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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
4月11日に、ライブで赤入れというやつですね、ライブで赤入れの講座の第2回をやります。
第2日曜日です、4月の。
今回ですね、一度やってみて、やってみてわかるってこういうことですが、
8名は到底難しいという、ものすごく大変なんですね。
時間も、8名一度にやるわけじゃなくて、4名第1部、4名第2部なんですけれども、
何にしても、主催者側は8名って感じで、朝の朝じゃない、昼の1時から夜の7時までぎっちりっていう感じで、
目前がすごく大変なところがあったので、6名になったので、
すぐ埋まってしまったりするとあれなので、
もし、お参加されたいという方は早めにチェックしてみてください。
クラゾノケゾウさんのですね、グッドバイブスの公式のホームページからたどることができるし、
ライブで赤入れという言葉は珍しいので、多分それで検索していただいてもヒットすると思います。
ツイッターとかでもタイムラインに出してますし、多分見つからないってことはないと思います。
今日はですね、この後出かける用事があって、少し早めに終わらせようかなと。
これ、ダメなんですよね。
これを喋っているという時には、すでに聞いている人は何分か分かっているわけだから。
オチが必ずしもですね、僕の中でしっかりない話をするんですけれども、
でも最近ですね、非常にこのこともまた、やっぱり自分がチャレンジしていることだから、
喋っていることも、お悩み相談の答えじゃないんですよね。
相談に近い内容なんだと思うんですが、でも半分自分で答えているから、
そういう曖昧なものになっている気がします。
今日考えていたのはですね、
読むセラピーの2というのを出したんですよ。
3部作なんですけど、全部で10冊の本を紹介する予定でして、
7冊まで来たんですが、あと3冊ですね。
うち2冊は終わっているので、構成等は入れますけど、終わっているので、
あと本当に僕の中であと1冊なんですよ。
この書くセラピー2が今出ているわけですが、
の1で扱ったですね、平気で嘘をつく人たちの冒頭の、
ジョージだったかなっていう人の章例、脅迫神経症なんですが、
このテーマをちょっと今日は喋りたいと思っています。
と言っても私は脅迫神経症それ自体ではないんですけど、
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この心理って非常に現代的では決してない病気なんですけどね、病気としては。
マクベス夫人がすでにそれを描写されていたんで、
ということはシェイクスピアはこれを知っていたことになるんで、
もう大昔からあるんじゃないかと思いますが、
現代ではまたちょっと形を変えてですね、非常に脅迫的なところがある。
日本はこれも前も言ったかもですが、フランスの精神科医が指摘している通り、
そもそも文化にやや脅迫的なところがあって、
それもその通りだろうなと思うんですね。
これはやっぱりどんな文化でもそうですけど、
特徴的な文化を持っているとそのネガティブな面で出てきてしまうんですね。
ポジティブな部分があるわけですよね、文化には。
文化その文化特有の長所ってやつがあるんだけど、
ということは当然その文化特有の苦しみみたいなのがあって、
その中でも多分すぐに目に入ってくるのが、
日本の文化の中での大変さというのは脅迫的な部分なんだと思います。
脅迫神経症というのはご存知の通りで、手を洗うのがやめられない。
最近では多分、とじまりの確認がやめられないというのが一番深刻なのかな。
多いっていうのは聞くんですけどね。
これって何なのかと。
精神分析の世界では、幼児期全能感って言うんですかね。
万能感と全能感がちょっと今、
役だけの問題なのか、分けるべき概念なのかで悩んでるんですけど、
とにかくそういう呼ばれるものがあるんですよ。
脅迫神経症の人みんなこれと関係がとても深いという話で、
私自身も今回自分が結構大変な目に、
そんな大変な目じゃないですね。
1,2年前の大変な出来事に比べればなんてことはないんだけど、
でも若干苦労したことがありまして、
この問題近いって思ったんですよ。
幼児期万能感というか全能感というのはどういうことかというと、
幼児って私も育ててよく分かったんですが、
意思というものがそもそもないところからスタートします。
例えば泣くと。
で、なぜ泣くのかは泣いてる本人にも分かってはいないんですね。
なんか不愉快だから泣いてるのか、
そもそも別に不愉快でないのにも知れないのに泣いてるのか、
それすら分からないわけですよ。
とにかく泣くと。
で、例えばですね、ミルクをあてがうんですよね、口のところに。
すると、しばらく泣いていたりぐつったりするんですけど、
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やっぱり飲み始めて静かになる。
そうするとこっち側は普通の人間としてはですよ、
この子はお腹が空いていたからミルクが欲しいと言って泣いたんだというふうに解釈するじゃないですか。
でもですね、そうじゃないかもしれないんですよ。
実は抱っこして欲しかったのかもしれないし、
特に理由はなかったのかもしれないんですよ。
分かんないわけですよ、本人にも。
つまりこれどういうことかというと、
とにかく何か不愉快なことが、
不愉快なことはないのかもしれないけどここは不満があったとしましょう。
不満を感じたと。
自分が赤ちゃんの気持ちになってみたとしてですけどね、
不満を感じたと。
お尻が痒いのかもしれないし、
ママがいないから怖いのかもしれないんですが、
とにかく不満があるんで、
しかも言葉の概念が一切ない以上、
何がどうだとかいうことは言えるはずがないんですね。
意思もないんですよ。
見てて思うのは意思ってのは別にないんだということが分かる。
できることはないですからね。
何しろハイハイもできないどころか、
寝返りも打てないんで、
意思などというものはいらないわけですよね。
この意思がいらないというのは非常に大事なポイントですね。
不快感があるんですね。
そして私がミルクをあてがうじゃないですか。
そこで何かに気づくんですよね。
あっと。あっと気づくわけですよ。
で、飲み始めてそうか。
自分はこれが欲しかったんだという概念は形成されないでしょうけど、
おそらくそういう感覚ってものが来るんだと思うんですよね。
これってどういうことかというと大変なことだと思うんですけど、
不満がある。意思はない。
でも願望は満たされる。
で、満たされて初めて自分がその願望を持ってたと後から気づく。
これなんですよね。
ここが非常に重要で、
二重三重に重要な感じがするんだけど、
少なくとも二重に重要なのは意思は別にないから、
ミルクが欲しいという意思表示はしなかったということですね。
このつまり漢字ってどこからか湧いてきたはずなんですよ。
本人にとってはね。
不愉快だ。何か不愉快だ。
不愉快なことが自分に起きたって感じがすると思うんです。
なんか気になる。
閉じまりしてなかったんじゃないだろうか。
この人は扉を閉めたいという意思を持っているわけでもないし、
家から例えばしばらく離れて、
ふとこう入ってくるわけですよ。
何かから挿入されたかのように思考が入ってくるわけですよ。
あれ?ちゃんと鍵閉めたっけって。
これ意思じゃないですよね。
戻って鍵を閉め直したいという意思はどこにもないですよ。
できれば戻りたくないと思うんですね。
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でもふと入ってきちゃうんですよ。不快感とともに。
で、しょうがないから戻ってみると。
何かこう動かされている感じがするじゃないですか。
そして閉まっていることを確認したところで、
自分の不満が解消され、欲求が満たされる。
この図式って赤ちゃんに起こったこととそっくりですよね。
不意に不快感があった。
で、それは自分の意思ではないし、
自分から湧き上がってきているんだけど、
どこからか湧き上がってきたように本人には感じられますよね。
そしてミルクが当てがわれて初めて満足に至る。
自分がしたかったのはこれだというのは後から気づくわけですよ。
この形、まず意思がなく、
そしてなぜこれを万能感なのかというと、
幼児にとっては万能だからですよね。
不満であることを泣きさえすれば、
泣けばいいと思っているって言われますけど大人がやると、
泣きさえすれば周りが動いてくれて、
動くような大人が周りにいれば動いてくれて、
自分の願望が満たされる。万能ですよね。
全能というのは、全能なのか万能なのか、
どっちでもいいんだと思うんですけどね。
とにかく自分では何にもできないということと
万能であるということが等しいわけですよ。
完全に世界に依存しきっているから、
依存しているという認識すら持っていない。
だからお母さんにお願いしているという気は
たぶん全くないんですね。お父さんとかね。
何か不愉快だから泣くと、
現実が動いてくれて、その望みは満たされる。
というかその望みじゃない。
望みなんてないんだから、不愉快感が消えていく。
もう本当に万能ですね。
意思する必要すらない。
意思疎通するってことは万能じゃないってことですよね。
大概我々は成人なんで、意思疎通するあたりを
持って万能だと思っているんですけど、
すごい偉い人みたいな、コンコンと机を叩くと
ささっと飯使いをやってきて、お茶を入れしますみたいに。
これが万能だと思っているんですけど、
これ万能じゃないですよね。
既に自分の一つのアクションというか意思みたいなものを
発揮するまでは、現実は動き出さないんですから、
万能じゃないですよね。
赤ちゃんの方が万能。
自分が望みさえすれば、
それにこうして現実が動き出すんだから、
これは完璧ですね。
望みすらしないんですよね。
不満になりさえすればいいんですよ。
親がまともか、少なくともある程度は面倒見ようという
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意思と暇があればですけどね。
逆に言うとこういうことなんですよね。
完全に外界に依存しきっている万能なので、
この万能感が全く満たされないと危機に陥ってしまうという
そういう万能でもあります。
これも非常に脅迫症の話と似てくるんですけど、
望みさえすれば現実が浮き出すということっていう感じですね。
実際そうなっているわけではないですよ。
望んで泣き声を聞いた母親が解釈をして動く、
これが実際ですけれども、
赤ちゃんの主観の中に入って考えてほしいんですよ。
自分が不満になり泣きさえすれば
ミルクがどこからともなくやってくるわけじゃないですか。
主観の中ではですね。目もちゃんと開いてませんからね。
1日目、2日目あたりだったら。
少なくとも外界はちゃんと見えてませんので、
まさに外が勝手に動き出すわけですよね。
それってどういうことかというと、
なかなか恐ろしいことでして、
だからちょっと自分が何とかって思ってしまったら
やばいわけですよ。
なぜならば主観にこうして現実が動き出すわけですから、
何かを思ってしまうということはですね、
そのような現実になってしまうということを意味してしまうんですね。
だからあれ、戸を閉めただろうかっていう思いとともに、
戸が閉まっていないという現実が出現するわけですよ。
その人にとってはっていうんですよ、もちろん。
火をつけっぱなしにしただろうかという不安が脳内に発生した瞬間に、
もう多分その人はですね、
どこにいようとガスコンロを見に行くという行為を取らされるわけですよ。
なぜならば、それは現実の問題と出現してしまうからですね。
これってあれですよね、ある種のSFとすごくよく似てるじゃないですか。
何かを思ってしまうとそれが実現してしまうという怖さですよね。
何にも思っちゃまずいわけですよ。
ジョージという人が人を跳ねたのではないかという考えに苦しめられるという話がですね、
平気で嘘をつく人たちの冒頭に出てきて、
私はそれを読むセラピーの1で紹介してるんですが、
まさにそういうことで、この考えが出現してしまうために
夜中とかにですね、何キロも離れたところの橋のたもととかまで戻って
跳ねてないことを確認しなければならないんですね。
大変に厄介な病気ですね。
だけどこれは非常に幼児期の万能感というものと
同じ事態が発生して、自分の意思ではないわけです。
不意にそういう考え方というものがやってきたら、
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もうそれに対応して現実というものが動いていかなければならない。
自分の意思がどこにもないわけです。
自分としては行きたくないというのが意思ですからね、どっちかといえば。
でももう行くしかない。恐ろしいから。
これを万能感と言うとともにですね、
どこが万能なんだって思われるかもしれないんですけど、
万能ってそういうことだと思うんですね。
意思をして自分がしっかり動いて、
お金を稼ぐとか何でもいいですけど、病気を治すとかいうのは
万能でも何でもないですよね。
それは現実的対応っていうやつで、
非常に限られた力しかないってことじゃないですか。
万能というのは力が無限にあるってことなので、
逆に言うと完全に依存しているということでもあるんですけれども、
だから完全に依存しているわけですよ。
自分は動かされる存在になってしまっております。
ジョージみたいなケースでは。
よくこういう人いるじゃないですか。
お腹のあたりにガンになったかもしれないと思うと、
ガン細胞ができている気がするっていうような人がいらっしゃるんですけど、
これがまさに万能ですよね。
思うだけでできちゃうわけですよね。
思ったら何でもできてしまいますよね。
あの辺の川に橋が架かったらいいなと思ったら橋が架かるみたいな話じゃないですか。
だって思っただけで物質が変化していくっていうのは結局そういうことになりますよね。
赤ちゃんは明らかに本当にそういう世界に生きていた時代があったわけですよ。
私たちみんなあったわけです。
不満に思った途端に結果としては何かがちゃんとなされていくっていう。
もちろんそれは周りがそうしてくれてるんだけど、
私たちの主観にはそうは映ってなかったんですよ、当時は。
意思を持つことすら必要なく現実が動いていくということがあったわけですよね、過去。
多分私の思うにここに戻る時が我々はあってですね、
ここに戻った時にそういう万能的な一種の念力思考みたいなものが実現しちゃうんだと思うんです。
自分の中でですね。
これがですね、だからジョージは最後にというかこの話の最後の方でですね、
悪魔に祈るという話になってくるんですよ。
大変呪術的になってきちゃうんですね。
これは彼の思考というものをすごくよく反映していて、
つい考えてしまうことが実現してしまうのではないかというか、
つい考えてしまったらもうそれは半ば実現しているから恐ろしくなって、
それに対応に追われてもうヘトヘトになる、動かされていますからね。
で、これに対して自分は完全に無力なわけですよ。
万能なんだけど完全に依存しきっている。
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彼は実際にその本の中の説明ですけれども、
現実対応能力がとっても低くて、奥さんにもそう言われているし、
とにかく弱いってことを言われているんですね。
つまり現実の能力がすごく著しく制約されているんだけど、
でも自分の思考はそんなにも強力なんですよ。
ちょっと考えたことが実現しているという恐怖に苛まれるレベルで、
思考に振り回されているわけですね。
で、こんなに思考万能だとですね、やっぱり我々はつまり、
思考、自分の主観、主観とか思考とか不満、
そういったものが念力みたいなものですよ。
もうだから考えるとか念じるとかいうレベルですよね。
これが現実と直結している感じじゃないですか。
私はあそこで人を跳ねたのかもしれないと思ったら、
もう跳ねたものと見なされて動いて確認していかなければならないほど、
現実と自分の思考が直結している。
自分がここが手が悪いのかもしれないと思うと気になって眠れないというほど、
つまり自分が思うってことがですね、
現実に直結していくということが起こるならば、
やっぱりその人は最終的には念力に頼りたくなるじゃないですか。
この問題を悪魔とかに解決してほしいって常時は言うんですけれども、
同じですよね。何でもいいと思うんですよ。
このことを何とかで乱にいくとか、
このことのためにどういった魔法をするとか、
すべて非常に事実的になってくるわけです。
思考と現実が直結しているならば、そういうふうになりますよね。
私が自分が困ったことの一つにですね、
忖度というのがある。
察するということがあるなと思ったんですよ。
この脅迫症というのは、つまり不安神経症と脅迫神経症というのは
よく似ていると思うんですけど、
自分の思考が現実になっているみたいな、
あるいは自分の思考が現実になっていくっていう脅迫症の場合は、
そういった何か、具体的な何かを思いついてしまうと、
それが実現するっていう感じをありありと抱くみたいな感じ。
多分だからそれは、自分が幼少期の一番最初の赤ちゃんのときの
一種の成功体験に戻っていっていると思うんですが、
そういうことなんだと思うんですね。
考えただけでミルクがやってくる時代があったから、
だいぶ昔の話ではありますが、あったから、
やっぱり自分が現実に対して無力だと、
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すっかり何かに依存しているんだけど、
それでもうまくいかないとなった時に、
ここに戻ってきちゃうんだというところがあると思うんですよ。
不安というのも似ていて、
なんか生きていくのが不安だと脳内によぎると、
その不安がリアルなものになってしまうんですね。
直結しているんで。
だから不安神経症と呼ばれるものと脅迫神経症と呼ばれるものは、
思考回路として、思考のスタイルとして、
よく似ていると思うんですけれども、
察するっていうのも、
ちょっと完全に同じじゃないですけど、
ちょっと似てるなって思うんですよね。
言わなくても分かってほしいって言うじゃないですか。
私が今回困ったのはこれだったんですけど、
これは言われなければ決して分からないっていうことで、
言わなくても当然分かるはずだって話になって、
こじれたんですけど、そういう事例が立て続けに起こったんですよ。
この件に関して考えると、
まず私が苦しむ原因ですね。
これはそういうことを言われて困っているというのではないんですよ。
やっぱり私が心のどこかで察しきれない失敗をしてしまったっていう思いなんですね。
この罪悪感が自分を責めるんですよ。
察しきれなかったということって、
つまり相手の気持ちを勝手に損なくしちゃってるんですね。
察しきれよって話じゃないですよ。
察しきれなかった失敗に自分が必要以上に悩むってことなんですけれども、
その時に私の心の中でどうしてもですね、
怒っている相手のイメージってものがリアリティを持ってきちゃうんですね。
怒っているかどうかなんていうのは分からないわけじゃないですか。
でも私の心の中では怒っている相手ってのがありありと感じられてくるわけです。
こういう事態を招くと。
察して欲しいとか、心に傷つくとか、傷ついたとかって言うじゃないですか。
この傷問題もちょっと前の番組で問題になったんですけど、
意図的でないかみたいな話になった時に、
そこに議論の余地があるんだと思ったんですけど、
傷つくっていうのは非常に呪術的までいかないかもしれないですけど、
やっぱりかなり呪術的な感じがあるんですね。
心は傷ついていることが分からないですよね。
でも傷ついたものと見なしちゃいますよね。
それはしかも大概の場合、と思った途端に起こることですよね。
私はひどいことを言われた。
あんな風に言わなくてもいいのにと思って心が傷ついたみたいな話って、
実はすごく自分の思いというものと自分の現実というものを直属しているという感じ。
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直結させているという感じがあって、
この直結感というのは多分不安神経症的なものとすごくよく似ているだろうと思うんです。
結局それは私の脳内で勝手に考え出したこと、しかもほぼ意思はないんですよ、そこに。
別に自分がこうしようああしようというのはなかった。
大体の場合、怒っている人の顔が繰り返し思い浮かんじゃう時とか、
自分が怒られた時のことを繰り返し思い出してしまう時は、そうしないようにと人はするじゃないですか。
この辺大変脅迫症的だと思うんですけれども、
怒っている人の顔が振り払ってもって言うじゃないですか、振り払っても振り払っても思い出されてしまう。
気が済まない話しましたけど、手を洗うのはやめられないとか、確認しないと気が済まないとか、
仕事中毒の人だと仕事を終わらせてしまわないと締め切り云々や仕事の進捗とは別に済ませてしまわないと気が済まない。
これはつまり自分の心の中だけで完結している事象ですよね。
そこに問題はないわけですよ、現実の世界の中には。
つまり現実は無視されるんですよ。
これは養殖技万能感の特徴だと思うんですけれども、
現実に何が起こっているかは関係ないんですよ。
自分の中で不満が発生したと。
だから何とかされなければならないんですよ。
幼児の場合それは事実ですよね。
でもこの問題なのは思考のスタイルだと思うんです。
戸は大体閉まっているわけですよ。
閉まっていなくたって、だから絶対泥棒が入るとは限らないわけですよね。
だけれども確認しに行かないと気が済まないわけです。
つまり気を済ませることが全ての動機づけになっていく。
現実というものとは関係なくなっていく。
そこに問題があるわけでもトラブルがあるわけでも何でもなくても
自分の心の中の負、ネガティブ、その発生が
現実というものが自分の心の中のネガティブに対応しなければいけないという感覚なんですね。
これは感覚なんだと思うんです。
だから相手が本当に怒っているかどうかは分からないんですよ。
というかどうでもいいんですね。
だけれども相手が怒っている表情とかそういうものが繰り返し
自分の心の中でざわつかせる。
これは心の中だけで起きているかもしれないネガティブですね。
これを払拭しなければいけないというふうに思ってしまうところが
四色万能感なんですね。
心の中でこれが起きたらもう対応して何とか現実をしなければいけない。
これ明らかに順番がおかしいですよ。
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さっきの幼児の場合と同じでミルクが欲しいというのが最初に来るなら順番としていいんですが
ミルクが欲しい。だからミルクを要求しミルクを飲む。
これが現実の手順ですよね。
でも実際にはそれができない段階では不快感が発生した。
何かが行われてくれなければ困るというのは依存なんですけれども
現に何かが行われて後から自分はミルクが欲しかったことに気づく。
つまり後から対応するべき問題が見えてくるという
主観的にそういう順番になっているんですね。
これが多分現実対応力というものを非常に狭く感じたとき
自分が実に無力だと感じたときに私たちが取る最後のスタイルの一つなのかなと。
つまり一番初期の段階まで対抗しているので
両軸対抗というやつですけれども
しているので自分がすごく無力になっているという感じのときに抱くスタイルなんだと思うんです。
対応できない。もうこの問題に自分は現実的には処理できない。
だから繰り返し繰り返し現れるこのネガティブというもの
ネガティブな感じというものが現れなくなったらいいのにという
一種呪術的な何かだと思うんですよ。
なんとなく現実には問題があるんでしょう。
怒っている人がいるんだから。
いや、いると自分が思っているわけですからね。
心当たりがあるということですよね。
でも逆に言うと心当たりぐらいしかもはやないんですね。
こういうふうになってしまったときには。
で、ここから先なんですけど
例えば脅迫症の人というのは
やたらと家計簿をつけるというのがよく指摘されるんですね。
これはさもありなんなわけですよ。
家計簿をつけるということは現実の対応になっているわけじゃないですよね。
ギリギリなってなくもないんだけれども
実はなってない面もあります。
だってお金が足りないときに本当に足りなくなったら
そこに家計簿だけ残っていてもダメなわけじゃないですか。
お金が本当になくなりました。
だけになってしまう。
それに対応するということが必要になってきますよね。
ここが難しいところではあるんですけれども
つまりどんどんどんどん家計簿を取るという方向に
方向にと心が向かうということは
それが現実対応の役に立つという限りにおいてはいいんでしょうけど
一歩間違うと呪術的なものに近づいていってしまうわけです。
記録が正確でさえあれば安心だみたいな感じになっていく。
そうすると不安が発生するたびに家計簿を見るみたいな
見たからといって問題は解決しないんですけれども
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見ることで一つの何か
一時的にであるにせよですね
安心感を得る。
つまり閉じまりの確認とよく似てきてしまうんですね。
離れれば離れると必ず思考は発生する。
私たちはそれを不思議に思うわけです。
いやだって2回も見ればもう絶対に空いてるはずないじゃん
というふうに考えるんだけど
そういうことでは全くないんですね。
自分の心の中のざわつきだけが問題で
それと現実がどうこうしてるかは関係なくなっていくというのが
病なわけですから。
幼児の場合それは病なわけじゃなくて
それしか生きるスタイルを持ってないから
そういうふうになるしかないわけですよね。
ネガティブなことが発生して
それにこうして現実が動いてくれるということを
期待するようなスタイルになっております。
察してほしいという文化も日本にはあるわけだけど
これも大変だから脅迫的になっていくわけですよね。
多分どういう理由かはいろいろあって
今日全然説明しきれないんですけれども
この人が察してくれるということに
ある程度はどんな文化でも依存すると思うんですよ。
だけれども甘えの文化なので
この部分はこの国では多分強いんだと思うんですね。
やっぱり察してほしいというふうになりやすいし
察しなければいけないというふうになっているんだと思うんです。
そうすると察されなかったときのショックは大きいですよね。
察してもらえなかったということは
一本は違うと見捨てられていくみたいなものに
つながっていくと思うんです。
にもかかわらずコミュニケーションは
なるべく節約したいという感じがあるじゃないですか。
日本人は全部を説明しない美徳みたいなものは
今はそうでもないにせよ
昔は結構強かったと思うんです。
これってつまり言うと表明すると伝達するということには
何て言うんですかね
負荷が大きすぎると言うんですか
そういう関係であるならばもうダメだみたいなものがある。
よく言うじゃないですか。
でも言わなきゃわからなければ言ってもわからない
なんかこう別れ話とかの時に出ますよね
でもこれなんかですね
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すごい偉い先生が自分の弟子とかに向かって言うセリフでもあるんですよね
言わなきゃわからないようでは言ってもわからないと
それは多少とも事実もあると思うんですけども
これはつまり念力に近い世界ですよね
念じれば動く。赤ちゃんはそうなんですよ
念じて動かしてるわけだから
この念じて動くということは念じちゃったら動いちゃうということにも当然なるわけだから
それが脅迫症の問題なんですけれども
察するというのもすごく似てると思うんですよね
念じてるわけじゃないですか。ある意味
察してほしいと
察されないと傷つくんですよ
みんなもっと笑顔で平和的にいてくれればいいのにって念じるわけじゃないですか
穏やかに接してくれればいいのにって念じるわけですよね
それなのにドアバタンと閉じられたり
大声で怒り出す人がいて
察してもらえないと傷つくわけですよ
すごくここには
魔術的というのまでは行かないでしょうけど
やっぱり万能感がある気がするんですね
万能感まで行かないが
万能感一歩手前のところまで来ている感じがします
念じるということによって
結果が出るはずだというような認識があります
だから念じで伝わらなかったというときにですね
自分が悪かったというような感じは持たないんだと思うんですね
苦しむんですよこのような人々は
察されなかったほどに苦しむんですけれども
良くないのはコミュニケートしなかったことではなく
察するということができない空間に入ってしまったことみたいになっていくんですね
これはつまり
いろんな形で起こると思うんですけれども
コミュニケーションの疎後が起きたときに
心が傷つくっていう事態を多分招くと思うんです
言ってることの言葉がきついとか
声がでかすぎるとはあると思うんですけれども
実際にはそういうことではなくて
察されなければいけないはずだっていう
これは多分ですね
あなたが察しなかったのはいけないんだって
責められたことがあるんだと思うんですね
これもだから非常に私たちの文化は長所としてはですね
非常に気が利くってことを生み出すと思うんです一方で
短所としてはどうしても周りの人を
用事扱いするような形をとっていくので
問題に対応しきれなかったときには
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様式対抗みたいなことがいきなり起こっちゃうと
赤ちゃんの立場がそれに近いじゃないですか
泣けば何でも叶うというのは
ある意味独裁者より偉いんだけど
放置されると途端にその立場は
最も危険なところまで落ち込んでしまうという
つまり万能であるか大変な危機であるか
ということになるんですね
察する文化も似てると思うんですよ
察し合ってる間は素晴らしい関係なんだけど
察し損ねますよねどんな人だって
途端にそれは到底許せないことになってしまい
自分は一気に無力感を抱え込むことになるんだと思うんです
私思い出したんですよ
長くなってるなあこれ
私思い出したんですが
昔どっかに遊びに
朝早朝にどっかにカブトムシ取りに行くとか
なると思うんですけど
夏で朝で気持ちも良かったんで
行こうとした時に妹がグズって
イラッとして置いてったんですよね
すんごいいい気持ちになって
いろいろ外を歩いてカブトムシ取れなかったんですけど
戻ってきたら母にめちゃくちゃ機嫌が悪かったんですよ
すごい怒られたんですね
一生外にいろみたいな感じなわけですよ
このことに割と僕は
今思い出したくらいなので
大したトラウマでもなんでもないんですけど
こういうことが私の恐怖感にあってですね
察し損ねる失敗というもの
事態を察して上手くやるということを失敗すると
ものすごく自分は攻め立てられるんだという
今回の事態もこれと似てる感じがあったんですね
察していかなければいけないということはですね
逆に言うとどうしてもこういう期待が芽生えますよね
察してくれていいはずだという期待が芽生えます
察してくれていいはずだというのは
ものすごく自分をある意味過小評価しているわけですよ
美容師みたいじゃないですか
察してくれていいはずだと
でもそういう文化圏なので
どうしてもですね
そういうのって多くの人が感じると思うんですね
一生懸命察している生きているわけですから
明らかにこれは日本人はみんなやっています
アメリカ人は十分の位置も察してはくれないし
そういう文化ではないので
コミュニケートしないものは
要求と見なされないというところがありますから
これも行って体験しないと
なかなか私たちなんかには分からないんですけどね
なぜならば困ったこともいっぱい起こるんですよ
察しない文化は察しない文化で
察する文化は察する文化で
困ったこといっぱい起きますけれども
だから長所と短所は同じことなんですよね
で、察しないということになってくると
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私は本当に敏感なのに
ものすごいドアをバタンと閉め続ける人は
察してくれないわけですから
そうすると急にこう
何て言うんですかね
無力感に苛まれると思うんですね
察しなければ分からないのかという失望
それはつまり自分が有能力というものが
半ば奪われていますよね
これで言ってもダメだったらどうしようみたいな
そこまで考える必要は本当はないんでしょうけれども
そこまで考えなければならなくなると
これは一個の事例だからあれですけれども
こういうことがほとんど日常的に起きているわけじゃないですか
そうすると察し損ねる恐怖感というのは
半端ないわけですよ
そういうことで悩んだことがある人はですね
どうしてもやっぱり察してもらう気持ちの良さというものと
これは一体感があるので
察してあげる、察してもらうということによって
うまくいってる時の気持ち良さとの
反転があるわけですよね
逆転するとものすごく苦痛を感じなければならないと
こういうことなのが背景にあるのかなと
そうするとフランスの精神科医が言ったようにですね
日本の文化というのはすごく脅迫的だというのは
いろんな意味で正しいんだろうなという感じがするわけです
要するに察し合いということをずっとしなければいけないから
コミュニケートするということはそれだけでももう
相手に対して屈辱を与えているようなところがあって
当然自分にも屈辱を与えることになりますよね
例えば結婚式の時はいくらを包むということも
聞くことは許されないわけです
コミュニケートはもう封じられているわけですよ
なぜならば、ここが逆接的なんですけど
それはあまりにもみんながお互いによく知りすぎていることだから
それをわざわざ聞いたり確認するというような恥を
お互いに与えるわけにはいかないんですよね
ところが実は誰も知らないみたいな話になるから
そこで〇〇点みたいなのが書いてあって
〇〇時には3万円って書いてあるんですけど
実はそれは不思議な現象なわけですよね
無力なんですよ
無力だからこそ万能なんですね、私たちって
察し合って万能を位置しているから
だけれども、ということは察することに失敗すると
突然弱者の立場に転落し
危機が発生すると
これに自分はきっと傷つくんだろうなと
だから察し合う、察し合うとして疲労していくわけですよ
顔色を伺うということをしてしまうんですね
機嫌はどうだろう、この人今日機嫌いいだろうかと
全然この話はグッドバイブス的ではないんですけれども
自分は多分これをしないようにしないように
42:02
グッドバイブスでやってきて
だいぶうまくいってるんだけど
やっぱり察するのに失敗したということに
直撃されてみると
途端にこの幼児期万能感のところに戻ってしまって
念じたくなっちゃうわけですよね
察したくなってしまうわけです