今日はですね、中村政さんにお話を伺います。中村さん、よろしくお願いします。
こちらこそ。
ここはですね、山口県の岩国に来させていただいているんですけども、中村さん、生年月日を教えていただきたいんですけども。
大正11年、11月23日生まれです。
大正11年ということは、これ今撮っているのが2023年の4月忘日まで、満100歳。
そうです。
今年101歳。どうですか、ご自身で100歳って、例えば昔100歳の人ってこういう感じなんだろうって思ってたような100歳と、ご自身実際になってみてどうですか。
そうですね、いつの間にか100歳になったのかなという感じですね。
本当に大若くてちょっとね、圧倒されたんですけども、大正11年生まれということで、今満100歳ということで。
ここは岩国なんですけども、中村さんご出身はどこですか。
熊本県、人吉市、千本新町です。
そして熊本でお生まれになって、ここ今岩国にいらっしゃいますけども、今日いろんなお話やっぱり伺いたいんですけども。
一番はですね、特攻隊に行ってらっしゃったという話が伺っているので、やはり特攻隊その入隊から実際終戦を迎えるまでのところに、
特にいろんなことがあるのかなということで、そこからちょっと中心で伺っていきたいんですけども。
そもそもこの特攻隊に入隊したのは、いつどこでなんでしょう。
初めから特攻隊っていうことはないんですよね。
そうですよね、はい。
私が横田園に入ったのは、私の友達が熊本の山側のほうから出用しに来たんですよ。
はい。
お兄さんと一緒に。
はい。
そしてその友達を大事に仲良くしておりました。
そうしたらお兄さんがこの熊本の地に海軍佐世保から飛行機が3機来て航空展示をやるよ。
よかったら一緒に行ってくれんかと。
友達を私が連れて行くような格好で、博覧会に行きまして。
博覧会、はい。
その時にアクロボットが。
飛行が。
3機来たのがですね。
はい。
ああ、よし、これだというふうに考えたんですね。
はい。
だから帰りに福永茂と言っておりましたけど。
茂君、私が海軍のほうに行くら、あんたらよかったら陸軍のほうの飛行機乗りにならんかと。
ということで暗黙の約束ができたんですね。
はい。
結果的に私が終戦になって帰っても相手が帰らなかった。
ということがありましてね。
はい。
それからお兄さんのところにお母さんも一緒におりましたけども。
うん。
二度と会う気持ちが出ませんでしたね。
いまだにお父さんが。
あ、そうなんですか。
この資料を見ても名簿が載ってないからですね。
うん。
どうなったかなと思う。
今でも思っておりますけどね。
ご友人がその時を境にも連絡がないから今どうなったかわからない。
そうなんです。
実際そうすると今のそのヨカレンの時っていうのは最初アクロバット飛行を見た時っていうのは昭和何年ですか。
14年です。
昭和14年ってことは1941年ですね。
その時は18歳ぐらいか。
そうですね。
私は会社に電気会社。
五木のほうに源流がありましてね。
そこから水を取って電気会社ができた。
熊川電気。
はい。
そこにいたんですよ。
2年間。
そしたらみんな大学でばっかり一人おりましてね。
はいはいはい。
いやこれはもう何やるにしてもという気持ちでおった時にたまたまそういう状況がありました。
いきなりヨカレンに受けた。
会社を辞めて。
そうです。
当時会社を辞めてヨカレンに受けるっていうのは結構普通のことだったんですか。
熊本でアクロバット見てからですね。
ちょっと憧れたみたいな。
そうです。憧れです。
そのヨカレンを受けて受かってっていうところだと思うんですけど
そのヨカレンを受けることに関してはご両親とかお父様お母様とかどういう感じだったんですか。
いやお袋はですね泣きの涙ですよ。
今でも写真をずっと持っておりますけどもね。
死にに行くようなもんじゃないかということ。
その頃は飛行機もババラに飛んどったんですよね。
今みたいにないですから。
そのヨカレンに実際入って
実際ヨカレンと飛行予備学生とかあったと思うんですけど
さらに上の段階というか。
予備学生というのは大学での人が。
じゃあそれは最初から違うわけですね。
そうです。
昔はですね一般の中学かもうちょっとしたの小学校上がったところから行っておったんですね。
気象から体操から他の人と一緒にやっていけないから。
当初はオツショというのが通常だと。
それから支那事変も始まるということで。
これもタランから甲州。
甲州というのは中学卒業。
年齢下げたんですね。
就寝って例えばどういうことをやるんですか。
身を慎む方ですからね。
人と軍人は中世とはそう思うんです。
精神的な心身訓練ですね。
そしてその軍人、就寝軍人っておっしゃいましたけど、
軍人の方はどういうこと?
それもそういう何か心得みたいなことですか。
そうです。
そういう頃から始まってですね、
土曜の集まりは天皇陛下をということです。
なるほど。
その時っていうのは、やっぱり個人のいろんな考え方あると思うんですけど、
天皇陛下、いい悪いではなく、
やっぱりその四日連勢に対しては徹底的に叩き込まれるみたいな感じですか。
そうです。
どっかありましたがね、一つ軍人は忠誠を尽くす。
忠誠っていうのは忠誠を尽くすみたいなことですか。
そうです。
そういうことから始まってですね、
お国のために。
それでだんだん毎日毎日が精神的に鍛えられていくわけです。
精神的に鍛えられるっていうところですけど、
当然その憧れに燃えてその海軍に入った中村少年、青年か。
青年としてはどうなんですか。
どんどんモチベーションが上がっていったのか。
そうです。
それが意外と入ったらもうきつすぎて参っちゃったとか。
中にはそんなのもおりますよ。
中村さんは全然大丈夫だった。
私はもう意気揚々と。
意気揚々と。
負けられんということです。
実際それで今1年半っていうそこの時間もありましたけど、
入られたのが1941年40年、終戦の5年前だと思うんですけど、
そこから特攻隊に至るまでってどういう経緯でその特攻隊に任命というか入隊というか、
そもそも志願制だった。でも本当に志願制だったのかと。
なんかその辺の話もよく伺いますけど、どういう経緯で特攻隊まで。
特攻というのはもう特別にどの部隊はどこでどのように戦争を進めるということが人の目的ですね。
例えばアメリカのアメリカの潜水艦がよく出てくるよという場所によっては潜水艦に対する対処の方法を考えながら、
他の不積極艦とか巡洋艦とかいうようなのだったらそれに対する遠いところから接近する方法を考える。
内容によってどこの島を守るためにはどのようにしなければいけないというのが先に来るわけです。
そしたら飛行機の方も爆撃目的の飛行機とそれから偵察の飛行機で私たちもよく洋上作戦やったんですよ。
爆弾積んであいつの潜水艦が距離内にいないかでそこを着敵のために三角形の運動をしながら行動をだいたい千メーター以下、当時は水もあって異常なし。
もしあったらどこどこで今敵の潜水艦がおったけれども今も送ったよ。
まあ今と違って以前でもやっぱり探したら探したでその所属を考えなくちゃいけないし今とは全然違うんですね。
作戦から始まって場合によっては他の飛行機を援助してもらって爆弾を持って行っては落とすというような。
ヨカ連勢というのは実際に実戦をするわけじゃないわけですよね。
ヨカ連はですね、まず精神的それから体力、目的を達成できるような精神力を鍛えるところですよね。
そこから実際にその特攻隊に入隊されるわけですよね。
その戦争の内容によるわけですね。
中村さんはそのヨカ連に入った後にいわゆる例えば茨城のところの関連、特攻隊で筑波隊とか大和隊とかいろいろあったっていうのをちょっと書いてあるんですけど本いろいろ読んだら。
筑波隊っていうのは筑波の航空隊はあったけども。
また別なんですかね。その特攻隊の名前がなんか筑波隊とか大和隊とかがあるっていう。
大和隊というのはもう部隊は独立できるけども、大和隊って言ったらまた内容が違うんですよね。
中村さんはどこに属してたんですか。
それが私は教官を長くあちこちでやっておりましたけど。
初級の学校を卒業してから飛行機の種類によって環状爆撃機、環状攻撃機、それから水蒸気や水蒸気、それから大型機は大型機あるわけですよ。
その中の一番初めに教官だったのは艦爆隊、環状爆撃機というのはうさにあったんです。うさでやりましたね。
ちょっと整理させていただきたいんですけど、中村さんその四日連勢にまずなりました。その後はどうされたんですか。
その四日連勢の生活っていうのは1年半だけだったのか、その後も続いたのか、その後も教官になられたのか。
どういう流れなんでしょう、終戦までの流れ。
飛行機の部隊がありますね、戦闘機、戦闘機は筑波の方、それから飛行機の種類が違う。
九六式環状戦闘機から始まるわけですね。それから環状攻撃機、攻撃機は攻撃機で他の部隊に行っておったんです。
それから飛行艇は飛行艇、種類が違う。それもやっぱりだんだん大きくなったり、時間を長く飛ぶようにしたり。
私は環状爆撃機、間爆。昔はお前はどこの機種に行きたいかということになったら、まず戦闘機ですよね。
自分の腕を破棄するため。戦闘機に行けなかったらしょうがないな、航空母艦に行きたいとか。航空母艦に行ったらまた攻撃機とかあります。
中村さんは環状爆撃機。その環状爆撃機のところには志願したんじゃなくて任命されたんですか、そこに行きなさいと。
それまではいろんな訓練をやって、そこで教官がこれは何に向けた、何が言いとるというようなことを決めるわけです。卒業までに。
それで卒業までに、中村さんは環状爆撃機に行けって言われたってことですか。
環状爆撃機で行きました。その中でも教官をやれということで。種類がいろいろありますからね。
吹き流し200mの長さのロープの先に吹き流しをつけて、8mくらいの吹き流しをつけて、それを向かって飛んでいきますね。そしたら引っ張って行くわけですから、後方から降りて射撃をする。
そういうことから始まりました。
卒業されて、四日連勢を卒業されて環状爆撃機の隊員の教官になったってことなんですか。
そうです。
隊員になったというより教える側にもなるんですね、卒業したら。
そうです。その指名によってはね。
その教官になったのが何年のことですか。
半年後ですからね。
もう半年で卒業なんですね。
そうです。だいたい4ヶ月ですよ。徹底的に訓練をやる。
四日連自体、さっき授業みたいなものを受けて1年半っておっしゃってたじゃないですか。
そうです。
その1年半の中で4ヶ月ぐらいでいわゆる訓練が終わって、その後に教官になったってことですか。1年半の授業が終わった後に教官になったってことですか。
部隊が変わったということですね。
だから飛行機の実施部隊が戦闘機の部隊とかヤタベとかいろいろありますからね。
水上機、飛行艇は飛行艇、場所は変わるんです。
そこで訓練をやって一人前になったならば、その次が今私が申し上げた環状爆撃は爆撃としての
射撃、それを吹き流しを使って初めは訓練をやりましたよ。
なるほど。その官僚爆撃機の訓練をやって、その後はどんな感じだったんでしょうか。
その飛行機は救助式環状爆撃、副用の飛行機がありましたけど、それを訓練をやって、その次は救急式環状爆撃というのをガッチリした。
一枚の主翼で爆撃をやった、それから訓練もやったということですね。
ということは射撃の訓練、それから爆弾を落とす訓練というのを主体的に、その間には編隊、3機が主体で、5機、6機、もう一つ合わせて9機というような飛び方を、まあ訓練として。
しかし爆撃の訓練は高度2000mから、それが追い風で行ったらだんだん深くなるんですね、降下の角度が。そういうのが主体として訓練する。
場合によっては海の上に浮き袋を置かせておいて、それを狙って、どの風の時にはどっちから行ったほうが、あんまり深くなりすぎてもこれができないんです。そういう訓練をやって。
今、その余火練とか訓練の話があったと思うんですけど、実際中村さん、特攻隊にも入隊されてるんですよね。
特攻隊はね、行った。行ったけれども、夜中の12時5分にそういう成立があって、そこで私は一番前におったけれども、乗るのはパイロット、偵察。
もう一つの余裕があれば、通信士。3人で組んどったわけです。ところがその時、一番前に成立しておったら、その時にぶっ倒れてしまう。だから他の2人もそのまま病院についてきてくれました。
行かなくて済んだってことですね、特攻に。実際特攻には当然行かれてないから、今生きてらっしゃると思うんですけど、ただその特攻特別攻撃隊には志願されてるってことですよね。
いや、志願というよりも命令ですよ、当時は。
それをちょうど伺いたかった。
どこの部隊をいつどこに出せと。上から命令ですね。
それはいつ命令されました、昭和何年のことですか。
一番最後ですから20年の4月ですね。
その時は命令される直前までは中村さんは。
客立派で教官。
教官をされてて、具体的にその4月の時に覚えてる範囲でいいんですけど、どういうふうに命令来たんですか。
いや、部隊として出撃するように。だから私の部隊でも結構ここに亡くなったのもおります。
その部隊名があるんですか、隊の名前。
ありましたけども、もう客立航空隊ということで。
客立航空隊。
そうです。
客立は100-2ですか。
そうです。
その客立航空隊の教官をしてて、客立航空隊。
そんなになったら教官も何もないですよね。
教官も何もないにしても客立航空隊出撃せよの時に記憶の限りで同じ隊員はどのくらいいました。
ここにあるんです。
名簿があるんですね、リストが。
だいぶ亡くなったんですよ。
だから他の人も、私が入院したおかげで、他の人も生き延びた。
出撃命令が出た時の中村さんの、いわゆる肩書き、章位とか何かいろいろあるじゃないですか、任秘僧とか、それは何だったんですか。
海峡は菓子館の一番上、城頭。
城頭っていう肩書きなんですね。
城頭兵装。
城頭兵装。
実際その僕ら普通に特攻隊を知らない人間が、例えば本を読んだり、ちょっとインターネットで調べたりすると、あくまで特攻隊は志願だったと。
手を挙げてやりたい人って言ってたけど、でも実際は志願性と言ってるけど、強制だったんじゃないかと。
そうですよ。
その辺がやっぱり情報が錯綜してたので、なので中村さんにまさに本当に経験されているので、もう手を挙げなさいっていうんじゃなくて、もう本当に命令だったんですか。
そうです。みんな次はどこの部隊、どこの部隊と決まってくる。
じゃあもう選択の余地はなかったってことですね。
そうです。
行きたくないとか、行きたいとかっていう選択もできなかった。
そんなことは言えない。
言えないってことは、一応形としては行く者いるかみたいな感じの質問が来たんですか。
そんなのは、鉄砲で撃たれるよ。
具体的にはさっきおっしゃってた百里隊でしたっけ。上の方から出撃せよ、特別攻撃隊として出撃せよっていう指令があって、有無を言わさない感じだったってことですか。
そうです。
その時ってもう終戦の年じゃないですか。昭和20年4月ってことは。終戦の4ヶ月前じゃないですか。
教育部隊だから最後の最後ですよね。
そうですよね。指令が来る前っていうのは、特に昭和20年に入ってからは、もう中村さんの中で戦争これ負けるんじゃないかとか、実際のそういう選挙に関しては何か情報とかって入ってたんですか。
それかギリギリまでそういう情報は一切入らずに勝つもんだと思ってたのか。
それはもういろんな情報でですね、あそこの部隊もやられた、ここの部隊もやられたっていうことですからね。情報が入りますよ。
そうするとその時の気持ちはどうでした。最初に横田園入った時は意気揚々としてたわけじゃないですか。でも実際もうあそこも負けた、ここも負けたっていう事態になってくると、やっぱり自分たちの命もどうなんだろうとか、国は大丈夫なんだろうとか、何を考えてらっしゃったんですか。
それはもう負けられない、負けないで頑張れというだけのことですよ。その当時の心理状態は。
それはもうそれ以上でもそれ以下でもなくて、本当はそういうふうに自分を奮い立たせてるけど、やっぱり当然死への恐怖があったのかとか、それすらも感覚が麻痺しても。
そうですよ。幕府には国民がおるんだから、国を代表してやるぞっていうことですよ。
そういう意味では速攻隊のその出撃の指令が来た時もすごい怖かったとか、頭が真っ白になったとかっていう、あんまり変わらなかったんですか。
いや、それは変わらないですね。
変わらない。
やる気で言っとるから。
命の覚悟というか、こういうのは党の昔にもしてるから、あんまりその指令が来ても、それで急に怖気づくとか全然なかったってことですか。
ありませんね。
それは中村さん以外の周りの人たちも同じ感じでしたか。
そうです。今の人とは。
その当時がだからもう22歳とかですよね。
それもみんなを守るためにという気持ちが大勢だったから。
出撃命令が来ました。そうすると怖いというよりも、もう国のためにやってやるぞっていう気持ちだと思うんですけど、
そのさっきのパイロット偵察通信のその3人一組で出撃する前日にぶっ倒れてっておっしゃってましたけど、
その出撃の命令があるじゃないですか。命令からその出撃の前日までというのは何日間あったんですか。
いや、一晩だけでしょ。
もう一日だけ。明日行けっていう感じ。
いや、出撃命令は12時5分にあったわけです。
日にちも覚えてます?
いや、書いてある。
4月の、もし覚えてたら。
10日経ってから部隊にまた100人の部隊に帰ったんですよ。
はいはいはい。
ここにどっか書いてある。
20年…これが時間。
4月3日。
3日。
4月3日の12時5分っていうのはお昼の12時5分ですね。
夜です。
夜。夜中の12時5分に指令が下るんですか。
そうです。昼間だったら向こうの敵にやられるわけじゃないです。
ああ、そうか。その12時5分、夜中に指令が下って、もうすぐ行けってことですか。
そうです。
じゃあ前日とかに、お前たち明日行けとかそういうことじゃなくて。
だからその時間を与えて、みんな書くものを書くわけです。
そうですよね。
で、私が加藤敬一っていうのは、マフラー持たないって言うから、
じゃあ俺のマフラー、女の人からもらったのがあったから。
中村さんが。
うん。それを持って行けって。
はい。
あげたのを覚えてるね。
あ、それは出撃する。
いや、一緒に出て行ったけど。
あ、その3人のね。他の一緒の。
12時5分に出撃命令が下って、書くものを書くっていうのは手紙を書く。
その前に書く時間を。
12時05分には出撃しろっていう時間なんですね。
そうです。
じゃあその前に出撃しなさいっていう命令もあるわけじゃないですか。
4月3日の12時05分に出撃しなさいっていうのを何日か前に言われてるわけですか。
いやいや。
いつ言われてるんですか。
いや、その時ですよ。
1時間前とかに当然言われてるとか、2時間前に言われてるとか。
あ、明日。
あ、よかった。それが知りたかった。
前日に言われてるわけですね。
そうですよ。
4月2日に言われてるってことですね。
そうですね。12時5分には出発だから。
それは本当に細かい話ですけど、12時5分の12時間ぐらい前に言われてたのか、もう3時間ぐらい前に言われてるのか。
いや、その前。だから心の準備はできて、駆け抜けをしておるわけです。
それはもう12時5分の1時間ぐらい前に知らされたんですか。どのくらい前ですか。
明日ということで言われて、その明日の命令が12時5分だった、ということです。当時の命令は。
だから私たちは前の日に燃料を積んで、それから鹿児島まで飛んで行って、燃料をまた積んで、ということです。
前の日に行ったってことは、何日か前にそこに行くように集合がかかってるってことですか。
そうです。
ということは、その集合がかかった何日か前の時は、そこで初めてそういうふうに集合がかかったって知ったわけですよね、中村さんは。
出撃するということですね。
という命令は下ったわけですよね。
命令というよりも時刻じゃないんです。だからどこのどこのに集合せろということで、集合時刻。
その時に、さっきの手紙、書き置きという。それは中村さんは誰に対して書いたんですか。
これ。
さっきのマフラーの彼女。
彼女。
それは奥様ではないんですね。
奥様いなかった。
その後その方が奥様になったというわけではない。また別なんですね。
違う。全然。
その時に、例えば差し支えない範囲でいいんですけど、どういうことをお手紙に書かれたんですか。
徹底的に精神的教育を受けてやる。
そうすると精神的な教育もあると思うんですけどとはいえいざ特攻隊に行くという風になったらさらにもう一個別の明らかに死の階段が近づくって思っちゃうんですけどあんまり変わらなかった。
変わらんですね。おそらく陸軍も海軍もみんな一緒だったと思いますよ。
その時にやっぱり上層部とかが隊員の恐怖心を和らげるために覚醒剤ヒロポンとかそういうのを結構隊員が使ってたんじゃないかっていう風にいろんなところで見るんですけど実際そういうのは特になかったんですか?
私はそんな感じなかったね。
周りも使ってない?なんかそれが支給されたみたいな話もあったりもしますけど少なくとも中村さんの隊員にはそういうのはなかった?
国家のお国のために。歌の文句じゃないけど。
その出撃する直前の最後の食事、最後の晩餐、結果的にね、生存されたのであれですけど最後の食事って何だったか覚えてます?
何かわからんけどもう味噌汁ですよね。ご飯と。
なんか出撃される隊員には特別なそういう振る舞いがあったみたいなものも本とかだと書いてあるんですけど実際そんな変わらなかったですか?普段と。
場所によってはそういうのもあったと思いますよ。
中村さんの場所は?
そんなの余裕がなかった。
ひょっとしたらちょっと特別なもの出たかもしれないけどその記憶もあんまりない?
ないですね。私たちが成立した学校も臨時に飛行機が離陸着陸ができるだけのことだった。
もう飛び上がったらおしまいだと意識した。
そうですよね。さっきのそのもともと教える方の教官とかの人たちだから最後の最後ってところですね。
その3人一組の中で中村さんはそうするとパイロット偵察通信?それのパイロットですか?
どうパイロット?
やっぱりパイロットですよね。
ずっとパイロット。
それまでは実戦経験っていうのはそういう意味ではなかったわけですか?
ない。
ですよね。でもそうか。もう不安とかないってことですね。麻痺してたわけですね。
不安というか、それはアメリカの飛行機が飛行場に来た時に自分の方から機関銃を撃ったからね。射撃をしたから。
それはいつですか?それは特攻隊の前ですよね?
そうそう。もうその頃は私が出撃する頃にはあっちの飛行場こっちの飛行場ってもう敵機が来たからね。東京に爆弾を落とした。当たらなかったんだろうなぁと思ってるだけで。
じゃあそういう意味ではそれ実戦ですよね。実際。
そうなの。向こうも来るしね。こっちもそれに向かって撃つ。
4月の3日か12時05分に集合と。その集合しなさいって言われた場所は鹿児島?
鹿児島の、今は飛行場が高いところに鹿児島あるけども、あれの下んだんの小学校。
そこに行く前に、行ってないですよね?そこには。結果的に倒れちゃった。そこまで行ってから倒れたんですか?
その鹿児島に集合する前はこっちの土浦の方にいたんですか?
その小学校。
もうそこまで行ったんですね?
行ったん。
行って、じゃあいざっていう時にぶっ倒れちゃった。
本当にもうその飛ぶ直前に倒れたんですか?
そうなの。飛び上がるね。
それは倒れたっていうのは、本当に失神しちゃったのか、もう意識はあるけどフラフラっとはもう倒れちゃったのかどういう感じでした?
意識がなくなった。
そうなんですか。
そう。
特度の緊張とかだったんですかね?原因は分かるんですか?
分かったんですか?
分からない。
今も分からない?
生き残ったんだから、不思議だなということじゃないですか。
失神。
もう本当に直前。
整列しておる時。
そうですよね。整列はこれからっていうところで失神したと。
出撃せよという時にぶっ倒れちゃった。本当不思議なの。
失神なかったら文字通り出撃してますよね。
他の2人もどうなったか分からない。他の飛行機でまた行ったかも分からない。
そしてもう目が覚めたら翌日?
2、3日経ったと思うけど。
その後は元気は元気だったんですか?
それがね、1週間経ってから、ひとよしから、昔は婦人会っていうのがあって、岩に来た。
夜中に送って出された横田に行くときに、その者が異聞に来たのに、
あ、ひとよし失神ですよって言うわけにはいかないでしょ。嫌だから隠れてた。そういうこともある。
その失神して目を覚ました時、最初に何を思いました?
そもそも事態が理解できたのか?ひょっとしたら自分は特攻隊で出撃して、これは死んじゃった後なのかって思ったのか?
いやいや俺は倒れてみたいな、すぐ分かったんですか?事態を理解できました?
病気だったからね。
病気。
だからそれは素直に。で、次のチャンスにまた行けと。もうその時に言われたから。
次の機会に行きなさいと。
一応部隊に100人まで帰って、それからまた次の機会に行くんだよ。確かに次の飛行機も準備した。
あ、そうなんですね。でも結果的に行かなかったから、もちろん今ここに中村さんいらっしゃると思うんですけど、
そうそう。
次の機会が訪れなかったっていうのは訪れる前に戦争が終わったってことですか?
あったよ、まだ。
機会があった?
横須賀。横須賀の部隊に転勤した。
何月のことですか?
1ヶ月ぐらい。
5月とかぐらい?
そうそう。
横須賀行ってまた出撃を待つ感じですか?
そう。それは今の新しい飛行機、7249のキッカという飛行機。
キッカ。
この飛行機のために待っとった。だけども今度は飛行機ができなかった。
完成しなかった?
なかなか。
それはもう終戦直前で疲弊して作れなかったってことですね。
分からんな。部隊の方だけは焦っておったけども、現場の方はなかなかテスト側はうまくいかなかった。
7249の部隊というのは怪しげな部隊です。
見せていただいてもいいですか?
どうぞ。
これが結局このキッカが出来上がらず、横須賀で待機したままそのまま終戦ですか?
いや、そのまま日立が立つから。
立ちますよね。
で、現隊に帰ると。現隊というのが、この7249航空隊が三沢の一角にあった。
三沢。
飛行場。で、こっちでしばらく待っておった。そしたら終戦だった。
なるほど。三沢。で、待ってる時は、いわゆる具体的なこの横須賀の時みたいにこのキッカを作ってて、いつか飛び立つ準備みたいな具体的なものは見えてなかったってことですね。
出来たらということで、その部隊の巡洋は確保はできたんですけども、
実際は完成はしなかった。
飛行機は救急式環状爆撃機を使って訓練はやっておりました。
訓練っていうのは、これ特攻機ですよね。特攻隊で実際使うための飛行機のそのキッカ自体は完成してないんですけど、訓練機はあったってことですね。
もう救急環状爆撃機という環状爆撃機。それを使って磁力、それから効果の訓練。
それは一人乗りだったんですか。それも三人乗りなんですか。
一人。パイロットは一人。それから後ろは偵察員。
そういう意味ではまた三人乗れるやつなんですね。
そうです。
それが基本なんですね。
そうです。だからそれで訓練をやって回っておりました。
最初の特攻の直前で失神されて、その後また待機する。いつ飛ぶかわかんない。
僕らからすると極度な緊張状態にずっといると思うんです。数ヶ月。どう考えても普通じゃないですよね。今から考えたら。
やっぱり当時の中村さんからすると、さっきの話に戻りますけど、もう叩き込まれてるから、緊張はしてたのかもしれないけど、自分が恐れて緊張してる。普通じゃないっていう感覚はもうないわけですね。
そうですよ。みんなそうですよ。今でもあの時はこうだったかなーっていうのを反対する人がおったとしたら、えーそれはおかしいよ。
昔の人はお国のためだから。
ひょっとしたら中には本当はちょっと反対してたり、気が済まなかったりいたかもしれないけど、
でも当然すごい少数派だし、少なくとも中村さんはそういう気持ちもなかったってことですか?
そうなかったし。もうそのように徹底して飛行機の操作も攻撃精神もちゃんと指導しておったから。
なんかそんな中で戦争中ですけど、日々のその楽しみとかなんかちょっと関心事とかってなんかありました?
例えばサンドの食事だけが楽しみだったとか、なんかもう楽しみっていう概念すらなかったのか、意外とこの時間はちょっと好きだったとか、息抜きでも楽しみでも何でもいいんですけど。
何もないなー。その当時はいかに向こうの飛行機は機関に追って飛行機が飛んできたならば、そんなことで死んだらいけないということ。
だから影に隠れるとか、だから大きな木の影に隠れるとか、そういうのはやったけども、今考えてもそんな余裕なかった。
そういう意味では迷ったり悩むとかってことはあまりなかったってことですかね、ある意味。
ないですね。みんなが死ぬんだったら、自分たちがちゃんとお国のために。
私たちが入隊した当時からの精神教育で言ったら、そんな余裕なかった、考えが。今の人は不思議ではならんかも。わからんけど。
理屈としては分かるんですけど、本当にそういうふうに。今の選手と一緒ですよ。
そうですよね、アスリート。
不思議でならんだら。
じゃあ、そういう意味では何て言うんでしょう。ヨカレンに入って、終戦までだいたい4年ぐらいあったと思うんですけど、どうです?
そういう意味ではあっという間って感じでした?無心であんまりもう長かったなとか、早く終わらないかなとか、怖いとかっていう感じじゃなくて、あっという間に過ぎ去った4年って感じですかね。
そうそう。そんなわくべも振らず、自分の一生懸命やるだけでやったから、ということですよ。
多分みんな一緒じゃないかと思うんだけどな、当時の人は。
百里。百里の田んぼ。
何県になりますか、それは。
茨城県。
あの時は農家の人たちも大変だった。
その時はさすがにちょっと怖かったですよね。
ごめんなさい、疑問ですけどさすがに。
爆弾がいつバーンといくかわからない。
その時はもう覚悟というか。
そう。だからね、私は幅跳びとか高跳びでも左足だったから。
もう左足で踏ん張ってね、俺らの記録を。
で、客がこれだから。救急看板。ということで。
あれで生き延びた。
その時も中村さんは諦めなかった感じがしますよね。
諦められないよ。
場所によっては記事が残ってるんじゃないかと思うんだけどなかなか出なかった。
だから自衛隊になってからでも私がその話したら初めて聞いたというのだけど。
伝説ですよね、それは。
それが2つ目。もう1個あるってことですね、命拾いしたのが。
もう1個は脚裏腹に、終戦前になったら敵がよく入ってくるから。
で、ゼロ戦を3機よこしたわけ。
これで訓練やって、なんと東京の防衛も間に合うように訓練をやる。
で、その訓練をやって、その訓練をやる時に肉は連れていかないわけ。
1機を連れて行って編隊の訓練を平らにやって、その次は斜めに動いて宙返りをやる。
宙返りと言ったら、上がる時に皮をガーッと剥けないといけないと言うと、
それをやったところで、デッキの方が教えたのが教えたとおりやらないから。
ここを切って、もうパワーがなくなってしまって。
上がる途中でパワーがなくなって、落ちちゃった?
落ちちゃった。それで、私がここまで来ているのに、ここで落ちてきたから、命拾う。
バーッと返って、主翼と尾翼の間、向こうが翼、主翼が。
だから下で双眼鏡で見ていたのが、みんな、やったーって。
ぶつかるとみんな思いますよね。
そうなの。だから簡単に、俺についてこいと言うわけにいかないわけや。
ここでパワーを入れるんだよって教えたのに、ここで早めに入れてくるもんだから、
もうここではこのまま落ちてくるわけ。そういうこと。
それはその訓練でゼロ戦を乗っているんですか、実際。
そうそう。
中村さんが、ゼロ戦を。
そういう一番機で行って、後をついてこいと。
私はもうこっちまで行っているのに、向こうもここでパワーを入れないといけないのにね、
早めに入れてくるもんだから、ここはもうないわけよ。
そういうこともあったなと。
ゼロ戦ってね、終戦時はもう米軍の方のB-29とかでしたっけ、に比べたら劣るっていうふうに僕も聞いたんですけど、
出てきた、本当に最初の時はゼロ戦ってすごい世界一みたいに出たわけじゃないですか。
実際どうでした、操縦して。
良かったよ。
明らかに違うんですか、やっぱり。他の飛行機よりも。
それは初めてできたからね。だから1型、2型、3型があるんで、タイプは同じよ。
そういう命拾いはあったということです。
さっきの特攻隊のちょっと戻るんですけども、
特攻隊で飛ばずに結局命拾いされたわけじゃないですか。
その3人組は、中村さん含めの3人組は助かりましたけど、
当然そこに並んでた他の隊は行ってるんですよね。
そうよ。
みんな亡くなってるわけですよね。
全部じゃない。
その生き残った人は飛ばなかったってことですか、それか。
飛んで途中でやられたのが、もうおらんだろうけど、
鹿児島の端っこにおったのが、中央島で私が失踪したから、
中央島でわざわざ訪ねて、時はありがとうございました。
飛んで撃墜されたけど助かったって人がいるってことなんですね。
そうなんです。
すごいですね、その方も。
そんなのもおるんだよ。
燃料タンクやられたらおしまい。
そうですよね。
非常にお聞きしづらいんですけど、
やっぱり特攻隊に行ってもお国のために捧げるつもりでみんな飛んでて、
亡くなった方もたくさんいるわけじゃないですか。
その時に、これはそういう風に言ってる方も実際いたんで、
中村さんがどう思うかわからないですけど、やっぱり生き残られたわけじゃないですか。
私に?
やっぱり他の仲間が特攻隊で行ってしまった中で、
自分は助かった中で、逆にちょっとそういう罪悪感じゃないですけど、
みんな行ってしまったのに自分は残ってしまったみたいな、
そういうことに悩まれたこととかってありました?
いいよ、また行くよという気持ちがあった。
だから、やることをやって、残ったんだから。
でも、今度そのチャンスがあったらまた行くよという気持ちは全然変わってない。
逆にブレなかったってことですね。
そうです。
そして実際、その後さっきもお話があったように、
この喫茶のもあって、その後も三沢か。
で、終戦ってありましたけど、
そのいわゆる終戦、8月15日、僕らの玉音放送、天皇陛下の、
そこでみんなひれ伏したり泣いてる姿しか知らないんですけど、
中村さんの8月15日は、今パッと終戦の日を思い浮かぶとどんな感じでした?
いわゆる玉音放送を聞いてるのか?
聞きました。
聞きました?どういう状況でした?
ラジオで何か天皇陛下からあるらしいぞみたいな、
どういう感じだったか覚えてる範囲で再現していただきたいんですけど。
いや、やっぱりダメだったか。
私の場合は、その時に救急式間幕というのを、
まだ部隊の長はただいま怪しげな放送があったということだったんですよ。
まだ信じてなかった?
そうそう。だから、今から逆に、
それは三沢だからね。
この7、2、4、5から3人のパイロットが行って、
3機の飛行機を百里からもらってこいということで、
3機取りに行ったんですよ。
そしたらその時の私よりも、
米学校に出たばっかりで生計もない人が来たわけ。
そして電車に乗って出ようとしたら、
陸軍の水戸の部隊が救助を守るためにということで、
4車ぐらい貸し切りやって、だから動かんしね。
その時に、その人が3機の長だから、
陸軍の部隊が乗っておって、なかなか動かん。
動いても次の石岡という駅で止めてもらわなくちゃいかんから。
それを相談してくれって言った。
で、向こうはマントを着て、そうして祝ってたけど、
そしたら、いや、私は行かん。
行くから。いや、そんなこと困るなんじゃないですか。
で、私は行って、
実はこうして終戦になったという。
聞かんことはなかったけども、信じてないから。
こういうわけで、飛行機を3機取りに3人で行くようにしてある。
だから、石岡の駅で降ろしてほしい。
そしたら、うん。納得して。
で、行って、石岡で止めてもらったわざわざ。
電車4車、部隊が乗っとったけど。
ということで、電話してトラック来てもらって、
それから飛行機を利用しよう。
その日は土曜日だった。
そしたら、なんと、町の彼女が面会に来た。
で、夜はどうなったかわからんけども、明るい日になって、
整備員がね、あの地区から手の高い、いらんのって言った。
私と同年兵。
で、石岡の町から来たの。
で、それが、整備員がやってくれたから。
よし、その向こう、町の外れの方だ。
よし、乗れって言って、乗っけて。
で、行って、ぐるぐる回って、
あと、あの家だなって、上から確認して。
で、三階屋、アクリルが燃料をいっぱい積んで。
そしたら、後ろ、私の後ろに整備員が乗っとるんだ。
もう三沢の方に帰るの。
一番機に乗るんじゃないかって。
いやいやいや、何も言わんかった。
で、以前はね、一番機、二番機、三番機と、あったわ。
今は逆よ。
だから、私はその前に、逆から松島の方の大切境界で、
爆弾が進んで、回ったりしとったから。
10時から11時くらいになったら、海水が動く。
そしたら渦巻いて霧が出る。
だから、霧が出たら雲になるから。
そういうのをずいぶん何回も体験しとるから。
だから、もう、そこに寄ったら雲が出るかもわからん。
そしたら、その時には私が一番機で行って、
で、途中で交代するよ。
今と違って、マイクじゃないからね。
だから、そこまで行ったんだけど。
そしたら、上に上がって松島まで行ったら、案の定雲が来る。
霧が。
いや、これはいけんな。
というわけで、私がその前に出て、
雲があるから、俺が一番で行くから、ということで出たら、
向こうがワーッと出てきて。
で、そのうちに雲の中に入ってしまう。
で、私はもうその当時は軽機飛行を訓練をやっていたからね。
だから、ジャーッとこうやりながら、雲から出て。
そしたら、しばらくしたら見えない。
相手の2機が。
あら、どうしたかな。大丈夫かな。
いや、後戻りしたかもわからんから。
松島の飛行場の上まで後戻りして、確認した。
おらない。
いや、おかしいなーって。
で、また全速でしばらく飛んで、そしたら前にもおらん。
なんかもうやってるわけいかんから。よし、帰ろう。
で、帰りに今と違って、以前はメーターだった。
100メーター単位、高さ。
ということで、私は100メーターでちゃんと海岸を飛んでるのに、
整備員が、航道がゼロです、ゼロですって後ろから大きい声で言ったけどね、
大丈夫だって、ちゃんと見ながら飛んでるから。
そして、最後だから、と思って三沢に帰る。
で、三沢の上でも、もし前の飛行機が飛んで落ちてなければ大変だというわけで、
私が勝手にやるわけ。
1回、2回回って、で、やっぱりおらんなということで着陸。
だから、そういうこともあったし。
戦時中の話にちょっと戻っちゃいますけど、戦後の若い世代が、
例えばNHKだったり、いろんな新聞を読んで、戦争中はこうだったとか、
いろんな特攻隊のことを一つとってもあるじゃないですか。
中村さんが戦後の報道を見てきて、戦時中の。
これ言われてることは明らかに違うんじゃないかな、みたいに思うことはありますか?
例えば特攻隊は、一応僕が調べた限りは、公式記録は志願制。
志願制だけど、実際はさっきほぼ強制というか命令だから、
志願だったら自分で手を挙げて特攻に行きたいっていう話じゃないですか。
つまり命令じゃなくて。
でも実際はほぼ強制の志願だったっていう、どっちかわからない。
いろんな報道があるわけですよね。
中村さんにさっき伺うと、実際はもう選択の余地はなかったって話あるじゃないですか。
それはそうね。
その特攻隊のことはさっき伺ったんですけど、それ以外のことでもいいんですけど、
実際この戦後のいろんな報道で、戦時中の様子を見てるときに、
中村さんが、いやなんかそういうふうに言われてるけど、実際違ってたよみたいなことって何かありますか?
どんなことでもいいんですけど。
いや、全然感じない。
基本的には正しい?報道されてることは正しい?
正しいよ。
いや、こういう、たまたまこの間から出てきた本。
何ですか、見せて頂けますか。
歌。
歌、すごいですね。
命惜しまぬよ、可憐の息の翼、勝利の翼。見事撃沈した敵艦を母へ写真で送りたい。
どうだろう。そういう教育を受けたって。
だから普段からこうだから、
どこに行くことが嫌だっていうのはおらん。勝った。
むしろ誇りに思っていくことですよね。
そういう意味では、そこで終戦を迎えるじゃないですか。
いわゆるそういう叩き込まれているものが、大かれ少なかれ、遅かれ早かれ、
みんな溶けていくわけじゃないですか。日常の生活に。
中村さんの中では、どこで、8月15日とは別に、
中村さんは心の中で、戦争に行っている中村勝が終わって、
普通の中村勝に終わったっていうのは、どこで終わったんでしょうね。戻ったというか。
僕に感じなかった。自分に戻らなくちゃいかんということで。
命の危険を感じなくていいんだとか、お国のために戦わなくていいんだっていう、
安心感とかみたいなのあったんですか。
だから今度は生活。
そうですよね、今度は。
生活の問題。
現実のところが来たわけですよね。
今まで、さっきの話を振り返っても、少なくとも3回か4回お話を伺っただけでも、
旧死に一生を得てるわけじゃないですか。
どうよ。
それがさっきおっしゃったように、奇跡とか因縁とか、運命っていえばそれまでだと思うんですけど、
でもやっぱりその境目で全部生き延びてこられたわけじゃないですか。
なかなかこれちょっと質問としては難しいかもしれないですけど、
でも改めなぜ生き残れたと思います?
そこで同じ状況で亡くなっている方もたくさんいるわけじゃないですか。
分からんな。
その時は一生懸命、必死になって頑張ったということ以外は考えられない。
でもさっきの不時着するのも諦めてないわけですもんね、最後まで。
そりゃそうよ。
諦めたら絶対もうそれ終わってましたよね。
そりゃそうよ。
実際戻ってこられて、さっき彼女の話なんかもありましたけど、
ご両親はその時もお元気だったんですか?終戦の時。
いや、親父は私が八日連に行って、1年半経った時に亡くなった。
それは出兵されてってことですか?
そうそう、八日連。八日連に行って。
お父様も。ご兄弟は?
兄は陸軍。
お兄様は戻られたんですか?
帰った。帰ったけども、朝飯食ってる時に。
夕べ、なんか親父が眠れ眠るしって言って、苦しんで夢見たんだよなって。
え?朝ご飯の箸をパッと置いて、実はお墓の古いのを重ねて建てたんだって。
え?って言って。
その時の私が帰った後、先に帰ったから。で、建てたもんだよ。
びっくりして、古い墓をまた元の古いところに置いてきた。そういうこともあったしね。
100年生きてこられたって、1世紀生きてこられたって、本当にすごい。
としかもう感覚させていただいてるんですけど、やっぱり改めて今回こういう機会をいただいて、僕としてはすごくありがたいんですけど、
当然心の中だけで止めていただいたりとか、親しい方とお話しするだけの方もいらっしゃるわけじゃないですか。
あと実際親しい人にも話さないまま人生を終えられる方もいるわけじゃないですか。
そういう意味では中村さん、なぜ今回、もちろんご紹介者の方がお話、こうやって取材を受けたらっていう話があったのかもしれないですけど、
でも最後はご自身でいいよって選択されてるわけじゃないですか。
なぜやっぱりこうやって話してくださるっていうお気持ちになったんでしょうかね。
今までね、実は海上自衛隊のOB会の方も私はずっとやってきてたわけ。
去年の暮れからあんまり一人でバタバタしたらぶっ倒れたりしたら長男がおるのにいけんからと。
皆さん心配しますよね。
思っておる。だからね、OB会の方もだいぶ遠慮しておる。
そうなんですね。その中でこうやって音声と映像を撮らせていただいてますけど、これやっぱり本当に今後何十年何百年ってね、残る貴重なお話だと思うんですよ。
あったらいいよ。
いやいや残りますよ、本当に。
本当にもう改めてですけど、やっぱり何でしょうね。これ見てる方、聞いてる方。
僕今43歳ですけど、僕も子供を見ますし、これから生まれてくる、まだ生まれてない人も見て聞くと思うんですけど、やっぱりそういう人に対して率直に仲間さんが伝えたいこととか、やっぱり戦争経験されて100年生きてこられて伝えたいこととかってありますか?
無理やりってことは全然ないんですけど、ただ僕がずっとやってきてる、今まで10年間で30人ぐらいの戦争体験者の方にお話を伺ってるんですよ。
で、やっぱりね、特攻隊の方もいらっしゃいましたし、普通に戦争は行ってないけど、例えば普通に死負をやられてて、戦争体験した方、いろんな方いるんですよ。
よくあれNHKの戦争のプロジェクトとかそういうのだと、やっぱり特攻隊行った方とか、原爆を受けた方とか、そういう方の取材が多いんですけど、今回は本当にありがたいことにもちろん仲間さんにお話を伺えたんですけど、
僕がこのプロジェクトずっと続けてる意味っていうのは、やっぱり戦争のその時代を生きていた人の、それは特攻隊行った仲間さんのような方もいればそうじゃない方、全てのその時代生きてた方の、その時何を思っていたかっていうのを歪めることなく僕は残したいんですね。
で、人によっては、僕実際こういう方いたんですけど、僕のイメージだと当時戦争を経験した方ってみんなもう毎日死の危険と隣り合わせだったんじゃないかって勝手に思ってたんですけど、実際話を聞くと例えばすごい裕福な方で、お医者さんで疎開してて、特に命の危険なかったっていう方もいたんですね。
その一方でもちろんもう、中村さん死と隣り合わせだったと思うんですけど、今回インタビューさせていただいた中で、今中村さんとしても当然過去のこともですけど、今の日本を見ててとか世界を見ててとか、そんな大きなことじゃなくても、やっぱり思うこととか、あと若い人とか、こういう感じで今いいんだろうかとか、いろいろ長く生きてらっしゃるので、先に生まれてる文字通り先生なので、
何か僕たち世代、これからの世代がよりよく生きるためのアドバイスでもいいんですけど、一言いただけるとありがたいなっていうところ、どんなことでも本当に構わないんですけど。
アドバイスっていうのは、そこまでは人間の意気込みというのは、やっぱり自分で自分の希望は守るようにしなくちゃいかないということではないです。
それは個人としても国としても、自分たちでちゃんと。