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あとはもうね、本当に些細な思い出ばっかりになるんですけれども、
すごい覚えてるのは、ナスの入った味噌汁は嫌いだと言ってたこと。
何が嫌だったんですかね。まあ、そういうのはありますよね。
歯にキシキシッかかったりしてたのかな。
だから盛んに言ってましたね。
それからね、カレーライスにね、必ず生卵を入れてましたね。
この食べ方にはこだわりがあるみたいでしたね。
納豆入れる時もありましたね。
なんかそういうのが好きなんでしょうね。
あとはそうだな、なんか昔の人ですよね。
例えば、母が風呂上がりに胸をはだけた状態で出てきたりすると、
みーぐるしみぐるしみぐるしとかって言ってましたね。
なんでしょうね、あのセンス。落語研究会ならではというか。
まあでも、多分なんか母のことに惚れてたんでしょうね、あの人はね。
何その言い方。
あとは基本的には母から聞く父のエピソードしかないんですよ。
それで言うと、最初にデートした時に、
どこだっつったかな。
ちょっとごめんなさい、忘れちゃいましたけども。
確かね、どっかのデパートに行くとかなんですよ。
でね、その時に、たぶん名古屋のデパートでしょうね。
ここで待ち合わせって決めたのに、
母がいないっていうので父が不安になっちゃって、
あちこち探しに行くわけですよ。
で、母が時間通りぐらいに来てるにも関わらず父がいないわけです。
当時、携帯電話とかありませんから、
人がいなくなっちゃうと、母もあれ時間なのに父がいないわっていうことで
少し待って、また探すわけですよね。
で、いないいないってなって、
結局1時間くらい経ってようやく出会えたとかね。
えらいだから母が怒ってましたよね。
なんで動くのかと。
確かにね、時間ぶりはそこにいろよと。
あとだから多少5分10分くらいそこで待ってろよと思いますけれども、
そういうことができない人だったらしいですね。
しかもその時現れた父っていうのが、
なんか青いスーツを着てたと。
なんなんだこのセンスは。
作業服なのかみたいな感じで、
もうそこですぐにスーツを買いに行かせたとか。
完全にやっぱりあれですよね、
尻に惹かれてる感じがありますよね。
だけどそれは父の弟に聞いたんですけれども、
なんか元々ね父ってそういうタイプが好きだったらしくて、
明るくて活発な女性が好きだったそうですよ。
で、青山高校で演劇部に入ったのも、
女性の先輩でそういう憧れてる人がいて、
全然そのほのかな恋心を寄せてるぐらいの感じだったそうですけれども、
すごい活発な人だったんですって。
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まあ演劇をする女性とかでね、
チャキチャキしてる人っていますよね。
で、入って、
ずっと当時の言葉で言うとネクラだったっていうわけですよ。
ひょろっとしてて、なんか私と全然違ってですね、
一回も太ったことはないと思いますね。
ひょろ長くて、どの写真も本当にあの顔色がおじろくてっていう感じなんですよね。
で、一方その父の弟はですね、
学生横綱とかっていうのに、
通知書を消してもらって通知書に書いたのでびっくりしましたけど、
なんか相撲をやってて当時の横綱となるぐらい喧嘩の強い人で、
だからそのうちの親父はですね、
結構なめられるタイプだし、
当時不良とかに絡まれたりすることもあったらしいんですよね。
そうするとその弟、
歳はね、一つか二つ違いだと思いますけれども、
が出てきて、
うちの兄貴何してんだって言って全員ぶん殴るみたいな、
そういうね、激しい弟がいて、
で、だから気弱だっただけですよ。
自分にないものを求めるっていうのが人間は多分あるんでしょうね。
そういう活発な女性に惹かれると。
うちの母親も完全にそういうタイプの人でしたから、
それで惹かれて結婚したっていうことなんでしょうね。
ただその、例えばじゃあ夫婦喧嘩したとことか見たことないですし、
見たことないといってもね、
小学校の3年までしか生きてないですけどね、
どっちかっていうと私と妹と喧嘩することが多かったんだよな。
厚木の病院に行ったって話がありましたけども、
あの時とかもね、母がおにぎりを作ってくれて、
6個おにぎり作ってくれてね、3人いますからね。
なのに6個おにぎり全部妹が食べちゃったりとか。
だいたい食うことにまつわる喧嘩が多かったですね。
すっげー覚えてるエビフライね。
エビフライを3尾食べたか食べられなかったかで大喧嘩になって、とかね。
妹がね、妹も母の血をついてるのが気強いタイプでね。
で、かき氷食べに行ったときに、
私も食べるって言ってまだ両チェーンだったからね、小っちゃいのに行って、
で、やっぱりあんの字を全部食べきれなくて、
食べきれない悔しさに泣くみたいな場面とかね、ありましたですね。
そういうことがあった一方で、
じゃあ父と母がすごい喧嘩してるところとかあったらあんまりいたことないですね。
あんまり父が家にいなかったってこともあるんでしょうけど。
そうですね。
あとは父の思い出ってなんだろうな。
ああ、そうそう。野球のサインボールもらったって話、
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そういえば親戚に球団営業部長がいたって話で終わってたような気がしますけど、
あれがだから父の方が喜んでたんですよね。
だって僕は正直小学校の1年生とかだから、
価値があんまりよくわかってないわけですよ。
高政と牛島にサインボールもらえることのすごさがね。
だけど父は猛烈に感動していましたよね。
なんかよくいる昭和の親父っていう感じもあるのかもしれませんね、そういう意味で言うとね。
もう当時はプロ野球って言えば本当に国民的人気スポーツでしたもんね。
今じゃ考えられませんね。
私もしばらくやっぱり中日ドラゴンズのことが好きで、
東京にいるとですね、
周りにいるのはジャイアンツファンっていうイメージを皆さんお持ちかもしれませんけど、
そうでもないんだな、これは。
ジャイアンツって私の本当に変わってない印象ですけど、
地方ではすごい浸透率が高いんですけど、
東京だとね、そこまでではない。
もちろんいますけど、
私の当時の昭和50年代ですら、
ヤクルト・スワロウファンもいましたし、
いやでもやっぱり人気あったのは広島でしたね。
広島カープ。
カープが私の生まれた昭和50年に確か初優勝なんですよ。
赤ヘル軍団って言われて、
山本浩二さんとかがね、すごい活躍してた頃ですよ。
だからね、カープ人気ありましたね。
強かったからな。
だからね、
大体AクラスBクラスみたいなことで言うと、
広島巨人阪神とかが強かったのかな。
阪神って強かったかな。
ヤクルトがすげー弱いんですよ。
大体中日ドラゴンズの定位置は5位。
で、ヤクルトが6位っていうのがお決まりで、
山内監督ですね、山内和弘監督。
近藤佐藤監督の時に1回優勝してるんですけれども、
そこから弱くなっちゃって、
5位、5位、2位、5位みたいな時代ですよね。
それで覚えてるのは、5位、5位、2位、5位だったな。
いい選手は結構いるんですよね。
矢沢圭一さんとかね。
宇野大島矢沢とかっていう打戦は結構強烈なものがありましたし、
ピッチャーも、さっきの牛島鈴木隆さん。
これは両方とも押さえですね。
小松宮子と角源寺。
角源寺も最初は先発だったんですよね。
その後押さえに転向しましたけれども。
まあまあ、それなりだったんですけれども弱いっていう。
今のドラゴンズとよく似てますよね。
それはともかくとして。
父との会話っていうのはそういう感じだったのかな。
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あとはまあ、本当に覚えてないですね。
どっちかっていうと、父の死後に記憶を補強してるっていう感じがあるかもしれませんが。
父親がいない家庭でしかいたことがないんで。
私は子供の頃からやっぱりね。
父がいない家庭だから自分がしっかりしなきゃっていうのはめっちゃ思ってたんですよ。
それはね、葬式の後かな。
考えたんですよ。
ここで今自分の家には母と妹っていう女性しかいなくなったと。
ここはもう本当に俺が頑張らないといけないって言って。
それがすごく転機になりましたよね。
性格が変えたんですよね。
それまでは結構ね、僕は大人しい方だったんですよ。
だけどこれでダメだっていうことで。
しっかりしていこうっていうふうに胸に刻み込んだっていうね。
っていうといい話みたいじゃないですか。
まあそれいい話っていうところもあると思うんですけれども。
呪縛にもなりますからね。
やっぱり俺は大黒柱でなきゃいけないっていう。
結構その男らしさみたいなのを明確に意識したのは、父の死が明らかな天気だったでしょうね。