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それでは一言、お祈りをさせていただきます。
愛せる天皇父なる神様、主の御前へとまた私たちを集わせてくださり、あなたの支えを心から感謝いたします。
8月になりました。祈られたように、私たちにとって特別な季節であることを覚えます。
戦争のことを覚える時ですし、またそれは今も続いている、そのような現実を私たちは目の当たりにいたします。
そのようなことに心を痛めながらも、そのような世界に生きていることをまた改めて考えさせられる、そのような季節であることを覚えます。
主よ、私たちはそのような中で、あなたと出会うことができました。
あなたが私たちのために命を捧げ、その十字架によって私たちの罪を引き受け、完全に清いものとしてくださり、
それだけではなく永遠の命を与え、永遠なるとともにこの世界を生きるその旅路を私とともに歩もうと、私とともに御国を築こうと、
そのように私たちを招きながら、日々私たちとともに歩んでくださることを覚えて、心からありがとうございます。
主よ、この礼拝の時に生けるあなたをまた仰ぎます。
聖霊様の働きを求めます。
どうか私たちの内にあなたの御心を示してくださり、置かれているところにあって、主の支えとあなたの愛を感謝しながら、
あなたの身思いは何なのか、そのことを覚え、そのことに従うものとならしてくださいますように、お願いいたします。
本当にこの暑さの中で弱っている方々がいらっしゃいます。
特にコロナが流行ってまいりました。教会員の方にもなられた方がいると聞きます。
どうかお一人一人を主が支え、またその病を癒してくださいますように、
ご自宅で礼拝を守っておられる方、施設におられる方、心が痛んでなおもこれない方、
主を一人一人をあなたを覚えて慰めていてくださいます。
どうかあなたのもとへとまた集うことができますよう、助けてくださり、
また置かれているところにおいても主はそこにおられるという、あなたの御人材を表してくださいますように、お願いいたします。
これからの時を御手に委ねます。御言葉を主が開いてくださいますように。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
使徒の働きを続けて見てまいりますけれども、皆様は聖会とかでよく言われたかもしれませんが、
使徒行伝は精霊行伝だという言葉を聞かれたことがあると思います。
その言葉を私たちは使徒の働きを読みながらつくづくそう思うなと思うんですね。
使徒の働きで活躍するのは、前はサウロという人を見ましたし、今日はペテロという人物の働きですが、
私たちは以前この人たちがどういう人であったかということをよく知っています。
ペテロは単なる漁師でしたし、サウロはキリスト社を迫害する者でした。
普通の人なんですね。悪人ではないかもしれないけれども、しかし体にも精神的にも霊的にも限界を持っている人間ですよ。
けれどもそのような限界を持つ者たちの中で、私もこの暑さで自分に限界があるなとつくづく思いますが、
そういう人たちの中で内なる人を強めて神様の御心をなさしてくださったのは精霊様の働きでしたね。
そして人の心が動かすに神様に従えなかろうとも、しかし背後でことを動かして身業を前に進められるのも精霊様ですね。
そのことを思うときに、キリスト社の歩みというのは、精霊行伝だなあということを改めて思うわけですけれども、
ただ最初に一つ検査を確認したいのは、精霊様の大きな目的って一体何なのかということです。
精霊様は父なる神様に従いますから、父なる神様の大きな目的、いわば聖書全体で示されている
青邪神って一体何なんでしょうか。
そのことを確認したいのですが、最初にそれが明言されているのは、エペスト書1章の10節です。
エペスト書1章の10節、有名な言葉なので聞いていただいていいと思いますが、エペスト書1章の10節にこうあります。
時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも一切のものがキリストにあって一つに集められることです。
これが神様の大きな目的です。一つにされるということです。
一つというのは何か、言い換えるならばこれは、何かを隔てる壁を壊し、愛の交わりが築かれるということです。
壁を壊し、愛の交わりが築かれていくということが一つになるということです。
しかもそれが天と地と一切と言われるときに、それは神様と私たちの間の隔てが壊されて愛の交わりが築かれることを意味しますし、
また私たち人と人との間にある壁も壊されて愛の交わりが築かれていくということ、それがこの箇所の意味です。
天のあるものも地にあるものも一切のものがキリストにあって一つに集められる。
これが神様の大きな目的であり、この目的を達成するために、聖霊様は人のうちに働いていかれる。
ですから私たちは神様との愛の交わりが今開かれていますよね。
隔てないんですよ。壁はそこにはない。
神様のことを私たちは心から愛していいし、神様から心から愛されていると思っていいわけですよ。
そして人と人との間の壁というものが、それもあるっちゃあるわけですね。
人と人との関係も、でも聖霊様一つにしたいと願われます。
人と人とを隔てる壁というものは、国家、人種、性別、民族、宗教、貧富、様々なものが世界にありますね。
そしてその違いから生まれる差別であったり弾圧であったり、そして先ほども祈っていただきましたが、戦争というのはその先に出てきますよね。
壁を築き、敵を作りたい。これは人間の所業なんです。
壁を作りたい。そして壁の向こうにある人間を敵とみなしたい。
けれども、まさにそういう世界を見ながら私たちはがっかりしますが、でもこの世界にあってなおも神様のご目的は変わらないんです。
壁を取り除き、一つに世界をしていきたい。それが神様の変わらないご目的です。
精霊様はそのように私たちに働きかけられるわけですね。
そういうことを確認しながら、一の十章を見ていきますけれども、この歌詞を見るときに思うのは、でもそれは最初から決して簡単じゃなかったということですね。
一の十章を今日見ていきますけれども、今朝はここから二つのことを確認をしたいと思います。
ユダヤ人とイホウ人の壁
第一に、人は壁を作るということです。人は壁を作るということ。
そして第二に、しかしそこに本当に壁はあるのかということです。
そのことを二つこの箇所から見ていきたいと願っております。
先ほども、いくつかの人と人の間の壁をお話をいたしましたけれども、実はこの一の十章というところにも明確に壁が存在をいたしました。
それは何かというと、ユダヤ人とイホウ人という壁です。
今日、九節から読んでいただきましたが、一節から八節というところには、ローマの百人大将のコルネリウスという人物が出てきます。
この人は二節に説明されていますが、どういう人かというと、彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りを捧げていたと書かれています。
コルネリウスという人は、いわば真摯に神様を信じていた、イスラエルの唯一なる神様を信じている人でした。
しかし、彼はローマの百人大将と言われる通り、イホウ人なんですね。
イホウ人という言葉の意味は何かというと、それはユダヤ人以外です。
イホウ人という言葉はユダヤ人が作った言葉です。
イホウ人というのはユダヤ人以外。
当時のユダヤ人というのは、このイホウ人と自分たちが違うんだ、区分があるんだということをだいぶ大事にしていました。
これは聖書の言葉を読んでもそうなんですか。
ちょっとめくって、10章の28節に、ペペロとコルネリウスの会話がありますけれども、28節にこういうことがありますね。ペペロの言葉です。
ご存知の通り、ユダヤ人には外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていませんとペペロは言います。
もう1ページめくっていただいて、11章の3節、これはエルサルメにペペロが帰ってから仲間たちに非難された言葉ですけれども、
11章の3節、あなたは滑稽を受けていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をしたと、非難をしたと書かれてあります。
いわばユダヤ人からするならば、イホウ人というのは、訪問してもいけなければ一緒に食事をしてもならない。
すごい壁がそこにあるわけですね。
なぜなんでしょうか。端的に申し上げるならば、それはユダヤ人はイホウ人のことを、自分たち以外を汚れていると思っているからです。汚れていると彼らは思っていた。
ユダヤ人とイホウ人の壁の意味
ちょっとなんでそういうことになってきたかというと、少しだけ歴史の経緯を短くなるようにお話ししますけれども、どういうことかといいますと、
実は旧約聖書の最後、保宗から帰ってきて神殿が再建されたあのところからイエス様が生まれた新約聖書までの間ってだいたい500年くらいあるんです。
よく中間時代とか第二神殿期と呼ばれますけれども、この期間が大事なんです。
この期間に何があったかというと、簡単に言うと、ユダヤ地方というのは色々な外国から支配され続けました。
バビロンの後はペルシャ、ペルシャの後はギリシャ諸国家、そしてローマがイエス様の時代には支配しました。
想像していただきたいのですが、違う国から統治をされると何が起きるかというと、宗教や文化や価値観や世界観がその土地に入り込んできます。
でもユダヤ人たちはイスラエルの唯一の神様を信じたいわけですよ。その信仰を守らなければならない。
となった時に彼らは何をしたか。だいたい二つです。一つは、ある程度までは混ざったんです。混合主義と言います。ある程度までは混ざるんです。
でもある程度までは混ざることを良しとするから、ある一定の線を越えたら、ここから先はものすごく純粋さを求めるんです。
その純粋さを求める現れとして、例えば立法の採測が細かくなりました。人々は立法をたくさん守らなければいけなかった。
それを先導したのはパリ災害ですね。そしてもう一つ目に見える形でこの壁がバシッと引かれたのはエルサレム神殿です。
エルサレム神殿って、皆さんぜひ行く機会があったら、ぜひしっかり。今その建物はないんですけど。
神殿って何かというと、真ん中は祀祀所ですよ。神様がおられるところです。
でもそこに近づくにつれて入れる人って限られるんです。祀祀所は大祭祀。その周りは祭祀。その周りはユダヤ人成人断祀。その周りはユダヤ人の女性。
そこから外が違法人の庭なんです。違法人は神殿の敷地には絶対入れない。勝手に入ったら一周一周で殺されます。
違法人は穢れてるんです。入ることはできない。
そして、でもこのコルニリウスのことを思うならば、彼は違法人です。でも違法人の中でも神様を信じたいという人は出てくるわけですね。
彼らのことを聖書では神を恐れる者という呼ばれ方をします。でも神を恐れる者たちは神殿で礼拝をできません。
違法人が神殿で礼拝するために回収するんですが、回収するために課せられたハードルはすごく高くて、立法や滑舌を守るのは当然なんですが、彼らは居住権をユダヤに移さなければならなかったり、名前を捨てなければならなかった。
壁の存在とユダヤ人の信念
名前を捨てるということは、自分の故郷や親戚関係を全部捨てるということです。
全てを捨てないとユダヤ教には回収できない。でも回収したとしても、当時の文献で残っているのは、それでも回収した違法人はユダヤ教の中でも地位はかなり深かった。
何が言いたいかというと、ものすごく分厚い壁があるということです。しかもそれはどこまで行っても壁があるということです。
それがユダヤ人と違法人というものです。
そのような壁を築きながら、彼らは私たちは清く神様を信じている民、立法を与えられて神様に近づくことができる民、彼らは違法人、それ以外は立法が与えられていない穢れた民。
最初はそれが信仰を守るための壁であったのに、歴史とともに、まさに今のイスラエルもそうですが、民族主義に変わっていくんです。
自分たちの民族は正しくて、神に愛されていて、それ以外は敵であるという、敵か味方かの論理に変わっていっている。
それがまさにこの時代に起きていたことです。
なのでユダヤ人は違法人を訪問しないし、食事もしない。
食事をするというのは仲間の証拠です。
でも彼らは決して仲間ではない。
そう線を引いていたということですね。
ちょっと話が結果長くなりましたが、今朝の箇所に戻るならば、そういう緊張感を持ちながら今朝の箇所に戻るならば、
実はペテロはユダヤ人なんですよ。
彼はユダヤ人です。
この旧説から今日読んでいただきましたが、ペテロは屋上に登って祈っている。
祈っているところで、天から、有名ですけどね、四つの橋にぶら下がれたシキフが降りてきて、そこに穢れた生き物が入っている。
神様は言われるのですね。
立方で汚れている。汚い動物が立方として汚れているんですけども、そこで神様が言われるのは、これを食べなさい。
ペテロ、立ち上がり、ほふって食べなさい。
お腹が減っているんだろう、食べなさい。
けれどもペテロは断りましたね、十四説。
しかしペテロは言った。
主よ、そんなことはできません。
私はまだ一度も清くないものや汚れたものを食べたことがありません。
すると主が言われると、もう一度声が聞こえた。
神が清めたものをあなたが清くないと言ってはならない。
で、興味深いのは十六説にこのやりとりが三回あったとあります。
キリストによる壁の破壊
三回あったんですね。
おそらくペテロは三回この神様とのやりとりをしたということは、三回この申し出を断ったということですよ。
断ったんですね。
主よ、私は食べれません、食べれません、食べれませんと、彼は三回断った。
ペテロは立方に熱心だったからそうしたのか、そうではないでしょう。
なぜなら十五説は立方の定め主である主が食べろと言っているんです。
立方の定め主である主が食べろと言っているのであるならば、本来だったら食べるべきですよね。
けれども彼は食べないという、イエス様を三度知らないといったペテロからするならば、三度イエス様の断りをするというのは大きいことですよね。
けれどもそうまでしてまでも彼は食べれない、食べれないという。
それはなぜかというと、やっぱり重いんですね。
そうまでしてもやはり受け入れられない。
これは単なる汚れた、儀式的に汚れた食べ物の話をしているのか。いや違う。
彼の中にもうできてしまっている、ユダヤ人としての常識ですよ。
もう壁ができている、この食べ物も食べれないし、一度汚れているとみなした人たちを自分は受け入れることができない。
それがペテロの三度断った言葉の重みですね。
私には受け入れられない。
一度壁を作ってしまった。
一度汚れている、清くないと思ってしまった。
一度適当みなしてしまった。
そういう相手をいま一度清いものとして仲間として受け入れることができない。
人は壁を作るんです。
そうやって人は壁を作ります。
そして自分が築いた壁を越えることは容易ではないということをペテロを見ていてそう思います。
ただ本当にこれは今の戦争を本当に表現しているなと思います。
もう戦争のことを大して話したくはありませんが、しかし今朝もやっぱりニュースを見ていてね。
報復は義務だという言葉が出た。ショックですね。すごい言葉だなと思います。
けれども私たちも見てて思うんですが、止まらないんですよ。
壁を作ってしまって、いざ相手を適当みなした時にそれを崩すこともできなければ、それを乗り越えることも人間にはなかなかできないし、それはだんだんエスカレートしていく。
それを思う時に私たちがつくづく思うのは、これはじゃあどうやったら終わるのかということですよね。
どこに終わりが見つかるのだろうか。
どうすれば人と人との間にある壁というのは越えることができるのでしょうかということです。
今朝もしも仮にイエス様にそのことを言ったらどう答えられるでしょうか。
おそらくきっとこう返ってくると思うのです。
いやあなたが誰かと誰かを隔てているその壁は、2000年前に私がすでに壊したんだよ。
そういうことです。2つ目のポイント、本当に壁はあるのかということです。
ちょっと違う箇所、いい箇所を読みしたいのですが、エペソビトへの手紙の2章の13節から16節というところ、有名な箇所ですが、
エペソビトへの手紙の2章の13節から16節というところを読みいたします。
新約聖書の386ページの上の段ですね。
読みいたしますが、エペソビトへの手紙の2章の13節から
しかしかくて遠く離れていたあなた方も、今ではキリストイエスにあって、キリストの血によって近いものとなりました。
実にキリストこそ私たちの平和です。
キリストは二つのものを一つにし、御自分の肉において隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定からなる戒めの立法を廃棄されました。
こうしてキリストはこの二つを御自分において新しい一人の人に作り上げて平和を実現し、
二つのものを一つの体として十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされましたと書かれています。
詳しくここの解説をすると時間がかかるので大雑把に捉えますが、しかしこれは違法人に向けてパウロが語った言葉です。
違法人に向けてパウロが語った言葉です。
神の家族への受け入れ
パウロは言うんです。かつてあなた方遠く離れていた。遠く離れていた。この言葉がイメージしているのは何かというとエルサレム神殿です。
始聖所から違法人はどこに位置するのか。一番遠い違法人の庭ですよ。
でもその神がおられると言われる違法人の庭の間、この間にいくつもいくつも壁がある。
妻子と普通の人を隔てる壁。ユダヤ人の男性と女性を隔てる壁。そしてユダヤ人と違法人を隔てる壁。
しかしパウロがこの箇所で語るのは、イエス・キリストはその始聖所とあなたたち違法人の間にある壁を全部壊しました。全部壊しました。
あなたたちは神に一目も見ることもできなかったかもしれないけど、全部その壁は壊れた。
そうであるときに何が起こるのか。一つは違法人も妻子もユダヤ人もみんな神様が見れるようになったということです。
だからみんな神様を信じれるようになった。しかもそれだけではない。
あなたたちとユダヤ人や妻子と普通の人であったり、罪人であったり、それを隔てている壁ももはやないのであるならば、あなたたちは神の家族ですよねということを言うんです。
十九節にありますけど。こういうわけであなた方はもはや他国人でも起留者でもなく、生徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのですとエペソビートは語る。
壁が壊れて、本来的意を向けていた相手、本来差別されていた相手、それが同じ神の前に隔てなく立つ神の家族に今やもうなったんだということをこの歌詞で語るのです。
まさにそれはエペソビート1章の十節で言っていた一つにする働きですね。一つにするという働きが、イエス様ご自身が始めてくださった。
そのことを思う時に、一の十章に戻りますと、ペテロは汚れたものを食べないと言います。しかしペテロがそれを断りながらも、精霊様は勝手にことを進めていかれます。
コルネリウスの使いがペテロを訪れ、ペテロは幻を思い巡らせていたわけですが、その意図をだんだん理解し始めます。
そしてコルネリウスと出会ったら、彼はこう言いました。28節の後半を見ますと彼はこう言いますね。
ところが神は私に、どんな人のことも清くないものであるとか、汚れたものであるとか言ってはならないことを示してくださいました。
ああ、幻の意図が彼はここでわかるんです。ああ、そういうことかと。
そしてコルネリウスもペテロを呼んだのは神様によるんだということを聞いて、34節、35節、ちょっと進んでしまってあれですか、34節、35節。
そこでペテロは口を開いてこう言った。これで私ははっきりわかりました。全部わかりました。
神はエコヒーキをする方ではなく、どこの国の人であっても神を恐れ、正義を行う人は神に受け入れられますと。
今わかった神はエコヒーキをしない。
エコヒーキという言葉は、これはギリシャ語だと顔という単語と取るという単語なんです。
要は顔を見ながらこの人はOKでこの人はダメという取り方を変えるというのが差別、エコヒーキという言葉です。
でも神はそうはなさらない。
どんな人の顔を見てもそれは神の前にユデイ人の顔があろうとも、違法人の顔があろうとも、聖職者の顔があろうとも、罪人の顔があろうとも、神はそれによって態度を変えない。
神はそういうお方だということが私にはわかりましたということを彼は言うのですね。
神様にとってはそのような立場が違う、人種が違う、宗教が違う、全部の存在が神々と大事なわけです。
そしてこの世界を神様は一つにしたいのです。
そのために壁は私が壊したと言われる。
神と人との間の壁、人と人を隔てるすべての壁はもはや存在しない。
存在しない。
私たちがもはや誰かに壁を感じるのであれば、それは神様が建てた壁じゃないです。
それは私たちがそこに壁があると思って自分で壁を建てているだけです。
人は壁を作ります。
そもそも、ちょっとだけ話がそれますが、軽く聞いていただければと思いますが、
立法の清いと汚れというのは、そもそも先ほども言いましたが、自分は正しくて相手は敵だという、そういうことをするために立法の清いと汚れがあるのではありません。
実際見てきてよくわかると思いますが、清いと汚れというのは、確かに他民族とイスラエルの民を区別するためのものでしたね。
イスラエルの神の民はこう生きるんだということを区別するための言葉でした。
しかし、それはその区別された民を見て、こんなに素晴らしい神様がこの世界にいるのか、そのことを他の国々に証するためのものですよ。
違いがあるというのはそういうことです。証のための区別なんです。
最始の民、聖なる国民なんです、この地にあって、イスラエルの民は。
壁の存在と清め
でもそれがいつしか時が変わっていくにつれて、区別は自分は正しくて相手は敵だとするような壁に変わっていってしまった。
しかしそれは、まさに私たちの信仰生活特段、成果を求める歩みに関しては起こり得ることだなと私は思います。
健全な清めというのは、壁を越え清くない人々を愛し友達になることです。もう一回言います。これ大事です。
健全な清めというのは、壁を越え清くない人々を愛し友達になる力です。
清めってそういうものですね。
しかし、成果というのは、敵を隣人に変える力です。敵を隣人に変える力です。
ペテロとコルネリウスが友達になったようにですね。しかし、不健全な清めといったら言葉がきついかもしれません。
清めが時々ずれていくときに私たちは何が起きるかというと、壁を作るんです。
私は神に近いし、私は神のことがわかっているけれども、彼らは知らない。壁を作るんですよ。
そして壁を作り、本来隣人であるべき相手を敵に変えていく。私は本物であなたは偽物だということを言いたがっていく。
けれども、それはどうなんでしょう。おかしいんじゃないでしょうか。なぜなら神様は一つにすることを求めておられるお方だからですよ。
でも、ちょっと偉そうに言いながら、これは常に私にある誘惑です。私はわかっている。彼らはわかっていない。
でも清めってそのためにあるのか。違う。
もう終わりますけれども、私たち人間は壁を作ってしまいます。
壁を越え一つにする
私もそうです。私も敵と味方をすぐに作りたくなってしまう。
そしておそらく、壁を取っ払えって話をずっとしましたけれども、私たちは人と関わる上である程度の距離感というか壁は必要ですよね。
それは決して悪いことでもないと思うのです。
人と適度な距離や安心を保つために壁を築くことは別に何にも悪いことではないでしょう。
けれども忘れてはならないのは、私たちが建てるその壁はいつでも人を愛するために築く壁であるということです。
決して人を敵にするための壁ではない。
そして私たちの中にはきっと受け入れがたい世界、受け入れがたい人というのはおそらくいるのです。
けれども、キリストはすべての壁を壊されたと言われるときに、
そうであれば私たちにとって、ああもうこれはもうどうしようもない、声がたい、受け入れがたい、そういう壁だと思ったとしても、そこに本当に壁なんかは存在しないのです。
私が高いと思い込んでいるだけではないでしょうか。
ペテロが幻で聞いた声というのは、今朝私たちに語られる言葉です。
それは立ち上がり、あなたが穢れていると思うものを食べなさい。
立ち上がり、あなたが穢れていると思うもの、穢れていると思う相手、人、それを食べなさい、受け入れなさい、そう言われるときに、私たちは、私は多分こう答えるかもしれません。
主よ、私は受け入れたくありません。
食べたくありません。
私は一度穢れたと思っちゃったんです。
食べたくありません。
神が清めたものをあなたが清くないと言ってはならない。
あなた自身も、あなたが敵とみなすあの人も、神様はどちらの顔を見てもエコヒーキなさらないんですよ。
悲しきかな。
私もあの人も神に愛されている人なんですね。
そして恐ろしいことに、精霊様は断ることを勧められます。
サンドペテロは断りました。けれども、私たちは何度断るか分かりません。
でも、精霊様は断ることを勧めるんです。一つにするために。
それはきっと、私たちの壁のある相手に対して、ここだというタイミングが与えられるときがあるんですよ。
ここだ。
そのときに、私たちはその相手にどう行動をとるでしょうか。
一言声をかけられたら勝利ですね。
その人のために、心の中で祈れたら勝利ですよね。
でも、壁を越えるってそこから始まっていくんじゃないんでしょうか。
私たち堅くなな。私もそうですが。
そういう私たちにとっては。
どうか、精霊様が私たちを一つへと向かわせてくださいますように。
これはもうずっと変わりません。
一つにしようとされるんです。
そして、願わくは一つとされた愛の交わりが教会で良い香りを放ち、
妙谷教会はこの世界が一つになることを願い、そのために使える群れ、
それが使命である、そのことは忘れないでいたいと思うのです。
主が私たちをそのように用い、使わせてくださいますように、
そのことを願って一言お祈りをさせていただきます。