1. 【体験者の証言】戦争の記憶(Memories of War)
  2. 【記憶6】中元迪香さん/Memori..
2013-12-17 47:48

【記憶6】中元迪香さん/Memories6_Michika Nakamoto

【記憶6】中元迪香さん/Memories6_Michika Nakamoto


00:00
こんにちは、早川洋平です。戦争の記憶、今日は中元迪香さん、呉にお住まいの中元迪香さんにお話を伺います。
中元迪香さんは、1926年9月25日生まれ、87歳でいらっしゃいます。
中元さん、今日はお話を聞かせてください。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
早速なんですけども、第二次大戦、1945年終戦の時、その前後を少しいろいろお話を伺いたいんですけども、
1945年、昭和20年ですね。その時っていうのは、中元さん、どこで何をしていらっしゃいましたか?
あのね、私、学校を卒業して、挺身隊で、そこの第11空襲というのがあったんですよ。
ここは呉ですね、今。
そこは呉の広にあったんですよ。第11海軍航空所、飛行機を作るところなんですよ。そこに生えていたんですよ。
そこで、卒業してすぐに20歳、18歳ぐらいだね。
そうですね、68年前だから、18、19歳ぐらいだと思います。
あそこの長浜というところにあったんですが、あそこは寮があったんですよ。
あそこでみんな、私たちの寮のものがバスクのほうにあって、あそこから第11空襲を2回やっていたんですよ。
その時は、すみません、それこそ僕、やっぱりイメージがわからないんですけど、そこの第11空襲、そこで具体的に三島さんはどういうことをされていたのか。
私はね、そう思うというところでね、事務をしようとしたんですよ。現場じゃなくて。
そこで何をしようとしたわけなんですよ。事務でね、事務に行っても出されたことはないんですがね、事務をしていたんですよ。
呼び方が違うかもしれないですけど、いわゆる高校を卒業して。
高校じゃないんです。私たちは高校に行っていないんだから、女学校に行ったんです。
高校は後からね、修繕後になったからね。私たちは女学校に行ったんです。
吉田女学校、県立吉田高等女学校に行ったんですよ。そこに行って、そこから何だったんですけどね。
ちょっとその基本的なところからお聞きしたいんですけど、三島さんは、ここの第1空襲、あ、ごめんなさい、第11空襲か、そこに来る前というのは、
ご出身は呉のどちらだったんですか?
昔はね、高校を修繕後にここに来たんですが、あれも海岸通りにおったんですよ。
そうなんですか。
海岸通りでね、ここもちょっとやられたんですよね。
この家だけで食い止めた家、昔じゃったんです。
そうなんですか。
そこまでね、爆弾が落ちたと言われましたけどね。
それはいわゆる空襲ですか、呉の空襲の時に。
この家が昔に修繕になってから、市中軍の国防団総補団とか言われましたよ。
それがあったらしいですよ。
03:00
ここの家に、おじいさんの時に家をきれいにして、直してね。
で、こういう風になったんですよ。あれからずっと。
そうなんですか。
18、19歳の時は、後でまたその話も伺うと思いますが、この中本本店にはまだいらっしゃらなかったわけですよね。
そうですよね。11空襲にいらっしゃったわけですよね。
ご家族はその時はどこに。
私は吉田におったんですよ。
学校に出るまではずっと4年卒業して、
そして、あれからこっちに停身隊で11空襲に来て、
広野の長浜からこの寮におって、11空襲へ通い寄ったんですよ。
広野の長浜の寮から。
そうするとご家族は元々のところにいらっしゃったんですね、その当時。
私の実家は吉田の今なんですよ。
昔はタンピソンにおったんですが、
名前がそういう名前だったんですね。
今は合併して、全部吉田ちゃんになっています。
結構いろいろ合併がありますもんね。
その当時はご家族、ご実家はもちろん別々。
道香さんだけこっちだったってことだと思うんですけど、
その時ご兄弟とか、例えばお父さんお母さんとか、
例えばどういうお仕事をされていたとか、
ご兄弟はどこか他のところに行っていたんですか。
どういう感じだったんですか。
私も10人兄弟ですからね。
上のほうは結婚して、
兄らは警備隊に出ていたんですよね、海軍がね。
それで姉らは結婚してよそいに行っていたんですよ。
家にいいしきが、私の弟が一人おって、
100周していたんですよ。
後はみんなまだ小さいですからね。
まだ学校へ行く状態です。
お父様はその時は。
お父様は88歳で亡くなったんですよ、田舎でね。
母も83歳くらいで亡くなったんですよ。
お父様はその当時は何かお仕事をされていたんですか。
100周していたんです。
じゃあその弟さんが継がれているというか、一緒にその時はやっていたんですか。
でも弟さんはまだその時は小さいですよね。
まだ学校へ行っていたでしょうかね。
でもせめてご実家にはほとんど、
10人兄弟のうち残っていたのは弟さんだけだったという。
小さいのがおりました。
ちなみにみちかさんは何番目というか。
5番目。
真ん中。
5番目になりましたね。
そんな中で18、19歳くらいでご実家に離れてという感じだったと思うんですけど、
その空襲くらいで会った時っていうのは、
僕は当時当然いないので、
06:02
この家もギリギリのところで会いましたけど、
まさに空襲が始まった時とかって警報とか鳴ったりいろいろあったと思うんですけど、
その時って何か今思い出すこととか、
その瞬間どこにいたかとか、寮で寝てたとか。
空襲の時は広野にあったので、
あの会社が、会社とは言わないけど、
今の広野第11兵庫庁って広野にあるんですよ。
そこで仕事をしていたんですよ。
警戒警報とか何とか。
その前に空軍があったので、そこへ逃げたんですよ。
あれは夜?
3時ぐらいです。
昼でね。
あの時に11空襲の事務所なんかがやられたんですよね。
まさに総務やられていたので、
自身の働いていたところも爆撃でやられて。
やられて、それが何ですよ。
やられたから俺と子がないもんで岩国に行ったんです。
そうなんですか。
岩国に行ってね。
岩国の山奥の方。
工房はやっぱり岩国の方にあったです。
仕事をするところがね。
私はすごくすぐ就職になったですからね。
2年か3年しか私たちがいないので、
11空襲はまたなんですよ。
すぐ就職になったからね。
今おっしゃってた空襲があって、
今の11空襲のところが焼けてしまって、
岩国の方まで行ってありました。
岩国の方まで行ったのは、
基本的なところから伺いたいんですけど、
何か国とか政府とかの何かで岩国へ行けっていう話だったのか、
ご自身で非難というか。
私はよく分かりませんが、
みんな何でしょうね。
上の方のあれがいくつかなんて。
まだ岩国の方はそうでもなかったですからね。
山の中に寮があったんですが、
そこでみんなが集団で遊んで、
それからまた歩いて工場に行っちゃったんですよ。
そのときはそっちの岩国の工場ではどういうことをされていたんですか。
あれは事務所だったからね。
現場は行っていないんですよ。
空襲があって岩国に行って、
そこから終戦の8月15日までという期間はどのくらい。
もう一月か。
確かくれいの空襲は7月?6月?
7月だったよね。
そして8月15日ですもんね。
本当に一月あるかないか。
一月だったんですよ。
それでまた岩国にも原爆が落ちたんですよ。
今はちょっと離れているときですからね。
原爆が落ちたんですが、すぐに解散になってから、
09:01
私は解散して、
どうなったのか、むじゃくじゃくじゃくってなったからね。
私の世の中であったんですけど、
田舎にいる男がいなかったからね。
それで私たちは実家に帰ったんですよ。
それこそ空襲から岩国に移るときというのは、
父親に何か連絡することとか手段とか。
どうだったか。
したでしょうね。荷物を送ったりね。
それこそ一ヶ月たらずの間だったら、
もう何が何だかわからない感じですよね。
もうぐじゃぐじゃですからね。
人がどうなったかわかりませんよね。
あのくらいぐじゃぐじゃになって。
私たちは帰ることにして、
汽車に乗って帰ったんですよ。
少し話を戻るんですが、
ここで空襲の時は、
直接は例えば爆弾の爆撃の音を聞いたとか、
どのくらいリアルにみちかさんご自身は感じたというか。
道路一つを越えたらね。
ここは事務所でいいことですよね。
道路があって、すぐその前に山があって、
山のところに防空壕があったんです。
ここらの辺までですね。
30メートルか40メートルどこでしょうかね。
そのときに音を聞こえたですよ。
怖かったから。
それは当時、
すみません、思い出させちゃうのもあるんですけど、
いっぱい爆撃機というか、
みちかさんはそれを見ているわけですか?
後から解除になってね。
それで出てみたら、
爆弾でやられていたから、
そう思って。
全部はやられなかったですが、
あちこちに爆弾が落ちていたからね。
空襲警報みたいなのが来たときに、
とにかくすぐ防空壕に行ったという感じですか。
進もうね。
あれがサイレンでね。
すぐ警戒警報発令とか言ってから、
走って入ったことなんですよ。
空襲が本当に起きるときの警報の前にも、
クレでは警報とかそういうのは結構あったんですか。
それかそれが初めてだったということですか。
あまりなかったです。クレのほうはね。
でもクレはちょっと、
あれには海軍があるからね。
どうでしょうかね。
それは全部は覚えていないでしょうから。
そのときの、
これもちょっと聞きづらいんですけど、
やっぱり話を伺うと当たり前ですけど、
僕からすると、
そのときは警報が初めてだったにしても、
日本が戦争しているというのは、
当然理解されているわけで、
12:02
やっぱり死ぬかもしれないとか、
恐怖とか、
それこそ極端に毎日寝るときは、
変な覚悟をしていたとか、
その辺のご自身の心境というのは、
どういう感じだったんですかね。
そうですよね。
空襲のときは怖かったですよね。
爆弾が落ちてから、
あちこちに。
だけど、
なんですかね、
夜なんか、
すぐ、
僕が入れば助かるくらいに、
あまり、
そういう仕事もなかったように思うんです。
そのときって、
それはやっぱりいろんな方によって、
感じ方が違うので、
いろんなことがあると思うんですけど、
周りもやっぱりそうすると、
周りが本当にもう、
やばいみたいに思っていれば、
全体の流れで、
みちかさんも、
もっと多分、
そういう意味では怖かったと思うんですけど、
そうすると、
みちかさんの周りの、
例えば一緒に工場で働いていた人たちなんかも、
怖いって、
目が合わないから、
押したところで、
後から見るだけで、
その場で、
どんどんどんどん目の前で落ちるように、
だったら怖いでしょうけど、
怖いと思わなかったかな。
そういう意味では、
空襲のときの、
本当の警報で防空壕に入って、
つまり、
空襲のときで防空壕に入る前にも、
防空壕に入った経験はあったんですか、
警報で。
いや、
なかったかな。
防空壕のときが始まって、
暮れのほうがね、
あのときだけかな、
そういう意味では、
それが本当の当然警報で、
本当に空襲が来たから、
やっぱりそのときは、
すごい怖かったわけですよね。
まあ、音がね、
近いですからね、
ちょっと怖かったと思うんですが。
そこで、
空襲警報が開けて、
そのとき、
それまで、
さっきおっしゃってたような、
工場というか、
第11工廠か、
そこは、
その後は見たんですか、直後に。
やられたところはね、
あの、
私の事務所は、
やられて、
穴が開いていたんですよ。
あちこちとね、
爆弾の跡が。
そのときって、
どういう感じを受けました?
思っちゃったかな。
まあ、やられてるわ、
いうぐらいのことですかね、そんなに。
そうすると、
例えばそこで働いている方が、
いっぱいいるわけじゃないですか。
みんな無事だったんですか?
みんな無事でしたよ、
あのときはね。
みんな退避して、
しんどい人。
私のところじゃなかったですよ。
15:00
やっぱり暮れても、当然場所によるんですね。
そうでしょうね。
第11工廠の隣に、
広工廠があったんですよ。
船作るところ。
私のところは、
飛行機作るところ。
こっちの会社、
工場は、
船なんかね、
今の海軍の船があって、
あれを作りよった工場。
近くに大きな工場が、
よくあったですよね。
だからそこは、
そこの人らはどうだったですかね。
当時、
先ほどご実家に行って、
ご兄弟の話、いろいろありましたけど、
みなさんは無事だったんですか?
みんなね、
海軍に行っても死んだし、
死んでないし、
姉らも結婚してね、
子供も小さいのが、
私より小さいのがおりましたがね、
みんなまだ口が小さかったですからね、
学位長、そんなことなんですよ。
じゃあみなさん無事だったんですか。
良かったですね。
もちろんね、
オープンの工場だからね、
爆弾を持ちはしなかったので。
吉田居とこですからね。
そうでしたね。
そして、先ほど岩国へ行って、
みちかさんがありましたけども、
何が何だかある意味、
分からない感じで行ったわけですよね。
歩いてね、
広島の駅、
岩国の駅から歩いて、
山のほうずっと歩いて行ったことを覚えているんですよ。
今の住むところへね。
それどのくらい、
1日ぐらい歩いた感じですか。
そうでもないですよね。
4、5時間歩いてですかね、山まで。
岩国の駅からずっと歩いて、
みんながね、
ゾロゾロゾロゾロ、
今の寮まで歩いて、
そこで何かあったんですよ。
その時って何か、
当然寮で一緒にいた、
お友達っていうのがいかがかないですけど、
男と何か話とかってするんですか、
歩いた4、5時間。
別に話の内容は覚えていないと思いますけど、
どういう感じだったのかな。
どういう感じだったんですかね。
あまり何もない話であったんですかね。
それを聞いても、
何とも思いはしなかったですよ。
そういう偽らずる心境を
やっぱりこれを伺いたかったので、
岩国に行って、
それこそすぐに終戦という感じだったと思うんですけど、
いわゆる8月15日、
その前に8月6日の
広島の原爆の時っていうのは、
あれはね、
岩国におったんですよ。
雲がぼわっと出て、
原爆が落ちたのか、
爆弾が落ちたのか、
いわゆる雲は見たわけですね。
見たんです。
いろんな角度とかいろんな時によって
いわゆるキノコブームみたいな感じだったんですかね。
ありがとう。
原爆じゃなくて、
爆弾で、
あの頃はまだ原爆じゃないと分かりませんからね。
そうですよね。後から分かったんですよね。
爆弾が落ちたのかねって言われたんですよ。
広島の方でのおりのことであったら、
18:00
後からね、原爆じゃないかと分かったからね。
音なんかさすがに聞こえなかったんですかね。
全然分からなかった。
多分岩国から遠いからね。
そうですよね。
さすがに雲は見えたんですね。
雲は見えましたね。
キノコ雲が。
そして8月6日あって、
まさに8月15日の終戦があったと思うんですけど、
その時いわゆる天皇陛下の放送とか。
それも聞こえなかったんですよ。
あの時にね、
天皇陛下がおっしゃることが、
ラジオでね、
グチャグチャグチャグチャ雑音みたいなのが入ってね、
聞こえなかったんですが、
それから終戦になったんだとは言う。
それぐらいのことだったんです。
じゃあ、いわゆる、
その抑音放送があるみたいなことは、
誰かから言われて、
集まりなさいみたいな感じですね。
12時ごろね、
大事な話があるから言って、
ラジオか何か聞いたのが、
どうだったか知らない。
それ大したことなかったと思ったんですよ。
聞こえなかった。
グチャグチャグチャ。
よくわからなかったというのが、
率直な。
でもそれまでって当然、
天皇陛下から放送があることはなかったわけですよね。
やっぱり何かがあったんだな、
みたいな感じは、
よくわからずに。
ただそういう話がある。
大事な話があるということだけ。
終戦になったことは何も知らない。
あの時はまだ。
そうですね。
そこで8月15日を、
終戦後から分かって、
その時の、
まさに天皇陛下が
そう言ったよって言ってくれたわけですよね。
その時の
気持ちってどういう感じでしたか。
上の人がね、
今までに
ラジオってそんなにつらい。
どうやって言っていいですかね。
爆弾じゃなくて、
ラコになったのを見たんですよ。
これで終わったね、
何でしょう、
退治することもなし、
そういう爆弾も落ちないし、
ラコになって、
そう思いました。
その時って、
いろんな後継があったと思うんですけど、
僕なんかがよく
イメージするのは、
例えば、
男の人とかは、
泣いてたとか、
ヒレ伏してたとか、
力が抜けたようにだったと思うんですけど、
テレビで言いますよね。
イメージはあるんですけど、
身近さんとか周りの人はどういう感じでしたか。
それこそ、よかったみたいな感じで、
声を出しても声も出てなかった。
どういう感じでしたか。
わかりませんのでね、
わわわ言っただけでね、
全然、終戦になったと
なんともわからないですよね。
泣くほども
泣かなかったし、
楽になったなと思った。
21:00
戦争から、
辛い飯を食べるものも、
何もかにも
あれだったから、
田舎に帰られるわと思うぐらいのことでしたね。
そこの8月15日を
逆にちょっと前に
戻るんですけども、
その空襲の時っていうよりも、
戦争が始まって、
しばらく経ってから、
最初女学校行ってらっしゃったっておっしゃったじゃないですか。
そこから、いわゆる戦争の、
戦争で非常事態というか、
普通の生活ができなくなったっていうのは、
いつぐらい?
母ちゃん、
女学校入ったときからね、
あまり授業していないのですよ。
英語の時間に
配信があるんだから。
そうですよね。
出生品種のところへね、
田植えに行ったり、
稲刈りに行ったり、
植樹さん、
地球上に行ったりね、
勉強をやってきたら、
そういうことですよ。
そういうふうに入って、
それこそ、
お兄さんたちは
出生したわけですよね。
その時っていうのは、
やっぱり
お兄さんたちは
悲壮な感じだったのか、
それを押し隠して
行ったのかっていう。
そうですよ。
授業して行ったんじゃろうもんですよ。
だからね、
深刻なことはなかったですよね。
そこから、
お兄さんたちが戦争というか海軍に行かれて、
残されたご家族、
ご兄弟もいて、
それぞれ散り散りになっていっているときに、
いつか終わるのかなって
最初から結構思っていたのか、
全く見えない、
それこそいつか自分は死んじゃうんだろうかとか、
そういう、当時でも
16、7、8だったと思うので、
すごいちっちゃかったわけじゃないと思うので、
ある程度いろんなことってわかったと思うんですけど、
どういう感覚だったのかな、
っていうのを。
死ぬ前の
悪党だったかね。
前は何だったんですかね。
あの、
何かしら、
槍を
水持ってかけたりね。
それから槍で、
槍を見たら竹の棒で
こんなことをしたり。
あんなことをしちゃったんですね。
自分がその命の危険になる
とか将来になるかもっていう
実感はあんまり正直なかった。
あんまりなかったですね。
そこで、
そういう意味では
終戦を迎えてというところだったと思いますけど、
今のいろんな感じていたこと
ということをもうちょっと聞きたかったんですけど、
何だろう、
当時いろんな
見方をする方がいて、
いわゆるメディア、新聞とか
テレビとかも、
戦争を負けているということは
あまり報道を当然しなかったわけで、
その時に、やっぱり
全然負けているということは
分かっていたって人もいれば、
まさに分かっていなかったって人も
24:00
いると思うんですけど、
道香さんはどういう感じでしたか。
私は負けるとは思わなかったですよね。
みんなあのグルーヴはね、
勝つと思ったんですよね。
死前には勝つと思ったんですがね。
それはもう本当に、
いわゆる終戦になるときまでも
そうじゃないんじゃないかということを
思わなかった。
負けるとは思わなかったですよね。
ただ、戦争をしているけど、
勝つと思ったですよね、
私らはね。
あまり新聞なんかも
見ずにね、
テレビはなかったし、
あまり
ただ人の話を聞くだけでね、
死ぬとは思わなかったですね。
当たりに死んだ人もいないし。
そういう意味では、
もちろん幸運なことだと思うんですけど、
身の回りで、
まさにおっしゃったように、
亡くなった人とか、
すごい近くには
あまりいなかった。
いなかったですよ、全然。
死んだの見たことはなかったんですから。
ただ当然ね、
普通のこの今の平和の状態ではないわけで、
戦争が終わって、
そこから道香さんも
ご自家に帰れたんですか、すぐ。
ええ。
帰りなんでしょうね。
家から見られて、
いいよって帰りの財布を取れたんでしょうね。
汽車に乗って、
それからずっと
吉田まで帰ったんですよ。
その時って何を考えていたか覚えていますか。
ただね、
遊んだね、
自由になったと思ったんですよね、
あの時に。
やっぱり当然それまでは
自由じゃないってことですよね。
そこの工場というか、
そこの働いている時って、
なんかすごい嫌な思いをしたとか。
嫌な思いは
あまり
いなかったですよね。
そこで働いている人って、
若い女性がいると思うんですけど、
そこで働いている人って、
若い女性がいると思うんですけど、
そこで働いている人って、
若い女性がいると思うんですけど、
若い女性がいると思うんですけど、
いわゆるそこを管理、統括する人とかっていうのは、
いわゆるそこを管理、統括する人とかっていうのは、
男の人だったりとか、
怖い人だったりとか、
どういう感じだったのかなと思って。
怖いね。
思うにはね、
偉い人が多いですよね。
福祉省庁。
今そこにあるんですよ。
ほこたて企業ってありますでしょ。
その人が多かったですよ。
あの人がね、
おじいさんに手紙をくれとっているんですよ。
これはこれですか?
そうそう。ほこたて企業だったんです。
中城だったんですよ。
はいはい。
その中城が、
これは何が書いてあるんですかね。
あれはね、おじいさんがね、
戦争が済んで食べるものがなかったでしょう。
戦争が済んで食べるものがなかったでしょう。
この人は鹿児島の人だったと思うんですよ。
この人は鹿児島の人だったと思うんですよ。
27:00
おじいさんの補助からね、
おじいさんも海軍に行っちゃったことがあるんですよ。
それで、
何か何かを送ってあげてあげてあげて、
それで、
それを俺の手紙がね、
すごいですね。
送ってあげてあげてあげて。
これはね、皆さん聞いている方はちょっと音声なのでわからないと思いますけど、
これは金ですよね。
金箔ですかね、本当に。
金箔。
すごい。
そこに手紙が貼ってありますけども。
手紙がね、
喜んでからね
昭和これ何年ですか?
書きすぎて読めないな
16年ってことじゃないですかね
昭和26年でした
26年ですね
12月
そうですね12月ですね
その中場が
北斗亭金谷さんで
おじいさんが仲間で日産を読んじゃったんですよね
それにお礼の手紙を来たんですよ
そうなんですね
そうかそうか
上手に書いた手紙ですよ
おじいさんが89歳になってからね
あの人ら今まで暮らしなさった
それがいっぺんに
終戦になってから
食べ物なくなってね
お酒を食ったら食べ物を
おじいさんが送られちゃったです
なるほどね
ありがとうございます
その戦争終わるまで
食べ物とかってどういう毎日
寮の時もそうですかね
寮なんですよね
食べ物でね
冷えちゃうから
米の身にくたのもぎ
あやな
までもののご飯ですよね
食べた
それからいんごご飯
あやなもん
私は食べ物はね
細かい話ですけど
1日3食って出たんですか
私はね
海軍なんでしょ
普通のなのよ
ちょっと待遇はいいかったんでしょうね
そうか
海軍が少しいいっていうのは
僕も聞いたことがあるんですけど
食べるだけはね
粗末なものでも食べるだけは
食べらせてもらいたいんですよ
海軍のところでっておっしゃってましたけど
それは選べないわけですよね
その身近さが海軍の
そこに行けたってことですよね
そうそうそう
あんたがこう生えて
定身隊で来たらみんな振り当ててね
あなたここ行け
ここ行けって言われたんだろう
思うんですよ
私は
総務の所下
総務の所下というところに生えたんですよ
所下っていうのは
総務の所があるでしょ
そこに生えて
生えてきたんですよ
普通の現場だったら
飛行機のビースで
真下に立ってたり
いわゆるね
30:00
あんなことは知ってないんですがね
それをやってた人もいるんですよね
一日の
流れっていうか
どういう感じでした?
朝何時に来ちゃうみたいな
朝なんですよ
行って
両の門が並んで
ここに歌をとってから
歌?
歌を歌うんですか?
何の歌を?
昔にね色々と海軍の歌
国とか軍の歌があるわけですね
歌をとって
会社に通ったんですよ
そして今度は何だったっけ
行って
勝利8時頃までですかね
生えたらね
夜?
朝ですね
部署部署に分かりますからね
私らはそこで
ジムの方に
教室に入って
そういうことです
あまり
私の言ってもいい
役なじれだったら
思うんですがね
何時ぐらいに終わってたんですか
5時とかぐらいには終わって
そうですね
その寮で
普段は
それこそ9時5時みたいな感じですか
8時ぐらいに行っても
5時ぐらいには終わる感じ
そうですよね
素朴な興味というか疑問なんですが
その5時終わった後って
何してたんですか
ちょっとかね
一人部屋ってことはないですよね
いやいや
必死に
5、6人で
生活しちゃったんですよ
食べるときはみんなが一緒に
お部屋に行って
降りてから食べて
寝るときは5、6人だったと思うんです
それはみんな
同世代なんですか
そうですよね
みんなそうです
私らのところからは
4、5人でも
広島県のあちこちから来ておりますからね
いろいろと話を聞いたり
話というのは
それはみんな
そこから来ますからね
西条のほうから来たり
あの辺から
いろいろと
話するくらいのことですよね
それ知れ知れが
子供だからね
ワイワイワイワイ言うて
やるよったと思うんですよ
そういう意味では
いわゆる当時
普通に18級ぐらいの女の子が
全く同じってことはないでしょうけど
集まってでも
そんな感じだったんですか
つまり5時になったら
その部屋でみんな暗い顔して
何も喋らないってことはない
むしろ普通に
なんかその時
そのお友達
お友達というか
一緒の寮にいた仲間とじゃなくてもいいんですけど
ささやかな楽しみだったこととか
嬉しかったこととか
33:00
なんかそういうのってありますか
あまり楽しみこともなかった
することもなし
テレビもなし
本とかも読めない
本なんか読めるんですがね
読めましたか
5、6年おったら
本も読めなかった
あ、御自身があまり本読むタイプじゃなかった
いない
家周りもね
読んしていなかったですよ
遊ぶこともないけど
ワイワイ話しするぐらいのことですよね
その会話っていうのは
あまり別に戦争のこの先どうなるのか
そういう話じゃなくて
普通の
共同何があったとか
そのぐらいのことで
そこには日常って感じだったわけですね
そうですよね
戦争終わって
例えば
いろんな人いろんな意見があると思うんですけど
例えば国の
一部軍部の上の方の人の
いろんな謝ったことで
たくさんの人が死んだから
そういう国が憎いとか
あとこれは賛否
これは何かをジャッジするつもりはないんですけど
やっぱりその当時の天皇陛下に
戦争責任があるんじゃないかという人もいれば
ないという人もいます
あとはやっぱりアメリカ米軍が憎い
っていう人もいるんですけど
その辺の感覚っていうのは当時
18期だったら
もう決定的に上からね
米で鬼滅とか
なんとか言うてね
アメリカにね
そんなにしてやったから
あまりいい感じじゃなかったですよね
アメリカに対して
アメリカやイギリスがね
あまりなんですよね
憎いって
その裏のことですよね
それは終わってから
いわゆる8月15日で
戦争終わった
パーってもうホッとした時には
もうそれ憎いとか憎くないとか
それももう全部
ふーっと飛んじゃった感じですか?
どういう感じですか?
真中軍が入ってくるから
ちょっと怖い
に思ったけどね
生きてみたら
会ってみたらそうでもないし
そういうことだったですよ
実際なんか
コミュニケーション取ったこととか
覚えてます?
真中軍とか
真中軍とかはね
要は私の田舎にね
家に来てからね
そうなんですか
話してもらって
私は養成なんですが
うちの姉がね
聞いてから話しようと
思ったんですよ
それは真中軍の人は
日本語喋れるんですか?
いや姉が
買ったことでね
やったんですよね
そこで
36:00
ちょこちょこね
田舎の方でも来てたんですからね
何話してたんですかね
何か目的があって
来てるわけですよね
そうですね
私の話は実際にね
お姉さんと
話しておりましたよ
そうかでもそういう
田舎っておっしゃってましたけど
広島市の都市部とかだけじゃなくて
そっちまで真中軍の人が来てたんですね
でも何か怖いことをしたとか
そういうことじゃないわけですよね
戦争終わって
恐れられてね
来たらさらわれるとか
イメージありますよね
聞いて話したら
そうでもなかったですけど
話でもそうだでしょうね
ちょっと思ったんですけど
そういう意味では
ご家族もみんなご無事で
食べるものとかも恵まれてて
例えば
ご自家帰った状況で
ご近所さんとかもいるわけじゃないですか
ご近所さんの方とかも
みんな基本的には百姓みたいな感じ
つまり
言い方あるかもしれないけど
すごく恵まれた環境だったと思うので
他の人から
妬みとかじゃないですけど
そういうのを受けたとか
そういう感情を感じたこととか
特にそういうのもなかったですか
なかったと思うですよ
昔はね
百姓が
取り上げられよったんですよ
山とか田んぼとかね
あの時にね
片山さんじゃ
なんてこと言うの
とにかく百姓してもね
百姓養虫も取ったらね
みんな取り上げられてね
これこさくに
あんなことがあって
だから
なんですよね
作ると言っても
こさくに取られたら
取られたよねみんなね
自分が今まで作ったものはいいけど
その他に
田んぼとか山とか
ありますでしょ
取られたって言うのですがね
だからもう
反対にやった
今頃昔
なんじゃったんですよ
こさくにが今頃
反対になったって言ってからね
言ったですがね
反対にやった
昔はね
何しようと思うのか
反対に
今度物がこっちから
田んぼなんか取られるでしょ
と言って
ようて物がなるんですよ
うちらのほうは
来られてから中に貧乏になってから
反対になってから
39:00
そうかそうか
ああいうようなことを言ったですがね
お父様は
結構いろいろと
取られたわけですよね当時
その土地をというか
食べ物とかも
食べ物を言ったのがね
うちに作ってない
今までこさくにやられていた物を
みんなそのこさくが分けて
取る
金はどんなか知らないですがね
みんな取って分けてね
だからうちら
今まであった田んぼや
何かがなくなったんですよ
でも最低限
お父さんお母さん
小さいご兄弟が
食べる分は
ちゃんと残してもらえたというか
あれはね
あの頃の終戦頃から
作りおったんですけど
作るところは取られないんですよ
作らんとこのほうって
こさくがちょっと分も
みんな取られたわけだからね
そうなんですか
もうなんですよね
買ってもらわないけど
ぼつぼつ食べるだけ
食べてたんでしょうよ
そういう現状があったわけですね
その辺はやっぱりね
いろいろお話を伺わないと
分からなかったので
すごく貴重なお話だったと
思うんですけど
三近さんはずっと
岩国にちょっと行きましたけど
基本的にはずっと
呉に今日の今日まで
いらっしゃる
22年くらいから
23年くらい
あの頃からずっと結婚して
ずっとこっちに乗って
初めちょっと海岸通りに乗って
今も海岸通りに家はあるんですけどね
何してここに来たんですよ
終戦の時に
あちで知らない
何か作りおったんですがね
狭いからやってここに来て
そしてここで今
作るようになったんですよ
この中本本店
知らない方もいると思うので
どういう
ご商売というか
飲料水
ダムネとかサイダーとか
コーヒー
玄米とか飲み物があります
作って
昭和26年頃から
漬物ね
広島なんとか
タッグワンとか
作り出したり
昔は
飲まないことにして
夏だけ飲むように
半年半年
遊んで
何しようと
半年
ずつにして
楽勝思ったんですかね
半分
飲料水して半分
あの
佃煮やれ
佃煮もやれよって
今までやってきているんですよね
42:00
三島さん感じている
僕はそういう意味では
日本はすぐに戦争になることは
当然ないと思いますけど
やっぱり
無関心な人が増えていると思うんですよ
無関心がやっぱり
すごい危険だと思っていて
だんだん忘れてから
あの何でしょう
昔のことは
わからんけどね
うちの頃の私たちは
まだ
そういう戦争の
不自由なことを
思うけど
今頃の子は
栄誉で育ってから
戦争いつするのか
わからない
どうするのか
贅沢になってね
だから
例えば
右寄りな考え方の人もいれば
いればいいと思うんです
極端にいい悪いないと思っていて
このインタビューのきっかけに
何か皆さんがそういうことを感じてくれれば
いいと思うんですけど
三島さん自身は
実感としてで全然構わないんですけど
日本とか世界っていうのは
第2次大戦の時になるとは
僕は思えないんですけど
ただ
68年見ていて
終わった直後とかその後ずっと見ていて
今なんか
例えばいつかこのまま行くと戦争起こっちゃうんじゃないかとか
そういうのって
感覚ってありますか
さすがにそれはないと感じているのか
率直に聞きたいんですけど
戦争は
したくないね
テレビで見る若い人が
よく死ぬでしょ
あんなったら
子供らがね
死んだら
かわいそうに思うくらいですよね
よく死ぬっていうのは
テレビなんかで
戦争してから
倒れると死んでいくでしょ
見たくない
それは他の国でってことですか
日本でもね
若い人らがね
よく死んで
何百何百
安くみじんちゃうで
何百万人とか死んだいって言うでしょ
うちの頃の例えで
ですよ
うちの頃はよく死んどるね
思ったらね
戦争なくさくないですよね
僕自体は
戦争なくしたほうがいいのは
間違いなわけで
そのためにできることは
自分自身も含めて
インタビューさせていただいて
世の中に届けて
無関心な人を減らすことが
できることかなと思っているんですけど
やっぱり戦争を経験された
平和の世の中とか
戦争をなくすために
大切なことって何だと思いますか
戦争を減らせる
戦争を減らす人が
やっぱり
いるんでしょうねみんな
45:00
この頃はね
些細なことで結びに喧嘩してから
日本は
あの言葉として
あるのかと思うんですがね
みんな仲良くやれば
いいのにね
それは例えばどういうことで感じるんですか
なんでこんなことで
喧嘩しないといけないのか
よくありますよね
宗教やらないといけないのか
喧嘩しないといけないのか
思うじゃないですかね
それは日常のニュースとか新聞見ていても
そうですよね
宗教で
普通の宗教で
喧嘩しないといけないのか
喧嘩しないといけないのか
思うんですが
あれやこれや
恐ろしいよね
宗教だったり紛争だったり
世界でもありますよね
爆弾で死んだりするでしょう
海外でもまだまだありますよね
恐ろしいね
出てから
いつ殺されるかわからない
日本じゃそんなことも
まったくないだろうけど
よくありますよね
そうですね
日本は今運良く
戦争終わってますけど
そうそうそう
あちこちで
世界ではね
あちこちとも
いろんなことがあったら
かわいそうだよね
この人民がね
やるとしたらね
さっきもおっしゃってましたけど
僕も子供いるからすごくよくわかりましたけど
ご自身も辛い経験をされているからもありますけど
やっぱり
将来の
生まれてくる子とか
安国のときの100万人とお話もありましたけど
ご自身のお子さんお孫さん
もしくはひまごさんとか
ひまごもおりますよ
そういうのを
彼らが
戦争の日が来ることを
考えたら
胸が痛くなりますよね
やっぱりね
若い人らがよく
うちの子らが
あのぐらいのことに
死んだと思う
かわいそうだよね
そういうことを思ったら
やっぱり戦争はしたくないですね
ありがとうございます
いいようなときが
いつまでも続ければいいですよね
続くためにも
今日貴重なお話がありましたので
これは100年200年と
残していきたいと思います
このインタビュー
いつまでも元気でいてください
今日はクレの
ここ三条ですよね
三条名
中本みちかさんに
お話を伺いました
中本さんありがとうございました
47:48

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