1. 神田大介の経験
  2. 呪縛と解放
2024-03-27 10:08

呪縛と解放

サマリー

父が早逝されていることもあり、彼は40歳までに死ぬ可能性が高いと考えていました。結婚して子供を作ることに対して強い意識を持っていませんでしたが、妻との間に子供が生まれたことで、自分の存在価値を見出し、死ぬことに躊躇しなくなりました。

死についての思い
これは話がね、もし2回目だったらごめんなさいなんですけれども、
そんなことでですね、父が早死にしていることもあって、
私は結構、自分も40歳までに死ぬ可能性大だなって思ってたんですよ。
これは別に何の根拠のない話ではなくて、
父は5人兄弟の3番目なんですけれども、
一番上の兄も40になる前に死んでるんですね。
30代の後半だったっていう話ですけど、
2人目はもっと小さい時、幼児の頃に亡くなってるんですよね。
理由はよく知らないですけれども。
で、3人目のうちの父も39で死んでる。
つまり、5人兄弟のうち上3人はですね、全員が40手前で死んでるんですよね。
ああ、これはって思っても別におかしくないですよね。
なので、僕にとっては結構40歳になるっていうのは一つ大きな使命だったんですよ。
あんまそういう人いないかなっていう気もしますけどね。
普通はガムシャルに働いたり、家族のために一生懸命やってる時期ですもんね。
で、この話は前にしましたがね、
知ってないかもしれないですね、このポッドゲストではね。
7年半ぐらい付き合ってた彼女にプロポーズしたらフラれて、
それで今、その後今の妻と出会って結婚してるんですけれども。
だからね、フラれた時とか本当に結構ショックだったですもんね。
いや、まず絶対結婚するんだろうと思ってたし、
結婚と子供への願望
向こうもそう思ってんだろうなと思ってたとこありましたからね。
まあ、そういうことが本当に良くないっていうのはありますよね。
アグラは帰ってちゃいけませんね。
何が問題だったかっていうと、やっぱり私としてはですね、
人生がだんだん閉じる年に近づいていく。
フラれたのはいつだろう、31歳とか32歳の時の時なんですよね。
31歳だな、たぶんな。
そう、会社に入って6年経ってますからね。
でね、そうやって人生が進んでいくと思っていたものが急に崩れるっていうことがなかなか大変でしたね。
だから結構私、これ自分で言うのもなんですけど、仕事はできるんですよ。
記者としての仕事でも特段に取ったりとかできるんですよね。
なんだけど、なんつーかこんなことやってて何の意味があるんだろうなっていうのはずっと考える時期がありましたね。
誰でもできるんですよ、あんなもん誰でも。
なんでそう思ったかっていうと、結局最初は栃木県に行って、次に滋賀県に行って、その次に愛知県、名古屋に行ったんですけど、
愛知県警記者クラブってところに入ったら、歴代の先輩たちがめっちゃ頑張って取材してたから、
ネタ元っていうんですか、朝日新聞の記者だったら信用してしゃべっていいよっていう人が結構たくさんいたんですよね。
その人たちを引き継いで、もちろんね、引き継いでそれをちゃんとこうね、また自分にも話をしてくれるようにするっていうのはそれなりに手腕が必要ですけど、
言うてそんなもんはね、それなりに目端の聞き方だったら誰でもできると思うんですよ。
私もその一人に過ぎないという、ちゃんと開拓したこの人を最初に見つけてきた先輩ってのは本当にすごいなと思いますけどね。
なんでその辺に関しては、なんか自分の能力に過信はないんですよね、私はね。
自分で開拓したネタ元って別にいなくはないですけれども、その先輩たちみたいにすごいことはないですし、
これはやる気さえあれば誰でもネタって取れるんだってその時思いましたよね。
なんか得種取ってる人ってとてつもないなっていうふうに思いがちなんですけれども、そういう人もいるんですよ、中には。
でもそれは本当に全記者の1%みたいな異能の人たちで、スポーツ選手におけるオリンピックでメダル取るような人たちなんで、
まあ天才なんですよね。
天才じゃないじゃないですか、私たちは。
ただそういう環境に恵まれるとか、装置がしっかりしているっていうことで仕事ができるようになってるわけなんですよね。
それに気づいたんで、じゃあ別に俺じゃなくてもいいじゃんと。
実際私の後輩もちゃんと特段とか取ってましたからね。
私の能力の問題ではないんですよ、そんなのは。
そうするとね、それじゃあ私は何のために生きてるのってことになるじゃないですか。
やっぱり父親が早く死んでるっていうことがあったので、私はそうですね、少なくとも父親は私を産んでいったわけですし、
家庭を築き子供を産み育てたいっていうような、私は産めないですけど、そういう気持ちはありましたよね。
それが漠然とした不安となってたわけですよ。
子供が生まれてくれたことの喜び
できなかったら嫌だなあどうしよう、自分の存在価値って何だろうみたいなのがあって。
だから本当に今の妻と出会えたことは行行ですし、また妻との間に子供をなすことができたっていうのは本当に良かったなっていうね。
正直やっぱり思いましたもんね、結婚してどれだけ子供ができて、解放されたなっていうのがあったですもんね。
これで自分の人生には生きる意味っていうのができたなっていうね。
慌てて付け加えると別にそんなの人によるんで、子供がいなくたっていい人生のザラにあると思うんですけれども、
私は多分そういう子供の頃に父が早死にしてるっていう影響が強いと思うんですよ。
父がいないっていうことで、やっぱり自分がしっかりしなきゃいけないっていうふうにね、思ったっていうのを前回も言いましたけれども、
私ね、幼稚園時代って本当に田戸坂井先生っていうね、女性の先生にね、「神田くん、もっと先生とお話ししてね。」って言われるような引っ込みじやん。
なんかカーテンの後ろに隠れてサメダメと泣くタイプだったんですよ。恥ずかしがりや。
それが後に、父が死んで名古屋に転校するんですけれども、の後とかは、本当にクラスのムードメーカー的な、自分で言うなって感じですけれども、存在にはなっていくんですよ。
人を笑わせることとかすごく好きになりまして。そこの転換点はやっぱり父の死と転校なんですよね。
ちょっと前のポッドキャストに話したように、3年生の時ってそんなクラスを和ませられるような雰囲気じゃなかったんですよ、東京の三原寺小学校では。
A先生が本当に女王の教室っていう支配体制を敷いてましたんで、シーンとしてたんですよね、本当に。
そういうところから父が死に、自分が支配しなきゃいけない、名古屋に転校。名古屋転校後のことはまた全然改めて話そうと思いますけれども、
そういう中で自分の存在意義みたいなのを発揮していくためには、やっぱりクラスの中でも楽しい人間として振る舞えるってことが俺にはできるんだなっていう発見がそこであって、
そこからクラスの中でも活発な学級委員とかに選ばれるような、中学の時には生徒会社もやってましたけど、そういうタイプになっていくんですよね。
ということは逆に父親が死んでいなかったらどうなっていたのか、ひょっとしたら一生引っ込み事案だったかもしれないですよね。
わかんないですけど。だし、ある種の呪縛でもあるわけなので、とらわれないから結婚してないとか、別に子供を作るということに対してそんなに強い意識を持ってなかった可能性もありますよね。
自分の残していくっていうような。なんせやっぱり人は結構簡単に、特に理由もなく死んでしまうっていうのを目の前で見せ続けられるわけじゃないですか。
これは本当に私の人生観には大きい影響を与えていて、そこから自由になれるっていうことだけでも本当に子供が生まれてきてくれたことにはありがたさしかなかったですよね。
でも実際子供可愛いですよね。私ね、本当に妊婦人なんでね、子供を見て可愛いと思ったことないですよ。
だけど、今でも別に人の子供を見て可愛いと思わないですもんね。だけど自分の子供はやっぱり可愛いんだよな。これはもう完全に魅引きですよね。
なんだけど、別に何恥じることもないですよ。うちの子供が一番可愛いですよ。彼らには本当に幸せになってほしいし、もう本当に彼らが幸せになるためだったら、私は自分の命を投げ出すことには何の躊躇もない。
ああ、だからそうそう、いつ死んでもいいやって思うようになりましたね。本当に。別に自殺したりとかするじゃないですか。
自分の命とかっていうものよりも大事なものができたっていうのは本当に嬉しいことでしたね。
なんかこうおっかのびっくりね。どうしようどうしようで生きているのと違って、もう何の迷いもなくなったので、いつ死んでも構わないっていうふうに思えるようになりましたね。
ありがたいですね。
10:08

コメント

スクロール