1. 神田大介の経験
  2. 父の思い出2
2024-03-25 10:09

父の思い出2

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あとね、父の思い出ということで言いますとね、これまた交通に関わることにはなってくるんですけれども、皆さんご存知ですかね、東京都世田谷区っていうのは東急王国なんですよね。
私鉄沿線、野口五郎さんの有名な曲がありますけれども、東京都って鉄道の路線の沿線によってエリア分けがされるっていう話はよく聞きますよね。
世田谷とかね、あと目黒から大田区の一部のあたりっていう、あの一角は本当にもうね、なんか網の目のように東急が走ってるんですよね。
私が住んでたところは東急新玉川線、今はその名前なくなっちゃって田園都市線って言いますけど、の沿線でしたね。双子玉川よりも手前のところね。
で、そういうね、路線みたいなのが私、公共交通機関大好きっ子だったんで好きで、父もその様子をわかっていて。
日曜暇な時とかにはですね、私をやっぱりまた連れ出してですね、電車に乗りに行くってことをしてましたね。
で、どういうことをするかっていうと、例えばうちの最寄駅は駒沢大学、もしくは三原じゃん、本当に中間なんですけど、どっちでもいいんですけど、
駒沢大学駅に行って、そこから新玉川線、田園都市線に乗って、
あそこ、溝野口まで行って、溝野口から南武線ですか、乗り換えて、そうすると東横線と交差するところに行くんですよね。
で、そこからまた乗り換えてみたいなやつ。東横線ですぐ帰ってくってことはなかったと思いますけど、東急もだから大井町線だの、池上線だの、目釜線だの。
当時目釜線って言ったんですよね。今目黒線と玉川線から分かれてると思いますけど。
乗って、ぐるぐるぐるぐるいろんなとこ回って、最終的にまた三原じゃん、駒沢大学に帰ってくるっていうような遊びをしてましたね。
そういうことが、父親が好きだったのかな、それとも単純に、でもたぶん私がそういうことをしてくれって言ったんじゃなくて、父がそういう楽しみ方を提案してた、乗り鉄のやり口ですよね、ってことだと思います。
それでそれを帰ってきたら地図、東京都道路地図になって、それに蛍光のマーカーで線を引いてくるんですよ、今日はここに乗ったねって。こういってこういってこうやっていったんだよっていうようなことを教えてくれるわけです。
それが楽しくてね、そういうの好きでしたね。だからその影響だと思いますけど、私地図見るの好きでしたし、今でも比較的好きですもんね。
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あと路線図とかも好きだし、何かそういう乗り換えみたいなのも好きですもんね。乗り鉄にはなんなかったですけどね。
それはね、しかしね、なんか次男に引き継がれてるというか、次男はそのタイプなんですよね。私より全然濃いですね。だからなんか遺伝みたいなのを感じますけれどもね。
っていう遊びをしたりとか。あとはどうかな。あ、キャッチボールしたな。父はね、野球が好きだったんですよ。自分もやる人で。
でね、警視庁記者クラブに出たっていうでしょ。警視庁記者クラブって今でもやってるはずですけれども、野球やるんですよね。めちゃくちゃ気合い入れて。
普段の仕事とどっちが大事かっていうぐらい野球の練習するんです。それは警視庁記者クラブに所属している会社が野球の試合をやって。
でね、優勝すると警視総監賞がもらえるんですよね。警視総監からなんかカップ7がもらえるらしいですけど、みんなめっちゃ気合い入れてやるんですよ。
何やってんだろうって感じですけどね。牧歌的な時代の名残がまだあるかないんじゃないかなと思いますよ。
でね、東京新聞のチームに当たり前ですけど、公安担当がいたんでしょうね。当時としてはまだそんなに普及してなかったビデオで、それも処分しちゃったなあったのが良かったよね。
父はね、ピッチャーやったんですよ。いつ野球やってたんですかね。父の経歴は世田谷で小中出て、高校は青山。青山学院じゃなくて都立の青山高校で、そこから早稲田の一郎してね、一郎っていう人なんで。
青山高校自体は演劇やってたって言ってましたけどね。野球部とかには入ってないと思うけどなあ。
早稲田では落語研究会ですよ。落犬だって言ってね。落ち犬じゃないんだ落犬だって言うとこに偉くプライドを持ってましたけど。
だからうちにはね、父の集めた落語のレコード、当時CDとかカセットチェックじゃなくてレコードなんですよね、全部ね。いっぱいあってね。
見る人が見ればね、うちもんだって話でしたけど、全部人にあげましたけどね。価値のわかる人に友達にもらっていただいてね。うちには全く一つも残ってませんが、そういういっちり文化系の人なんですよ。
だから東京新聞を受けてるんですよね。東京新聞ってもともとそういう都新聞っていう頃から芸能に強い、株音極に強い新聞で、その流れで受けてるんですけど。
警視庁は大変だったと思いますけど、まあまあみんなやるんですよね。野球やってる、ということはひょっとしたら警視庁時代に鍛えた可能性ありますよね。ピッチャーやるかな。
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とにかくNHKの人、NHKも新聞教科入ってますし、当然記者クラブにもいますから、撮影してくれた映像っていうのがあって、NHKの人がこのポッドキャストでも言いましたよね。
私、幼稚園の卒園式の時にNHKの人にハンバーガーをかぶりついてるところを撮られてるってやつね。あの映像もね、なんか探し出してきてくれて。うちにビデオありましたもんね。ありがたいですね。お友達がNHKにいたんでしょうね。
神田太郎ちゃんって書いてあって、いやいや大好きなんだけどなって。僕ほどよく知らないNHKの人が神田太郎ちゃんの映像みたいなことでね、テープにシール貼って書いてあって、っていうのを覚えてますね。
野球好きなんですよね。小学1年生の時に私にもグローブ買ってくれて、キャッチボールしましたね。当時から私は全然運動神経がなくてね、本当に上手いことボールも取れなかったんですけれども、まあまあ小学1年生ですからね、父も優しい感じで。
だけど別に野球のチームに入るみたいなことは言わなかったなあ。あんまり才能がないっていうのは当時見抜いてたのか、もしくはそういうことではないってことなのかね、チームに入るってことではないのかよくわかんないですけど、ともかくそういうのに入ってはなせんね。
キャッチボールなあ。だからグローブっていうのがね、うちにありましたもんね。だけどそれをね、使うことっていうのはほとんどなく、それこそ小学1年生の時とかにちょっとだけあっただけで、あとはここで被ってましたね。
ああ、そう、野球で思い出すのが、これはあれだなあ、名古屋でだなあ。東京新聞とはいえ中日新聞社で、当然のように父もですね、ドラゴンズファンだったんですよね。
ただ、もともとはライオンズファンなんですよ、あの人。西鉄ライオンズが好きなんですよね。ひねてますよね、東京出身のくせにね。ジャイアンツとかには絶対なびかないっていう、そういう辺りが若干私に遺伝してるかなって感じもしますね。
稲尾和久とかがいた頃の西鉄が好きで、だけどセリーグではドラゴンズと中日新聞入ってからなったんでしょうね。
ドラゴンズの試合とかテレビで昔からよく見てましたし、うちにもドラゴンズの野球部とかありましたけれども、名古屋に行くと名古屋球場とか行くことがありましたね。結構試合見に行きましたね。
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これがね、また単に中日新聞、丸学校東京新聞の記者であるっていうだけじゃなくて、うちの親戚すじにね、当時の中日ドラゴンズ球団の営業部長がいたんですよね。
なんで、その営業部長が大好きなのかって言ってね、通してくれって。私、ベンチとか行ったことあります。
考えられないですよね。ベンチ入って、その営業部長が、うちの親戚の子なんだけどさ、サインボール書いてくれないとかって書いてもらったのがですね、
鈴木孝政と牛島和彦ってですね、当時の中日のピッチャーを代表するような2人。困ったつはいなかったんですけれども、
1つのボールに鈴木さんと牛島さんのサインが両方書いてあるっていうボール、うちにはなかなか飾ってありましたからね。消化してしまいましたけどね。
野球、そうですね、そういうところに接点があったんですね。
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