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  2. 【GMV 317】なぜ自分を赦さな..
2021-02-11 36:30

【GMV 317】なぜ自分を赦さなければならないのか?

許したくても許せない他人とは?
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
休日なので、今日やるかどうかは結構迷ったんですけど、ネタはあるのでやることにしました。
平日はやるんですけど、歳日ですよね。歳日どうするかはまだ曖昧なままなんですよ。
休みたくなったり、ネタが切れているときは休むでしょうし、
今みたいにそれなりに朝は気楽に起きられていて、しかもネタがそこそこあるときはやるぐらいな感じかなと思っています。
この番組は最初はほとんど何も考えていなかったんですね。
グッドバイブスとグッドモーニングは頃がいいから合わせてしまって、
ポッドキャストはそれまでやるかやらないか決めかねていたので、やめる前に何かやってからやめようぐらいな出だしでした。
いつの間にか自分のメインコンテンツみたいになってきているんですけど、
趣旨としてはですね、徐々に聴いてくださる方が増えているから変わってきているんですが、
言ってみれば、平日朝に気が楽になるといいかなという趣旨ですね。
自分が気が楽になれたことを他の人にも聞いていただくと気が楽になるかもしれない。
ここを自分としてはメインで考えてきているところですね。
仕事がこれでできるようになるとか、来伯系の情報が入ってくるというようなことはあまり期待できないかなという気がします。
私は最近そういうのをほとんど発信しなくなってきているので、
例外は仕事の大橋雄三とやっているところだけですね。
それでも多くはないと思いますが、そっちではまだ仕事術的なところを頑張っていこうというふうに思っていますが、
こっちではそういうのは多分増えることはないかなというふうに思っています。
ただ、こういうことはわからないんですよね。
そういうことを言う端からいきなり仕事術の話をし始めるということが起こりうるのがこの番組なので、
そういうことについてはわかりませんが、今の流れの中ではそういう方向に向かう感じはないかなというところです。
03:03
今日考えたのはですね、昨日の多分水曜日なので、
水曜日なので、倉園圭三さんとの収録をしたということによってですね、
私の頭が一旦ややグッドバイオス方向にキュッとなるわけですよ、少し、必ず。
これを受けてなんじゃないんですけど、なんとなく受けてそういう話になるんだろうと。
つまり今日しようと考えているのが許すというあれなんですが、
これはウッドバイブスじゃなくてもですね、様々なところで読んだり目にしたりしたことが、
多分自己啓発的なものを少しでも触れれば絶対に出てくるものの一つだと思うんですね。
幸いなことにというのか、私は親には、これも解釈次第なんだと思うんですけど、
別に私は親に対して何かされたとか嫌な目にあったということはほぼないんですよ。
だから親を許すというのがすごくよく出てくるんだけど、
親を許す許さないという考え方が必要だと思ったこともほとんどないんですね。
よく聞くじゃないですか、昨日もお話ししましたが、アメリカではひどいんですよ。
だから幼児虐待予防センターみたいなものがどうしても必要になるけど、
ああいう話を聞くとそれは許すということも問題にならざるを得ないだろうけど、
あれやられたら許せないだろうなというのはあるわけですね。
自分とギャップがありますからそこには、鼻肌大きな。
許すというのは何を意味しているんだろうと思うわけですね。
必ず出てくるのが自分自身を許すために相手を許すとか、
相手と自分を同時に許すとか、自分が出てくるんですよね。
この場合許すべき相手は相手じゃないですか。
なぜここで自分が出てくるのかと素朴に考えていたことがあるんですね。
自己啓発を読むときにこの種の許す問題が出てこないケースはほぼないんですね。
いろいろなものを読み込んでいくと。
許すというのはおおむね親なんですよね。
夫だったり妻だったりするケースももろんありますが、
それとて親が関係は大体しておりまして、
許す、親を許すって話になったときに、
親を許すのはわかるじゃないですか。
06:02
許せる許せないは別としてね。
親を許すと、私は許すの簡単ですが、
難しいケースにおいてはですね、親を許すとこれはわかるわけですが、
なぜそこで自分を許すって話になるんだろうと思うんですね。
それが割とちゃんと読んでいれば納得できる自己啓発は
読み込んでいきたくなるわけです。
それがさっぱり理解できれば、
途中で読むのをやめるケースが多い。
許せてないんですけどね。
どうしてなのかということは、
さまざまなことも説明されていたりして、
時々ですね、私のセミナーに来てくださる方でも
許せないんですよと。
昔のセミナーなんで、
そういうのを読み込んで、
私のセミナーに来てくださる方でも許せないんですよと。
昔のセミナーなんで、
そういう話は出てきていないんですよ。
ただ、ライフワークと自己啓発が両方にまたいでいらっしゃる方は
いっぱいいらっしゃるから、
そういう人がやってきて、
許せって書いてあるんだけど許せないんですよと。
これ、ゆっすりに雑談なんですよ。
なぜならば、私はタスク修道の話とかを朝っ腹からしてたわけで、
こういうことでうちはひどい親だったんだけど、
許すのが大事だっていうのはわかってるんだけど、
許せないんですよねっていうことで、
タスク修道の記録の話とかをしながら雑談するんですよ。
私、こういうのが結構大事だと前々から言ってて、
実は思ってたんですよ。
ああいうところに行って、
技術的、技術的、技術的な話するじゃないですか。
それしかしないんですよ。
ここが非常にある意味ライフハックの良いところだと思ってて、
ライフハックと自己啓発が表面的に接近するのは良くないって思ってたことがあるんですね。
これは今でもよく考えるテーマなんですけど、
かわいはやおさんがね、
床屋に行くっていうのは一種のカウンセリングなんだって書いていたことが
たびたびあってこの人ってすごいなと思ったことがあるんですよ。
私、思春期10代中盤くらいの頃ですけど、
とにかく床屋がダメだったんですよ。
あれは一種の対人恐怖症であり、
赤面はしなかったんですけど、
潜在的な赤面恐怖症なんですけど、
要は自分の顔がそこに映ってて、
それがまず嫌いなわけですね。
次に自分の見た目を良くしてもらうということを
自分がそこに行くということは望んでるってことになるんですか?
良くなりもしないのにこんなの良くしようって
俺に頼むんだなって言われてる気がするんですよ。
したんですよ。
09:00
あれが要するに対人恐怖症の一種だと僕は思うんですけど、
そういうことを何とかするのがカウンセリングじゃないですか。
で、そういういろんな、
そういういろんな意味で緊張をしてるわけですよ。
してる人はね。
してない人もいっぱいいますし、
僕はもう今、病院行こうかどこ行こうか
ちょっと緊張なんかしないんですけど、
そういう心理っていうのが働くことがあって、
自己啓発っていうのは結局そこに踏み込んでるわけですよね。
気にすることはないとか、
様々な言い方ありますが、
結局踏み込んでることに違いはないんですよ。
踏み込むときには、
まっしぐらにそれを取り扱いますっていうのが、
カウンセリングの一つの形ですけれども、
辛いじゃないですか。
親を恨んでるんですとか、
幼い頃に酷いことをされたんですとか、
そういう話をしたりするのは辛いわけですよね。
自分の顔のことで悩んでるんですとか、
自分の声が嫌なんですとか、
全部辛いわけですよ。
だから、髪を切りに行くということにしておくんですよね。
言い口のところでは。
タスク習得の話をするんですということにしておくわけですよ。
だって、タスク習得の話をすればですね、
嫌でも大でもだんだんそういうことになっていかざるを得ないじゃないですか。
終始、技術の話だけをしていたってですね、
さあ、じゃあ、いざこれから仕事をしますと、
特に自分は会社に行くのが辛いんです。
もうこの段階で、
実は親が関係している可能性は大いにありますよね。
朝起きられない、
でも起きないとダメ人間だって思われるじゃないですか、
みたいな話になったら、
もうタスク習得から逸脱しているわけですよ。
で、じゃあ、
例えばそういうときどうするかという話になったときに、
朝起きるのが辛いから起きないという記録をつけてもいいわけですよ。
タスク習得的には。
タスク習得はどう記録をつけろとかはないわけですから。
ところが、そうはつけたくないという心情がここで働きますよね。
そういうふうに、
つけると自分がますますダメになったような気がするから、
辛いんです。
ここで記録が残らないんですって話になったら、
もうこれカウンセリングが始まってしまっているわけですよね。
こういうふうに、
私は、
5、6年前は捉えていたところがあるんですね。
だから、
そういう話をするにあたってはですね、
やっぱりこう、なんか、
なんか出てきちゃう。
なんか出てきちゃうわけですね。
そこで、
許す許さないという話に
行き着くことが実はとても多かったんですよ。
上司が許せないとか、
奥さんが許せないとか、
同僚が許せないとか、
親が許せないとか、
さまざま出てくるわけです。
で、起きられない、会社に行けない、
家にいるのも辛いみたいな話になってくるわけですよ。
そうした時に、
必ずですね、
不思議なことに、
自分を許すっていう文脈に
流れていくんですよ、
12:00
話しているうちに。
私は話をするうちに、
間常にですね、
当時はグッドバイブスでもなければ、
カウンセリングもしているわけではないので、
必ず、
これをどうすれば記録に残していけるかって話を
しはするんですよ。
できれば、
どうやって会社に
辛くなくいくようにするか、
あるいは、どうやって休日、
休憩なことを考えずに、
生産性などの7つの習慣などを考えずに
休むかって話をしているんだけれども、
しているんだけれども、
いつしかですね、
カウンセリング的なところに流れるんですよ。
そうすると、
辛くなってきたらやめるじゃないですか。
またタスクシュートに話戻しましょうみたいに。
だけどやっぱり、
そういう方に流れていくわけですね。
そうやって流れていった時に、
いつしか自分を許すっていうテーマに
入っていく、
ってことが
とっても多かった。
だから、私は
その種の本を読んでは、
自分を許すっていうことが
納得いく文脈で書かれているものを
納得いく文脈で書かれているものへと
向かっていったんですね。
そして、
グッドバイオスを読んだ時に
非常に驚いたことに
自分を許すというのが
常に納得いくように書かれてた
ってことがあったんですよ。
これが非常に
大事なところだよな、
と今でも思っています。
収録、
昨日そうだったんですけど、
4時間収録をするとか
3時間以上するとしている時に、
この分話が出てこないことって
やっぱりないんですよね。
1回は出てくる。
はっきり言って10回ぐらい出てくることも
の方が多いですが、
とにかく
出てくるわけです。
で、なんで自分がそこに出てくるんだ
という当初の疑問に
すぐ戻ってくるわけです。
やっぱり見えにくいことなんですね、これは。
で、最近
ツイッターとかでも私は
これは本を書いているから
ということも関係していますが、
HSP的な、
怒られたくないという話を
ツイッターでしている方を
フォローしているわけです。
で、まずそういう方を見ていて
私が考えさせられるのは
怒られたくないわけだから、
敏感だったり、繊細だったり、
発達障害だったりって
さまざまな
カミングアウトがあるんですよ。
それはもうプロフィールにあるんですね。
確かにすごくそういうことを
気に合っていらっしゃるんですよ。
ところが、怒ってるんですね。
これがですね、やっぱりね、
ツイッター読んでいると
発見されていて
そうか、怒ってるんだ
というのがまず
来るわけです。
なぜ来るかというと、
この人、怒られたくないわけじゃないですか。
怒られたくないということは
怒っちゃダメじゃないですか。
この文脈が多分
本人には全く意識されてないんだけど
15:00
間違いなく片上から見ると
そういうことになるしかないです。
言ってみればですね、
この世から怒りっていうものがなくなれば
この人が怒られる可能性もゼロになるから
ハッピーなはずなんですよ。
怒られたくないということが
その人の悩みの全てであるならば
怒りという
怒られるという
怒るという
この動詞の意味する行動が
この全人類から消滅してしまえば
この悩みは当然存在しなくなり
ハッピーな
ハッピーかわかりませんが
とりあえずいいわけですよね。
でもこの人が怒っちゃう
それは相手が悪いのかもしれないし
様々な理由があるにせよですね
怒るという行為を
この世界に一個付け加えたら
私はダメだと思うんですね。
絶対に怒られるのが嫌だというのであれば
私はそのことを
昔からずっと考えてきたんですよ。
怒られたくない
私はね。
だから絶対に怒らないようになってたんですよ。
これはですね、つまり
こういうことでは怒ってもいいけれども
ああいうことでは怒ってはダメだ
っていう基準を設けることって
設けることって不可能だと思うんですね。
それは主観的な基準になっちゃうじゃないですか。
これを許してしまったら
人は自分にとって我慢できないことでは
常に怒っていいことになっちゃうから
つまりあるHSPの人が
怒られたくないです。
私は繊細なんですから優しくしてください
というのであれば
優しく人にしないとダメじゃないですか。
何があろうと優しくしないと
ダメだと私は思うんですね。
これは。
この話なんかこう
非常になんていうんですかね
無茶苦茶な話に聞こえると思うんですね。
考えようによっては。
ただ私はこういうところ
そういうふうに考える傾向があるので
例外を認めるということは
よほどのことが理由にならないと
ダメだというふうに考えるんですよ。
例外を認めてしまうということは
言ってみれば
主観的に例外はいつでも
どこでも発生し得るはずですから
我慢がならないことがあったら
起こるのはしようがないけれども
そんなに簡単に起こっては
ダメじゃないですか
という主張になってしまうと
いやお前が言ったことは
我慢がならなかったんだって
いつでもどこでも言われ得ることに
なってしまいますよね。
そうすると結局そこにあるのはですね
起こりやすいガサツな人と
優しい敏感な人がいるのではなくて
ただ単に
起こる基準が違う
二人の人がいるだけであって
お互いの地雷が違うから
私はこんなことでは
起こらないのに
あなたは起こってしまって
ガサツだという主張は
通らないような気が
私はするんですね。
それだと
いやお前の地雷の基準の方が
おかしいんだっていう言い合いが
永遠に続くだけになってしまう
気がするんですよ。
18:01
だからHSPの人は
優しい世界に行きたいが
起こるのかというのは
自分の発見であって
ここで許すというものが
必要になるんだな
と思うわけですね。
両者を同時に許さないと
この起こらない世界を
実現することは
多分不可能だと思います。
相手のことを許せないか
許すかという話をした時に
許せませんという話をした時に
なんで自分のことを
許すっていう話に
なるんだろうと
これを倉園さんはいつも
上手に説明してくれるので
そういう自己啓発を
読み込んでいくと
気が楽に
心が楽になりますという話を
私はしたいんですね。
だからGood Vibes Factoryに
入りましょうとか
そういう話につなげたいわけですよ。
結局は。
これがCMかCMじゃないかは
非常に難しいところです。
私は本当にそう思ってるんだけど
本当にそう思ってるかどうかは
分からないんですよね。
だからですね。
ここで許すっていうことが
出てくると自分は思うんですよ。
私がこういう話をするというのが
許せない人もいると思うんですね。
小さな理由であっても
このGood Morning Vibesでは
お金儲けはしてほしくない。
これはビジネスと切り離してほしい
っていう気持ちがあるのは
心を軽くするとか
なんとか言っても
結局それは私が
許せないと思うんですよ。
だから自己平発は嫌いだって
発想も当然あり得ると思うんですよ。
つまりこういうことなんですよ。
私の親はドコーヤでしたと。
ドコーヤでしたと。
この言葉もいつ出てきたんですかね。
それを許すということによって
あなたの懐が温かくなるのは
おかしいじゃないかと
いう話だって
できるわけじゃないですか。
だからなんですが
だから許さなければならない
だと私は思うんですね。
つまりそれはどういうことかというと
しかし
その著者は本気で実は
みんな許せば
心が楽になるのであって
もう別に私はこれ以上
このことを主張することで
お金が欲しいとは思ってないんですよ
ということかもしれないですよね。
そこはわからないですよね。
わからないんですよ。
相手が本気でそう言ってるのか
お金が儲けたくて言ってるのか
どっちも曖昧なのか
それはわからないことだと
わからない自分を
許さなければならない
と思うんですよ。
あの
わかるのが
理想的かもしれない。
でも結局わからないんじゃないですか。
そして私たちは
なぜ怒ったり怒られたりし
そのことを苦痛に感じたり
自分はあんなことでは
怒らないとか思ったりするのか
21:00
というと全部
わからないからだと思うんですね。
相手が何を思っているのか
それは誤解なのか
正しい理由なのか
そんなことはわからないんですが
そのわからない自分を
許せないとですね
全てわかろうとするしかなくなるわけですね。
これは相手はどういうつもりで
本当に怒ったのかということを
徹底的に調査する。
で、明らかにそれをやろうとすると
失敗するんですね。
なぜならわかるはずのないことが
そこには多分含まれていると思うんですよ。
例えば誤解なのか
グレーゾーンで
誰かが誰かを怒ったと
これだと抽象的でわかりにくいので
大橋裕三さんには申し訳ないんですけど
私の仕事仲間では仲間というのか
コンビで一番長くやっているのが彼なんで
とりあえずちょっと出させてもらうんですけど
実際にあった話じゃないです。
実際にあった話は出さないし
結局僕ら結局あんまり争ったことってないんですよね。
本当の意味では。
私の記憶の中ではね。
やっぱりこれもそうなんですよ。
私の記憶の中ではというのは
私の解釈の中ではなんですね。
で、全貌はわからないんですよ。
彼に聞けばわかる部分は増えますが
2倍ぐらいにはなりますが
だとしても全貌はやっぱりわからない。
つまり
例えば私が彼に怒ったとします。
なんでもいいんですけど
なんでもいいんですけど
毎週しごたんをあげるって言ってたのに
あげてないじゃないですかとかって
怒ったとするじゃないですか。
この怒るというのは
つまり
毎週彼はしごたんをあげるのが
十分できるはずだという
勝手な憶測に基づくものですよね。
十分できるかどうかは
私には本当はわからないわけです。
ただ彼のおかげで
週に1回しごたんをあげるなんて
確実にやれるはずだという
勝手な憶測があるわけですよ。
この勝手な憶測を
人は妥当な推測とか
今年の計画とか
いろんな言い方をしますが
確実でないことだけは確かです。
で、現に上がらなかったときに
何が起こるかというと
その勝手な推測によって
見込んだものが
確実でないことだけは確かです。
その勝手な推測によって
見込んでいた私の
言ってみればリビドーなんですよ。
そこでリビドーが気持ちよく流れたのに
彼のせいで
そのリビドーの流れが
静止されてしまった。
しかもそれは
無理難題ではないはずだ
という思いがあるわけですね。
このリビドーの静止
もっと気持ちよく毎朝
週1回水曜日には
彼のが上がっているという
リビドーは流れるときに
イリュージョンを作るんですよ。
特に未来のことについて
流してしまうと。
24:00
水曜日に上がって
これからPVが伸びていって
2人ともお金を得て
潤沢になっていくという
私の勝手な見込みを
彼が阻害した。
しかもそれは
彼の能力から言って
何ら無理のないことなのに
あえて阻害したという風に
考えるわけですね。
現に彼に対して
何かを言わなくたって
この時も怒っているわけですよ。
HSPの人は
害してそうなるんです。
なぜかというと
怒って怒られるのが怖いから
怒るんだけど
溜め込むわけじゃないですか。
でもそれは怒っていることに
変わりはない。
相手に対して言う言わないは
大きいけれども
怒ってしまえばですね
もうそれは
相手の事情が
全部は分からないからなんですよ。
分からないですよね。
だってほとんど見てもいないんですからね。
最近は。
もしかすると毎週水曜になると
お腹が痛くなるのかもしれないし
何かこう
分からないですよ。
私は何一つ分からないんだけど
これは不思議なことなんですよね。
分かるような気がしてしまうんですよ。
勝手な推測なんですけど
毎週1回ぐらい
大橋さんなら仕事の上げるなんて
そう思う人って
世の中にいっぱいいると思うんですよね。
ところが彼の何を知っているのかというと
何も知らないわけですよ。
何かすごい映画を見て
イメージできませんけど
何か泣いてたりしたのかも
知れないじゃないですか。
分かんないわけですよ。
分かるわけがないんですよね。
分からないということは
私の能力不足ですよね。
これが全部分かっても
大変怖いんだけど
分からないということは
分からないことがあるわけです。
故に
ここにおいて
自分を許すしかないんですよ。
分からない自分をですね。
この怒ったというのが
逆に怒られたということにする。
私が月曜日に毎週上げることにしているのに
ここ3週上げずに怒られたと。
ただこの3週間の間に
私は実家に頻繁に戻る事情があって
妹がどっか飛んでいっちゃったとか
そういうのを追っかけていたとか
様々な事情があり
お金もなかったから
早く本の原稿を先に書かなければいけない
という事情があったと。
彼には分からないわけじゃないですか。
だから怒るわけじゃないですか。
怒らないと思うんだけど
怒ることにしておきましょう。
大橋さんが怒ってきたと。
それは私の事情が分からないからなんですよ。
彼に別れっていう風に
こういう時に考えるケースって
多々ありますよね。
私と大橋さんの間ではないんだけど
こういうことでは多々あるんですよ。
分かってくれても良さそうなものだって
言うじゃないですか。私たちは。
ここで彼の能力の限界というものを
27:02
無視したくなるんですね。
彼の能力の限界というものは
つまり分からないということなんですよ。
分かったら困るじゃないですか。
なんかこうドローンみたいなのを使って
佐々木は今日はずっと朝霞に行ってたからしょうがない
ということを確認すれば腹が立たないみたいな
こういう話になっていくわけですよね。
ここまでやる人はいないかもしれないけど
これに近い人って時々
本当にいて驚くんですけれども
相手の行動、社員の行動とか
四六時中完璧に見張っていれば
安心できるみたいな
そういう考え方。
つまりそれは分からないということですよね。
逆に言うと。
分からないから怒っちゃうと。
これを許すわけじゃない。
これを許すわけじゃないですか。
普通の文脈ではこれを許すんですよね。
ということは
お互いの分からない点は
必ずそれもかなり膨大な領域が
お互い分かってなくて
これ両方許すしかないんですよね。
じゃないと両方ともが
お互いのことを完璧に知り尽くすってことになるしかないんですよ。
分からないから怒るということに対して
一方で逆にですね。
分かったら怒らないんじゃないかっていうことは
たぶん私は事実だと思うんですね。
私がこうこうこうこうでと
ここ一週間の168時間に及ぶ
綿密な行動記録を提出して
というわけで仕事が上がらなかったんです。
たぶん納得されると思うんですよ。
やったことないけど。
これを逆に考えるともう一回ですね。
これが分からないから
相手は怒るんだということが分かればですね。
怒られても腹立たない。
腹立たなくないかも分からないけど
許せるじゃないですか。
これが分からないから相手は怒ってるんだと。
つまり相手には分からないことがあるんだと。
だから怒られるんだ私はと。
全てが分かっていれば怒らないということは
別に何て言うんですかね。
相手の攻めるべきところがあるとすれば
相手の能力不足にほかならないんですよ。
その能力不足というのは
つまり全てのことを分かるわけではないという能力不足なんですよ。
ここしか攻めるところがないんですよね。
怒られたときっていうのは。
自分はだったらあらゆることが100%分かるのかというと
もちろんそうではないんですよね。
そうではないからこそ
おはしさんに怒られたときに腹が立つわけじゃないですか。
こいつは分かってないと。
分かってないんだけれども
分かるべきだっていう風に考えるのはおかしいですよね。
分かるべきだというのは
明らかに要求過剰なわけですよ。
この点で私もやっぱり分かってないわけですよ。
この人分かってないっていう風に腹を立てるという段階で
すでに分かってないわけですよ。
人間は万能じゃないということが分かってないんですよ。
30:01
少なくともその瞬間は忘れてるんですね。
この種の話はよくありますよね。
例えば朝。
昔はよくありました。
最近はそういうのも問題視されてますけど
いいことだと思いますが
朝、奥さんが起きてこないと。
いきなりキレちゃう。
お父さんが結構いましたよね。
でもいきなりキレちゃうというのは
つまりお母さんはすごい熱が出てたり
お腹が痛いかもしれないんだけど
そういうことが一切分かんないから
いきなりキレちゃうわけですよね。
つまり分かんないから
キレるわけです。
そして奥様は奥様で
ものすごく理不尽な感じがする。
私こんなにお腹が痛くてこんなに熱があるのに
たまに300日に1回も食事を作ってくれないのかって
怒るじゃないですか。
でも夫はそのことが自分の体調とかが分からないわけですよ。
夫の体調じゃないから。
こういう風にお互いがお互いの不明というもの
自分の不明というものをすっかり忘れてしまって
相手が千里眼の持ち主であるかのように
考えてしまうから腹が立つ。
それを同時に許すしか多分ないんだろうと。
というか同時に許すよねってことだったと思うんです。
なぜならば自分がすべて分かっていないのに
相手がすべて分かっていないことを
責めるっていうわけにはいかないので
このことに頭が一瞬回れば
お互いがお互いを許すというのは
実は決してそんなにおかしなことではないだろうと。
ただ一個だけではないけど
いろいろな条件は残ると思います。
例外を許したくないとは言っても
この世は例外だらけですよね。
虐待された子供の親を許すとか
それは無理に近い話なんですよね。
アメリカとかでそういう話を聞くと
無理に近い話だわとは思いますね。
親が分かってないから
つまりその虐待をするということによって
どういうことが起きていて
どんなに世の中ひどいことになっていくのか
分かってないんですよ。
分かっていればその種の虐待というのはしないけど
分かってないんですよ。
でもこの親は分かってないから許してあげようと
子供が思うのは無理だし
その流れもずっと引きずったまま
20年30年経った後に
いろいろなことが起きてしまうんですけど
その時には最終的には許す以外はないんですよね。
大体のケースにおいては
親も虐待されてたとか
そういう話ばかりなんですけども
この話はだから根深いんですが
分からないということを
お互い様だから許すのは
できるケースとできないケースが明らかにあるし
33:03
これも大変不思議なことなんですが
忘れてしまうんですよね。
自分が戦慄眼ではなく
相手も戦慄眼ではないのだが
なぜか相手が戦慄眼でないことだけが
罪悪に感じられる瞬間というのがありまして
私にも依然としてありまして
だいぶ減らしてきてるので
どうしてもその時に腹が立ってしまう
一歩間違うと何かを言ってしまうということを
しちゃうんですね。
明らかにはっきり言うと
何も分かってないんですよ。
大橋さんなんかは
私の中ではいい例で
何でも分かっているように思っちゃう。
兼ねないわけですね。
13年も一緒に仕事をしていると。
しかし、おそらく何も分かってないので
一回だけ彼のためにお邪魔して
後ろで仕事をしているところを
ずっと観察させていただいたという
今思うと大変むちゃくちゃなことを
していたことがある。
私がですよ。私が見れたんです。
そこまでやっても
分からないに決まっているわけですね。
分かりたくてやったわけじゃないですよ。
いろいろと興味深いことが分かりそうだと
勝手に思ってやったんですけれども
よくあれ、
自分の中で
成立したなと思うんですけど
ただ、そうしたからといって
何でも分かるわけでは
決してないんですよね。
それはもちろん
だいぶ前のことだし
今では全然違うスタイルで
きっとやられている
と思うんですよ。
でもこれも結局のところ
勝手な推測なんですよ。
全部そうなんですよ。
勝手な推測なんですね。
勝手な推測をして
現実がそうなってくれないと
腹を立てるわけです。
わけですし
それがしばしば
なぜか自分では
どうしようもない時があります。
この時に
私は思うんですけれども
倉園さんがよくおっしゃることと
同じですが
本当のことは分からないんですが
にもかかわらず
本当のことは分かってないにもかかわらず
なぜか
全部分かっている気がして
腹が立つ感じがするじゃないですか。
つまり
これが例の
責任が
10対0で向こうが悪いってやつなんですよね。
10対0で向こうが悪いって
言い切るためには
全部が分かってなければいけないはずなんだけど
全部分かっているはずはないんだけど
10対0にしか見えないんですよね。
完璧にイリュージョンなんですよね。
この完璧にイリュージョンで
あった時に
割と素朴な言葉である
と僕は思っているんです。
本当にそうだろうかというのが
効くんだろうと。
本当にそうだろうかの
これを昨日聞いたんですが
100%そうだろうかと。
これぐらいしか
取れなくなってしまっているんですよ。
36:01
偏頭体モードだから
その時は。
視野が極端に狭くなっているから
普段の自分ならば
そこまでアホではないんですが
カチンと来ている時の自分は
めちゃくちゃアホなので
そういう素朴な言葉しか
発揮しないんですね。
今言ったような全部を
その能力で思い出そうとしても
無理なのでだからなんですね。
素朴な言葉が割といいわけです。
36:30

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