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2021-03-18 39:32

【GMV 341】やりたいことが多すぎて時間が足りない問題

対人不信とリスクヘッジがタスクを増やしてしまう
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
来月、4月3日の土曜日に、
倉園家道さんとグッドバイブス勉強会シーズン2の第3回を開催します。
グッドバイブスの平安な心をずっと保ち続けるためのステップを最初から振り返って、一つ一つお知らせ、お伝えしていくという内容になっていて、
過去2回は動画になっているので、全部追っかけたいという方は、ノートの方から動画購入もできます。
第3回を受けてから、過去の気になったら戻って入手するというのが、この辺からは現実的かなと思うのですが、
3回目から出ても、過去が出ていないと内容がわからないというようなものではないので、
ご参加いただければ、オンラインなので、どこにいても大丈夫です。
地球の反対側でも実はありますが、大丈夫なので、よろしかったらご参加ください。
このグッドバイブスで、何がどう良くなるのかを問われることもあると思います。
この種のものはまずそれを問いますよね。
自分は様々あったのですが、畑目からはよくわからないのです。
タスクシュートというのを、私はずっとやっておりますが、
これも人からは言わなきゃ見えないことですが、
そのお端さんとずっと仕事をしているというのも変化ないですね。
住んでいる場所も、ひまわり屋などに行ったわけではないし、
コロナということもありますが、私の行動のパターンは何にも変化がないに等しくて、
細かいことを言えば、マッサージ屋に行かなくなったとか、
奥さんと喧嘩しなくなってきたとか、風邪をひかなくなってきたとか、
特に風邪はひいていないな、様々あるのですが、
全くそれは外からは見えないと思うんですよ。
あと、糖質制限を9割方解除しましたね。
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でも、アトピーは出なくなったとか、大きいんですよ、これは。
でも、やっぱり見えないわけですよ。
もともと私、アトピーをパッと見すぐわかるレベルだったことはないですし、
一緒に食事して初めてわかることですからね。
わかんない場合もありますよね。
ピザとか食べてれば普通に食べてますから、わかんないと思うんですよ。
その他に悪夢を見なくなったとか、これはもう絶対わかんないですよね。
そうなんだっていうことでしかないと思います。
あと、非常に内面の変化としては、安心して生きていけてるなというのがあって、
特に仕事ですね。安心して仕事をできている。
この恩恵も非常にでかいんですが、
やっぱり僕が仕事をしているというシーンを見る人は、
僕のセミナーを見ているとかでしかないので、やっぱりわからないと思うんですよ。
つまり、わかる部分がないんですね、これ。
昨日、それでたまたま、本当に久しぶりに打ち合わせというものをリアルでしまして、
オフラインでやりまして、しかもたまたまというか、
本当に久しぶりに最近ずっと会ってない、迷わずわりと頻繁になってた人と会ってきたんですよ。
が、その時に自分変わったなと思ったことが一つありまして、
そのテーマで今日お話しするんですけれども、
その席上で非常にタスクシュートとかタスク管理の人々だったので、
一緒に打ち合わせたのがですね、
テーマが必然的にといいますか、タスク管理系にまずなると。
この段階ですでに僕がいつもは感じていないものを感じたんですよ。
いつもはスッとどっぷりそっちに入っていくんですけれども、
なんかすごくですね、そういうテーマの今日は話なんだなというふうに入ったんですよ。
これはもう僕の心の中の微妙な問題なので、
同席していた人が気づいたとかそういうレベルでは全くないですけれども、
僕の中では一つこういう違いが今起こったんだなというのは感じたんですよ。
で、その中で非常によくある話なんですが、
やりたいことがたくさんありすぎて、タスク管理しても落ち着かないんだという問題について議論になったんですね。
議論といっても別にディスカッションしたっていうのじゃないんですけど、
こういうのをどういうふうに解消する方法を伝えていけばいいかみたいな話を打ち当てたわけですよ。
で、その時に私がパッといつもだったらそういうふうにはパッとは考えないことをいきなり考え始めたので、
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あ、こういう変化が起きたんだと。
これも微妙すぎて人には全然見えませんが、
要するにそういうふうな話になった時、私はタスクシュートでまず考えるという、
そういうふうにしか考えなかったから、
タスクシュートで言えばそれは24時間という枠があるわけですから、1日には。
そこにいくら詰め込んでもできないことは出てくるわけじゃないですか。
ごくざっくりと言えばですね。
ところがタスクシュートというのは、書いてあることを全部やるというツールではなくて、
やったことは書き上がっていくという形をとっているものだから、
つまり非常になりゆきから始められるという強さがあるというのが僕の言いたいことなので、
受動的にやっていっても自然と自分の能動性というものがそこに、
反映されていくという話をするんですけれどもね。
要は24時間でできることは24時間でできることだと。
そうすると、どんなにやりたいことが拡散していて、
エネルギッシュであって、のめりでなんていうんですかね、
夢を叶えたいとか、自分に変化を起こしたいと思っていたとしても、
実際にできることだけが残っていき、できないことはヘイドアウトしていく。
それが自然と使っているだけで実現されていくツールだという話をしたと思うんですね。
その話をしないまでも、まずそれが頭に浮かぶ。
でも昨日は違ったんですよ。
パッと浮かんだのが、そいつは人間不信だと思ったんですね。
やりたいことがありすぎて、そいつを絞りきれないというのは、
そういうタスクの洗い出しであろうと、夢を日記にでもいいんですけど、
いろんなことがしたい、だから時間が足りないって話は、人間不信が感じられる。
今までそういうふうには思っていなかったんですけど、
今はそういうふうに思っています。
その辺のことは意識に残らないか考慮に入れなかったんですね、全然。
だから対人不信とか対人不安というのが真っ先に上がってきて、
この問題はタスクシュートで考えていってもいいんですけれども、
タスクシュートで考えていってもいいんですけれども、
今は私はもうそういうふうには考えられなくなってきたんだなということを思ったんですね。
だから別の言い方をするとこうなるんですよ。
タスクシュートを使おうが、使う前が、あるいは使っていて私みたいにですね、
いたとしても、このやりたいことがあろうと、
そういうタスクシュートで考えていってもいいんですけれども、
今はそういうふうに考えられなくなってきたんだなということを思ったんですね。
このやりたいことのウィッシュの拡散というものが、
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対人不信であるならば、対人不信の方さえ解消すればですね、
リストは収まるべき数量に収まるという感じを持っているんですね、自分は今。
だから人を信頼するというのが、こういうケースではすごく大事になる。
と言っても多分、タスクシュートの話を聞きたい人には響かないでしょうから、
考えていかなければいけないなとは思ったんですけれども、
まずそういう発想になるということが、
すでに今までの自分のタスクシュートでのみ考えてきた時にはないものだったと。
よしよしの問題ではないんですよ。
それで考えてきたんだから、しかもそれで考えることを期待されてもきたんですから、
悪いことではないと思うんですけれども、とにかく今はそうではなくなったということなんです。
どうして対人不信なのかと思われると思うんですが、
まずですね、やりたいことが多大にありすぎ拡散しているという話、本当に多いですよ。
タスクシュートだけじゃないですね。
GTDとか夢を手帳にとか、ああいうやつでも、逆算の思考とかそういうものでも、
とにかくまずやりたいことはいっぱいあるんだと。
24時間では足りないんだと。
この言い方本当はおかしいんですけどね。
24時間というのはリソースではなくて、一つの枠組みでしかないので、
24時間では足りないとかそういう話じゃないと思うんですけれどもね。
でもそういう言い方を比喩としてしますね。
だからそれはそれでいいんですよ。
24時間では足りないと。
いっぱいやりたいことがある。
あれもこれもしなければならないような気がする。
YouTubeも頻繁に更新したいし、ブログも毎日できれば2本ずつぐらいは書きたいし、
TwitterでもいっぱいSNS投稿ですね、インスタグラムもしたいし、
今で言えばクラブハウスでもやりたいし、
でも仕事も手を抜きたくないし、家事も育児も充実させたいと。
大変ですよこれは。
24時間では足りないというよりは体力が足りないという感じがしますね。
どっちでも同じなんですが、家事や育児というのはやりたいというだけでは済まされないので、
やりたくなければやらなくていいとかってことにならないじゃないですか。
特に育児はね。
相手あることですから。
相手あることっていうのも大事なポイントなんですが、
対人心というふうに話したんですけど、その前にですね、
やりたいことがガーッとあって、これを絞り込めないとかいう話になった時、
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GTDでも洗い出しをして、絞り込みましょうって話はGTDでは必ずしもそんなに強調されてないと思うんですけど、
タスクシュートでも絞り込みましょうとは決して言わないんですよ。
絞り込まれてっちゃいますからっていう言い方をむしろしますね。
それではでも妥協みたいだとか、諦めきれないとか、
それでは残念すぎるという話になった時に、
例えばもう一つそこにクッションを入れるというか、燃料を投下するためにバーニングみたいな話が出てきたり、
あるいは理想の未来像というもの、未来の自己像ですね、
その素晴らしさを自分のモチベーションにして、一個一個の実行エネルギーを高めていこうとか、
だからもう生産性って話が次には出てくると思うんですけど、
の前にですね、絞り込めないという言葉ですよ。
例えば5にするべきところが500ですと、やりたいことが500個あるんですと、
仮にしますが、そうした時にこういう言い方もできると思うんですよ。
ということはつまりやりたいことはないんですよねということにもなると思うんですね。
いやいや500個あるんだよっていうかもしれませんけれども、
そうじゃないという感じをまず抱くようになったんですよ、自分は。
これもまたタスクシュートだけでという枠組みで考えているときは、
いちいち考えなくてもいいことだったから、どうせ絞り込まれるよねって話だったんで、
こういうことは言わないまでも思うことはあったんですけれども、
そこを問題にしなくてもいいなとは思ってたんですよ。
ところがですね、やっぱりそこを問題にしたいなと僕が変化したんでしょうね。
500あるということはつまり1個ないんだということでもあると思うんですよ。
藤子不条さんみたいな人が漫画を書くだけじゃ物足りなくてねって言わないんですよね。
1個に絞り込まれてしまう。
それぐらいやりたいことが突出してあるわけじゃないですか。
それが見出せないという話だと思うんですね。
500もあるということは拡散するという表現を取られる方は、
セミナーでもよくいらっしゃるんですよ。
集中しきれない。
集中しきれないということは、その500がやりたいということに嘘はないんでしょうけれども、
1個に集中するほどどれかをやりたいわけじゃないとも言えると思うんですよね。
アサーグの話だけに絞ってもそういう話あります。
ひらめきラジオも聞きたいし、タスクシュートのこともやりたいし、
英語の勉強もしたいし、筋トレもやりたい。
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逆に言うとそれは、じゃあ筋トレやってみましょうって言うと、
いやでも筋トレだけをやりたいとか、筋トレだけに集中して時間がなくなるのが怖いって
この話必ず出てきます。
だってタスクシュートっていうのは、先日も大橋哲夫さんの仕事なので書かれてましたけど、
1個1個やっていくっていう1つの方法論なんで、
同時に4つはできないわけですよ。
ましてそんなタイプの違う、それなりの負荷にありそうな英語の勉強しながら筋トレとか、
流行りますけどね、ライフハックでは。
でもそれは、どっちの方が好きとは言い切れないと。
好きだけでなくて、どっちの方がより必要だということすら言い切れないと。
英語も筋トレも両方同じぐらい必要な感じがするから、
拡散してしまうわけじゃないですか。
この話を聞くわけですけれども、
聞いているうちに感じることはやっぱり、
そこまでコミットできるものがまだ見つかっていませんよというか、
自分にとってそこまでコミットできることはこの世の中にないんですと言ってしまえばね。
だからそれは、実はですね、やりたいことがたくさんありますっていうと、
すごくエネルギッシュ、時間が足りませんというふうにも聞こえるんですけど、
それっていうのは、やりたいことが見つかりませんっていう訴えもまた非常に多いんですよ、
タスク管理系では。
やりたいことは一つもないんです。
やむを得ずこれは全部やってるんです。
でもこのニュアンスは実は同じなんじゃないのかなと。
完全に同じじゃないにしても、すごく類似して、
そして酷似している感じが昨日したわけです。
コミットしきれるものがない。
それにだったら一日中とっかかっていても構わないと思えるほどのものはない。
だからどれかに没頭して時間がなくなるのが怖いっていう感じが出てくるんではないかなと思ったんですね。
これはタスクシュートだけで考えてもない発想ではないんですよ。
やっぱり絞り込めないということは、どれもある程度しか好きじゃないということであって、
あるいはある程度しか必要性が感じられないということであって、
そういう意味ではタスクシュートからアプローチしても同じようなところに行き着くんですけれども、
とにかく昨日はまずファーストインプレッションとしてこれが出てきた。
やりたくないことがはっきりしない。
はっきりしないから500も600も拡散する先がある。
どうしてそうなのかと考えたというか、その結論がやっぱり僕には対人不信というものを感じるんですね。
実際にはこれは対人不信であり、対外不信なんだと思うんですよ。
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対親不信でもあるし、対社会不信でもあるし、組織不信でもあると思うんですよ。
他人というものが信用できないということなんじゃないかと。
これがグッドバイブスというもので、すごく強調されているから私が意識を向けるようになったことなんですが、
まず他人は自分に何を望むんだろうということがないんですよ。
500も600も自分がやりたいということがあるということは、
他人が自分に何を望むかなんて言ってみれば眼中にないということだと思うんです。
眼中にないということは、心の底からやりたいと思うことは、
自分から自然と湧き上がってくるはずだという一種のスピリチュアルがあると思うんですね。
これの良し悪しではないんですよ。そういう信念のようなものを感じるんです。
しかしそれが見つからないということですよね。
湧き上がってくるものはあるんだけど、一個にならないんですよね。
凶暴してしまうわけですよね。自分の底から湧き上がってくるものはあるけれども、
実際にはそれは一個ではない。
藤子富城さんが漫画が描きたいみたいなのが自分の奥底から出てくるみたいな話にはならない。
筋トレもしたいし、英語もしたいし、ブログの更新もしたいしになっていく。
しかもですね、その多くが、これは僕がグッドワイブスだけでなく、
タスクシュートがないときすらもすごく気になっていた部分なんですが、
しかも自分の中から湧き上がってきているということは、
意外なくらい人に評価されたいという話と関係があるように思える話が多いんですよ。
ブログを書くとか、ブログじゃなくて日記であってはなぜいけないのかとかね、
あるいは英語画とか、英語画本当にやりたいのかという話に僕は気になるんですよ。
それは人が評価しそうなことばっかりなんですよ、聞いている限りにおいてはね。
一日中あつもりがしていたいみたいになってくると、かなり自分の内部的なものを考えるようになるんですよ。
かなり自分の内部的なものを感じるんですけど、こういう話めったに聞かないんですよね、残念ながら。
私が思うにはちょっと残念ながら。別にいいと思うんですけどね。
社会適応的なんだという感じがするんですね。
しかもそれが1個や2個ではなく100個や200個になってくるほど、
それ全部できたときに何が起こるかというと、すごく褒められるということが起こるんじゃないでしょうか。
ここが不思議なんですよ。
すごく褒められるということが起こるということは、
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つまりそれはすごく褒められたいという欲求から発している気がするんですね。
ここが漫画が描きたい、何と言われようと描きたいという先生に進路指導を受けることがあるんですね。
この話、私非常にこのテーマといいヒントになっていると思うんですけど、
藤子不二夫のAさんの方、彼の方が進路指導をするんですよ。
進路指導というのは結局、何をあなたは大人になってやるつもりという話なんですよね。
ほぼ確定的ですよね、漫画家になりたいと。
先生が言うわけですよ、やっぱりそうなんだと。
正直言って先生には漫画家という職業は特殊すぎて何にも言えないというシーンがあって、
これだなと思ったんですよ。
これがやっぱり我々を不安にするシーン。
そういう道は選びにくい。
親も普通は、藤子不二夫さんの親も変わっていると思うんですよね。
ごく常識的に見えて、親としては子供が漫画家になるといったときに、
全然意を唱えないというのは結構、あの時代の漫画家にとっては
特に稀なんじゃないかなと。
それでですね、特殊すぎて何とも言えないということは、
つまり、この道を行ったからといって人が評価してくれそうとかが全然ないわけじゃないですか。
私はそれがYouTubeのPVをアップさせるとか、
ブログのPVをアップさせるということとは全然違うことのように聞こえるんですね。
危なっかしいですよね。
あの時代に漫画一本で行こうと考えるということは。
それにひすと500、600のやりたいことがどれも社会適応的だというのは、
とても安全そうな何かを感じますね。
そうすれば人がすごく褒めてくれそうな感じがありますよね。
そこで引っかかると思うんですね。
もともとは、自分がやりたいことをやりたいが出発点だったように思うんですよ。
500も600も手放せないのは、絞り切れないというのは、
どれもこれも自分がやりたいからであって、
他人から依頼されたり望まれたりという人生を生きるのはまっぴら御免だという、
私たちが子供の時も繰り返し聞かされたことなんですよ。
自分が本当にやりたいと思うことをやりなさいと繰り返しあらゆる人がなぜか言うんですよ。
それがなかなかリクルートスーツを着て就活するということにならないと僕は思うんですけれども、
なぜか学校の先生も親もあの時代はそれを言ったんですよね。
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いろんな人がそれを言ってました。
そういう本も売れてました。
やりたいことをやれって。
そのまんまのタイトルの本もすごい売れてましたね。
そういう時代がありました。
で、でですね。
だったら人が望んだこと、あなたに望んだことをやるっていうのはダメだって話になるじゃないですか。
どうしたって。
いやいや公務員になりなさい。
そんなのは嫌ですっていうことになるでしょう。
で、自分がやりたいと思うことをやった先には人がすごく褒めてくれるっていうのは、
僕はなんかこう、えっと、どうすれば、どうしてそうなっちゃったんだろうっていう感じがするんですよね。
で、このなんとなくこう不可解な何か。
人が望んだことをやりたくないということが出発点にあったものに、
つまり最終的な目的地は、人が望んだ自分になることであるっていうことになってしまっている。
これをどう解くんだろうって思うんですよ。
思ったんです。
このやりたいことがいっぱいあるっていう話を聞くたびにこれを感じるんです。
やりたいことがいっぱいあって、そのいっぱいがどれもこれも全く人が評価しそうになりません。
どれもこれも全く人が評価しそうにないことだったらわかりますよ。
だから私本当にこういう話をしたことが何度かある。2度3度あるんですよ。
ブログを書きたいんですか。
それはアダルトビデオをずっと見て、一番好きなやつね。
ずっと見てすっごい気分が良くなったというのに匹敵します。
ブログを書く喜びっていうのは。
これにイエスって言った人が一人も僕はまだ知らない。
バーニングの話を出たとしてもこの話だとなぜかいいよと思われる。
つまりバーニングということまで行くならば、
情熱で燃え盛るみたいな話まで行くならば、
せめてアダルトビデオは超えなきゃいけないと僕は思うんですよね。
あの興奮にも届かないというのがバーニングだったろうかと。
私はバーニングでは物は書きませんが、そういうふうに感じるんですよ。
情熱が勝るということは、その情熱以上のものは、
少なくともその情熱と同等のものが社会に評価されるかどうかなんていうのは、
二度次になっていくんではないかと思うんですね。
AVを見ていて社会に評価されるとは私も思わないんですよ。
でも社会に評価されるというものを持ってこなければならないということになってくると、
それは少なくとも好きなだけではないだろうという感じがするんですね。
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評価というものがそこに入ってくるような気がする。
そして評価されるのであればですね、
人が望んだことをやるのが一番手っ取り早いんじゃないかと思うんですよ。
これやってと言われて、はいそれやりますというほうが人は評価するんじゃないでしょうかねって思うんですよ。
これやってと言われて、いやそんなのは俺の本来やりたいことではないから、
それは拒否するという感じになり、
代わりに俺がやりたいことをやって、そしてその先には人が評価してくれるっていうのは
偉い回り道なんではないだろうかということを思ったときに、
この構造になるということはですね、
しかもその構造になるためにやるべきことがわんさか出てくるということはですね、
クラスのけぞうさんがグッドバイブスのセミナーで時々、
リスクヘッジを目指すとやりたいことがトゥーマッチになるって話を時々されるんですね。
これはつまり、どんなことでもいいですが、
例えば私たちがYouTubeを撮りますみたいな、セミナーしますみたいなのでもいいんですけど、
ミスらないために、しくじらないためにやるべきことをピックアップしていったら山のように出てくるではないですか。
今で言えば感染対策を完全にしよう。
この言葉だけでもすでにタスクがうわっと増えますよね。
席も空いて、両側を空けるようにするとか、間を空けるように確保するとか、
そうすると2倍は必要になるから値段も高くなってしまうので、
そこをどうするかを考える。
なるべく安いところを、しかし広い会場を探すみたいなタスクも出るでしょうし、
そうすると広くて安いところを一生懸命アルコール消毒するみたいなタスクも出てくるでしょうし、
リスクヘッジを確実にしていくためにはタスクは増えるはずなんですね。
つまり人に評価されるにしてもそうなんですけど、
色をなく人に評価されるということを考えると、
タスクの数はものすごい増えると思うんですね。
これをやりたいことが絞りきれないという話と
混ざっているんじゃないだろうかと思ったんです。
そしてこの根底には全て対人不信という、
そもそも人が評価をしてくれそうなことを依頼してくるとは信じられない。
まずこれがあると思うんですよ。
人が望むものをやっていたのでは人生は無駄になる。
つまり人が望むものをやればその人は評価してくれるという感じを私は抱いているけど、
そんなことはないはずだと。
人がこれをやっていたのでは人生は無駄になる。
そんな感じを私は抱いているけど、そんなことはないはずだと。
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人がこれをやってというのをやってもそういった評価はしないんだと。
ただ自分をこき使うだけなんだとか。
そして親が望むような人間になるのもダメなんだと。
なぜなら親は信用がならないから。
そしてですね、何でもいいんですけども、
成功するということは、これが人に褒められるという話なんですけど、
褒められると評価されるということを分けるんだと思ったんですね。
分かれているんだという気がしたんですよ。
いろんなことをしなければならないという背景にあるのは。
つまり評価されるのではダメなんだと。
なぜなら他人には評価能力はないから。
圧倒しなければならない。
圧倒しなければ褒めてはもらえない。
だからちょっと凄まじいことをしなきゃいけないという感じなのかなと思ったわけです。
圧倒されるわけです。
1日に50本ずつブログをアップしますとかね。
圧倒されるじゃないですか。
このブログ記事は2秒で書きましたとか。
あるいはYouTubeでもあっという間に10万PVアクセスですとか。
視聴回数が100万回です。
圧倒するということが目指されていることなのであって。
決して評価されるということではないんだなと。
つまり圧倒的であるということは必ずしも好かれるということではないですよね。
歌でもなんでもいいんですけど。
100万PVというようなものって100万人が好きだと言っているというのとちょっと違うじゃないですか。
いいねの数だともしかすると好きなのかもしれませんが。
ここには圧倒的というのがあるのかなと。
圧倒的であるということを一番今の時代に、どの時代でもそうだと思うんですけど。
圧倒的というとやっぱり量なんですよね。
時間単位あたりの量。
圧倒的というのは軍事的なものを思うじゃないですか。
なんかこう、あっという間に100万の軍隊が攻め込んできた。
もう勝てる感じがしませんよね。
この圧倒的というのはやっぱり質量感というのかな。
そして高速感。そういうものなんだと思うんですね。
考えてみるとこれはすごく現代ではよく高く評価されているもののような、
大変アングロサクソン的なもののような感じもしますけど。
思いますよね。圧倒される。圧倒していく。
100万台突破とか。
100万という数字はやっぱり何かある。ミリオンなんですね。
急にデビューした。
本が100万部出たとか。圧倒的な感じがしますよね。
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これなんだろうかなと思うんです。
これはだから好かれたいとか評価されたいとか褒められたいというのを
飛び越えて圧倒したいと。
そのためにやらなきゃいけないことは当然圧倒的な量になるじゃないですか。
つまり言ってみればですね。やりたいことが溢れているというのに
嘘があるとは思わないんですけども、それよりもやりたいことが圧倒的な量であるということが
大変じゃないかなというふうに思えてきたわけです。
だから絞り込んだり、
やりたいことが圧倒的な量であるということが大変じゃないかなというふうに思えてきたわけです。
だから絞り込んだり、
ヘイドアウトするとか、手放すとかいう話に乗るわけにはいかないというものが
そこにはあるのではないだろうかと。
それに手放してしまったら圧倒的じゃなくなりますからね。
私は毎日好きな筋トレだけをしつこくやっています。
まあ大して圧倒的ではないですよね。安定的な感じはしますが圧倒的な感じはしない。
それでは面白くないということになってくると、
背景にあった対人不信ということと最終目標にもやはりですね、
褒められたいとなると、実は対人友好感というのかな、
人との適応感というのが出てくるんだけど、
出てこないと思うんですよね、圧倒したいということであれば。
これはもう不信感というものはそのまま持続されていて、
ただ当てにならない、信用できない人々であっても、
圧倒されればあっというだろうと圧倒感がありますからね。
そこに評価能力というものが必ずしもなくても
正しい評価ができるわけじゃないという不信感があるんだと思うので、
正しい評価ができるんだったらその人の依頼に答えていけばいいわけじゃないですか。
依頼に答えてきちんと仕事をしたとしても、
そういった正しく評価するとは限らないという不信感があるんだと思うんですよ。
だから依頼に答えたり、言われたことをやっているだけでは不十分であると。
そうではなくて、評価能力がなくてもですね、
これほどのことがあったと、例えば数字が100万であれば、
100万PVであれば、納得するしかないじゃないですかということなのかなと。
そういう意味では数量というのは非常に分かりやすいので、
無視できないものになっていく。
この記事を1分で書きましたということになれば、
その記事のどういう記事であるかを精査するのは難しくても、
36:02
1分はすごいというのは言ってみれば子どもでも分かる。
この辺に絞り込めないというよりはもはや、
絞り込みたくはないということがあるのではないかと。
数量で圧倒するためには絞り込んだらダメだということですね。
それを私が第一印象として受けたというのが、
自分の中で変わったところなんだろうなと思ったんです。
つまりこれは最初は私がタスクシュートで考える限りにおいては、
仕組みの問題であり、タスク管理する中で絞り込まれていく自然と、
そういうふうに考えていたんだけど、そうじゃないんだろうなと。
これは意思の問題なんだろうというふうに思うようになったんですね。
意思だからこそ手放すわけにはいかないという意思がそこに働いていれば、
ツールが自然に絞り込んでいくなどという仕組みの中に入ってはいかない、
必ず抵抗感が出ますよね。
一方でまた絞り込むというのも一つの意思だと思うんですよ。
人の依頼に応えるというのもやっぱり一つの意思ですよね。
この意思の方が僕の中で前面に出てきているんです。
グッドバイブスなので。
グッドバイブスなのでではさすがにわかりにくいと思うんですけれども、
今日はもう時間が長いのでグッドバイブスなのでで済ませますが、
意思の問題というのがここにあって、
仕組みや環境や条件の問題ではないということ。
だからなんですね。
最初に言ったけれども、安心して仕事をすることができていると。
意思的に選んだものなので、
安心していていいのだという方法を選んだということなので、
これでいいのだということなんですけれども、
条件とか環境とかの仕組みという話になってくると、
これでいいかどうかは条件的に決定されなければならないわけじゃないですか。
意思的に決めることができない。
そうすると不安である限りは絶対に不安であり続ける面が出てくると思うんですよ。
そうではないんですよね、実際のところ。
そういうふうに考えなくても大丈夫になっている。
つまりこれって最終的には、
どっちの方が安心できるかという話に集約されてはいくと思います。
人が信頼できるのか信頼できないのか。
グッドバイブスで言えば本当のことはわからないんですけれども、
信頼できるということにすれば信頼するという意思で、
持ってですね、依頼に応えておけば大丈夫ということにある意味になりますよね。
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圧倒しなくても大丈夫なんですよ。
そうすると安心してやっていられる、
安心してやっていられないというのは圧倒できなければリスクがあるということなので、
自分の人生が無駄になるというリスクですね。
このリスクが実はないと思えるかどうか。
そういう意思決定なんだと今は思っています。
39:32

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