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どうも、コウブンです。
坐禅をしたり、ハスを育てたり、野菜を作ったり、最近ではAIマンガにチャレンジしたりしています。
さて、今日は、「思い通りにならないこと」というテーマでお話をしたいと思います。
今日ですね、あるいいものを買ったんです。
というのは、最新の耳かきを買ったんですね。
どんな耳かきかというと、耳かきの先端のスプーンみたいになっているところの近くに小さいカメラが仕込んであって、
その耳かきをスマホと無線でつないで、耳の中の様子をスマホの画面を通じて見ることができると、
そして耳の掃除をすることができるというのが、そういうことができる商品を買ったんです。
まあね、試してみましたらすごくいいんですよね。
やっぱりね、正直、自分の耳を見たときにですね、改めてといいますか、
カメラを通じて初めて自分の耳の穴をじっくり見ることができたんですけども、びっくりしました。
とにかく耳の入り口あたりというのは毛がびっしり生えているんだなという事実にびっくりしました。
自分では耳毛というものを多少生えているのは知っていましたけど、
それを時々毛抜きとかで抜いたりしてお手入れをしていた。
だから比較的綺麗になっているつもりではいました。
だけど、カメラを通じて耳の現在の状況をしっかりと見るとですね、あまりの毛の多さにびっくりしたんです。
その毛をかき分けて耳かきを耳の穴の方に突っ込んでいくと、
やっぱりね、それなりにたくさんくっついていました。
耳の垢がね。
それをなかなか難しいんですけど、撮れるように少しやってやるとですね、本当に綺麗に撮れるんです。
いい買い物をしたなって思いました。
そのカメラなんですけど、すごく解像度がいいんで、いろんなところを見れるわけです。
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鼻の穴の中を覗いてみたりとか、自分の後頭部、自分の髪の毛の様子を見たりとかね、いろんなところを見ました。
そしてね、自分の顔の部分、ほっぺの上あたり、頬骨あたりをですね、見てみますとね、びっくりしました。
ものすごい数のシワとシミがびっしり。
本当に自分が押しとったんだなぁっていうのを見せつけられた、そんな思いを感じてね。
思わずスマホの画面をパタッと倒して見えないようにしちゃいました。
それぐらい見るに耐えかねないような、そんな現実が目の前にあったんですよね。
やっぱりこの年を取るということは、誰しもが感じること。
若い頃は成長という言葉で、年を取るというのはどちらかというと喜ばしいと感じましたけども、
やっぱりね、10年を過ぎた頃からだんだんと衰えていく。
かつてあったものが失われていく。綺麗だったものが汚くなっていく。
そんな気がして、やっぱりね、受け入れ難い気持ちになってしまうんですね、どうしても。
こういった思い通りにならないことっていうのがね、この世の中にはたくさんあるんだということをお釈迦様もね、
仏教平気になったお釈迦様も気づかれたと言われております。
そしてですね、思い通りにならないことを何とか思い通りにしようという、私たちの思いとか願い、
そういったものが叶わなかったとき、自分の思い通りにならなかったときに、
私たちは悲しみ、怒り、そういうね、私たちによって苦しい感情が出てきてしまうというふうに、
お釈迦様は気づかれたというふうに言われております。
私たちの生きる世界というのは、思い通りになっているのはよくよく考えたらほとんどないんですよね。
大概のことが思い通りにならない。
だからこの世の中は思い通りにならないから、思い通りにならないことが多いから、
そういったことに対して私たちは苦しみという感情を持ちがちだ。
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つらいとか、悲しいとか、怒りとか、そういう感情を持ちがちだということで、
一切かゆく、この世の中はたいがい苦しい、この世の中は苦しみであふれているというふうに表現したんです。
そのたいがい思い通りにならないこと、この世の中の苦しみというものをぎゅっとまとめた言葉、
それは仏教ではあります。
どういう言葉かというと、四苦八苦といいます。
一般的に四苦八苦といえば、現状がとてもつらい状況、せっぱ詰まった様子を表す言葉で用いられることが多いのかなと思います。
だけども、もともとは仏教の言葉で、さっきも言ったように、この世の中の私たちの思い通りにならないこと、
言い換えれば苦しみがたくさんあって、それを体系的にまとめたものが四苦八苦なんですよね。
その四苦八苦というと、4たつ8で12個の苦しみがあるように感じるかもしれませんけども、そうじゃなくて、
最初の4つの苦しみ、プラスその後の4つの苦しみで8苦。
四苦八苦といいますけども、8苦、8つに分類したのが仏教的な思い通りにならないこと、苦しみの仕分けの内容です。
その8つの苦しみの中の最初の4つについてお話をします。
最初の4つは、生老病死といいます。
この生老病死は、基本的な苦しみということを指していると言われております。
最初の生というのは、生きると書いて生ですね。
生まれてくること自体が苦しみであるというような意味ですけども、
生まれること、お母さんから赤ちゃんが生まれてくるわけですけども、
その生まれる瞬間が苦しいんだというような解説をする方もおりますが、
私の理解ではそうではなくて、生まれるということ自体を選ぶことができない。
私たちは望んで選ぶこともできない。
生まれたいから生まれるということができないんだ、思い通りにならないんだということが長のことなのかなと私は思っております。
これはですね、解説する人、説明してくれる毛さんであったり、学校の先生であったり、
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いろんな方が言うかと思います。いろんな受け止め方があっていいと私は思います。
私が思う小老病治の章は、生まれてくるということを選べないということが苦しみなのかなというふうに思います。
自分の親を当然ながら選ぶことはできません。生まれてくる時代も私たちは選ぶことができません。
生まれてくる国すらも選べることができません。
だから貧しいと言われるような国で、とても戦争があるような時代に生まれてくることもあるかもしれないし、
逆に平和でお金の不自由もなく贅沢なまいできるような場所で生まれることもあるかもしれません。
また必ず人間に生まれてくるとは限りませんので、
これはもう虫かもしれない、豚かもしれない、鳥かもしれない、虫かもしれないし、魚かもしれない。
とにかく生まれてくるということを自由に選ぶということはできないんです。
だから生老病死の生というのが入ってくるんだと私は思っております。
私の考えは生まれてくることを選べないということですね。
生老病死の次、老というところですけれども、老は老いる、年を取るということです。
まあ、年を取るというのは皆さんも日々感じているかと思います、これを聞いている方々も。
子どもの方で聞いている方というのは少ないと思いますので、大人の方であれば年を取って自分の肉体が衰えていくということ、
そういったことを日々感じる場面があるんじゃないでしょうか。
年を取るということ、これはどうやっても止めることができません。
生物としてこの世の中に誕生した以上、生まれれば後は死に向かって時間というものは進んでいくもの。
その過程で肉体は若い時は子どもの頃は成長するように体はできていますけれども、
ある一定の時期からそこから衰えていく方向に体というものは進んでいく。
これを一般的に老化と呼んでおりますけれども、この老化を止めることはできませんね。
だから思い通りにならない。
そして老化というのは止めたいな、シワをなくしたい。
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シワというのはなるべくない方がいいとか、シミというものもなるべくなくきれいなお肌でいたいとか、
そう思っても出てきちゃうんですね。どうしても出てきてしまう。
だから病というものを思い通りにならないこと、すなわち苦しみに遭んだということです。
次に病。病というのは病気のことです。
この病気というのは生きていれば必ずどこかで何か病気にかかることがあるんですね。
私たちの体というのはいつも調子がいいわけではありません。
調子がいい時、悪い時、必ずあります。
それをバイオリズムなんて呼び方もしますけれども、ともかく常に絶好調ではないんです。
調子が悪い時、そして調子が悪い時に、その調子が悪いことが原因でウイルスに感染したりとか、そういったことで病気になってしまう。
こういうことが私たちにはあるんだ。
これも避けがたい、耐えがたいことだ。
ということで私たちはこの病というもの、苦しみなんだというふうに仏教では言っているわけです。
そして次に来る死。死というのは死ぬこと、命がなくなることですね。
今住んでいる現在の私たちの命が至るまでにはたくさんの命があります。
つまりご先祖様ですよね。
このご先祖様たち、私たちのこの現代まで、誰一人として不老不死を達成した人というのはいませんね。
おそらく私の知っている限りではいません。
つまり死というのは避けられない、思うようにできないですね。
死にたくないと思ってもいつかは死んでしまうということですね。
しかも死というのはいつどこでどのように起きるかということも分かりません。
その死ぬことというのをコントロールすることというのは100%はできないんですね。
だからこそこの小老病死、最初の4つの基本的な苦しみの一つに飾られているというわけです。
この他にもですね、その4つの基本的な苦しみのほかに
残りの私たちの生きる上で、人間として生活している上で現れてくる苦しみ、思い通りにならないことというのはあと4つありますけれども、
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ちょっと長くなったので本日はここまでにしたいと思います。
本日は思い通りにならないことについてお話をさせていただきました。
ではではまたね。