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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
音量調節動画がすっかり元に戻っちゃっているんだけど、
しばらくこれで容赦していただいて、
また来週あたりから頑張ってみようかなと思っています。
なんていうのかな、これでそもそもバックグラウンドミュージックで、
私の声が聞こえないところがあるというお話はですね、
申し訳ないと思うんだけど、そこまで一言一句大事に聞いていただかなくても大丈夫なんですっていうのもちょっとあります。
別に1.5倍速とかなんでもどう聞いていただいても全然結構で、
これによって決定的に何かがわかるというようなものを僕はしゃべっていないような気がするんですね。
それを言っちゃうとほぼ身も蓋もないんだけれども、
これはものすごくわかりやすくしゃべってはいないんですよ。
もうその場の思いつきをその時々でただただしゃべっているだけなので、
本当に何も事前に計画も準備もしていませんからね。
今日これから何をしゃべることになるのかさっぱり想像もつかないんですよ。
間も空けていないし、編集もしていませんし、そういうものなので、
BGMとのやつはやってやれることなのでやりますけれども、
そんなにですね、ちょっと聞いてみたんですよ。
だけど語尾が確かに聞き取りにくいなというところはあるけど、
これが聞けるようになったからなんだということはないなという感じのところが多いので、
というかほぼ全部そうなんですよね。
ベースとなる知識も、これを300回くらい聞いていただくと何となくは入ってくると思うんですけど、
これだけじゃ無理なんですね、これ。
精神分析的な話っていうのは、
本を読んだってよくわからないところがいっぱいありますから、
臨床やらないと多分絶対わかるようにならないんだろうなって思います。
体型だってないですから。
体型だっているのもあるんだけど、その体型結構デタラメですからね。
ただ、なんていうんだろう、デタラメって言っちゃいけないんでしょうね。
その体型はその人の中では嘘はないっていうような体型なんですよ。
だけどそれは科学的だとか再現性あるかというとすこぶる疑わしいという体型なんですね。
フロイトが描いたことになっている図も、
ああいうふうには表現できないんじゃないんだろうかと。
でも、ある種の人はこういう表現によって臨床をやっていると思っても差し支えないんだろうなと。
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もうこう言っている段階で何を言っているのかよくわかんないじゃないですか。
でも僕の中ではですね、僕のは臨床じゃないですけど、
個人的にセッションをやったりしている中でなんとなくわかるんですよ。
それはそれとして、というような話しかしていないので、
ノイズ消すとかですね、このアノとかエイトを取るとか、
そういうことをすることは困倫罪ないと思ってください。
そこに僕は何にも価値を見出せないんで、
それするのはそれなりに時間も手間もかかるじゃないですか。
そうしてもね、これを何かに仕上げたいという気持ちが僕の中にないんですよね。
それだったらやらない方がいいぐらいのノリになっちゃっているので、
これ面倒くさいからやりたくないというのとはまたちょっと違うんですよ。
これでお金をいただくみたいなボイシーとかでですね、
しつこく申請だけは出しているんだけど、
ということをやってもいいんだけれどもなぐらいな気持ちはありますが、
だからすごく聞き取りやすくするっていうのは全然違うなという風に私の中では猛烈に思います。
これはメモみたいなところがありますからね。
話す内容を考えていないんだけど、
なんか余儀ったのは昨日の振り道。
Zoeさんという私の名優というか、
KURAZOGOさんが名優と言ってくださっているので名優という言葉を使おうと思ったんだけど、
名優ばっかりだなと思って。
名優いっぱいいるんですよね、私は。
人とコラボするのが好きっていうか、すぐやっちゃうっていうタイプなんで。
昔はですね、それがちょっと軽薄かなと思ったんですけど、
軽薄いのは僕の素質だと思っているので、
今では全然気にせずどんどんやっていこうと今では思います。
無切層にですね、切層というものに価値を置けなくなったんですね。
多分僕これもね、本質的に私はそういう人間なんだと思うんですよ。
いっぱい軽薄だとか言われているうちに我慢していたんですね。
切層というものを身に付けようみたいにしていたんだけど、
全く興味がなくなりました。
これ人間50年くらい生きると、我慢するという能力が失われていくんじゃないかなという気も少しします。
グッドバイブスって教わったからっていうのはあるんだけど、
めんどくさくなってきていたっていうのもすっごくいっぱいあるんですよ。
その辺とミドルクラシス関係あると思うんですよね。
私の中の長寿命の力がすこぶる弱くなったんですよ。
人間なんてどうせ永遠に生きるわけじゃないじゃないですか。
なのに整合性とか切層とか言っていても、大事にしている人はそれを大事にするメリットはあると思うんですけど、
僕の場合はただ我慢するだけになっちゃうんで、
06:02
こういうことは一切やめようと気がついたら、
気がつかずにやっていることはいいと思うんですよ、まだ。
で、名誉だらけなわけですけど、
そうは言っても相手の人は名誉だと思っていないかもしれませんけどね。
子供の頃はぼっちだった傾向が強い人間ですから。
でもつるんでいる人が一人や二人はいるんですよ。
アウトロー的な人とつるむという癖が結構あって、
周辺的なところに二人ぐらいはいるんですよね。
そういう幼少時代だったんですけど。
幼少時代の話を思い出してみると、
私結構クラウスのケイトさんとか腹の万丈感があって、
エピソードいっぱいでいいなとか思っていたんだけど、
自分も細かく見ていくと、
そんなに順調で穏やかなイベントとは言えないなっていうのを
時々思い出すようになりました。
それほどの話じゃないんですけど、
例えばうちって周りがドブとかばっかり土地だったんです。
たぶんあれはもともと一帯が故障か何かで沼ですね。
それを埋め立てていった土地なんで、
子供の頃には面白かったんですけど、
落ちるんですよね。
ドブみたいなところに。
今結構問題になっているじゃないですか。
ちっちゃい子供が一人で歩かせてはダメだみたいな。
昔はそういうのは一切なかったんで、
今思うとすごいめちゃくちゃ危険なことを割としていたんですよ。
自転車でそういうドブの縁の舗装。
本当に道じゃないですね。
何を積んでいるんですかね、あれ。
何の話をしているのか分からなくなったんですけど、
板切れみたいなので、ただただ繋いであるんですよ。
あれ落ちたら死んでたんじゃないかと思うんだけど。
そういうところをですね、
マスレティックの自転車で小学校を始めたぐらいの時にやっていて、
よく死ななかったようになって、今では思うんですよね。
その頃私、四脳神経はダメな方だったはずなんだけど、
そういうことはできちゃってたんですよね。
本当に男の子しかやらないんですよ、まずね。
だから死ぬとすると男だっていう感じで、
その辺にヘビトカゲっていう、
すごいでかい、見た目はサンショウオウみたいなんだけど、
割とどこにでもいる天然記念物的なやつや、
ヘビトカゲみたいなやつがいるんですよ、うようよ。
結構うようよいるんですよ。
見てもすごい悲鳴を上げて自転車でガーって走るという、
どうでもいい話ですね。
これで8分とか言ってる。
で、Zoeさんがですね、
昨日フリニチというやつで、
ポトキャストなんですけどね、
タスク管理で変わったことっていう話をされていて、
そうそう、その話をしようと、
どのタイミングか、昨日夢の中かなんかで思ったんですよ。
何かというとですね、
彼女がタスクシュートに出会ったという話なんですけど、
09:03
繰り返しただ一つ、基本的なキーワードは一つなんですよ。
これはめっちゃいいやんと思ったと。
で、こう言われると、
当然どこがめっちゃいいのかを聞きたくなるんですけど、
ここから先があんまり展開せず、
めっちゃいいが繰り返される。
こういうところがタスクシュートってちょっとあるんですね。
で、私はこれを説明する、
めっちゃベック頑張ってるスムーズなんですけど、
これが難しいんですよ、確かに。
だからめっちゃいいで行きたくなるんですけども、
続きどうしても僕もやっぱり聞きたくなったんで、
聞きたくなった以上は私が考えるしかないなって思って、
これを考えているのが、
私のここ5年から10年の仕事になってはおりますから、
考えてはいるんですよ。
今一番近いのが、
とはいえウィニコットなんですよね。
ここからウィニコットが出てきている部分もあるんですよね。
グッドバイブスで思い出して、
必死に読み直して、
非常に興味深いっていうところもあるんだけど、
一方ですごく長らく僕の中でタスクシュートとは
イコール対象だっていうのがずっとあるんだけど、
これじゃ説明としては全くダメじゃないですか。
聞いてて意味が分かりにくいと思うんですよ。
これでBGMの後ろに回って声が聞き取りにくいと、
そのせいで分かんないんじゃないかと思われるかもしれないですけど、
これは話がめちゃくちゃだから分かりにくいだけなんですよ。
クリアになれば分かりやすいとかいう話ではないんですね。
だからここを頑張ろうという時にはなかなか慣れないんですよ。
ここを頑張るぐらいならウィニコットを読もうって感じなんですよ、
私の中では。
こう繋がるんですね。
移行現象か。
移行対象と移行現象も違うんだけど、
移行空間という考え方があるんですね。
これは野球場なんですよ、私にとっては。
人間っていうのは、フロイト流に言うと本能だけでは生きていない。
まずこれがあるんですね。
最近言うのがカワイハヨ先生の本能の中では、
ワイルドネスっていう言い方。
ワイルドネスが足りなくなると人は神経症になる。
これは言っていることは全く同じだと思うんですね。
ワイルドといえば、サバンナのライオンみたいなのが思い浮かべるかもしれないけど、
のぎさくすびでもワイルドだ。
これは非常にいい言葉だと僕は思っているんだけども、
何でもいいからとにかくワイルドさというものを取り戻せたという、
カワイハヨさんにしては非常に珍しいメッセージだなとも思うんですけどね。
フロイトはこのワイルドという部分で、本能という部分で性というのが一番いっぱい出てくるわけですね。
セックスというのか性欲ですね。
ただこれも非常に文化的に表現させられるじゃないですか。
僕らはワイルドネスといえばハイセスだと思うんですけど、
この辺もフロイトのお得意の場面ですよね。
12:00
これすら文化的にきちっとやらされるじゃないですか。
だからトイレットトレーニングでしくじるというトラウマが起こるわけですよ。
全部そういうふうな枠組みで彼らは考えているわけですね。
結局僕らは人工物じゃないから、生物だから当然ワイルドなんだけど、
服着ずに街に出られませんよね。
よっぽどそれが本能的だとしてもやっぱり無理だと思うんですよ。
昔だからニューディストビーチとかそういう話が出てくるんだと思うんですよね。
ここも文化的にちゃんとしろと言われていくんですよ。
その文化的にやるというのはどうやりゃいいんだろうということなんですよ。
これがいやいや、ただ言われているルールにきちっとのっとって
ひたすら頑張ればいいじゃんってさらっと言えちゃう人は
脅迫症っぽくなっていくんですよ。
ここが僕は直感的に理解できる部分だろうと思って
こういう言い方をしているんですね。
ここを一生懸命説明すればそれはできますよ。
例えば鍵かけるというのはまさに文化的行為ですよ。
本能的に例えば一回も見たことがないと思うんですよね。
鳥が巣に鍵をかけているのがセコムしていますと。
聞いたことがないと思うんですよ。
だからこの本能ででも鳥は巣を作るじゃないですか。
しかも巣を守りますよね。
セコムの考え方というのかな。
その本能は動物には相当過等な動物でも
ここは過等って言っちゃいますけどあるんですよ。
あるんだけれどもアリだって巣を守りますからね。
セコムはしないんですよ。
だから文化じゃないってことですね。
文化に見えるけれども本能だと。
でも僕らは逆なんですよね。
本能じゃないんですよね。
セコムしたいという本能はどこかにあるんだろうけど
セコムしちゃうのはもう契約書とか書いて
お金とか払って文化でやっちゃうわけですよ。
こういうところに神経症というのが現れるわけですね。
鍵をかけただろうかという言葉にあたらけになるとか
そこにはもっと表面的な記憶の生き違いというようなものではなくて
もっと文化と本能の葛藤みたいなものがあるはずだと
フロイトは多分考えて
この辺が最もフロイトで極一般的な本で語られる部分って
これだけになっちゃうんですよね。
これだけ語られてもって感じじゃないですか。
僕なんかこれだけ語られてもなんだかさっぱりわからないし
これだけで話が終わっちゃうんだったら
フロイトって何なんだよっていう話なんだけど
ここから一気に進んでいくわけですよ。
でも臨床で悩んでいる人の
やっぱり極一般に出てくるのは
まずこういうことなんだろうって思うんですね。
まずどこかから説明しなきゃいけないんですけどね。
万能感というのがあるんですよ。
幼児万能感。
この万能感というのは今のセコムで大体説明できると思うんですけど
マッチリセコムやってるから
俺はもう今日ぐっすり寝られる。
15:00
これが万能感ですよ。
いやそれ絶対正しくないだろうって思われるかもしれないけど
問題なのは感覚の問題なんですよ。
そして多くの場合そこまでしなくても
ぐっすり寝られるじゃないですか。
つまり万能感というのは
だからですね脅迫症の人から見ると
迂闊なわけですよ。
いやいやいや
えのすごい中国人の組織とか言ってくれば
そんなの一発でダメにされるからっていう風に考えるかもしれないけど
まずこの種の考え方っていうのは無駄です。
人を心理的な脅迫症に追い込む以上の機能は大体有さない。
万が一のことが、万が一のことがっていうのは
文化ではしょっちゅうなんだけど
大体それは何の役にもならない。
万に9999の方が起こる可能性が
圧倒的に高いわけですからね。
こっちに依拠して
1万分の9999
それよりおそらく高い数字の方を
信用できなくなってしまうと
完全に何か症状というものが現れるんですよ。
これを恐れと不安からおかしな行動っていう
言い方をしてもいいともちろん思うんですよね。
その方が分かりやすいですしね。
まずこの幼児万能区っていうのは
非常に大事なものであって
私たちは生まれてきてすぐの時には
本能におそらく近いものなんだと思うんですよね。
本能に近い部分で
安心だと、お母さんと一緒にいれば安心だと
その観点はうかつかもしれないんだけど
お母さんどんな人か分かんないし
お母さんは最強じゃないからね。
こう考える赤ちゃんのほうが健全であることは確かなんですよ。
そうは考えはしないんですけどね。
最初に万能感があると
ユニコットっていう人は考えてますよ。
この万能感がどこかで破られるだろうかと
破られますよね、普通に考えるものは。
ずっとお母さんと一緒にいれば安心
お母さんと一緒って番組もあるじゃないですか。
お母さんと一緒にずっといれば安心かって
そんなことはないから一人の日するから
でもその時にいきなりババッと一人立ちするというのは
とっても危険なことなので
心理的に破綻するのでそんなことになったら
少しずつ移行しなければいけないよっていう考え方を取ったので
これが移行対象とか、移行現象とか
移行空間といった発想になるわけです。
私がやっぱりパッと一番思い浮かべるのは
夕暮れの中一人っきりで
一人っきりでいることを忘れて
一生懸命砂場でママごとをしている女の子なんですね。
彼女はそうやって万能館の中に浸っている時は
お母さんと一緒にいるつもりになっているんだけど
気がつくと真っ暗になって
誰もいなくてびっくりした時に
ママごとセットをおり出したりするじゃないですか。
この時にトラウマ、小さなトラウマ
累積外傷とかいったりする言葉もあるんですけど
18:03
小さなトラウマを得るんですね。
この二つは両方大事なんです。
万能館を保持して
いつしかお母さんと一緒にいなくても
お母さんと一緒という気持ちを
キープできるんだけど
本当に一緒にいないので
それが破られてしまう瞬間がある。
これが外部と出会うとか
現実と出会うとかいう言い方をする。
その時少し必ず人は傷つくと
この体験が重要だというような
言い方をするんですね。
この辺のことはミニコットの
わりと一般的な本であまりお勧めしませんけど
子供はなぜ遊ぶの?というような本
書いてあることは書いてあります。
ただ何かあれを普通に読んでしまうと
今のような話の含みが一切ないまま読むと
何か遊びは大切ですみたいな
本にしか読めないように
あの人の書き方ってそうなんですよね。
上手いこと書いて
ごく一般的な話でもしているような顔をして
実は全部精神分析の話してたりするんで
分かりにくいんですよ。
僕のこの番組もきっとそうだと思うんですけど
とにかく言うと一人ですよね。
一人じゃないと思いながら
一心不乱に遊んでいる女の子みたいな
イメージが欲しい。
これが文化じゃないですか。
と思いません。
これは僕は文化だと思うんですね。
このある種の思い違い
だけどそこには思い違いをさせるための
様々な道具立てというか
舞台設定があるから
思い違いができるんですよ。
これって何かに似ていません。
僕はこれは野球とか
劇場とかライブとか
そういったものだと思うんですよ。
全部文化なんだと思うんですよ。
結局劇って一番そうですよね。
人形劇なんか特にそうなんですよ。
人形劇とママゴトって似てるじゃないですか。
つまり物体という意味では
物体なんですよ。
そこにあるのはお茶碗じゃないし
使っている水もお味噌汁じゃないんだけど
そういうものだとみなすことで
僕らはそういうものだと
見ることができるようになりますよね。
ここが現実に
イリュージョンをかぶせるみたいな
このイリュージョンは
グッドバイブスでいうイリュージョンと
同じなんだけど違うんですよ。
またこういうややこしいことを言い出しましたけど
とにかく
例えば野球で
ファールとホームランはめちゃくちゃ違うんですよ。
だけど打球そのものは
そっくりだというケースもあるわけですよね。
野球詳しくない人は
すいませんけれども
ポールのこっちかそっちか
ラインのこっちかそっちかで
点と地の違いが起こるわけですよ。
それによって100万円くらい
もっとかもしれないですよね。
違うそのくらいの価値の違いが
出てきちゃうんですよ。
でもそれはイリュージョンじゃないですか。
その打球そのものの価値って
そんなに違う数ないんですよね。
大ファールだろうとホームランだろうと。
だけれども
そこはルールで線を引いてしまうわけですね。
21:01
これと全く同じようなことが
というか全く
おそらく本質的に変わらないことが
文化というものの中で
常にあるはずなんですよ。
将棋がそうじゃないですか。
相手の王様を取ったり
一手差で取られて
そこに何の違いも大してないんだよと
めちゃくちゃ違いますよね。
それでタイトルが取れたり取れなかったり
するわけですよ。
こういうものは全部
文化なんですよ。
それを勝ちたいとか
ホームランしたいというところの奥底に
本物のようなものが
おそらく眠っているというのか
活性化しているというのか
そういうことがあるんだと思うんですね。
でも私たちは本物を剥き出しでは
何もできなくて
必ず文化的ルールの中で
それを表現するんですよね。
自分の攻撃性を
バッターボックスに立つ
というやり方で表現してみたり
あるいは
弾を投げるというやり方で
表現してみたり
それも小さな枠の中に
落ちる弾を投げるとか
曲がる弾を投げるとか
そういうやり方で表現しなければ
人間って生きられないような
生き方をしているわけですね。
ここのところは
全部移行空間となっているんですよね。
可能性空間というものです。
その可能性空間でやることは
何かというと
遊びなんですよね。
子供はなぜ遊ぶのという本の中で
書かれている内容は
全部こういう含みがあるんです。
だからあれをさらっと読むと
わけわかんないというか
非常に表面的でつまらない本に見えるんだけれども
あの中で書いてあるのは
そういうことなんですよ。
つまり本を作って
本を
上手く活用して
上手く遊ぼうねという
話なんです。
全く遊べなくなったら
それはもう精神障害なんですね。
例えば
人形劇を見ても
いや、あれは
ボールに布をかぶせてあるだけで
それ以外のものには見えません。
平床という病気の中には
この種のことを主張する
大真面目に言う人っているんだけど
これに近いことを
病気では全然ないんですけどね
いう方っていらっしゃいますよね。
いや、そんなのはただ
何かを真似しただけじゃないかとか
そんなのは
例えば菩薩なんて
ただの紙じゃないかとかね
いろんな言い方ができるんだけれども
要するに遊べないという風に
精神無線で一括りに
されちゃうんですよね。
遊べないんですよ。
プレイベースボールじゃないですか。
遊ぶんですよ。
それは結局本当じゃないっていう含みが
そこにあるんだけど
一方でそれを本気でやらないと
同時にあるんです。
タスクショートっていうのは
つまり移行対象なんですよ。
僕はそういう風に解釈しているんです。
あの中で遊べるようにならないと
24:01
ダメなんです。
ここのところがGTDとかよりは
ずっとよくできているんですよ。
意図してるか意図してないかは
創作者に、製作者に別として
これは非常に遊べるように
作られているんですね。
この時間枠の中で
このタスク全部やれるだろうかどうだろうか
そんなことどうでもいいじゃないですか。
ここが大事なんですよ。
そんなことは
ハールとホームランの線を引いて
分けるのと同じように
勝手に作った枠組みを
勝手に作ったタスクを
勝手に作ったルールなんですよ。
だけどこれを守ろうとすることで
仕事が前に進んじゃいます。
つまりこれを守ろうとすることで
現実に影響を与えられるんですね。
よくできた遊びとか
そういう風にできているだけでも
遊びであることに違いはないので
いざとなったらこれを
ママゴトセットなんかに
放り出してもいいんです。
で、うまく遊べているとき
私たちは万能感を持っている。
うまく遊べているとき
小さな女の子が
一心不乱に一人だけで遊んでいるとき
自分が一人であることを
忘れられているときに
お母さんと一緒にいて万能だと
安心していいと
これが人が万能感を持って
健全に生きているときに
できることなんです。
一方で現実検討式は
現実検討式という言い方をするんだけど
持っているんですよ。
だってその女の子だって
そのお味噌汁絶対飲まないじゃないですか。
思いっきりそれが
自分がお母さん役で
はいお味噌汁よとか言っていて
完全に入り込んでいるけど飲まないじゃないですか。
こういうことが人間にはできるじゃないですか。
なんていうのか
二人同時にいるみたいな
二人の人が同時にいるみたいな
そういうことができます。
そんなに幼い子でもできます。
野球選手だって
絶対分かっていると思うんですよ。
乱闘とか時々起こるけど
ここで殴り合いをする価値はないんですよ。
でも相手が一歩落ちたら
死にかねないくらいな感じで
殴ったりもするんですよ。
こういうことを両方と
またにかけるとしか言いようがないんですけど
空想をまたにかけているわけですね。
そういうことが
タスク習得というのが
できるんですよ。
やりやすいんです。
そういう含みが
僕は他に一般的なタスク管理では
全然ないと思う。
現実になっちゃってるんですよ。
遊べる要素がどこにもない。
遊べないと
僕らは万能感が
発揮できないんです。
万能感が発揮できていれば
すごくできるようになる。
だって野球選手とか将棋選手とか
すごいじゃないですか。
人間とは思えないような能力を
まさに人間的なんだけど
発揮できますよね。
そういうことができるのは
彼らが万能感を保持しているからで
これが現実だと思って
27:01
本当に生きにつくような
状態ではないから。
負けたらすぐ
将棋選手が取れそうですけど
完走戦というのを始めますので
傷ついているはずなんですよ。
負けるのだから。
ナルシズムはありますからね。
自分が勝つという現実を
想像して生きてきたじゃないですか。
やってたはずじゃないですか。
でも負けたというのは
この現実は
自分の外側にあったという
外側とぶつかるという
そういう体験を
必ずしなきゃならないんですよね。
野球やってると本当不思議ですよ。
絶対打てると思ったら
球を空振るんで。
あれが現実との
遭遇なんですよ。
僕の主観では
ホームランなんだけど
そうではなかったという現実を
見せつけられるんですよ。
こういうのが
小さなトラウマみたいに
いっぱいそこに含まれていないと
遊びにならないんですよ。
一方で
本当の現実というものが
走っているんですよ。
球投げて打ってるだけですからね。
しかもジャッジもいませんからね。
でもルールとして
何かがあれば
なんとなく成立するじゃないですか。
ややデタラメであって
ユニコットに言わせれば
精神分析はまさにそういうものなんですよ。
そこでママごとを始めるというか
プレイするんですよね。
プレイルールなのが
お父さんになってみたり
お母さんになってみたり
あるいはやってきた人が
息子になってみたり
あるいは恋人になってみたりする。
そういう中で
まずそれが握るようになることが
大切なんですよ。
全然できませんとやってきても
全く遊べませんという人は多分
ずっと黙ってるとか
そういうことになっちゃうわけですね。
でもすごい分析がやってくると
この沈黙、ひどい沈黙
みたいなものを
遊びの要素にしてしまう。
そこに何もなくても
ゲーム性が全くないところに
頑張ってゲーム性を見出す。
だから私は
逆説的な言い方になっちゃうかもしれませんが
ゲーミフィケーションという
発想はあんまり好きではないんですね。
何もないのに遊べるのが
大事だと思うんですよ。
そこには棒と石しかないですみたいな
そこで遊べるのが大事だと思うんです。
タスクシュートというのは
一つの道具なんだけど
この一個の道具だけで遊べる
っていうのがいいと
僕は思うんですね。
ここに余計なものを追加しない。
タスク完了すると
音が鳴るとか
失敗すると画面が赤くなるとかしない。
そうじゃなくて
たったこれだけの
時間を入れて
この終了予定時刻というものに
合わせようとするという遊びなんですよ。
だってここが1分遅れたから
何にも起きませんよね。
まさにファールとホームランなんですよ。
30:01
そこの線をどっちにまたごうと
本当は何にも起きてないんですよ。
大騒動がそこで起きるじゃないですか。
ワーとかって
あのワーが
必要なんだと思うんですよね。
一方では。
他方では負けた負けたって言って
帰っていくんですよ。
これも必要なんですよ。
これが両方同時にできるというのが
タスクシュートのいいところ。
今の話で伝わっているかどうかは
僕はかなかなか疑わしいなと思っているんですが
これも遊びなんですよ。
結局はね。
うまくいくかいかないかは
やってみなければならない。
ただあそこにいる数字が
これ数字でしかないじゃんって思っている間は
できないんですよね。
遊べてないんで。
まさにそれは人形劇が
布でしかないじゃんっていうのと同じなんですよ。
一方であんまり飲み込んじゃ
ダメなんですよね。
この終了予定時刻を踏み出したら
死んだ方がマシだみたいになるのはおかしいんですよ。
あの人形さん死んじゃったら
悲しくてもう私が
学校に行けないとかいう子供がいたら
ちょっと入り込みすぎですよね。
それは良いことかもしれないけど
良くないことでもありますよね。
そういう言い方ってウィンコットの本来
やたら出てくるんですけどね。
現実であるようでありながら
この言い方って正しいじゃないですか。
演劇の世界ってまさにそうじゃないですか。
野球場もそうですし
ママゴトだってその通りです。
まさにカウンセリングってそういうものなんですよ。
きっと。
タスクシュートもそういうものなんですよ。
間違いなく。
だから意向対称なんですね。
そしてこうやって
すごーく上手にやってるときに
お母さんと一緒なんですよ。
お母さんほら、終了予定時刻通りにやって
僕その時間で寝られますかなと。
そんなような感じなんですね。
これも一つのゲームの
やり方だってことです。
でもうちの母にそれ見せたって
わけわかりはしませんよね。
これが現実ですよね。
だからこの2つは
両方同時に平行的に進まないと
始まらない。
そういうものなわけですね。
これでだいたい
なんかだいたいでも
今日言いたいようなことは
ということで
これを思い出す間に
同じことをぐるぐるぐるぐる
調べるというのが残ってるけど
今日はなんかそれをやりたくない
思い出せないな
こういうことも起こっちゃうんですよね。
メモがないから。
たぶん、振り道で
ぞえさんがめっちゃいいと思ってくれたことは
こういうことなのかな
33:01
というふうに
僕は
勝手に推測しているんですけれど
そうそう思い出した。
北山細夫さん
そうだ
昨日もお話しましたけれども
彼は劇
劇をむしろ強調するんですね。
劇ですね。
だからゆうずるの話とかすごい
彼が私を非常に意外なことを書いていると
びっくりしたんですけど
結局彼はですね
もともとシンガーソングライターで
作詞家でもあって
超有名な人だ、僕は知りませんでしたけど
戦争を知らない子どもたちとか
この素晴らしい愛をもう一度とか
は知ってますからね、さすがに
教科書に載ってましたからね
教科書で散々歌わされたんで
後ろの方は
卒業式ではないか
まあいいや
彼は
何の人生生きているんだと思って
めちゃくちゃ才能がすごくて
実に羨ましいと思っちゃうじゃないですか
でも
昨日本久しぶりに読み直したら
なぜそういうところを読み落としているのか
と思うんだけど
でもあれは新しい本か
だから読み落としているわけじゃないですね
えーと
自分は歌が下手だから
歌を歌うのを諦めたんだ
みたいなことが書いてあって
わかんないんだよ
と思うんですよね
で、下山さんはですね
全然わからないじゃないですか
この道で成功したから
違う道でも大成功するみたいに
人には見えちゃうんですよ
本人の中では
自分はこれといったものが
見つけられるまま
違うことをやりだしちゃうんだな
みたいな
そういう感覚があるんですね
モラトリアムをぶんと引っ張って
モラトリアムでレコード大賞取るってどうよ
って感じもしますけれども
これも結局
レコード大賞はそうですよね
まさに
移行大賞なんですよね
そういう部分ってあるじゃないですか
どこまで行っても
どんなに歌がうまく聞こえても
本人は下手だと言ってるんだけど
つまり
どこか
それをやってる中で
本人の中では
他人にはそうは絶対見えないと思います
大人になりきれてないみたいな
モラトリアムってそういうことですよね
学生がずっと大学にいたい
みたいな
その感覚でレコード大賞っていうのも
本当不思議だと思うんだけれども
だから精神分析みたいなのを
やりだすみたいな
話を書いていたわけですね
僕は読んでもどうしても
何か釈然としないんだけど
本人にそういうところがあれば
結局そういうことになっちゃうんですよね
つまり
対抗っていう話ですよね
これも
タスクシュートにはあるところが
対抗できる
36:00
ここはすごい大事で
対抗ですよ
ある意味移行現象も移行空間も
移行大賞もある意味では
だってライナスの毛布
お母さん代わりじゃないですか
赤ちゃんに戻っている部分
つまりこれを繰り返して
僕らやっぱり生きてるんだろうなと
プレイベースボールは
子供がやることじゃないですか
いい大人が何億とかもらってやってますけど
でもやっぱりどこかで
よく言うじゃないですか大谷翔平さんは
少年のようだみたいな
少年は対抗じゃないですか
タスクシュートには
これがあるのが大きいなって僕は思うんですよね
ケアされるんですよ
どうやったらケアできるかというと
腸をやることの中から
生活に必要なもの以外を
全部削除すればケアになっちゃうんですよ
食事
睡眠
休憩
病気みたいなところもあるけど
これ要するに
対抗ですね
対抗に対応してくれるツール
タスク管理系で
ないと思うんですよね
私には
大人になる
だから最近
ちょっと話しましたけど
タスクメディアの話ですけど
あの中に対抗の仕組みが一つ入っていて
そこが
今までのGTDのツールと少し
違うところで
一見他人には分かりにくい
何かというと
この仕事のボールはどっちにあるのかリストがあるんですよ
いらないじゃないですかそれ
急遽的には
連絡待ちリストっていうのも
GTDにあるんでそれが近いなって
感じはするんですけど
急遽的には連絡が来たときに考えればいい
これ何のためにそんな
リストを用意しておくのかというと
僕が思うに
それを持っておくことで
ある意味それはケアされる
ケアしてる感じもありますよね
相手のリスト
相手の連絡を待つという
相手の部分まで抱え込んでいる
抱え込む
親みたいになってるんだけど
実はそのリストを見ていることで
自分が抱え込まれていくわけですね
大丈夫だから安心していいから
これケアです
つまり子供に戻ってるわけですよ
その部分って
そのリストを見ることで
安心できる子供にセコムしてるわけですよ
こういうことが
リストの中で
必要になってくるっていうことは
僕らが
大人になってみたり
繰り返す
ってことなんですね
ここも逆に
発想として出るわけです
いつまでも子供じえ
いちゃダメでしょうってことになるわけですよ
だから
さっき言ったように
今日絶対やる食事と睡眠以外の
リストを削除すると
人は罪悪感が兼ねないわけですね
39:00
そこで今度は長寿命が出てくるわけですよ
そのリスト消していいのかと
お前今日もっと元気だ
やろうと思えばできるんじゃないか
みたいなそういうのが出てくるわけですよ
この種の悩みは
僕はもう
百日白にして
山のように読んでます
ここでもちろん
そういう言い分も大事なんですよ
元気なんじゃない
仕事前に進めないとあれですから
その時に
あそってのが出てくると
僕は思うんですよ
結局それはどっちでもいいし
自分か
自分以外の誰も
それを判断してないんですよ
自分の中でどれほど長寿命が
エバってて
さもそれが外から言われているように
思ってしまうんですけれども
お前はダメ人間だって
それは絶対自分の心の中の声なんですよ
そういうことを全部含んでおけば
その中で遊べるはずなんですよね
もっともっと
あの計画はいくら立ててもいいんですよ
ただし
僕っていうのはまるであれですよ
小学生の
夏休みの計画みたいなものであって
全部おままごとの一種
だと思って置かないと
あれにのめり込みすぎると
全然機能しなくなるんですよ
それは全くのめり込めないと
同じことになっちゃう