2020-12-04 33:46

【GMV 267】繊細な人が恐れていること

繊細な人が恐れているのは怒られることより、怒ること
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おはようございます。グッドモーニングバイブスです。
いつも思うことがあって、これをまず短くまとめようと思っているんですね。
かつ、ついついというのも変なんですけど、話がややこしくなりすぎないようにしようと思ってしまうんだけど、
よく考えてみると、私、このグッドモーニングバイブスを始めた頃、話がどれほどややこしくなっても構わないと思ってしゃべろうというところもあったんですよ。
というのも、聞いている皆さんの感覚と全く違って、私の目の前には誰もいないんですね。
私、私に向かってしゃべっているんですよ、ある意味。
この形が許されるのって、これぐらいだと思うんですね。ブログもそうなんだけどね。
とにかく視聴者はいらっしゃるんですけど、潜在的には。
目の前に視聴者がいたことは一回もないんですよ。これで267回目とかなんだと思うんですけど、一回もないんですね。
このスタイルが私にとって、このグッドモーニングバイブスでは大事だと思うんですよ。
聞くに値するものをしゃべろうとは、考えちゃいけないというところはないけど、考えないというのは大事だなと思って、
これに関してはですね。
セミナーだったら、こういう複雑で言い汲んで、自分にしかわからないような話をするのは避けたほうがいいと思うんですけど、
これはセミナーじゃないので、これでビジネスにするという予定がないし、収益化するということも考えてないし、
PVを見てもいないし、しかも誰も目の前にいないので、このスタイルだからできることとしてやっぱり無茶苦茶でもいいというところだと思うんですよね。
視力滅裂でもこの際、よしとしようと。
それが視力滅裂になっていなければですね、飛躍を感じられると思うんですけれども、それはつまり導かれるということだろうなと思うんですね。
つまり道順とゴールをはっきりさせなくてもちゃんと行けるべきところに行き着くということは、
つまりこういう感覚の中で物事を行うということになると思うんですね。
どこに向かっているのかは全然わかりませんという状態で、でもいいところに行けましたということにならなければですね、
きっと導かれるみたいな話には入り込めないという気がするんです。
だから私たちはそうはならないとどこかで思っているから、視力滅裂に歩いちゃだめだと思っているから、
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計画を立ててゴールを設定して、そうすれば自分の行き着けるところに行けると思うわけじゃないですか。
私も若い頃はそう思っていたわけですよ。
そしてそうはならなかったわけですね、少なくとも。
だから適当に歩けばいいということにはならないかもしれないけど、
少なくともゴールを設定するというのはだめだなということ、私の中では何度も実感したことなので。
例えば留学のゴールには私は留学することによっては行き着いていないので、行き着いていたらタスク修道とは出会っていないと思うんですね。
こういう非常に難しいところが…難しい?違うな。
こういう計画的とは、後から振り返ると言えないところが大事なので、それに則ってこれはやっているということなんですね。
小さな実験なんですね。
それで、それすなわちノープランなんで、ノープランで書くというのが今やっている講座の第3期になるんですよ、これから。
おかげさまでというのか、なぜかというのか分かりませんが、かなり積数埋まってきて、ほんと少なくなってきたので、
迷っている方がいたら是非…これ多分ですね、早いほど良い面もあると思うんですね。
というのは、今やっぱり世の中ってすごく流動的で、ビジネス書を含めて今本売れてるんですよ。
これ多分ですね、コロナがなければこのような展開は絶対なかったと思うんですね。
やっぱり世の中って、私はもう紙の本というのは、今の3分の1から5分の1まで縮小しなければ残っていく可能性はない業界だろうと思ったんですけど、今こう上がってきてるんですよ。
それは一時的なものでしょうという人はいると思うんですけど、その人は世の中の先が見通せるという誤解をしていると思うんですね。
その人にしても、パンデミックがこれほど流行ることは予測できていなかったはずだから、この先このパンデミックがですね、流行が収束するという保障はどこにもないと私は思うんですね。
もちろん、ワクチンとかできてますしね、パンデミックが収束した方がいいと私も思ってますけど、そうなるという保障がない以上、本はこのまま売れなくなるという確定的な見通しはできないはずなんですよ。
何が起こるか分からないということですね。
つまり、何かが起こると分かっていると、そしてそれを疑う気にもならなくなったときほど怪しいことはないんですよ。
この話を全般的に考えるとですね、私ノープランで物を書く、しかも本一冊書くというのは相当意味のあることだと最近思うようになりました。
むしろね、そんなところがあるので書き上げ塾というのをよかったら検索してみていただきたいと。
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これ多分、将来本を書くつもりなんて一切ない人にも今ならお勧めできます。
なぜなら、将来本を書くことが一切ないかどうか分からないからなんですよ、現段階では。
何にも私たちは分かっていないということなんです。
この核心がですね、深まれば深まるほど今までと生きてき方って面白いものだなと。
分かっていると思って分かっていない道を歩いているわけですから、すごいことなんですよ。
それじゃ怖いじゃんって言い方をされる人もいるかもしれないけど、それであってもそれでなくても怖さは本当は変わらないはずなんですね。
分かっていると思って分からない道を歩くのと、分からないと思って分からない道を歩く怖さって違わないはずじゃないですか。
真っ暗闇で目をつぶって歩いているのが怖いというのと、真っ暗闇で幻覚を見ながら歩いているのが怖い。
どっちが怖いのかって話なんですよ。
幻覚を見ているのがロジカルな計画を立てている方であって、それを捨ててしまうというのが何も見ずに歩くということであって、
私その恐怖感は変わらないはずだと思うんですね。そこに恐怖感があるんだとすれば。
という話でした。
それとはあんまり関係ないんですけどですね。
最近、超自我というもの、超自我説明を用意しますね。
その前に、自分の扱われ方を云々するということと、その苦しさということをちょっと最近考えているんですね。
これHSPの文脈から考えているんですよ。
あの繊細さんの話ですね。
もうずっと確信を一つ持っているのは、HSPの人が本当に恐れているのは、
あ、でももうこれ結論になっちゃいますね。
HSPの人が本当に恐れているのは、
強い光とか、どす腹とか、どすんて物を置かれるとか、バタンと塔を閉められるとか、
隣の人が怒られているとか、そして自分が罵倒されるということでは本当はない。
本当に恐れているのは、自分が怒り出すことなんだという確信はもうだいたい得ているんですね。
自分が怒り出すということをしたくないという、これみんな同じなんですよね。
怒っている人を見ると、その人がまさか怒りたくないんだろうとは思えないじゃないですか。
いつも不機嫌そうな人が、その人の地雷踏むとすぐお怒りになるような人は、
なんで怒っているというのはさすがに変ですが、自分の好きで怒っている、それに近い感じなんですよね。
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まさか本人が怒りを堪えに堪えていて爆発しちゃっているという感じには到底見えないんですけど、
実はこれみんな同じで、怒りたいとは誰も思っていないんですよね。
HSPの人は怒るということをしたくない程度が、いささか人より強いんだろうなと思うんです。
怒ることは悪いことであるという意識が、やっぱり人より少し強いんだろうなと思うんですね。
もう一つ多分スキルというのかな、能力の一種問題で、私怒っても誰も聞いてくれないんだろうなと。
つまりこれ能力の問題じゃないんだろうな、権力の問題に近いですよね。
つまり私が怒るのは、効力を発揮しないのに怒ると損だと。
腹は立つけれども怒りが表明できないとか、怒ってみたところで周りの人は誰も聞いてもくれないとか、
怒ってみせたところで相手は恐れてくれないとか、いろいろあると思うんですけど、
要するに怒りたくないのはみんな同じなんですけど、自分の怒りに対する効力感は欠落しているというか、自信が持てない。
だから怒ると二重に損だと。
怒りたくないのはみんな同じだから、怒ったら損だというのも一つあると思うんですね。
プラス怒っても効力ゼロであるから、自分が怒るのはとても損だというのが私は潜在さんなんだろうというふうに最近考えているわけです。
これには強い反論があると僕は思っているんですよ。
そうではないと怒られることが怖いんだという話になっていると思うんですよね。
でも私はそうは思わないんですよ。
このトンニンバイブスでは散々話してきたことなんですけど、損だということもそうなんですけれども、原因が外にあるということってまずなくて、
この話をするとどうしてもモラルみたいになっちゃうんですよね。
外のせいにするなと。私は別にそういうことが言いたいわけではないんですね。
外のせいにしてもいいと思うんですよ。
ただ外のせいではないというだけでしかないんですね。
ここでも議論の余地があって、世の中にはひどい外があるんだという話が出るんですけれども、
それはそうなんですけれども、そういうことも問題じゃないんですね。
よくそういうブラックな企業からは何も考えずに避難しなければいけないとかってあるじゃないですか。
それはそれでいいと思うんですよ、私は別に。
そういうところからさっさと避難するとか。
グッドバイブス的にはちょっと微妙なんですけど、そこのところが僕はどの程度はっきり言えるのかわからないんですけど、
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私の考えでは退避しても退避しなくてもいいような気がするんですよ。
離婚しても離婚しなくてもいいような気がするんですよ。
僕はグッドバイブス的にもそれはそうなんじゃないかと思ってるんですよ。
ちょっと分離って話が出てくるのでちょっと違うんですけれども、
私はでも倉園恵三さんとそんなにそこでものすごく違っている気はしないんですよ。
別に離婚してはいけないというふうには倉園さんは言ってないと思うんですね。
書いてもいないと思うし。
分離っていうことがいい選択肢ではないっていうような感じはあるんだけれども、
それは選択肢ではいけないということを意味しないですよね。
この辺が議論の真っ只中では難しく感じられる面もあると思うんですけれども、
要は自分がひどい扱われ方をする環境からは退避しなければいけないっていうその解釈なんですよね。
私はその解釈にはなんていうのかな。
それはそれでもいいと思うんですけど、
環境は外部にあって環境が害を与えるから害を与えない環境に身を置きましょうという考え方では、
多分繊細な人は救われないんじゃないかなと。
もしかすると事態が若干良くなった感じがするケースとか、
それですっかり安心できましたというケースがあることは否定できませんが、
何が起こるかわからないですからね。
私はその時ですらですね、起こっていることは実はそういう外部からの害が、
違う環境に行ったらなくなったとか減ったということよりも、
その人の心の中でですね、起こることが少なくなったんじゃないかという風に考えるんですよ。
それは同じことだと思われるかもしれないけど、全然違うことのような気が僕はするんですね。
HSP繊細さんであってもどんな方であってもですね、
要は環境を変えたいという人にとってみると環境が自分を害するわけですよね。
で、殴る蹴るが入ってきたり火をつけるとかが入ってくれば、
それは起こり得るんですけれども、実際は殴る蹴るがあったら対比すればいいと思うんですよ。
でも殴る蹴るはないんじゃないかと思うんですね。
まして火とかつけてこないと思うんですよ。
そうすると全然話は違うところになって、
罵倒とか罵声とかわめかれるとか、
そういうことはですね、環境がダイレクトで自分を害してきているとは言えないと思うんですね。
やっぱりそれに対して自分が怒るってことをその人たちはしたくないんだろうと。
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つまり自分が怒る潜在的な構えを必要とする環境に身を置くということが辛いっていうことなんじゃないかなと思うんですね。
それがつまり扱われ方が問題になっているということ。
少なくともTwitter読んでいて思うこと、SNS一般にそうですけれども、
扱われ方を問題にされている方々がそれは大変だろうと思うし、
そこから身を引くとかいうのは全然いいと思うんですけど、
身が引けないということであるならばですね、
あるんですよ多分。だってそこに毎日のように通っていらっしゃるケース結構読みますから。
その場合には自分が怒っているケースがすごく多いなと思うんです。
怒りを全く覚えなくなればね、そんなことはできないんですけど、
怒りを全く覚えなくなれば多分辛さは全然なくなると思いますね。
ここがポイントだと思います。通話は変わらなくても、
罵声とかは変わらなくても、扱い方がひどくても、
それに対する怒りがゼロになったら多分苦しみはなくなると思いますね。
それはダメだろうって思われると思うんですけど、
つまりそれは怒りたいっていうことだと思うんですよね。
でも本当は怒りたくないってことでもあると思うんですよね。
この怒りたくないという基本的な姿勢と、
しかし怒らないわけにはいかないという現実的な状況とが
ぶつかるってことがその人の苦しみであって、
罵声そのものはその人にとっての怒らなければいけないという
解釈のきっかけになっているだけのことでしかないと思うんですよ。
だから環境を変えなきゃいけないんじゃないのっていうことになるかもしれませんけど、
そういうことであれば環境を変えたとしても、
やっぱり怒らなければいけない事態は十分発生し得ると思うんですね。
その都度やっぱり葛藤は怒ると思うんですよ。
減るかもしれませんけどね。
でも構えなんで、これは怒らなければいけない、
いざとなったら怒らなければいけないという構えなんで、
その構えがある限りは環境を変えるということは
何がならないような気は非常にするんですね。
ある意味ではどこへ行っても同じような状態が続く可能性があるなと思います。
だからHSPの人はHSPなわけじゃないですか。
環境を変えるだけで全てがそうでなくなって
すっかり穏やかになり安心できるというなら、
多分そのような概念自体が生まれなかったと思います。
そもそも環境を変えられないという思い込みもありますしね。
そこが扱われ方の問題ということになったときに、
何が問題になるかというと、
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だから途中ちょっとちらっと申し上げた長寿川なんですけれども、
長寿川って何かというと、その人の両親です。
両親というのは親じゃないです。
親なんだけど、この場合良い心ですね。
良い心です。長寿川イコール良い心です。両親ですね。
この両親が問題なんだと思うんですね。
これはですね、この環境における悪人を罰さなければいけないという意識を生み出すんだと思うんです。
それはもう誰にでも普通にありますよね。
ただ、私はHSPの人はとても両親的だというのをよく読むし、
現にそうだと思うので、特にこの傾向は強まると思っております。
つまり、些細な悪を見逃せないんだと思うんですよ。
時々HSPには完璧主義者がいるという話も出てくるんですけど、
同じことを意味すると思うんですよ。
つまり、両親的であるということの傾向が強いということは、
やっぱり、些細な悪を見逃しにくいということになると思うんですね。
だから、単に大きな音が起こったという意味じゃないような気がするんですよ、それは。
大きな音には悪意があるというような意味がそこにあると思うし、
例えば、家のしつけの中で物をドスンと置いちゃいけないと何度も言われてきた人からすると、
物をドスンと置く人は悪人だわけじゃないですか。
マナーがなってないとか、いろいろあると思うんですよね。
例えば、この中に時間にルーズだとか、約束を平気で破るとかいうのが混ざってくると、
HSPの人であろうとなかろうと、それは許し難いじゃないかという、
何か一言言ってやらなければいけないじゃないかという話になるじゃないですか。
なるケースは多々あると思うんですね。
いつもミーティングをやると言って来ない、そういう人は現にいるんですよ。
私、昔一緒にいたテニス仲間がまさにそういう人で、なかなかみんな困るわけですよ。
朝8時集合ねとか言っても、その人来やしないわけですよ。
昼の1時とかまで寝れたりするわけですね。
私、今なら観点が全然違うんですけど、これに怒っていた人はいっぱいいますよね。
怒るというのはどういうことかというと、扱われ方の問題になっているんだけど、
もうちょっと言うとですね、やっぱり一種の法律なんだと思うんですよね。
そういうことをしてはいけないのにわかり通ってしまっているっていうのが許せないってことなんだと思うんですよ。
そこにいろんな理由をくっつけるんだけど、許せないっていう気持ちが先に来るんだと思うんですね。
許せないことが確定してから、だってみんなが待たされたということで迷惑をこむったとかいう理由が後から来るんだと思うんですよ。
その時間があれば本が読めたとかって言い出す人すらいるんだけど、後からそんな理由が出てくるものであって、
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まずあることっていうのは、送れるのは許されることではないとお父さんに教わりましたっていうのが多いと思うんですね。
中にはですね、私はお父さんのことをとても尊敬しているんですみたいなのが付け加わるかもしれませんけれども、
それも面白くてですね、お父さんに聞いてみると、いや、俺はそんなことは言ったことはないとかって平気で言うんですけどね。
つまり長寿がっていうのはそういうものなんですよ。
自分の良心、この場合は良い心、親じゃないんで、まぎらわしいんですよね。
自分の良心の原点はだいたい自分の良親にあるんで、まぎらわしいんですよ。
長寿がっていうのはまさにそういうようなものであって、許せないという気持ちの原点になっているようなもの。
それが刺激を受けると腹が立つ。
自分の長寿がが、怒れと言う。
ここでさっき言った通り、怒る効力感に自信がない人は困っちゃうんですよ。
怒れと。
こんな罵声を浴びてくる長寿の罵声の言葉の一つ一つは人に対する言葉ではない。
怒れと。怒れないんですよね、そんなに怒っている長寿に対して。
ここで強い葛藤が生まれますよね。
どうしてもものすごく怒っている長寿がいるんだけれども、その人の怒り方はなっていない。
だから怒れと。
だから私は良心的な人ほどこういうことで悩むと思うんですね。
怒ってもいいものなんだろうかとかで悩むわけじゃないですか。
そこでぶつかっちゃうんですよね。
相手の長寿がと自分の長寿ががはぶつかっているわけですよ。
向こうが怒っているのは同じなんですよ。向こうの良心に沿って怒っているわけですね。
この場合、向こうの良い心でも良い良いでもどっちでもいいです。
そういうものがミックスされてできているものですからね。
そのお互いの長寿ががをぶつかろうとしているとき、自分の長寿がは弱いと。
あるいは自分自身は弱いというときに困っちゃうと思うんですね。
この困る可能性を意識すればするほど敏感に人はなると思うんですね。
大きな音だとか隣の人が怒られているだとか。
あらゆることがそうであってはいけない。そうであってはいけない。
自分の心の中で言う人がいるわけですよね。
それは自分の良い心なわけですよ。
ずっとオンラインミーティングで待っているのに相手は全く来ない。
詫びの一言も入れては来ない。そうであってはいけない。
その気持ちが自分を苦しめるんだと思うんです。
だってこの気持ちは自分の中にのみあるものなので。
つまり問題なのは外のようですけれども、外じゃないと思うんですよね。
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なぜならば、例えばそのオンラインミーティングにすっぽかされたのが私であった場合、
私の心の中からそういう声はしてこないんですよ。
理由は単純でして、私の両親は両親ですよ、この場合。
時間にリューズのことを大して問題視しなかった人たちなんですね。
特に父は全然そういうタイプなんですよ。むしろすっぽかす方に近いタイプなんですよ。
だからなんですね、きっと。私はそういうの気にならないんですよ。
気になる人と気にならない人では葛藤の起きるレベルが違うわけじゃないですか。
ものすごい気になる人にしてみると、佐々木さんも怒るべきだぐらいになるわけですよ。
これがまさに超自我なんですよ。
超自我というのは法律に近いものなんですね。
他の人も私と同じようにこの世を正すべきだという主張になるわけですね。
本来あるようにしようよということなんですよ。
本来あるようにしてなっていれば自分はこんな扱われ方はしないはずだ。
そういう意味だと思うんですよね。環境を正すべきだというのは。
だから正すことのできないような環境からは逃げ出しましょう。
そのような環境はもう見捨てましょうと。
そういう考え方に今基づかれているのかなと思うんだけれども、
私はその考え方を追っていくことって結構難しいと思うんですね。
私自身がそういう考え方をいろいろ読んできて、
試してみたことが何度かあって、うまくいったことは全然ないんですよ。
理由は、その法律の源泉は多分外にはなくて、自分の中にしかないので、
環境を改善していく、あるいはそれができるような環境を作りたいと
改善していく、あるいはそれができないところからは撤退するという戦略をずっと繰り返していても、
怒りを発動する機会を増やす環境と減らす環境はあるかもしれないんですけれども、
怒りを発動する可能性そのものは残ってしまうので、現時残ってますよね。
それって退避するってことは残ってるってことなんで、
怒りを発動するのは準備みたいなもので、準備それ自体が自分を消耗させてるのは準備それ自体だという風に今は結論付けてるんです。
この準備をしている限りにおいては、結構頑張らないといけないんですよ。
まずそうじゃない環境を探し求めなければならない。
それ自体が結構大変なんですよ。
プラス、どういう環境にいてもこの可能性は無視できないんですよね。
自分が怒るという可能性は潜在的にあり、しかも怒りたくないという気持ちはずっと引きずったままなので、大変だと思うんですね。
この大変さが、つまり繊細さんと言われる人々の大変さなんだろうなと思っていて、
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この問題は環境改善に今かかってるように思われているケースが多いんですけど、多分そうじゃないと思うんですね。
そうするとどうしても置かれたところで花を咲かせなさいみたいな話になってみたり、つまり環境を変えるなって言われてるように思う人も多くいるんですけど、そうではないんですよね。
環境を変えるかどうかはこの場合関係ないような気がするんですよ、私はどっちかというと。
問題なのは自分の法律は変えられるってことじゃないかと思ってるんです。
つまり親ですよね。親に習ってきた長寿が、長寿がの法というものに固執しなきゃいいだけなんじゃないかと思うんですよ。
環境が変わるかどうかは二の次に近い、二義的くらいには大事かもしれないけれども、多分元の環境でも自分の長寿がの在り方が変容すれば大丈夫なんじゃないかと思います。
だからその輪にいましょうねっていう話じゃないじゃないですか。
外のせいにするなって話でもないと思うんですよ。
自分を変えればいいといえばそういうふうにも言えますけれども、何か他人に対する理解力を上げましょうとかではないんですよね。
そうではなくて、その自分が環境を正すというその正し方、あるいは正さなければならないと言っているその自分の、なんていうんですかね。
あれですよ、関東の我が内なる道徳律みたいなやつですよ。あれは変えられるだろうと思うんですね。
発動の機運みたいなもの、これなんですよね。
さっきから構えとか機運とか言ってますけど、なんかそういう衝動の姿勢みたいなのを自分の中で感じるんです、こういう言い方してるんですけど。
それを柔らげるってことは割と容易にできるんですよ。
一つにはその絶対にそれは許されないって言っているのは誰なんだろうってよく考えてみると、自分じゃないことが多いんですよね。
時間がルーズンの人に付き合わされてスッポかされて腹が立ったっていうときは、私にもあるはあって、でもそのときに考えるんですよね。
腹が立っているのは自分なんだろうかと言っても意外とそうじゃないんですよ。
自分の母だったりするんですよ。もちろん自分の中にあるですよ。
自分の中の自分の母のイメージが起こってたりするんですよ。全くっていう感じで。
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だけど母はそういうことで本当に起こるだろうかって考え始めるとまた少し違うんですよね。
昔はそうだったかもしれないけど今はどうだろうって考えると全然違うんですよ。今は全然違うんですよ。
そういうふうにしてみると、この元になっている、私自身を怒らせようとしているこのエネルギーというのがその構えなんだよな。
自体が体制というのかな、姿勢とか体制の体制とかが同じじゃなくなっていくんですね。
これが大事だなと思ってるんですよね。これをいじる、動かすことが容易になればなるほどですね。
環境云々は大した問題ではないということになる。それだけのことなんですね。
やること変える必要すらないじゃないですか。よく考えてみるとですね、例えばドスンとバックが置かれましたとか、
同僚が怒られてますとか、やること多分変わらないと思うんですよ。
そのドスンと置かれた時に自分が何をしたとかじゃないじゃないですか。恐れたとかだけですよね。
直接怒られてる時ですら同じだと思うんですよ、やることは。黙ってなられてるとか。
問題なのはその辛さだけなのであって、すっぽかされた時だって同じですよね。
抗議していたのをしなくなったならちょっと違いますけど、今までも実は腹だけは立ててたけど別に抗議しなかったということであれば同じなんですよね。
私最近そのことをよく思うんですよ。
例えばあんまり最近つかなくなってありがたいんですけど、アマゾンで星1とかがついたとするじゃないですか。
昔と今とで違いはないんですよ。違っているのはただ全く気にならなくなったというだけであって、
だって昔から1がついたからといってアマゾンに猛抗議を入れてたとかはしてないので、今もしないわけじゃないですか。
行動に変容が起きてないんですよね、このグッドワイブス的になったからといって。
奥さんとの関係とかは違いますけど、そうじゃないならばですね、変わらないんですよね。
その行動変容それ自体はないんで、ものもの何もしてなかったわけですから、今もただ何もしないんですけど、
昔はすごく傷ついていたと思い苦しみながら何もしなかったんだけど、今は何も思わず何もしないんですよ。
ただそれは違いはないような日がある意味するんですね。
違いがないってことはですね、つまり問題になっているのは我慢していた自分の怒りでしかないんだと思うんですよね。
で、我慢しないければいいわけじゃないですか。
しかも怒ることができない、外に向かって表明できない、それの暴力が信じられないというならば、怒らなければいいわけですよね。
で、それができないんだって話がこの話のすべての大元にあったと思うんです。
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怒らずにはいられないということは、つまり私の正しさを世に認めさせねばならないって話だったと思うんですね。
それが要するに疑うべき原点だと思うんですよ。
私の正しさを世に認めさせねばならないっていうのはですね、その正しさっていうのは大体親の正しさなんですけれども、それはよく考えなくてもちょっと考えると信じられないですよね。
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