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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
今日は短く切り上げられる気がします。
というか、切り上げないとならない事情があるので、
多分、終わった時にも変な気持ちにならないで済むんじゃないかと。
休むということなんですけど、
今日テーマにしたいのはですね、
休むと言ってもあれです。ごく普通に休むのではなくて、
何か心身が不調になったとか、長期離脱するみたいな話ですね。
休むのは甘えだという表現があるじゃないですか。
休まなきゃならないのはしょうがないとわかってるんだけど、
どうしても休むとなると甘えてるような気がしてしまうという表現、変じゃないですよね。
ですけど、この表現で甘えという言葉がほぼ100%ネガティブな意味を帯びてますよね。
この文脈で出てきている甘えということに、いい感じは全くしません。
ドイタケオさんの話なんですけど、甘えの構造ですね。
あの中で彼は序文で大変面白いことをおっしゃっていて、
序文といっても何度も改訂してるから、改訂審判に新しい序文を付けるんですよ。
ということは序文は後から後から追加されていって、一番新しい序文。
変な言い方なんですけど、つまり本が出たのが1970年とか60年だったとして、
1990年に付いた序文みたいなのがあるわけで、
それが後から出てきている序文で大変面白いことがあって、
最初自分がこの甘えの構造を書いた時の甘えにはポジティブな意味しかなかったと。
そのネガティブな意味で出てくる言葉は甘えという言葉が入ってなかったんだと。
例えばひがみとかねたみとかこだわりといった言葉がネガティブ、甘えのネガティブな、
甘えというものがある世界におけるネガティブな現象で、
そのねたみとかひがみとかそねみとかこだわりといったものが精神病理なんだという話をしているんです。
だから甘えと精神病理が絡んでくるわけなんですけど、
こだわりというのはわかりやすいですよね。
例えば強迫神経症というこだわりがあります。
あるいは変質症というこだわりがあります。
つまり私の例で言えばタスクシュートみたいに時間の記録を変質的につけるというのはそんなに編集的とも言いますよね。
つける人っているじゃないですか。
いるわけですよ。
強いこだわりを感じるじゃないですか。
これがつまりネガティブなんですよ。
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ところがこのこだわりなの、ねたみなのという言葉のどこにも甘えという言葉が入ってないんですよ。
で、どいさんはこのねたみとかこだわりということに甘えのネガティブな意味を込めているのであって、
甘えという言葉そのものはポジティブな意味しか持ってなかったというふうに書いてある。
ところが近年になってそれが逆転。
近年というのはつまりどいさんにとっての情報を書いた近年になってその意味が逆転しつつあって、
甘えというのがネガティブな意味しか持たないようになってきていると。
さっき言ったとおりなんですよね。
休むのは甘えのような気がするって言ったときはもはやネガティブな意味しかないじゃないですか。
で、そういうネガティブになってきたということは重大な問題で、
例えば甘やかすとか甘ったれるという言葉があってこれらはネガティブな意味しかないと。
最初に出した本の中では甘ったれるとか甘やかすという言葉は実はほとんど入ってなかった。
あるいは一つも入ってなかったのかな。
つまりそれは甘えの類義語とかではないというふうに彼は考えていたんだそうなんですね。
だから甘えという言葉の一連の甘え用語みたいなものの中に甘やかすとか甘ったれるを入れるべきだとは
ちっとも考えなかった、考えつきもしなかったということを書いていたんですよ。
定義に近い話になるんですけど、そもそも甘えというのはですね、
これは大変グッドバイブス的だと思ったので、何度か読んでいる本なんですよ。
入試問題とかでも読んだことがあった本なんです。
本じゃないけど文章なんですよね。
これのどこを読んでいたんだろうと思うくらいなんですが、
甘えというのは基本的にはお互いが好意を抱いている二者関係の中で、
一方が他方に対して相手が喜ぶだろうと思ってやる好意のことみたいな定義なんですね、
土井さんによると。
これは私はもう、これはグッドバイブスじゃないかって思ったわけです。
つまり二者関係の中において、お互いが好意を持っているということを前提としてですね、
相手が喜ぶだろうということを好んでするということは、
それはもう一者に限りなく近いですよね。
一つ意識ですよね、明らかに。
実際そういうこともあるんですけど、
これはもう一者に限りなく近いですよね。
一つ意識ですよね、明らかに。
実際そういうことも土井さんが書いていて、甘えの構造の中にもですね、
これは仏教的な考え方をベースにしているんだというのは書いているんですね。
つまり一対不二みたいな表現ですよね。
不二は二つとないです。
不自由の不というやつに不利の不ですね。
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有利不利の不に、にですね。
二者なんだけど、二者ではないっていうようなね。
そういう感じになって、しかもそれをベースにしているということですよね。
お互いが好意を持っていることはもう分かっているとお互いに。
その上で相手が喜ぶであろうことを好んで自分はするということを甘えと言うと。
ここにネガティブな意味って一切ないですよね。
もちろんこれ全体が気持ちが悪いとか、これ全体が受け付けられないとか、
それはすでに何かを恐れている感じでしますけれども、そういう話も出てきます。
でもこれ自体を悪であるというわけにはいかないと思うんですよ。
お互いが、例えば要するに恋人同士みたいなもんですよね。
恋人同士が自分が好きにやることは相手が好むことであるということに
自動的になってしまう場合、これを甘えと言うんだと。
さっき途中で出てきた甘やかしとか甘ったれというのは、
そのちょうど対義語に相当するということなんですね。
今では甘え甘ったれ甘やかしって全部同じような意味に感じられるんですけど、
野井さんからするとそれはちょうどこう、いわゆる似て異なるってやつなんだけれども、
反対の意味になって、どっちも甘ったれも甘やかすもですね、
前提として両者に好意がないことが分かっている。
さっきは両者がお互いを好いていることが分かっているだったんですけど、
逆転するんですね。両者がお互いに好意がないことが分かっている。
少なくとも好意があるとは思っていないときに、
無理やり甘えを成立させようとすると、例えば甘やかすという好意が出ると。
それはお互いが好意がないにもかかわらず、
相手が甘えるように仕向けようとするという好意。
これを甘やかすというんだし、
お互いが好意がないことが分かっていて甘えようと、
しかしそこで無理やり甘えようとすると甘ったれるという好意になるんだと。
この2つの言葉の定義はともかくですね、
言葉は土井さんとしては甘えの一種としては認めていなかったということなんですよ。
これが大事なんですね。
あの本が出たのは大正時代とかではないので、
あの本が出たのは戦後なわけですよ。
戦後にその甘えの構造が出たときには、
甘えというものが少しもネガティブじゃなかった。
ポジティブな意味しか持っていなかったのに、
本が出てロングセラーになってずいぶん経ってから逆転してしまったということなんです。
いつしかこの世の中、日本の中からでしょうね、
甘えというものは消えてしまって、
甘えというのが何か全く逆の意味を持つようになっていくということが現在進行していて、
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これが大変家庭内とか学校とかで大変厄介な問題を引き起こしているというふうに序文で書いてあるだけなんですけれども、
非常にですね、しっくりくる分析だという感じがしました。
これもこの本の中にあることなんですけれども、
どうしても専門用語が外来語じゃないですか。
例えば今で言えばHSPとかって外来語ですよね。
私今このテーマについて本を書いているんですが、
この一節でようやくですね、なんかこう再発見。
再発見なんですよね。何度も読んでいる本なんで。
発見という感じがしないんですよ。
新発見さが全くなくて再発見なんですよね。
新発見さが全くなくて再発見なんですけれども、
HSPとか発達障害ですら、デベロメンタルディスオーダーだから発達障害まんまなんですよ。
全然日本語じゃないんですね。
HSPに至っては訳語をまだ作り出してすらいませんよね。
こんなに流行っているのに。
今そういう時代ですけどね。
インターネットとかコンピューターとか一切訳さずに持ってきちゃいますけど、
それにしてもHSPとかでは困るわけじゃないですか。
繊細さんと言っているけれども、
たぶんそのまんまの意味に取れないですよね。
この問題、つまり問題というか今流行っているこの現象。
HSPとかADDとか私はくくってしまって、
怒られたくない症候群でくくっているんですが、
これも言葉としてはバチッと来ないですよね。
今作り出しているというか、こういう説明的な表現しかできていないんですが、
つまり甘えの問題と考えればたぶんいいんだろうなというふうに、
これは昨日も言ったようなことですけど、
そこでさっきの一番最初に言った休めない、休むのは甘えだというやつが出てくるんだと思うんですよ。
まさにその通りなんですよ、これ。
休むのって甘えなんですよ。だから休まなきゃいけないんですね。
甘えが肯定的な意味しかなかった時には、
少なくとも肯定的な意味しかなくはなくても9割型肯定的に捉えられる時代であれば、
容易に休めたと思うんですね。
ところが甘えが肯定的でない時代には休めなくなる。
休むのは甘えだというのは、いつの時代も同じなんだと思うんですが、
これが悪だとするか善だとするかで、根本的に話が逆転しちゃいますよね。
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悪であれば休めないんですよ、その人。会社に行かなくても休んでないんですね。
休みは休むのは甘えであり、甘えは悪いことだから。
甘えが良いことであって初めて休むことには意味が出てくるので、
甘えが悪いことだということになると、休むことは甘えであって甘えてはいけない。
ただ会社に行かずに家にいるだけで、ちっとも休んだことにならないんですね。甘えたことにならないから。
最初に定義で出てきた通り、二者関係なんですね。甘えというのは。
相互に好意を持っていることを前提として、相手が喜ぶことをする。これが甘えなんですよ。
休むということにこれを適用できないじゃないですか、私たち。
相互に好意があることが分かっていて、相手が喜ぶからそれを好んでする。
そういうのがピッタリ来ないと思うんですよね。
休むことが多分一者になってしまっているからだと思うんですよ。
休んでいる人が二者関係を意識できなくなっているのが、多分現代的だということなんだと思うんですね。
ほら、休むこととか寝ること、永期を養うって言うじゃないですか。
全く違うんですよ。全く違わないのかもしれないけど、永期を養うって言うとすごくこうですね、
iPhoneの充電をするみたいな感じ。充電とも言いますよね。充電じゃないんですよ。充電って一者じゃないですか、完全に。
電気来ますけど、その電気どこから来るんだっていう話が実は二者なんじゃないかと思うんですが、
いずれにしてもiPhoneとかの充電だと一者なんですよ。
その人は休むことによってエネルギーが回復するみたいな話をしているだけなんだと思うんですね。
甘ったれるとか甘やかすというのは、つまりグッドバイブスの用語で言えばですね、甘えるというのは一つ意識で愛するみたいな感じ。
あるいは愛されるみたいな、一つ意識の中で愛したり愛されたりするっていうのが甘えるなんです。
甘ったれるとか甘やかすというのは、バラバラ意識の中で愛したふりをする、ないしは愛されたことにするみたいな感じなんだと思うんですね。
すごく違うというか、ほぼ完全に反対語になっているんです。
だけど今では甘えると甘やかすと甘ったれるが全部同じになっちゃっている。
ということは、この世にはバラバラ意識しか存在しないと言っているのと同じことになるわけです。
これが大変危険な事態だということをドイさんが書いていると。
ドイさんもやっぱり甘えるというのが二者関係であって、どうして二者関係かというと、人は誰も一人では生きられないからだって書いているんですね。
これもグッドバイブスに完全に同じことが書いてありましたよね。
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人は誰も一人では生きられないから、だから休まなければならないわけですが、
だから休めないということは、つまりその休めない人にしてみればですね、
人は本当は一人で生きていかなければいけないってことだと思うんですね。
これもパッとこうやって言ってみると、どっちがどっちというのは難しいですけれども、
人は誰も一人では生きられないというのは本当じゃないですか。
でも人は一人で生きていかなければいけないというのも、今の時代だとすごく本当っぽく聞こえるじゃないですか。
でもこの二つって相入れないですよね。
一人で生きていかなければならない、一人では生きられない、そしたら死んじゃうということになります。
これがこの番組では繰り返し登場している、世の中では有名じゃないバリントさんの言葉なんですけど、
赤ちゃんってやつですよね。赤ちゃんは誰も愛してくれなければ死ぬほかない。
この状態というのは実は私たちは一生続いている。
西洋人にとってはやっぱりこれは苦しい表現なんだと思うんですね。
西洋人ってよほどこの独立心というものを育んできたと見えて、
赤ちゃんは一人で愛されなければいけていけない。
でもそれは赤ちゃんだからしょうがないのであって、これが一生続くということは認められないということになりやすいんだと思うんですよ。
そこをあえて言わなきゃならなくなったから、一時愛という表現が出てきたわけですよね。
パッシブに愛すると。
それは日本人だったら甘えるで一言で済むんだけど、その表現が成立するためには相互に愛、
相互に好意を抱いているよというコミュニティがどうしても前提条件として必要で、
私はそれがアメリカとかイギリスとかフランスに、いやドイツにはないっていうふうには絶対思えないんですよ。
現にアメリカにはあるんですよ、そういうのは言ってわかったことなんですけど。
なきゃ無理ですよね。とてもやってられないです。
相互に好意がないことを前提にして生きていたら、黙ったものじゃないですよ、本当に。
これも昨日言いましたけれども、かなび一つ買いやしないんですよ、それは事実そうですけどね。
かなび一つ買いやしないんですけど、本当にそんなことをやってたら疲労感でいっぱいになっちゃいます。
このことを一つ捉えてみてもですね、疲れを取るためには休むことになるじゃないですか。
休むということは甘える以外の何物でもないんですよ。
あの、寝てるというだけでもそうですよね。
一人で生きていかなければならないとか、休むの甘えであるということになったら、寝てちゃダメじゃないですか。
戦国時代の武士みたいなもんですよね。
俺は夜寝ていても人が霧にやってきたら即座に目を覚ますみたいな、あれになっちゃうんですか。
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ちっとも休めないという感じがするんですよ。
あの時代の平均寿命は29歳とかそういうもんですよね。
今80歳とか90歳とか言ってますけれども、
そりゃ寝ている人間が即起きなければならないような時代ではですね、
休まらないですよね、体は。
で、それがいいっていうことに多少なりつつあるから休めないわけですけれども、
やっぱりアメリカにいて寝るということはですね、
日本にいて寝るということとは違ったわけですよ。
寝てる時にやって来る人の危なさと数が全く日本とは桁違いに違うんで、
だから甘えていられるということは、私は社会の成熟度をそのまま意味すると思うんですけれども、
今一生懸命ある点ではですね、ある面では逆転させようと頑張っている雰囲気があって、
多分その逆転させられる、それは多分全体的にそうなろうとしているというよりは、
かなり部分的にそういう現象が起こっているんだと思うんですけど、
その流れに巻き込まれていて、巻き込まれなきゃいけないんだというところにですね、
きっとHSPとかADDとかASDということが出てくるんだろうと、そういうふうに思うんですね。
この休めないということは、もうあちこちで言われているんですけれども、
私、昔々、本当に大昔、一番最初の本で、今ではちょっとあれもどうかなと思いつつ出した、
ヤーキーズ・ドットソンの逆U字という曲線の話をしたことがあるんですね。
単位のない話なんです、あれ。緊張感はゼロで、例えばボーリングで一本残りましたと、
当然スペアが取れますと、一本のスペアを見事取りましたと、
次の一投って緊張するじゃないですか、そのせいでうまくいく人と、
そのせいで失敗する人と出ますよね。
そういう意味でですね、程よい緊張感が最高のパフォーマンスを発揮させるんだというのを
言ったのがヤーキーズ・ドットソンなんですね。
これは実に単位のない話だと私は思うんですね。
緊張しすぎると失敗するけど、緊張感が足りないと失敗すると。
程よく緊張すると、なんか信じられないぐらいうまくいくことがあると。
あれがまあ、流行ったんですよ。結構ウケたんですね、あれ。
気がつくと頻繁にビジネス書にあれが登場するようになって、
まあ喜んでおいたらいいんだろうなと今では思ってるんだけど、
途中は盗用された気持ちになったりもしたわけです。
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今はこれ以上流行らなきゃいいなというのが本音なんですね。
何が言いたいかというと、緊張感がなければダメなんですっていうのと、
この休むものは甘えなんですっていうのと、甘えはネガティブに捉えるっていうのは
全部よく似てるじゃないですか。
私はあるとき以後、逆U字の頂点がお山のてっぺんみたいになったんですけど、
頂点よりも緊張感がぬるいという人は今どきいないんだということに気づいたんですよ。
特にライフハッカーとか、パフォーマンス発揮できないで困ってる人、
全てが山の頂点よりも右側のより高い緊張度にいるんですよ。
そのことに気づいて、あのU字よくなかったなって思ってるわけですよ。
緊張しないでやっている人がいない、少なくとも本を読む人の中にいないのに、
両方を対照的に扱ったのはまずったなと思ったんですよ。
今の人たちはみんな下げればうまくいくのに、うまくいかないときは当然緊張感を上げてしまうわけですね。
下げる方法がわからないというのが現代的なところにあるわけです。
休めないのというのは休むということ、つまり緊張感を下げるということなんですが、
それができないわけですね。それは甘えだということ。
甘えなんですよ。甘えれば緊張感が下がるんだけど、本人は上げること以外は何も考えていないので、
休むのは緊張感を下げること、甘えるのも緊張感を下げることなんだけど、
私がやりたいのは緊張感を上げることなんですということになっちゃってるんですね。
山の右側にいる人がより余計右側に行って、
つまり寝ているのに等しいようなパフォーマンスレベルまで下がっていくことを目指している
という感じになっちゃってるんで、あれを出さなきゃよかったと私は今は思っているわけです。
面白いことにというのも変ですけれども、緊張感というのはですね、
緊張しない状態が続いてみると即座に気付くんですよ、自分が緊張し始めているということに。
私2年前、グッドワイブスをまだ知らなかった頃、このことがよく分かっていませんでして、
つまり緊張状態をどの程度まで人が切り下げていけるかということが分かっていなかったから、
結局私も山の右側だけで生きてたんですね。寝ているときは別として。
そうすると何が起きるかというと緊張というものに対して鈍感になっちゃうんですよね。
自分が緊張しているからこうなっているということに気付かないんですよ。
山の緊張、つまり高緊張か高高緊張か超緊張かの3通りしかなくて、
自分リラックスしていると思っているときでも過緊張なみたいな感じなんですよ。
だからリラックスしているとうまくいくのはそうなのかもしれないんですけど、
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本当に山の左側に出るということがほとんどなかったんですね、きっと。
だから身体的な不調に、それが私の場合は的面に現れるんだけど、
肌は基本的には常に腫れているし、肩も慢性的に凝っているし、
頭が重いというのも常にあるし、
一番あるのは冬になると風邪をひくとか、
あと普通に下痢をしているみたいな状態が、
ご飯を食べている人はいないと思っているんですけど、いたらすみませんね。
そういう状態だったわけですね。
これで私普通だと思っていたんですよ。
あるいはリラックスしてこうだぐらいに思っていたんですね。
リラックスというものを知らなかったんですよ。
今はちょっと緊張するとすぐ気づくので、
あ、そっか、リラックスしていないと緊張しているということは
分からなくなるんだなということが分かったんです。
大変良いものというかリラックスがというかね、
緊張って大変嫌なものなんですよ。
すぐ分かるんですよ、緊張しているという状態に入ると。
リラックス状態というものが常時やってくるんですよ。
リラックス状態というものが常時やってくるとですね、緊張感に敏感になるんですね、やっぱり。
緊張感を持たないとダメなんですって話を聞くとうんざりするというか、
もうそこを一つ意識でいきたいとは思いますっていうぐらいな感じなんですけど。
緊張するときにはやっぱりですね、今の話の流れから自然とそうなるんだけど、
必ずわらわら意識なんですね。
二者関係の中で行為を持っていないことが前提になってしまう。
セミナーとかやると分かりやすくて、行為を持っていることが前提の人たちの間で喋っているときは
甘えというものが自然に成立しているのでパフォーマンスはすぐ最高になるんですが、
ここにいる全ての人の素性が知れないとなると、途端に落ち着かなくなるわけですよ。
で、わらわら意識に入るわけですね。行為を持っていることが前提にならないから。
そうすると途端に緊張感が生まれてきて、そのとき気づくわけです。
昔はそれが気づいてなかったわけですよ。いつも緊張していたから。
で、この感じに入ったときにわらわら意識というものになっちゃうわけじゃないですか。
その状態に置かれるわけですね。みんなわらわらで一人一人どう私の話を聞くか分からないという状態で喋る。
パフォーマンスは落ちるわけです。このときに自分はですね、余ったれるわけですよ。
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確かにそうだなというのは土井さんの本を読んでつくづく思ったんですが、
笑いを取ろうとするとか、今は余計なことをやっちゃうんですよね。
あるいは、寝ないでちゃんと聞いてほしいとか、
今このような心理状態なんだからうまく話せなくてもしょうがないんじゃないかとか、
いろいろ思うんですけど、全て甘えを成立させようという努力なんですね。
前提条件に行為がないので甘えようとするとおかしなことが起こるわけです。
これを多分おかしな行動って呼ぶんだろうなと思います。
こだわってみたりというのはこういうときにやるんですよ。スライドの何かにこだわってみるとかですね。
あるいは時間きっちりにすることにこだわってみるとかですね。
そういうときに起こるんですよ。起こらないんですよ、そういうことは。
甘えというものが何の努力もなく成立している空間では親子の間でそういうことを普通しないじゃないですか。
する親子っていうのは多分かなり難しい家族関係なんだと思うんですね。
普通はしませんよね。親の前でいいパフォーマンスを見せようとか、緊張していることへの言い訳をしようとか、
親の笑いを取ろうとか、芸人とか知りませんがでもしないだろうな。
しないですね。私は絶対そういうことをしません。親もそういうことを絶対私にはしないです。
ということを考えてみると、これってやっぱりですね、いかに通常から甘えが成立するときに
向かっておくということが大事なんだろうなと思います。
やっぱりその逆に向かっちゃってるんですよね。少なからぬ場所で。
今、グッドバイブスを知って、常にそのことを意識して、常にそれを意識すると
コミュニティーが変わるんですよね。
基本二者関係をベースに考えていけば、二者の間ではできるんですよ。
二者の間でそれが成立しさえすればですね、基本的にはその二者、
二者っていうのを拾えることができるんですよ。
人と人との関係をもっとよく分かれていけばいいと思います。
2社の間ではできるんですよ。
で、2社の間でそれが成立しさえすればですね、
基本的にはその2社、2社っていうのを広げていく感じで、
えーと、甘えという言い方は今ネガティブにしか響かないならば、
まあグッドバイブスですけれども、が成立すると。
そうすると、甘ったれずに済むんですよ。
これがやっぱり大事かなというふうに仕事でもですね、
休む上でも思うんですね。