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深谷さん、青年月日と年齢を教えていただけますか、改めて。
昭和4年、12月13日です。
昭和4年、12月。そうすると、今年、今、今度91歳、今90歳。
もう91、12月では92なんです。
92歳ですか。どうですか、とても若くて、やっぱり年齢全然見えないですけど、ご自身の中で90年生きてきたって感覚はありますか。
ないね。
あっという間でした。
そうですね、あっという間。でもね、80から90であっという間。
本当ですか。
変わらないもんね。80から90も変わらない。あっという間に80になっちゃった。
あっという間に90。今回、お生まれはどこですか。
福岡は英体2丁目。
深谷さん、ずっと東京の方なんですね、そうすると。生まれも育ちも。
そうですね。全部で8人家族。
だから、姉と妹と母親はすぐ亡くなっちゃったんです、昭和20年に。
兄貴は3人残ってましたからね。でも、兄貴も案外長生きはしなかった。
8人家族で、今ご存命なのは誠さんだけですか。
そうです。
今、少しお話いただきましたけど、そうすると、深谷さんの中で当時、戦中、一番最初は昭和20年の状況としては、
大空襲の前までは8人ともみんな一緒に住まわれてたんですか。
そうだよね。
深谷さんは当時、そうすると、15歳とか16歳、中2?
中2、学生だった。
当時、昭和20年、戦争の終わりになってくると、当時思い出すと、大空襲の前、どんな感じの毎日だったんですか。
島田公園高校行ってましたね。学生だった。剣道なんかはやってました。体操はいっぱいやってましたね。
あと、お昼は給食が出るの。
給食。
おにぎりとか。
それは出ましたね。毎日給食。
あと、弁当を持ってくるご飯はないんですからね。配給はない。何にもない。
そうか。
少しあったかな。
でも、配給ないぐらい大変な時に、でも逆に給食はあったんですね。
はい。学生はね。
やっぱり東京大空襲がすごい印象的だと当然思うんですが、その前に深谷さん、ご自身の頭の記憶の中で、初めて、あ、もう戦争なんだみたいに感じた時っていつですか。
たまに飛行機飛んできて、焼夷弾を撃つ間にすごくありました。焼夷弾はね。
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ありましたよね。東京っていうと、東京大空襲のことはもちろん知ってるんですけど、
私もこのいろんな方に体験談を聞いていった時に、
オグバシに最初に1941年、昭和16年とか、パールハーバーの直後に、アメリカの爆撃が日本に昔来てたらしいんですけど、
深谷さんの中で今おっしゃった、飛行機が来てたまに焼夷弾を落としてたみたいなのは、昭和20年より前にそういう記憶はありますか。
そうね。なんか爆弾がどっかに落とされたことはありますね。
その時って、戦争で例えば自分も死ぬかもしれないとか、そういう恐怖っていうのは。
ありますね。
ありました。ご家族でどういう雰囲気。
そうなんだから、疎開しようかっていう考えはあります。
疎開ね。
田舎がね、田舎ありますから。茨城県に田舎がある。
あ、そうだったんですね。
だから疎開したが良かったんです。
最も強い記憶に残っているというのは、やっぱりさっきもお話出てきましたけど、やっぱり東京大空襲ですか。
大空襲ですね。
さっきおっしゃってたように、それまでも飛行機がたまに来てたと思うんですけど、やっぱり昭和20年に入ってから、夜間飛行機が飛んでくるみたいなのって、なんか増えてた感じはありました?
そうね。夜なんと毎日のように飛行機が飛んでくるみたいな。
飛んでましたか。
空襲警報がありました。
3月10日の未明ですよね、東京大空襲って。
要は9日の夜、もう10時ぐらいには空襲警報出てたように記録で。
12時頃ね。
ちょっとその当日というかどういう感じだったか、振り返っていただけますか。どういう感じだったんでしょう。
最初まず普通に当然9日の夜、寝るわけですよね。
まさかって考えですね。
いつもの。
しょっちゅう空襲警報がありましたか、夜はね。寝る考えも残って、だって毎日のようにありました。
そうすると当然、さっきおっしゃってたような死の恐怖みたいのはあったと思うんですけど、でも毎日だからちょっと麻痺してたところはありますか。
慣れちゃったですね。
普段あんな空襲になるとは思わなかった。
飛行機もたまに夜飛んでましたわね、アメリカの飛行機も。
その時って寝る前の習慣として、例えばいつでも空襲警報が鳴ったら避難できるように、例えば防災頭巾とか。
防災頭巾は、私はヘルメットとか。
ヘルメットか。
女の方は防災頭巾。
それでじゃあ実際その日も寝ようとしたらというか寝たところでいつものように空襲警報が鳴って、そこからどういう感じだったんですか。
もちろんあんな風になるとは思わないから、いつもの通りにね。
でもやっぱりね、だんだん明るくなってきましたね、下から。
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だから東急都内、深川?
はい。
あっち側にもあったですね。
だから逆に八幡様、お二人様、八幡様もありました。
今まで問題なかったですよ。
八幡様。
ありますね。最後に澄田側に居たんです。
今のお話を伺って、さっきもちょっとお話を伺いましたけど、
明るくなってきたと。
その時の空って、いわゆる今振り返れば当然空襲で爆撃でその炎で明るかったと思うんですけど、
でもまたか、またかって気持ちありますよ。
おっしゃってましたよね。
それがちょっと分かりにくい質問で恐縮ですけど、
そのまたかっていうところから、あれ今日は違うぞというのは、
それはあったよね。
どこで気づいたんでしょうね。
やっぱり明るさが違いますね。
これ、今の話でいつもと違うと気づいて、
ご家族その時は、当然お父様もその時は全員家にいたんですか。
バラバラ。
バラバラ。
もう全部バラバラになっちゃって。
一番最初、夜寝た時はみんな家にいたんですよね。
でも空襲になったらバラバラなんです。
その3月10日の空襲が起きる前、9日の夜寝る時は家にみんないらっしゃったんですか。
父親だけは倉庫にいました。
お仕事があるから。
家族は全部いました。
兄貴は別にいなかった。工場にいたから。
そうそう、残り6人か。
6人はいたと思うんですけど、みんなでいわゆる空襲警報になって避難するというか、
すみません、ちょっと私分からないので教えていただきたいんですけど、
普通だったら空襲警報になって、避難するみたいにそれまでもあったんですか、どこか。
避難場、場所に行こうとか、防空壕入ろうとか。
防空壕入ったかもしれませんね。
防空壕あるんですよね、あちこち。
近くに。
防空壕入ったかもしれない。防空壕入ったってね、
飛行機弾だんだん落ちてくるから助かんないから、そこから抜け出して逃げたと思うんですよ。
じゃあみんなで一緒に逃げるかって、それは覚えない。
それ今おっしゃったように深谷さんね、これだけもう、それこそ75年ぐらい前のことじゃないですか。
いろいろ多分今もですし、これからもお話鮮明に話してくださっていると思うんですけど、
でもその今のご家族みんなでどう逃げて、なぜ一緒にバラバラになったか、やっぱりその辺はもうはっきり覚えてないんですね。
覚えてないね。
私今だったら一緒にいますよ。でも私はまだ15歳でしょ。だから体動きますからね。
だから自分で逃げちゃったかもしれませんね。
これははっきり覚えてない。何で一緒にいなかったか。
そうすると、すみません、さっきもちょっとお話いただいたかもしれません。もう一回振り返っていただくと、
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ちょっと深谷さんはもうはっきりその瞬間覚えてないけど、一人で多分飛び出されたと。
そこから、その日生き延びられたかちょっと振り返っていただけますか。
あっちへこっちへ、もんでん中山の方行って、八幡堂の。
そっちは汗沢でしたからね。
それで行っちゃうわけですよ。
なんとかなるだろうと思って行ったんだけど、逆にそっちはすごいんですよ。
すごいっていうのは何がすごかったんですか?空襲?火が?
飛行機が落とされて、爆弾落とされて、もう火の海になっちゃった。もう風が吹いてくるしね。
だって、ひらってさ、腕が開いてるんですよ。
腕、嵐みたいに風が吹くってね、もう吹っ飛ばされちゃうんですよ。
で、机が吹っ飛ばされて、延伸中山の方が逃げて、また八幡堂の方が逃げて、多分風で吹っ飛ばされちゃった。
普通じゃないんですよね。すごい風なんですよ。
火の、なんていうんだろうね。
火が送ると風が送るんですかね。
その時って、もうなんて言うんでしょう、ちょっと表現難しいかもしれないですけど、怖いとか死ぬかもとかすらも考えず、もうとにかく必死。
何も考えないですね。ただ夢中になって。夢中に逃げる考えはありましたからね。または死ぬとは思わないし。
ただ若かったから動いたんですよ。今だったらもう死んじゃってます。
若いからどこでも逃げられます。
15歳の若さです。
そうですね。ある意味体一番元気な時ですね。
元気ですね。
いろいろ今おっしゃってると、火の海の中で行ったり来たりして、最後隅田川に飛び込んだっておっしゃってるんですかね。
そうなんですよ。あっち行ったり来たりしてるわけですよ。一人じゃないんですよ。誰か男の方がいたんです。
そういう人が引っ張っててくれたわけ。危ないからこっち行こうって。ついてきたわけよ。
その人いなかったら死んじゃった。もちろんその人は死んじゃったんですよ。
そうなんですね。
私と逆の方に行っちゃって。
平田山橋の隣に、今、石川島動線場ってあるんですよ。
ああいう場所ってところがあるんですよ。
ありますね。
ああいう場所だから分かれちゃったの。
その人は石川島動線場の方に逃げて、私は逆の方に行って、隅田川の隣のああいう場所かな。
なんかね、飛び込んだでしょ。
その人は飛び込まないで、橋を渡って石川島動線場の方に行っちゃったわけ。
その人は亡くなったわけ。逆死んじゃった。死後に。
私は川へ飛び込んで助かった。
その人は何で飛び込むのか分からない。川へ飛び込むのは他にないのか。
私より年上ですけど。
その人いなかったら死んじゃった。その人が引っ張っててくれた。ずっと。
その人が途中でだから別れたわけですよね。
橋の上で別れた。
別れたのになぜその方が亡くなったっていうのは分かったんですか。後から何か分かったんですか。
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知りたんですよ。私一緒に逃げた人と一緒だったら。
いや、この人亡くなったよ。逆死んで。背も逆死んじゃったよ。
とにかく石川島動線場の臨海消防庫があって、逃げた人はみんな死んじゃった。誰も残んない。
私は川へ飛び込んだ。
ということは、全部死に囲まれてたって訳なんです。橋の上も全部。
だから私は飛び込まないからしょうがないから。
飛び込まない人が死んじゃった。全部死んじゃった。早く。
ものすごい、要するに死がすごいんですよね。
そうか、今深谷さんご自身がおっしゃってくださったように、なぜ飛び込んだんですかって聞こうと思ったんですけど、逆に火の海だから飛び込むしかなかった。
そうなんだよね。風が強くて、火の海なんですごいんですよね。
実際飛び込んで、墨田川に飛び込んで、その後、例えば私は広島にいたので原爆を体験した方に結構話聞いたんですよ。
その原爆の時は結構飛び込んで、逆に川が熱かったりとか、いろいろあってそれで死んじゃった方たくさんいるらしいですよ。
いるんですか?
溺れたりとか。
でも私はね、青岩橋から飛び込んだ時、ヘルメットをかぶって長靴を履いて、コートをかぶって、
だけど泳がるわけないわね。
そうですよね。しかも重そうですよね。いろいろつけてたら。
長靴履いてね。長さんが抜けちゃって、溺れてるわけよ。そこへ浴衣が来て、一人の男が乗っかって、
その人が浴びてくれたから私は引っ張ってもらった。
ところが、私だけで、あとの人はね、でもダメだ、逃がした。
その方はみんな死んじゃったけど、女の人は。
だから、染み込んだ人で何百人でも私一人助かった。あとは全部死んじゃった。
あとは見せたけど、みんな溺れちゃった。
だって誰も浴びてくれなかったら溺れたもんね。
あの、乾い食べ込んだって助かんないですよ、普通は。
ですよね。
だから、次の日は川が被害で埋まっちゃってますよ。
やっぱりそうなんですか。
次の日はね、真下から上がってくるわけ、どんどん。で、みんな膨らんじゃってね、2倍ぐらいになっちゃう。
そうすると今、次の日の話されましたが、深谷さん自体はそのままイカ沢に引き上げてもらって、
その後、だから未明だから引き上げてもらって、時間なんてはっきり覚えてないでしょうけど、
まだ夜ですよね。
明るい。
まあまあね、日でね。で、その後、次の日の朝を迎えるまでは、その後何をされてたか覚えてます?
あの、まあ、海岸じゃなくてね、川の上かけたんですよ。
それから、いや、それから私見てましたよ、その被害を。
あのね、浮き上がってから、その死んでる被害を眺めてましたよ。
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だって、どこも行くとこないんですよね。だから見てました、私。
手伝ったかもしれない。島あげるのに。
で、次の日は、大きなトラックが来て、島を全部あげて、焼け場へ持ってったみたい。
次の日って、もう日は収まってたんですか、まだ。
その頃は日は収まってました。
3月っていうと、まあそのね、日の海だったんで、もちろんもうそれは暑い暑いだったと思いますけど、
3月10日か、明けて、その時日は収まった中で、結構やっぱり、本当は寒かったんですか、もうふま冬。
でも、全然暖かかった。
まあ、そうでしょうね。
それもでも、まあそれは運が良かったかもしれないですよね。
そうすると、次の日というか日が明けて、いろんなトラックが来て、遺体とか運ばれてってありましたけど、
その辺の今記憶あったと思うんですけど、そこからさらにどうしたんでしょう。
つまり、例えば当然ね、ご家族、みんなどうしたんだろうとかどうしようとか、どんな感じでした。
そんな気はないね。
ない?
ないですよね。
もうそんな余裕がなかった。
子供だしね。
なんか、あのもちろん、ね、子供だとは思うんですけど、とはいえ、なんかこれ僕のすみません、勝手なイメージなんですけど、今の平和な時代だからかもしれないですけど、
まだ中学生で男の子で、まあやっぱ親とかに会いたいとか、なんか泣いたとか。
それはなかった。たっくり言って。
それはなんでなんで。
だって、なんでだって、自分の命が大事だよ。
まず最初にね。
そんな余裕がなかったよ。
やっぱり余裕がないんでしょうね。
ないですよね。
余裕あるって嘘だよね。悪くないよ。
だって自分が大事だもん。
だから生きてるんですよ、自分が。
いなくなったらやっぱり自分だけで助かるもんね。
まあ、押しつけは別ですよ。
そんな余裕ないでしょ、とにかく逃げるだけだよね。
でも本当にすごいですよ。もうね、話、死骸がね、すごい。
どこもおかしくもね、みんな死骸の山ですよ。
だってね、10万人って言われてますもんね、いなくなった方。
10万人ですね。
単独の空襲の中では世界で1番か2番って言われてますよね。
なんかあのドイツとかでドレス伝っていうとこでも大空襲あったみたいですけど、それもかなり多いんですけど、
確か私の調べでは東京大空襲が世界で多分一番単独の1日の空襲で多いんですよ、亡くなった方。
私はね、あの川にいたから、でも私ね、火傷何にもしなかったよ。
けども、本当に火傷もしないの。
奇跡ですね。
本当。素敵なもんだって。
それ実際、じゃあそこが3月10日でした。
で、そこから終戦まで、まだ5ヶ月あるじゃないですか。
その終戦までの何か記憶、どんなことでもいいんですけど覚えてることあります?
終戦から?
終戦まで。
ただあちこちふらふら歩いて、送っても1つ食べてきましたね。
それはあります。
18:00
だって何も食べるものないですよ。
だから何年もいったら起こったら食べるわけですよ。
何食べたか思い出せるものあります?
あの頃食べ物ってあれ。
さつまいもととうもろこし。
あとおにぎり。
それ以外食べるもの何もない。
何もないんですよ、食べ物。
背景もないし。
まして子供だからね。
肩持ってないから背景ないんですよ。
だから人のものを盗んだこと一回もないですね。
それだけは言いますね。
絶対盗みはしなかった。
ただゴミ溜め焦って送っても食べてましたね。
それはありますね。
ゴミでもなんだってお腹の中に入るもの食べちゃうよね。
腹が減ってんだからね。
本当にゴミ食べてましたよ。
ゴミだったらご飯粒をこっちについて食べてましたよ。
食べないと死んじゃうからね。
その時って、後から振り返って8月15日で一応終わるわけじゃないですか。
実際何かも例えば日本が負けてるなとか、そろそろ終わるかなとか、
何かわからなかったですか?
負けた。
これで戦争終わりかなって思ってました。
思ってましたか?
こんなひどいことでさ。
ただ生きるは精一杯でそんな考えなかったでしょうか。
8月15日の玉音放送って、
僕らはそのニュースばっかり見てるんでその日は終戦なんだなってイメージあるんですけど、
深谷さん自体は?
どこにいたんですかね。覚えないね。
聞いたことあるけどね。
じゃあ、深谷さんの中で、戦争が終わった日はいつだみたいな明確な日付ってあんまりないんですか?
ないですね。ないね。
なんか変な話ですけど、生きるしかない、じゃあ食うしかないってことだったと思うんですけど、
なんか変な話ですけど、お腹壊したとかそんなのもう覚えてない?
お腹壊せる余裕ないね。
ってことなんですね。
15歳の深谷少年、そこから生きるのに精一杯で、あんまりどこで戦争終わったとかもう覚えてないって話じゃないですか。
覚えてないね。でもとにかくいろんな仕事はした。
その後。
ただ生きるだけ精一杯だもんね。
まあ、いい経験なのかね。
なんか今のお話の中にも一つ一つ、個人的には、僕がちょっとレベルの低い質問しちゃいましたけど、つまりなぜお腹を壊さなかったのか、壊す余裕すらないっていうのがすごい個人的には刺さりました。
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お腹壊すことない。余裕がないもん。常に食べてないじゃない。
逆に言うと人は、人間って結構やっぱり心って、いい意味でも悪い意味でも大事なんだなと思いますよね。そこがやっぱり強いと生き延びれるんじゃないかなって今の話聞くと思います。
だって今のお腹怖い。
そうですよね。
お父さんお母さんもね、残念な形に亡くされていたと思うんですけど、生前のお父さんお母さんって、どんな感じの方だったんですか。
一応倉庫のね、岩井県から三菱倉庫、江戸場に近くにあるんですよ。そこで取り住まい、妊婦の取り住まいになっちゃった。一番楽なんですよ。
本当だったらその親父さんは、クリスタルなかったらずっと暮らしてたんだけど、お母さんは江戸っ子だからね。私の母親は江戸っ子。
江戸っ子気質みたいな感じは、お母さんは受け継がれたみたいな感じはあるんですか。
ありますね。
そんな感じしますね。話がかかってると。
私もそう思いますね。私はやっぱり江戸っ子ですから。
戦争が激しくなる前、将来の夢とかあったんですか。それこそ第二次大戦始まる前。
学生時代?私は一応建築家で、この高校を受けていたんです。
勉強は建築家で勉強したけどね。学校行く募集、学校のあれ見ててね、建築家なんかいるみたいよって。建築家が来るかって浮かっちゃった。
ここまでもう92年生きてきて、戦時中とか関係なくていいんですけど、人生生きてきて、ご自身の中ですごく大事にしてきた言葉とか、座右の銘でもいいんですけど、何か大事にしてきたことってあります?
あんまりないね。何とかなるさだな。
あるじゃないですか、その言葉じゃないですか。
何とかなるさって考えがありますね。何とかそうね。それが一番いい言葉。
説得力ありますね。何とかしてきたんですよね、やっぱり。
ないね。薄川で出たのは本当じゃないけど、何とかなるさだろうな。
なんか、私もいろんな戦争を体験した方の話聞いてきて、結構男性の方が話すのが、いわゆる戦争終わってからの、やっぱり70年くらいあるじゃないですか、生きてきて、その戦後は余生だっていう方が結構多いんですよ。
つまり20歳とか、深谷さんも15歳とかで戦争が終わって、その後は実はもう残りの人生、余生だと思っていると。
なぜかというと、やっぱりそこのあまりに戦争の時の体験が濃すぎて、もちろん辛くて、その後はもちろんいろいろ大変なことあったけど、
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ある意味そっから先はもう余生だっておっしゃってる方が多いんですけど、深谷さんの中では余生っていうのはあまりピンとこないですか?どうですか?
変な話、余生って普通は多分それこそ今80代とか90代の方が言う言葉じゃないですか。
でも彼らはもう20代の時からの、そっから余生だって言ってるんですけど、そういう意識あんまりないですか?
結構そういう方が多いんですよ。
ないね。だってさ、今でも自分で90だと思わないよ。
ですよね、やっぱり。
80だと思わない。もっと若く考えてる。
どんな、何歳ぐらいの感覚ですか?
70ぐらいだな。だってまださ、まだ私、綺麗な子見れば綺麗だなと思う。
そうですよね。大事ですよね、その気持ちは。
で、差別で来たら女の方で85ぐらいなのかな。みんな見ても、あ、これって綺麗な子だな、綺麗な人だ。
綺麗な子だなですよね、だからね。
だから、本当に若い時は綺麗だと思いますね。そういう感触はあるね。
でもそれが若さの秘訣かもしれないですね。なんかちょっと胸が躍るみたいなの大事ですよね。
それはありますね。今でもね。娘に怒られるからね。
なるほどね。じゃあ、余生って感覚もあんまりないですね。むしろ若いですね、ずっと感覚が。
まあね。
なんかちょっと話大きくなりますけど、普段考えないと思うんですが、
91年生きてきて、特に戦争終わってから75年生きてきて、やっぱりなんか日本とか日本人の、
なんかここ変わったなみたいな、まあいいことも悪いこともあると思うんですけど、どんなことでもいいんですけど。
変わったっていうの?ねえ、若い人は若い人の愛に生きてる。
ただ、私みたいにさ、なんとかなるとあれか、その段階で飛び込んじゃう人間もいるんだから。
でも飛び込まない人はみんな死んじゃったんだよね。
だって泳げない人は飛び込めないんすよ。
私は泳げない自信があったから飛び込んだ。
でもヘルメットかぶって長袖履いて大爆発したら絶対助かんない。
普通助かんないですよね。
それだってなんとかなるから飛び込むって助かったんだけど。
やっぱりそこですね。
ねえ、なんとかなるからね。
でもみんなやっぱり、今おっしゃった水に飛び込んだじゃないですか、
やっぱりそういう一つ一つの決断、その時にしたことで奇跡的に生き残ったっていう方がやっぱり多いですよね。
だからやっぱり運というかね、運とあと生きる力っていうのはみんな共通されてるなっていうのは思います。
ありがとうございます。