1. 【体験者の証言】戦争の記憶(Memories of War)
  2. 「特攻隊からの生還」中村優さ..
2023-06-20

「特攻隊からの生還」中村優さん【戦争の記憶27】

本インタビューはYouTubeで「映像付き」でご覧いただけます。
https://youtu.be/r6QN6BWTzoo

▼今回のインタビュー
戦時中に特攻隊員として出撃の命令がくだるも
期せずして命をつなぎ止めた中村優さん。
大正11年11月23日生まれの100歳。
逝ってしまった仲間たちを想い続ける人生とは──(2023年4月取材)

▼「戦争の記憶」とは
戦争体験者の声を肉声で残すプロジェクト。
2013年より早川洋平が全国各地でお話をうかがい、映像や音声で配信。
http://memories-of-war.com/

■証言者ご応募ページはこちら
http://memories-of-war.com/witness-and-volunteer/

▼【聞き手・早川洋平プロフィール】
はやかわ・ようへい/新聞記者等を経て2008年キクタス株式会社設立。羽生結弦、髙田賢三ら各界のトップランナーから市井の人々まで広くインタビュー。近年は欧州を中心に海外取材を本格化するいっぽうで、戦争体験者の肉声を発信するプロジェクト『戦争の記憶』にも取り組む。公共機関・企業・作家などのメディアプロデュースも手がけ、キクタス配信全番組のダウンロード数は毎月約200万回。累計は3億回を数える。『石田衣良「大人の放課後ラジオ」』『横浜美術館「ラジオ美術館」』などプロデュース多数。 近年はユニクロやP&GなどのCMのインタビュアーとしても活動している。
https://linktr.ee/yoh.haya


サマリー

このエピソードでは、中村優氏が特攻隊としての経験を振り返り、入隊の経緯や特攻隊としての訓練、戦争の状況について語ります。また、友人や家族との思い出を交えつつ、当時の日本の航空事情にも触れています。中村優氏のエピソードでは、特攻隊としての厳しい命令の実態や軍人としての心構えが語られ、経験した訓練や出撃命令の詳細、仲間たちとの思い出を通じて、戦争時代の人間の思いと行動が明らかになります。このエピソードでは、中村優氏が特攻隊の経験とその心理についても話し、戦争の厳しい現実や精神教育の影響、出撃直前に失神した際のエピソードが紹介されます。彼は特攻隊としての経験を語り、戦後のエピソードや生還の瞬間を振り返り、茨城県の百里やゼロ戦の訓練に関連した体験を通じて、仲間たちの思いを胸に秘めながら生き延びたことについて深く考えています。このエピソードでは、中村優氏が特攻隊の経験を通じて戦争の記憶を語り、戦後の社会で生き残ったことに対する思いを綴り、特に特攻隊の志願制や戦後の心情、戦争報道の違いについて深く掘り下げています。また、第二次世界大戦からの特攻隊としての体験を振り返り、戦争の記憶や影響について語り、戦争中に失ったものや得たもの、そして今の世界情勢についての懸念も表明しています。

特攻隊への道
今日はですね、中村政さんにお話を伺います。中村さん、よろしくお願いします。
こちらこそ。
ここはですね、山口県の岩国に来させていただいているんですけども、中村さん、生年月日を教えていただきたいんですけども。
大正11年、11月23日生まれです。
大正11年ということは、これ今撮っているのが2023年の4月忘日まで、満100歳。
そうです。
今年101歳。どうですか、ご自身で100歳って、例えば昔100歳の人ってこういう感じなんだろうって思ってたような100歳と、ご自身実際になってみてどうですか。
そうですね、いつの間にか100歳になったのかなという感じですね。
本当に大若くてちょっとね、圧倒されたんですけども、大正11年生まれということで、今満100歳ということで。
ここは岩国なんですけども、中村さんご出身はどこですか。
熊本県、人吉市、千本新町です。
そして熊本でお生まれになって、ここ今岩国にいらっしゃいますけども、今日いろんなお話やっぱり伺いたいんですけども。
一番はですね、特攻隊に行ってらっしゃったという話が伺っているので、やはり特攻隊その入隊から実際終戦を迎えるまでのところに、
特にいろんなことがあるのかなということで、そこからちょっと中心で伺っていきたいんですけども。
そもそもこの特攻隊に入隊したのは、いつどこでなんでしょう。
初めから特攻隊っていうことはないんですよね。
そうですよね、はい。
私が横田園に入ったのは、私の友達が熊本の山側のほうから出用しに来たんですよ。
はい。
お兄さんと一緒に。
はい。
そしてその友達を大事に仲良くしておりました。
そうしたらお兄さんがこの熊本の地に海軍佐世保から飛行機が3機来て航空展示をやるよ。
よかったら一緒に行ってくれんかと。
友達を私が連れて行くような格好で、博覧会に行きまして。
博覧会、はい。
その時にアクロボットが。
飛行が。
3機来たのがですね。
はい。
ああ、よし、これだというふうに考えたんですね。
はい。
だから帰りに福永茂と言っておりましたけど。
茂君、私が海軍のほうに行くら、あんたらよかったら陸軍のほうの飛行機乗りにならんかと。
ということで暗黙の約束ができたんですね。
はい。
結果的に私が終戦になって帰っても相手が帰らなかった。
ということがありましてね。
はい。
それからお兄さんのところにお母さんも一緒におりましたけども。
うん。
二度と会う気持ちが出ませんでしたね。
いまだにお父さんが。
あ、そうなんですか。
この資料を見ても名簿が載ってないからですね。
うん。
どうなったかなと思う。
今でも思っておりますけどね。
ご友人がその時を境にも連絡がないから今どうなったかわからない。
そうなんです。
実際そうすると今のそのヨカレンの時っていうのは最初アクロバット飛行を見た時っていうのは昭和何年ですか。
14年です。
昭和14年ってことは1941年ですね。
その時は18歳ぐらいか。
そうですね。
私は会社に電気会社。
五木のほうに源流がありましてね。
そこから水を取って電気会社ができた。
熊川電気。
はい。
そこにいたんですよ。
2年間。
そしたらみんな大学でばっかり一人おりましてね。
はいはいはい。
いやこれはもう何やるにしてもという気持ちでおった時にたまたまそういう状況がありました。
いきなりヨカレンに受けた。
会社を辞めて。
そうです。
当時会社を辞めてヨカレンに受けるっていうのは結構普通のことだったんですか。
熊本でアクロバット見てからですね。
ちょっと憧れたみたいな。
そうです。憧れです。
そのヨカレンを受けて受かってっていうところだと思うんですけど
そのヨカレンを受けることに関してはご両親とかお父様お母様とかどういう感じだったんですか。
いやお袋はですね泣きの涙ですよ。
今でも写真をずっと持っておりますけどもね。
死にに行くようなもんじゃないかということ。
その頃は飛行機もババラに飛んどったんですよね。
今みたいにないですから。
そのヨカレンに実際入って
実際ヨカレンと飛行予備学生とかあったと思うんですけど
さらに上の段階というか。
予備学生というのは大学での人が。
じゃあそれは最初から違うわけですね。
そうです。
昔はですね一般の中学かもうちょっとしたの小学校上がったところから行っておったんですね。
気象から体操から他の人と一緒にやっていけないから。
当初はオツショというのが通常だと。
それから支那事変も始まるということで。
これもタランから甲州。
甲州というのは中学卒業。
年齢下げたんですね。
訓練の日々
そうです。ということで始まって。
後から兵種までありましたからね。
こうオツ兵ですもんね。
兵は一般の隊員の中から選ばれて入ろうと思う。
そうするとそのヨカレンに入って
それが1900もうその本当に昭和だから16年すぐ入ったんですか。
そうです。15年に入った。
入ったのはじゃあ熊本で入ったんですか。
いや私は一吉で。一吉から茨城の土浦。
やはりそこで事前にね、茨城でっていう話を伺ってたので。
ちょうどたまたまこれあんまり中村さんに関係ある本かわからないですけど
特攻隊で茨城の話のことを書いてある本があったので
当時その土浦ってもう世界の玄関って言われるぐらい。
歌の文句もありますけどね。
ヨカレンのーって歌います。
そこでじゃあ茨城に来て、茨城には縁もゆかりもなかったんですか。
ありません。
全くですよね。
そういう基礎的な教育をやるところが
土浦っていうのも新しくたくさんの人を集めて訓練をやる。
それ以前は横須賀にあったんです。
ところが場所がないしということで土浦。
土浦っていうのは昔の霞ヶ浦の近くなんです。
その基礎教育をやる、いろんな基礎教育をやるために土浦にできた。
実際その土浦に行って、その時はいわゆる海軍、陸軍。
海軍です。
海軍のヨカレン星として入ったってことであってますか。
そうです。
その後その特攻隊のところまであると思うんですけど
ヨカレン星、海軍として入るのとその後特攻隊に任命されるっていうのは別の話。
別です。
別ですよね。
もう特攻隊って言ったら戦争ですから。
そうですよね。ヨカレン星はその前の段階ですよね。
そうです。
実際そのヨカレン星として昭和15年に入って同期で何人ぐらいいたんですか。
300名の予定がですね、健康診断が厳しいですから。
その中でやっぱり6人。
300人のうち6人しか受からない。
いや6人。
落ちた。
落ちた。
そうですよね。
そんな体の関係でですね、もうその間に病気になったり。
それくらい身体検査も厳しかった。
ってことですよね。
そこからそのヨカレンの日々の生活ってどんな感じだったんですか。
例えば1日の流れとか1週間。
例えばお休み、休日があるのかとか1日の流れとかどういう感じでした。
時間でシャーっと決まってますからね。
気象時間があります。
何時ですか。
小ラッパが6時だったと思います。
その前から準備しないと間に合わない。
以前は釣るとこで寝とったんですよ。
だからこんなのをぶら下げて、
そのぶら下げるのが一つの訓練としてですね、
何秒で釣ることができる。片付けなくちゃいけない。
朝晩、それも訓練の日。
釣り竿とかってことですかね。
長いのを絞って、ロップで巻いて、
竿で棚に上げると。
それから鋭く下ろされてきたら、それを持ってきて、
また服をかけて様子にぶら下げる。
そういう訓練から。
それもトレーニングなんですね。
そうなんです。いかに早く確実にできるか。
そういうことから始まる。
だから私の中は小さいから、上の服に手がかからないわけです。
だから椅子を出して、上に登ってかけるとか、
そういうことから始まる。
そういうふうに始まって、その一日の中で、
やっぱりイメージとしてはパイロットというか、
飛行機の実地の乗るものが多いイメージなんですけど、
実際どうなんですか。座学で授業とかのが多いとか。
それは期間がありましてね。
大津会議で別れて、私たちは大津州で予定時間がですね、
学科の時間と、それから1年半は学科がしたりですね。
結構長いんですね。1年半。
長いんです。
もう就寝から軍事の勉強から科学全部やった。
戦争の実情
就寝って例えばどういうことをやるんですか。
身を慎む方ですからね。
人と軍人は中世とはそう思うんです。
精神的な心身訓練ですね。
そしてその軍人、就寝軍人っておっしゃいましたけど、
軍人の方はどういうこと?
それもそういう何か心得みたいなことですか。
そうです。
そういう頃から始まってですね、
土曜の集まりは天皇陛下をということです。
なるほど。
その時っていうのは、やっぱり個人のいろんな考え方あると思うんですけど、
天皇陛下、いい悪いではなく、
やっぱりその四日連勢に対しては徹底的に叩き込まれるみたいな感じですか。
そうです。
どっかありましたがね、一つ軍人は忠誠を尽くす。
忠誠っていうのは忠誠を尽くすみたいなことですか。
そうです。
そういうことから始まってですね、
お国のために。
それでだんだん毎日毎日が精神的に鍛えられていくわけです。
精神的に鍛えられるっていうところですけど、
当然その憧れに燃えてその海軍に入った中村少年、青年か。
青年としてはどうなんですか。
どんどんモチベーションが上がっていったのか。
そうです。
それが意外と入ったらもうきつすぎて参っちゃったとか。
中にはそんなのもおりますよ。
中村さんは全然大丈夫だった。
私はもう意気揚々と。
意気揚々と。
負けられんということです。
実際それで今1年半っていうそこの時間もありましたけど、
入られたのが1941年40年、終戦の5年前だと思うんですけど、
そこから特攻隊に至るまでってどういう経緯でその特攻隊に任命というか入隊というか、
そもそも志願制だった。でも本当に志願制だったのかと。
なんかその辺の話もよく伺いますけど、どういう経緯で特攻隊まで。
特攻というのはもう特別にどの部隊はどこでどのように戦争を進めるということが人の目的ですね。
例えばアメリカのアメリカの潜水艦がよく出てくるよという場所によっては潜水艦に対する対処の方法を考えながら、
他の不積極艦とか巡洋艦とかいうようなのだったらそれに対する遠いところから接近する方法を考える。
内容によってどこの島を守るためにはどのようにしなければいけないというのが先に来るわけです。
そしたら飛行機の方も爆撃目的の飛行機とそれから偵察の飛行機で私たちもよく洋上作戦やったんですよ。
爆弾積んであいつの潜水艦が距離内にいないかでそこを着敵のために三角形の運動をしながら行動をだいたい千メーター以下、当時は水もあって異常なし。
もしあったらどこどこで今敵の潜水艦がおったけれども今も送ったよ。
まあ今と違って以前でもやっぱり探したら探したでその所属を考えなくちゃいけないし今とは全然違うんですね。
作戦から始まって場合によっては他の飛行機を援助してもらって爆弾を持って行っては落とすというような。
ヨカ連勢というのは実際に実戦をするわけじゃないわけですよね。
ヨカ連はですね、まず精神的それから体力、目的を達成できるような精神力を鍛えるところですよね。
そこから実際にその特攻隊に入隊されるわけですよね。
その戦争の内容によるわけですね。
中村さんはそのヨカ連に入った後にいわゆる例えば茨城のところの関連、特攻隊で筑波隊とか大和隊とかいろいろあったっていうのをちょっと書いてあるんですけど本いろいろ読んだら。
筑波隊っていうのは筑波の航空隊はあったけども。
また別なんですかね。その特攻隊の名前がなんか筑波隊とか大和隊とかがあるっていう。
大和隊というのはもう部隊は独立できるけども、大和隊って言ったらまた内容が違うんですよね。
中村さんはどこに属してたんですか。
それが私は教官を長くあちこちでやっておりましたけど。
初級の学校を卒業してから飛行機の種類によって環状爆撃機、環状攻撃機、それから水蒸気や水蒸気、それから大型機は大型機あるわけですよ。
特攻隊の訓練と経歴
その中の一番初めに教官だったのは艦爆隊、環状爆撃機というのはうさにあったんです。うさでやりましたね。
ちょっと整理させていただきたいんですけど、中村さんその四日連勢にまずなりました。その後はどうされたんですか。
その四日連勢の生活っていうのは1年半だけだったのか、その後も続いたのか、その後も教官になられたのか。
どういう流れなんでしょう、終戦までの流れ。
飛行機の部隊がありますね、戦闘機、戦闘機は筑波の方、それから飛行機の種類が違う。
九六式環状戦闘機から始まるわけですね。それから環状攻撃機、攻撃機は攻撃機で他の部隊に行っておったんです。
それから飛行艇は飛行艇、種類が違う。それもやっぱりだんだん大きくなったり、時間を長く飛ぶようにしたり。
私は環状爆撃機、間爆。昔はお前はどこの機種に行きたいかということになったら、まず戦闘機ですよね。
自分の腕を破棄するため。戦闘機に行けなかったらしょうがないな、航空母艦に行きたいとか。航空母艦に行ったらまた攻撃機とかあります。
中村さんは環状爆撃機。その環状爆撃機のところには志願したんじゃなくて任命されたんですか、そこに行きなさいと。
それまではいろんな訓練をやって、そこで教官がこれは何に向けた、何が言いとるというようなことを決めるわけです。卒業までに。
それで卒業までに、中村さんは環状爆撃機に行けって言われたってことですか。
環状爆撃機で行きました。その中でも教官をやれということで。種類がいろいろありますからね。
吹き流し200mの長さのロープの先に吹き流しをつけて、8mくらいの吹き流しをつけて、それを向かって飛んでいきますね。そしたら引っ張って行くわけですから、後方から降りて射撃をする。
そういうことから始まりました。
卒業されて、四日連勢を卒業されて環状爆撃機の隊員の教官になったってことなんですか。
そうです。
隊員になったというより教える側にもなるんですね、卒業したら。
そうです。その指名によってはね。
その教官になったのが何年のことですか。
半年後ですからね。
もう半年で卒業なんですね。
そうです。だいたい4ヶ月ですよ。徹底的に訓練をやる。
四日連自体、さっき授業みたいなものを受けて1年半っておっしゃってたじゃないですか。
そうです。
その1年半の中で4ヶ月ぐらいでいわゆる訓練が終わって、その後に教官になったってことですか。1年半の授業が終わった後に教官になったってことですか。
部隊が変わったということですね。
だから飛行機の実施部隊が戦闘機の部隊とかヤタベとかいろいろありますからね。
水上機、飛行艇は飛行艇、場所は変わるんです。
そこで訓練をやって一人前になったならば、その次が今私が申し上げた環状爆撃は爆撃としての
射撃、それを吹き流しを使って初めは訓練をやりましたよ。
出撃命令と特攻隊の実態
なるほど。その官僚爆撃機の訓練をやって、その後はどんな感じだったんでしょうか。
その飛行機は救助式環状爆撃、副用の飛行機がありましたけど、それを訓練をやって、その次は救急式環状爆撃というのをガッチリした。
一枚の主翼で爆撃をやった、それから訓練もやったということですね。
ということは射撃の訓練、それから爆弾を落とす訓練というのを主体的に、その間には編隊、3機が主体で、5機、6機、もう一つ合わせて9機というような飛び方を、まあ訓練として。
しかし爆撃の訓練は高度2000mから、それが追い風で行ったらだんだん深くなるんですね、降下の角度が。そういうのが主体として訓練する。
場合によっては海の上に浮き袋を置かせておいて、それを狙って、どの風の時にはどっちから行ったほうが、あんまり深くなりすぎてもこれができないんです。そういう訓練をやって。
今、その余火練とか訓練の話があったと思うんですけど、実際中村さん、特攻隊にも入隊されてるんですよね。
特攻隊はね、行った。行ったけれども、夜中の12時5分にそういう成立があって、そこで私は一番前におったけれども、乗るのはパイロット、偵察。
もう一つの余裕があれば、通信士。3人で組んどったわけです。ところがその時、一番前に成立しておったら、その時にぶっ倒れてしまう。だから他の2人もそのまま病院についてきてくれました。
行かなくて済んだってことですね、特攻に。実際特攻には当然行かれてないから、今生きてらっしゃると思うんですけど、ただその特攻特別攻撃隊には志願されてるってことですよね。
いや、志願というよりも命令ですよ、当時は。
それをちょうど伺いたかった。
どこの部隊をいつどこに出せと。上から命令ですね。
それはいつ命令されました、昭和何年のことですか。
一番最後ですから20年の4月ですね。
その時は命令される直前までは中村さんは。
客立派で教官。
教官をされてて、具体的にその4月の時に覚えてる範囲でいいんですけど、どういうふうに命令来たんですか。
いや、部隊として出撃するように。だから私の部隊でも結構ここに亡くなったのもおります。
その部隊名があるんですか、隊の名前。
ありましたけども、もう客立航空隊ということで。
客立航空隊。
そうです。
客立は100-2ですか。
そうです。
その客立航空隊の教官をしてて、客立航空隊。
そんなになったら教官も何もないですよね。
教官も何もないにしても客立航空隊出撃せよの時に記憶の限りで同じ隊員はどのくらいいました。
ここにあるんです。
名簿があるんですね、リストが。
だいぶ亡くなったんですよ。
だから他の人も、私が入院したおかげで、他の人も生き延びた。
出撃命令が出た時の中村さんの、いわゆる肩書き、章位とか何かいろいろあるじゃないですか、任秘僧とか、それは何だったんですか。
海峡は菓子館の一番上、城頭。
城頭っていう肩書きなんですね。
城頭兵装。
城頭兵装。
実際その僕ら普通に特攻隊を知らない人間が、例えば本を読んだり、ちょっとインターネットで調べたりすると、あくまで特攻隊は志願だったと。
手を挙げてやりたい人って言ってたけど、でも実際は志願性と言ってるけど、強制だったんじゃないかと。
そうですよ。
その辺がやっぱり情報が錯綜してたので、なので中村さんにまさに本当に経験されているので、もう手を挙げなさいっていうんじゃなくて、もう本当に命令だったんですか。
そうです。みんな次はどこの部隊、どこの部隊と決まってくる。
じゃあもう選択の余地はなかったってことですね。
そうです。
行きたくないとか、行きたいとかっていう選択もできなかった。
そんなことは言えない。
言えないってことは、一応形としては行く者いるかみたいな感じの質問が来たんですか。
そんなのは、鉄砲で撃たれるよ。
具体的にはさっきおっしゃってた百里隊でしたっけ。上の方から出撃せよ、特別攻撃隊として出撃せよっていう指令があって、有無を言わさない感じだったってことですか。
そうです。
その時ってもう終戦の年じゃないですか。昭和20年4月ってことは。終戦の4ヶ月前じゃないですか。
戦争終結と心理状態
教育部隊だから最後の最後ですよね。
そうですよね。指令が来る前っていうのは、特に昭和20年に入ってからは、もう中村さんの中で戦争これ負けるんじゃないかとか、実際のそういう選挙に関しては何か情報とかって入ってたんですか。
それかギリギリまでそういう情報は一切入らずに勝つもんだと思ってたのか。
それはもういろんな情報でですね、あそこの部隊もやられた、ここの部隊もやられたっていうことですからね。情報が入りますよ。
そうするとその時の気持ちはどうでした。最初に横田園入った時は意気揚々としてたわけじゃないですか。でも実際もうあそこも負けた、ここも負けたっていう事態になってくると、やっぱり自分たちの命もどうなんだろうとか、国は大丈夫なんだろうとか、何を考えてらっしゃったんですか。
それはもう負けられない、負けないで頑張れというだけのことですよ。その当時の心理状態は。
それはもうそれ以上でもそれ以下でもなくて、本当はそういうふうに自分を奮い立たせてるけど、やっぱり当然死への恐怖があったのかとか、それすらも感覚が麻痺しても。
そうですよ。幕府には国民がおるんだから、国を代表してやるぞっていうことですよ。
そういう意味では速攻隊のその出撃の指令が来た時もすごい怖かったとか、頭が真っ白になったとかっていう、あんまり変わらなかったんですか。
いや、それは変わらないですね。
変わらない。
やる気で言っとるから。
命の覚悟というか、こういうのは党の昔にもしてるから、あんまりその指令が来ても、それで急に怖気づくとか全然なかったってことですか。
ありませんね。
それは中村さん以外の周りの人たちも同じ感じでしたか。
そうです。今の人とは。
その当時がだからもう22歳とかですよね。
それもみんなを守るためにという気持ちが大勢だったから。
出撃命令が来ました。そうすると怖いというよりも、もう国のためにやってやるぞっていう気持ちだと思うんですけど、
そのさっきのパイロット偵察通信のその3人一組で出撃する前日にぶっ倒れてっておっしゃってましたけど、
その出撃の命令があるじゃないですか。命令からその出撃の前日までというのは何日間あったんですか。
いや、一晩だけでしょ。
もう一日だけ。明日行けっていう感じ。
いや、出撃命令は12時5分にあったわけです。
日にちも覚えてます?
いや、書いてある。
4月の、もし覚えてたら。
10日経ってから部隊にまた100人の部隊に帰ったんですよ。
はいはいはい。
ここにどっか書いてある。
20年…これが時間。
4月3日。
3日。
4月3日の12時5分っていうのはお昼の12時5分ですね。
夜です。
夜。夜中の12時5分に指令が下るんですか。
そうです。昼間だったら向こうの敵にやられるわけじゃないです。
ああ、そうか。その12時5分、夜中に指令が下って、もうすぐ行けってことですか。
そうです。
じゃあ前日とかに、お前たち明日行けとかそういうことじゃなくて。
だからその時間を与えて、みんな書くものを書くわけです。
そうですよね。
で、私が加藤敬一っていうのは、マフラー持たないって言うから、
じゃあ俺のマフラー、女の人からもらったのがあったから。
中村さんが。
うん。それを持って行けって。
はい。
あげたのを覚えてるね。
あ、それは出撃する。
いや、一緒に出て行ったけど。
あ、その3人のね。他の一緒の。
12時5分に出撃命令が下って、書くものを書くっていうのは手紙を書く。
その前に書く時間を。
12時05分には出撃しろっていう時間なんですね。
そうです。
じゃあその前に出撃しなさいっていう命令もあるわけじゃないですか。
4月3日の12時05分に出撃しなさいっていうのを何日か前に言われてるわけですか。
いやいや。
いつ言われてるんですか。
いや、その時ですよ。
1時間前とかに当然言われてるとか、2時間前に言われてるとか。
あ、明日。
あ、よかった。それが知りたかった。
前日に言われてるわけですね。
そうですよ。
4月2日に言われてるってことですね。
そうですね。12時5分には出発だから。
それは本当に細かい話ですけど、12時5分の12時間ぐらい前に言われてたのか、もう3時間ぐらい前に言われてるのか。
いや、その前。だから心の準備はできて、駆け抜けをしておるわけです。
それはもう12時5分の1時間ぐらい前に知らされたんですか。どのくらい前ですか。
明日ということで言われて、その明日の命令が12時5分だった、ということです。当時の命令は。
だから私たちは前の日に燃料を積んで、それから鹿児島まで飛んで行って、燃料をまた積んで、ということです。
前の日に行ったってことは、何日か前にそこに行くように集合がかかってるってことですか。
そうです。
ということは、その集合がかかった何日か前の時は、そこで初めてそういうふうに集合がかかったって知ったわけですよね、中村さんは。
出撃するということですね。
という命令は下ったわけですよね。
命令というよりも時刻じゃないんです。だからどこのどこのに集合せろということで、集合時刻。
その時に、さっきの手紙、書き置きという。それは中村さんは誰に対して書いたんですか。
これ。
さっきのマフラーの彼女。
彼女。
それは奥様ではないんですね。
奥様いなかった。
その後その方が奥様になったというわけではない。また別なんですね。
違う。全然。
その時に、例えば差し支えない範囲でいいんですけど、どういうことをお手紙に書かれたんですか。
特攻隊の覚悟
例えば無事に帰ってきたらみたいな話をしているのか。
みんなそうですよ。だけども、全部が全部、そこまでは書かない。
もうどうせ飛行機であれ飛行機で行っても途中で落とされるかもわからないし。
劇通り。
ね。わからない。もし停止した場合は、と書くだけ。
中村さんは何て書いたんですか。
私。私は死ぬのは当たり前だと思っていたから。
別れの挨拶だけ書いたんですか。
いや、その前は言ってあるから。言ってあった。
それ、彼女には弱かったけど、飛行学生の時の下宿が今でもそうだけど、もうみんないなくなった。
一番上のお姉さんが私よりも3ヶ月、9月生まれだったから。
それが両方、面倒見てくれたわけ。
その次が二つ下。その次が三つ下だけど、これは彼氏が売った。
それからその次は売ったけど、これはもっと年が離れて。
だけど、一番用意してくれたのは姉の方。
あ、そうなんですね。その方に対して手紙を書いた。
そう。おふくろとね。向こうのおふくろ。私のおふくろでらしい。
そうなんですね。
そこにずっとお世話になってたんですね。
それはじゃあ、込み入った話ですけど、中村さんの中ではもう多分生きて帰ることはないだろうって思って書いてる。
みんなはそう思ってる。
その時に彼女だったり彼女のお母さんだったりってあると思うんですけど、
当然実のご両親も中村さんいるわけですよね。その時もお元気だったんですよね、ご両親は。
そうそう。俺はまだ若いけど。
ご両親に何かそういう書こうとかは思わなかったんですか。書くまでも別に書く必要はないかなみたいな感じだったんですか。
いや、そこまで書く余裕がなかった。
実際その手紙に書いたのは彼女と彼女のお母さん前だったと思うんですけど、どうしても僕らというか僕は体験したわけじゃないので、
特攻隊っていうと最後その手紙を書く時も本当は死にたくない。戦争にそもそも行きたくなかった。だけどお国のためにって言ってるけど怖いとかなんかいろんなこういう手紙とか残ってる本もあるじゃないですか。
多分人それぞれなのかなと思うんですけど。
そりゃそうですよ。だけどもその時は精神教育ということでお国のためにということが基本精神だった。
自分勝手なことは表現できない。
それは心の中でも抑え込んでるというよりももう麻痺していった感じなんですか。
そうです。
本当にこんな戦争とか例えばなんか上層部のせいでなんで俺たちが特攻隊行かなきゃいけないんだとかそういうことも。
余裕がない。
ほんのちょっとは実はちょっと疑問に思ってたとかその当時はないんですか。
もう徹底的に教育されてた。
中村さんの感覚ではおそらく周りもみんな同じだった感じ。
私よりももっと強かったんじゃないかなと。
その気持ちが。
そう思います。
さっき話した加藤圭一に私が別の人からもらったマフラー、加藤に渡したこともある。
いや今の人とはそこが違うんですよ。
失神の瞬間
徹底的に精神的教育を受けてやる。
そうすると精神的な教育もあると思うんですけどとはいえいざ特攻隊に行くという風になったらさらにもう一個別の明らかに死の階段が近づくって思っちゃうんですけどあんまり変わらなかった。
変わらんですね。おそらく陸軍も海軍もみんな一緒だったと思いますよ。
その時にやっぱり上層部とかが隊員の恐怖心を和らげるために覚醒剤ヒロポンとかそういうのを結構隊員が使ってたんじゃないかっていう風にいろんなところで見るんですけど実際そういうのは特になかったんですか?
私はそんな感じなかったね。
周りも使ってない?なんかそれが支給されたみたいな話もあったりもしますけど少なくとも中村さんの隊員にはそういうのはなかった?
国家のお国のために。歌の文句じゃないけど。
その出撃する直前の最後の食事、最後の晩餐、結果的にね、生存されたのであれですけど最後の食事って何だったか覚えてます?
何かわからんけどもう味噌汁ですよね。ご飯と。
なんか出撃される隊員には特別なそういう振る舞いがあったみたいなものも本とかだと書いてあるんですけど実際そんな変わらなかったですか?普段と。
場所によってはそういうのもあったと思いますよ。
中村さんの場所は?
そんなの余裕がなかった。
ひょっとしたらちょっと特別なもの出たかもしれないけどその記憶もあんまりない?
ないですね。私たちが成立した学校も臨時に飛行機が離陸着陸ができるだけのことだった。
もう飛び上がったらおしまいだと意識した。
そうですよね。さっきのそのもともと教える方の教官とかの人たちだから最後の最後ってところですね。
その3人一組の中で中村さんはそうするとパイロット偵察通信?それのパイロットですか?
どうパイロット?
やっぱりパイロットですよね。
ずっとパイロット。
それまでは実戦経験っていうのはそういう意味ではなかったわけですか?
ない。
ですよね。でもそうか。もう不安とかないってことですね。麻痺してたわけですね。
不安というか、それはアメリカの飛行機が飛行場に来た時に自分の方から機関銃を撃ったからね。射撃をしたから。
それはいつですか?それは特攻隊の前ですよね?
そうそう。もうその頃は私が出撃する頃にはあっちの飛行場こっちの飛行場ってもう敵機が来たからね。東京に爆弾を落とした。当たらなかったんだろうなぁと思ってるだけで。
じゃあそういう意味ではそれ実戦ですよね。実際。
そうなの。向こうも来るしね。こっちもそれに向かって撃つ。
4月の3日か12時05分に集合と。その集合しなさいって言われた場所は鹿児島?
鹿児島の、今は飛行場が高いところに鹿児島あるけども、あれの下んだんの小学校。
そこに行く前に、行ってないですよね?そこには。結果的に倒れちゃった。そこまで行ってから倒れたんですか?
その鹿児島に集合する前はこっちの土浦の方にいたんですか?
その小学校。
もうそこまで行ったんですね?
行ったん。
行って、じゃあいざっていう時にぶっ倒れちゃった。
本当にもうその飛ぶ直前に倒れたんですか?
そうなの。飛び上がるね。
それは倒れたっていうのは、本当に失神しちゃったのか、もう意識はあるけどフラフラっとはもう倒れちゃったのかどういう感じでした?
意識がなくなった。
そうなんですか。
そう。
特度の緊張とかだったんですかね?原因は分かるんですか?
分かったんですか?
分からない。
今も分からない?
生き残ったんだから、不思議だなということじゃないですか。
失神。
もう本当に直前。
整列しておる時。
そうですよね。整列はこれからっていうところで失神したと。
出撃せよという時にぶっ倒れちゃった。本当不思議なの。
失神なかったら文字通り出撃してますよね。
他の2人もどうなったか分からない。他の飛行機でまた行ったかも分からない。
そしてもう目が覚めたら翌日?
2、3日経ったと思うけど。
その後は元気は元気だったんですか?
それがね、1週間経ってから、ひとよしから、昔は婦人会っていうのがあって、岩に来た。
夜中に送って出された横田に行くときに、その者が異聞に来たのに、
戦争の終焉
あ、ひとよし失神ですよって言うわけにはいかないでしょ。嫌だから隠れてた。そういうこともある。
その失神して目を覚ました時、最初に何を思いました?
そもそも事態が理解できたのか?ひょっとしたら自分は特攻隊で出撃して、これは死んじゃった後なのかって思ったのか?
いやいや俺は倒れてみたいな、すぐ分かったんですか?事態を理解できました?
病気だったからね。
病気。
だからそれは素直に。で、次のチャンスにまた行けと。もうその時に言われたから。
次の機会に行きなさいと。
一応部隊に100人まで帰って、それからまた次の機会に行くんだよ。確かに次の飛行機も準備した。
あ、そうなんですね。でも結果的に行かなかったから、もちろん今ここに中村さんいらっしゃると思うんですけど、
そうそう。
次の機会が訪れなかったっていうのは訪れる前に戦争が終わったってことですか?
あったよ、まだ。
機会があった?
横須賀。横須賀の部隊に転勤した。
何月のことですか?
1ヶ月ぐらい。
5月とかぐらい?
そうそう。
横須賀行ってまた出撃を待つ感じですか?
そう。それは今の新しい飛行機、7249のキッカという飛行機。
キッカ。
この飛行機のために待っとった。だけども今度は飛行機ができなかった。
完成しなかった?
なかなか。
それはもう終戦直前で疲弊して作れなかったってことですね。
分からんな。部隊の方だけは焦っておったけども、現場の方はなかなかテスト側はうまくいかなかった。
7249の部隊というのは怪しげな部隊です。
見せていただいてもいいですか?
どうぞ。
これが結局このキッカが出来上がらず、横須賀で待機したままそのまま終戦ですか?
いや、そのまま日立が立つから。
立ちますよね。
で、現隊に帰ると。現隊というのが、この7249航空隊が三沢の一角にあった。
三沢。
飛行場。で、こっちでしばらく待っておった。そしたら終戦だった。
なるほど。三沢。で、待ってる時は、いわゆる具体的なこの横須賀の時みたいにこのキッカを作ってて、いつか飛び立つ準備みたいな具体的なものは見えてなかったってことですね。
出来たらということで、その部隊の巡洋は確保はできたんですけども、
実際は完成はしなかった。
飛行機は救急式環状爆撃機を使って訓練はやっておりました。
訓練っていうのは、これ特攻機ですよね。特攻隊で実際使うための飛行機のそのキッカ自体は完成してないんですけど、訓練機はあったってことですね。
もう救急環状爆撃機という環状爆撃機。それを使って磁力、それから効果の訓練。
それは一人乗りだったんですか。それも三人乗りなんですか。
一人。パイロットは一人。それから後ろは偵察員。
そういう意味ではまた三人乗れるやつなんですね。
そうです。
それが基本なんですね。
そうです。だからそれで訓練をやって回っておりました。
最初の特攻の直前で失神されて、その後また待機する。いつ飛ぶかわかんない。
僕らからすると極度な緊張状態にずっといると思うんです。数ヶ月。どう考えても普通じゃないですよね。今から考えたら。
やっぱり当時の中村さんからすると、さっきの話に戻りますけど、もう叩き込まれてるから、緊張はしてたのかもしれないけど、自分が恐れて緊張してる。普通じゃないっていう感覚はもうないわけですね。
そうですよ。みんなそうですよ。今でもあの時はこうだったかなーっていうのを反対する人がおったとしたら、えーそれはおかしいよ。
昔の人はお国のためだから。
ひょっとしたら中には本当はちょっと反対してたり、気が済まなかったりいたかもしれないけど、
でも当然すごい少数派だし、少なくとも中村さんはそういう気持ちもなかったってことですか?
そうなかったし。もうそのように徹底して飛行機の操作も攻撃精神もちゃんと指導しておったから。
なんかそんな中で戦争中ですけど、日々のその楽しみとかなんかちょっと関心事とかってなんかありました?
例えばサンドの食事だけが楽しみだったとか、なんかもう楽しみっていう概念すらなかったのか、意外とこの時間はちょっと好きだったとか、息抜きでも楽しみでも何でもいいんですけど。
何もないなー。その当時はいかに向こうの飛行機は機関に追って飛行機が飛んできたならば、そんなことで死んだらいけないということ。
だから影に隠れるとか、だから大きな木の影に隠れるとか、そういうのはやったけども、今考えてもそんな余裕なかった。
そういう意味では迷ったり悩むとかってことはあまりなかったってことですかね、ある意味。
ないですね。みんなが死ぬんだったら、自分たちがちゃんとお国のために。
私たちが入隊した当時からの精神教育で言ったら、そんな余裕なかった、考えが。今の人は不思議ではならんかも。わからんけど。
理屈としては分かるんですけど、本当にそういうふうに。今の選手と一緒ですよ。
そうですよね、アスリート。
不思議でならんだら。
じゃあ、そういう意味では何て言うんでしょう。ヨカレンに入って、終戦までだいたい4年ぐらいあったと思うんですけど、どうです?
そういう意味ではあっという間って感じでした?無心であんまりもう長かったなとか、早く終わらないかなとか、怖いとかっていう感じじゃなくて、あっという間に過ぎ去った4年って感じですかね。
そうそう。そんなわくべも振らず、自分の一生懸命やるだけでやったから、ということですよ。
多分みんな一緒じゃないかと思うんだけどな、当時の人は。
命拾いの体験
今日お話を伺う前にご紹介くださった方から、3回命を落としかけた。つまり命拾いした。
1回はさっきの特攻直前に失神して1回ってのがあると思うんですけど、3回あるって聞いたんですけど、あと2回命拾いした機会があったんですか?
ありましたね。
差し支えなければ後の2回はどういうことで命助かったんですか?
1回はね、これは戦後書かれてないけども、松根油。松の根っこを削って、松屋根を出して、それを生鮮して、飛行機の燃料に。
油ですね、松根油。
飛行機の油、飛ぶんですか、それ。
だから、それを使って私が海の上を、敵の潜水艦が10月の20日だった。
昭和19年とかですか、前年とかかな、終戦の前の年ですかね、もっと前。
もうギリギリ、その時に使い方としては燃料タンクが4つあった。
通常は離陸、着陸の時はそれを使ってはいけないよ、ということで。
離陸の時は普通のガソリンを使って、上がって、50回入り、30回入り、また逆に50回入りを飛んで帰ってくる。
そして着陸前の旋回をして着陸するんだよ。
そのつもりで着陸前の燃料切り替えをしなくちゃいけない。
燃料切り替えをしようとしたら、変わらない。
壊れている。
いやー困ったなー、というわけで、周りはこれをやりながら時間を潰したけど、
もうだんだん燃料がなくなって、どんどんどんどん降りていくわけ。
時が10月ということは、みんな田んぼが入れ替わりで、
でもみんな田んぼに出ているわけです。危ないしね。救急艦は客が丈夫だ。
何してる、この爆弾を積んだまま。
不時着するかみたいな。
そうなの。だから土手に引っ掛けて降りる以外ないよね、ということで。
不時着して爆弾がそのままだってよかった。
すごいですね。
その時の警察員が乗っていたのが後ろの後席。
こらーって殴って、そして起こして。
気を失ってたってことですか。
そうなの。田んぼの人たちがみんな集まってくるしね。
その人たちを危ないから、ということで爆弾の関係。
今みたいに電話出ちゃうと、部隊に電話するわけにいかんわけ。
あれで苦労した。
けがはなかったんですか。
私はけがせんかったけど、ちょっとけがしても、
もう爆弾が乗ってるんだから。
で、部隊からトラックで、なんで来てくれたかな。
そういう模様はわからんけど、ということで生き残った。
それでその後、証婚優というのを捕まった。
そうですよね。
それが一つ大きな記録になった。
それが証婚優を使わなくなった軍が、中村さんの経験が。
ある意味死者は出してないわけですよね。
そうなの。
それはすごいですね。
だから今もあの記録は残ったまま。
それをちゃんとしてもらった方がいいなと。
その場所はどこですか。
ゼロ戦の訓練と危機
百里。百里の田んぼ。
何県になりますか、それは。
茨城県。
あの時は農家の人たちも大変だった。
その時はさすがにちょっと怖かったですよね。
ごめんなさい、疑問ですけどさすがに。
爆弾がいつバーンといくかわからない。
その時はもう覚悟というか。
そう。だからね、私は幅跳びとか高跳びでも左足だったから。
もう左足で踏ん張ってね、俺らの記録を。
で、客がこれだから。救急看板。ということで。
あれで生き延びた。
その時も中村さんは諦めなかった感じがしますよね。
諦められないよ。
場所によっては記事が残ってるんじゃないかと思うんだけどなかなか出なかった。
だから自衛隊になってからでも私がその話したら初めて聞いたというのだけど。
伝説ですよね、それは。
それが2つ目。もう1個あるってことですね、命拾いしたのが。
もう1個は脚裏腹に、終戦前になったら敵がよく入ってくるから。
で、ゼロ戦を3機よこしたわけ。
これで訓練やって、なんと東京の防衛も間に合うように訓練をやる。
で、その訓練をやって、その訓練をやる時に肉は連れていかないわけ。
1機を連れて行って編隊の訓練を平らにやって、その次は斜めに動いて宙返りをやる。
宙返りと言ったら、上がる時に皮をガーッと剥けないといけないと言うと、
それをやったところで、デッキの方が教えたのが教えたとおりやらないから。
ここを切って、もうパワーがなくなってしまって。
上がる途中でパワーがなくなって、落ちちゃった?
落ちちゃった。それで、私がここまで来ているのに、ここで落ちてきたから、命拾う。
バーッと返って、主翼と尾翼の間、向こうが翼、主翼が。
だから下で双眼鏡で見ていたのが、みんな、やったーって。
ぶつかるとみんな思いますよね。
そうなの。だから簡単に、俺についてこいと言うわけにいかないわけや。
ここでパワーを入れるんだよって教えたのに、ここで早めに入れてくるもんだから、
もうここではこのまま落ちてくるわけ。そういうこと。
それはその訓練でゼロ戦を乗っているんですか、実際。
そうそう。
中村さんが、ゼロ戦を。
そういう一番機で行って、後をついてこいと。
私はもうこっちまで行っているのに、向こうもここでパワーを入れないといけないのにね、
早めに入れてくるもんだから、ここはもうないわけよ。
そういうこともあったなと。
ゼロ戦ってね、終戦時はもう米軍の方のB-29とかでしたっけ、に比べたら劣るっていうふうに僕も聞いたんですけど、
出てきた、本当に最初の時はゼロ戦ってすごい世界一みたいに出たわけじゃないですか。
実際どうでした、操縦して。
良かったよ。
明らかに違うんですか、やっぱり。他の飛行機よりも。
それは初めてできたからね。だから1型、2型、3型があるんで、タイプは同じよ。
そういう命拾いはあったということです。
さっきの特攻隊のちょっと戻るんですけども、
特攻隊で飛ばずに結局命拾いされたわけじゃないですか。
その3人組は、中村さん含めの3人組は助かりましたけど、
当然そこに並んでた他の隊は行ってるんですよね。
そうよ。
みんな亡くなってるわけですよね。
終戦の日の思い
全部じゃない。
その生き残った人は飛ばなかったってことですか、それか。
飛んで途中でやられたのが、もうおらんだろうけど、
鹿児島の端っこにおったのが、中央島で私が失踪したから、
中央島でわざわざ訪ねて、時はありがとうございました。
飛んで撃墜されたけど助かったって人がいるってことなんですね。
そうなんです。
すごいですね、その方も。
そんなのもおるんだよ。
燃料タンクやられたらおしまい。
そうですよね。
非常にお聞きしづらいんですけど、
やっぱり特攻隊に行ってもお国のために捧げるつもりでみんな飛んでて、
亡くなった方もたくさんいるわけじゃないですか。
その時に、これはそういう風に言ってる方も実際いたんで、
中村さんがどう思うかわからないですけど、やっぱり生き残られたわけじゃないですか。
私に?
やっぱり他の仲間が特攻隊で行ってしまった中で、
自分は助かった中で、逆にちょっとそういう罪悪感じゃないですけど、
みんな行ってしまったのに自分は残ってしまったみたいな、
そういうことに悩まれたこととかってありました?
いいよ、また行くよという気持ちがあった。
だから、やることをやって、残ったんだから。
でも、今度そのチャンスがあったらまた行くよという気持ちは全然変わってない。
逆にブレなかったってことですね。
そうです。
そして実際、その後さっきもお話があったように、
この喫茶のもあって、その後も三沢か。
で、終戦ってありましたけど、
そのいわゆる終戦、8月15日、僕らの玉音放送、天皇陛下の、
そこでみんなひれ伏したり泣いてる姿しか知らないんですけど、
中村さんの8月15日は、今パッと終戦の日を思い浮かぶとどんな感じでした?
いわゆる玉音放送を聞いてるのか?
聞きました。
聞きました?どういう状況でした?
ラジオで何か天皇陛下からあるらしいぞみたいな、
どういう感じだったか覚えてる範囲で再現していただきたいんですけど。
いや、やっぱりダメだったか。
私の場合は、その時に救急式間幕というのを、
まだ部隊の長はただいま怪しげな放送があったということだったんですよ。
まだ信じてなかった?
そうそう。だから、今から逆に、
それは三沢だからね。
この7、2、4、5から3人のパイロットが行って、
3機の飛行機を百里からもらってこいということで、
3機取りに行ったんですよ。
そしたらその時の私よりも、
米学校に出たばっかりで生計もない人が来たわけ。
そして電車に乗って出ようとしたら、
陸軍の水戸の部隊が救助を守るためにということで、
4車ぐらい貸し切りやって、だから動かんしね。
その時に、その人が3機の長だから、
陸軍の部隊が乗っておって、なかなか動かん。
動いても次の石岡という駅で止めてもらわなくちゃいかんから。
それを相談してくれって言った。
で、向こうはマントを着て、そうして祝ってたけど、
そしたら、いや、私は行かん。
行くから。いや、そんなこと困るなんじゃないですか。
で、私は行って、
実はこうして終戦になったという。
聞かんことはなかったけども、信じてないから。
こういうわけで、飛行機を3機取りに3人で行くようにしてある。
だから、石岡の駅で降ろしてほしい。
そしたら、うん。納得して。
で、行って、石岡で止めてもらったわざわざ。
電車4車、部隊が乗っとったけど。
ということで、電話してトラック来てもらって、
それから飛行機を利用しよう。
その日は土曜日だった。
そしたら、なんと、町の彼女が面会に来た。
で、夜はどうなったかわからんけども、明るい日になって、
整備員がね、あの地区から手の高い、いらんのって言った。
私と同年兵。
で、石岡の町から来たの。
で、それが、整備員がやってくれたから。
よし、その向こう、町の外れの方だ。
よし、乗れって言って、乗っけて。
で、行って、ぐるぐる回って、
あと、あの家だなって、上から確認して。
で、三階屋、アクリルが燃料をいっぱい積んで。
そしたら、後ろ、私の後ろに整備員が乗っとるんだ。
もう三沢の方に帰るの。
一番機に乗るんじゃないかって。
いやいやいや、何も言わんかった。
で、以前はね、一番機、二番機、三番機と、あったわ。
今は逆よ。
だから、私はその前に、逆から松島の方の大切境界で、
爆弾が進んで、回ったりしとったから。
10時から11時くらいになったら、海水が動く。
そしたら渦巻いて霧が出る。
だから、霧が出たら雲になるから。
そういうのをずいぶん何回も体験しとるから。
だから、もう、そこに寄ったら雲が出るかもわからん。
そしたら、その時には私が一番機で行って、
で、途中で交代するよ。
今と違って、マイクじゃないからね。
だから、そこまで行ったんだけど。
そしたら、上に上がって松島まで行ったら、案の定雲が来る。
霧が。
いや、これはいけんな。
というわけで、私がその前に出て、
雲があるから、俺が一番で行くから、ということで出たら、
向こうがワーッと出てきて。
で、そのうちに雲の中に入ってしまう。
で、私はもうその当時は軽機飛行を訓練をやっていたからね。
だから、ジャーッとこうやりながら、雲から出て。
そしたら、しばらくしたら見えない。
相手の2機が。
あら、どうしたかな。大丈夫かな。
いや、後戻りしたかもわからんから。
松島の飛行場の上まで後戻りして、確認した。
おらない。
いや、おかしいなーって。
で、また全速でしばらく飛んで、そしたら前にもおらん。
なんかもうやってるわけいかんから。よし、帰ろう。
で、帰りに今と違って、以前はメーターだった。
100メーター単位、高さ。
ということで、私は100メーターでちゃんと海岸を飛んでるのに、
整備員が、航道がゼロです、ゼロですって後ろから大きい声で言ったけどね、
大丈夫だって、ちゃんと見ながら飛んでるから。
そして、最後だから、と思って三沢に帰る。
で、三沢の上でも、もし前の飛行機が飛んで落ちてなければ大変だというわけで、
私が勝手にやるわけ。
1回、2回回って、で、やっぱりおらんなということで着陸。
特攻隊の現実
で、飛行場がおったから、飛行場にこういうわけで2機おらんようになりました。
で、帰ってきました。報告したら、飛行場が、
お前、なんで自分だけ帰ってこい。
自分だけって言ってもね、やむを得ません。
で、2機、ダメになった。
そういうのがどっか書いてあるわけ。
その2機は、
海や。
亡くなっちゃったってことですね。
後から記録を残しそうですけど、隊長が。
その隊長がまた、何か知らんけど、自衛隊が始まってから、私が金谷に行った。
そしたら、徳島に先に入ったんだな。自衛隊もバラバラだったから。
で、私の時には自衛隊が始まって、今度募集してるから、
薬師寺和夫という、戦時中の部隊の長がおって、電話で連絡くれたから。
で、行った。格納庫を案内したりなんかして、増加してくれた。
試験があるから、準備しておかないといけない。
え、試験があるんですかね。
終戦後にね。
終戦後に試験があるんですね。
でもさっきの2機は、一応確認させていただきたいんですけど、
8月15日のところで3機取りに行くっていう、さっきの話で終戦のところで亡くなっちゃったってことですよね。
そうですよね。発表があって、取りに行った。
戦争体験の共有
それもちろん、どんな形にせよ命を落とすっていうのは、当然言うまでもなく辛いことですけど、
戦争終わってから?ある意味。
終わってるよ。
終わってるって言えば、終わってるタイミングで命をなくす。
これに書いてあるのは、
墜落って撃墜されてるわけじゃないわけですよね。事故ですよね。
もう戦争じゃないから。事故。そんなこと書いてあるよ。
そうですよね。
思い出の中に。
入ってるんですね。
いやー。
かわいそうな。あれが一番かわいそう。
そうですよね。
高橋っていうのと、それから成林がようこそ私の後ろに乗ってきたなって。
本当に奇妙。
そうですね。さっきのね、因縁とも言ってらっしゃいましたし、運命とも言ってらっしゃいましたけど。
逆に言うと、生き残った方っていうのはその奇跡を全部あるから今あるわけですよね。
改めてなんですけど、今回お話伺う機会をいただいて、今まで誰にも語らなかったというか、
もちろん息子さんだったり、ご紹介くださった方にお話されてたこともあると思うんですけど、
今まで一回も誰にも話してないことってありますか?息子さんにすら。戦争のことで。
戦争のことで。あまり必要ないことはしゃべらんじゃないですか。
言い方がいいかわかんないんですけど、まだまだ長生きされると思うんですけど、ご自身の中で。
あと5年。病院の先生が、あと5年頑張ってくださいよ。
ぜひ5年と言わず10年。
それはわからんけれども、5年は粘りたいなと。
まだまだお元気だと思うんですけど、僕から今いろいろ伺っちゃいましたけど、ご自身でもいろいろまとめてくださってて、
これだけは今話したこと以外で、話したいとか伝えたいってことはございますか?
今となっては。
戦争を改めて振り返って、これだけはこうしとけばよかったなって後悔はありますか?
やりたいことをやらせてもらったからね。
もう一つ。
部隊は本当は奇跡な部隊作りを準備進めておったんですよ。
奇跡の部隊。
米軍から飛行機を分けてもらった。
艦上爆撃の進んだやつ。
一つは機関銃は死体。
二つ目はレーダー。大きな。
それで即席しながら、部屋で出撃するような。
その部隊を作るということで、薬師寺和夫という人が、先週から私一緒だったけど、
その人が来て、その飛行機を。
今長男が誕生日に歩き始めたその家で。
生まれて。
そこの隊長さんが薬師寺和夫一男。
その人が城で部隊を作ってやろうとしてたわけ。
そうしたら、金山から厚木まで行って、
それも6機ずつ、12機もあるからね。
帰りに厚木から名古屋。
で、名古屋も民間ができてすぐだったから。
着陸前にパターンを回って、着陸する。
それをどうも隊長さんが間違ったらしい。
そうしたら、陸軍の部隊を執勤してた人が、
ちょっと、こうしてるわけ。
それで半日かかって、揉めた。帰ってみたけど、なしな。
で、キャンス。
戦後?
戦後よ。
ですよね。米軍から分けてもらって。
でも、もっと大きな訓練をね。
地上から防火板撃の訓練とか、編隊の訓練とか、やる計画はあったわ。
そうですよね。
だから、あれが一番惜しいことでした。
なるほどね。
米軍としては陸軍だけ。民間を邪魔したっていうことになったら、問題が大きいわけよ。
未来へのメッセージ
だから、そういうこともあったし。
戦時中の話にちょっと戻っちゃいますけど、戦後の若い世代が、
例えばNHKだったり、いろんな新聞を読んで、戦争中はこうだったとか、
いろんな特攻隊のことを一つとってもあるじゃないですか。
中村さんが戦後の報道を見てきて、戦時中の。
これ言われてることは明らかに違うんじゃないかな、みたいに思うことはありますか?
例えば特攻隊は、一応僕が調べた限りは、公式記録は志願制。
志願制だけど、実際はさっきほぼ強制というか命令だから、
志願だったら自分で手を挙げて特攻に行きたいっていう話じゃないですか。
つまり命令じゃなくて。
でも実際はほぼ強制の志願だったっていう、どっちかわからない。
いろんな報道があるわけですよね。
中村さんにさっき伺うと、実際はもう選択の余地はなかったって話あるじゃないですか。
それはそうね。
その特攻隊のことはさっき伺ったんですけど、それ以外のことでもいいんですけど、
実際この戦後のいろんな報道で、戦時中の様子を見てるときに、
中村さんが、いやなんかそういうふうに言われてるけど、実際違ってたよみたいなことって何かありますか?
どんなことでもいいんですけど。
いや、全然感じない。
基本的には正しい?報道されてることは正しい?
正しいよ。
いや、こういう、たまたまこの間から出てきた本。
何ですか、見せて頂けますか。
歌。
歌、すごいですね。
命惜しまぬよ、可憐の息の翼、勝利の翼。見事撃沈した敵艦を母へ写真で送りたい。
どうだろう。そういう教育を受けたって。
だから普段からこうだから、
どこに行くことが嫌だっていうのはおらん。勝った。
むしろ誇りに思っていくことですよね。
そういう意味では、そこで終戦を迎えるじゃないですか。
いわゆるそういう叩き込まれているものが、大かれ少なかれ、遅かれ早かれ、
みんな溶けていくわけじゃないですか。日常の生活に。
中村さんの中では、どこで、8月15日とは別に、
中村さんは心の中で、戦争に行っている中村勝が終わって、
普通の中村勝に終わったっていうのは、どこで終わったんでしょうね。戻ったというか。
僕に感じなかった。自分に戻らなくちゃいかんということで。
命の危険を感じなくていいんだとか、お国のために戦わなくていいんだっていう、
安心感とかみたいなのあったんですか。
だから今度は生活。
そうですよね、今度は。
生活の問題。
現実のところが来たわけですよね。
今まで、さっきの話を振り返っても、少なくとも3回か4回お話を伺っただけでも、
旧死に一生を得てるわけじゃないですか。
どうよ。
それがさっきおっしゃったように、奇跡とか因縁とか、運命っていえばそれまでだと思うんですけど、
でもやっぱりその境目で全部生き延びてこられたわけじゃないですか。
なかなかこれちょっと質問としては難しいかもしれないですけど、
でも改めなぜ生き残れたと思います?
そこで同じ状況で亡くなっている方もたくさんいるわけじゃないですか。
分からんな。
その時は一生懸命、必死になって頑張ったということ以外は考えられない。
でもさっきの不時着するのも諦めてないわけですもんね、最後まで。
そりゃそうよ。
諦めたら絶対もうそれ終わってましたよね。
そりゃそうよ。
実際戻ってこられて、さっき彼女の話なんかもありましたけど、
ご両親はその時もお元気だったんですか?終戦の時。
いや、親父は私が八日連に行って、1年半経った時に亡くなった。
それは出兵されてってことですか?
そうそう、八日連。八日連に行って。
お父様も。ご兄弟は?
兄は陸軍。
お兄様は戻られたんですか?
帰った。帰ったけども、朝飯食ってる時に。
夕べ、なんか親父が眠れ眠るしって言って、苦しんで夢見たんだよなって。
え?朝ご飯の箸をパッと置いて、実はお墓の古いのを重ねて建てたんだって。
え?って言って。
その時の私が帰った後、先に帰ったから。で、建てたもんだよ。
びっくりして、古い墓をまた元の古いところに置いてきた。そういうこともあったしね。
100年生きてこられたって、1世紀生きてこられたって、本当にすごい。
としかもう感覚させていただいてるんですけど、やっぱり改めて今回こういう機会をいただいて、僕としてはすごくありがたいんですけど、
当然心の中だけで止めていただいたりとか、親しい方とお話しするだけの方もいらっしゃるわけじゃないですか。
あと実際親しい人にも話さないまま人生を終えられる方もいるわけじゃないですか。
そういう意味では中村さん、なぜ今回、もちろんご紹介者の方がお話、こうやって取材を受けたらっていう話があったのかもしれないですけど、
でも最後はご自身でいいよって選択されてるわけじゃないですか。
なぜやっぱりこうやって話してくださるっていうお気持ちになったんでしょうかね。
今までね、実は海上自衛隊のOB会の方も私はずっとやってきてたわけ。
去年の暮れからあんまり一人でバタバタしたらぶっ倒れたりしたら長男がおるのにいけんからと。
皆さん心配しますよね。
思っておる。だからね、OB会の方もだいぶ遠慮しておる。
そうなんですね。その中でこうやって音声と映像を撮らせていただいてますけど、これやっぱり本当に今後何十年何百年ってね、残る貴重なお話だと思うんですよ。
あったらいいよ。
いやいや残りますよ、本当に。
本当にもう改めてですけど、やっぱり何でしょうね。これ見てる方、聞いてる方。
僕今43歳ですけど、僕も子供を見ますし、これから生まれてくる、まだ生まれてない人も見て聞くと思うんですけど、やっぱりそういう人に対して率直に仲間さんが伝えたいこととか、やっぱり戦争経験されて100年生きてこられて伝えたいこととかってありますか?
無理やりってことは全然ないんですけど、ただ僕がずっとやってきてる、今まで10年間で30人ぐらいの戦争体験者の方にお話を伺ってるんですよ。
で、やっぱりね、特攻隊の方もいらっしゃいましたし、普通に戦争は行ってないけど、例えば普通に死負をやられてて、戦争体験した方、いろんな方いるんですよ。
よくあれNHKの戦争のプロジェクトとかそういうのだと、やっぱり特攻隊行った方とか、原爆を受けた方とか、そういう方の取材が多いんですけど、今回は本当にありがたいことにもちろん仲間さんにお話を伺えたんですけど、
僕がこのプロジェクトずっと続けてる意味っていうのは、やっぱり戦争のその時代を生きていた人の、それは特攻隊行った仲間さんのような方もいればそうじゃない方、全てのその時代生きてた方の、その時何を思っていたかっていうのを歪めることなく僕は残したいんですね。
で、人によっては、僕実際こういう方いたんですけど、僕のイメージだと当時戦争を経験した方ってみんなもう毎日死の危険と隣り合わせだったんじゃないかって勝手に思ってたんですけど、実際話を聞くと例えばすごい裕福な方で、お医者さんで疎開してて、特に命の危険なかったっていう方もいたんですね。
その一方でもちろんもう、中村さん死と隣り合わせだったと思うんですけど、今回インタビューさせていただいた中で、今中村さんとしても当然過去のこともですけど、今の日本を見ててとか世界を見ててとか、そんな大きなことじゃなくても、やっぱり思うこととか、あと若い人とか、こういう感じで今いいんだろうかとか、いろいろ長く生きてらっしゃるので、先に生まれてる文字通り先生なので、
何か僕たち世代、これからの世代がよりよく生きるためのアドバイスでもいいんですけど、一言いただけるとありがたいなっていうところ、どんなことでも本当に構わないんですけど。
アドバイスっていうのは、そこまでは人間の意気込みというのは、やっぱり自分で自分の希望は守るようにしなくちゃいかないということではないです。
それは個人としても国としても、自分たちでちゃんと。
戦争とその影響
そうなの。今は自分といったら、自分が先に立てという意味になるかもわからないけど、内容による気ですね。
難しいね。
そうですね。本当に永遠のテーマだと思うんですけど、やっぱり今まさに去年からロシアとウクライナの戦争もあるじゃないですか。やっぱりこの終戦、もうすぐ80年経ちますけど、この10年僕もいろんな戦争体験者の方の話を聞いてて、もちろん戦時中に比べたら平和になってるけど、でもやっぱりまたちょっと世界がザワザワしてて、ある方に言わせると戦前の時のちょっと空気に似てるみたいに言ってる方もいらっしゃるんですね。
今は現にそうですよ。
そう思いますか?
ああ、思います。
それはどういうところから感じますか?
ロシアもそうだけども、中国でもね。一発のところまで手を出そうとしてるんですよ。もうすでにこの前からの放送を見てるとね、海をどんどん埋め立てたり、そして陸地を作って自分の土地を増やそうとしてるんですよ。
地球を。あれはもう間違いない。あれはもう危険だと思ってるけど。しかし日本は痩せるばっかりよ。土地もそうだけど。民間の人がね、日本の土地を売るんだもん。
それは日本は何とかしないと、どんどんどんどん痩せていくばっかり。
それがやっぱり一人一人っていう意味でもそうだし、国としてもってことですよね。
そうなの。国がね、国それぞれ人がもうちょっとしっかりしてもらおうと困るなあと思います。
なんか改めて戦争体験も今日2時間以上お話を伺いましたけど、もちろん戦争そのものはね、人がもう殺し合ったり亡くなることなんで決して良くないことですけど、ただその戦争という一応体験をされてきて、その後80年近く生きてこられた中で振り返って中村正さん一個人として、戦争で得たものと失ったものを一つずつ挙げるとしたら何でしょう?
失ったものといったら、自分の国は自分が貢献人として守れと言いたいよ。
やっぱりそこですか。
守れるように努力をしなくてはみんなで協力。日本でやっとギリギリ生活してるのがこれ以上痩せたら生きてこられんよと思いますね。
中村さん個人として逆に、戦争で得たものって言うと言葉適切じゃないかもしれないですけど、個人として体験でもいいですし、何か精神的なことでもいいんですけど、戦争の体験で例えばこういう心を強くされたからその後の80年はある意味全然楽だったって言うとあれですけど、
なんかそういう何か、例えば精神を養ってもらった。昔やっぱり戦争体験お話が上がった方が戦後は同じぐらいの方だったんですけど、20歳ぐらいで終戦を迎えた方が戦後の70年は余生だって言ってましたね。
つまり20歳で終戦の時点で、その時点で自分の人生は、いい意味でもですけど、あまりに密度が濃すぎて、その後いろいろ70年あったけど、なんかもうその時に比べたら楽って言うとちょっと語弊ありますけど、やっぱり命は奪われないじゃないですか基本的に。
だから余生だよっておっしゃってたんで、その方の言葉もすごくインパクトあったんですけど、中村さんはどうだったのかな。
一人一人考え方も違うね。
戦争の時のこの体験が今の何かに生きてるって、具体的に言ってあんまりわきづらいかもしれないですね。
戦争体験の意味
おかげさんで私は自分の意志が60%から70%生まれて生きてきたから、まあ良かったなというほどもね。
60%70%って半分超えてるわけですよね。なんかその秘訣って何ですか。
他の人よりも苦労してないなということよ。
苦労してない!と思われるやっぱりその謙虚さですかね。
どうだろうね。順調にいっておるということじゃないですか。もうみんな対する指導的立場でやってきたからね。
改めて今年101歳、また11月に抜かれて、あと5年、そして僕から10年15年生きていただきたいんですけど、やっぱり改めて長生きの秘訣。
これちょっと戦争の話と若干ずれますけど、100年生きられるとは昔は思ってました?
いくつぐらいまで生きられたらいいとか生きるって思ってました?
おかげさんでね、健康であったから本当に良かったと思う。だからね、もう人間みんな健康じゃないの。
その健康の秘訣は何ですか。
まず自分を鍛えること。
鍛える。今この100歳現在、鍛えるための何されてますか。
1日1日を大事に生きるという。
それが自分を鍛えることになるわけですね。
今となってはね、今、今日を大事に生きるということじゃないかと思っています。
なんか習慣にしてることとかありますか。毎日これだけはしているとか。
例えば筋トレかもしれないですし、朝必ず何か日記を書くとか、誰かに手を合わせてるとか。
いや、ちゃんと拝んでますよ。
誰に拝んでるんですか。何に拝んでるんですか。神様なのか、奥様になのか。
祖先ということです。
私の妹もそうだけどね、向こうの嫁が、嫁というよりも孫だけど、大事にしてくれてるから。
それに感謝しております。
でもなんか頭下がりますね。中村さんも今日のこのインタビューの中でおかげさまでっていうのを何回もおっしゃってるので。
やっぱりその精神。
感謝です。そうしないと自分は苦しめる。感謝の気持ちがあったらだいぶ楽になる。
そういう意味では何か、もう今答えていただいたのかなと思うんですけども、中村さんの座右の銘とかってあります?大事にしている言葉。
私は犬同士だけでもね、感謝。
やっぱりそこ。
です。
最後になんですけど、改めてパッと思い浮かんだことを言っていただきたいんですけど、中村さんが真っ先に戦争の記憶って言われて、真っ先に思い浮かぶシーンってどんなシーンですか?
戦争に関して、やっぱり特攻ですね。
名簿と友人の思い出
やっぱりそこですか?
特攻です。特攻に行った時の、もう名簿を見ても本当に、あれもこれもっていうのがあるからね。それは忍びない。
それはその名簿を見ると、彼が彼が彼が。
そうです。
なんか一番印象的なそのやり取りした、誰か行ってしまった友人との言葉とか覚えてます?一番忍びない、今思い出す。
加藤圭一。
同期のマフラー。
その彼とどんなやり取りした言葉が、今印象的ですか?忍びないっていうのは。
いや、あれは言い名付けがおると言いながらですね、マフラーを持ってなかったのかっていう気持ちはあったから、別のマフラーをあげたんです。
ってことですね。
みんなじゃあ結構、言い名付け恋人がいた人は、結構そういう人からもらったマフラーをつけて特攻に飛ぶけど、御友人の加藤さんは言い名付けがいたけどそのマフラーを持ってなかったので、中村さんがちょっと忍びなくなって、
そうやったら俺のこの持ってるマフラー、中村さんも彼女からもらってたマフラーだと思うんですけど、それを渡したんですね。
最後何か加藤さんと握手して頑張れよとか言ったのか、何か抱きしめたのか、言葉何もなかったのか、どんな感じでした?
そこまでは覚えてないけど、マフラーをあげたっていうのが、せめてものをね、お名残りだったなと。
あとは成立時に、私が倒れたんだ。
やっぱりそこですよね。
そこが運命の訳。
本当ですね。
というのは、百里から一回名古屋の工場で燃料補給して鹿児島まで飛んだんです。
名古屋の飛行場まで、名古屋に下宿しとった頃まで、そのお袋は飛行場まで送りに来た。
死んだらダメよって言った。
だから私が知らなかったかどうかは知らんけども、
しかし、こっちは出撃するんだったらば、精いっぱいでそんなこと考えなかったんだけども、
ぶっ倒れてしまう。他の人に申し訳ないけど。
という名残り。
やっぱり申し訳ないっていうのはあるんですね。
あるね。
それはずっと戦後80年経っても、常にそういう思いはある?
あります。
申し訳ないっていうのは、やっぱり自分が生き残ってみたいな。
そうです。
僕の目を見るだけで、みんなこうして、出て行って帰れなかったんだな。
何も知らない人から若い人からすると、この名簿を見ると、ああそうなんだってなっちゃいますけど、大変だったなって思っちゃいますけど、
中村さんはこの名簿を見ると全然見え方が違うってことですよね。
全然違う。それは、ああこれもか、あれもかっていうことですね。
それでいろんな線が引いてあったり、名前が引いてあったり、彼が何とかだったとか、いろいろ思い出があるわけですね。
あります。
ありがとうございます。
だからね、あんまり好んでやることじゃないし、それから本当にもうね、一人一人の顔がもうにじんでくるもんね。
そうですよね。それは絶対消えないですよね。
そうです。
頭と胸に。
そうです。

コメント

スクロール