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2024-10-06 32:27

2024/10/06:愛の関係を求めて

2024/10/06 聖日礼拝

加藤満牧師

士師記 -23


サマリー

このエピソードでは、神の愛と人間の罪に関するメッセージが語られています。特にイスラエルの歴史において、神の言葉に従うことの重要性が強調されます。死式を通じて、神が人間の愚かさをどのように見ているか、またその愛がどのように現れるかが考察されています。愛の関係を求める中で、神は自己の哀れみを通じて人間の苦しみを理解し、救済を提供する姿が繰り返し描かれています。人々が神の道を外れると、彼らは圧迫に苦しむことになりますが、神はいつでも彼らの叫びを聞き、救う姿勢を失いません。このエピソードでは、神がイスラエルの民に対して愛を求め続け、自発的な愛の関係を築くことの重要性について語られています。特に、神の哀れみと愛が変わらないことを理解し、少しずつでも主を愛する選択をすることが求められています。

神の愛と人間の愚かさ
一言お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、
今日も私たち一人一人を、あなたの御前へと招いてくださり、
心からありがとうございます。
主よ、あなたは私たちを限りなく愛し抜いてくださり、
今も変わらない愛をもって、私たちを愛してくださっています。
その愛を、イエス・キリストの十字架によってあなたを現してくださいました。
キリストの流された血よ、それによって私たちの罪を清め、
私たちの罪を許し、あなたのことし、
それだけではなく三日目によみがえられた復活の命、
永遠の命を私たちに与え、
永遠なる日と共に生き続ける、その命を私たちに与えてくださったことを、ありがとうございます。
それゆえに主よ、どんなことがあっても、
あなたは私たちと共にいてくださることを感謝いたします。
神様、本当に気候が落ち着くかどうかというところの中で、
私たちの心も体も霊も、なおも疲れの中にありますが、
どうかお一人一人をお支えくださいますようにお願いをいたします。
ここに来たくても来れない方、施設におられる方、
また、思いがここに向かない方、それぞれがいらっしゃいます。
痛みの内にあります。
お一人一人をどうか、あなたが慰めてください。
あなたへと向くことができるよう、
精霊様が働いてください。
お願いをいたします。
また、私たちは痛ましいニュースを見続けています。
戦争が本当に激化してまいりました。
イスラエルとイランの間に、どうか主よ、なおも主が働いてください。
報復から何も生まれないことを、あなたが教えてください。
お願いをいたします。
そしてまた、日本のリーダーも変わりました。
神様、日本の異性者にも、上からの知恵を与えてくださいますように、
この中にあって、あなたの価値観が、あなたの愛が、
政治の内にも表されてきますよう、働いてください。
お願いをいたします。
今朝、私たちは御言葉に聞こうとしています。
あなたが開き、聖霊様が私たちに悟りを与えてくださいますよう、
お願いをいたします。
これからの時をゆだねして、
イエス様のお名前によってお祈りをします。
アーメン。
死式とイスラエルの歴史
閣議休暇をいただいてありがとうございました。
帰ってまいりました。
那覇平安教会で、御奉仕を少しさせていただきまして、
日曜日の午後、先生方のリードで、
私たち夫婦はひめうりの塔に行ってきました。
ひめうり記念館、私自身は初めてでして、
いろいろなことをまた勉強させていただきました。
その悲惨さ、戦争の悲惨さであったり、
愚かさですね。
それを帰ってからニュースで見ると、
また今、この世界で起きていることがあるということに
胸が痛みました。
人の愚かさというものはやはり、
なかなか変わりがたいのかな、ということを思います。
今朝から私たちは、
新明紀、吉明紀に続いて、
死式を御一緒に見てまいります。
死式といいますのは、
以前もお話ししましたが、
新明紀には、祝福と呪いがあります。
だからあなたは命を選びなさいということが語られていた。
そしてその直後の吉明紀というのは、
ある種、主に従っていって祝福されていったという
歴史を描いている書簡です。
そしてその後の死式といいますのは、
その逆でして、
主に逆らっていくイスラエルの民が、
呪いという現実に陥っていくということが描かれているのが、
死式だと言われます。
今は死式は、主に逆らい続けるイスラエルの姿が
描かれています。
そして彼らは呪いに陥っていくのです。
死式というのはそのためでしょうか、
礼拝で開かれることは、なかなか少ない言葉かもしれません。
人間の愚かさというものを、
まざまざと見せつけられる言葉です。
ただ、この中でも、
私は2つのことに注目しなければならないかなと思っています。
1つは、
罪にとらわれる人間の現実です。
これは、死式を見る以上避けることはできないでしょう。
人間はいかに愚かで、
そして変わりがたいのかということを、
死式を見るときに思わされますが。
けれどももう1つ、私たちが見なければならないのは、
そのような罪を繰り返す人間を、
神様はどのように見ておられるかということです。
神様の眼差しですね。
そのことをご一緒に見ていかなければならないと思っています。
死式自体も4回ほどで終わる予定です。
今朝の導入と、
死死のギデオンとサムソンを扱って、
最後、死式の最後を見ようと思っています。
余裕があればエフタという人物にも、
命の選択と偶像崇拝の危険
少し目を向けれたらと思っています。
さて、今日は死式の2章を読んでいただきましたが、
少し死式の始まりから確認をしていきますと、
先ほども申し上げました、これはヨシワ紀の続きです。
ヨシワ紀の最後というのは、
イスラエルの民がカナンの地を占領していくという話の中で、
晩年のヨシワの演説で終わった、そのようなものでしたけれども、
この死式で言うならば、
1章の例えば8節から書いている言葉、
このネゲブに進むだとか、デビルを占領するというのは、
これはヨシワ紀15章の内容がまんま記されています。
これは言わば、
イスラエルの民が順調にカナンを占領しているときの歴史が最初に描かれるのです。
見覚えがあるかと思います。
カレブの義理の息子のオテニエルがデビルという町を占領して、
そしてカレブの娘アクサが妻に与えられて泉を得たという話。
ヨシワ紀の15章、カレブの話をしたときに少しそこに触れました。
ただですね、死式はこのように順調であった歴史から、
少しずつほころびが生まれてきますよということが1章で描かれるのです。
それが1章の16節以降ですけれども、徐々にほころびが生まれてきます。
それは、カナンの地から彼らを追い払えなかったとか、追い払わなかったとか、
その土地に住み続けたという言葉で表現されていきます。
追い払えなかった、占領できなかったという言葉が、
16節以上はそれぞれの種族の占領のことが書かれているのですが、
例えばですね、17節以降をお読みしますと、こういうことが書いています。
ユダの兄弟シメオンと一緒に行って、サファテに住んでいたカナン人を討ち、
それを成立しその町にホルマという名を付けた。
ユダはガザとその地域、アシケロンとその地域、エクロンとその地域を攻め取った。
ユダと共におられたので、ユダは産地を占領した。
しかし、平地の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払えなかった。
追い払えなかったということが書かれていますね。
27節もちょっと読みましょうか。
マナフェはベテシアンとそこに属する村々、ターナクとそこに属する村々、
ドルの住民とそれに属する村々、イブレアムの住民とそれに属する村々、
メギドの住民とそれに属する村々は占領しなかった。
それでカナン人はその土地に住み続けたということが書いてあります。
追い払えなかった、占領できなかったというのには様々な理由があります。
鉄器を敵が持っていた。これ大きい問題なんですけどね。
鉄というのは当時最新兵器ですから、最新兵器を持っていたから占領できなかった。
確かにそうかもしれません。
相手が攻撃的だったから、いろんな事情がここにはありますが、
ただ問題は何かというと、そういうことを理由にして、
彼らが徐々に神様の言葉から離れていったということです。
徐々に離れていったんですね。
そもそもカナンの地に入るときに、神様がイスラエルの民に言った言葉がありました。
ちょっとだけ確認をさせてください。
神明記の7章の1節から6節というところにそのことが書かれています。
神明記の7章の1節から6節。神明記7章の1節から6節というところですね。
お読みいたしますと、旧約聖書の327ページの上の段にありますが、
神明記7章の1節からお読みしますと、こう書いています。
あなた方は入っていって所有しようとしている地に、
あなたの神主があなた方を導き入れるとき、
主はあなたよりも数多くまた強い七つの違法の民、
すなわちヒッタイト人、ギルカシ人、アモリ人、カナン人、ペリシ人、ヒビ人、およびエブス人はあなたの前から追い払われる。
あなたの神主が彼らをあなたに渡し、あなたがこれを討つとき、
あなたは彼らを必ず清拙しなければならない。
彼らと何の契約も結んではならない。
また彼らに憐れみを示してはならない。
また彼らと隕石関係に入ってはならない。
あなたの娘をその息子に討つがせたり、その娘をあなたの息子の妻としたりしてはならない。
というのは、彼らはあなたの息子を私から引き離し、他の神々に仕えさせ、
こうして主の怒りがあなた方に向かって燃え上がって、あなたを直ちに根絶やしにするからである。
むしろ彼らに対してこのようにしなければならない。
彼らの祭壇を打ち壊し、石の柱を打ち砕き、彼らのあしら像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。
あなたはあなたの神、主の聖なる神だからである。
あなたの神、主は地の表のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされている。
言われていますのは、必ず清拙しなさいということ。
この命令は実に残酷ですね。
どう見ても残酷です。
ただ、神様は喜んで清拙を命令されているのかと言ったら、そうではない。
大切な目的があるということも確認いたしました。
それは、イスラエルの民にとって危険なものを立たなければならない。
彼らの最大の危険は、このカナンの人々と交わるときに、
彼らが他の神々に使えるという偶像崇拝が起こるという危険性ですね。
そのことを神様はとても警戒されていました。
カナンの文化、価値観が流入すれば、民はすぐ偶像崇拝に陥る、そのことが目に見えていた。
これはしっかり申し上げておかなければならないのは、
これは、イスラエルの民を祝福の基とするという、神様のご計画があってなされている特別な命令です。
人々の過ちと神の反応
清拙や清善という概念は、丁寧に考えなければなりません。
簡単に適応してはならない。
そのことをつくづく思わなければならないことですけれども。
ただ、このような七章の言葉をイスラエルの民は聞いていたわけですが、
今日の箇所に戻るならば、彼らはカナンの地を占領するときに清拙しきらない、もしくは占領しきらない。
そのような危険が徐々に起きてきているということ。
堤防から小さなひびが入って水が一気に漏れてがかいするかのように、徐々に徐々にそこにほころびが生まれてきているということが、一節一章で書かれていることです。
神様の言葉があちこちで守られなくなっていった。
それを見て神様は嘆かれます。
二章の一節から、詩式の二章の一節から神様はこう言われるんです。
主の使いを通しての言葉ですが。
二章の一節から三節。
主の使いがギルガルからボキムイに上って行った。
私はあなた方をエジプトから上らせて、あなた方に父祖たちに誓った地に連れてきて行った。
私はあなた方と結んだ私の契約を決して破らない。
あなた方はこの地の住民と契約を結んではならない。
彼らの祭壇を打ち壊さなければならない。
ところがあなた方は私の声に聞き従わなかった。
なぜこのようなことをしたのか。
それで私も言う。
私はあなた方の前から彼らを追い払わない。
彼らはあなた方の敵となり、彼らの神々はあなた方にとって罠となる。
神の哀れみと救い
私はカナンの地をあなたに与えるという契約を私は破らなかった。
しかしあなた方は私の声に聞き従わなかった。
そのようなことが起きている。
そして今やそれによって入ってくる偶像というものが、
あなた方にとって今後大きな足枷というか罠になるということをここで言うのです。
思います。
なぜこのように順調にイスラエルの民は主に従ってきたのに、
こういうほころびが徐々に生まれてきてしまったのでしょうか。
そのことの原因は2章の7節に書いてあります。
2章の7節。
ヨシュアがいた間、また主がイスラエルのために行われた全ての大いなる業を見て、
ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、民は主に仕えたというのです。
民がこれまで主に仕えてきたのは、
主に従う人たち、もしくは主に従いなさいと励ます人たちがいたから主に従ってきたということが明らかになった。
でもそれはちょっと厳しいことをするならば、
人を見て自分の信仰を立てているということでしょうね。
人を見ている信仰と言えるのかもしれません。
ヨシュア紀の最後にヨシアはこのことを警戒してはっきり言いました。
私と私の家は主に使える。
他の誰が何と言おうとも私が死んでも、
あなた方はあなた方の責任で主に従わなければならない。
主に従うというのは一人一人の応答ですね。
そのようにヨシアは迫りましたが、しかしその迫りは届かなかったということがこの2章の7節に書いてあるのです。
そして2章のこの6節から、今日読んでいただきましたが、この18節にかけては、
この後、詩式の中で何度も何度も繰り返される詩式のパターンについて書かれています。
簡単に見ていきますと、一個一個見ませんが、4つの段階があるのです。
第一に民は、指導者がいなくなると民は主の目の前に悪を行う。
自分たちを導いてくれる指導者がいなくなったら、すぐに彼らは神様を捨てる。
それが一つ目のパターンです。
そして第二に起こることは、それを見て主が怒られるということです。
主の怒りというのは、主が直接何か手を下すということじゃないです。
2章の3節に書いてある通り、主が敵を追い払わなくなるということです。
守らなくなるということです。
主の守りがなければ、イスラエルは弱いのです。
だから主がその手を引かれると、彼らは諸外国の圧力に苦しみ始める。
そして第三に起こることは、彼らが叫び声を上げるということです。
聖書の箇所だけ言っていきますと、叫び声を上げるというのは、
2章の14節、15節にそういうことが書いてある。
彼らを大いに苦しんだ。
叫び声を上げる、苦しんだというのは、とにかく助けを求めるということです。
悔やあらためるということではないです。
彼らはとにかく叫ぶ。主を助けてください。
そして第四に起きることは、その叫びを聞いた神様は、
民に憐れみの心を動かして、今日の18節にお読みしました。
2章の18節。
主が彼らのために裁きつかさを起こした時、主は裁きつかさと共におられ、
その裁きつかさが生きている間、彼らを敵の手から救われた。
これは圧迫し、支えたげる者を前にして彼らが憂いたので、
主が憐れまれたからであると。
神様は憐れみの心を動かして裁きつかさを起こし、民を救い出されます。
裁きつかさというのは戦いの指導者ですね。
憐れみの心というのは何かというと、想像していただいたらいいんですけど、
子供の苦しみを見て、いてもたってもいられない親の気持ちだと思っていただいたらいいです。
子供が苦しむ姿を見て、いてもたってもいられない親の気持ちだと思っていただいたらいいです。
イスラエルが苦しむんです。
苦しむ子供を見た時に、突き放す方法もあるかもしれませんが、
やはりどうにかしてこの子を助けたいという思いは、私たちも抱くことでしょう。
どうして放っておけるだろうか。
神様はイスラエルがどんな状況にあっても、どんな窮地からでも、その叫びを聞いたら救い出されるんですね。
神様はイスラエルをご自身の子供として愛しておられるからです。
これは今もそうかなと思います。
余談ですが、イスラエルのために祈るということを大事にしているキリスト兄弟団という教団がございます。
その先生の話を最近聞いた時に、私たちは今でもイスラエルのために祈っていると。
でも最近のイスラエルの行動は、主の目にかなうものだと到底思えない。
思うことは、ただ主が彼らのうちに働きかけて、彼らが主の喜ばれる選択をすることを願っていますと言っていました。
そういうことを私たちも願わずにはいられません。
さて、このパターンがあるんです。
いわば、サバキツカサが死んだ後、民は目の前に悪を行う。
主が怒り、敵の手に渡される。民が叫び声を上げる。
神様はサバキツカサを送ってイスラエルを救う。
でもサバキツカサが死んだ後、また民は主の目に悪を行うという、このじゅんぐりのパターンがこの詩式に描かれています。
しかも、19節に書いてありますが、サバキツカサが死ぬと彼らは戻って、先祖たちよりも一層堕落したと書いています。
神への応答と信仰の課題
一層堕落したということは、前のパターンよりもだんだん悪くなっていくということです。
下り螺旋状にだんだん状況が悪化していく。
悔いを改めたとしても、もっともっと悪くなっていくというのが、実は詩式の描かれ方です。
詩式イデオンとサムソンという人物を順に見ていくと、それがよくわかります。
だんだん悪化していって、詩式の最後に描かれるのは、イスラエルの民から完全に立法が失われた姿です。
神を愛し隣人を愛するという姿が、完全に崩壊した世界が詩式の最後に描かれます。
さて、説明が少し長くなりましたが、そのような負の連鎖を描く詩式なんですが、
読みつつ、私自身にいたたまれなくなる気持ちがします。
なぜなら、詩式に描かれるこのパターンというのは、一言ではないなと思うからです。
私自身のうちにあるなと思うからです。
私たちもそうかもしれません。
もうしないと願いながら、何度も同じ過ちを繰り返してしまうということが、私たちはあります。
ここがダメなんだとわかっていて、これを変えなければとわかっているんだけれども、なかなか変われない自分がいます。
そういう自分にがっかりすることもありますね。
そして、私は本当にダメなんだという自責から逃れられなくなるということもあるでしょう。
けれども、私は今朝この詩式を見るときに、そういう人間の現実だけじゃなくて、
そういう人間を神様はどのように見ておられるかということをやはり覚えなければならない。
2つ言えると思います。
1つ。そのような人間を見ながら、神様はそれでもご自身の哀れみを変えられないということです。
これは大事なことです。
神様の哀れみは変わらないということです。
哀れみというのは何か、先ほど申し上げましたが、それは子供の苦しみを見ていてもたってもいられない親の気持ちです。
簡単に言うとそういうことです。
先に申し上げますと、イスラエルの民はこの詩式の中で何度も同じ過ちを繰り返します。
それはもっともっとひどくなっていきます。
でも、よくよく読んでいくときに思うことは、神様はそれでもその民に対する哀れみは変わらない。
痛むんですよ。神様はものすごくそのことを痛むんです。
痛むし、もうこの人たちを滅ぼしてしまいたいということまでに、神様は痛むんです。
痛むけれども、最後までその哀れみを手放されないんですね。
痛みながら、けれどもその哀れみは最後までも尽きない。
私たちもそうなんですけれども、私たちはそれぞれ悪い方向にはいつでも変わり得るわけです。
そして自分の悪いところは変わりたいと思いながら変えられない罪人であるということはそういうことかもしれません。
その中でそういう自分に悲しむ私たちがいますが、
けれども、神様の哀れみというのは、そういう私たちの現実を見て腹渡が揺さぶられるということです。
放っておけないということです。
そういう中で悲しんでいる私たちを、いや、私はあなたのために何かがしたい。
それが神様の哀れみ、そしてそれは変わらないということが、知識を見ていてよくわかります。
そしてもう一つ、第二に言えることは、神様はそういう私たちの愛を待っておられるということです。
それがこの、読んでいただいた二十二節の心見るという言葉の中に出てまいります。
この心見るという言葉が、
私識の二章の二十二節、そして三章の一節、三章の四節というところにも繰り返し出てまいります。
主は民を心見る。
神様の愛を求める
心見るという言葉は、これはそのままテストするという意味です。
そういう単語です。テストするということです。
神様はイスラエルの民がカナンの住民を追い払いきらないことを、あえてそのままにされると言われます。
この住民を用いてイスラエルの民を戦いに備えると同時に、主の道を守って歩むかどうかをテストするためであるということが二十二節に書いてある。
私たちも思います。テストされるというのはあまり嬉しいことではないですね。
けれどもこのテストはどういうテストでしょうか。
主の道を守って歩むかどうかを測るというのは、言い方を変えるならば、それは
あなたは私を愛するかということをいつも待っておられるということです。
あなたは私を愛するか。
神様の実は焦点というのは、いつもそこにあるんですね。
神様は民を愛するんです。
契約をたがいません。
憐れみを突き刺せません。
心からイスラエルの民を、そして私たちを、神様は愛されるのです。
そしてもう一つ神様が願われることは、ご自身の民からの愛を求めておられるんです。
愛されることを求めておられる。
けれども神様は愛というものを強制しません。
私を愛するかと問うときに、何かの圧力によって愛させるのではなくて、
神様は自発的に神様を愛することを選び取るようになってほしいのですね。
私たちはよく思いますが、愛というのは強要されては芽生えません。
愛さないとお前刺すぞってナイフを突きつけられて愛するというのは、それは愛じゃないですね。
ただ本当に自発的に愛することを求めるのであるならば、
相手に愛してもらうためには、ただ相手を愛するほかないんです。
相手を愛して待つ以外にないんです。
本当の愛の関係を築くためには、
試みを通し、イスラエルの民の前に祝福と呪いの道二つがあるよ、
あなたはどっちでも選び得るよという状況を生みながらも、
ただそこで、私はあなたを愛しますという祝福の道を選び取るという状況を待ち続けるしかない。
そのように自由に選べる中で、民が神様と共に生きる祝福を選び取ることを待つしかないんです。
でも神様はこのことを待たれるんですね、待たれる。
イスラエルの民、私たちが神様を待ち望む以上に、
神様が私たちを待ち望んでおられるのですね。
あなたは私を愛するか。
あの十字架という試みに、脱落してしまったというのはあれですけども、従いきれなかったペテロに対して、
最初にイエス様が問われた言葉もそうでしたね。
あなたは私を愛するか。
それはあなたの罪はもう許している。
私はあなたを救っている。
私はあなたに限りない愛を表している。
今もあなたの愛を、あなたに対する愛を私は全く突き刺していない。
自発的な愛の選択
あなたは私を。
私は今朝のお菓子を見ながらもう終わりますが、一つのことをやっぱり大事にしなきゃいけないと思うんです。
それは、私たちは同じことを繰り返します。
最後まで私たちは同じことを繰り返す。
そういうことが私たちにはあります。
ただ、放っておいて同じことを繰り返す私たちに起きることは、一層堕落するということです。
だんだん悪くなっていく。
でも、そうではなくて、私たちは同じことを繰り返してしまうのだけれども、前よりも一歩、前よりも半歩でもかまわない。
でも、主を愛することを半歩ずつでも選び取っていくという螺旋の中に私たちは行かなければならない。
同じことを繰り返す。
私たちはその中でそのように歩むポイントはどこかというと、主の哀れみと愛の大きさをいつも知り続けるということですよ。
何度も同じ過ちを繰り返す私を、でも主はそれでも受け入れて愛してください。
そして神様はそのような半歩でも一歩でも、ああ、同じことを繰り返してしまう。
主よ、でも今度はあなたを愛して生かさせてください。
そこに足を踏み外して道を外してしまったとしても、今度は主よ、またあなたを愛させてください。
神様はそのような愛を待っておられる。
変わらない哀れみを持って、そういう一歩一歩を待っておられるのだと思うのです。
神様は私たちに、私はダメだという自責を求めておられません。
そうではないはずです。
むしろ、神様は今も私はあなたに対する愛は変わっていない。
私はあなたを待っているという言葉をかけながら、ご自身を愛するようにそのところから待っておられるのです。
今度また私と一緒に半歩進もう。
その言葉が今朝の2章18節、主が哀れまれたからであるという言葉に私は表されていると思います。
何度同じことに陥ったとしても、主の哀れみは変わりません。
私たちはご一緒に半歩半歩を上りだせんの中で進ませていただけたらと思うのです。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
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