1. 名谷教会
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2011-06-05 36:40

2011/06/05:聖日礼拝(旧音源)

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2011/06/05 聖日礼拝(旧音源)


00:02
本日の聖書の箇所は、使徒の働き1章の3節から9節です。新約聖書の227ページです。使徒の働き1章の3節より拝読いたします。
イエスは苦しむわけた後、40日の間、かえらに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを人たちに示された。
かえらと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。
エルサラムルをはれないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなくあなた方は聖霊のバプテスマを受けるからです。
そこでかえらは一緒に集まったとき、イエスにこう尋ねた。
主よ、今こそイスラエルのために国を再興してくださるのですか。
イエスは言われた、いつとかどんな時かということは、あなた方は知らなくてもよいのです。
それは父がご自分の権威をもってお定めになっています。
しかし聖霊があなた方の上に臨まるとき、あなた方は力を受けます。
そして、エルサレムユダヤとサマリアの前路及び地の果てにまで、私の証人となります。
こう言ってからイエスは、かえらが見ている間に挙げられ、雲に積まれて見えなくなられた。
では聖火隊の方に383番を賛美していただいた後に、内田先生よ、聖霊を受けよと題してメッセージを語っていただきます。
聖火は千里を越えに
聖火は千里を越えに
みんなは聖火は千里を越えに
03:03
聖火は千里を越えに
聖火は千里を越えに
聖火は千里を越えに
聖火は千里を越えに
聖火は千里を越えに
みんなは聖火は千里を越えに
おはようございます。
今日も皆さんとともに礼拝を捧げることのできる特権を感謝しております。
今日もまた御言葉が開かれています。
御言葉をいただく前に一言お祈りをさせていただきます。
あなたの御言葉は我が足の灯火、我が道の光です。
御言葉が開けると光を放って、無額なものに知恵を与えます。
あなたの約束は誠に確かです。
あなたの下辺はこれを愛します。
恵み深い天の父なる神様、
今日もこうして私たちをこの御堂へと導いてくださり感謝をいたします。
私たち人として最高の特権であるあなたを礼拝することのできるこの幸いをありがとうございます。
こうして6月も開かれ、また第一聖日の礼拝を今捧げています。
この礼拝の主であるあなたがともにいてこのプログラム一つ一つを祝し、
最後までともにいてこの礼拝を祝福してくださるようお願いをいたします。
06:06
また御言葉をもってあなたが養い、また御言葉の中に託されているあなたの身旨と、
またその真理等を私たちに授けてくださるよう待ち望みます。
こうしてこの礼拝のために今見舞いに集ってくださっています兄弟姉妹方をあなたが捉え、
またその魂を育み、そして成長へと向かわせてくださるようお願いをいたします。
また今日様々な事情と理由は弱気を覚えてこれなかった兄弟姉妹方のうちにもあなたが届いてくださるようお願いをいたします。
またこの教会に託されたあなたの御使命が十分に発揮できるように整えてくださり、
またその使命に固く立って、そしてまた働きに奉仕に預かっていくことができるよう一人一人をあなたが用いてください。
今から御言葉をいただきます。どうぞ祝福してください。
また後続きます聖三式の上にもあなたが臨んでください。
委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。
先週は大変風が吹きまして、そういう雨、風の中にもかかわらず皆さんが礼拝、そして午後の集会にも励んでくださって感謝をしております。
あるいはご家族、友人、知人の方もお誘いくださって、良き交わりと集会ができたことを改めて覚えて感謝をいたします。
先週は台風が吹きまして、そしてやっと今週また迎えることができているんですが、
随分前になるんですが、同じように台風が吹きまして、そして私のところに挨拶の葉書が来ましたときに、風が吹いて大変でしたけれども大丈夫でしたか、そういうような内容だったと思うんですが、
そこにこの台風一家というのが書いてあるわけですね。見ましたときに、その一家のかというのがちょっとお間違いになったのか、過ぎるというのが家になっていたんですね。台風一家。
どんな家族かなという想像をしたわけです。なかなか微笑ましい情景を思い浮かべたんですが、私たちのそういういろんな状況の中にも風が吹くような、嵐が吹くようなそういうときもあろうかと思うんですね。
でもそういうときにも、私たちは常に仰ぐべきお方、見るべきお方に目を注いでいるかということを改めて感じるわけです。
09:03
弟子たちとイエス様が船に乗って湖に出ておられたときのこと、そしてその湖に大暴風が起こって、船は大波をかぶった。もう木の葉のように揺らされて、そのまま沈んでしまうんじゃないだろうか。弟子たちは怖くなってもう死んでしまいます。
イエス様助けてくださいと見ますと、イエス様は友の方で寝ておられたということが福音書に書かれてあるわけですね。何を怖がっているのか。そしてその風を叱られると大泣きになったということですね。
私たちのいろいろな様々な生きていく中で、このような暴風、嵐が吹くような、そういうことが起こります。個人の生活の中にあっても、あるいは教会の中にあっても、そういうことがあろうかと思うんですね。かつてもあった、今あるかもしれない。あるいはこれからもそういうことがあるかもしれない。
しかしそういう中にもイエス様はおられる。そして私たちに平安を与えてくださる。そしてこのお方にのみ信頼を置いていけばいいのだ。そのことを改めて覚えるわけですね。
ですから私たちのこの信仰、それはイエス様を仰ぐこと。どんな時にもそのお方を見失わずに、そのお方に常に目を注いで、そしてそのお方に信頼を置いていくということですね。
ですからどうぞそのことだけを生涯忘れずに、私の死はこのお方で、そしてその死を常に見上げていくんだ。そういうことの中に牧師であるとか説教者の働きがあるわけですが、それはやはりイエス・キリストというお方を示して、そして皆さんがそのお方を仰ぐように。
こちらかこちらかわからないんですが、要するに皆さんがイエス様を信じて、救い主と信じて、そしてそのお方に目を止めていく。私たちはどうしても前に立つので見られる立場にあるんですが、決してそれはその者を仰ぐためではなく、
それはその者を通してまた仰いでいくべきお方、あるいは十字架を仰いでいくというそのことの働きであるわけですね。もしそうでなく、その仰ぐべきお方を見させない、あるいは皆さんが仰がないようなそういうもし信仰を持っているとするならば、それは牧師の責任、あるいは説教者の責任として問われるわけですね。
どうぞ今日も御言葉を通して、私たち礼拝する者たちが、仰ぐべきお方、私たちの信ずるその主を仰いでいく、そこに目を止めていく、そのことをしっかりと今日もまた覚えてこの礼拝を捧げていきたいとそう思っております。
12:20
来週6月12日はペンテコステ、精霊降臨記念日であります。そういうことも含めて、この6月から使徒の働き、公語訳聖書では使徒行伝という書物を一緒に読んでいきたいと、そう示されております。
今日は使徒の働きの一章の中から数節読んでいただきました。
来週6月12日がペンテコステという教会のカレンダーになっているわけですね。
このペンテコステという言葉は、もともとギリシャ語の50番目という意味なんですね。第50という、そういう意味のペンテコステ。
それは何を表していたのかと言いますと、一つは、かつてイスラエルに借り入れの祭り、七州の祭りというのがあったわけです。
これはいわゆる小麦の収穫感謝祭のようなものですね。それが杉越の祭りという別の祭りがあるんですが、その時から50日目にその借り入れの祭り、感謝祭ですね。
七州の祭りがあったということで、第50日目という意味のペンテコステ。そのようにしてお祝いされていたわけです。
そして後、キリスト教会ができましたときに、当然彼らの中にはイスラエル、ユダヤの人たちもいましたが、当然このペンテコステを知っていたわけですが、どうしても新しい神の国運動ができたときに、たもとを分けなければならなかった。
ですから、礼拝もいわゆる土曜日から日曜日、それは主の復活を記念して、主の初めの日に礼拝を捧げようというようなことが起こってきたわけですね。
このペンテコステも同じように、聖霊が下ったというのが第2章で出てくるんですが、その聖霊が下った、聖霊降臨の日がキリストの復活から50日目である。
そのことをここでもう一度、教会としてこれを記念日としようと。キリストの復活から50日目に聖霊が下った、そして教会が生まれたという、そのことを記念するペンテコステ。
15:05
キリスト教会のペンテコステ、それが聖霊降臨の記念日であるということをもう一度覚えたいと思っております。
特にこの聖霊という言葉が、今日の鍵の言葉ですが、私たちは当然、もうすでにお祈りの中にも、あるいは皆さんとの交わりの中にも、聖霊様、あるいは御霊の神様とか、そういうことが当然、自然に出てくるぐらい、
皆様はもうその聖霊というものを御存じでありますし、何よりもその御聖霊というお方は三味一体の神である。三味一体という言葉を説明しろと言われても、これはできませんし、見せてみろと言われても見せることはできません。
私たちの信ずる誠の神は、父なる神、子なる神イエスキリスト、そして聖霊の神。これが三つなんですが一つ。三つにいまして一つなるという、そういう神様ですね。
ですからこれは神の国のことですから、それを人間の言葉で何かこう見せて説明せよと言われても、それはできません。しかし私たちの信仰と、そして私たちに与えられている神様からの尊いその魂、そういうものを通してこのお方を私たちは信じていますし、また信じさせていただいているわけですね。
でもどうしても何とかこの三つにいまして一つなる。それを教えてほしいとおっしゃる方もあるわけですが、これが本当にふさわしい例えかどうかは分かりませんし、そんなことをしたら神様に叱られるかもしれないんですが、
例えば一かける一かける一、一が三つですけれどもやはり一ですよね。そういうことなのか、あるいはH2Oという、それは水ですけれどもそれは液体としての水、それは個体になれば氷にもなるし、気体であれば蒸気にもなる。
でもそれはH2Oという、そういうものであるということに変わりはない。あるいは一人の人間、私という一人の人間、これは一つですけれども、女性に対しては男性という一人のものですね。
あるいは妻との関係でいうと夫という一人の人間、子供に対しては父親というそういう人間ですよね。でも三つなんですが一つ。そういうようなこと、これが例えとしてふさわしいかどうかは分かりません。
18:14
その全知全能なる神様は、父なる神でもあり子なる神でもあり、精霊なる神でもある。その三味一体の神を私たちは誠の神として信じているわけです。ですから聖書を通して父なる神が出てきます。
その時は当然イエスキリスト三玉の精霊なる神も当然一緒である。イエスキリストが記されている時その時にも父なる神精霊の神も一緒である。もちろん精霊を私たちが今日学ぶ時にもそれは父なる神も子なる神イエスキリストも当然のごとく一緒におられるということですね。
決して三つがバラバラになるということはない。それは一つである。そういうことももう一度覚えて三味一体の神を私たちは誠の神と信じます。これが私たちの信仰告白であります。
そして私たちが今日この使徒の働きの一生を通してもう一度この精霊を受けなさいということをここから学ぶわけです。
イエス様が御昇天なさる時イエス様の場合は昇天の昇は昇るということですね。天にお帰りになる天に昇られていく。その弟子たちとの交わりの後天に帰られる御昇天なさる前に言われた言葉がここに書かれてあるわけです。
それが四節の言葉。彼らと一緒にいる時イエスは彼らにこう命じられた。エルサレムを離れないで私から聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたがもう間もなくあなた方は精霊のバプテスマを受けるからです。
それと八節のこの言葉も見ておきたいと思います。しかし精霊があなた方の上に臨まれる時あなた方は力を受けます。そしてエルサレムユダヤとサマリアの全土及び地の果てまで私の承認となります。
イエス様が命じられたことはそれは待ちなさい。何を待つんですか。父の約束を待ちなさい。そしてあなたたちは水でバプテスマをもう受けたでしょう。しかし精霊のバプテスマを受けなさい。
そう言われたわけです。私たちはこの精霊のバプテスマを受けただろうか。受けていなければもう一度私たちはこの精霊のバプテスマを求めて、そしてその御精霊をいただくということ。そのことを改めて今日覚えたいと思うんです。
21:16
発説のこの言葉は皆さんも暗記されるほどに知っておられると思います。精霊があなた方の上に臨まれる時。皇后訳の聖書では精霊があなた方の上に下る時あなた方は力を受けます。そしてエルサレムユダヤとサマリアの全土及び地の果てまで私の承認となります。
この精霊あるいは精霊の神あるいはミタマと言われるお方はどういうお方なのか。そのことを私たちは聖書から教えていただかなければなりません。
ヨハネの福音書の中にこういう言葉があります。ヨハネの福音書の十四章二十六節の言葉ですが。ヨハネの福音書十四章二十六節。
もう一箇所は十六章ヨハネの福音書十六章の十三節の言葉ですが。十六章の十三節。
聞くままを話しまたやがて起ころうとしていることをあなた方に示すからです。ミタマは私の栄光を表します。私も私のものを受けてあなた方に知らせるからです。
ヨハネの福音書にはこのミタマなる神様精霊の神のことがよく書かれています。また機会があったらこの精霊について学ぶときがあったら幸いです。
すなわちこの精霊という方は真理を示すとありました。要するに精霊が下るときすべてのことが明らかになる。あるいは私たちが精霊をいただくときにすべてのことがわかる。
いわゆる何がいいのか何が悪いのか。何が神様が喜ばれて何が神様は喜ばれないのか。今まではそれがはっきりしていなかった。わからなかった。しかし精霊が下るときあるいは私のうちに精霊が望まれるとき私たちはそういう真理というものが明らかにされる。そういう力を持っている。
24:13
ですからこの八節の言葉が特に大切だと思います。精霊があなた方の上に望まれるとき精霊が下るときあなた方は力を受けます。逆を言いますと精霊があなた方の上に望まれなかったらあなた方は力がありません。あるいはそれが境界に精霊が下っていないならばその境界には力がありません。
私たち信ずるものの上に精霊が望んでくださっているときあるいはそのものに精霊が宿っていただいているときそのものは力を受けます。ではその力というのはどういう力なんですか。
この力という言葉のもともとのギリシャ語の言葉はデュナミスという言葉ですね。これは後ダイナマイトというそういう力のある破壊力のある大変な力だというその意味ですね。そういう力が与えられる。
精霊が私のうちに望むとき私たちもその精霊をいただくときにそのような力をいただけるのだ。あるいは自分自身は弱い自分自身は力がなくてもその精霊なるお方がうちにいただくときにそれを精霊のバクテスマと言いますがそれを受けるときに私たちはこの力をいただくんだ。
その約束がここに書かれているわけです。どんな力でしょうか。それは私たちがこのお方を信ずる力ですね。私たちは信仰というのを自分が何か良いことをして自分が力で得たそういうものではありません。
これもまた精霊の働きと精霊が望まれてそして私たちに信ずる力を与えてくださった。本来ならいやそんなもの信じない。私の前に覆いがかぶさって全く見えない。あるいは否定さえするようなそういうものでありました。
しかし精霊が望まれたとき精霊が私のうちに宿ったときにその覆いが取り払われてここに真理があるこの方こそ間違いない私の救い主だパッと目が開かれるそういう力が私のうちに働いたわけです。そしてこのお方を信じようあるいは信じさせてくださるそういう力それが御精霊の働きでありまた力です。
27:01
私たちが人を愛するこれも御精霊の働き。汝の敵を愛せよ。どうして私を憎む者私に敵対するあの人そんな人を愛することができるんですか。
しかし精霊が望むときこの御霊の神様が私たちのうちに望むときあるいはその教会に望むときみんなそのキリストの愛に満たされてどんな人もキリストの愛をもって接することのできるものに変えてくださるそういう愛する力もこの御霊は与えてくださるんだ。
あるいは祈る力もこれも精霊の力だと思うんですね。私たちは祈るとき精霊の助けなしに祈ることはできません。もちろん口先で言葉をつらつらつらつらとつらねることはできるでしょう。でもそれは祈りではありません。
その祈るときに精霊が望まれて私たちにその祈るその力を与えてくださる。それが精霊の力。あるいは祈れるように私たちがその御霊の神様に望むとき祈るときそれがまた祈りを引き出してくださる。
私たちはおしゃべりする言葉はあっても祈ることのできない。そういうものですね。それはやっぱり精霊が働いていない。精霊により頼んでいない。そう言えます。
ですからもし祈るときあるいは祈りを与えられたとき祈らないといけないときまず見たまなる神様どうぞ今から祈りますから祈る力を与えてください。ふさわしく祈れるように精霊の神様がどうぞ今私のうちにいてください。そして私たちの祈りを引き出してくださる力それが精霊の神様です。
今私たちがこうして礼拝をしております。プログラムが一つ一つ進められています。これは決して誰かさんが指揮して進められているのではありません。
御精霊がここにいてくださってそのプログラムの一つ一つを進めていてくださる。私たちもそれにより頼みつつ一つ一つこの礼拝を捧げているわけですね。ですから形だけの礼拝はおそらく成り立つでしょう。しかし本当の礼拝。見たまがそこにいてくださる礼拝。それが本当の礼拝だろう。そう思うわけです。
私たちは後生産式を行います。この生産式も見たまの神様の働きなくして生産式はありえません。これはキリストの体です。
30:05
もし私たちに精霊が望んでいないあるいは私たちが精霊の神様を信じていないならばそれはただのパンに過ぎない。しかし精霊が働いて私たちの信仰とそしてこの神様により頼むその信仰のゆえにこれはキリストの体なのだ。
そしてそれをいただくときに私たちの体にキリストのその肉が裂かれたその祝福が与えられる。これはキリストの流してくださった血です。
しかし精霊が働かなければ、もし精霊というお方がなければそれはただのブドウ汁じゃないですか。しかしそれは間違いなく主イエスキリストの血です。なぜならそこに見たまなる神様が働いていてくださってそして私たちに信じる信仰を与えてくださって。
そして十字架を仰がせイエス様が私の罪のために血を流してくださった。そのことのゆえに私たちはそれをいただくわけですね。
全てが御精霊の働きそして見たまなる神様のゆえに私たちは祝福とそして力をいただく。各界の働きあるいは集会が行われています。
そういうのもみんな見たまなる神様が共にいてそれを支え推し進めていってくださっている。私たちもそれを願いつつ一つ一つその働きを進めさせていただいています。
奉仕する力。自分でこうしようああしよう。もちろん自分の力でできる奉仕もあります。しかしやがて限界が来ます。もう疲れた。もう嫌だ。それは見たまが働いていない。自分の力でやろうとするから。
しかしいつもいつも御精霊の働きを覚えてそしてこのお方により頼みつつ奉仕をしていくとき、それはいつも喜びであり、どんなときにも私たちは力に満たされてふさわしくその奉仕をさせていただく。あるいはその奉仕を受けた人も本当に神様の働きとしてそれを喜んでくださる。そういうことが言えるかと思うんですね。
見言葉を読む力。私たちが聖書を読みますが中にはちょっと慣れない予言書あるいはあまり開かないそういう歴代誌みたいなそういうところがあります。でもそういうところさえも読み進めていくことができたならばそれは間違いなく精霊が働いている。そう言えるわけです。
33:02
見言葉を説く力。見言葉を取り継ぐ力。すべてが御精霊の働きであります。そして何よりもこの弟子たちがこの精霊を受けてやがてエルサレム、ユダヤとサマリアの全土そして地の果てまで全世界に出ていってこの福音を述べ伝えていくわけです。
それは決して自分たちの力ではできない。それこそ精霊の働きがなければその働きは進んでいかない。ですからまず精霊を受けなさい。そして精霊があなた方に望まれたときにはどんなところでもどんな状況の中でもこの福音を携えて出ていけるんだ。そしてそれを述べ伝えなさい。
それが神様の約束であります。
もう一度私自身のうちにこの見た目のある神様がおられるんだろうか。おられなければその精霊をもう一度受けよう。このお方をもう一度求めてその精霊のバクテスマを受けよう。そして主を私のうちに、私たちの教会のうちに、あるいは私が使わされるそのところに精霊を下ってください。望んでくださいというその求めを今日したいと思うんです。
私たちに力が欠けているならばそれは精霊を受けていないから。だから今日精霊を受けなさい。それが今日神様が私たちに言ってくださっているお言葉です。
お祈りをいたします。精霊を受けなさい。そして精霊があなた方の上に望まれるとき、あなた方は力を受けます。
天の神様、今日もう一度この御精霊の神を仰ぎ、その共にいてくださる父なる神、また御子イエスキリスト、この三名一体の神を仰いだことであります。
どうぞ私たちが使わされるところ、どこにあってもそこに精霊のあるお方が共にいてくださり、またうちにいてくださり、そしてこのお方をより頼みつつ力を与えてください。
私たちに報酬する力、あるいは聖書を読む力、祈る力、あらゆる力をこの御精霊が与えてくださると信じて、このお方を呼び求め、そして私たちに力が与えられますように。
36:10
この教会にも精霊が下りました。ですからこのお方を私たちが信じて、そしてさらなるこの宣教の働き、様々な奉仕に預かるものとさせてください。
後続きます聖三式の上にも、どうぞ御霊様が今臨んでくださるよう、イエス様の尊い皆によってお祈りを致します。
アーメン。
36:40

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