埴谷雄高の作品至上主義的意識
イタラジ、今回は、埴谷雄高の作品至上主義的意識についてお話ししていこうと思います。
司令の作者には、作品自体が何かある実質を持った存在であることを嗜好するような、いわば作品至上主義的意識があるとみます。
あえて分類してみれば、それはもちろんそれは、単に思想・哲学・文学・芸術などの箱に入れられるのだけれども、それはあくまでの話でありまして、
突き詰めれば、読者と作者の間には、その究極的な地点には作品のみが存在する、という特権的な意識があったと推理いたします。
これは例えば、三島由紀夫との対話について鮮明となると考え、私は以前にそのことを書きました。
引用します。
埴谷は文学を白紙に書いたただの一字という現実で、一般的な象徴に託し、三島は言葉をもっと精妙なものと関連的で特権的な存在と認識していますが、
文学の人類への影響力を信じ、新たな理想を演じすべきとの主張は、埴谷の方でありまして、文学で人を死なせることはできず、ということは生かすこともできず、
暖炉の前の人間にとっては、病院の方が優先するという例えで、言葉の限界を主張するのが三島なのであります。
埴谷の文学に対する評価は、単純でだからこそ強いという論理であり、三島の文学に対する評価は、鮮明でだからこそ弱いというものであります。
これは21世紀文学のテーマを、埴谷卓と三島由紀夫の議論から検討するという文章についての引用であります。
俗的には、三島由紀夫の作家は、その言動から、叱らないことを言え、まるで端微的で陶酔的な世界観を持つ芸術修行主義者のように見当たっています。
しかし、実際にその発言を静かに耳を傾けますと、その芸術観、特に文学観については、極めてシニカルなものだと見えます。
いわゆる彼は、文学に対して弱さの特権化すら主張していないであります。
私が少ない作家の作品についてしか深い興味を持たないのは、近代日本文学のその考えの幅、容器の幅において、ある特定の思考、思考の体系を見ていく方が見通しがよく立つのであります。
いろいろ読んで全体を包括するのは、まず考えの幅を測ってからで良いと思います。
一方で、埴谷卓の文学観には、単純さの強さが強く確認されております。
一般的に、埴谷卓という作家には、どこか超然とした、浮世離れした、おもちゃの作家というイメージが定着されておりますけれども、しかしそれはあさはかなことで、
彼の思考回路には、どこかAイコールAの単純な思考容器を思わせる、農夫のクワのごとき強さがあります。
それは辞書の、一種ひねり切れた農地秘訣は私にはある。胸を打つ一つの感銘より、思考をそそる一つの発想をこの馬鹿げた正秘訣である。
極端に言えば、私にとっては全てのものが冷ややかな抽象名詞に見える。もちろん、そこから宇宙の果てまで広がるほどの優れた発想は、深い感動からのみ起こることを私は知っている。
司令辞書と夢想の作品
水面に落ちた一つの石が左に転がりゆく、無数の輪を描き出す音楽的な美しさを私は知っている。
にもかかわらず、私はできるべく、一つの巨大な単音、一つの行集帯、一つの発想のみを求める。
これは司令辞書からの引用である。
という、一般的には繊細でフラジャールなはずの、芸術家・文学者から発されるには、少し特異な宣言から直ちに了解されます。あるいは、直ちにそこに思い至ります。
司令は、最終的に歯に入れた感を否定することを意図されて書かれた書類。
文学の可能性を徹底していくと、読者は最終的に作者か作品かの二択を迫られます。
言い換えれば、それは現実と虚構のどちらを選択するかという決断であります。
人としての司令は、実体としての作者にありイコール歯に入れたかを否定し、
巨大としての作品にありイコール発想の司令を想像する過程そのものに寄附を持つ一連のプログラムであると考えます。
それは、この作家の営みとしては不可能ごとでありまして、同時に文学の可能性のリミッターを解除することであります。
この企画を彼よりも若干先駆けて、しかも概ね悲劇的に実行したのがオーストリアのロフレット・ムージルでありました。
私は両者を20世紀を代表する不可能性の作家にして、可能性の文学史の創造者とみなします。
作品史上主義的意識を検討すると、そこには徹底した創造者指定、自己否定とは違います。
自己否定は自己の特権下でありますから、いさがくことになります。
それがありました。その意図が優先に実現されたとすれば、まさにその検討にこそ、その意図そのもの以上に不可能であるのでありますが、
その作品の創造がすなわち、その作品が何かを想像するという事態が起こる。
つまり我々が何を想像するかではなく、我々の想像行為が何を生み出すかという問いに対する答えをもたらすことになります。
それによって巨大な存在が養成されているわけです。
今回は何を得たかの芸術史上主義的意識についてお話しいたしました。ありがとうございました。