思わず非難されて、
例えばTwitterとかで全く自分の気づかないところで自分の、
私の場合、こういう職業に関しては、自分の人生に関しては、
書いたことを猛烈に批判されているのを見つけるとかいうのを見たりすると、
ショックを受けたりしますよね。
あるいは、奥さんに急に何か起きてたたちに怒られているのに、
やっぱりショックを受けたりしますよね。
ことの知りやすさっていうのは、人によって受け止め方が全然違うんで、
Twitterで悪口言われたって全然ヘでもないけど、奥さんに怒られるのは耐えられないという人もいれば、
その逆もいらっしゃると思うんですよ。
その辺の個人的な心のあり方の違いみたいなのは、
どっちかというと対照関係論的に見たほうが分かりやすいと思うんですけど、
この傷つきという心のショックみたいな、なんていうんですかね、
なんとも言えないTwitterの人に向かって牙を剥くっていうのも、
そうしたからといって何かが解決するわけじゃないじゃないですか。
なんとも言えず、嫌な感じを引き寄せるというか、
何かが解決するわけじゃないじゃないですか。
なんとも言えず嫌な感じを抱くことが昔は多かったんですよ、私も。
今はこれが起きているときに何が起きているかというのが、
自我心理学で説明もできるし、対照関係論でも説明できるし、
正直やろうと思えば、やろうと思わなくても認知行動両方的にも考えることができて、
しかもグッドワイブス的に、クラゾの系像3流に考えることもできるんですよ。
だからそれらを総動員すると、もう、
あ、しょうがないよねっていうか、なんとかなるよねっていうのが
よっぽどのことじゃない限りはですね、
よっぽどのことっていうのは原理的にないんだけど、
大丈夫なんですよ。
イリュージョンだと考えることもできるし、
怖いというのは何かおかしな行動を引き起こすんだって話もできますしね。
で、なんですが、自我心理学的に言うとこれはですね、
まず攻撃されますと何が起きるかというと、
その攻撃が当たっていると感じた場合だけですけど、
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当たっていると感じると自我機能が低下します。
これが自我心理学的な説明の特徴だと私は思いますね。
対抗を引き起こすと言ってもいいんですが、子供になっちゃうんですよ。
攻撃されて子供になってしまったら弱った感じするじゃないですか。
何か攻撃が起きているのにですね、子供になるわけですからね。
子供というのはつまり現実の適応能力が低いって意味なんですよね。
自我心理学でも適応というのが非常に重要視されていて、
私はそれがやっぱりちょっと重要視され過ぎているんじゃないかって思うんですよね。
その辺がアメリカ的と言えばそうなのかなと思います。
で、まあそれはいいんだけど、とにかく自我機能が低下すると。
そうすると何が起こるでしょう。
自我機能が低下すると防衛能力が低下します。
防衛が遅節になっちゃうわけですね。
散々言っています通り、基本的に精神分析における防衛とは内戒における防衛です。
自我を守っているわけですよ。
何から自我を守っているかも散々申し上げている通り、
異度から、Sから、無意識の欲動から。
無意識の欲動がドバーンと出てくると、本当にドバーンと出てくると、
これは大変困ったことになります。
自我が本当たまったもんじゃないわけです。
いきなり外に行って人に向かって怒鳴り出すとか、
攻撃したいという欲動に、そのまんま引きずられるということが起こりかねない。
そこで、それを防衛するわけですね。
だけれども、自我機能が低下するというのは、その防衛力が弱るんですよ。
弱るということは、攻撃したいじゃないですか。
なぜならば、どこかで悪口を言われた。
奥さんが怒っている。攻撃したいわけですよね、欲動としては。
Sとしては、これは猛攻撃したい。
その時に自我が弱っていると、すごく自分からの突き上げを強く感じるんですよ。
絶対攻撃しないとダメだという感じになっちゃうわけですね。
たぶん、全く自我機能が大人な状態でマチッと維持されていれば、
そのSが攻撃だと言っても、十分それはかわせるというか、いなせるというか、コントロール可能なんだけど、
自分が10歳時くらいになったら、
ややもすると5歳時くらいになっちゃった時に、攻撃だということになるとですね、
攻撃したくて攻撃したくて、しょうがなくなるわけですよね。
これがまず起こる。
つまり、傷つけられたということは、攻撃したくなるんだというふうに捉えていただければいいんじゃないかなと思うんです。
で、もう一つあるんですよ。
特にこのクレームなり、Amazonレビューなりが、
非常に当たっている的を得ているところもないわけじゃないと思う。
つまり、自分の責任なんじゃないかと。
これをフロイトが在籍官と言って書いてるんですけど、
あの役はどこから来たのかね。
クラゾノさんが言う在役官と同じで、
これ在役官と訳しておけばよかったんじゃないかと思うんですけどね。
とにかく在役官を持つというのは何をされているかというと、
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長時間、時間を持つというか、
長時間、時間が機能低下していると考えてもいいです。
長時間というのはつまり正しさですね。
ただ、この場合の長時間というのは大人の長時間なんで、
お母さんとかお父さんが攻撃してると考えるよりも、
対処関係論的に言うと、ちょっとそういうふうに見たほうがいいんだけど、
自我心理学的に言うとですね、
この長時間というのは参照する、女性のアクションですね。
女性が、男性が、男性が、男性が、男性が、男性が、男性が、男性が、男性が、男性が、
同じことなんですよ。 対象関係論でも心理学でも言ってることは同じなんだけど、
超自我の正体というものを紐解こうとしたとき、やっぱり大人の自我から見ると、超自我というのはですね、
やっぱりこれも倉園さんの言葉に、倉園さんもお話になってたんですけど、憲法みたいなものなんですよ。
あの、私が今一緒に仕事をいっぱいさせていただいているJ.増崎さん流に言うと、ミッションってやつですね。
これが正しさなんですね。 そこに書いてあるわけですよ。
正しきものは○○すべし、みたいな。そんないかめしい言葉じゃないと思うんですけど、もっと簡単に人に迷惑をかけてはいけないとか書いてあるわけですよ。
で、自分が地雷踏んじゃうわけですよね。 いや、俺人に迷惑かけちゃったかもしれないとか。
あるいは、人に非難されるようなものを書いてはいけないとか。 これもツイッターでもう非難された瞬間にアウトですよね。
あ、俺人に非難されるようなものを書いちゃったと。 その非難が当たってても当たってなくても、もうこれやっちゃってるわけですよね。
これ、長字画に書いてあるわけです。長字画ってのは三小先なんですね。 もちろんこれ対照関係論的に見てもやっぱりある程度三小先ですよ。
例えばお母さんやお父さんの厳しい顔を、顔色を見るわけじゃないですか。 字画はつまり長字画を見るんですよ。
大人になると長字画はもっと抽象化されて文章化されてしまうけれど、 やっぱりその文章を見るんですよね。参照するわけです。
そうすると、あ、俺はもうダメなことをやったと。長字画的にね。 で、長字画に対する防衛というのも大事なんです。
つまり結局、字画というのが弱らないために、 字画は防衛という能力を持っているわけですね。
長字画はあんまりこうね、長字画の言ってることが厳しすぎた場合、 字画がもうペチャンコになっちゃうから、そうならないために字画は長字画からも自分を守る。
Sからも自分を守る。いつもこの二者から自分を守らなきゃいけないわけですよ。 片や攻撃しろって言っているSから自分を守る。
片やお前間違ってるぞって言われすぎて、 あまりにもへこまないように長字画に対してもあんまり罪悪感を持たないように防衛力を発揮すると。
するんだけど、字画機能が弱るとこの両方の攻撃に耐えがたくなってくるわけですね。
長字画の攻撃はお前は悪いことをしたとグーッとくるわけですね。 一方でSの方は文句を言ってるツイッターをケチョンケチョンにやれみたいな、非常に子供っぽい攻撃力を、攻撃心を発揮するわけです。
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この板挟みにあった時に僕らは嫌な気分になるわけですよね。 傷ついたという状態になるわけです。
東和高井戸さんの何でも見つかる夜に心だけが見つからないでしたっけ。 ちょっと前に私がこのポッドキャストで何度も取り上げさせてもらった本の中で、まさにこのまんまのパターンが出てきちゃいますよね。
ミキさんでしたっけ。 彼氏がいるのに他の男の人とも関係していたことが彼氏にバレちゃったという話でしたね。
あの時にミキさんという方はそもそも彼氏に怒ってたわけですよね。 だからその怒りをぶつけたかったんだけど、長字画が防衛してたわけです。
この彼氏に怒りをぶつけると関係がどうなるかわかんないから、ここは抑えようということで、彼氏の代わりの男性のところに行ってたと。
これはリプレイスメントですよね。置き換えってやつです。 違う男のところに行って、そこでエスカラの欲動の流れをちょっとうまくコントロールする。
だけれども彼氏にバレるということになると彼氏にガーッと非難されるわけですよね。 その時ミキさんの中の長字画に書いてあるわけですよ。
異性関係は誠実じゃなきゃいけないみたいなことが書いてあったはずなんですよ。 人がそれをやってたら自分が怒るということは、自分がそれをやってる時に人に怒られてもやむを得ないってことになっちゃうんですよね。
こういう時にミキさんという人の字画機能がグッと低下して非常に弱くなり、
エスはでも私にも言い分があるでしょっていう、彼氏にぶつけたい攻撃というものがグッと上がってきて、一方で長字画の方であなた悪いことやったよねっていうので上から責められる。
つまり上下から猛烈に責められるとああいったことになっちゃうわけですね。 これがつまり傷ついたといった状態なんです。だから私この傷ついたっていう表現はですね、僕らはどうしてかこの表現を取るんだけれども、
なんかこう板挟みって感じ、極めて強い板挟みに合ってるって感じの方が自分の実感にも合ってるし、
この構図から図式からしてもですね、しっくりくるなっていう感じがするんですよ。
ところであのミキさんは戸畑先生にカウンセリングしてもらってたんですね。 この事態に至ってですね、ミキさんは戸畑先生のカウンセリングはもう打ち切る。
ダメだ、こんなのは。私結局ろくでもないところに行き着いちゃったから、もうあなたは全く当てにならないからやめにするって言いましたね。
これによって戸畑先生は傷つくわけですよ。 戸畑先生の欲動がまずなんだこの女はと、自分でなんかこう
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何またもやってたくせに、一方的に俺を攻撃しやがってっていうふうに必ずなりますね。
でも戸畑先生もそうやってカウンセリングの最中に自分の自我がこう非常に弱ってきているんで、一方で長自我に攻撃されるわけですよ。
お前のカウンセリングは不適合があったと。当然カウンセラーなので、戸畑先生は臨床心理師ですから、臨床心理師たるものはこれこれっていう
そういう長自我の文章が書いてあるわけですね。これに抵触していることは間違いないみたいになって、やっぱり傷つくわけです。
これもすごい板挟み感がありますよね。で、こういう事態を引き起こした時にですね、どうすればいいのかと。
あのカウンセリングの実例の本だったから、あの本読んでいただければなんとなくご理解いただけると思うんだけど、
この時ですね、あのウッドバイブスで言うところの許す、まあウッドバイブスだけが言ってるわけじゃないけど、許すってやつが出てくるんですよね。
ここにすごい間違いな感じがすると思いません。何をこの状況で許すんだろうって思うんですよね。思うと思うんですよ。
僕これ、自我を許すってことをまず考えるしかないと思うんですね。
つまり自我がこうやって自我機能がぐんと低下し、Sからの防衛もおぼつかない。超自我からの防衛もおぼつかずに、どんどん罪悪感を膨らませて、一方ではどんどん攻撃心を高めていくっていう状況で、何かがうまくできるはずがないですよ。
だから自我機能は頑張って自分を取り戻すしかないんですよね。
この状況のまま4歳、3歳、2歳ってなっていったら、もう手に負えないじゃないですか。ただ泣くしかないんですよね。ただ泣くのも悪くないですけどね。
でもこの状況になった時に僕らにできることとしてはですね、自我を許すしかないと思うんです。この状況に至ればね。
自我を許すってのはどういうことなんでしょう。自我攻めてるのは誰ですかって言ったら超自我ですよ。
超自我の憲法が自我を責めてるわけですよ。例えば遠畑さんの状況で言えば、カウンセラーたる者はどんな時でもクライアントの立場に共感してクライアントの苦しみを理解できるようでなきゃいけないっていうのがあったんだけど理解できませんでしたということで自分を責めてるわけですよ。
非常に苦しくなっているわけですね。で、一方ではそんなこと言ったってこんな状況では理解できるはずないじゃんと言って、とにかくこの場を逃げ出したいとか欲動の要求としてはそのあたりにあると思うんですよね。
こんなものはやめてしまいたいと。どうせ他人事だしねっていうのもあると思うんですよ。欲動としては。それはそれで一つの立場ですよね。
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言ってみればSという立場はですね、単純なんですよ。生き物としてはそうするっていうような立場だと思うんです。天然と言ってもいいですけどね。
で、この両方の攻め合いの真っ只中にいて自我が切り切り舞いになっていたというか、上と下から圧縮プレスをかけられてみたいな感じ。この状態を脱するには許すしかないと思うんです。この自我に罪はない。
どういうことかというと、カウンセラーというものは常にクライアントの立場を理解して、それを十分共感してその苦しみを誠実に取り除いてあげなければいけないわけでもない。非常にいい加減なようだけれども、これを言わないと永遠にこのままになっちゃう感じがするんですね。
で、これを言うってことはどういうことかっていうとですね、自分のミッションを書き換えるってことになると思うんです。で、私はこのタイミングしかないと思うんですね。自分のミッションを書き換えるタイミングというのは。つまり、ミッションっていうのは抽象的なんですよ。
原則としてカウンセリングというものはカウンセラーとクライアントの関係ってそうでなきゃいけないでしょう。でもこの場合は様々な事情を鑑みてみると、決して、なんて言えばいいんですかね、戸畑先生の自我に罪はないというふうに思えなければいけないと思うんですよね。
で、そのことはこのミキさんにも当てはまるじゃないですか。本読んでいただくとわかるんですけど、この場合は他の男の人のところに走っちゃうのも無理はないよねっていうふうに読むことはできると思うんですね。この時に自我はですね、自分の罪状をゼロに消去しにできると思うんですよ。
男女関係においては唯一の関係を保つようにお互い誠実でなければいけないんだけれども、この場合は複数いてもやむを得ないよねと。つまり、別にそれは罪ではなかったということにするんですよ。
これをするためにはどうしなきゃいけないかというと、同じことを相手にされた時、それを許さなきゃなんなくなりますよね。これがつまり、私が思うにですね、長自我というものの攻撃を止める、無効化する、唯一の方法なんじゃないかっていう気がします。
自分がやらかしたということにされた文面を無効にするんです。そうすると同じことをやった誰かを責めることはできなくなるじゃないですか。私たちは多分こういうやり方によってのみ、自由ってものが手に入ると思うんです。
これによって、まず長自我の攻撃というものが、このケースにおいては効力を発揮しなくできます。つまり、これを参照しても、長自我の文章を参照しても、どこにも該当する罪はなくなります。
代わりに、今後こういうことをやらかした誰かが私に対してやったという時にも、責めることができないという正しがきが一緒にくっついてくるとは思うんですよ。私はこの件に関して人を責めるけど、この件に関して私は人に責められませんということを、人間という生き物はどこか言えないようになっているような気がするんですよね。
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この辺の話が長自我というものと自我との関係において、自我を許すという話につながって、これが傷ついた時から回復する一つ目のステップだろうと。これがクリアできると、もう一つの問題、Sからの攻撃の突き上げというものが自然と意味を失うはずなんです。
なぜSが攻撃しなきゃならないかというと、Sはそもそも自我が攻撃されたと感知したからですよね。この攻撃は長自我が正しいことを正しい文章に基づいて、例えばタツヤさんという人なんだけど、本の中ではミキさんはタツヤさんに責められるわけですよ。
なんだこの他の男の証拠はってことなんですよ。携帯電話かなんかのドラマみたいなんで、どこまでが作られているのかちょっと私にはわかんないんだけど、とにかく他の男がいたということを責められているわけです。この責めが効くってのは長自我に書いてあるからですよね。
長自我のミッションステートメントなのか憲法なのかは知りませんが、そこにそういうことをしちゃいかんと書いてあるんだけれども、その文章を消してしまえばですね、あるいはその文章の効力はここでは有効ではなくなりましたということになればですね、攻撃されなかったことになるわけですよ、長自我に。
というかタツヤさんに攻撃されなかったことになる。タツヤさんは攻撃してきたんだけれども、その攻撃に正当性は消えるんですね。そうすればですね、反撃する理由も自動的に消えるじゃないですか。完全には消えませんよ。欲動というのは単純なものですから、攻撃されたんだからとにかく反撃したいっていうのはあると思うんだけど、抜き差しならない状態だっていうことではなくなると思うんですよね。
まず長自我からの圧力がグッと低下し、次にSからの反撃力も半減ぐらいはすると思うんですね。こうなると多分自我ってのはですね、その本質的な機能を取り戻すことができるはずなんですよ。
というふうに私は東和田さんの本を読んでいるときに考えたんだし、傷つくっていうときに私たちはいつもこの問題に直面しているんだよなと、そういう気がするんですね。ただこれはですね、自分がそれに具体的に関わっているときにしかはっきりしたことは見えてこない話なんですね。
例えば私は自分の書いた本を攻撃されているときに何が出てきたかっていうのを自分の心理的な状態を参照して答えを出す。そこで出てきている答えの一つにですね、そういうのを書き留めてあるんだけど反省しなくていいっていうのがあるんですよ。
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多分僕はここで反省させられそうになることによって、著者というのはこういうことを書いてこういうふうに言われたら自分の書いたものを反省しなければいけないんだという文章をどこかで作っちゃったんですね。長時間に置いといちゃったんですよ。
それによってSがいやいやもうこんなのは黙って攻撃されてたまったもんじゃないからツイッターで徹底的に反論しようっていうふうに、僕すぐそういうふうになるんですよ。このSの突き上げと上からお前の書いた本はやらかしてるぞっていう正しさの攻撃によって自覚がぐっと弱くなるんだけれども一部考えついたのが反省しなくてもいいんだと。
これはこのケースにおいて考えついた具体的な話をベースに持ってるんですね。何にもなくてただ反省しなくていいって言葉が出てこないんですよ。反省させられそうになってこんなに苦しい思いをしていると。
でもこんなに苦しい思いをしなきゃならないようなことがあるだろうかっていうふうに考えていってないなっていう結論が出せた時に、その時はもう自画機能は十分機能としては取り戻しているんで反省しなくていいっていう結論を出すんですよ。
そうすると長自画の中の文章が書き換わることで自分からくる攻撃心を防衛するっていう、しかも弱ってる自画によって防衛するっていう無理な作業をしなくて進むんですね。
ただし以降同じような文章をどこかの人が本で書いている時、こんなこと書いちゃってっていうふうに思っちゃダメなんですよ。
それって著者に反省を促してるってことになってしまうので、そういうことを今後しないんだったら反省しなくていいんですよ。
で、私はそういうふうにある意味グッドワイブスっていうのも捉えているんですね。
もう一つ、こっちの奥さんにあることで怒られた時に出てきた文章はですね、無駄に人を責めてもいいだったんです。
これ相当変に聞こえると思うんですよ。これだから具体的じゃないという意味をなさないんですね。
無駄に人を責めてもいいというのは、私に責任がない、違うな、相手に本当には責任がないことで間違って相手を責めてしまってもいいっていうことなんですよ。
普通考えると絶対ダメじゃないですか。
でもそういうふうにして私が責められた時にできる最大のことはですね、結局まず人を誤解したり勘違いで人を責めたてちゃダメだっていうふうに、
これは結構私の長寿画のミッション的な文章でゴシックタイで書いてあるわけですよ。
こういうの私嫌うんですね、よっぽど。
私には本当の責任はないのに責められてるっていうのを相当嫌うんですね。
だけれどもこれを私がやられたってことになると、Sがすっごい力を持っちゃうんですよね。
私は妻に無駄に責められたと、根拠もないのに攻撃されたということになってくると、
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こいつ殺してもいいぐらいになりかねないですよ、一歩間違うとね。
こうやって家庭内殺人って起こるんじゃないだろうかって思ったりするんですよね。
なので、いやこれはダメだなと。
無駄に人を責めてもいいことにしようと。
こういうのが具体的なベースってものだと思うんですね。
だって別に人は誤解するじゃんねと。
だから今後私は無駄に人を責めることがあってもいいことにしようと。
これも結構勇気がいるっちゃ勇気がいるんだけれども、
でもこうして置くほどでですね、僕らやっぱり自由が手に入るなっていう感じは抱くんですよね。
無駄に人を責めないほうがいいんだけど、いいと思うんですけど、
やっちゃった時にそれについて正しさに照らし合わせて自分をさばいて罰するってことをやっても、
結局のところはSの攻撃っていうものを心の中でたぎらせるばっかりで、
あんまり意味のある結果につながらないんですよね、と思ったんです。
だから無駄に人を責めてもいいという一文に書き換えておいて、
こういうのはもう書いておかないと忘れるんで、今読めたように文章に書いてあってですね、
無駄に人を責めてもいいんだということにしてあるわけです。
これ以来ですね、面白いくらい人に責められても、主に奥さんとかですけど、
編集さんとかでも責められることはあんまりないんだけどね、
全然対峙勝負な感じになりました。
だって無駄に責められてもいいんですから、無駄じゃなく責められても全然いいじゃないですか。
責められても構わないってことになるんですよ。
正直はそう言ってんだから、私の中ではそうなんですよね。
そうするとSは攻撃されたから、責められたから、多少反撃したいっていう気持ちにはなるにせよですね。
昔みたいにこう、いやもうこいつはもう亡き者にしないと気が済まないみたいな、
そういう脅迫観念みたいな風にはならなくなったんですね。
この2つ大きいなと思ってます。
だから私は許すっていう風にやっぱり表現されるんだけど、
何を許すのかというと、私を許すんですよね。
そして何から許すのかというと、長字画の文章から私を解放してあげると。
そういった感じなんです。
そうした場合に、この長字画の文章は二度と他社に適用することはできなくなるけど、
私の今までの経験ではそういうのはすでに100項目近くあるんだけど、
これによって私がそんな横を振ることは絶対ありえないなっていう確信は何となくあります。
多分これそのうち1000項目くらいになると思うんだけど、
事態変わらないような気がしますね。
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