作品のリンクをノートに貼っておくんですけれども、楠本まき先生の単行本って本当に装丁が凝ってて、
前回も紹介したんですけども、線と言葉、楠本まきの仕事っていう、楠本まき先生についての本があるんですけど、
そこに装丁についての章があるぐらい、ものすごく表紙とか、そういう仕掛けとかが凝った、紙とかもすごいもの使ってるので、
その辺も見てみるだけで面白いので、よかったらビジュアルもぜひ検索しながら見ていただきたいなと思います。
で、『KISSxxxx』は普通のワイド版っていうので出てるんですけれども、次がTBI93年に出ております。
で、この次が『Kの葬列』。ここあたりからマーガレットの専属契約っていうのが終わって、94年ぐらいかな。
終わって、他の雑誌とかでも書くようになるっていう感じですね。
で、『Kの葬列』なんですけど、この後『乾からびた胎児』っていうのが97年ウィングスで出て、
今回話す『致死量ドーリス』が98年フィーリアングで出てるっていう感じだけど、この辺の時期はもう完全に『KISSxxxx』から『致死量ドーリス』までは全部ヤバいみたいな感じ。
うーん、結構楠本まき先生ってそれこそ端尾漫画家みたいなさ。前回のエピソードでも喋ったけど、端尾的な印象があるし、
この辺の絵の印象で言うとね、なんかそのみんなが思う楠本まき先生の絵だなっていう感じはするかもしれないんだけど、
それぞれ全然違うことを試してるのね。 アルバムごとに作風をどんどん変えていくみたいなのがあるじゃない。
なんかでもそういうイメージがあるかな。この辺の『KISSxxxx』から『致死量ドーリス』までの一連の作品っていうのは。
じゃあ、どれも傑作だけど全然方向性とかやってることは違うっていう印象なわけですね。
全然違って、面白い仕掛けみたいなのもあるし、
Kの草列は結構本格的なミステリーとしても面白いと思う。
仕掛けがあるってことですね。 あるし、いくつか短編とかも載ってるんだけど、
短編の一個一個の切れ味っていうか、っていうのがその『KISSxxxx』の次にこれ描いたんだなと思うと、
すごいなっていう感じはするかな。 いろんな作品が載ってて、なんかちょっと圧迫されてる
少年たちのコミュニティみたいなものを描いてて、なんかその『KISSxxxx』って本当に何もない空白の、
だらだらした日常みたいなのと、ちょっとしたそこのコミュニティみたいなものに恋愛的なものも入ってるし、
ある種、そういう何もない日常参加みたいにも読めると思っていて、
そういうバンドとか好きなものがある人たちの何もない日常の美しさみたいなのを描いてる傑作だと思うんだけど、
そうですね。それがどんどん自分の呪いになっていくっていうところがすごい。
時期的にもちろん、この時期、95年から97年っていうのは、
もちろん95年に阪神淡路大震災であり、地下鉄サリンの事件があったりっていう年なんだよね。
1995年っていろんな見方があると思うし、もっと言うとエヴァンゲリオンが始まった年でもあるんですけど、
その時代の空気、あの頃の空気みたいなんてこういう感じだったんだろうなみたいな。
僕も一応生まれてるんだけど、もちろんガキンチョなので。
でもなんとなくこの凍れ落とした感じってあったような気がしていて。
うん。わかりますね。
なんか俺がよく覚えてるのは朝のニュースで、
例えばオウム神理教の朝原将校の裁判の話みたいなのがずっとやってたりとか、みたいなイメージ。
あの頃の暗い、あの頃の空気みたいなのがすごく思い出す作品ではあるし、
大人になった20年ぐらい経った今読むと、この千尋導律でありヘルダースケルターもそうだけど、
あの頃こういった優れた作家が描こうとしてたことと、当時の空気っていうのは、
もちろんやっぱ時代とリンクするもんではあると思うから、作品が生まれる時っていうのはね。
なんかその感じをキャプチャしてるし、そのキャプチャしてるだけではない。
今にも通じる何かみたいな、すごい普遍的なテーマに、
時代の空気だけじゃなくて、時代の空気から察知した何かを優れた作家は、
その普遍的な問いみたいなところとして作品として作っていったんだろうなって思ったりはしていて。
そういう意味ですごく千尋導律は素晴らしい歴の作品だなーって思ったりしてるんですよね。
そうですね。
一応この千尋導律というタイトルは、ドイツ、西ドイツのベルリンに、
まだ西ドイツ時代のね、80年の西ドイツのベルリンに結成されたパフォーマンス集団の
ディテトリヘドリス、ドイツ語だから発音がわかりませんが、
ディテトリヘドリスっていう実験音楽のパフォーマンス集団がいて、
それが日本版出た時に放題として千尋導律って訳されてた。
そっから多分取ってきてるだろうと言われております。
なるほど。だからタイトルの表紙の部分もドイツ語で書いてあるんですね。
うん、そうそうそう。
で、この千尋導律バンド音楽の方は、それぞれ独立した作品やけど、
独立したアルバムなんだけど、同時に再生したら1個のアルバムが立ち上がるっていうことをやってて。
で、こうやってフレーミングリップスとかが、コーネリアスとかが、
フレーミングリップスがザイリーカってアルバムで4枚CD付けてて、
ループのさ、どつどつみたいな感じで鳴ってるんだろうなっていう感覚がすごくするんよね。
そうですね、だからこの文字の配置の通りにちゃんと頭の中で再生される感じがある。
その次のイラストもこうちょっと被ってる感じになってるし、
何だろうな、この頭の中で全部ちゃんと再現される感じっていうのが、
すごいなんか体験って感じがするよね。
なんか読んでるっていう以上にね。
わかれへんけど岸くんの声がなんとなく頭にババババって流れてなっていく感じの、
テンポ感みたいな感じもすごい感じるし、
僕小説読むときにこの話何回もしてると思うんだけど、
この作家とリズム感合わへんから読まれへんみたいなやつあるわけ。
でその感じ、そのリズム感がすごい気持ちいい作家さんだなって思う。
だからリズム感のいい作家さんだなって思うんだけど、
楠本まき先生は。
そこのバババババって、このモノローグの内容はそんなに俺の頭の中に入ってきてないんだけど、
音として気持ちいい感覚みたいなのが、
目で見て絵として認識してるけど音として頭の中に入ってきてる感覚みたいなのがあって、
なんかそこがほんと素晴らしいと思うなぁ。
そうですね。
で、最近映画撮られてないけどまた撮られると思うんですけど、
新年代に私たちの世代で出てきた映像作家としてはものすごい影響力を誇っている、
大和雄貴監督っていらっしゃると思うんですけれども、
おぼれるナイフとか、
詐欺などホットギミックがあるみつぼいとか、
前田とおとぎ話みたいとか、
大和雄貴監督の映画のモノローグの感覚にめっちゃ近いと思うので、
大和雄貴さんの作品が好きっていう人は血しり踊り室読むと絶対やられると思う。
あー、なるほどね。
ここ通じ合ってる感じか。
うん、と思うんでぜひとも読んでほしいですね。
なるほどね。
タイム感みたいなものがすごくこう、
しっかり頭の中で再生される感覚とかっていうのがあるなぁと思った中で言うと、
みつがこう指をね、切ろうとするシーンがあると思うんですけど、カウントしながら。
ナイフでクラブの中でバンバンバンって刺していくシーンね。
そうそうそう、あるんですけど、そこで10秒数えながら切っていってるんですけど、
10、9、8、7、でその間でこの青年の騎士が、
「みつわかったごめん撤回する勘弁して。」っていうセリフが入って、
次3になってるんですよね。
だからこれ、このみつわかったごめん撤回する勘弁してっていうのは、
このセリフは3秒間の中で確実に言ってるはずっていう。
あー。
ここってだから時間が確実に決まってるんですよ、このセリフを言ってる長さって。
なんかこういう多分細かいタイムコントロールをされてるんだろうなっていう感じがすごくするんですよね。
このシーンめっちゃ印象的よなぁ。
なんかこれ憧れる人絶対いるよね、でもこういうシチュエーション。
多分これ小学校とかの時にやった、
あの鉛筆を指開いて鉛筆をトントントントンって刺していくみたいな、
嫌な遊びあるじゃないですか。
それをナイフでやってるんだけど。
そうですね。
これはロマンポランスキーの水の中のナイフっていう映画から来てると思ってて。
有名なヨットの上でナイフをトントントントンってやるっていうシーンがあって。
で、このナイフっていうのがもうだいたい男性性の象徴みたいな感じで捉えられてるんですけどね。
あとは小犬の映画で70年代に熊城達美監督の青春の砂鉄っていう映画でもそのまんま、
これはもう完全に水の中のナイフからインスパイアされてやってるシーンがあるんだけど。
これもやっぱすごい男性性の象徴としてナイフみたいなのを扱ってやってたりとかしてて。
このトントントンってやるこのスリルとこの絵的な、象徴的な何かとしてすごい機能してるんだけど。
でもどっちもそれって男の人が男の人にかましみたいな感じでやるっていうシーンなのよ。
度胸試し的な印象が強いですよね。
これが三つっていう女性に、騎士君がこれしょうもないゲームで次クラブに入ってくる人が男か女か試して罰ゲームみたいなことしようよみたいなこと言って、
三つがこのじゃあ指切っちゃうよみたいな感じでこういうことをやっていくっていうシーンなんですけど。
シーンの元としては水の中のナイフとしても、このクラブのところでそういう遊びをして、
三つがこうやって本当に切ろうとする感じがあるみたいなシーンに置き換えてるのはもう本当に素晴らしい。
ドギも抜かれるってことかな。
そうですね。
言ったらその度胸試し的なものってさ、本当にはやんねーよっていうところがあるわけじゃないですか。
でもそれを男女でやってて、しかもそれをこの子は超えてくるやろうっていう恐怖感っていうのは、
全く別の質のものに置き換えてるこの遊びを。
だからこの三つっていう存在の空虚な感じと、本当に言ったらやっちゃうんじゃないかっていう怖さみたいなのを示す本当にシーンになっててね。
当時これ世相で言うと、ちょっと待って。
キムタクのギフトっていうドラマがあるんだけど、それでギフトでそのバタフライナイフを持ってるっていうシーンがあるね。
持ってんねんキムタクがバタフライナイフをね。
で、この時期にバタフライナイフをそれに憧れて青少年とかがいっぱい持ってって問題になったっていう流れがあって。
時期的にはギフトとかの方があったけど、たぶんそういう感じがあったんだろうね、90年代半ばって。
バタフライナイフを持ってるってやつが多かったんだろうね。
だから当たり前のこういうようにナイフが出てくるわけ。
そうそう。持ってるやつがいて、持ってるよって言って借りるっていう感じがあって。
その世相表し感もあるしね。