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2020-09-16 38:16

【GMV 224】ライナスの毛布

イリュージョンでゲームする
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おはようございます。グッドモーニングバイブスです。
グッドバイブスでは、よくゲーム感覚って話を、プラゾンを継続されるんですよね。
ゲーム感覚というやつなんですが、
ちょっとニュアンスは違いますけれども、今日はそのゲーム感覚のお話をしようと思っていまして、
それでですね、基本的に今、ゲームっていうとパッと一人でもできるイメージがあると思うんですけど、
このゲームは多分、2人以上でやるゲームを意味することになると思うんです。
で、これって人間のすごいところだと思うんですけれども、
人間だけにしかできないかというと、割とそうでもなかったりするんで困るんですけど、
これほど広範囲にイメージしていただきたいんですけど、単純に2人でゲームをやることができる生き物っていないと思うんですよ。
子供でもできるじゃないですか。
幼稚園生がオセロやったりできますよね。僕もやったことが幼稚園時代あります。友達と。
それって、ある意味大変すごいことだと思うんですけど、
これがですね、人間関係の中にいつもいつも入ってきているという話をしている精神分析家がいるんですよ。
多分聞いたことは今ではないと思うんですけど、今じゃあすっかりこの日本では特にそうですけど、
育たれてしまったというか、ウィニコットという、心理学に詳しい人だと多分絶対聞いたことぐらいはあると思うんですけど、
一般的にはまるで知られてないですね、今となっては。
このウィニコットさんという人はもともと小児科の先生だったんですけど、
この小児科の先生が精神科やってる人、大変面白い人が多いんですが、
一番この人の発想で有名になったのが、
これも全然有名じゃない概念なんですが、異向対象という言葉があるんですね。
異向対象というのは、
これももう、どのくらいこう言われてもピンとこないですけど、
ライナスの毛布ってスヌーピーに出てくるんですよ。
要するにいつもタオルみたいなのを持っている子がいるわけですけど、そのタオルですね。
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ああいうやつです。
ああいうやつって、何て言えばいいんですかね。
話さない子って言いますよね。
その子にとってそれはすでにタオル以上のものであって、
でも、あれブランケットなのかな、なんでもいいんですけど、
ある意味お母さん代わりみたいな話になるんですね。
で、お母さん代わりと言ったって、それはどう考えてもブランケットなので、
ブランケット以上のもんじゃないんですが、
そういうふうに言ってしまうとですね、成り立たなくなるんですよ、ゲームというものは。
オセロもそうですが、黒か白かを特定の場所にしか置けないということになっているじゃないですか。
それをルールって言いますけど。
で、あれを相互にですよ、2人以上の人間がお互いに真剣に守る気にならないと、
意味をなさないですよね、全く。
ただのプラスチックの黒と白になっている、よくわからんコマになってしまうわけですよね。
ライナスの毛布がただのブランケットだということになると、
こういうことをウィニコットという人はすごく言っていて、
この先生の言うことの中に、オーバーラップということをすごく重視するんですよね。
ある世界とある世界が重なり合う部分の重要性というのをすごく言うんですよ。
ものすごく鋭い方だと、あるいはものすごくフェミニズムな考え方を重視する方だと、
このウィニコットという人はかなりフェミニストに嫌われそうだということが、
これ今の話だけでも何かピンとくるかもしれないですけど、その通りで、
ウィニコットはものすごくフェミニストには嫌われています。
精神分析はロイトを他一般にフェミニストには評判が悪いですが、
特にこのウィニコットは評判が中でも悪い。
しかも精神分析の中でも彼は大変異端的な人で、
ロイトに比べると誰もこの人の名前知らないと思うんですけど、
一時はアトラーなんかよりはずっと有名だった時期もあるような、
その時代に私生まれてないぐらいな感じで知りやしないんですけどね、そんなこと。
本で読んだだけですが、有名だった時代もあった人ですね。
で、今この話を延々しているのはですね、
私たちってイリュージョンまみれみたいな話を僕、時々しておりますけれども、
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ある意味イリュージョン抜きでは生きていけない生き物だと思うんですね。
それは人の主観はみんな違うというごく単純な意味でもそうなんだけれども、
それよりもですね、人間というのは、
なんていうんですかね、ある状態の中で、
人間らしくっていうんですか、
精神がちゃんと活動している時は、なんかいつもイリュージョンの中にいる時でもあるような、
そういう印象を受けるんですよね。
これが生きるってこと、人が生きるってことを結構ややこしくせざるを得なくて、
今日の話少しやっぱりウッドワイブスからニュアンスとしてずれてるんですが、
これがですね、ゲーム感覚ということと、
ゲーム感覚というより、僕らはほとんど四六時中ゲームしているようなものだと思うんです。
あの、部屋ってあるじゃないですか。
部屋って誰それの部屋とかって言うじゃないですか。
ここはママの部屋とか、ここは子供の部屋とか。
で、いつでも好き勝手に入るのは暴かられたりもするじゃないですか。
というようなことに、虫とか全然意味をかいさないというか、
そんなことは全く関係ないじゃないですか。
虫みたいな生き物、犬とかでもですね、よっぽどしつけないとそうだと思うんですよね。
つまりイリュージョンだと思うんですけれども、
この種のイリュージョンってすごい人間は、もうほとんど現実だと思い込んで生きているわけで、
しかもそれがだんだん現実になってっちゃうんですよね。
えーと、野球とかってそうで、あれ大変不思議なスポーツですけれども、
例えばフライを落とすということがごく稀に起こるんですね。
これ野球詳しい人、前提で喋ってますが、フライを取るのは簡単なんですよ。一番簡単なんですよ。
で、フライをプロが落とすということは、落下地点に入れればですけど、
まず絶対考えられないことでフライをローブに当てておきながら落とすというのは、もうあってはならないことなんですよ。
ところがこれがしばしば不思議なところで起きるんですよね。
昔、日本のほぼプロ野球で構成されたチームがオリンピックに出た時に、
レフトだったと思うんですけどね、外野を守ってたジージー佐藤という選手がですね、確か落としたか何かしたんですよね。
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彼はそれでですね、それがトラウマになって、すごくオリンピックに出るくらいだから、
西部の選手だったんですけど、すごく主要なレギュラーだったのに、しばらくタウンしか試合に出てこれなくなったし、
もう一部のネットではすごいですね、バッシングされてました。
国民を舐めるなみたいな書き込みを読んだことがあります。 国民を舐めるなっていうのもすごくイリュージョンなんですけど、
イリュージョンですよね、ゲームというものは。
ところがそれが現実になっていっちゃうんですよ、面白いことに。 だってあれはオリンピックだからあれですけど、
生活かかってるっていう言い方するじゃないですか。 ボールがどこに落ちたとかに生活がかかるんですよね。
そのボールが落ちたところによっては、来年の給料が100万円上がるか落ちるかが決まるわけですよ。
すごい変な話だと思うんですよね。 一方間違うと、そのボールを落とすということは、
殺される恐れがあったり、自殺しなきゃならなかったりして、死ぬっていうのはイリュージョンじゃないと思うんですよ。
この話もまたいろいろ複雑なんですけど、基本的に死ぬっていうのはイリュージョンじゃないと思うんですよ。
果たしてこう、ボールを、空中に上がっているボールをですね、
落とすとすごくダメで、取るとすごくいいっていうのは、これはイリュージョンだと思うんですけど、
でもそうは誰も思わなくなる瞬間ってあるわけですよ。 そういう時であればあるほど、試合を食い入るように。
多分僕が思うにですね、
ジージー佐藤などという選手は、 知らないって人もオリンピックだと見てると思うんですね。
私のようにしょっちゅういつもそれを見ているという人間と違って、 オリンピックの時だけ見ている人の方が、
実は真剣に見てたりするじゃないですか。それも一つのイリュージョンなんですけど。 その真剣に見るっていうのが、私たちがその、
なんていうんですかね、イリュージョンを受け入れるというのかな。 成立させているイリュージョンを
リアルだと取り違えれば取り違えるほど、 真剣に楽しむことができるわけですよね。
あれを全く楽しめないという、そういう病気もあるんですよね。
いや、あれはただ人間が勝手に決めたルールで、 布の、布製なんですけど、布で作ったボールを木で打って、
ワーワーやってるだけでしょっていう見方しかしないって人もいるんですよ。そういう人は、 それは精神機能の独特のあり方で、
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お人形遊びとかをする子供が、子供の時代から全く理解できない。 それはだって、
お人形だからつまり、物じゃんっていうことになるわけですよ。
で、何をやってもそうなんですよ。そうするとすごく独特ですよね。 現実世界というものが、
純粋に物理的な世界でしかない。でもこの種の人は頭がいいわけです。 すごく頭が良かったりするわけですよ。
ごまかされませんからね。で、そういう人にしてみると、 ただそういう人は当然コミュニケーションが苦手です。コミュニケーションというのは、
結局その、そのルール的なイリュージョンに基づいてやるものなので、
それを成立させる意識を持たないということになってくると、 コミュニケーションがすごいダメなんですよね。
やってられなくなるケースがとても多い。挨拶なんてその最たるものじゃないですか。 この種の
植物的なイリュージョンを一切
排除するっていう感覚は、 後期の自閉症という
障害とよく合わせて考えられていて、
あれですね、アスペルガーと呼ばれているやつですね。
で、そういう時に出てくるわけですね。で、コミュニケーション苦手じゃないですか。
アスペルガーの人って。で、挨拶とかとんでもないというか、そういう人もいるんですよね。
なんて言うんですか、とてもやれないっていう感じになっていくわけです。
だから多分お葬式とかもダメだと思うんですよね。 意味がないと感じられると思う。結婚式とかそういうものは全部同じようなものですよね。
非常にこう、イリュージョン、絶対そこにはあるわけです。
で、このイリュージョンが、
まあウィニコットという人はちょっと独特で、何より大事だという考え方を持っているわけです。
だからライナスの毛布だったりするわけです。
ライナスの毛布がお母さん代わりだというのは全くイリュージョンですよね。
でもそのイリュージョンがもうガッチリ結びついているわけですよね、現実と。
だからあの毛布を持っていれば友達とも遊べるし、学校にも行けるけど、あれを取り上げられるとパニックになると。
本当にパニックになるわけだから、イリュージョンに違いはないんだけど、イリュージョンではないんですよ。
つまり現実になってきているわけですね。
これをどうするんだろうっていう感じに、僕はそのウッドワイルスを受け止めている時によく思うことの一つなわけです。
多分なんですけれども、まず恐怖系のイリュージョンは必要であればそれを排除できるというか、
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それを拒否できるというのがウッドワイルスでは第一歩なのかなというふうに思っています。
不来を楽休したらですね、国民をなめるなという脅迫文のようなものを書いちゃう人の心理と、
例えばぬるいお味噌汁を出したら奥さん殺しかねない勢いになる人とはよく似たものがあるじゃないですか。
そこには猛烈なイリュージョンが、しかも多分恐怖なんですよね。
何かを失うという恐怖があると思うんです。
なんだかよくわかんないですけれども、ナショナリズムな何かを失うみたいな恐怖感があると思うんですよ。
で、そこまで行っちゃうと、それはそれで病的ですよね。
このナイナスの毛布もそうなんですけど、いつかどこかでパッと消えるみたいな言い方をするんですよね。
ミニコットはすごい変な言い方をする人で、ちょっと理解に苦しむ方が多いんですけど、僕読んでもよくわかんないというのがほとんど正直なところなんですが、
リンボー界というのが言うんですよね。私リンボーってホラー映画でよく出てくるんですけど、
何て言うんですかね、ゾンビの世界みたいな感じなんですよ。人形とか、ああいうライナスの毛布みたいなものはそこに行っちゃうっていう言い方をするんですよね、リンボーから。
つまり現実なのか空想なのかよくわからないような、そういうオーバーラップした領域っていうものを彼は言っていて、それはすごく言うんですけれども、
それが成立させられるようにするのが精神科医の仕事だっていう、そういう考え方、精神分析科ですね。精神分析科の仕事だと。
お母さんと、だからこの辺がファミリストに批判される部分なんですが、お母さんと子供がもう本当に一番最初の時期ですよ。
1年目とかじゃなくても、10日目とか3日目とかそういう時に成立する、独特の空間があるんだけど、その独特の空間になるものはどこにもないんだけど、みたいなそういう書き方なんですよね。
リンボー界なわけですよ。そこから毛布みたいなものが出てくるわけですね。
そのルールはないんですけど、それは、でもやっぱりそこにイリュージョンがあるわけですよ。
で、その子供が持つイリュージョンというのは、ここにお母さんがいるから絶対大丈夫みたいなイリュージョンなわけですよね。
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あのよく、ドラマとかであるじゃないですか。お母さんと子供が、昔あったんですよね。今はないですね、そんなドラマ。
お母さんと子供が一緒に誘拐されて、お母さんにしがみつくと。お母さんにしがみついてもダメですよね。
お母さんは誘拐犯より弱いから。でも子供はお母さんにしがみつくじゃないですか。こういうイリュージョンって、これがイリュージョンで、いやいやこんなところじゃもうお母さんにしがみついても無駄じゃんとかいう子供は冷めすぎていますよね。
で、そうなってしまうと、さっきのお人形遊びはできないということになるわけですよ。
だからどういうイリュージョンを自分がその時にどっぷり入り込むかということと、必要があるとパッとそこから抜け出すと。
これ、そういうことができるのは大人だと思われるんですけど、そんなことはなくて、子供だってパッとできるじゃないですか。
ごっこ遊びってまさにそうで、おままごとしてるけれども、その茶碗の中でやだらこ大事そうに扱ってたのを遊び終わるとパッと捨てちゃいというか、そこら辺に投げ捨てて怒られたりしますよね。
あれは必要に応じてそのイリュージョンの中にみんなで入ってパッと抜け出すことも可能なわけですよね。
私はこの辺だとね、よくなんとなく最近思うことが多くてですね。
ちょっとグッドバイオスじゃないですけど、ライフハックはまさにこれだよなと思うんですよ。
おままごとですよね、ライフハックってのは。 これができるかどうかが割と大事なんだと思うんですよ。
エヴァノートみたいなノートにですね、アイディアを書いていけばいいんだと。
それに対してですね、あんまりドライなこと言っちゃいけないと思うんですよね。 あんまりドライなこと言うと何にも得られなくなるものってあると思うんですよ。
いやいや、そんなことしたって無駄じゃんっていうのはサラッと言えるんですよ。それはちょうど誘拐された時にお母さんの手を握ったって意味ないでしょうというのと同じで、
意味ないかもしれないんですけど、そうじゃないんですよね。 これを言い出すと野球も全然面白くないし、人形劇とか論外になるわけじゃないですか。
そうすると何が残るかというと、何も残んないと思うんですよ。 ただ原始人みたいになっちゃうしかないと思うんですよね。
土の上に ただ座って
つまりそれは何一つイリュージョンを認めないということは、そういうことに近づいていくと思うんですね。
サスクシュートなんてのはまさにそういうもので、イリュージョンなわけですよ。 ここに書いてある通りにやりましょうとか
社会知観というのもそうですよね。12時になったらどこそこで待ち合わせしましょう。
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それはそうしなくたっていいわけだし、 全てイリュージョンを上に成り立っているわけなんですけど、いきますよね。
フライを取らなきゃいけないから頑張って取るわけじゃないですか。 全力疾走して。
でもそれは一つの約束ごとの上にただ成り立っているものでしかなくて、 それ自体が何か決定的なというか、絶対的な強制力を持つかといったら持たないですよ。
12時に行かなくたって文句が言われるかもしれないけど、 そこをあえてスルーすることもできるわけですよね。
だけれどもそうではなくて、例えばサスクシュートであればサスクシュートでは、 何かを開始したら開始しましたと押して、終了しましたら終了しましたと押すんですよね。
それは約束ごとなんですよ。 いやいやそんな約束を守ったところで何になるんですかって言えばその通りなんだと僕は思うんですね。
それはお茶碗の中に水入れて、はいスープって言ったのと同じなんですよ。
いやそれは水でしょうって言ってしまったら全てぶち壊しになるじゃないですか。 で、これをそれただの水でしょうっていうことによって、僕は思うんですけど、
ミニコットが言うことですけどね、人間らしさを一つ失うんだと思うんです。 それって結局イリュージョンなんだけど、ここで僕は感じるのが、
今では遊びって一人でもできるように色々工夫されてますが、AIとだって遊べるんですけど、 ここで人と一緒にゲームできないと、
っていうところがですね、グッドバイオス的なんだよなと思ってるんですよ。 今今日これについてロジカルに全然説明してないんですよ。
ただ感覚的に物を喋ってるだけなんですけど、 でも2社以上の人と野球とかってそうですけれども、
2社以上の人間とありもしないルールに、ありもしない。 つまりこの線の右打ったらフェアゾーン、こっちから左打ったらファールだから無駄っていうのは、
ありもしないルールですよね。 あるんだけど、それをみんなが守ることに決めると、真剣にそれに、
真剣にそれを尊重しますよという態度で、実際にそれをするんですよ。 これをするってことが非常にグッドバイオス的だと、
僕はすごく最近思う。何でもそういう風にしてみると意外にうまくいくんですよ。 これは相互に尊重することに決めたルールに基づいてやるゲームだと。
家事とかも全部そうなんですよ。 遊び、おままごとなんですね。
だけどそれを、なんていうんですかね、おままごとだということだからこそ、コミットのレベルを上げていかないと台無しになっちゃうんですね。
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現実に完全に戻ってしまったらダメなんですよ。 子供と話をするっていうのはまさにそういう風になるんですけれども、
何でもそうなんですよね。 テストとかでもそうじゃないですか。
だから、思春期になるとそのイリュージョンにコミットしてられないっていう態度になるじゃないですか。
そういう子はいたと思うんですよ。こんなテストは無駄だと言って、 中間試験とかでも投げ出すという子が。
ゲームに乗っかれないよっていう話なんだと思うんですね。 それはゲームに過ぎないんだけど、でも野球とかもみんなそうですが、
相撲とか特にそうですよね。過度に真剣にやるじゃないですか。過度に。 そうすると現実になっていきますよね。
それなんだと思うんですね。そのゲーム感覚というものは一つには。
すごく真剣にやるんだけど、いつでもバッとやめられるんだけど、でも可能な限りそれを尊重するというようなもの。
だからできるんですよ。 例えばそのそこに皿置かないでって言ったでしょうっていうものを
現実的に捉えすぎると、やってられなくなるわけですよ。 いや別にそんなルールを守らなくたって、俺一人で生きていける人になるじゃないですか。
でもそういうルールだと。 野球のルールほど厳密じゃないですか。やっぱりそういうルールで
挟んだら黒と黒の間のコマが黒になるんだと。 そんなルールを守らなくてって言うとゲームにならないので、
そういうルールを守ることにしましょうということにしてやればですね、
楽しめると思うんですよね。人間というものの機能からすると。 これを楽しめないんだったら、まもともすべてのゲームも
すべてのコミュニケーションも 一切楽しめないということになると思うんですね。
これが講じていったところに一つの、さっき途中で言った、高機能自閉症のような障害があって、それはでも多分脳の
障害の一種なんだろうから、 普通に多くの人はですね、
楽しめると思うんですね。 最後になんでウィニコットがそんなにフェミニストに呼ばが悪かったかというと、
一番最初のですね、本当生まれて生後0日とか1日目の、 その最初のゲームには
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母子のゲームがあるっていうふうに彼が言った。 それが非常に、これに反応するっていうのはやっぱり鋭すぎるし、
ある意味やっぱすごいなと思うんですよね。 だいぶ昔の話ですけどね。
このイリュージョン。 イリュージョンなんですよ、それは。
私たちはそのイリュージョンを今は、 跳ねつける方向にむしろ来てるじゃないですか。
お母さんとお父さんがとか、 恋愛というイリュージョンを過剰に、
過剰にどころかそもそも成立させること自体が、 男女差別的だっていう話あるじゃないですか。
女は女らしくみたいな、イリュージョンだと。 イリュージョンなんですよ。
イリュージョン以外の何物でもないと思うんですよね。 イリュージョンそのものみたいなもんですよね。
で、あれ何のためにあるのかというと、 いろんな理由があると思うんですけど、
人間ってのは、発情期ってないじゃないですか。
目高かってると思うんですけど、目高というのはですね、 子供を産む時期限られてるわけですよ。
人間って全然そうじゃないですよ。 春、夏、秋、冬、構わないですよね。すごいと思うんですよ。
誕生日ってものすごくばらけてますよね。 ほとんどが6月に生まれるとかね、そういうことないわけですよね。
みんな春に発情しますみたいにないわけですよ。 これは進化状キットですね。
ずーっと時間かけて子育てする生き物に 私たちになったと思うんですよ。
時期を選ばず、しかも、 要するに他の動物で言えば継がいがですね、
長く長く一緒にいる。 長く長く一緒にいられないと思うんですよね。
いやその発情期って限られてるしって、 狼とかなら言うと思うんですよ。
若くないとやってられないでしょうみたいなのあると思う。 人間はそうじゃないですよね。
今なんか特にそうですけど、
老人というものでも家族でいると。 昔からそうですよね、人間というのはね。
老人、老人っていうところの家族があるんですよ。
老人になるに至るまでずっとある程度、
家とか子育てとかやっていくには、 イリュージョン必要だったと思うんですけど、
そのイリュージョンが長く長く続かないと どうしようもないんですよね。
さっき言ったようなもんで、冷めちゃったら ダメなわけじゃないですか。
いやもう俺はこれは、こういうモマゴとは やってられないから一人で生きていくとか、
突然すごく稼げるお父さんが行って、 家でサクッと出るのはダメなわけですよ。
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ルール違反なわけですね。
そうすると結局恋愛は無理にしても、 疑似恋愛みたいなイリュージョンを
永続させればさせるほど都合が良いと。
少なくとも普通の動物じゃ考えられないぐらい長く、 20年とかそういうことをやった方が良いと。
少なからぬ動物は1年とかで終わってますからね、子育て。
1年じゃ絶対終わらないですもんね、人間の子育ては。
そういうことがあったと思うんですよね。
そうすると母子もそうで、 母さんと一緒にいれば幸せみたいな、
そういうイリュージョンを子供が少なくとも、 私の感じでは7、8年は持つ感じなんですよね。
これはもうイリュージョンに決まっているわけですよ。
このフェミニストが指摘するまでもなくですね。
どう考えたってあらゆるお母さんが、 そこまで子供の幸せを担保できるという人ばっかりとは限らない。
そんなこと言えばその通りですよね。
そもそも途中で死んじゃうかもしれないし、 いなくなっちゃうかもしれないし。
でもそういうことはないという、 一種のイリュージョンに依存してしまえば、
依存してしまった方が多くの場合は多分うまくいくだろうと。
その上にイリュージョンを積み重ねていくわけですよね。
まず母子関係というイリュージョンが初日、2日目にあって、
いずれは毛布みたいなものがつかんでいれば、 お母さんとつながっていられるというイリュージョンをこの上に立たせて、
さらにその上にお砂場遊びで後ろにお母さんがいると見ていてくれると思っていれば、
他の子供と喧嘩できるみたいな、 そういうイリュージョンを作るわけですよね。
イリュージョンの上にイリュージョンを乗せていく。
そうすると一番最初のイリュージョンが機能不全を起こしていると、
その子は多分その後のイリュージョンの形成にも大変苦労するだろうと。
たぶん僕はイニコットが言ったのはそういうことなんじゃないかなと、
初日回だったことを考え合わせると、こういう発想は自然に出そうな気がするんですよね。
これが猛烈にバッシングされると、当然ですけれどもある意味では、
お母さんはそんなことをしなければならない存在なのかという議論になるわけですね。
今では誰もそんな議論が起こったということをあまり詳しく知っているということはないんですけれども、
ただその部分を父親ができるのかみたいな話をするのは結構大変だと思うんだけれども、
ママでもその部分を取っ払ってもですね、
僕らはイリュージョンの上にイリュージョンを乗せていっていて、
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しかもそれこそ今ここなんですけれども、
時が経つのを忘れるほどイリュージョンにのめり込んでいる時が、
一部の人間らしいなというのがあるんですよ。
昨日私野球を見ててそう思ったんですよ。ソフトバンク対日本ハムかな。
はまり込むんですよ。何分経ったかも忘れると。
あれでもイリュージョンの世界ですよ、完璧に。
でもですね、今日も長くなっていますね。
でもタスクシュートやっているから思うんですけれども、
タスクシュートのイリュージョンも僕の場合はオーバーアップしてきているわけですね。
とはいえこの野球をすでに1時間近く見ていると。
さらにこういうイリュージョンもありますよね。
この間自分は消費的な行動をしていて、
生産的なことは一切していない。これも一つのイリュージョン。
冷めちゃいけないとでも私は思うようになっているんですよ。
これ前から結構あったんです。
こういうところで消費的なことをやめて、生産的なことをしないとって、
私たちはそういうイリュージョンをむしろ強く打ち出す人もいるじゃないですか。
それはそれでいいと思うんですけど、
自分の場合それを使って野球みたいなものからパッと現実に戻った気になって、
別のイリュージョンに移るということをやたらと重視すると、
むしろ自分に貸すみたいな、生産性みたいなもののイリュージョンに生きることにしすぎて、
結局相対感がなくなるというのが嫌だなと思ったんです。
ここがちょっと難しいんですけど、
どうせイリュージョンなんですよ。
全てのイリュージョンを剥ぎ取っちゃうと人間じゃなくなっちゃうので、
全てのイリュージョンを剥ぎ取るというのには僕はどうしても同意できないんですね。
そうすると、実はタスクシュートをやるんだって、生産性を上げるんだって、
全部イリュージョンなのに、そうは言わないですよね。
私たちは映画を見るのを終わりにして現実に戻るとか言うじゃないですか。
現実には戻ってないと思うんですよ。
タスクシュートをやっている段階で全然現実に戻ってないんですよ。
だから現実に戻っていないので、
イリュージョンAからイリュージョンBに移行しているだけなのに、
移行ですよね。ミニコットは移行という言葉大好きなんですが、
移行しているだけなのに、現実に戻っている気になったかのように言うのって、
あるイリュージョンを過剰移行ですね、高く持ち上げている感じがあって、
それって危ういよなと思うんですよね。
その辺のことを考えて、先日ちょっとミニコットを読み直してみて、
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すごくある意味何か似ているものがある、何かすごく違うんですけどね。
移行対象という言葉が彼の言葉では多分一番キーワードっぽいんですけれども、
意味不明な言葉なんですけどね、移行対象。
ライナスの毛布なんですけど、でもそうなんですよね。
私たちのものに意味をつけるし、それをやらないでいるっていうことはほぼほぼ不可能。
だいたい名前つけちゃってますからね、ものに。
動物は名前を持ってませんからね、ものに対して。
あれですよ、浦沢直樹さんのモンスターで、名前のない世界って今あったと思うんですけど、
あれですよね。あれは明らかに人間が生きる場所じゃないじゃないですか。
あそこで生きられないですよね。
だから私は超植物的な、イリュージョンのない世界で生きるみたいな、
そういう話に過剰にこだわると、どうしても僕らは後期の自閉症っぽくなっちゃうなと思うんですよ。
お人形遊びは一切認められない世界っていうのかな。
多分そういう世界では生きていけないので、
それはあれですからね、お金とかも一切成立しない世界だと思うんで。
もちろん時間なんて話にならないですし、
本当に植物的な、完全にせいぜい許されるのは石斧ぐらいだと思うんですね。
石斧でガツッとドーズを殺して地肉を食べるみたいな。
そうじゃないとおかしいと思うんですよ。
それはちょっと怖いから、ラップしようみたいな。
ラップしてパックして焼いて食べようみたいな。
完全にイリュージョンになっちゃってるんで。
その辺だというふうに思って、
多分この話まとまりそうにはないので、この辺にしてまた考えます。
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