最近すごく思うのがですね、いわゆる配信をしている人とか、タレントさんと、ファンの関係のあり方とか、よく問題になるじゃないですか。
これね、どうしたもんかなって一応試行実験してみたら、あれもしかしてと思ったのがですね、お店とかに行って、良いお客さんという具合にあるじゃないですか。
良いお客さんと悪いお客さん、それが誰にとって良いのか悪いのかっていうのは、いろんな見方があると思うんですけれども。
例えば、常連の邪魔をしないというのも一つあるかもしれないし、あとは常連ぶって店員さんや店長さんを困らせないとか、あとは長いしないとか、なんかいろいろあるじゃないですか。
そこのコミュニケーション、いわゆる飲食店はまた違う、独自の文化とかもあると思うんですけど、スナックとかそうらしいしね。
それはそうとしてですね、お酒を飲まなかったとしても、よく本とか読むとさ、レコード店のおっちゃんがいろいろ教えてくれたんだとかあるじゃないですか。
古本屋さんの店主さんがとかいろいろあるでしょう。
でも、そことの関係性とかの距離感みたいなのって、やっぱりすごい難しいっちゃ難しいと思うんですよね。
そうか、そういうのをこの数年間やらなかったし、やれなかったんだっていうのをハッと気づいたんですよね。
いわゆるコロナでですよ。
コロナでお店の人とお客の自分っていう関係値という練習をあまりしなかった。
そしてマスクしてて会話もほとんどしない。
そもそもお店が開いてなかったり、お店に行かなかったりもあるんですけれども、
普通にコミュニケーションの練習をする機会がなかった。
もしくは忘れちゃうぐらいブランクが開いてしまったっていうのは一つあるなと思ったんですね。
特にですね、この問題の結論はマッチョなことを言うとですね、
それをちゃんと覚えると人生結構いい感じになる気がするっていうのが一つの結論にはなります。
覚えられてない場合は覚える努力をすると身につけられることもあるっていう感じなんじゃないかなと思います。
これはすごいパワー系なことを言っています。
お店の人とお客の関係はすごく難しいと思うんだけど、
まず一つ明確にちょっとシステマチックに言うとしたら、
お店とその空間においてお店屋さんサイドとお客さんサイドという絶対に崩れない関係値というのがあるということをわきまえられるかっていう話になるんですよね。
すなわち営業時間中にご挨拶する限りは、
ご挨拶じゃなくてもいいですね。
営業時間中にコミュニケーションする、しかもそこの相手のお店でっていう場合は、
どんなに友達だったとしても客と店主であるっていうのは一つあると思うんですよ。
それはなぜかというと、他にお客さんが来たときに意味わかんないことになっちゃうから。
向こうがどう振る舞っていいのかわかんなくなっちゃうからですよね。
いわゆる家族に対して話すテンションやノリと、
店員として話すノリ、店員としてお客さんと話すノリというのは全く違うので、
それが混ざっちゃうと大変だよっていう話なんですよね。
でね、またちょっとマッチョな話をするとですね、
店員さんとお客さんは友達じゃないです。
お友達じゃない。
いい客、いい店、いい客という概念があって、
確かに顔なじみとか、よくしてもらってるっていうのはあるんですけど、
それはあくまでお店とお客の関係であるっていうところなんですよね。
これはですね、大学とかで上京してきて、
東京生まれ東京育ちの人は別かもしれないですけど、
それはナチュラルにそれを勉強する機会があったりなかったりのかもしれないですけど、
糸っぽいどは上京してきて、茨城県ってお店なんか一つもないので、
上京してきて、こういうのってあるんだみたいなのを、
いろいろお店に行って勉強させてもらった。
別にいっぱい話したりとかそういうことはしてませんよ。
そんなに社交性のある方ではないです、糸っぽいどは正直なところ。
横目で見たりとか、うっすらこういう感じかみたいなね。
そういうのが多かった。
でもいろんなところに行って、時間と、大学とはいえ交通費はかかるから、
あとは何か買って帰るとかすると、お金はかかるけどね。
なのでコストというのを払ってそこらへんの塩梅というのを勉強してきた。
だから初めて行くお水屋さんでも店員さんに迷惑をかけない、
そしていいお客さんだなと思ってもらって、
いろんなインスタには書いてないことを教えてもらえるような、
そういうコミュニケーションの距離感みたいなものを少しずつ勉強してきているっていうね。
そういう感じなんですよね。
確かにそれは昔は全然できなかったし、
一人で行くならまだしも誰かと一緒に行くときとかすごい難しいですよね。
急に店員さんの前ですごい丁寧な話し方になるみたいな、ちょっと恥ずかしいじゃないですか。
でもそれはそれでわかってる人同士であれば別にいいんですよね。
なのでそういうのって学んでいくことだと思うんですけれども、
そういうことを学んで大人になった人って基本的に察しがいい人なんですよね。
行きでいなせなみたいな、それこそ2010年代とかですか、
もちろんそれより前からも活動的にいろいろ書かれていらっしゃいましたけれども、
松浦八太郎さんとかの本、いわゆる丁寧な暮らしみたいなのがめちゃめちゃ流行ってる時期、
昔からあったんだけどそういう文化は、
改めてネットでも流行り始めた丁寧な暮らしっていうワードというかジャー語みたいなものが流行り始めた時、
糸っぽいではその時に大学生ぐらいだったんじゃないですかね。
もしかしたらもうちょい、でも大学生ぐらいかな、
カウブックスとかに初めて行った時はそれぐらい、大学1年生とかじゃないかな、中目黒のね。
なので、松浦八太郎さんの本を大学生の時に見ても、
何これっていうか、何これみたいな、何これって感じだったんですけれども、
今読むと、あーなるほどね、言いたいことはわかるよみたいな感じになるんですよね。
ちょうど今日、はっと思い立って読み返してみたんですけど、
あーなるほどねっていう発見があってですね、
こういうお店はいいお店なのであるみたいなところ、
そういうやりとりみたいなのって、
やっぱわきまえてないと、察しが良くないとできないことなんですよね。
一番最初から友達っぽい感じでなると、
まあ普通に相手も警戒しますよね。
インスタグラムとかTwitterとかもそうなんですけど、
SNSとか見てるとですね、
インスタの明らかにコメントをするようなアカウントじゃないところに、
インスタってね、鍵垢でコメントするとコメントだけ見えて、
それでアカウントの詳細が見えないんですよ。
すなわち安全源からめっちゃコメントできるんですよ。
で、客だからみたいな感じで、
いわゆるカッコつけたブランド投稿に、
値段いくらっすかっていうコメントしたりとか、
なんか変なDM送ったりとかっていう人って結構いるんですよね。
あとはTwitterとかマイクスとかで、
なんかすごいフランクすぎるノリで話しかけるみたいな。
で、そのギャグも滑ってるみたいな。
だいたい似たような感じなんですよ。
それっていうのは、察しがあまり良くないんですよね。
いわゆる空気読めてないっていうところなんですけど、
空気を読むっていう言葉にするとですね、
空気を読まないほうがいいみたいなものはもちろんあるんですけど、
察しがいいっていうのはある種思いやりでもあるんですよね。
他の誰か他の人も見てるところで、
そのコミュニケーションを成立させたら迷惑がかかるんじゃないかとか、
っていうところまで考える。
いくら仲が良かったとしてもオープンな場所では、
ちゃんと他に影響が出ないようなコミュニケーションをするとか、
いわゆるそれってそのままお店の中での会話なんですよね。
あまりにもフランクすぎるとお店の人が気まずくなるじゃないですか。
なんでこの人にはこんな話してるのに、
他の自分には話してくれないのって、
例えば他に来てるお客さんが思っちゃうかもしれないじゃないですか。
そういうところも踏まえてコミュニケーションできるのがいいお客さんなわけなんですけれども、
特に最近ネットでいろんなコミュニケーションのトラブルみたいなのが発生しますけれども、
意外とそこら辺なんだろうなっていう、
もちろんこの問題というのはすごく難しい問題だし、
誰しもができるものでありません。
これもう完全に能力の話です。
能力の話というのは結構残酷な話で、
できない人になんでできないのって言っても、
それってかなりきついですよね。
どうしようもなくできないっていう場合はあるんですよ。
なのでもうどうしようもない問題だとは思うんですよね。
それはそれとしていかにお互いがウィンウィンな形でコミュニケーションするか、
もしくはそういったコミュニケーションをサービス提供側が設計できるかというのが、
我々が地球に生きる生命体というか思考する生命体として、
永遠と抱え続けなきゃいけない課題だとは思うんですけれども、
もちろん生まれ持った能力的なところっていうのももちろんあるんですが、
それはそうとして、それよりも経験をしたかみたいなところ、
人と関わったかっていうところはかなりあると思うんですよね。
偏った人間関係をずっとやってたりするとやばいってのがありますね。
これは世の中でよく言われていることで完全にこれは偏見の塊みたいなことですけど、
スエッコっぽいみたいなのってあるじゃないですか。
スエッコっぽいみたいな。
スエッコだから全部スエッコっぽくなるかって言ったらそうでもないと思うんですよね。
どういう形で自分が人と関わってきたかっていうこと、
そしてそのタイミングでどのプロトコルでコミュニケーションをやろうとしたかってただそれだけの話なので、
別にスエッコだからってめちゃくちゃスエッコっぽいキャラクターとかありえないわけですし、
あと血液型が性格なんていうのはもうナンセンス中のナンセンスですよね。
もはやその話題が出ただけでちょっとなんだら今の時代ちょっとピリつく感じすらあるっていうのは伊藤ぽいでは正直感じています。
大丈夫かなみたいな。
いやその占いとかだったら別ですよ。
例えば椎茸占いとか伊藤ぽいでも大好きだしね。
そういう意味ではいいですよ。全然いいです。だから星座とかそういうのもいいんですけど。
ただですね、行動規範や性格、
ここから先こういうような運気が来るからこういうふうにするといいよとかだったらまだその人の未来の行動アクションの背中を押してることだから正直何書いてあったって別にいいんですよ。
別に。
それ大吉中吉小吉と同じだから。
だけどもその血液型で性格が生んだっていうのは正直結構ヤバめだと思う。
ヤバいリトマス試験師と考えないとリスクなのではないかと考えなければいけないような悲しい時代に突入しているというのが正しい言い方かと思います。
まあイトープだと別にいいと思うんですけどね。楽しければ何でもいいと思いますし。
血液型はクワ型それでいいと思うんですよね。
ゼニ型。
あんまりこういうの知らないんですよね。
あんまりそういう何というか、
何だっけ、お邪魔します、邪魔すんなら帰ってみたいなのあるじゃないですか。
ふざけんなって思いますけどね。
それはもうそういうオープンセサミ的なチチンプイプイヘア毛ごまみたいなそういう呪文なのはわかるんですけど、
帰ってって悲しくない?悲しいと思う。
あとその100万円って言われるのも悲しい。
105円、105万円ねって言われるのも悲しい。
悲しい。
それを無視して普通に105円払ってっていうところまでがお決まりやろうがいみたいな。
お前そしたらそれ看板に書いて首から下げとけよっていつも思うんですけどね。
でもね、そういう話なのよ。そういうことなんですよ。
だから豪に言っては豪に従いじゃないけれども、
例えばイトポイラって105万円ねって言われたらわはははみたいな感じでやるけど、
内心本当になんかグーでピンタするぞみたいな気持ちになる時もあるんですよね。
だって悲しいもん、買えないもん、105万円も持ってないもんっていう気持ちにイトポイラになっちゃうんだけど、
そういう風になること自体がね、もう虜なのよ。
向こうもマジで言ってるわけじゃないんだからさっていうね。
逆に言うとね、そこはそういうコミュニケーションするというのが、
他のお客さんとの何かズレとかも発生させないような正しい振る舞いなわけよ。
でもそういうのって勉強しないとわからないわけじゃん。
慣れればできるわけよ。全然ね。
イトポイラまだ慣れてないというだけで。
これもコスト、いわゆる時間であったりとかお金であったりとか、
コストを払わないとやっぱり学べないことだったりするわけですよね。
で、自分の振る舞いというのは、ある種これはね、
ダンスみたいなもんだと思ったほうがいいと思ってるんですよね。
演劇的なっていう風になるとちょっとあまりにもコミュニケーション社会学っぽいんですけれども、
だからもうちょっとダンスだと思ったほうがよくて、
振り付けみたいなものがあるんですよ。
盆踊りみたいな。
盆踊りって本とかで書いてないじゃないですか、地方のさ。
例えばイトポイラも地方の太鼓の先生みたいなのやってたのよ。
音楽をやってたからね。
で、そのなんか、
句伝でのみ伝えられる、
あれですよ。
何だっけ、下原三区だっけな。
名前忘れちゃったけど、
地域の田舎みたいなの、
お林みたいなののメロディーと、
あと太鼓のリズムですよね。
大太鼓と小太鼓のリズムみたいなのを教えるわけよ。
で、イトポイラはもうこれ毎回誰かが教えてるのは不の連鎖だからって言って、
教えてる映像をビデオで撮ってもらって、
これを秘伝の種にしてくださいっていう風にしたわけよ。
で、そっから無限にイトポイラのビデオが擦られてるらしいんですけれども、
今どうなってるかわかんないんですけど。
でも、苦伝じゃないですか。
それと同じだと思うんですよね。
それを勉強した方がいい。
ただこれは勉強するといろいろ応用が効くと思うんですよ。
かなりのところで応用が効く。
なので、覚えた方が人生楽ではあると思うんですよね。
で、もちろん例えばイトポイラが苦手な文踊りシリーズとかで言うと、
それは先輩から可愛がれる方法みたいなのはイトポイラは全くわからない。
なぜかというと先輩みたいな概念もそんななかったし、
可愛がられた経験もあんまりない。
ものすごく年が離れている方に、
自分はその時気づけなかったけどものすごくよくしていただいたっていうのは、
もうほんと数人名指しでもう挙げられるんだけれども、
でも本当にそれぐらいで、
だからその後輩力の高い人とか見ると羨ましいなっていうふうに思うってことは、
大学時代とかもよくあった。
でもこれはイトポイラがそれを身につけてないからなんだよね。
その文踊りを身につけてないから。
それに対してそれは性格だよっておじさんとか言うじゃないですか。
なことはないと思う。
なんだろうね。
全てを生まれ持った何かとかで、
それはもうしょうがないよみたいにやるのは、
それはやっていかなくなった奴の言い訳だろっていうふうに思うわけですよ。
それはイトポイラは努力してないからだし、やろうとしてこなかったから、
その結果でしょっていう話なので。
世代が違う、これよく感じるんですけれども、
やっぱり我々と、多分我々ぐらいがギリだと思うんですけど、
めちゃめちゃ就職氷河期じゃないですか。
不景気だし、とにかく未来もないっていうふうに言われてきた世代じゃないですか。
本当に45以上とかの人とほとんど価値観は合わないというのを最近はすごく強く感じます。
それは歴史的に確かに上の世代との発歴というか、
ちょっとおじさん嫌だなと思うとか、
そういう性質がどうしても生命体はあるっていうのは仕方ないんですけれども、
それとは別にあまりにも楽観的すぎるっていうのはあるんですよね。
意外とどうにかなるみたいなポジティブな気持ちがあると。
彼らから言わせると、
今の子たちはものすごく切羽詰まってて余裕がない感じがあってよくないよねっていう。
でもそれはね、
それは違うよ。
今の10代の子とかのテンションとか、
すごいからね。
本当に。
本当にすごい。
ものすごく、
ある種定年もあれば、
やっぱり頑張らないといけないっていう気持ちもあり、
それこそ伊藤ぽれがよく言って、
ジョジョ・ニブの貧民街テンション、シーザーのテンションあるじゃないですか。
あのテンションとかは結構ありますよね。
世代によって全然違うので、
生まれ持ってからしょうがないんだよみたいな結構オプティミスティックすぎるっていう感じがあります。
なので、
いろんなふうに解析されてきているというか、
パターンもできてきてるわけじゃないですか。
分析もされてくるわけですよね。
なので、
クールだとか透かしてるとか無気力だ、
いやむしろそうじゃなくて、
どうしようもないから、
それはそうとして、
じゃあどうやってやっていくかっていうのを、
むしろ現実をちゃんと見ているっていう。
現実をちゃんと見ると無気力になってしまうっていうのは、
それはもう結果としてしょうがないことだと思うんですよね。
なので、
もし何かそういうふうに言われたら気にしないでください。
それこそはははって笑うのが、
そのボン・オドリの正しい、
どうやら振り付けらしいです。
伊藤ぽれは最近覚えました。
こうやって大きくなっていくんだなっていうのを感じますよね。
話は戻してですね、
ちょっと脱線しちゃったので、
さっしのいいお客になるっていうのですよね。
これはね、やっぱすごく大事ですね。
というかね、
基本的にインターネットのすべての問題は、
察しが悪いか、
良いか、
で発生します。
で、
もちろん、
ちょっと残念ながら、
残念ながらというか、
どうしてもやっぱり生まれ持った能力の差というのは、
どうやらあるらしい。
それは信じたくないですけれども、
どうやらある。
なんで、
どうしようもなくそれが苦手な人っていうのも、
もちろんいます。
なので、
そういう人がいるという前提で思った方がいい。
そこの差というのは絶対ある。
そしてそれにプラス、
いわゆる、
レベルをどれだけ上げるか。
レベル上げという、
周回を、