アートとフェミニズムの関係
こんにちは、栗林健太郎です。今日は本の感想を話します。
村上由鶴さんの『アートとフェミニズムは誰のもの?』という本を読みました。
この本は、タイトルに『誰のもの?』って書いてあるわけですけれども、
まあ、結論から言うと、アートもフェミニズムもみんなのものであるべきだよね、ということなんですが、
じゃあ、なぜみんなのものになってないのか、それをみんなのものにするにはどうしたらいいのか、
そういったことが具体的に語られていく本で、非常に面白かったです。
自分自身の考え方も、結構凝り固まっているところがあったなと反省するところが多くてですね、
とっても読んでよかったなというふうに思いました。
やっぱり本を読むことの醍醐味って、自分の考えを補強してくれるというよりは、
自分の考えをひっくり返してくれるような、新しい見方みたいなものを開いてくれるような、
そういった本を読むというのがやっぱり一番面白くて、
この本もそういうものの一つだったなというふうに個人的には思います。
で、アートというものがなかなかみんなのものというよりは、
ちょっと我々の一般の見方、考え方、楽しみみたいなところからは、
ちょっと有利した感じを覚えるのはなぜなのかというところなんですけど、
それは一つには、現代美術とかを見てもちょっとよくわかんないなということがあったりとか、
あるいはそれが、そうであるにもかかわらず、
何かすごい高値で流通しているとか、何かすごい評価されているとか、
そういう本書でいうアートワールド、美術の内輪の人たちの世界で、
何かしら価値が決められて、これはすごいぞとか、これはダメだぞみたいなことが行われていて、
それがみんなのものというところからは離れている理由の一つであるというふうにされるわけです。
で、そうなったときに、例えば美術批評とか評論みたいなものがあって、
作品についてあれこれと述べられている、そういった営みがあるわけですけど、
一方でそれもまた非常に難しいものになっていて、
現代美術を解説する文章そのものが難しい、難しいものを難しく解説しているみたいなことになってしまいがちなわけです。
なので、そうすると結局みんなのものというところからは遠いままであるよねということになるわけですけど、
著者は美術批評っていうのはもっと、例えばフィギュアスケートの解説者みたいな、
そういったものであるはずなんじゃないかっていう話をしていてですね、
どういうことかというと、フィギュアスケートの解説者って何とかいう技が出て、これは高得点いきそうですみたいな、
そういう、僕はフィギュアスケートは全然わかんないんで、
例というか適切に例を示すことはできないんですが、
そういった形でですね、一見素人にはわからないようなことを見ている人がわかりやすく説明してくれて、
かつそれがどれくらいの優劣を持つものなのかということも含めて解説をしてくれる、
そういったものであるべきなんじゃないかということを言うわけです。
個人的には批評というのは一つの作品であるべきだと思っていて、
なのでアーティストの作品がその人なりの作品であるように、
批評というのはその批評家というのがその人なりのロジックとか理論とか、
そういったものを持って作品に負けず劣らず、
負けず劣らずというと作品があって批評があるみたいな感じなんですけど、
そういうわけじゃなくて批評は批評として自立した作品であるべきだと思っているんですね。
それは今も割とそう思っているんですけど、
ただ解説者というのは結構面白いメタファーだなと思って、
例えばサイエンスの世界でもサイエンスというのは科学の理論みたいなのは非常に難しくて、
自分もそうですけど一般の人が理解できるようなものではないわけですよね。
美術批評とは何か
ただ例えばサイエンスコミュニケーターみたいな人がいたりとか、
あるいは博物館の学芸員みたいな方が一般の人に分かりやすい展示を企画して行ったり、
あるいはレクチャーをしたりとか、そういった形で解説をすることによって、
難しいものである科学というものをみんなのものにしていく、
そういった実践というのは広く行われているわけです。
なので美術、アートについても現代アートとか特にそうだと思うんですけど、
難しいことをやっているわけですよね。
それはそれである種当たり前のことで、
アートというのはサイエンスの研究者もそうですけど、
全人未踏の荒野を切り開くみたいな仕事なので、
それは見たことないことをやることだから、
難しいと言うと違うのかもしれないですけど、
なかなか理解がしがたいことをやるというのはしょうがないというか、
そういう仕事だよねとは思うわけです。
批評というのもさっきの僕の考えだと同じことで、
批評というのもアートと独立して並行して並列に、
今まで人々が考えてこなかったようなことを考えていくというのが
批評であるべきだと思っていて、
なので、アートもサイエンスも先端でやっている人のやることは
なかなか理解しがたいとはそうだよねと思うわけです。
ただ一方で、だからといって分からなくていいか、
つまりその人たち、分かる人たちでやっていて、
我々には分からなくていいかと言うとそういうわけでもないんだと思うんですよね。
そこはやっぱりポイントで、この本のタイトルで誰のものってあるように、
それはやっぱりみんなのものであるべきだと思うわけです。
そこに対する自分の認識というのが、
あんまりそういうことを考えてこなかったなというのがあって、
それでそこは結構自分の考えが開かれたポイントの一つでした。
で、そのみんなのものにするためにどうしたらいいかというところで、
一方でみんなのものにするというときに、難しいアートがありますと、
それに対してある種の感性みたいなもの、
それは簡単に言うと、何か作品を見てビビッとくるとか、
いいじゃんってなるとか、あるいはよく分かんないみたいな、
そういうことだけで判断すれば、それがじゃあみんなのものっていうことなのかというと、
そういうわけではないよねというのもはっきり言われるわけです。
つまり、美術というのは何か歴史やコンテキストがあって、
そういうものが行われるわけなので、
ちゃんとそういうものは読み解けるようにならないとダメだよねというのはわりとはっきり言われていて、
じゃあどうしたらいいんだということになるんですけど、
フェミニズムをツールとして
そこである種のツールのようなものとして、
フェミニズムというものが導入されて、
それでフェミニズム的な見方によってアートを見ていくと、
難しいとされてきたアートというものが読み解けるようになっていく、
一つの手立てになるんじゃないかというようなことが言われるわけです。
ちょっとフェミニズムをツールとしてみたいな感じで言っちゃうと、
この本はもうちょっと踏み込んで話をしているので、
道具的に使うということを言いたいわけではないんですけど、
ちょっと簡単に言うとそういう導入がされているわけです。
物の見方としてのフェミニズムというものを使って、
現代のアートを取り巻く状況の問題点であるとか、
あるいはそういった考え方を用いて、
実際に具体的に作品を制作しているアーティストの例がたくさん紹介されたりして、
そういうのを読んでいくと、こういうふうにして見ていく見方というのがまずあって、
そういうふうに見ていくと、ただ見ただけだと、
良いとかよくわからないとかで評価せざるを得なかったものが、
だんだん見えてくるというか、読めるようになってくる。
そういったことにつながるような道案内がされている。
ある種、この本自体がアートの見方に対する解説書、
非常に良質な解説書になっているんじゃないかなというふうに思うわけです。
そんなわけで、自分自身は現代アートであるとか、
美術批評というのがそれなりに好きで、ちょっと触れたりはしていて、
とはいえ、もちろん全然わかんないなみたいなこととか、
すごく良いなとか、そういう感性的な評価もするんですけど、
とはいえ、それが何か難しいから、難しいものをみんなに開くための、
解説者みたいなものが必要だよねみたいなことを、
そんなに考えてこなかったなと思っていて、
やっぱりそこはみんなのものというものであるほうが、
それはいいよなとは思うので、
例えばサイエンスとかだったら、やっぱりそう思っているわけですよね。
サイエンスについては自分自身も科学博物館とかそういうところに行ったりしますし、
あるいはサイエンスライターみたいな人が、
わかりやすく難しいサイエンスの最先端の話を解説してくれる本みたいなのをよく読んだりしますし、
あるいは科学者自身が文章力がある場合は、
非常に面白い本を書いている科学者の方っていっぱいいますけど、
そういう本も好きで読んでいるので、
そういうふうなことだと思えば、
アートについてもやっぱりそういう、
みんなのものにしていくような営みというのは必要だよなと思ってですね。
この本を読んで、
自分自身があんまりそういうことを考えてこなかったなというのに気づいて、
それを実践するためのやり方として、
フェミニズムというのが導入され、
繰り返しになりますけど、
道具的に導入されるだけではもちろんないので、
その辺は詳しくは読んでほしいんですけど、
そういった切り口というものを実際に使うことによって、
アートというものがみんなのものへと開かれていく、
そのための具体的な手順、考え方、
みたいなことをわかりやすく解説しているというところで、
とても面白い本でした。
何かタイトルにピンとくることがあれば、
ぜひ読んでいただきたいなというふうに思います。
それでは今日はこの辺で。さようなら。