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2022-12-12 40:06

【716】「自分がダメだから…」という怒り

甘えにダメ出ししない
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おはようございます。みんなのセラピー心理学第716回となります。12月12日月曜日の朝7時34分に、現在収録中です。
つまりですね、本当はこれ、近土日のうち2日ぐらいやって取りためているんですよ、最近はが。
私どうしても土日には撮ったんだけど、それが納得がいかないというか、いろいろ思うところがありまして、結局没にしちゃって、テイク3状態なわけですね。
これですね、下の環境にしているし、非常に気になることがいっぱいありまして、気になっているわけですよ。上手くいくだろうかと。
上手くいこうとうまくいくまいと、あんまり時間も余裕ないんですね。これを取っ手出ししたいと強く願ってはいるんですけど、どうなるかは終わってみないとわからないというですね。
そういう部分があるんですよね、こういうものには。ということを痛感しております。
今日はテーマからいっちゃおうと、ちょうどですね、このテーマを話す前に昨日、倉園圭造さんとGood Virus Factoryというオンラインコミュニティのグループセッションがありまして、
そのグループセッションというのはですね、最大で6、7名の方が集まっていただいて、そこで相談いただくお悩みならやら、疑問点などについて私と倉園さんでお答えするという立て付けにはなっておりますが、
ほとんどお答えしているのは100%と言っていいほど、倉園さん。独断状というのは変だけど、そういう内容に大体なっています。
稀にですね、私に振られることがありまして、私の方でお答えするということもありますが、1割に満たないだろうなと思っています。
それを聞いていてですね、そうだなといつもいつも思っているわけなんですが、そうだなと思っているだけっていうのもあれなんですけどね。
聞きながら、つまり私はこれを今どうしてもカウンセリング、臨床心理的な話に変換しながら聞くんですよね。
これは最近思うようになってきたんですが、この観点自体が実は役に立つんだなというのは何となく分かってきたんですよ。役に立つ人もいるなと。
それらの人からすると思いもよらない方向だと思うんですけど、思いもよらない助力になる可能性を探っている人間がどこかにいるというのはなかなか面白い現象だと私は思うんですね。
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人間ってのはそういうことをするんだなと。これはビジネスの世界でも時々言われるセレンディピティみたいな話と近いところもあるんだけど、黙論でるからセレンディピティとは言えない気もするんですよね。
そういうとにかくファクトリーでやっているグループセッションというのがありまして、その中で出てきた話について今日はテーマにしたいんですよね。
ちなみに来年ちょっと私はいろいろ黙論でおりまして、グッドバイブスファクトリーの参加者数をもう少し増やしたいなというのがあったりもする。
その前にもう少し盛り上げなきゃいけないかなと思ってたりもしております。
非常に多岐にわたるお悩み相談に対応しているので、もう50名近くいらっしゃるので、ここら辺が一つのあのグループの機能と役割としてはいいのかと思うんですけれども、
私はもうちょっとできることがあるのではないかと、それが具体的に何なのかというのはよくわかってないんですけど、私には。
2023年になったら出てくるんじゃないかくらいに思っておるところなんですね。
それで今のがCMだとして、つまりグッドバイブスファクトリーチェックしてねってことなんですが、これはグッドバイブスの公式サイトの方から見つけていただくことができると思います。
入ることも面白い。無料お試し期間が1ヶ月もありますので、よろしければチェックしてみてください。
そのグループセッションで出てきた話。私はもうキーワードとして超自我と言ってしまいたいんです。超自我と甘えと言ってしまいたいんですね。
甘えというものに対してダメ出しをするのが超自我だというふうに最近私は一つ頭の中で定義を持っているんですね。
甘えにダメ出しをするのが超自我なんで、超自我って正しさですから、だいたいプラゾノさんは当日その日評価者、主に親という意味での評価者という言い方をされてたんですけど、評価する人ですね。
でか超自我だと私は思うんですよ。評価もするし、評価するってことはダメ出しをすることはあり得るから評価なんですよね。
ダメ出しをすることもあればOK出すこともあるんだけど、とにかく甘えというものが目についたらですね。
つまりそれは満たされるものではないよということに、話で満たされるものではないよという基準点を使ってダメ出しをしてくると。
これ自体が悪いことだとは言えないと私は思うんです。むしろ社会では良いことだとされてるんですけど、私はこれを極力したともにですね。
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特に他に対してはですが、他人に対してはですが、やめた方が心の平安というものには遥かに近づけると言いたいわけですよね。
なんでなのかと言いますと、まず甘えというものがネガティブになってしまうから長寿が、特に長寿が猛威を振るっているとすぐ猛威を振るったりする長寿がのお持ちの方もいらっしゃるんですけど、長寿がというのは人によって、つまり親のある意味、
評価者としての親の残骸みたいなものなので、しかも力を持っている、あれですよね、このおもちゃまだ動くぞみたいな、そういうのが資材置き場みたいなところにあったりするじゃないですか。
知らないですけどね。そういう感じなんですよ。残骸と言った私の意味は。力を持っているんだけど、何かの残骸と言いますか、そういう残死みたいな、残死って言葉は難しすぎますね。
とにかくそういったもの、力があるんですよ。イメージと私が言いたくないのは、イメージとはすごく違う感じがするんですよね。私は長寿がのイメージってあんまりはっきりしたものがないんだけど、力は感じるんですよ。その力の方が大事だと思うんですよ。
やっぱり力道精神なんとかとかっていうのは、力道臨床、臨床の力道みたいな言葉が出てくるのが力ってものを意識させられているからだろうと思うんですよね。それで長寿がが甘えにダメ出しをすると。
ということは別の言い方をするとですね、ダメ出しをしない甘えもあるんですよ。これが私がドイタケオさんのただのパクリですが、見えない甘えと言いますか、満たされているが故に意識されない甘え。多くの場合は自分も他人もあんまり意識しないんですね、ここは。
つまりこれはドイタケオさんが良い甘えとか言ったわけですけれども、良い甘えってのは意識されないんですよ、多くの人に。多くの人に意識されないということはつまりないも同然なんですね。良い甘えってのはあるんですよ。あるんだけどないも同然なんですよ。
目につく、自覚する、人が指摘する、結局咎めることになるのは全部悪い甘えなんですね。悪い甘えってのはどういうことかというと、満たされていない甘えなんですよ。
例えば遅刻っていうのが否定された場合、否定というか要するに遅刻していって怒られちゃったといった場合、これは悪い甘えになってしまう。甘えているんじゃないよっていう話になったりするとこれは悪い甘えになるんですね。
良いよ良いよって言われると受け入れられたってことになるわけですよ。そうすると良い甘えになり見えなくなっちゃうわけですね。こういう構造があるんですよ。
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これに対して態度って人によってすっごい違うじゃないですか。1秒でも遅れる奴は許さんみたいな極端な人もいればかなり応用な人もいる。受け入れる側にしてもものすごく申し訳ながる人もいればちょっとごめん遅れちゃったぐらいで済ませてしまう人もいる。
つまりもちろん関係にもよる。甘えというのはですね、そういう意味で流動的なんですよ。このそもそも流動的であるということがすごく苦手だという人もいらっしゃるわけですよ。どこで線を引けばいいのかをはっきりしてほしいみたいな。
だけど私この種の話でよく満たされる満たされない甘えで感じるのが波打ち際ってやつなんですよね。海岸で波がザーッと出てくるほど甘えている時もあればサーッと引いていくこともあるんですよ。
ここに線を引くっていうのは土台無理なんだけど、ここに無理にしてでも線を引きたいという風になると、私が思うに脅迫神経症気味になっていくんですよ。ここに線を引けと。こっからこっちの甘えはよし、こっからこっちはダメだっていうのをはっきりさせましょうっていうと、だいたい脅迫的になっていって苦しいことになる。
どうしてこれが苦しいことになるかというと、波ってのはまず線が引けないから波なんですよね。そして何よりも大事なのは波ってのは海の一部なわけじゃないですか。甘えってのもそういうものであって、満たされている部分はOKだがそこから先はダメだってことが実は言いにくいというか、ほとんど言えないと私は思うんですよね。
ほとんど言えないと思えるようになったのはグッドバイブス以降の話、聞いて以降の話だから、私の中では2017、18年以降の話になっていくんですけど、どっちにしても引けないと今は思っているわけですね。
なぜかというと、ここを引けると思ってしまうと、満たされない甘えはダメなんだということを言うと、一般的にはそれに近い価値観なんですけど世の中はまだまだ、でもこれもすごい個人差があります。
よく見ていくとね。ただでも否定する人っていうのはいて、否定するとするじゃないですか。そうすると甘えは全域ダメになってしまいがちなんですよ。
さっき言ったとおり、見える部分っていうのは満たされていない部分で、満たしがたいとされることも多くの場合ある部分なので、ここを否定するっていうのはよくあることなんですが、ここを否定すると全部否定になっちゃうんですよね。
海なんで、繋がっちゃってるんで。もうちょっと細かく言いますと、どこまでがそもそも許されるのかって話をしたとき、波の砂浜から先は許されませんということに、とりあえずするとするじゃないですか。
そうすると、じゃあどこからが砂浜なのかっていう話になっていきます。この辺が脅迫的なんですけどね。
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例えば遅刻で言えば1分30秒まではいいのかっていう話した場合、じゃあ87秒はどうかって話をするわけですよ。
そうするとですね、人ってのは当然のことながら、甘えが少しでも見えてはダメであるならば、そもそも甘えそのものを縮小しておいた方がいいと。
縮小するということになってくると、今まで自覚なく満たせていた部分がだんだん心配になってきますね。
あれもいけなかったんじゃないだろうかと。実は自分が甘えていて相手はいいよって言ってたけど、実は本当はすごく腹を立ててたんじゃないだろうかと。
これやる人いっぱいいますよね、こういうこと。評価者って話でも同じですよね。
この本、自分が書いた本は評価されているようだけれども、実はみんなに笑われているんじゃないだろうかと。
そういうことでですね、自分の本を笑っていそうな人を2チャンネルで探しまくるとか、非常に脅迫的になっていきます。
これはすべて、満たされない甘えの部分が悪いものだ、恥ずかしいものだ、一本足があと犯罪的だと思うようになったことからすべてが始まったわけですよ。
こうして甘えを縮小させるというですね、割ととんでもない方向というものが始まるんですね。
何がこれをやると問題かというと、よく見かけるパターンなんですけれども、
とっても罪悪感がひどくて自信なさそうなのに、周りから見るととってもこの人は攻撃的だなっていう方がちらほらいらっしゃるかなと思うんですね。
これは実は可視の甘え、つまり見えてしまっていて受け入れられていない甘えを悪いものだと見出した方向がエスカレートすると、
ごく自然とこうなっていかざるを得ないということがあるんですよ。
さっきの遅刻を例にとって言いますと、遅刻は許されないという、要するに甘えなんだけど遅刻するっていうのは、
これは許されないんだと。許される甘えもこの世の中にはあるけれども、許されない甘えもあって遅刻は許されない方であるとしたとするじゃないですか。
ところが遅刻する側には事情がありますよね。おそらく。どんな事情であるにせよ。
だから電車が遅れたのなら許されるけれども、例えば娘の病気の看病だったら許せないという人もいればですね。
娘の病気の看病なら許せるけれども、奥さんがちょっと具合が悪くなっていたので気になっていたとかなら許せないとか、
様々な事情があるわけですよ。
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でも例えば待たされた人がそれで例えば奥さんの看病して、奥さんの看病じゃないな、具合が悪いという話を聞いていたけれども、
それでも27分までなら待ってやろうと。33分になると許せなくなる。
こういうのっていうのは全ての事情が明らかになった場合は大概OKなような気がするんですけど、見える部分って少ないですからね。
結局のところ、その人その人のいわゆる情状釈量の余地とか言うけど、その人その人の感性で決めていくんですよね。
甘える側にしてみると、自分は事情を知ってますからね。事情があると。
そうすると必ず甘えるということに対して罪悪感を持つ人というのはですね、
その人の中の長寿側が、それはでもダメだろうと。
お前は許されると思いたいかもしれないけど、相手は許してくれないよっていうような長寿側。
これは親の態度というものと深く関係していると思うんですけどね。
こういう長寿側を意識している人にしてみると、まず長寿側の攻撃っていうのがここにありますよね。
この人に怒られるかもしれないって恐れているのはですね、実は長寿側に怒られることが怖いんですよ。
私はこれを多くの人はやっていらっしゃらないから分かりにくいと思うんですよ。
私は他人と長寿側を切り分けるということをずっとやるようにしてきて、最初は全然できなかったんだけど、
2020年、20年あたりからできるようになってきて、今ではもうそれがおおむね板についてきたわけですよ。
板につくってのは変なんだけど、スキルとは言い難いんでこれは。
つまり長寿側は怖いけど人は怖くないっていうふうに持っていけるんですよ。
こうなってくると非常に楽なんですよね。そのうち長寿側って怖くなくなるんで。
なぜなら長寿側って自分ですからね。
人は怖くないけど、長寿側は怖いけど人は怖くないっていうふうに人と長寿側を分けていくようにするとですね、
例えば仕事した相手には謝るんだけど、反省はしてないんですね、別に。
これすごい違和感があると思うんですよ、聞いている方には。
それじゃダメだろうって思われるかもしれないけど、要は人と長寿側は別物なんですよ。
相手は怒ってるかもしれないけど、やっちゃダメだとは限らない。
こっちにも需要がありますからね。
やっちゃダメかもしれないけれども、やったら相手は怒るかもしれないけど、人を怒らせちゃダメとは限らない。
人を怒らせちゃダメだとか、これをやっちゃダメだっていうのは全部自分のままの感覚なんですよ。
長寿側の問題なんですよ。
長寿側はダメだと言っているけど、相手は本当はダメだとは言わないかもしれないってこともあるわけじゃないですか。
さっき言った通り甘えの基準というものは曖昧なんで、人によってすごく違いがありますからね。
相手だって調子がいい時なら待てるかもしれない。
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晴れた日なら待てるかもしれない。
つまり何が善で何が悪かみたいな話にするとですね、ここにはっきりした線はどうせ引けないわけですよ。
毎度毎度事情は違うんで。
そこでこの長寿側と相手を分けると。
倉園さんの昨日のお話、そのグループセッションの中の表現を使うならば、
評価者による評価と自分の評価を分けるみたいな話になるんだけれども、
内心でやることは全く同じようになるんですけどね。
という表現、どう使ってもいいんだけど、とにかく相手が怒るということと、
自分の心の中にいる、私を罰する人間が怒るということとは違うことなんですよ。
っていう意識になった場合、ここまで持っていければですね、
長寿側の攻撃というのは怖くなくなるんですよ。
だけれども、相手の人が怒るとか、相手の人がそんな甘えは認められない、
遅れているなんて君は甘えているっていう風にネガティブに言ってきた時と、
自分の長寿側が完全に一致しちゃってる時、一致しちゃうんですが、
これを投影と言うんですが、これが一致しちゃうとですね、
すごい強い申し訳ないという気持ちと、非常に強い攻撃的な気持ちが同時に発生する感じがするんです。
ここはちょっと倉菜野さんと意見がちょっと違うかもしれないですよ。
順番が、倉菜野さんのお話の中では割とステップバイステップなところがあって、
そうした方が解きほぐす上でわかりやすいんですが、
私はこれが同時に起こる感触の方が強いんで、同時にっていうことを言ってるんですね。
違う意見が言いたいというのではなくて、
多分ですね、私が思うに、解きほぐす時はどうしても順序というものを語っていかないと、
結局語っていくことになるんですけど、ここに長寿側があって、こういう寿側があってみたいな、
そういう精神分析の話でも順序とか場所とか、個別、具体的な別々のものっていうのが別々に働いているかのようにしゃべるじゃないですか。
無意識というものがあって、この無意識が何かしたいというのを自意識は認識できていなくてみたいな話をしている時って順番があるんだけど、
実は同時に起こってますよね。
でも同時に起こっているものを言葉で説明するときは順序立てるより他ないので、
順序立てるっていうのが説明の王道というか、説明するときは順序立てなければいけないんだけれども、
実際これは同時に起きていると思うんですよ。
自我であろうと、無意識であろうと、超自我であろうと、一斉に動き出しているんですよね。
一斉に動き出しているっていうのは、3Dの図にでもしないと、そしてアニメーションにしないと実は訳分からんのですけれども、
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私はこれが同時に動いている今様子というのを伝わりにくいと思うんだけど、無理やり伝えたいんですよ。
つまり同時に起きるから、何となく人から見るとよく理解に苦しむ態度ってものが出てくるって思うんですよね。
謝っているようで攻撃しているっていう感じの人っていらっしゃるじゃないですか。
あるいは攻撃してきているようでやたらと申し訳ながっているっていうように見える人。
ここの順番が同時に出てくるから、他の人にははなはだ分かりにくいんですよ、この態度が多分。
そして不快にさせられる。
私なんて本当に最低だからお前らはもう死んでしまえみたいな、よく分からないですね。
言ってしまうとこういうような態度っていうように見える。
そこまで言わないにしても、本当に遅刻して申し訳ない、全部あなたのせいですからみたいな、そういう態度っていうのはあるわけですよ。
これはおかしな態度じゃないっていうことを、おかしく見えるんだけど、おかしな態度じゃないってことを僕がただ言いたいだけなんですね。
で、長時間は攻撃をしているわけです。
既に遅刻だ、もう遅れそうだ、ダメだ、前になってないみたいな攻撃してるんです。
でも長時間って自分ですからね。
攻撃をしている気持ちっていうのは既に自分の中にあるわけなんですよ。
で、同時に相手に対しては謝りますよね。
いや、本当に申し訳なかったと謝りますよね。
つまり、この二重の態度っていうのはどっちかだけが自分だと思っているから、私たちは長時間というものを他者だと思っているんですよ、要するに。
他者が長時間で、他者が評価者だと思っているんですよ、自分なのに。
で、自分はあくまでも長時間に評価されているもの、攻撃されているもの、申し訳ないと思わさせられているもののほうが私だと思っているんだけど、そうじゃないですよ。
どっちも私なんですよ。
だからあの態度が出てくるわけですよね。
非常に自己ひげ的でありながら、非常に他者を攻撃するというあの態度が出てくるわけです。
あの態度の、もう少し世の中一般に見えるような態度っていうのも、実は我々はそこかしこでやっているはずだっていうことなんですよ。
決してあれは特殊な態度じゃないと言いたいわけですよ。
遅刻したときに私たちが感じるのは、もし相手が強く攻めてきた場合ですよ。
遅刻してもうお前それなんだとか、あるいは帰っちゃったとかね、いなくなっちゃったとか。
そうすると私たちは悪かったなと思うと同時に恨むと思うんですよね。
これは長自我と自我というものが同時に動いたときには、ごく自然の態度なんですよ。
でも私にだって言い分があるみたいな。
これは要するに別の正しさがここに出てきているわけですよね。
そして言い分はあるじゃないですか、遅刻などというものを。
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だから態度として謝る一辺倒かもしれないけど、100対0で、この話も倉園さんがよくされる話ですよね。
100対0で自分が悪い、100%自分に悲があるとは人は思っていないわけです。
これは先日、怒られるときはいつも理不尽な気持ちになるという回でもお伝えした話ですね。
100%自分が悪いと思っていないけど、態度としては100%自分が悪いことにするので、理不尽だと思うわけですよね。
そしてその時に私たちは長自我による攻撃を受けていて、しかもそれを自分で自分を攻撃しているんだけど、他人が自分を攻撃していると思っているので、
その長自我に対して何か言いたいと思うときは、他人に対して何か言いたくなるはずなんですね。
こういうことが、さっき言いました認められる甘えというものの範囲を狭めようとすればするほど、
つまり認められる甘えというものがどんどん縮小するほど、自立してスマートに生きられるという思いとは裏腹に、
めちゃくちゃ他人に対して理不尽な態度を取るという結果に行き着くはずなんですよ。
何をしても他人が攻撃しているような気がしてくるわけです。
結局私たちは何をするにも多少甘えなければならないので、もう一回遅刻の話をするんですけど、
そもそも遅刻した人が100%悪いとは決して言えない理由の一つとして、待ち合わせをするという段階で既に甘えがあるからなんですよ。
相手が来るという甘えがありますよね。それはおかしいだろうと思うのは社会通念から来ているんですよ。
相手がこの時間に来なきゃいけないという必然性は実はないはずで、機会じゃないんでね。
相手がそこに来てくれるだろうというのは一つの依存と言ったら言い過ぎかもしれませんけども、
でも依頼心があってのことですよね。
そもそもだから約束ができるという段階で既に甘えは成立しているというふうにやっぱり見出すしかないと思うんですね。
相手が来るか来ないかは完全にギャンブルだというふうに思わないじゃないですか、約束している時といえば。
もっと相手に期待してますよね。
ここに依頼というものがあるはずなんですよね。依頼心というのかな。
悪いという意味では全然ないですよ。これ悪くはないですよね、どう考えても。
だから遅刻をするというのは可視化されて認められないケースの、つまり受け入れられないケースもあるかもしれませんけれども、
だから悪だということにはならないわけですよね。甘えているという観点で見るならば。
こういうふうに推していくとですね、甘えが絶対認められないというふうに真剣に考えた人は絶対人と約束ができなくなると私は思うんですね。
だって自分がそこの約束の場に100%行き着けるという絶対的な保証ってないわけじゃないですか。
死んじゃうかもしれないしその前に。
普通そうは考えませんけどね。
だからここは脅迫的になっていくわけですよ。甘えが認められないとなればなろう。
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そして脅迫的であるレベルを超えていくわけです。
もっと今度は抑鬱的になっていきますよね。
私は何をしても誰にも受け入れられないんだという気持ちをごく日常的なところにまで押し進めていくとですね、
多分抑鬱的な気持ちに人はなっていくと思うんですよ。
自分には何の価値もないような感じがしてくるはずなんですよ。
さらにその上にですね。
ここから先があるのかって話なんだけど。
甘えというものが全然認められない世界というものに行きさせられていると感じてくると、
これは教育歴絶対関係あると思うんだけど、
あるいは学校の先生でとってもひどい先生がいたとかね、
そういうことがあったと思うんですけどね。
とにかくそういう事情があって、
約束をするときにも恐ろしい気持ちになってくるとか、
例えば先日もお話ししたし伝わりにくいと思うんですけど、
iPhoneを使っていても腹が立つことばかりだみたいなことになってみたり、
iPhoneを使うということは、つまり機能を使うということは甘えじゃないですか。
例えばiPhoneでカメラを撮るというのは、
自分にできないことをiPhoneにやってもらうわけだから甘えなわけですよ。
ここにわずかでもですね、長時間に攻撃され始めたりすると、
つまりその辺から正気というものが少し揺らいできているわけなんだけれども、
申し訳ないなという気持ちがそこに発生するということになってくるとですね、
大変腹立たしいことがあると思うんですよ、やっぱり。
やって当たり前のことができなくなっていくわけだから腹が立つわけですよ。
遅刻というのは考えによってやって当たり前のことですからね。
やって当たり前のことが認められないというのはどうしても人は恨むはずなんですね。
そうするとほんの些細な相手のしくじりというものを見出したくなるのが認定ってものじゃないですか。
だって待ち合わせの時間が実は相手に合わせてたんだよとかね。
あるいはここそもそもあなたの家の方が近いじゃんとかいくらでも出てくると思うんですよ。
iPhoneで写真を撮ることにまで罪悪感を持つようになると、
いやでもこのボタンの場所おかしいしとかっていう風になっていくんですよ。
こうして先日このポッドキャストでお伝えした通り、
甘えられないとクレーマーになっていくんですよ、私たちは。
そしてこうなりたいという人はいないので、そうは言ってもね。
だから我々は甘えられない状態というのが始まるとですね、
まず万能な対象というものを探しに行くと。
これも倉園さんの例を何度かしつこく出してますけれども、
倉園さんに言うとこれがパチンコだったりするらしいんですね。
でもまあ私は人のことが言えなくて、私だったらファン座なんですよ。
全然事態の解決にならないんだけど、これは実は事態の解決になるケースはないはずなんですよ。
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これ結局超自我がダメ出しをしすぎるこの現実の世の中はあまりにも生きづらい。
これ自分の超自我がダメ出しをしているという自覚はもうこの段階ですでに全くないでしょうから。
世の中というのは本当におぞましいところで、不人情なところで、本当にひどいところで、何にもできない。
世の中のことが分かっている人間であれば世の中で何かをすることなんてできるはずがないと思うはずなんですよね。
例えばブログを書くにしても語字が一つでもあってはいけない。
それどころか完璧な文章じゃないと、完璧な文章ではないんだけど、
完璧な文章じゃないとめちゃくちゃ2チャンネルとかでやたら陰口を叩かれるに決まっていると。
そうなりますよね。超自我というものがあらゆる案外にダメ出しをするということになってくると。
間違ったことは書けない。語字も脱字も一切許されない。
そしてそうするってことはどうするってことになるかというと、
この世にいっぱいあるじゃないですか。語字だらけの記事とか。
全部にマッシングしていかなきゃならないですよね。
この段階で何もできないと思うんですよ。
そこで私たちはさっき言った万能な対象に逃げる。
現実じゃないところに行きたいわけですよ。
マッチ売りの少女ですよね。マッチをすると。現実じゃないですよね。
温かい家族とご馳走がいきなり何の空間も時間も無視してボンとそこに現れる。
その空間と時間を無視するという点が非常に大事なんですよ。
万能という言葉を使って、万能な対象というのは。
これが最大のポイントなんですね。
ちょっとだけしゃべると、メラニー・クラインという人がこれを考えたんですよ。
母親が不在だと、つまり環境としての母親がここにいませんという時に、
赤ちゃんは多分万能な母親というものを見つけ出したというわけですよ。
空想上にここにお母さんがいてくれると。
これを環境の母親の代わりにするんですよね。
現実には母親はいないのに、いることにしてしまうというのは空想ですよね。
これに逃げるわけです。
これがギャンブルだったり、アルコールだったり、様々なわけですよ。
大事なのは、ギャンブルそのものが万能な対象として悪いことをするというわけではないし、
アルコールもアルコールそのものがそれになってしまうというよりは、
これを超自我のダメ出しをする現実というものと違う現実を作り出すために、
これをやり始めるというのが一つの依存なんですよね。
死壁って言いますけどね。
臨床の世界ではよく死壁って言ったりしています。
そのうち変わるかもしれませんけどね。
死壁ってわかりにくい言葉なんで。
この万能な対象というものの中に3つあると私は思うんですよ。
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今の時代だと。
ガジェットとかははっきり言って甘いんで。
だってガジェットが万能じゃないのは明らかじゃないですか。
スポーツカーとか買っても役に立たないですよね。
昔はスポーツカーってこういう時僕は定番だったと思うんだけどね。
高級車とか外車とかでもいいけど、別にハンドルが左についているからって、
なんら世の中を万能にしてくれないじゃないですか。
そういうものなんですよ、万能な対象っていうのは。
そこで3つあるんですよ。
それでも万能的にこれが機能し得るっていうのが私は3つあると思っていて。
1つが何者かになるってやつです。
つまり甘えが完全に許容される人間になってしまうということです。
そう見えるんでしょうね。
超有名で超すごい人だから。
私のその人の甘えは何を言ってもその人は許されているように見える。
あんまり今の方はご存じないかな。
でも知ってますよね皆さんね。
私なんかより知ってると思うんだ。
昔のサッカー日本代表に中田秀って人がいましたね。
あの人すごく外国暮らしをして性格変わってマイルドな人だったんですけど、
昔すっごい尖ってた時代があって、
割と何でも自分言えるみたいな感じの方だったんですけど、
ある意味ああなりたいわけですよ。
ああなって何を言うかって話じゃなくて、
超自我を振り切れるって思っちゃうんですよね。
あの態度っていうのは私はむしろ超自我的だっていつも思うんだけれども、
人にはそうは見えないみたいで、
つまりオールマイティに許される人、
つまりどこまで甘えても人がバッシングできないレベルになってしまうっていうのを
多分皆さん求められることがあるんだと思うんです。
これが一つの何者かになるっていう万能な対象。
万能ですよね。
この何者かってのは実は万能だってことなんですよ。
万能選手権みたいなやつですね。
で、この路線はただめちゃくちゃ大変なので、
なんか甲子園とか行かなきゃならないんで、
とてもじゃないけど自分にはこれは無理だとなってきた場合、
次に出てくるのが億万長者になる。
これは甘えを金で買うってことなんですよ。
万能というものが、金が万能っていう考え方に切り替わるわけですね。
例えば遅刻しそうになったら新幹線に乗るとかね、
これはそれによって間に合うかどうかは知りませんけど、
でもこういう人はいないと思うんだけど、
遅刻をして相手が怒ってたら札束を渡すとかね、
見たことないですけどね、そんなのは。
漫画みたいですけど。
そういう甘えを金で買うわけですね。
私これもう短く切り上げますけど、
機能することはまず決してないと思う。
それは甘えたことにならないから。
相手は札束もらえばいいよって言ってくれるでしょうけど、
多分内心がどう思ってるかは最後まで行き着けないじゃないですか。
これが何か辛いところだと思うんですよ。
あともう一つ多くの人はこれをやっぱり途中で諦めると思うんですよ。
なぜならば甘えが未然に許されるほどの金を集めるのは、
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実は長時間に責められるよりずっと面倒くさいことだと思うんで、
普通はこれを途中で諦めるんだけど、
結構この線はですね、人気ありますよね。
もうちょっと現実的になった3つ目の方策が時間なんですよ。
私が先日お伝えした時間は万能ではないというのはこの文脈にあるんだけれども、
時間というものの万能性に期待する。
つまりサウナ行くとか温泉行くとかそういう風にして、
自分をどんどん甘えせる時間というものを膨大に確保するには、
かなりの時間が必要ですね。
だからつまり時間が足りないから甘えられないというケースはいっぱいある。
遅刻というのを最初に持ち出したらこういう理由なんです。
遅刻って時間の問題ですよね。
時間に余裕がないから甘えなければならないケースが多いと人は考えるわけです。
そして甘える時間、甘えさせてもらう時間、
ありとあらゆるものを時間というもので解決したいと考える。
これは非常によくあるやり方です。
だからこそ我々は時間管理とか、
時間に余裕がある生活といった話をどんどんしてくるわけです。
そもそも長時間に責められているケースの少なからぬ部分が
時間にまつわる問題だったりするので、
この時間万能感に期待するというのが3つ目のやり方。
私はこの3つとも絶対うまくいくはずはないと思います。
先日なぜ時間が万能でないのかは、
くちゃれ編ということでお伝えしたつもりなんですけども、
そういうことなんですよ。
時間万能じゃないですからね。
どんなに時間があったかといって、
そのたくさんの時間を使えば必ず心の傷を癒やせるということは絶対ないので、
それがわかりません。15年とかだったらそうかもしれないけど、
我々が言っている時間万能感と時間管理術って、
15年を確保するという話とは全然違うと思うんですよね。
お金だろうと時間だろうと何者かになるだろうと、
それによって長寿画の問題というのは解決はしないと思うんですよ。
唯一解決する方法が、これがあんまり人気がないんだけれども、
まず人の甘えにダメ出しをしないということです。
ダメ出しをするというのは長寿画にエネルギーを注ぐということなんですよ。
これが一番まずいと思うんですよね。
長寿画というのは他者じゃないんですよ。自分なんですよ。
だから自分が自分にしてくるダメ出し、
そのダメ出しがパワーを持っているという状態が自分を一番苦しめているので、
それが脅迫的な苦しみであれ、抑鬱的な苦しみであれ、
喧嘩が絶えないのであれ、怒りから解放されないであれ、
何でもそうです。必ず自分で自分というものを殴っているわけですよ。
この殴る力は極めて大きい。
私、先日おそらく自閉的な障害のお持ちの方だと思うんですけど、
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普通電車のグリーン車に乗って、何かちょっと悪いことをすると自分殴るんですよ。
すごい力ですよ。怪我するんじゃないかなってずっと心配していたほどの力で自分殴る。
僕らはあれを見るとえ?って思ってみんなそっちの方を一瞬見たりするんだけど、
ああいうことを私たちは心の中でバリバリやってるんですよ。
めちゃくちゃパワー使って殴っているんですよ。自分の心の中の長自我で。
それもただただ甘えを人は認めてくれないかもしれないという、
ただそれだけの理由でそういうことをやっているんですよ。
あれ私見てからえっと、なんていうんですかね、
この長自我で自分殴るって本当、やっちゃったらやっちゃうことはまだあるんだけれども、
基本的に絶対やっちゃダメなことなんじゃないかなっていうふうに最近は思うようになりました。
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