こんばんは、佐々木裕です。今日は岩手県東雲市で開催したイベント、トーク&トレッキング、鮭の背に乗った英雄の謎と程ボラ稲荷神社の秘密というイベントの様子を丸ごとノーカットでお届けしたいと思います。
これはね、どういうイベントかというとね、程ボラ稲荷神社っていう、
私の親しんだ神社、小説、僕らのネクロマンシーなんかにも登場した神社の修繕工事の寄附金集めのために開催したイベントなんですけれども、
イベントのために色々調べるうちに熱が入って、なんか当時、調べ始める前は思いもよらなかった事実にたどり着くっていうね、謎解き要素のある楽しいイベントだったんですけれども、その様子をね、丸ごとお届けしたいと思います。
今回お話の内容に年表や地図が出てきますので、気になる方は概要欄から是非チェックしてみてください。
それではどうぞ。
メディアヌップ。
はい、ではそろそろお時間ですので、まだ着席されていない方もいるので、徐々にお話しし始めながらスタートしたいと思うんですけれども、
本編のお話をする前にちょっと簡単なご案内というか、ご紹介なんですけれども、
ちょうど今、向こうで寄附の受付をされている皆さんがですね、ホドボラ稲荷神社の総代の皆さんでして、一番左にいるのが、これは私のおじさんなんですけれども、
えつおさんっていう、私のおじさんなんですが、もともとのきっかけはですね、ホドボラ稲荷神社がちょっと傷んできているので、修繕工事をしたいと。
ただし、費用がちょっと何本か足りないので、寄附とか、あとはお前インターネットに詳しいだろうということで、クラウドファンディングみたいなネットで寄附を集める方法があるんじゃないかみたいなことを返るたびに言われてたんですけれども、
最初はそんな聞き流してたんですね。クラウドファンディングで寄附を集めるなんて大変ですから、一回目は聞き流したんですけれども、返るたびに言われるもんですから、これどうやら本気だなというのが伝わってきまして、
途中からじゃあお手伝いしてみようかなと思ったんですけれども、いきなり寄附と言ってもですね、ホドボラ稲荷神社がどういう場所かっていうのがわかんないことにはですね、
寄附する気持ちにならないというか、まず知ってもらわないと話にならないんじゃないかということで、一旦寄附の話は置いておいて、ホドボラ稲荷神社ってどんなとこなのかみたいなことがわかるもの、パンフレットを作るとか、イベントをやるとか、ツアーを組むみたいなことをやったほうがいいんじゃないかということを思いまして、
私がたまたまというか、塔の物語とかそういう本を読むのが好きだったので、そういう観点から興味を持ってもらえるような内容を作ってみようかなということで企画したのが今回のイベントです。
今日最初にイベント全体の進行のお知らせをしたいと思うんですけども、あいにくの雨だったので、あらかじめこういうふうに企画してたんですけども、最初はこの場所で1時間ぐらいお話しする時間を作って、車で登りやすいところまで移動する時間を30分とって、その後1時間ぐらいトレッキングしようと思ったんですけども、
雨がちょっと弱まらないようなので、トレッキングのコースを非常に短くして、最後のホドボラ稲荷神社に登るところだけにしようかなというふうに思っています。なので移動時間30分変わらないんですけども、トレッキングの時間は短くなるかもしれません。
あとちょっと雨で大変ですよという方は、キャンセルしていただいても構いませんので、この場所だけでもお楽しみいただければと思っております。
今日予想よりも多めの方にいらっしゃっていただいたんですけども、最初に挙手で会場アンケートをとってみたいんですけども、ホドボラ稲荷神社に実際足を運んで行ってみたことがありますよという方、ちょっと手を挙げていただけますか。
1、2、3、4、壮大の皆さんはカウントしなくてもいいと思います。壮大の皆さん除いて3人ですね。だからありがとうございます。20人いて3人ということなんですけども、おそらく名前は聞いたことあるという方は多いと思うんですね。
名前も初めての方ももしかしたらいるかもしれませんが、なかなか足運んだことがないという方は多いと思います。でも実はすごく近いですね。ここから行くと車で5分、車を止めたところから5分なのであっという間に行けるんですけども、
なんかちょっと奥まったところにあって、そこが何の場所なのかよくわからないので行こうという気にならないというのが実際のところだと思うんですね。それを今日はちょっとご紹介するということをやってみたいと思います。
初めにホドボラ稲荷神社とは一般的にどんなところなのかということなんですけども、党の遺産に記録されているようなところからするとですね、婦人病に霊犬があるとか、あとは婚姓様、ホドボラ婚姓様があるので出産の神様であるとか、あと霊水が湧き出ていて慢病に効くとか、八田ガラスが祀られているとか、そういった特徴がいくつもいくつもあるんですけども、
そういう特徴を知れば知るほどですね、なんだかよくわからなくなっていくんですね。病気に効くような、婦人病に効くような、出産に効くような八田ガラスもあって、お稲荷さんもあって、で、なんだかわけのわからない複合体みたいな場所なんですね。
なので、これって一言で言おうとすると、なんかよくわからない場所になってしまっている。それが何でなのかっていうのをちょっと、今日多分イベント終わる頃にはわかるんじゃないかなと思うんですけども、一応先回りして答えを言うとですね、あえてわからないようにぐちゃぐちゃになっているんですね。
そういう歴史的な経緯があるので、そこもちょっとご案内してみたいと思います。
でですね、今日ちょっとお手元にお配りしている資料が2つありますので、その資料の説明を最初にしたいと思います。
1つが、このホドボライナリ神社と東の物語の地を歩くというカラーのパンフレットがあります。これ真ん中開くと地図になっていまして、
今日ここまで歩けないんですけども、歩くとしたらこんなコースですよって地図があるものがあります。
このパンフレットの中にですね、ちょっとこういった書き込みが入っている年表のコピーが入っていると思います。
今日使うのはこの年表と地図の2つです。最初に使うのがこの年表を使います。
歩く時に使うのがこの地図です。なので最初に時系列で何があったかというのをお話をして、歩くとどういうことなのかというのをやっていくという2本立てのイベントになっております。
今日意外とお配りされているチラシがめちゃくちゃ多いので混乱したかもしれませんが、このカラーのパンフレットの中に挟み込まれているのがこの年表です。
この年表、かなり情報量が多いと思うので、ぱっと見何が書いてあるかわからないと思うんですけれども、この3つのポイントに沿ってゆっくり一つ一つ解説をしていきたいと思います。
まずですね、ホドボラ稲有神社のイベントというか、その説明ということなんですけれども、ホドボラ稲有神社を説明するにあたってですね、3つの家というのが書いてあるんですけれども、
これはですね、東野物語周囲138話。東野物語周囲というのは1935年に出版された東野物語の増補版ですね。柳田邦夫が最初に書いた東野物語に299話足された増補版の中に入ってある138話に、東野には宮というお家があって、そこが東野で一番古い家であると言われているというような名前が出てくるんですけれども、
その宮というお家ですね。この後地図とか年表でたびたび名前が出てきますけれども、倉堀というお家、一族と、あとは阿蘇沼市ですね。これはちょっとご説明しますと、東野の歴史にご関心ある方はいろんな市内にも石碑というか碑があるので、阿蘇沼市というのを聞いたことがあると思いますけれども、
今から800年くらい前に鎌倉時代に栃木県の佐野市のあたりからやってきた東野の最初のお殿様の一族ですね。その阿蘇沼市というのが、これもたくさん名前が出てくるんですけれども、この3つの家が同じものです。
正確に言うと違うんですけれども、途中で改正している、苗字を変えているので、阿蘇沼市が倉堀県になって、倉堀県が三宅県になってという順番ですので、この資料の中で違う名前で出てくるんですけれども、同じ一族だというふうに思って読んでください。
この3つの家があるということが1つ目のポイントです。あとは3つの時代ってあるんですけれども、これはですね、よく知られているのは、よく東野でも5月に桜祭りがありますよね。八戸から南部市が来て、入部した桜祭りがありますけれども、あれが来たのが1627年なんですけれども、あれから東野南部市の始まりなんですが、
その前どうだったかというと、その27年前ですね、1600年にクーデターがありまして、阿蘇沼市が、阿蘇沼博長が東野から追われるという事件が起こります。
で、その起こった後、そのクーデターを起こした政権というか、主な3人組と、それを後ろで支援していた森岡南部藩の南部俊直というんですけれども、それがいわゆる傀儡政権といいますか、架空の政権としてあったんですね。
それは27年間ありました。暗黒時代というふうに言ったりします。後で書かれたりしますけれども、そこははっきりと、一応治めるべき人はいたんですけれども、治まっていなかった、その27年間があるんですね。
なので、東野の歴史をお詳しい方は、昔阿蘇沼市が治めていて、次南部市が治めていたというふうに覚えていると思うんですけれども、その空白のというか、暗黒の27年間というのがあるんですね。これが今日のお話の大きなポイントになってきます。
最後3つなんですけれども、3つの物語と書いているんですが、これが東野物語周囲の138、139、あと140も三宅に関わることなんですけれども、今日ご紹介するのは飛ばして141。この3つのエピソードの謎解きをしていきます。
ここから画面を見ると字が細かいと思うので、お手元にある年表と全く同じものなので、細かい字はそちらから見ていただきたいんですけれども、左側が古い時代ですね。右側がどんどん新しい時代になっていますけれども、これ一個一個書いてある内容を説明していきたいと思います。
まず、アソルマ・ヒロツナと書いていますけれども、これが1189年に東野を廃了すると。これが栃木県佐野市あたりにいたアソルマ市なんですけれども、この時アソルマ・ヒロツナが東野を治めようということで、最初の殿様というふうになる瞬間です。
ただ、ヒロツナ時代は東野には直接来ていないと言われているので、その息子以降の代の時に一族が移動して、実際に東野を治め始めたのはこの息子の代からだということなんですけれども、最初のお殿様は誰かと言ったときはアソルマ・ヒロツナという名前が出てきます。これが一番最初の始まりです。
これが400年ぐらい続きます。アソルマ統治時代というのが鎌倉時代から安土桃山時代の終わりぐらいまで400年ぐらい続くんですけれども、ここでこのアソルマ・ヒロサトという名前が出てきます。
これ第13代なんですけれども、ヒロサトは非常に有名で、歴史の中にもよく出てくるんですけれども、東野の地理をお詳しい方は、今の松崎の方にある、高校寺の方にある横田城から、そこの鍋倉山にある鍋倉城にお城とか、あと一市六日町という町を移してきた人です。
非常に東北にあって、非常に先見の銘のある優れた御殿様として有名だったのがこのヒロサトなんですけれども、その息子のヒロナガというのが、歴史の中で悲劇のクーデターの当事者になってしまう人ですね。
1600年に、北の関ヶ原といわれた山形県での欧州警長出馬合戦に応援に行って、応援に行っている間に3人の死亡者によってクーデターにあって追われてしまう。
どういうふうになったかというと、山形から帰ってくる途中にその事実を知らされて、東野に修正、戻ってくることができなかったというのが、このアソルマ・ヒロナガです。
ヒロナガはその時死なずに、後になるまで伊達藩の方で生きていくんですけれども、このヒロナガがこのアソルマ家14代の最後の人というふうに言われている、実際アソルマの名前を継いだ殿様として最後なんですけれども、
このアソルマ・ヒロナガに弟がいました。それが広里の息子ですね。それが吉政という人間です。これアソルマ・吉政なんですけれども、後に倉堀・吉政というふうに改名します。
この場合は吉政とだけ呼ぼうと思うんですけれども、この吉政というのがヒロナガの弟なんですね。で、ヒロナガが東野に戻って、クーデタに会いましたから戻ってこれなくて、最初は今でいう墨田、瀬田前の辺りにいて、
赤羽峠なんかで何度か取り返そうということで、3回戦争があるんですけれども、いずれも敗退して、最後は仙台とか前沢の辺りだったかな、伊達藩のところで最後終えるんですけれども、一方吉政はずっと東野にいます。東野に隠れ潜みます。
その隠れ潜んだ場所が、今の堀原稲荷神社。ここでやっと出てくるんですけれども、堀原さん一帯と言われているんですけれども、おそらくは水が湧き出てちょっと開けている、あそこの堀原稲荷神社のところだと思うんですけれども、そこに隠れ潜みます。
で、その後ですね、4代あります。息子、孫、非孫とあって4代続いて、5代目の、これちょっと何代目かわかりませんが、4代あって、この5代目の道吉、倉堀道吉ですね。倉堀道吉が医者として東野南部藩に使います。
で、そのタイミングで苗字を変えます。宮というふうに苗字を変えます。その後いっぱい恨みとか不文と気になることを書いていると思うんですけれども、後で説明します。
で、この道吉が今の六日町ですね。六日町でお医者さんをします。ところが悪い噂を立てられたそうなんですね。地域の人たちが、この倉堀県の人たちは元麻生県の人たちだということを当然知っているわけですね。
その南部藩の地政の中で、前のお殿様のお医者さんにかかると、なんか悪いことをされるぞと。恨みを晴らされるという意味で。なので悪い噂を立てられたと。
で、それに腹を立てた道吉が、もう一回六日町を引き上げて、小戸倉稲荷神社のところに引っ込むらしいんですね。ところが、いろんな医療を施して地域の尊敬を集めていた人なので、町の人は困るのでもう一回来てくれということで、
そのわだかまりが解けて、その後道吉は、道吉の息子からずっとですね、医者が何代も何代も出るお家なんですけれども、もう一回町の方に来て、宮という名前だと東野だとお医者さんの一族として、いろんな地域の人に医療を施すというふうになるんですけれども、
その道吉がこういろいろこう、すったもんだある最中で、かつて一族が住んでいた場所に、小戸倉稲荷神社というのを建てます。つまり、小戸倉稲荷神社という言葉を何回か使っているんですけれども、この時まで存在しないんですね。その時まで存在しなくて、道吉が医者になって、もう一回引っ込んで、もう一回出てくるときに、そこに神社を建てたと。
かつて一族が住んでいた場所、その医療に信仰のある場所として、それを作ったと。それが今まで残っているということなんですけれども、明治の時に神物を分けなきゃいけないということで、そこまで稲荷神社ですね、小戸倉稲荷神社に、
この倉堀家の四代のお墓とか、ずっとあったらしいんですけど、それを移動させて、今の城福寺さんですね、新町にある城福寺さんのところに移動してあるということだそうなんです。ここまでが家計の話なんですけれども、冒頭に申し上げた、宮というお家と倉堀というお家と、
早沼市というのは、一本でつながっていますよというのは、まずそういうお話です。さっき二つ目のポイントにあった三つの時代があるというのが、ここの早沼統治のおよそ400年間と、その後の無政府状態に近しいと言われていますが、暗黒時代と。
その後、八戸南部の入部があって、精神移行ですね。女お殿様の根根子様が始めたのがこの1627年間なんですけれども、この間の27年間というのが、政権が安定しないわけですから、全政権の生き残りだとか、あるいは新政権の側につくのかとか、そういうのが一番激しかったと言われています。
ここからが遠山語の中に出てきて、非常に面白いところなんですけれども、ここですね。まずは週139話というのがあるんですけれども、ちょっとこれを読み上げてみたいと思います。
三谷の家が鶯崎に住んでいた頃、跡子さんには今の倉掘り家の先祖が住んでいた。ある日、倉掘りの方の物がごき洗い場に出ていると、酒の川が流れてきた。
これは、鶯崎に何か変事があるに違いないと言って、早速船を仕立てて出かけて、その機難を救ったと。
書いてあるのはこれだけなんですけれども、これ、要は何かというと、阿蘇沼家が南武士の残党狩りにあったと。
つまり、生き残りを探して値台足にするという、その残党狩りにあったわけですね。
その時に、生き残っている倉掘り家と三谷家の父族が、何らかその情報を得て、教え合って、そこは酒の川とか、そういう印になるものが出てくるんですけれども、
そういうことがあったので、危機を未然に防いで生き延びることができましたというようなお話なんですね。
なので、この背景、この時代ですね、この時代背景を知らずに読むと、何の話かよくわからないと。
三谷と倉掘りがどういう関係かもわからないし、変事があったって、変事って何だろうってわからないんですけれども、
これ、要は南武家の残党狩りにあった、それを未然に防いだと。
なので、三谷家の一族は、今に至るまで、酒の川を食べないと言われているのは、命を救ってくれた子のお話から来ているというお話なんですね。
これちょっとさらに順番でいこうと思うんですけれども、
これがね、僕はすごく好きな、意味がわかった時にめちゃくちゃ面白かったやつなんですけれども、141話ですね。
これもちょっと読んでみたいと思います。
三谷家には開けぬ箱というものがあった。
開けると目がつぶれるという先祖以来の厳しい咎めがあったが、今の代の主人は、
俺は目がつぶれてもよいからと言って、三重になっている箱をだんだん開いてみた。
そうすると中にはただ一松模様のような型のある布切れが一枚入っていただけであったそうなというやつですね。
これも読むと意味がわかりませんよね。
出ちゃいけないと言われるものを開けて、何でもなかったんだという、
党の物語によくある意味のよくわからない話のように見えるんですけれども、
これが何かというとですね、これもわからなかったんですけれども、
これは三谷家のですね、三谷靖さんが調べた資料の中にあったので、そういうことかと私もわかったのがあるんですけれども、
この一松模様の布というのは、
この倉堀義政が、このクーデターで追われた広永から、
党のに奪還しようとした三回目の戦争のときに、
もうやっぱり党の取り返せないと、もう党の進行を叶わないと観念したときに、
自分の固みとして、阿蘇沼家の継ぐものの固みというかね、
それを持っているのは殿様でしか持てないような貴重なものの入った布切れを、
吉政に手渡したそうなんですね。
これでいつかお前がその時が来たら、阿蘇沼家の正当な後継者だということを証明して、
宗家回復を期して、広永から吉政に手渡された布だそうなんですね。
ところが、ここからが私は面白いなと思うんですけれども、
結果何が起こったかというと、この暗黒時代の後ですね、八戸から東南部氏が来たときに、
見事に平和にそれを収めるんですね。
この27年間で非常に犯罪の多い無政府状態みたいなのが続いていたんですけれども、
この根根子、精神二皇がそれを収めて、すごい平和な時代を作ると。
そうすると、同じ南部家でも森岡南部藩の都市縄の暴力で起こった空手だと、
それとは違う八戸から来た南部家がちゃんと収めたというときに、
このときもう恨む相手がいなくなっているんですね。
だから恨み晴らすというかといっても、三つの時代が重なっていて、
かつ自分たちを滅ぼした人たちはもうみんな滅びちゃっているんですね。
今の女お殿様はちゃんと収めているというときに、もう恨む相手がいなくなっていると。
そうしたときにどうしたかというと、この吉政から数えて五代目の道吉、
その120年か何十年か経った後に、その恨み晴らしてくれという一末模様の布を封印したんですね。
これ開けてはならぬと。
これどういう意味かというと、もう恨みを忘れなさいということなんですね。
つまりこれを恨み晴らしてほしいのであれば開けなさいですよね。
年に一回開けてこの恨みを忘れるななんですけれども、絶対開けてはならぬと言ったわけですね。
じゃあその恨みを晴らさなくていいんだったら捨てればいいんじゃないかと思うかもしれませんが、
僕たちも結婚式でもらった引き出物のお皿、使わないのに申し訳なくて捨てられないんですよね。
それが結婚式ぐらいで捨てられないんだから、先祖伝来の恨みを晴らしてくれという布を捨てられるわけがないんですよね。
でももう恨みを晴らす相手なんかいないんだってなったときにはもう封印するしかない。
封印して忘れ去られるのは待つしかないということで、
30の箱で開けてはならぬということで宮道吉が封印をしたそうなんです。
その伝来の資料によると。
その後さらに4代か5代後の宮なんとかさんがこれ開けたんですね。
開けたときにはなんだかよくわからなかったっていうのがこの佐々木喜禅が収録したこの話になってるんですけども、
この開けてなんだかわからなかったっていうのは実は大成功なんですね。
開けてもなんだかわからないぐらい忘れ去られるぐらい封印したいっていうのが宮道吉の願いだったので、
開けてこれは先祖の恨みだって思ったらむしろダメなんですよ。
そうしないために封印して、そうしないために何のものかどういうものか教えずに封印してたっていうものがこれなので、
実は東の物語のこの話って何の話かよくわからないって僕も思ってたんですけども、
実はこれ大成功してる。宮道吉の狙いが大成功してるってエピソードなんですね。
だから普通世の中の映画とか小説に出てくるヒーローって一族の恨みを晴らすみたいなのがそういうヒーローって、
そういうタイプのヒーローっていると思うんですけども、
道吉っていうのは、恨みを忘れて何もしないことによって今の平和な世の中を維持しようっていう、
そういうタイプのヒーローなんですね。すごい珍しい面白いお話だなと思いました。
その後ちょっと時代の方を遡りまして、順序を逆にしてあるんですけども、
そうなるとですね、遠野の人たちが、この倉掘りの人たちとか宮家の人たちが、
元はその馬家の一族だってことを当然ながら知らないわけはないんですよね。
当然、ほどぼらになり神社の人は下久道、尾生鎌地、新町とか、
主にその辺で活動してたらしいんですけど、そこに限らず病気の人は全部そこに来たらしいですから、
もう知らない人はいなかったらしいんですけども、新しく南武家が治めている時代の中で、
あえて前のお殿様の全政権の一族の人たちを崇め立てまつるとか尊敬するとか、
そういうのって差し支えがありますよね。
暗黒時代のような時代ではないとはいえ、裏切り者というか忠誠を疑われるというか、
あまり口に出しづらいことのようだったんですね。
その時に麻生馬家の人たち、あるいはその人たちが施している医療への尊敬の念を表現するのに、
ここですね、138話なんですけども、
東野の町に宮という家がある。土地で最も古い家だと伝えられている。
この家の元祖は今の気仙河を越えて酒に乗って入ってきたそうだが、
その当時はまだ東野号は一円に広い湖水であったという。
これ文字通り受け取ると、それこそ神話の時代というか、
旧石器縄文時代と書いてますが、いつの頃かわからない古い、
その昔から来た一族ですよということが書いてあるんですけど、
事実はそうじゃないわけですね。
宮家の人たちははっきりと1189年以降に入ってきている人たちであって、
これはもう本当事実とは違う神話なんですけども、
なんでわざわざ神話で伝えなきゃいけなかったかというと、
あそのま家の人たちの尊敬をストレートに口にできる世の中じゃなかったからなんですね、
南部家のこの時代の中で。
でも現に宮家の人たち、あそのま家の一族からすごい恩恵を受けているので、
その尊敬を示すためにあたって、今の東の南部家よりももっと前から来てた人たちなんだよと、
あえて神話にしてその尊敬というか信仰を作ったというか、保ってきたという。
なんであえてわかりにくくしてあるというのがそういう内容なんですね。
なので冒頭申し上げたホドブライナリ神社が何の場所かよくわからないというのは、
出産とか衣類とかいろんな霊権があるというのは、
そのお医者さんの一族がいなくなっても、
その住んでた場所に託されて、転送されて存在しているというもので、
なおかつそれがすごく東の中でも優称のある立派な場所だよというふうにあえて言えないのは、
それが全政権のお供様の直接の子孫のところなので、
はっきりとそうは言えないというような事情もあったんじゃないだろうかというふうに思っています。
というふうに見るとですね、この東のまわたり周囲のエピソードだとか、
あるいはホドブライナリ神社とはどういう場所かというのが、ちょっとわかりやすくなるのではないかなと思っています。
そのあとパンフレット、地図になっているものがあると思うんですけれども、ちょっとそれを見ていただければと思います。
今日ちょっとあいにくの雨なので、歩きに来られない方もいらっしゃると思うので、
なるべくこの場でいろいろこの地図の中身をご説明したいと思うんですけれども、
まずですね、この右側にある鍋倉城跡がありますけれども、
これがですね、東の駅前から歩いていくと、博物館の脇を抜けて南部神社のところを上がっていくと、
鍋倉城があった場所というところに行けるわけですけれども、
これが一番最初の、13代の阿蘇沼博国が高校時の横田城からこっちに移してきた最初の城ということになります。
ですので、息子の博長ですね、クーデターで追われた博長も当然ながらここにいたと。
ところがもうその代で阿蘇沼家がこの城にいたというのはもう最後になります。ここから追われてしまうと。
じゃあですね、その博長はもう東のに戻ってこれなかったんですけれども、
弟だった吉政がどこに隠れたかというと、この辺りがほどぼらさんというか、
物見山の麓なのでほどぼらさんというピークはないんですけれども、
この一帯のことをほどぼらさんと言いますが、この辺にいたということなんですね。
しかしこうしてみると随分近いように見えると思うんですね。
歩くと1キロ、2キロなので、随分命を狙われている割には随分近いところに見えたなと思うかもしれませんけれども、
当時の風景が今とちょっと違っていまして、これ猿介石川なんですけれども、
この猿介石川の横に彫作堤防というのがありまして、
これは川の氾濫しないように作られたこの彫作堤防というのが1843年、19世紀に作られたものなので、
当時1600年代ですね、いろんなことがあった、逃げていた1600年代、200年後にできるものなので、
当時の猿介石川というのは、ちょっとこの画面で印を動かしますけれども、この辺まで流れ込んでいたと。
つまりこう来て、この山にぶつかって折れ曲がって流れていったということなので、かなりこの辺まで川だったらしいんですね。
あと今の林川も、島の市内を分断して2本に流れていたりしたので、かなりこの辺に川があって、それがこの辺にぶつかって大きな淵になっていたということなので、
逃げ隠れるにしては、前が大きく川で堀になっているという状態です。
あとはですね、あたご橋が今あると思うんですけれども、このあたご橋が架かるのが1666年なので、
吉島さんが逃げていた1600年代にはまだこのあたご橋もないです。
ないので、もうここに来る方、こっち側かですね、西側からこっちに来る方法がかなり限られているという状況だと思います。
かつですね、こっちが下が物見山なんですけれども、物見山の向こうがもう山を越えると伊達藩ですね。
隅田町だとか、お供の向こうですね。
伊達藩なので、いわゆる半堺、山は大きいのでそんなにポンと行けないんですけれども、
山の中をずっと逃げていけば、そこをたどって伊達藩まで逃れられるという半堺にあたりますので、
背後を逃げられるようにしておいて、前が川で塞いでいるという状況だったんじゃないかなというふうに思います。
あとはですね、もし天気が良ければ歩けたらと思っていたところが、うねどり様ですね。
これは今でも東野でもの屈指の人気の観光スポットになっていますけれども、縁結びの神様のところですね。
これは、倉堀家の人たちですね。宮家の前の倉堀家の人たちが倉堀神社を作って、その中にうねどり神社ができてということなので、これもご縁のある場所なんですけれども、
これも酒の伝説が関わっているようなところでですね、酒に命を救われて、エピソードなんかも残っている場所で、
この辺りには大きな淵があって、主が住んでいて願い事を叶えてくれるみたいな話も残っているんですけれども、
その淵というのが、当時こっちから猿海石川が深く流れ込んでいたので、かなり川の流れの中にあった、流れが近くになったので、当時はそういう風な景色だったということのようです。
その後、実際に小戸原稲家神社ができるのが1765年なんですけれども、この場所ですね。
だいたい下組町、六日町、新町辺りからはどこからでも見られる場所にあるんですけれども、
木に隠れているので、見れると言っても、これだって分かったりはしないんですけれども、一回行くと、あの辺にあるんだなというのが分かって、どこからでも見られる位置にあるんですけれども、
その山道というのがこのルートCですね。
これほぼまっすぐで書いてますけれども、これ今の釜石街道というのかな、バスが通る通りがありますけれども、バス停のところに山道入り口を示す、
登山口を示す石がありまして、そこからまっすぐ登っていきますと、この森の境あたりに大きな鳥居がありまして、ここからが山道ですね。
山道を登っていって、ちょっと今高速道路がありますので折れ曲がっているんですけれども、何もないころは、私子供のときはまっすぐ繋がっていたので、そのまままっすぐ登っていって、
そうすると中腹に中稲荷というのが小さい祠がありまして、そこからさらに5分くらい登ると、ほどこら稲荷神社ということで、だいぶまっすぐに登ってこられる山道だったようです。
あとは、壮大な越生さんの話だと、越生さんが子供のときまでは、まだここの辺が陶地場に、陶地場として使われていたということで、
陶地場って温泉じゃないんですけど、湧き水を鉄砲風呂で沸かして、体を温めて一泊とかして休んでいくというようなところだったようです。
なので、今でもそのお風呂の跡とかあるんですけれども、今あるお風呂はその当時の鉄砲風呂じゃないんですけれども、
その湧き水とか体を休めるとか、ご夫人方が体を休めて出産祈願しに来るというような信仰と習慣がつい何十年か前まで実際に残っていたと。
私自身は子供のときキャンプしたぐらいなんですけれども、地域の人には今も使われているそういった場所です。
という感じで、ご案内した、お持ちした資料は今日こういう感じなんですけれども、実は今日は素敵なゲストにちょっと来ていただいて、
もしお時間あったら、ちょっとコメントご挨拶いただければと思うんですけれども、
ミヤ道吉さんというふうに何度もここにも何度も何度も出てくるんですけれども、それと同じ名前を持つ、緊張されてますね。
ごめんなさい、なるべく緊張しないようにやりたいと思うんですけれども、今のミヤさんのご意見は、
今日このイベント、あとはホドボライナリ神社を参拝されたいということでいらしてますので、
ちょっと今日この後一緒に歩かれる方もいると思うので、ちょっとご紹介させていただければと思います。
じゃあ、ミヤ道吉さんです。
はい、道吉と申します。私が小さい頃におじいさんからこの話を聞いただけで、実際に全然わからない状態だったんですけれども、
ちょっといろんなことが大輔さんとつながり落ちまして、今日にちょっとお邪魔させていただきました。
全然わからないんですけども、ちょっと回ってみたいなということでよろしくお願いします。
奥様と息子さんの友やさんも3人でいらっしゃってますので、ちょっと聞いてもいいですか。
僕、ひょんなことから知り合ったんですけれども、宮城県に伝わる資料なんかを郵送で送ってもらって、
それで僕が今回わからなかったところもいろいろわかったというのがあるんですけれども、
記帳の人物として写真を撮られていますが、
宮さんのお家の資料はどういうふうに保管されていたんですか。
えっとですね、私小さい頃に親父とおじいさんが亡くしまして、
いろいろ引っ越しという形になったときに、いろいろ整理していたときに見つかって、
これはなんだろうと思って、いろいろ見ていたら、宮道義さんから、
あれが全部かかっていたというのがあって、これは取っておくべきでしょうと思って、
ずっと保管をしていたんです。保管したところを大助さんと知り合って、
いろいろと資料を送ってほしいということだったので、
全部一旦送ってまとめていただいて、
それはもう、ただ俺が持っていただけでは何の意味もないものだったと思うんです。
そういった形で、とうのに本気があった、
先祖がいたというのを分かってから、
自分も行ってみたい、知りたいことがいっぱいあるということもありまして、
自分の名前もうちのおじいさんがつけてくれたんですけれども、
先祖と同じ名前だったというのも一番ありまして、
今回本当にお手回りさせていただいて、
いろいろと知りたいこととか分からないことを勉強していくかなと思っています。