1. 【体験者の証言】戦争の記憶(Memories of War)
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2020-08-14

【記憶25】手島清美さん/Memories25_Kiyomi Teshima「少年の眼に映った満州」

▼今回のインタビュー
昭和18年(1943年)。当時6歳だった清美さんは、満州の「鉄の都」鞍山に家族5人で移り住んだ。当初は「家は3階建てアパート、愛犬はベローとアミー。楽しいことの連続だった」。しかし翌年の昭和19年(1944年)7月、暮らしはB29の空襲により一変した。生還して帰国の途につくまでの約3年間。手島少年は何を眼にし、何を感じたのか──75年前の記憶をたどった。
(2020年8月13日オンライン取材)

▼手島さんの著書『少年の眼に映った満州 鞍山・七嶺子村の出来事』
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手島さん、今年で83歳、全く見えないですね。
【手島】いや、とんでもないです。もう十分年とってますから。
【佐藤】いやいや、本当にもうシワも全然なくて、青年月日拝見した時にちょっと驚いたんですけども、
実際私もこの手島さんが書かれた本、少年の眼に映った満州を配読させていただきまして、
今日この本に書かれていたこともそうでなかったこともひょっとしたらあると思うので、いろいろ伺っていきたいんですけども、
今、83歳とお伝えさせていただいたように、手島さんは1937年、昭和12年7月、広島の福山の生まれ。
その後1943年、昭和18年、ご家族5人で満州へ行かれたとのことなんですが、
当時6歳ぐらい。
【手島】そうですね。小学校に上がる前の年でしたね。
【佐藤】なるほど。これ見てる方もやっぱり、
満州、戦時中、満州と日本がつながりがあるっていうのはすごい詳しい方もいれば、そうでない方もいらっしゃると思うので、
大変恐縮なんですけど、そもそもなぜ手島一家はですね、当時満州へ行ったんでしょうか。
親の都合というか、当時は昭和17、18年というと、日本の国全体が疲弊してましたよね。
空襲というか、西海圏も西空圏もほとんど連合国側に握られていて、国内の生活が非常に逼迫してたんですよね。
うちの親父は会社には勤めてたんですけど、普通の一般校でしたので、多分リストラにあったんだろうと思うんですよ。
リストラにあったんだろうと思ってるんですけど、それで飽きないを始めたんですよね。
小飽きないを始めたんですけど、物資がどんどん逼迫してきて、国内で小さな商売はほとんど成り立たなくなったと思うんですよ。
それで親父が、というかお袋が相談して、当時満州っていうのはまだまだ日本に比べて物資は豊富だったし、
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戦争ではあっても物がないということはあまりなくて、しかも結構人を要求してたんですね。
特に私の親父は満鉄関係の昭和成功賞というところに勤めることになって、
その当時はまだまだ人が足りないぐらいだったんですよ。
満州は人が足りないけど、内地は人を雇ってという状況ではなかったんだと思うんですね。
それで商売に力をつけて、いかで満州へ移ったという。それが発端だと思うんです。
今でこそ当時の状況を明確に解説いただきましたが、当時6歳なわけですよね。
どのくらい当時はわかってらっしゃったんでしょう、その状況を。
当時のことで自分自身がわかっていたのは、
例えば移動するときに、私のところは福山なんですよね。
福山から安山まで移動しようと思ったら、
下関まで列車で行って、
それから漢武連絡船という連絡船が、下関とそれから福山、韓国の福山まで行ってまして、
そこからまた鉄道で北上して王力港を渡ったら、満州なんです。
韓国側だと、今も北朝鮮ですけど、新義州という駅に王力港という大きな川が流れてるんですけど、
それを越えると安東という、今度は満州側の都市ですね。
そこへ行った途中の道すがら、起こったことは大体覚えてる。
あと、キレギレになるんですけど、
安山まで辿り着くのに、たぶん2、3日かあるいは3、4日はかかったと思うんですけどね。
それで安山は昭和成功所というのを車宅に入りましたね。
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そこで満州の生活が始まったということなんです。
【佐藤】実際安山、私今回この手島さんの本を配読するまで、恥ずかしながら知らなかったんですけど、
さっきね、途中の道の部分で北朝鮮、現在北朝鮮の駅なんて話も出てきましたけど、
地図でやっぱり拝見するとかなり北朝鮮に近いですよね、その辺り全体も。
そうですね。今の中国のあれでいくと遼寧省ですよね。
大連からずっと北上していくと安山に着くわけですけども、
北朝鮮側の新義州というところと安山は割に近いですね。
実際この本の中にも、当然今もおっしゃいましたけど、もう5歳、6歳の少年なので、
はっきり細かいことは覚えていらっしゃらないし、途切れ途切れというふうに本にも書いてありましたけど、
実際その細かい情景は別として、今おっしゃった2泊か3泊か、安山に着くまでの福山を離れてから、
それまでの感情というか気持ちとか、家族全体にまとっていた雰囲気とか空気とか、
何かその辺を覚えていることってありますか。
本にも書いたんですけど、やっぱり大きくは2つですね。
1つは下関に着いて、列車で着いて、今度は下関の港ですかね。
港まで行く渡り廊下のようなところが、結構長い渡り廊下みたいなところがあるんですけどね。
そこを歩いていった覚えはね、かなり明確というか、自分自身では印象に残っている雰囲気で、
廊下は木材が剥き出しで、桁だとか梁だとかいうのは剥き出しで、
ところどころに裸電球が積もっていて、全体は薄暗いんですけど、
そこを大勢の人が列車から連絡船に乗るのに歩いて行くんですけどね。
結構、皆さんあんまり物を言わずに、夜であったせいかもあるかもしれないのですけど、
物も言わずに黙々と同じ方向を向かって歩いていくという、そういう雰囲気は感じましたね。
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それからもう一つは、先ほど言った北朝鮮側と、
それから満州をつなぐ、減らせる大きな川ですね。大龍港という川ですけど、
そこを渡った時の印象は、かなり鮮明に覚えているという。
どうでしょう、その気持ちというか、もし覚えていたらいいんですけど、
清見さんご自身は、これからどこへ行くのかよくわからない不安だったのか、
なんとなく少しポジティブな感じだったのか、それこそ帰ってこれるんだろうかという、
すごいネガティブな気持ちだったのか。
やっぱりポジティブですね。やっぱり子どもですからね。
もの珍しいというか、全てが初めての体験というか、
家族5人で一緒になって共に行動するということはあまりなかったですよね。
特に列車に乗って旅する時の家族5人でワイワイ騒いでたという、
その印象はね、いまだに残ったんですよね。
あの頃は電車じゃなくて、やっぱり機関車なんですよね。蒸気機関車。
蒸気機関車ですから、当然石炭炊いて走るんですけど、煙がすごいんですよね。
煙の中には当然、売煙が入っているし、窓を開けるとどんどん売煙が入り込んでくるんですね。
私も進行方向をたまたま見た時に、大きな売煙が目の中に入りましてね。
チクッとしたんですよ。そうするとね、しゃがみ込んで目を押さえてたんですけど、
お袋がこっついちゃダメって強く言ったもんですからね。
それでまあおとなしくしてたら、お袋が白いハンカチで目を拭いてくれたんですけど、
ちょうどそのハンカチの上にごま粒ほどの売煙が乗っかってるんですよね。
それで、お袋の優しさというか、それが取れた後、またはしゃいで大はしゃぎをしたという、
そういう印象は未だに覚えてますね。
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少なくても清見さんにとっては、悲壮感たっぷりに片道切符で、みたいな感じでは全然なかった?
それは全然なかった。それはもう全くなかったですね。やっぱり興奮心の方が強かった。
すいません、やっぱり当時を知らないので、
そしてやっぱり満州ということを色々本で見たり、ネットで調べたりしても、やっぱりそのへんの実感って僕らは分からないので、
今回のこの本、これからもう少し詳しく伺ってきたんですけど、やっぱり非常に勉強になりましたし興味深かったのは、
この本の帯にもあるように、
満州の鉄の都安山に移り住んだ僕たち家族5人。家は3階建てアパート、愛犬はベローと網。楽しいことの連続だった暮らしが、昭和19年7月B二塾の空襲により一変しました。
実際本の中でも、もちろんこれね事実、実話ですけど、まあ半々じゃないですけど、最初すごい、
これ戦争の話じゃないんじゃないかぐらい楽しそうなところもあるじゃないですか。だからその辺がすごく衝撃というか戦争っていうイメージで、
僕もたくさんの方お話伺ってきましたが、やっぱりこうやってお話伺い前は、もう1億総国民が常に命の危険を感じてみたいな勝手なイメージなんですけど、
今の清美さんの話を伺っても、本当にそれはステレオタイプな感じだったなと思って、で実際やっぱり今日一番伺いたいのが、まさに今の話で、
B二塾による爆撃、昭和19年7月かなのことだと思うんですけど、そこ前後で生活が一変とあるんですが、どう一変したのかということで、やっぱりまずその前の部分、
つまり吉原さんがポジティブになった満州の生活ってどんな感じだったんでしょうか。
まあいくつか覚えてることと、それから親たちの話を聞いたりしたことがあるんですけど、自分で覚えてることって言ったら、
やっぱり最初に移り積んだところが満鉄の、満鉄じゃなくて昭和成功書の写卓なんですよね。
写卓は結構3階建てのしっかりしたビルで、窓ガラスなんかも二重ガラスで、いわゆる安物品ではないところに入った覚えがあります。
最初にしたことは当然のことながら、一応今は新しくしてあるんですけど、窓ガラスのパテってご存知ですかね。
鉄の窓枠にガラスをはめて、その反対側を白い粘土のようなもので、あの作業を親父に手伝ってやらされた覚えがあるんですよ。
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昔の古いパテだと乾いてしまって、触るとポロポロポロポロ落ちてくるんですけどね。
新しいやつだと粘土状で柔らかくて、それを隅に押し当てて固めていくと、3、4日ぐらいは柔らかいんですけど、それ過ぎると結構固くなってガラスもしっかり止まるという。
そんなことで、パテを親父に手伝って一生懸命やった覚えはありますけどね。
どんな食べ物とか食事とかどういう感じだったんですか。
満州式の食べ物って言ったら、チェンピンとかマントーという。
チェンピンってフレークじゃなくて、薄っぺらいメリケンコをフライパンで流し込んで、
それに野菜とか肉とかを乗せて巻いて食べるという。
そういう食べ物は当時は普通の食べ物だった。
マントーはメリケンコをふくらしくを入れてフライパンで焼き上げたという。
やると厚さが2センチかもうちょっとあるぐらいのふっくらしたものができるんですけどね。
それは結構子供心にもおいしかったなという感じがします。
お話が出たらね、お腹空いてきちゃいますけどね。
そんなすごい質素っていうものじゃなくて、もちろんすごい贅沢でもないですけど、普通においしかった。
食生活は向こうではあまり困った覚えがないですね。
もちろん戦争に負けてからは逼迫しましたけど、それまでは食生活で困ったという覚えはないですね。
おいしいかおいしくないかは別としても。
【佐藤】実際に逼迫する前の話をもう少し伺いたいんですが、
清美さん自体は移られて現地で、日本人のコミュニティがあるのでそこで小学校とかに入ったんですか?
【清美】はい、そうですね。小学校はあけぼの小学校という安田市内では2番目に作られた小学校ですね。
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どんどん人口が増えていって、学校が足りなくなって、2番目にあけぼの小学校ができて、それ以降2つ3つできたと思うんですけど。
【佐藤】そうすると当然ですけど、いろんな全国各地から何回にも分けて常にこの安山にもいろんな日本の人が来たっていう感じなんですか?
【清美】そうですね。
【佐藤】清美さんはわりと早い段階だったんですか?どうなんでしょう?
【清美】いやーもう18年、19年いうことになると、そんなに早い段階ではないと思います。
【佐藤】もう終戦も近いですよね。
【清美】そうです。例えば渡航しようにも船が安全に来れるかどうかすらもわからんような時期に入ってますからね。
【佐藤】ただあれですよね、やっぱり本で読むよりも、今さらにお話を聞くとよりリアリティがありますけど、やっぱりすいません、当たり前の質問になっちゃうかもしれないですけど、そこにあったものは本当に日本っていう感じなんですか?やっぱりちょっと日本じゃない感じもあるんですか?
【清美】そうですね。日常の風物は日本ではないですよね。特に私なんかは瀬戸内海で育ってるから、気候温暖というところですよね。
ところが満州は気候温暖とは言わなくて、夏は暑いし冬は寒いしという、そんな状況ですから、生活はそういう意味ではずいぶん変わったと思います。
【佐藤】実際、安山での生活で、学校も行きながら、本当に学校へ行って普通に、お国のために何かをするみたいな、そういう感じは少なくても清美さん、子供はあんまりなかったんですか?学校でも教育を受けたりとかない?
【清美】もちろん、朝礼のときとか、校道に生徒が集まったりするときとか、こういうときには、校道の正面に天皇陛下と皇后陛下の写真が飾ってあるんですよね。
【佐藤】ご親営って言ってたと思うんですけど、それに例えば校長先生が相談してしゃべるときには再敬礼をして、また降りるときには再敬礼して降りるという、そういうことはありましたね。
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やっぱり気になるのが、当然、満州は日本がその場所にもいて、ある意味日本としてみんなどんどん移り住んでると思うんですけど、もともと当然住んでた地元の中国の方もいらっしゃったわけですよね。
そこはもう厳密に、こっから先は日本人の当然町、こっから先は中国のその地元の人の、みたいに線引きがしてあるとか、あとその関わりがどのくらいあったかとか、清美さんが考えられるその現地の人の感情、その日本人に対する。人それぞれだと思うんですけど、どんな感じでしたかね。
向こうへ行った満州に非常に印象に残ったことがありまして、それは先ほど言った、アパートに移り住んでしばらく経ったことなんですけど、
いわゆる現地の子どもたち。当時私が6歳7歳という年齢だったんですけど、それぐらいかそれよりもっと小さい幼い子どもが、当時夏だったんですけど、裸増全で満州の現地人の部落から車宅の方にやってきて、ゴミ箱を漁ってるんですよね。
それは例えば布切れだとか、そういうものを拾って集めて歩いてるという、そういう姿を何度か見ましたね。
そのときは変わった風景だなというか、雰囲気だなというのは感じましたけどね。それが、いわゆる日本人と当時の貧しい満州人の差であるということは、そこまでは思い足らなかったんですよね。
でも明らかに今考えるとそうですね。やっぱりかなり虐げられてた人たちだったと思いますよ。生活レベルから言ったら。
ただとはいえ、日本人が住んでるところに入ってきたらすごい刑罰があるとか、そういう話ではなかったか。
私が知る限りは罰則とかはなかったと思うんですよね。物を盗んだとかね。そういうことでもすれば、これはまた話は別ですけど、ただ単に入ってくるからダメよということはあんまりなかったと思うんです。
ですけどやっぱり日本人部落はほとんど日本人でしたね。後から出てくる七里市村はちょっと様子が違いますけどね。少なくとも安山についてはそうですね。
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【佐藤】逆にポジティブな意味で何か交流とかはあったんですか?本の中にも書いてありましたけど。
大人たちの積極的な交流はあったかどうかは知れませんけど、少なくとも親父は昭和成功書の今で言う生活共同組合。
向こうで正確には消費組合と言ってたんですけどね。そこで勤めてたんで、当然満州人の現地人を何人か雇って使ってたと思うんですよね。
そういう意味での交流はあったし、政策誌の中でも後遺産とかではかなりの人が満州人であったと思います。だからそういう意味での交流は十分あったと思います。
【佐藤】実際どうでしょう。ご兄弟も小学校も行って、一変する前のこのポジティブな楽しい時の満州の思い出で、一番手島少年にとって楽しかった思い出って一つあげるとしたら何が浮かびますか。
【佐藤】一つといえば、楽しいというよりも親にえらい叱られた思いがあるんですけど、今言ったアパートの屋上が、いわゆる物欲しばのような格好になっていて、
周りを、私の胸ぐらいの高さのところで囲ってあるんですよね。その囲いの上を兄貴と二人で歩き回ってたという。それを近所のおばさんに見つかってしまって、
おふくろを呼びに来て、手島さん、お宅の子供さんを見てごらんなさいって。上を指差したら、兄弟二人でベランダの囲いの上を歩き回ってたという。おふくろはすっかり上天してしまったという。
それで、こぴろともちろん叱られたんですけど、その印象はずいぶん残ってますね。
【佐藤】今お話しかかるだけでも、明確に今も残ってそうですね、その印象。少年の顔に戻ってきて。
【佐藤】いや、とんでもありません。
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【佐藤】ここの話だけ聞いてると、本当に全然想像がつかないんですが、そこからというか、もちろんその時期、いわゆる前後はありましたけど、これ一変したのは、B29ってさっきキーワードも出てきましたけど、これはどういう感じで一変したんでしょう。
そうですね。あの時はちょうどお昼頃だったと思うんですよね。私も正確にはどこにいたか覚えてないんですけど、学校から帰りか、あるいは、後から話に出てくるかもしれませんけど、
馴染みのある安山のタンク山っていうところがあるんですよね。小高い丘みたいな山で。そのあたりで遊んでたかどっちかだと思うんですけど、ちょうど昼頃ドカーンドカーンというすごい音がしましたね。
当時そういう音は珍しいことではなかったんですよ。あそこは鉱山の街ですから、鉄鉱石を掘り起こすのに爆薬を仕掛けて、ちょうどお昼の合図とともに爆破させるという。
だから結構大きな音がするのは珍しいことではなかったんですけどね。でもそのときは音の質が違うというか、近くで爆弾が落ちたもんですから地響きがするわけですね。
先ほどの葉っぱの音は、やっぱり遠くですから地響きまではしないんですよね。それでこれは普通ではないということで。当時、家に帰るか、学校の先生の指示を合うか、というふうなことを言われてましたからね。
でも私はとにかく家に帰ろうと思って、とにかく走りに走って我が家にたどり着いたという。
そうすると、当時そういう警戒も一応あったもんですから、防空壕を各家が掘ってるんですけど、掘ってるだけで野晒しなんですよね。
私が帰ると、ちょうどごふくろと姉が家から畳を持ち出してきて、その畳を掘ったばかりの防空壕にかぶせてるんですよね。
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それでこれは大変なことだということで、もちろん小さいながらも私も兄貴も手伝いましたけど、そういうのは一変したきっかけでしょうかね。
今、その空襲ですね、爆撃の話がありましたけど、その時はいわゆる空襲警報みたいなの出なかったんですか。
最初はなかったんですよ。何にもなかった。いきなりドカーンドカーンが来たんですね。
それは本当に驚くというか、一瞬何か混乱しますよね。
何が起こったのかわからない。でもやっぱり逃げて帰る途中、後ろの方を振り向くと、いわゆる昭和成功所の工場に爆弾が落ちたんだろうと思うんですけど、
黒煙がもくもくと上がってるという状態はすでにありましたね。
お父様も働かれてた場所なわけですよね。
そうです。親父は先ほど言ったように、工場じゃなくて消費組合だったので、安山駅の近く。
場所が若干違うんですね。
場所が若干違ってたので、南は逃れたんだと思うんですけど。
実際どうです?本当に消費学校1年生とかの少年が、想像するだけでも爆撃があって、そこから急いで自宅に帰るというか、
それだけで先ほどの状況から一変というのは押してはかるべしなんですけど、
ちょっと愚問かもしれないですけど、本当に死ぬかもしれないみたいな感じを感じたのか、それすらも感じず無我夢中だというか。
それすらも感じないというか、無我夢中だという感じですね。
怖いという感じともちょっと違う。
怖いというか切迫感がありましたね。
恐怖というのは対象物があると思うんですけど、そういうのは何もなくてやっぱり切迫感があって、
それからとにかく逃れなきゃいけないという、そんな感じでしょうかね。
そこでさっきの話でご自宅に戻って、そこからそれ以前の日常ではもうなくなっちゃった感じなんですか。
そうですね。
8月に入ってから2回目の空襲があったんですけど、
その時は空襲の後、街のあちこちを歩いて回ったんですけどね。
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子供の好奇心で。
一番印象に残ってるのは、
私たちが住んでた大きなビルに、他のビルなんですけど、同じ造りのビルに、真上から爆弾が落ちましたね。
ビル全体がビアダルみたいに真ん中がぽかっと膨れて、窓ガラスがめちゃめちゃで、
そんな惨状を見ましたけど、これは爆弾ってすごいもんだなというのは、子供心にも印象に残りましたね。
見事に真上からぽかーんと爆弾が落ちて、中で破裂したもんですから。
そうすると、本当に7月に最初爆撃があって、8月に2度目の空襲があったという中で、
やっぱり清見さんの中でも、やばいというか、今までは生死を考えるなんてあんまりひょっとしたらなかったかもしれないけど、やっぱり考えるようになりますか?
いや、生死を考えるとともに、残念ながら。とにかく、人情でないというとはありますけど、だからといって生死が危ないとか、そういう感情はまだなかったですね。
実際ね、先ほども少し名前が出ましたが、安山から途中から七里市村っていうところに行きますけど、これはどういう経緯で?
先ほど言いましたように、2回目の空襲を受けた後、とにかく疎開をしなきゃいけないということで、
安山市内の一部の人が、先ほど言った七里市村というところに引っ越したんです。
それで私たち家族もそこへ移ったわけですけど、3回目以降の空襲は知らないんですね。
当然、結構残った方もいらっしゃるんですよね。
そっちの方が多いんです。
七里市村はね、多分、社宅の数から言ったらそんなにたくさんじゃないと思うんですね。
鉱山関係の人とか、あるいは親父のように生活共同組合で働くような人。
そういう人が何十所帯かが移ったんだろうと思うんですけどね。
それ、もしご存知でしたら教えていただきたいのですが、移るというのは、いわゆるお父さんが働いていた部署とか、
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つまりそういう何か、こちらではコントロールできない、行きなさい、残りなさいなのか、割と意外と選択権があったのか?
たぶん選択権はなかったと思いますね。
安山の成功所っていうのは、まず原石を掘って、
それを昭和成功所の工場の中に持ち込んで、石炭と一緒に炊いて、鉄鉱石を作るということですよね。
七蓮市の方は、鉄鉱石を掘る方の地域なんですね。鉱山がたくさんあるところなんです。
だからたぶんその関係の人が中心で、
うちの親父はその人たちの生活を維持するために移り住んだんだと思うんです。
実際に移った方が、結果的には全員が当てはめるわけじゃないんですけども、
全体としてみると、安山に残れる七蓮市に残った方が安全だったってことになるんですかね。
やっぱり疎開するぐらいだから。
そうでしょうね。当時の会社を運営してる人とか、あるいは安山市をコントロールしてる人たちがどういう考えか、私たちにはわからないんですけど、
でも全度から言ったら、少なくとも七蓮市村事件が起こるまでは、七蓮市村の方が安全だったと思います。
なぜなら、空襲もあと3回受けますからね。
2回目の後、我々は七蓮市に引っ越したんですけど、その後また3回空襲があるんですよ。
だからそれを考えたら、やっぱり移った方が身の安全から言えば良かったと思うんですよ。
実際に七蓮市村に移ってどんな生活だったんでしょう。
七蓮市村は、やっぱりいわゆる終戦、敗戦。
8月15日以前は、やっぱり子供にとっては楽しいことの連続というか。
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そうなんです。
本にも書きましたように、楽しいことがいっぱいあって、
まあ、ノウテンキと言えばノウテンキなんですけどね。
でもやっぱり子供にとっては天国だったんでしょうね。
終戦の話が出ましたけど、玉音放送もよく聞こえなかったって書いてありましたけど、現地でも流れたんですね。
流れましたよ。流れましたけど、やっぱり、もちろん僕たちには意味はわかりませんけど、
声もくぐもってますね。ほとんど聞き取れないという。
でも大人たちは、少なくとも意味ははっきりつかんで、これで戦争に負けたということは、はっきり自覚したと思うんですね。
今の戦争、負けたって話、大人は子供はあってありましたけど、清美さんは当時は、
その旅行放送もそうです。直前ぐらいになると、当然空手目的で疎開になっている時点で、
ちょっと劣勢なのかなっていう。話聞く分にはそう思うんですけど、少年としてはその辺は感じてました?
感じませんね。
わからないんですね。
それがやっぱりわかるのは、大人たちが、例えば旅行放送聞いた後で通りへ出てきて、
ちょうどまだ夏でしたからね。酔っ払って出てきて、まだ戦えるとか、なんで負けたんやとか、
そんな話をわいわい言ってるのは、なんとなくわかりましたけどね。
実際そのね、ちょっといろいろ話前後しちゃうかもしれないですけど、終戦の後で状況がいろいろ変わると。
当然日本が今度敗戦国になるので、この本の中で見てても、最初さっきお話があったように、
どちらかというと現地の満州の人たちが虐げられてたのが、ある意味逆にというか、
とは思う。文脈、本を読んだり、いろいろ想像はできるんですけど、実際本当に真逆っていう感じだったんでしょうか。
意外とそんなに迫害を受けなかった。ただ実際にはそれで逆にどこか連れて行かれた人もいるって書いてあったし。
そうですね。やっぱりケースバイケースでしょうね。
一例志村でも、当然戦争に負けても治安維持という名目で、日本軍は武装したまま残ってたんですよね。
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だからそういう意味では治安は良かったんですよ。完全に武装解除してたのは10月の末ですから、
8月15日から10月の末までは、まだ日本兵が安田にもいたし、秩序にもいたんです。
そういう意味ではまだ治安は保たれてたという。
でも本当に、皆さんこれ見てる方、聞いてる方、ぜひこの手島さんの本は読んでいただきたいんですけど、
この1時間ちょっとのインタビューは、とても全部伺うのは難しいくらい、本当にドラマがたくさんあって、どこから伺おうかなっていうのは、今も実は探りサイトで伺ってるんですけど、
こうやって清美さんとお話伺ってると、すごく穏やかな感じで話してくださるので、
さっきもおっしゃったように、無理やりそこを伺いたいわけじゃないんですけど、やっぱりどうしても、この本の中に書いてあることも含めて、
死を感じるとか、身近な方の死だったりとか、その辺とかもこの中にもありましたけど、
数え切れないのがたくさんあったと思うんですけど、そういう意味で改めて、やっぱり最も死を感じた瞬間、ご自身だったり周囲で、いくつか挙げるとすると、どんな状況だったんですか。
一番最初は、まだ七齢死に執行する前に、2回目の空襲の後ですよね。
2回目の空襲の後、兄貴とお袋に用事頼まれて道を歩いてたと思うんですけど、
そうすると兄貴が、清美、あれって、上の方を指さすんですよ。
あれ何かなと思ってみたら、電信柱の上につなぎのクロスした木がありますよね。
そこを電信柱が通ってるわけですけど、そこに何か引っかかってるんですよ。
何かなと思ってよくよく見ると、それはもう血にまみれた衣服の一部が、それに肉片がくっついてるんですよ。
たぶん爆撃でやられて吹っ飛ばされて、粉々になって電信柱に引っかかったという。
恐怖心を持ったというのは、それが最初だろうと思うんですよね。
想像はしますが、実際見ると全く違うと思うんで、本当に衝撃だったと思うんですけど。
それが最初ということは、当然その後もたくさんあるわけですよね。
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2番目に印象に残るのは、七里市村事件の時に、
あそこは先ほど言いましたように、日本人がまだ、兵隊さんが武装してましたけどね。
ところがやっぱり偵察とか、たぶん職働の調達とか、そんなことだったと思うんですけど、
いわゆる切り込み隊とかいう言葉を兵隊さんは使ってましたけど、
そういうことを何度か八郎軍とか中国兵の中に侵入していって、
情報を仕入れたり、武器弾薬を取ってきたり、あるいは食料を取ってきたり、
いろんなことをたぶん繰り返してたんだと思うんですけど、
それでゴーニアしたソ連と八郎軍の連合軍が七里市村を襲撃してきたんですよね。
その時に私のかわいがってくれた、名前まで覚えてますけど、福島上等兵という、
その人がやられましてね、手榴弾でやられたのか、とにかく体がバラバラになって、
それで畑に打ち捨てられてたという。
それは戦争に負けた後ですから、見せしめのためなんでしょうね。
そういう遺骨を拾って埋めるということを許さなかったんですね。
だから死体はもう打ち捨てられたままで、
野犬が肉片をかじったりとか、そんなひどい状況のまま放っておかれたという。
それは非常に仲良く、かわいがってもらった兵隊さんだけに印象には残ってますね。
非常に残ってますね。
今お話がかかっていると、変な話ですけど、毎日寝れたんですか?
時々は夢に見ましたけど、まあでも寝れたでしょうね。
そういうのは多分、もっと後になってから時々思い出して夢に見るということで。
子供の頃はもう夜、横になったらもうバタンキューで、よく寝たと思います。
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後年になってとおっしゃいましたけど、ちょっと伺うのも恐縮ですけど、
逆に今というかね、この時代になってからも、戦争にまつわる夢とか見ることはあるんですか?
戦争にまつわることといったら、やっぱり戦争と親父やお袋ですかね。
特にお袋の夢はね、いまだにちょくちょく見ますね。
差し支えないでいいんですけど、どういう夢なんですか?
そうですね、結構長生きしてて、今でも夢に見るときはピンピンしてるという、こんな感じの夢が多いですね。
なんかアップアップしてるという夢はほとんどないですね。
でも今、お父様とお母様の話が出てきましたけど、この手島さんの本の中でも本当に
当たり前かもしれないけど、お父さんとお母さんのいろんな選択がなかったら、文字通り今の清美さんがないっていうのがいくつかあるじゃないですか。
お父様のね、脱走の2回の話とか、すごいんですよね。これ本当にあった話なんですよね、2回。
そうですね、本当にあった話ですね。
これ見てる方に、せっかくなんでその脱走、どんな感じの同意状況でどうだったのかっていうのを教えてください。
これは、親父やお袋や姉から聞いた話なんですけど、先ほど言ったように、戦争に負けたときに、
その前に終戦になる3ヶ月前ぐらいかな、6月、7月。2、3ヶ月前ぐらいに招集を受けたんですよね。
当時はもう敗色行為ですからね、本来だったら、今更年取った親父を招集するような出演生は全くなかったと思うんですけど、
いわゆるよく言う猫そぎ動員って聞かれることあるでしょ。あれですよきっと。あれで戦争に取られて、
親父は市町隊、荷物を運ぶ部隊、それで馬を引っ張ってあきこちに物資を運ぶという、
そういう部隊に回されたらしいんですよね。
51:00
そこで、ちょうど先ほど言った安東というところ。
毎週は王力を渡ったところで、安東というところで終戦になって、戦争に負けて、
そこにしばらく留め置かれて、それから身の振り方を決めるということになるんですけど、
ちょうど親父の隊長さんができた人というか、腹が座ったというか、
とにかく自分は責任があるから、部隊と一緒に行動を共にして、
多分シベリアに連れて行かれるだろうけど、シベリアまで行くよと。
だけど人それぞれ考え方もあるだろうし、それから親のところにあるいは家族のところに帰りたい人もいるだろうから、
とにかく戦争に負けたから、あとは自由に行動していいよと許可をくれたらしいんですよね。
それで親父はとにかく家族のもとに帰りたいということで、隊を離れる決意をして、
それで隊長の方に申し出て、新しい軍服と軍歌を支給されて、それをもって隊を抜け出したという。離脱したという。
それはちゃんと記録にも残ってるんですよね。
いわゆる昭和成古書の人たちが何人か隊を離れたという記録はちゃんと残ってるんですよ。
たぶん親父はその中の一人だったと思うんですけど。
それでとにかく隊を離れて、安山の方に向かって歩いていくわけですけど、
たまたま農家を見つけて、そこに入ってきて、そこにおじいちゃんがいたらしいんですけど、
そのおじいちゃんと片言でやり取りをして、満腹、満十人が着るような服と新しい軍服と交換してもらったり、
そんなことをしながら、いわゆる変装して、また満州の安山の方に歩いてたんですけど、
54:12
距離が相当あるので、ヤンチョとマーチョというのが乗り物があるんですけど、
ヤンチョっていうのは自転車にお客を積む一席だけ分けて自転車越井で行くようなアレなんですけど、
マーチョっていうのは馬車ですよね。
馬車だとかなり遠くまで行けるんで、それを捕まえて、ターニングホーンで安山にまで行きたい。
ちょっと遠いので、それはちょっと無理で、途中までならいいよということらしかった。
途中まででいいから行きたいと乗せてもらったんですけど、
しばらく行くと馬車が止められたんでしょうね。
それでソ連兵と通訳が検問してた。検問に引っかかっちゃったんですよね。
そこを聞くだけでもうアウトって思いますよね。
それでもう親父はもう覚悟を決めたと言ってましたけどね。
とにかく毛病を使って病人をよそって、業者に運を手に任せるというか、業者に全部任せたという。
そうすると、業者と通訳がうまく話をつけてくれたんでしょうね。
無事にそこを通過できたという。
多分当時はソ連兵ってあまり人気が良くなかったんですよ。
結構傲慢な人たちが多かったんですよね。
だから評判が良くなくて、それで親父は助かったんじゃないかと思うんですけどね。
今の話を聞くだけでも最初に民家に入って、その本にも詳しく書かれてましたけどね。
お金を渡して、福を。それ自体も運じゃないですか。
人によってはそれで通報とかなんかする人もいるだろうし。
そしてその後の今の移動手段で行くときも、むしろもうここまでかっていうところで、奇跡が何個も重なって。
親父は運が良いんですよね。生まれづきがいいみたいな。
本にも書いてましたけど、転写日ですよね。
57:06
やっぱり急死に一生を得るような、そういう人だったみたいですね。
急死に一生、しかも何回もですよね。その後も脱走をもう一回してますよね。
2回目の方でしたっけ?後ろから追っかけてくるというか、銃撃で。
他の仲間は撃たれたけども、振り返らずに。
七里市村事件が起こったときに、男連中はみんな捕まえられて、連れて帰られたんですよね。
そこを2度目の脱走してきたという。仲間4人と言ってましたね。仲間4人で一斉に逃げ出すんですけど、
親父だけは運良く逃れて、安山までたどり着いたんです。
これも記録にちゃんと残ってますね。脱走のことは書いてないんですけど、連れて行かれた先が、
洋洋というところまで連れて行かれて、それで解放されたという。
昭和成古書のグループの何人かが連れて行かれて釈放されたと書いてあるんですけど、
親父は連れて行かれる途中で逃げ出した。
記録を調べると結構いろんなことが書いてあるんですね。
後からこういうことだったんだっていうのがいくつかあるわけですね。
今清美さん、親父が運が良かったっていう話されましたけど、その一方で、時系列では前後してしまうかもしれないですけど、
たぶん終戦後なのかな。いろいろ隠れてというか、人目を偲んで暮らすみたいな時に、
レンソン・ワンソンでしたっけ。地元の人たちと一緒に住んだりとか、その方たちがいたことによって、ひょっとしたら助かった部分もあるかもという。
何が申し上げたいかっていうと、やっぱりこの運もですけど、やっぱりご両親の普段のひどくなりというか、徳がやっぱり人徳というか、
その辺がすごく、本を拝読すると感じたんですけど、そのあたりのお話も少ししていただけますか。
レンソン・ワンソンの話をすると、そもそもは、親父が昭和成功所の消費組合に勤めた。
1:00:00
そのときに部下として使ってた人たちなんですよね。
主な仕事は消費組合の人たちが買い物をして、その買い物した荷物が重たい場合には、レンソン・ワンソンがそれを持ってこの車宅に届けていくという。それが主な仕事だったと思うんですけど。
親父はそんなことで一緒に仕事をしてた。
そこで、その後もまた再会というかね。どういう経緯なんですか。
これはちょっとわかりませんけど、親父が七里市村から脱走して帰ったときに、安山にまた戻るんですよね。
戻ったときに、元の職場にレンソン・ワンソンもまだいたんですよ。
だからそこで再会したんですね。
その後も非常に親身になって、面倒見てくれたというか、協力してくれたんですよね。
その後も敗戦になった後から、私どもの車宅にレンソンと、それからその奥さんと、おばあちゃん。
まあまあと言ってましたけど、おばあちゃん。3人で一緒に住んでくれることになったんですよね。
それは親父が頼んだか、レンソンからの申し出かは、子供の頃だからわかりませんけど、
その人たちが非常に助けになってくれたことは間違いないんですよね。
この本を読んでくれた人からの感想で、私もはっと驚いたんですけど、
わずか2年そこそこの付き合いしかないんですよね。ワンソンにしてもレンソンにしても。
にもかかわらず、そこまで親身になって同居するぐらいまでやってくれるかという。
それが不思議ですよって言われて、ああそうなんだ。
10年も20年も一緒に仕事をしてたり、貴族を共にすればそういうこともあるだろうと思うんですけど、
わずか2年足らずでそんなことがあり得るのかなという。
そういう意味で指摘されて、ああなるほどと思った。こんな珍しいことがあるんだという。
しかも彼らにしてみてもある意味リスクというか、大きく言うと危険みたいなのがある。
1:03:01
当然あると思いますよ。
それはいわゆる敗戦国の国民をかくまってたというか、なんで味方するんやってことですからね。
それはあったと思いますけどね。そこはちょっと私にもわからんですね。
ただやっぱりご両親、今の話で特にお父様なのかもしれないけど、
絆って一言で言っちゃうとあれかもしれないけど、やっぱり何かあったんでしょうね。相当大きいものが。
そうですね。一つ思い当たるとしたら、うちの親父は四男坊。
当時は生活も逼迫してきてるから、よく言われるじゃないですか、口べらしという。
それで養子に出されたんですよね。
もともとは天野だったんですけど、養子に出された先が手島。
そんなことで結構苦労して育ったのが結果的に良かったのかなという感じはしますけどね。
でも今手島さんおっしゃったように、ずっとお話を伺ったり本を読んでると壮絶な記録なので、
すごい長く感じたんですけど、実際2年半っておっしゃいましたけど、長かったですか短かったですか。
そうですね。中身の濃いさから言ったら長かったでしょうね。
6歳から9歳って言ったら、それほど覚えてることはないと思うんですけど、
かなり印象が強烈だったせいか、かなり覚えてる。そういう意味では中身は濃いかったというか。
今日改めてお話伺って思ったんですけど、やっぱりどうしても僕らのように清掃は当然体験してない。
そして、今日8月13日ですけど、終戦記念日8月15日で、ある意味戦争の報道自体も毎年ありますけど、やっぱり15日終わったらパタッと少なくなるじゃないですか。
どうしても内地の話も色々僕も聞いてきましたけど、8月15日で文字通り、もちろんその後みんな復興が大変だったと思うんですけど、
まずは一つの区切りで終戦というふうにどうしても思っちゃうんですけど、
満州に行かれてた方、僕は他にも何人もお聞きしましたけど、やっぱりの方の終戦ってちょっと違いますよね。
終わってないですよね。そこからそういう帰ってくるまでのというか。
1:06:06
清見さんにとって、実際帰るまでにその終戦の後、約1年近くあるわけですよね。
今年の昭和21年の7月までかかった。
その中で今のいろんな大変なことがあって、やっぱり今出ませんでしたけど。
どうぞ大丈夫ですか。
大丈夫です。ありがとうございます。
弟さん、帰る直前に亡くされて。
20日前ですね。20日前に死にましたね。
辛い思い出を思い出させてしまうのはあれですけど、それはどういう経緯で亡くなってしまったんですか。
やっぱり食糧不足ですよね。まだ生後8ヶ月ぐらいですから、
当時の食べ物は香梁とか麦とか泡とかそんなもんですよね。
そうするとやっぱり消化不良を起こしちゃうんですね。
劣化といって栄養のあるものはないものですから、どうしてもそういうものを食べさせなきゃいけない。
最初の原因はそうなんでしょうけどね。
基本的には徐々に徐々に体力が失われていく。そういうことじゃないかと思うんですね。
栄養もそうですし、お医者さんを探すのもひと苦労で、探したとしても薬があるかとか、栄養が。
お医者さんは、看護婦さんもそうですけど、ソ連軍、それから中共軍、国府軍、
そのチャンチャはどれも腐食してるもんですからね。見つかったらどっかに引っ張られていくという感じの状況ですからね。
だからもう隠れてる。みんな隠れてる。
これ今の話と若干ずれちゃうかもしれないですけど、お医者さんに対してもそうですけど、
終戦前後と、B29爆撃前後とかいろいろあると思うんですけど、いわゆる現地でのお金、通貨、貨幣っていうのは何か現地のものがあったんですか。
ありました。現地の通貨です。
満州国の通貨は、終戦とか敗戦になっても3年ぐらいは通用してたと思うんですよ。
そういう記録がありますね。だからそういう意味では日本の統治はかなりしっかりしてたと思うんです。
敗戦後も3年って結構すごいですね。
3年ぐらいは通用してたと書いてあります。記録にありますね。
1:09:03
実際この中にもありますけど、敗戦ということである意味支配してた満州というか、そこが逆になってというか、その中でまた毛沢東と紹介席の両方の話が出てきますけど、
当時はそうか、それこそ手島少年からすると、中国の人に対する感情とか、ましてや毛沢東やら紹介席やらとか、やっぱり全然わかんない。
そうですね。八郎軍と国武軍という識別ぐらいはわかりましたけど、それがどういう思想を持って?というのはわからないですね。
ただ、シンパシーがどちらにあったかというと、国武軍のほうにあった、紹介席のほうにシンパシーがあった。
日本が戦争に負けた、いわゆる天皇陛下の漁港放送があったときに、紹介席が談話を発表してるんですよね。
それは、やっぱり暴力にもって暴力で報いてはいけない。徳をもって報いなさいということを言ってるんですよね。
そういうことを言ったのは、多分当時の世界のリーダーでは紹介席だけだと思うんです。
本当ですよね。なかなか言えないですよね。
言えないですよね。
それがちょうど、戦争に負けて昭和成功初の工場をどうするかという話になったときに、
とにかく当時の議事長が、なんとか綾尾さん、ちょっと名前忘れましたけど、その人が、
工場をちゃんとした形で、万全な形で次の政権に渡そうよということで、激を飛ばしてるんですよね。
その時期と今の紹介席と話が重なったものですから、それで日本人の大部分、かなりの部分が紹介席に系統していった。
もちろん中共の方に肩入れしてきた兵隊さんたち、あるいは工場の人たちもかなりいたけど、
たぶん国軍に味方していった人が多かったんじゃないかなと思いながら。
引き上げの話も出ましたけど、いよいよその引き上げが決まった時っていうのは、率直に言ってどんな気持ちというか。
1:12:08
そうですね。やっぱりザワザワ回りはしてましたからね。
でも、これで帰れるのかなという漠然とした気持ちはありましたね。
当時は私もちょっと体を壊してますよね。栄養失調だかなんだか。
とにかくあんまりきちっとした生活ができるような状況じゃなかったので。
うろうばいというか、そういうところが多いんですけどね。
実際、この本の中にもありましたけど、お父様は旧死に一生何回かも得て、お母様も頑張って、
お父さんは残念だったと思うんですけど、残りのご家族で帰ってきてというか。
その中でやっぱり残留孤児になってたかもっていうところが本の中にあって。
やっぱりご両親を亡くしたりとか、いろんな事情があったりとかっていう。
それ以上に同じぐらい衝撃だったのが、単純に僕ら日本人、平和な時代に生きてる人間からすると、
日本に帰れるんだったら、いろいろ敗戦で大変にしても、やっぱり嬉しいと思う。
みんな嬉しいと思うはずだと少なくとも僕は思っちゃったんですね。
この中に逆に帰るのはちょっと複雑で、もちろん残った方もいるとか、現地で結婚したりとか、
という方もそれなりにいらっしゃったんですね。
もちろん我々は分かりませんでしたけど、私たちが住んでた社宅の人の中にも、子供がいなくて夫婦だけだったと思うんですけどね。
もう内地に帰ってもあまり親戚縁じゃもないし、負けた日本に帰っても希望が持てないから、
ここで生活をするというふうな人もいましたね。
本当、究極の選択みたいな感じですよね。
そうですよ。もう一生どうするかということですからね。
そして実際ね、文字通り命からがらというか、清美少年の今の話がかかってて、
ある意味体もボロボロで、ある意味危ない状況で帰ってきて、最初はどこに寄港したんですか?
1:15:04
行くときは違いますけど帰りは博多港に。
そうすると博多と福山ってね、今であればもう新幹線とかで。
簡単ですけどね。
当時は。そしてすぐには帰れなかったんですよね。
帰れないというか、返してもらえなかったんですよね。
兄貴も私も寝たきりだったんですよね。
だから博多の病院側が福山に転院する。
転院許可が出なかった。何度も何度も頼み込んで。
それで結局始末長を欠かされて。
何回も責任を取れないよみたいな。
責任を取りませんよという念書を欠かされて。
それで連れて帰ったという。結果的にはそれが良かったんですけどね。
いやすごいですよね。
博多の病院でも、病院って言ってもこの本の中に描写が書かれてますけど、
実質ただ寝てるだけという。薬とか栄養もすごい取ってもらうわけじゃない。
診断もはっきりしない感じ。
診断もはっきりしません。要するに栄養失調みたいな感じですよね。
すごいですよね。その中で単価みたいなもので、
お母様が頑張って電車で列車で福山に連れて帰って、壮絶というか。
でも多分そういう人多かったんじゃないですかね。当時は。
さっきのお父様の脱走と僕はそれと同じぐらいすごいインパクトがあって、
お母様が病院は責任を取れないよってなっても、
もちろんとても病院にいる方が合理的な選択だったと思うんですけど、
でも賭けじゃないですか。
その決断されなかったらやっぱり、
すいません、今お元気な清見さん前にしてるのもあるんですけどね。
今の清見さんはやっぱりなかったかもしれない。
もちろんなかったんじゃないですかね。だって薬がないんですから。
食べるものって当時のことですからね。
芋とかぼちゃぐらいしかない。
実際福山帰ってきて治ったっていうのは、地元だからっていう、
そういうちょっと抽象的なこともあるんでしょうけど、
やっぱり実際栄養があったとか、
お医者さんにまともに見てもらえたとかって感じなんですか。
1:18:02
福山はまだ薬があったみたいですね。
例えば、私なんかも、
いわゆるリンゲル注射っていう言葉聞かれたことがあるかどうか知りませんけど、
別に食塩水を注射するような、
今だったら血管注射でやりますよね。点滴をやりますけど、
当時は太ももに畳針みたいな太い針を突き刺して、
虫タオルでそこを揉みながら、時間かけて液を入れるという、
そんな状況だったんですけど、
そうは言っても、そういう薬があったんでしょうね。
だから助かったんじゃないかなと思うんですね。
そう考えると本当にすみません。繰り返しで恐縮ですけど、やっぱりその運。
ああ、そうですね。やっぱり運ですね。
そして運だけじゃなくて、やっぱりさっきの、
ご自身もそうだと思いますけど、周りの方の得とか縁とか、
いろんなものが絡み合って、本当に奇跡というか。
たぶん満州から引き上げてきた人は、大なり小なりそういう運が良かった人が、
無事に帰ってこられたという感じですよね。
本の中には書いてなかったんで、ちょっと個人的に気になったんですけど、
やっぱりレンさんでしたっけ?一緒に住ませてもらったというか、
その方の僕も印象がすごく大きかったので、
彼らのその後っていうのはやっぱりわからないんですか?
残念ながらわからんのですよね。
一つは、戦争が終わって、
中国と日本の間っていうのは、当時は竹のカーテンとか言われます。
だからもういろんな情報網が完全にシャットアウトなんです。
住所はたぶん聞いてたと思うんですけど、
手紙を出しても、とてもじゃないけど、
手紙がつくような状況ではなかったと思うんですね。
だからもう別れて、それっきりですよね。
レンさんはお父さんもお母さんと同じくらいの世代だったんですか?
もうちょっと若いとか。
もうちょっと若かったんじゃないかな。
1:21:02
レンさんが40よりもうちょっと若いかな。
35歳前後。
奥さんもさらにちょっと若いという。
おばあちゃんが60ぐらいかな。
そんな3人家族だったですね。
本当にここまでお話いろいろ伺ってきましたけど、
やっぱり最後にいくつかだけ伺いたいんですが、
本の後書きに、ちょっと正確な言葉じゃなかったら申し訳ないんですけど、
満州での原風景というか、
そういう経験とか原風景がその後の人生観を方向づけている。
というふうに書かれていた。
なのでいわゆる、どういうことなんだろうかなって、
もうちょっと詳しく聞きたかったんですけど、
手島さんの人生にとって。
やっぱり何かにつけて思い出す。
普段多分単純に生活してたら、
そういう印象っていうのは通り過ぎてしまうと思うんですけど、
そういうのではなくて、何かの時にふっと思い出して。
あの時こうだったというのが、
やっぱり自分の生き方の方向づけみたいなのを、
感じたことは何度かありますね。
特に若い時から会社に入る、
学生から会社に入る時ぐらいまでは、
気持ちの中に結構強くありましたね。
それとか、磯川さんという、
七連島で一緒に遊んでくれた兵隊さんですけど、
その方はやっぱり福山の近くの出身なんですね。
そういう人との交流というのは、
引き上げてきてからもずいぶん長い間あったんですけど、
やっぱりそういう人たちの話を聞いたりとか、
あるいは手紙のやりとりとか、
あるいはお袋からこんなことがあったよとか、
あんなことがあったよとかいうのを聞くと、
結構いろいろ思い出されて、
それが支えになったと言ったらちょっと大げさですけど、
そういう面がありますよね。
そうすると人生観、例えばこう変わったとか、
例えば大きくなってお仕事される時とか、
1:24:01
学校に入る時の何か決断の時にとか、
具体的にこういう自分の人生規範が、
こういうものが芽生えたとか、行動指針がこうだという、
言葉として伝えられるものっていうより、
もうちょっと大きいというか本質的なものなんですかね。
そうですね。もうちょっとモヤっとした感じじゃないかな、
自分の中ではね。
例えば偉い人だったら原稿録を残して、
その人の言葉を聞いて自分も共感する、
というようなことがあったかと思うんですけど、
姿勢の人ですからね、
磯川さんにしてもレンさんにしてもワンさんにしても、
そういう人たちの立ち振る舞いは思い出しても、
その人の言葉で触発されるということはなかったですね。
今、いろんな方の何かを残すというキーワードも出てきましたけど、
やっぱり改めてですけど、この少年の目に映ったマンシュ、
この本書かれてというか、やっぱり書こうと思ったきっかけというか、
その辺っていうのはどこにあるんでしょう。
それは前書きの一番最初に書いたんですけど、
うちの子供たちに、まだ私が会社勤めの頃に、
酒を飲みながら昔話をして、
先ほどのワンさんレンさんの話もそうですし、
七里市村のこともそうですし、
ベロとアミの犬の話もそうですけど、
そんな話もしてたんですけど、
そうすると、子供たちがこれを何か残してくれないかということを言われまして、
自分は全くその際はなかった。
ただ酒飲んで、子供たちに話すというだけだったんですけどね。
そういうことを聞いてから、何かできたら残しておこうかなという。
それが触発ですかね。
それでぼつぼつと書き始めたんですけど、
書き始めてみると、もうちょっと親父やお袋から細かい話、
細かい話を聞いておけばよかったなというのはたくさんありますね。
こういうことがわかれば、もっと奥深く書けたのにというのがあるんですけど、
それはしょうがない。今となってはしょうがない。
姉が亡くなるまで、これを書くためにいくつかアドバイスなり記憶なりをたどってくれましたけど、
1:27:11
それはよかったと思うんですけど、親父やお袋や兄貴からは、
もうちょっと具体的な細かい話が聞ければよかったという。
残念に思ってますけど、しょうがないですね。
僕が言うのもちょっと僭越というかおこがましいんですけど、
さっきおっしゃってたように、この少年の目に映ったって文字通り書いてらっしゃるとおり、
実際今も今日も話がかかっても、本当に細かく鮮明にっていうのは、
当時は理解もなかなかできてない中で、
映ったものっていうのは確かにあると思うんですよ。
あとその気持ちも残ってると思う。それをこうやって後ろ側で、
当時を実際に知ってる方だったり、当然これいろんなデータとかね、
専門家の方のお話も最後にいろいろ協力を書いてますけど、
よく本当にこういう形にされたなっていうのは本当に慶福しました。
ありがとうございます。
本当に最後になんですけど、改めてやっぱりもう今年ね、
まもなく終戦75年ということで、本当にあっという間で、
僕もこうやってお話、いろんな戦争体験された方からお話を伺って、
あっという間にもう7年経ってしまったんですけど、今、
福島さん、改めて、今ね、こういうコロナウイルスのことも出てきちゃってますけど、
世界を見ていて思うこと、どんなことでもいいんですけど、
何かあればこれ見てる人、聞いてる人にちょっと共有いただきたいなと。
そうですね、その跡書にも書いてますけど、
なんか好ましくない足音が聞こえてきだしたという、
そんな感じを持ってますね。
好ましくない。
好ましくないと思うんですけど、やっぱり、
税制に考える異性者がずっとリーダーシップを取ってくれればいいんですけど、
やっぱり国益優先、あるいは権力優先のような感じで国民を引っ張っていくと、
あまり結果に結びつかないんじゃないかなという感じがするんですよね。
今まさになんとなくですけど感じるのは、
ちょっと嫌な足音がしてるんじゃないかなという感じがしますね。
やっぱりそれをとどめるというか押し止めるのは、
我々の一人一人の努力と、あるいは勉強ですかね。
1:30:01
特に歴史の勉強はやっとかなきゃいけないなという感じがしますね。
まさにですよね。
忘れ去るのは簡単なんですよ。
本当に簡単に忘れちゃうんですね。
10年もすればかなり大きな事件も風化してしまう。
その中にいたにもかかわらずっていうのもありますね。
自分たちがいたとしても。
そうですね。そういうのありますよね。
手島さんおっしゃったように、
そういう意味ではこれは個人的な感覚になっちゃいますけど、
本当に良くない状況、全体の流れとしてもそうですし、
個人的な感覚というかいましめも込めて、
戦争とは直接は違いますけど、
ある意味またコロナウイルスで考え方にいったら
戦事化みたいなところもあると思うんですよ。
その時に今おっしゃったように一人一人が、
この番組は政治的な動向というものは全くないんですけど、
やっぱり本当に一人一人の選択決断が、
よりその国で引いてまた自分に戻ってくるっていう意味では、
本当に終戦以来ある意味初めてというか、
ダイレクトに来てる時期かなと個人的には思うんですけど、
やっぱりその辺は清見さんも感じられますか。
清見さんそうですね。今までちょうど戦後75年ですよね。
良きにつけ悪しきにつけ、
日本人が戦場で命を失ったということはないんですよね。
外国だとそんなに珍しいことではない。
だから願うことはこの先の75年も、
今のように戦場で命を失う人がないように願うということですね。
そのためにはやっぱり勉強しないといけないし、
言うべきことは言わなきゃいけない。
ということではないかな。
本当にありがとうございました。長時間。
本当にいつまでも引き続きお元気で。
ありがとうございます。

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