1. 名谷教会
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2011-12-25 34:20

2011/12/25:聖日礼拝(旧音源)

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2011/12/25 聖日礼拝(旧音源)


00:00
御着席ください。それでは、聖書朗読をしていただきます。
ルカの福音書二章の十一節から二十節まで、新約聖書の百九ページです。
聖書を拝読いたします。
ルカの福音書二章十一節から 今日ダビネの町であなた方のために救い主がお生まれになりました。この方々こそ主キリストです。
あなた方は布にくるまって海辺をけに寝ておられる緑子を見つけます。これがあなた方のための印です。
すると、たちまちその御使いと一緒に多くの天の軍勢が現れ、神を賛美していった。
糸高きところに栄光が神にあるように、地の上に平和が御心にかなう人々にあるように、御使いたちが彼らを離れて天に帰っていった時、
羊飼いたちは互いに話し合った。
さあ、別れへむに行って主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見てこよう。
そして急いで行って、マリアとヨセフと海場桶に寝ておられる緑子を探し当てた。
それを見た時、羊飼いたちはこの幼子について告げられたことを知らせた。
それを聞いた人たちは皆、羊飼いの話したことに驚いた。
しかしマリアはこれらのことを全て心に納めて思い巡らしていた。
羊飼いたちは見聞きしたことが全部御使いの話した通りだったので、神をあがめ賛美しながら帰っていった。
以上でございます。
続きまして聖火体により賛美歌105番を賛美していただきます。
03:16
羊飼いたちの歌を聴いてくださった。
羊飼いたちの歌を聴いてくださった。
羊飼いたちの歌を聴いてくださった。
羊飼いたちの歌を聴いてくださった。
羊飼いたちの歌を聴いてくださった。
羊飼いたちの歌を聴いてくださった。
羊飼いたちの歌を聴いてくださった。
羊飼いたちの歌を聴いてくださった。
羊飼いたちの歌を聴いてくださった。
羊飼いたちの歌を聴いてくださった。
内田先生より、キリスト降誕の目的と題しましてメッセージをしていただきます。
クリスマスおめでとうございます。
皆様とご一緒に主の御降誕を心よりお祝い申し上げます。
今日も御言葉を通して主を崇めて参りたいと願っております。
一言お祈りをいたします。
神は実にその一人号をお与えになったほどに要愛された。
それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を持つためである。
06:02
天の父なる神様、ただいま私たちは2011年のクリスマス礼拝を捧げています。
どうかこの礼拝を主が共にいてくださってお導きくださいますように。
礼拝の主であられ、また教会の頭なるキリストを今日も崇めてこのお方を心に迎え入れる時としてくださいますように。
そしてあなたから新たなる霊と命の注ぎを与えられて、ここからそれぞれに使わされて参りますように。
今日も御言葉を通してあなたの御胸を悟る者としてくださいますように。
また後続きます聖三式や祝会の上にもどうか恵みを注いでくださいますように。
全てを委ねて私たちの救い主イエスキリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
今年は12月25日がクリスマスにあたるということ。これは非常に珍しいと思うんですね。
ちなみに来年は23日が日曜日で、その日がクリスマス礼拝を持つんだと思いますが、
今日もこうして多くの皆さんがこの礼拝に来てくださったことを感謝をいたします。
この教会について、特に日本でのことですが、いくつか誤解があるんですね。
その一つは、よく旅行会社が出していますようなああいうパンフレットで、
教会巡りの旅とかいうのがあるわけですが、よくテレビでも番組しています。
そして何々の教会、そこの教会はレンガづくりで非常に立派であるとか、
そこの教会はもう百年の歴史があって、そこの場所はどこで、どういうふうに建っている。
これはいわゆる教会堂であって、教会とは違うわけですね。
ですからあれは一つの誤解で、教会堂巡りということでないとおかしいわけですね。建物のことを言っています。
ですから本来その教会という、元のギリシャ語のエクレシアというのは、
そこに集う神様によって召された人たちの人の群れのことを言うわけですね。
ですから、例えばその何々教会に行って、そこは朝の早朝6時から人々が集まって、
09:00
そこで神様を礼拝しているのをその旅行者が見た。
その人たちが礼拝しているその姿、その人の群れが教会なんですね、エクレシア。
ですから教会と教会堂とは違うということですね。
いくつか誤解があって、その一つ一つ皆さんに理解していただきたいと思うんですが、
もう一つの誤解は、教会は敷居が高いと。
これも誤解であって、教会ほど敷居の低いところはないんですね。
もう何よりの低さ、それは神であられるお方が降りてきてくださって、
そして私たちよりもさらに低く、そして現れてくださった。
これほどのいわゆる謙遜と言いましょうか、減り下りはない。
そこに集う私たちもそのようにされているわけですけれども、
どういうわけか教会は何か敷居が高くて近寄りがたいと。
それはおそらく神様というお方が聖なるお方であって、
そこに私たちこの人間が神様そういうお方に何か近寄りがたいという、
そういう意味の敷居が高いんだと思うんですが、
教会そのものは、私たちそのものは決して敷居の高いようなものでもありませんし、
ごくごく普通の、いわば一般人であります。
そんないろいろな誤解があるわけですけれども、
どうぞ今日もお気軽にこの礼拝を捧げていただいたらと思います。
今日はクリスマス礼拝ということで、
もうすでに対抗説、この4週にわたりまして、
クリスマスに関するメッセージを語らせていただいたんですが、
今日もまたたくさんの見言葉を通して、
クリスマスのことを皆さんと一緒に考えてまいりたいと思っております。
皆さんは5W1Hというのを思い出すと言いましょうか。
知っていると思うんですね、5W1H。
中学校か高校か知らないですけれども、
習ったことがあるなという、
もういろいろなことを考えながら、
あの手この手で皆さんに、
イエス様のことを知っていただきたいという、
そういう少しサービス精神もありまして、
今日は5W1Hを通して、
イエス様のことを考えていきたいと思います。
クリスマス、それはいつのことなのか、
あるいはどこで、そして誰が、
何をした、何が起こったのか、
そしてなぜそれは何のためなのか、
そしてどのようにしてそれは起こったのか。
12:02
私たちが何か一つの出来事の内容を知りたいときに、
こういう5W1H、こういうような問いかけをして、
それに答えを見出していく。
そのことによって全体の姿が見えてくるという、
そういうことを今日覚えながら、
このクリスマスのことを考えてみたいと思うんですね。
それはいつのことなのか、
いつ起こったのかということですが、
聖書にははっきりとその年月、日付というのは記されていません。
しかし、それは今から約2000年前のことであるということが、
聖書に記されておるわけです。
例えば、マタイによる福音書というところに、
ヘロデオの時代にという、そういうところからも推測できますし、
ルカによる福音書の2章のところ、
皇帝アウグストの時、
フレニオがシリアの総督であった時の、
最初の住民登録をせよという直例が出たという、
そういう歴史的な事実の中で起こっているという、
そういうところから推測して、
おそらく2000年前のことであろう、約2000年前の出来事だという、
そういうことがわかってくるわけです。
その当時のこの地域の人たちは、
ローマの支配を受けて強いたげられておった。
まさにその暗黒の時代という、そういう時代であったわけです。
イスラエルの民は迷える羊のようにうろたえておった。
どうしていいかわからないという、そういうような中にありました。
それは彼らが罪の中に、神様に従わないという、
そういう中にあったわけですね。
そういうところで多くの預言者を通して、
主に帰れ、神様のもとに立ち帰れという、
そういう声も聞いておったわけですが、
御言葉を聞くことの基金と言われるように、
彼らはその言葉を聞こうとしなかった。
そういう時代、それが旧約の時代と言われています。
この聖書は旧約聖書と新約聖書に分かれていますが、
この旧約聖書の最後のマラキ書のところで、
やがてギの太陽が昇るであろうという、
そういうイエス様の来られるのは予言されておったわけですね。
それから神様は沈黙を取られて、
そしていよいよその時が来たということですね。
それが今私たちが生きる新約の時代。
15:01
ですからこのマラキ書が終わって、
一枚、二枚、三枚あると思うんですが、
この三枚、これが約四百年と言われています。
しかし四百年の後、
神様は全ての営みには時があるとおっしゃったごとくに、
いよいよその時が来たという、
それが約二千年前の出来事であった。
そのように言えるわけです。
それではどこでそれが起こったのかということですが、
マリアとヨセフという二人の人物が聖書に出てきます。
彼らはナザレというところに住んでいたんですが、
精霊によってマリアが見ごもります。
そして先ほども言いました住民登録のために、
彼らはベツレヘムというところに行くんですが、
そこで月が見してマリアは男の子を産んだという。
ですからこれはナザレ、ベツレヘムと言われるような、
パレスチナの地で起こった出来事であるということですね。
私たちは大抵世界地図を見るときに、
日本が中心になったこういう太平洋があって、
こういう地図を見ていますが、
本来の世界地図と言いますのは、
日本は極東と言われるように見ていただいたらわかるんですが、
日本はこちらの方にありますね。
そして世界が広がっています。
おそらくイタリアあたり、そしてこのパレスチナも含めた、
あのあたりが世界の中心になっているんですね。
ですからこの出来事は、
世界の中心で起こった出来事であるということです。
ですから世界のこの真ん中で、
この神様の愛が私たちの目に見える形で現れなさったということ、
いわゆる世界の中心で神様がそのご愛を表されたという、
まさにこれこそセカチュウであるわけです。
第三番目に、それじゃ誰がしたことなのか。
あるいは誰が起こしたことなのか。
神を守護にするならば、
神が私たちにミコイエスキリストをお送りくださった出来事。
18:01
ミコイエスキリストを守護にするならば、
ミコイエスキリストが私たちの救い主としてお生まれくださったというこの出来事。
これは神ご自身がなさったこと。私たちがさせたことでもない。
もちろん長い間これが予言されて、
皆が祈りそして願っていたことでありますけれども、
神ご自身がなさったということです。
天地創造の神が聖霊の力によって、
そしてミコイエスキリストを私たちのところにお下しくださった。
ミコイエスキリストは自ら私たちのところに来てくださった。
これが三味一体の神のなさった神の御業であるということ。
このことを私たちは今日覚えたいと思います。
そして何が起こったのか、何をしたのか、それは既に言ってますように、
神様が乙女マリアの体内に神の巫女を宿し、
そして今日ダビデの町に救い主がお生まれになりましたという、そういう出来事が起こったということです。
そして一つ飛ばして、それはどのようにして起こったのかということですね。
どのようにして起こったのか。
これは私たちは見言葉を通して、そのことをもう一度確認しておきたいと思いますが、
ピリピ人への手紙の中にこういう言葉があります。
ピリピの手紙。
ピリピの手紙の2章の6節から8節のところ。
キリストは神の見姿である方なのに、神の在り方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして使えるものの姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての性質をもって現れ、自分を癒しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
神の見姿である方なのに、人間と同じようになられました。
どのようにして神はそんなことをなさったのか。
それは人間の姿をとって現れなさったということ。
そのことを聖書は告げているわけです。
いろんな神々がありますけれども、この誠の神は、
例えば牛とか、あるいは狐とか、猫とか、蛇とか、
いわゆる偶像というそういう形ではなく、
人間の姿をもって私たちのところに現れてくださったお方。
21:08
それがクリスマスのメッセージであります。
私たちがこの神様を知るときに、私たちはこのお方を自分の救い主として迎えるわけですけれども、
知れば知るほど、何とありがたいお方であるのかということを知るわけです。
神様が私たちと同じ人間の姿をとって来られたということ、
それは私たちと同じように血も涙もある人間として生まれ下さった。
私たちと同じように喜びも悲しみも、あるいはつらいことも、
それを感じ取ってくださる。
痛みのわかる神様として人間の姿をとって来てくださったんだということ。
それこそ遠い存在、近寄りがたい、敷居の高い、そういう神様ではなく、
私たちといつもともにいて、私たちの悩み苦しみも聞いてくださる。
ただそれを聞いてくださるだけではなく、そのお方が本当にその痛みをわかってくださる。
そして神ご自身がその痛みをとってくださって、
一緒に喜びも悲しみも分かち合ってくださるという、そういうお方。
これが私たちが信じる神様であり、そのお方がキリストとしてこの世に生まれてくださった。
そのことをもう一度覚えたいと思います。
最後に先ほどの今日の御言葉のタイトルにありました。
キリスト抗端の目的。なぜ神はそんなことをなさったのか。
何のためにそんなことを神様はしてくださったのかというその目的であります。
これも御言葉を通して私たちは知っていきたいとそう思うわけであります。
一つはマタイの福音書にもマルコの福音書にもルカの福音書にも記されています。
ルカによる福音書の五章の三十一節三十二節お読みしますので聞いてください。
イエスは答えて言われた。イエスご自身が言われたわけです。
24:01
医者を必要とするのは丈夫なものではなく病人です。
私は正しい人を招くためではなく、罪人を招いて食い改めさせるために来たのです。
私は来たのです。何のために?
罪人を招いて食い改めさせるために来たのですというここに一つの目的が記されています。
人は時には病気になります。
人は丈夫で健康な人ばかりではありません。
ですからもしみんなが丈夫で健康であればお医者さんは必要ないわけですけれども
私たちの周りには弱っている方、病の中に苦しんでいる方がたくさんいます。
私たち自身も健康害し、時には病気になります。
ですからどんなことがあってもお医者さんがいてもらわなくては困るわけです。
お医者さんがいなかったら助かる者も助からないという、そういうことは私たち十分わかるわけです。
その人間は体だけではできているのではありません。
私たちには命の根源であるその魂というものがあります。
その魂が病んでいる。
魂が罪のゆえにそして滅びに向かおうとしている。
この病んだ魂をそれじゃ救うのは誰なのか。
その滅びに行く魂を救うのは誰なのか。
人間にはできない。
そのことを見てとった神様はもういてもたってもいられない。
その病んでいる罪人を癒し、救うために医者は必要なんだ。
魂の医者が必要なんだ。
そうでなければ救われる者も救われない。
何としてでもその罪にけがれて、そして滅んでいく魂を何としてでも救いたい。
それが神様のご愛であったわけです。
ですから、イエス様はそのために私は来たのだ。
罪人を招くために、そして改めて神のもとに立ち返るようにするために私は来たのです。
二つ目に、これもルカの福音書の十九章の十節のところをお読みしたいと思います。
それは、人の子は失われた人を探して救うために来たのです。
人の子というのはイエス様ご自身のことなんですが、イエスキリストは失われた人を探して、そして救うために来たのです。
27:07
ここにイエス様が来てくださった目的があります。
神様が御子をお送りくださったこの目的が書かれているわけです。
この失われた人、これは本来あるべきところにないという状態が失われているという状態です。
人間は本来神様に作られて、神様といつも共にいるという、これが本来の在り方です。
しかし人間は神様に背を向けて、自分勝手に生きていこうとしていく。
その時にこの人は失われた存在となってしまうわけです。
この失われた人、かつての自分もそうでありましたが、今なお多くの人が神様に背を向けて、
そしてやがてその魂は滅んでいってしまう。
なぜ失われてしまうんだろうか。
二つの理由が考えられます。
一つは本来人間は神とあるべきものであり、そして神によって作られた。
だから神を廃止、そして神様の御心のままに生きていくのが、本来の人間のあるべき姿だと知らされていなかったために、
そしてそれを知らないがために、そして失われていくという、そういうことが考えられます。
もう一つの理由は、聖書は、それは愛がないからだというわけです。
私たちは互いに人間の社会の中で生きていますが、ある人は愛されないという、そういう中に生きている人たちもいます。
その愛がないために、その人はみんなから離れていって、そしてもちろん神からも人からも離れていって、
そしてどこをどう歩いていいのかわからない。
愛がないために、その人は失われていく。
もうみんなもそういう人のことを構っていられない、自分のことで精一杯なんだという、そういう状態のときに、
失われる人が一人起こされ、また一人起こされ、やがていつか誰も知らないところでその人、魂は死んでいってしまうという、
そういう現実があるわけです。
それを見た神様は、それを放ってはおけない。
たとえ人が見向きもしない、関心を持たなくても、神御自身は、そういう失われた人を何としてでも探し出し、
30:04
そしてその人を愛して、そしてもう一度神様の愛に包んであげたいという、そういう神様の願いが、
このキリストを贈り、キリスト御自身はこの人間の世界に来てくださったという理由であるわけです。
迷える一匹の羊をわざわざ探し出して、
時には自分の命さえも返り見ず、その失われた魂、誰にも愛されない、誰からも関心を向けられない、そういう魂のためにキリストは来てくださったんだということ。
人の子は、失われた人を探して救うために来たのです。
三つ目の理由は、これもヨハネの福音書の中から見てみたいと思うんですが、このようなことが書いています。
私が天から下ってきたのは、イエス様御自身の言葉、私が天から下ってきたのは、自分の心を行うためではなく、私を使わした方の御心を行うためです。
私を使わした方の御心は、私に与えてくださったすべてのものを、私が一人も失うことなく、一人一人を終わりの日によみがえらせることです。
事実、私の父の御心は、こう見て信じる者が皆永遠の命を持つことです。私はその人たちを一人一人終わりの日によみがえらせます。
イエス様は人間の姿をとって、私たちのところに来てくださった。
そして、罪からの救いのために、それを贖うために、自分がその人間たちの罪と罰の一切を自分が身代わりに受けて十字架にかかる。
そこで命を捨てて、彼らが生きるようにとなさってくださった。
それが十字架の贖いであるわけです。
しかし、それだけではない。主は三日目によみがえりなさいました。
それは私たちに、このイエス・キリストを信じる者が、永遠の命をいただいて、そして終わりの日によみがえらせるためなのだ。
まさに、神は実にその一人号、イエス・キリストをお与えになったほどに、よう私たちを愛してくださった。
それは、御子を信じる者が一人として、一人としてどんな人も滅びることなく、その人が永遠というその命を持つためなのだ。
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あるいは、神様がその人に永遠の命を与えることなのだ。
そして、その人たちが終わりの日のよみがえりに預かることができる。
そういう希望を与えるために、イエス・キリストは来てくださったんだ。
そのことを私たちは、今日、喜びお祝いし、そして主に賛美を捧げるものであります。
それでは、清算式をいたしましょう。
その前に、お祈りをいたします。
天の父なる神様、私たちに御子イエス様をお与えくださったことを感謝いたします。
私も失われた者ではなく、神に見出され、そして罪から救われて、神の御愛と永遠の命に預かりたく願いますので、
イエス様を今、心にお迎えいたします。
主よ、どうかあなたが私の生涯をお導きくださいますように、
主イエス様の尊い皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
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